第2036部大正藏第49册P0477 佛祖歷代通載 (22卷) 〖 元念常集〗.txt
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
No. 2036
佛祖歷代通載序
浮圖氏之論世。動以大劫小劫為言。中國文字未通。蓋不可知也。摩騰竺法蘭至漢而後。釋迦佛之生滅。可以逆推其歲年。自是中國之人。得以華言記之。自天竺及旁近諸國東來者。莫盛於西晉。至于姚秦石趙等國。其人則鳩摩羅什佛圖澄那連耶舍曇無讖諸師。而東土卓絕奇偉之士。生肇融叡等相為羽翼。翻譯經義盡為華言。而佛理之精無不洞究。先覺之士至有逆知。其至理之未至者。佛學之行莫博於此時矣。彌天道安至於遠公辟地東南佛陀耶舍遠相從游而辟世。君子相依於離亂之世。乃若寶公雙林諸公起而說法。而佛學大盛於東南矣。若夫智者弘法華於天台。三藏開般若於唐初。清涼廣華嚴於五臺。密公說圓覺於草堂。宣公嚴律教於南山。金剛啟祕密於天寶。大小三乘唯識等論。專門名家豪分縷析。汗牛充棟。學者千百。有皓首而不能窮極者焉。達磨之來則有五傳其衣。五宗斯立。同源異派自梁歷宋。謂之傳法正宗。我
國朝祕密之興義學之廣。亦前代之所未有。此其大略也。記載之書昔有寶林等傳。世久失傳。而傳燈之錄僧寶之史。僅及禪宗。若夫經論之師各傳於其教。宰臣外護因事而見錄。豈無遺闕。近世有為佛祖統紀者。儗諸史記書事無法。識者病焉。時則有若嘉興祥符禪寺住持華亭念常。得臨濟之旨於晦機之室。禪悅之外博及群書。乃取佛祖住世之本末。說法之因緣。譯經弘教之師。衣法嫡傳之裔。正流旁出散聖異僧。時君世主之所尊尚。王臣將相之所護持。論駁異同參考訛正。二十餘年始克成編。謂之佛祖歷代通載。凡二十二卷。其首卷則言彰所知論器世界情世界道果無為五論。則我
世祖皇帝時。
發思八帝師對
御之所陳說。是以冠諸篇首。其下則以天元甲子。紀世主之年。因時君之年。紀教門之事。去其繁雜謬妄。存其證信不誣。而佛道世道污隆盛衰。可竝見於此矣。嗟夫十世古今不離當念。塵影起滅何足記哉。甞見溈山有問於仰山。每有年代深遠之對。則亦憫先覺之無聞者乎。而法華一經。前劫後劫十號無二。又曰。觀彼久遠猶古今日。則此書宜在所取乎。至正元年六月十一日。微笑菴道人虞集序。
華亭梅屋常禪師本傳通載序
夫語言文字。載道之器。傳遠之用。歷千古微簡牘。何以紀事考實耶。
大成至聖。春秋作而賊亂懼。
大覺世尊。經律集而賢哲興。其五經六藝諸子百家。立言垂訓。後之來學明今酌古。遊心仁義。非編冊之益乎。佛祖歷代通載。梅屋禪師之所作也。其文博其理明。敘事且實出入經典考正宗傳。殊有補於名教。至正辛巳。翰林道園虞公。序冠其首益尊韙之。禪師世居華亭。黃姓。父文祐。母楊氏。初祈嗣於觀世音。忽一夕夢僧龐眉雪髮。稱大長老託宿焉。因而娠。至元壬午三月十有二日誕于夜。神光燭室異香襲人。逾日不散。既長喜焚香。孤坐。風骨秀異氣宇英爽。年十二懇父母求出家。母鍾愛之。誘以世務終莫奪其志。遂舍之。依平江圓明院體志。習經書尚倜儻。疏財慕義棲心律典。元貞乙未江淮總統所。授以文憑。薙髮受具。弱冠遊江浙大叢林。博究群經。宿師碩德以禮為羅延之。皆撝謙弗就。至大戊申。佛智晦機和尚。自江西百丈。遷杭之淨慈。禪師往參承值上堂。佛智舉太原孚上座聞角聲因緣。頌云。琴生入滄海。太史遊名山。從此揚州城外路。令嚴不許早開關。有省於言下。投丈室呈所解。佛智頷之。遂俾掌記室。囑之曰。真吾教偉器。外護文苑之奇材也。服勤七年。延祐乙卯佛智遷徑山。禪師職後版。表率明年。
朝廷差官理治教門。承遴選瑞世嘉興祥符。至治癸亥夏五乘驛赴
京繕寫黃金
佛經。暇日得以觀光三都遊覽勝概。禮五臺曼殊室利。披燕金遺墟之迹。由以動司馬撰書之志。出入翰相之門討論墳典。陞諸名師堂奧講解經章。如司徒雲麓洪公別峯印公。皆尊愛之。
帝師命坐授食。聞大喜樂密乘之要。自京而回姑蘇。萬壽主席分半座以延說法。眾服其有德。自非宿有靈姿稟慧多生。曷以臻其明敏。著述祖禰彰顯正教。致公卿大人篤敬也耶。至大間愚執侍佛智。獲奉教于禪師。知梗概而序之。禪師諱念常。梅屋其號焉。至正四年三月。松江余山昭慶住持比丘覺岸謹序。
佛祖歷代通載凡例
一世祖皇帝玉音一百段。出弘教集。實帝師大臣欽承對旨。謹置于編。
一帝師所說彰所知論。冠于篇者尊之也。
一吾佛世尊未生以前時代。本不與書。欲便初學。卷自太古始。
一往古帝王。即位改元崩殂及僭國之主。宰臣護教尊法者。略見始末。餘不書。
一帝王於聖教御製贊序及大臣碩儒撰述。其間有關大教者。皆具載焉。
一僧道對析論辨。詳收始末以備參考。
一世尊示滅之後。凡經百年必書。其於旃檀像及教被東土之年倣此。
一佛祖傳法偈。翻譯詳見梁大同六年。
一教門隆替。並依史籍編錄。使來學知有自焉。
一諸祖事實。備載于示寂之年。倣先經終義之例。
一屏山居士鳴道集說。凡二百一十七篇。今錄一十九篇。蓋彰其識見耳。
一教門事要。異同訛正略加考定。據諸傳記摭集。不以私臆謬加論辨。或恐繁失於冗簡失於陋。以俟博雅之士。改而正之。
一太史公史記稱。黃帝三十八年。命風后定甲子。始因而編之。隨年列為橫曆于上。
佛祖歷代通載凡例。
佛祖歷代通載目錄
第一卷
(一)七佛偈(二)彰所知論器世界品(三)日輪(四)月輪(五)諸星宿(六)妙高山三十三天(七)情世界總有六種(八)人祖大梵(九)三末多王及諸王種(十)器世界壞(并贊)
第二卷
(一)盤古王 (二)天皇 (三)地皇 (四)人皇 (五)五紀 (六)有巢氏 (七)燧人氏 (八)伏羲氏 (九)社神 (十)神農氏 (十一)黃帝 (十二)少昊 (十三)顓頊 (十四)帝嚳 (十五)唐堯 (十六)虞舜 (十七)夏后氏 (十八)殷湯 (十九)周文王 (二十)武王 (二十一)成王(立七廟制) (二十二)稷神 (二十三)四國諸侯 (二十四)康王
第三卷
(一)周昭王(二)世尊示降生(三)世尊示出家
(四)穆王(五)世尊示成道(六)瑞像緣起(七)世尊示說法(八)世尊示涅槃
(九)孝王(十)第一祖摩訶迦葉(十一)秦非子
(十二)厲王(十三)二祖阿難(十四)上座大眾二部
(十五)宣王(十六)三祖商那和脩(十七)王殺杜伯感報
(十八)平王(十九)四祖優波毱多
(二十)莊王(二十一)五祖提多迦
(二十二)襄王(二十三)六祖彌遮迦
(二十四)定王(二十五)老聃生于楚(二十六)七祖婆須密
(二十七)靈王(二十八)孔子生于魯
(二十九)景王(三十)八祖佛陀難提
(三十一)敬王(三十二)九祖伏馱密多
(三十三)貞定王(三十四)十祖脇尊者
第四卷
(一)周安王(二)十一祖富那耶舍
(三)顯王(四)十二祖馬鳴大士
(五)?王(六)十三祖迦毘摩羅
(七)秦始皇(八)室利防等十八化人(九)十四祖龍樹尊者
(十)西漢文帝(十一)十五祖迦那提婆
(十二)武帝(十三)十六祖羅睺羅多
(十四)昭帝(十五)十七祖僧迦難提
(十六)宣帝(十七)論師無著天親
(十八)成帝(十九)十八祖伽耶舍多
(二十)新室王莽(二十一)十九祖鳩摩羅多
(二十二)東漢明帝(二十三)帝夢金人(二十四)教流東土(二十五)摩騰竺法蘭(二十六)釋道比較焚經(二十七)二十祖闍夜多
第五卷
(一)安帝(二)二十一祖婆脩盤頭
(三)桓帝(四)安世高至洛(五)二十二祖摩拏羅
(六)靈帝(七)竺佛朔至洛(八)黃巾作叛
(九)獻帝(十)牟子理惑論(十一)漢史范曄論釋(十二)袁宏論佛(十三)康猛竺大力至京(十四)二十三祖鶴勒那(十五)道始作靈寶醮章
(十六)三國魏文帝
(十七)蜀先生
(十八)吳大帝(十九)維祇難支謙
(二十)明帝(二十一)曹植傳
(二十二)齊王芳(二十三)康僧會至吳(二十四)吳闞澤論佛(二十五)二十四祖師子尊者(二十六)曇摩迦羅等傳律
(二十七)高貴鄉公(二十八)罽賓賊亂累釋
(二十九)陳留王(三十)沙門朱士衡講經始
第六卷
(一)西晉武帝(二)吳皓毀神祠及梵宇(三)竺法護至京(論)(四)育王塔緣起
(五)惠帝(十六國附見)(六)鮑靖撰三皇經(七)竺耆域至洛
(八)愍帝(九)維衛迦葉石像至吳
(十)元帝(有敘)(十一)沙門吉友至建康
(十二)明帝(十三)二十五祖婆舍斯多
(十四)成帝(十五)三藏惠理至杭(十六)庾氷議令僧拜俗(十七)何充議不應拜俗
(十八)穆帝(十九)佛圖澄示寂(論)(二十)釋涉公入寂(二十一)沙門于法開醫術
(二十二)哀帝(二十三)詔竺潛講經(二十四)詔支遁繼講(二十五)郄超慕佛
(二十六)廢帝(二十七)釋道安法師(論)(二十八)孫綽(二十九)許詢(三十)桓溫末年奉法
(三十一)簡文帝(三十二)詔法曠禳星
第七卷
(一)東晉武帝(二)東林惠遠法師(三)劉遺民卒(四)符秦德星現獲安什(五)秦主姚萇感報(六)北魏道武皇帝(七)二十六祖不如密多
(八)安帝 (九)太山竺僧朗 (十)北魏興佛教詔 (十一)羅什法師(論) (十二)道䂮僧正 (十三)道融與婆羅門辯論 (十四)道恒道標抗表行道 (十五)僧叡四海僧望 (十六)僧肇詳定經論 (十七)天竺弗多羅尊者 (十八)佛陀耶舍尊者 (十九)柏玄下書令僧拜俗 (二十)沙門不敬王者論(五) (二十一)佛馱跋陀被擯 (二十二)招淵明入社 (二十三)法果初受封爵
(二十四)法顯西天取經始(二十五)三藏曇無讖至姑臧(二十六)道生法師竪石為徒
(二十七)恭帝(二十八)北魏崔浩薦寇謙之(論)(二十九)玄高禪師被譖(三十)齊著作魏收佛老志
第八卷
(一)宋文帝 (二)神僧杯渡 (三)求那跋陀羅入朝 (四)帝幸大莊嚴寺 (五)謝靈運伏誅 (六)求那跋摩三藏 (七)蕭京尹請制建寺像 (八)帝幸曲水 (九)惠琳叛教獲報(論) (十)詔法瑗主天保寺 (十一)浩譖太子及僧玄高 (十二)魏寇謙之脩張魯術 (十三)魏武詔誅天下沙門 (十四)魏武受籙建靚輪宮 (十五)魏崔皓伏誅(論) (十六)沙門曇始至魏救法 (十七)魏又下詔復釋
(十八)武帝(十九)二十七祖般若多羅(二十)詔求那跋陀羅(二十一)詔道猷為新安法主(二十二)中興寺寶亮法師(二十三)羗人高闍反累釋(二十四)右司陳僧拜俗(二十五)朱靈期遇聖僧(二十六)姚興欽重僧導
(二十七)廢帝(二十八)疏勒王送佛衣
(二十九)明帝(三十)寶誌大士(三十一)康居邵碩公(三十二)詔僧瑾為僧正(三十三)魏史釋老志
(三十四)齊太祖(三十五)帝幸僧遠所居
(三十六)武帝 (三十七)勅法獻為僧主 (三十八)玄暢首述華嚴疏(論) (三十九)寶誌獄中顯化 (四十)曇超為龍說法 (四十一)顧歡夷夏論 (四十二)司徒袁粲駁夷夏論 (四十三)孟景翼正一論 (四十四)張融作門律闢之(論) (四十五)魏詔度僧尼
(四十六)東昏侯(四十七)陳顯明造步虛經
(四十八)和帝(四十九)僧伽跋陀羅律藏
第九卷
(一)梁武帝 (二)陶弘景造太清經 (三)詔誌公任便宣化 (四)郗氏夫人求懺 (五)帝舍邪歸正願文 (六)何點何胤不仕 (七)帝注大品命法雲講 (八)魏主尚釋 (九)詔僧旻講勝鬘經 (十)帝製涅盤疏序 (十一)宗廟祭祀戒殺 (十二)沈休文中食論 (十三)魏胡太后建寺 (十四)惠皎著高僧傳 (十五)僧朗及道英神異 (十六)帝受歸戒 (十七)僧達入水觀 (十八)僧藏諫帝律僧 (十九)藏登御座 (二十)魏評釋道 (二十一)魏書佛老志 (二十二)初祖達磨大師(論) (二十三)昭明太子 (二十四)劉勰出家 (二十五)雙林傅大士 (二十六)惠約法師 (二十七)高王經緣起 (二十八)譯佛祖偈始末 (二十九)隱士阮孝緒 (三十)古今書籍之數 (三十一)逆賊侯景反 (三十二)梁史魏徵論
(三十三)簡文帝(三十四)北齊台宗惠文禪師
(三十五)元帝(三十六)真諦三藏(三十七)荊山居士陸法和(三十八)北齊詔稠禪師
(三十九)敬帝(四十)北齊勅陸脩靜與曇顯角試(四十一)北齊杜弼(四十二)齊著作王劭述佛(四十三)周惡黑衣廢釋
第十卷
(一)陳高祖(二)柏岩稠禪師(三)洪偃法師(四)寶瓊法師(五)衛元嵩上疏減僧
(六)廢帝(七)天台惠思禪師
(八)宣帝(九)周武命三教伸述利病(十)周武滅佛(十一)甄鸞上笑道論(十二)道安著二教論(十三)周武登座序廢立義(十四)靜藹以法滅舍身(十五)任道琳伸請復教
(十六)隋文帝 (十七)下詔復教 (十八)法師曇延授帝八戒 (十九)釋尼智仙傳 (二十)律師靈藏陪駕 (二十一)李士謙喻報應說 (二十二)二祖惠可大師 (二十三)天台智者禪師 (二十四)詔三十州建塔 (二十五)文中子講道(負苓篇附并論) (二十六)闍那笈多譯法華經 (二十七)詔問洪山智舜禪師
(二十八)煬帝(二十九)詔僧道拜俗明瞻登對而罷(三十)三祖僧璨大師(三十一)楊宏率僧道論議
(三十二)恭帝(三十三)神僧法喜傳(并論)第十一卷
(一)唐高祖(二)詔僧道論議定優劣(三)傅奕疏請滅釋(四)李師政內德論(辨惑篇附)(五)詔汰釋道二教
(六)太宗 (七)帝問群臣治政難易 (八)勅建寺以度陳亡 (九)玄奘往西天求法 (十)勅葬玄琬法師 (十一)詔度僧尼建寺 (十二)太子問張士衡奉佛事 (十三)詔道先釋後 (十四)勅魏王泰祭虞世南 (十五)詔三學秀異論議 (十六)惠琳被譖 (十七)華嚴杜順法師 (十八)傅奕感報 (十九)丞相蕭瑀傳 (二十)帝幸弘福寺 (二十一)祇羅國主仰唐聲教 (二十二)原州瑞石記國禎祥 (二十三)玄奘齎經歸朝 (二十四)三藏進新譯經請序 (二十五)祕讖女主代有天下 (二十六)帝勸奘師罷道為政 (二十七)奘陳辭願終身行道 (二十八)帝製三藏聖教序(謝表附) (二十九)太子繼聖教序 (三十)賜奘百金磨衲 (三十一)詔創弘法院留奘師 (三十二)詔建大慈恩寺 (三十三)詔奘陪駕 (三十四)史贊并論
第十二卷
(一)唐高宗 (二)四祖道信大師 (三)勅建大慈恩塔 (四)惠寬禪師及姐信相 (五)天竺致書奘師(答書附) (六)立法師斥呂才論 (七)制設官監護譯經 (八)御製大慈恩寺碑(謝表附) (九)奘法師示疾 (十)詔辨二教先後 (十一)牛頭法融禪師 (十二)追僧道論議 (十三)奘法師表辭還山 (十四)復追僧道論議 (十五)屈僧拜俗道宣上疏 (十六)法師玄奘示寂 (十七)道世法師辯道經真偽 (十八)南山道宣律師 (十九)詔僧道定奪化胡經 (二十)五祖弘忍大師(史贊) (二十一)佛陀波利尊者 (二十二)慈恩窺基法師 (二十三)道世著法苑珠林
(二十四)則天武后 (二十五)始定母服及建明堂 (二十六)慶山始出 (二十七)譯華嚴大經 (二十八)詔康法藏為僧 (二十九)詔嵩山惠安禪師 (三十)義淨三藏自西土回 (三十一)斂僧錢鑄佛像(論) (三十二)詔賢首法藏講新經 (三十三)鑄像成百僚禮祀
(三十四)中宗 (三十五)房融潤文譯楞嚴 (三十六)詔六祖不起 (三十七)大通神秀禪師(張說作記) (三十八)神僧萬回法雲公(論) (三十九)詔僧道齊行並集 (四十)安國師卒 (四十一)詔三藏實叉難提 (四十二)泗洲大聖 (四十三)召道岸律師授戒 (四十四)菩提流志譯寶積經 (四十五)詔一行赴闕不起
第十三卷
(一)唐睿宗(二)六祖惠能大師
(三)玄宗 (四)永嘉玄覺禪師 (五)詔一行禪師赴闕 (六)嵩岳元珪禪師(論) (七)天竺三藏無畏至京 (八)宋璟禮六祖塔 (九)詔一行改撰大衍曆 (十)智昇上藏經目錄 (十一)一行製黃道儀成 (十二)郭行女甞齋感報 (十三)牛雲求聰感應 (十四)日本始有律 (十五)三藏菩提流志卒 (十六)嵩山破竈墮 (十七)一行示寂(論) (十八)般若心經序(張說作) (十九)重定五服制 (二十)三藏金剛智卒 (二十一)義福禪師卒 (二十二)恒州張果先生 (二十三)三藏無畏卒 (二十四)不空三藏降狂象(論) (二十五)法秀獻回向寺玉簫 (二十六)李長者著華嚴合論 (二十七)青原行思禪師 (二十八)興唐寺普寂卒 (二十九)太子詹事嚴挺之 (三十)詔本淨禪師赴? (三十一)南嶽懷讓禪師 (三十二)詔道士吳筠問道 (三十三)制僧尼給祠部始 (三十四)詔不空驗羅思遠 (三十五)鶴林玄素禪師 (三十六)詔立毘沙門天王祠 (三十七)台宗左溪玄朗禪師 (三十八)天台法門議(梁肅作) (三十九)魯山元德秀卒(論)
(四十)肅宗(四十一)閬州斬畫像(四十二)納錢度僧道始(四十三)新羅無漏凌空立化(四十四)詔南陽惠忠禪師(四十五)詔置放生池碑(顏真卿撰)(四十六)王摩詰卒(四十七)真如升天授十三寶
第十四卷
(一)唐代宗 (二)良賁造新仁王經疏 (三)道義始作盂蘭盆會 (四)杜鴻漸問法於無住禪師(論) (五)清涼澄觀國師 (六)召忠國師試太白山人 (七)詔徑山國一禪師 (八)牛頭惠忠禪師 (九)忠國師試大耳三藏(論) (十)不空三藏碑(嚴郢作) (十一)曇一律師碑(梁肅作) (十二)三祖鏡智禪師碑(獨孤及作) (十三)撫州寶應戒壇記(顏真卿作) (十四)史華與僧崇惠角法 (十五)李源訪圓澤 (十六)詔耽源問無縫塔話 (十七)天柱山崇惠禪師
(十八)德宗 (十九)千臂千鉢文殊經序 (二十)南岳明瓚禪師 (二十一)荊溪湛然禪師 (二十二)止觀統例(梁肅作) (二十三)御製大乘六波羅蜜經序 (二十四)馬祖道一禪師 (二十五)大珠惠海禪師 (二十六)石頭希遷禪師 (二十七)詔清涼講華嚴經題 (二十八)詔清涼講華嚴宗旨 (二十九)東林熙怡律師碑(許堯佐作) (三十)黃石岩記(劉軻作) (三十一)雲峯法證律師 (三十二)陸羽傳 (三十三)東都聖善凝公 (三十四)幽州盤山寶積禪師 (三十五)濬上人歸淮南序(子厚作) (三十六)南嶽般州和上碑(子厚作)
(三十七)順宗(三十八)鸚鵡舍利記(韋臯作)(三十九)帝問法於佛光滿禪師
第十五卷
(一)唐憲宗 (二)鵝湖大義禪師 (三)寒山拾得豐干 (四)荊州天皇道悟禪師 (五)荊州天王道悟禪師(并論) (六)江西北蘭讓禪師 (七)上問政寬猛孰先 (八)信州草衣記(德輿撰) (九)上問澄觀華嚴法界 (十)無著禪者入五臺 (十一)詔懷惲禪師居上寺 (十二)龐居士 (十三)彌陀和尚碑(子厚作) (十四)永州淨土院記(子厚作) (十五)智?法師施食感報 (十六)道樹法師降夭幻 (十七)百丈懷海禪師 (十八)大明律師碑(子厚作) (十九)馬總奏六祖諡碑(子厚作) (二十)五臺鄧隱峯 (二十一)歸宗智常禪師 (二十二)布毛會通侍者 (二十三)重巽赴中丞請序(子厚作) (二十四)陝右馬郎婦 (二十五)上弘律師碑(白樂天作) (二十六)台教元浩禪師 (二十七)詔迎佛骨韓愈排佛表 (二十八)韓潮州遇大顛辨論 (二十九)潮陽大顛禪師 (三十)柳州刺史子厚 (三十一)北山神清法師
(三十二)穆宗(三十三)鳥窠禪師(三十四)詔無業禪師不赴(三十五)龍潭崇信禪師(三十六)杭永福石壁經記(元微之作)(三十七)王智興冐禁置戒壇(三十八)福州古靈禪師
第十六卷
(一)唐敬宗(二)詔劉從政資質仙事
(三)文宗 (四)藥山惟儼禪師碑 (五)李翱作復性書(二) (六)蘇州重玄石經碑(白居易作) (七)丹霞天然禪師 (八)凌行婆 (九)蛤蜊中現菩薩像 (十)李訓上疏沙汰僧尼 (十一)南泉普願禪師 (十二)大達法師碑(裴休作) (十三)清涼國師碑銘(御贊附) (十四)圭峯宗密禪師
(十五)武宗(十六)潭州雲岩晟禪師(十七)帝銳意永仙詔(僧道論議)(十八)作望仙臺於禁中(十九)勅併省天下佛寺(二十)詔下廢釋(史贊)
(二十一)宣宗 (二十二)詔復釋氏 (二十三)香山居士白居易 (二十四)貶李德裕詔 (二十五)華林善覺禪師 (二十六)黃蘗希運禪師 (二十七)詔弘辯問南北宗旨 (二十八)復廬山東林碑(崔黯作) (二十九)溈山靈祐禪師 (三十)李節贈疏言序 (三十一)詔羅浮軒轅問攝生 (三十二)補陀示現事跡
第十七卷
(一)唐懿宗(二)大慈寰中禪師(三)德山宣鑑禪師(四)臨濟義玄禪師(五)長沙景岑禪師(六)洞山良价禪師(七)悟達國師知玄傳(八)裴相國禪源詮序(九)詔迎佛骨(史贊附)
(十)僖宗(十一)夾山善會禪師(十二)岩頭全豁禪師
(十三)昭宗(此下十三處覇)(十四)仰山惠寂禪師(十五)趙州從諗禪師(十六)雲居道膺禪師
(十七)五代(十八)梁太祖朱溫(十九)雪峯義存禪師(二十)玄沙師備禪師(二十一)惟勁集寶林傳
(二十二)末帝(二十三)明州布袋和上
(二十四)唐莊宗李存勗(二十五)興化存獎禪師
(二十六)明宗(二十七)長慶惠稜禪師(二十八)聖節設立試僧科
(二十九)晉石敬瑭(三十)打鐘息苦緣起
(三十一)遼主德光御汴宮
(三十二)漢劉知遠(三十三)雲門文偃禪師
(三十四)周郭威(三十五)南院惠顒禪師
(三十六)世宗(三十七)詔廢釋造僧帳(三十八)清涼文益禪師
第十八卷
(一)宋太祖(二)詔雕佛經一藏(三)德韶國師示寂(四)風穴延沼禪師(五)永明智覺禪師(六)吳越王作宗鏡序(七)宗鏡後序(楊無為作)
(八)太宗(九)御製三藏聖教序(十)贊寧修大宋僧傳(十一)詔立譯經院(十二)趙普報應(十三)香林澄遠禪師(十四)南安自嚴尊者(十五)首山省念禪師
(十六)真宗 (十七)帝製繼聖教序 (十八)道原集傳燈錄 (十九)詔諸路建天慶觀 (二十)孤山智圓法師 (二十一)汾陽善昭禪師 (二十二)賜天台教入藏 (二十三)大陽警玄禪師 (二十四)四明法智講師 (二十五)長水子璿法師 (二十六)慈雲遵式懺主 (二十七)御製廣燈錄序 (二十八)慈明楚圓禪師 (二十九)楊岐方會禪師 (三十)言法華 (三十一)李覯留意佛書 (三十二)浮山法遠禪師 (三十三)詔懷璉禪師住淨因 (三十四)雪竇重顯禪師 (三十五)華嚴道隆禪師 (三十六)達觀曇頴禪師 (三十七)天衣義懷禪師 (三十八)歐陽脩問臨終事 (三十九)天鉢重元禪師
(四十)英宗(四十一)雲峯文悅禪師(四十二)詔賜民間寺額
第十九卷
(一)宋神宗(二)圓通居訥禪師(三)明教契嵩禪師(四)白雲守端禪師(五)華亭惠辨都師(六)吉州慶間禪師(七)舒州義青禪師(八)嘉興真如法堂記(司馬光作)(九)金國李屏山論(十)明道厭科舉立論(十一)金國屏山有辨
(十二)哲宗 (十三)送蹇拱辰參照覺(張無盡作) (十四)高麗義天僧統 (十五)晉水淨源禪師 (十六)蔣山贊元禪師 (十七)蘇老泉圓覺院記 (十八)東坡磨衲贊 (十九)圓通法秀禪師 (二十)東林常總禪師 (二十一)玉泉承皓禪師 (二十二)辨才元淨法師 (二十三)淨因道臻禪師 (二十四)智海慕喆禪師 (二十五)雲居元祐禪師 (二十六)佛印了元禪師 (二十七)瑞光宗本禪師 (二十八)黃龍祖心禪師
(二十九)徽宗 (三十)御製續燈錄序 (三十一)蘄州五祖法演禪師 (三十二)法雲善本禪師 (三十三)蔡京食鶉感夢 (三十四)大樹惠持入定 (三十五)帝幸玉清昭陽宮 (三十六)女真叛遼 (三十七)死心悟新禪師 (三十八)靈芝元照律師 (三十九)林靈素以術要君 (四十)黃龍惟清禪師 (四十一)佛鑑惠懃禪師 (四十二)上聽林靈素講經 (四十三)大金立國 (四十四)改佛號滅僧寺 (四十五)張無盡傳 (四十六)覺範德洪禪師 (四十七)詔道法師復僧服(北澗銘附)
第二十卷
(一)南宋高宗(二)西竺蘇陀室利(三)圓悟克勤禪師(四)虎丘紹隆禪師(五)佛智端裕禪師(六)牧庵法忠禪師(七)真歇清了禪師(八)感山曉瑩禪師(九)宏智正覺禪師
(十)孝宗 (十一)應庵曇華禪師 (十二)徑山宗杲禪師 (十三)大禪了明禪師 (十四)石室祖琇禪師 (十五)普庵印肅禪師 (十六)慶壽教亨禪師 (十七)瞎堂惠遠禪師 (十八)帝製原道論(并觀音贊) (十九)詔刊天台教藏 (二十)德藏可觀法師 (二十一)帝註圓覺經賜徑山 (二十二)宋遣宇文虛中使金
(二十三)光宗(二十四)王孝禮言影表(二十五)淨慈彥充禪師
(二十六)寧宗(二十七)靈隱崇岳禪師(二十八)佛照德光禪師(二十九)紫微觀記(元遺山作)(三十)屏山居士鳴道集說(三十一)吽哈囉悉利幢記(三十二)鄭州普照道悟禪師(三十三)資壽尼無著禪師
第二十一卷
(一)大元太祖皇帝(二)天竺此峰宗印講師
(三)憲宗(四)慶壽海雲印簡大師
(五)世祖(上) (六)拜劉秉忠太保參領中書省事制 (七)帝師說羯磨儀軌序 (八)劉太保神道碑 (九)諡劉太保文貞制 (十)帝師發思八行狀 (十一)聖旨僧道辨析 (十二)焚諸路道藏經碑 (十三)辨偽錄隨函序 (十四)辨偽錄一十四章(一之八)
第二十二卷
(一)世祖(下)(二)辨偽錄(九之十四)(三)詔禁道藏經品目(四)焚道藏經下火文(五)僧道持論名銜(六)江南禪教登對錄(七)徑山雲峯妙高禪師(八)世祖弘教玉音百段
(九)成宗(十)五臺真覺文才國師(十一)膽巴金剛上師
(十二)武宗(十三)勅撰臨濟正宗記(十四)乞台薩里碑(十五)上都華嚴至溫禪師(十六)革僧衙門論
(十七)仁宗(十八)三藏沙囉巴譯師(十九)秦州普覺英辨論師(二十)勅建瑞像殿記(二十一)加封普庵宣命(二十二)京都崇恩謙講師(二十三)京城普慶法聞律師(二十四)三藏達益巴國師(二十五)京師寶集妙文講師
(二十六)英宗(二十七)詔各路建帝師殿碑(二十八)五臺普寧了性講師(二十九)玉山普安寶嚴講師(三十)天目中峯明本國師(三十一)大都妙善尼舍藍藍(三十二)臨壇大德惠汶律師
今上皇帝萬萬歲
佛祖歷代通載目錄(終)
佛祖歷代通載卷第一
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
(一) 七佛偈
毘婆尸佛(過去莊嚴劫第九百九十八尊)偈曰。身從無相中受生。猶如幻出諸形像。幻人心識本來無。罪福皆空無所住。長阿含經云。人壽八萬歲時此佛出世。種剎利。姓拘利若。父槃頭母槃頭婆提。居槃頭婆提城。坐婆羅樹下說法。三會度人三十四萬八千人。神足二。一名騫茶。二名提舍。侍者無憂。子方膺。
尸棄佛(莊嚴劫第九百九十九尊)偈曰。起諸善法本是幻。造諸惡業亦是幻。身如聚沫心如風。幻出無根無實性。長阿含經云。人壽七萬歲時此佛出世。種剎利。姓拘利若。父明相。母光曜。居光相城。坐分陀利樹下說法。三會度人二十五萬。神足二。一名阿毘浮。二名婆婆。侍者忍行。子無量。
毘舍浮佛(莊嚴劫第一千尊)偈曰。假借四大以為身。心本無生因境有。前境若無心亦無。罪福如幻起亦滅。長阿含經云。人壽六萬歲時此佛出世。種剎利。姓拘利若。父善燈。母稱戒。居無喻城。坐博洛叉樹下說法。二會度人一十三萬。神足二。一名扶遊。二名欝多摩。侍者寂滅。子妙覺。
拘留孫佛(見在賢劫第一尊)偈曰。見身無實是佛身。了心如幻是佛幻。了得身心本性空。斯人與佛何殊別。長阿含經云。人壽四萬歲時此佛出世。種婆羅門。姓迦葉。父禮德。母善枝。居安和城。坐尸利沙樹下說法。一會度人四萬。神足二。一薩尼。二毘樓。侍者善覺。子上勝。
拘那含牟尼佛(賢劫第二尊)偈曰。佛不見佛知是佛。若實有知別無佛。智者能知罪性空。坦然不怖於生死。長阿含經云。人壽三萬歲時此佛出世。種婆羅門。姓迦葉。父大德。母善勝。居清淨城。坐優曇婆羅樹下說法。一會度人三萬。神足二。一舒槃那。二欝多樓。侍者安和。子導師。
迦葉佛(賢劫第三尊)偈曰。一切眾生性清淨。從本無生無可滅。即此身心是幻生。幻化之中無罪福。長阿含經云。人壽二萬歲時此佛出世。種婆羅門。姓迦葉。父梵德。母財主。居波羅奈城。坐尼拘類樹下說法。一會度人二萬。神足二。一提舍。二婆羅婆。侍者善友。子進軍。
釋迦牟尼佛(賢劫第四尊)偈曰。法本法無法。無法法亦法。今付無法時。法法何曾法。姓剎利。父淨飯天。母大清淨。居舍衛城。坐菩提樹下說法。一會弟子一千二百五十人。度人無數。神足二。一舍利弗二目犍連。侍者阿難。子羅睺羅。
古佛應世綿歷無窮。不可以周知悉數也。世尊有云。我以如來知見力故。觀彼久遠猶若今日。故按佛名經。紀過現二劫千如來。暨于釋迦但標七佛。阿含經云。七佛精進力。放光滅暗冥。各各坐諸樹。於中成正覺。佛祖偈翻譯。乃高僧雲啟一同天竺那連耶舍三藏。於龜茲國譯出。本末載於梁大同六年。
大元帝師發合思巴說
彰所知論 宣授江淮福建等處釋教總統法性三藏弘教佛智大師沙羅巴譯。
(二) 器世界品
器世界所成之體。即四大種種具生。故地堅水濕火煖風動。是等大種最極微細者曰極微塵。亦名隣虛塵。不能析釋。彼七隣虛為一極微。彼七極微為一微塵。彼七微塵為一透金塵。彼七透金塵為一透水塵。彼七透水塵為一兔毛塵。彼七兔毛塵為一羊毛塵。彼七羊毛塵為一牛毛塵。彼七牛毛塵為一遊隙塵。彼七遊隙塵為一蟣量。彼七蟣量為一蝨量。彼七蝨量為一麥量。彼七麥量為一指節。三節為一指。二十四指橫布為一肘四肘為一弓。五百弓量成一俱盧舍。八俱盧舍成一由旬。此是度量世界身相。成世界因由。一切有情共業所感。云何成耶。從空界中十方風起互相衝激。堅密不動為妙風輪。其色青白極大堅實。深十六洛叉由旬。廣量無數。由煖生雲名曰金藏。降注大雨依風而住。謂之底海。深十一洛叉二萬由旬。廣十二洛叉三千四百半由旬。其水搏激上結成金。如熟乳停上凝成膜。即金地輪。故水輪減唯厚八洛叉。餘轉成金。厚三洛叉二萬由旬。金輪廣量與水輪等。周圍即成三倍。合三十六洛叉一萬三百五十由旬。其前風輪娑婆界底。地水二輪四洲果底。於地輪上復澍大雨即成大海。被風鑽擊精妙品聚成妙高山。中品聚集成七金山。下品聚集成輪圍山。雜品聚集成四洲等。其妙高體。東銀南琉璃西玻琍珂北金所成。餘七唯金。四洲地等雜品所成。彼輪圍山唯鐵所成。其妙高量入水八萬緰繕那。比於餘山皆悉高妙。故曰妙高。然後次第七金山者。一踰乾陀羅。高四萬由旬。二伊沙陀羅。高二萬由旬。三佉得羅柯。高一萬由旬。四脩騰娑羅。高五千由旬。五阿輸割那。高二千五百由旬。六毘泥怛迦那。高千二百五十由旬。七尼民陀羅。高六百二十五由旬(藏論疏云。一持雙山。二持軸山。三檐木山。四善見山。五馬耳山。六象鼻山。七魚嘴山)四大洲外有輪圍山。高二百一十二由旬半。彼等廣量各各自與出水量同。七金山間諸龍王等游戲之處名曰戲海。八山間七海近妙高者。一踰乾陀羅海。廣八萬由旬。二伊沙陀羅海。廣四萬由旬。三佉得羅柯海。廣二萬由旬。四脩騰娑羅海。廣一萬由旬。五阿輸割那海。廣五千由旬。六毘泥怛迦那海。廣二千五百由旬。七尼民陀羅海。廣一千二百五十由旬。盈八功德水。八山七海其相咸方。外海味鹹。尼民陀羅至輪圍山。二山相去三洛叉二萬二千由旬。其外海水雖無有分。由妙高色。東海色白。南海色青。西海色紅。北海色黃。現是等色。故稱四海。是彼周邊三十六洛叉七百五十由旬。外輪圍山。周圍三十六洛叉二千六百二十五由旬。其外海南贍部洲者。狀如車廂。狹向鐵圍三由旬半。餘三邊者。各二千由旬。周圍六千三由旬半。有二中洲。東遮摩羅(此云猫牛)西婆羅摩羅(此云勝猫牛)贍部中央摩竭陀國。三世諸佛所生之處。次此向北度九黑山有大雪山。名具吉祥。其山北邊有香醉山。是二山間有大龍王。名曰無熱。所居之池曰阿耨達(此云無熱)其狀四方面各五十由旬。周圍二百由旬。池內遍滿八功德水。從此池內出四大河。東殑伽河。從象口中流出銀沙。共五百河流歸東海。南辛渡河。從牛口中流出琉璃沙。共五百河流歸南海。西縛芻河。從馬口中流出玻琍珂沙。共五百河流歸西海。北悉怛河。從師子口中流出金沙。共五百河流歸北海。是彼四河從無熱池右遶七匝隨方流轉。是香山北度二十由旬。彼處有岩名難陀。岩面各五十由旬。周圍二百由旬。高三由旬半。又有八千小岩。其岩北邊二十由旬有娑羅樹王。名曰善住。其根入地四十弓量。高八十弓量。七重行樹羅列圍繞。東邊度二十由旬有緩流池。其狀圓相。廣五十由旬。周圍一百五十由旬。又有八千小池。盈八功德水。內有蓮華。葉若牛皮。其莖如軸。花若車輪味美如蜜。是處又有帝釋臨戰。所乘象王名曰善住。與八千象寒四月時住金岩所。熱四月時住善住所。雨四月時住緩流池。無熱池側有贍部樹。果實味美其量如甕。熟時墮水出贍部音。龍化為魚吞噉是果。殘者遇流成贍部金。由此樹名故號贍部。此洲向西有烏佃國。大金剛宮持種所居。金剛乘法從彼而傳。南海之中山曰持舡。觀音菩薩居止其頂。聖多羅母居止山下。東有五峯。文殊菩薩居止其上。有十六大國千數小國。又有三百六千種人。七百二十種異音。其外海東洲曰勝身。狀若半月。對妙高邊三百五十由旬。餘邊六十由旬。周圍六千三百五十由旬。其洲二邊有二中洲。北提訶(此云身)南毘提訶(此云勝身)是彼三洲越餘洲等七多羅樹。或曰。洲人相貌端嚴其身勝故。名曰勝身。其外海北洲曰鳩婁。其狀四角。畟方相似。邊各二千由旬。周圍八千由旬。其洲二邊有二中洲。一名鳩婁(此云有勝)二高羅娑(此云有勝邊)彼洲人等所有受用出如意樹。臨沒七日。其如意樹出不美音。報曰。當七日死。或曰洲人卑舌即割食肉鬼音。故曰鳩婁。是不美音。其外海西洲曰牛貨。形如滿月。徑二千五百由旬。周圍七千五百由旬。有二中洲。南舍?(此云具諂)北搵怛羅曼怛哩拏(此云儀上)彼洲人等多寶牛貨。故曰牛貨。洲海山等向下皆悉八萬由旬。近金地故近贍部洲。星割棘洲金洲月洲等者。係贍部洲。餘大洲等。小洲亦爾。次上空中四萬由旬。純淨無礙。勝堅風輪。從右而旋。日月星宿空居天等依止而住。
(三) 日輪者。火珠所成。徑五十一由旬。周圍百五十三由旬。厚六由旬零十八分。上有金緣。其上復有金銀琉璃玻琍珂等。秀成四角。日天子等所居宮殿由風運行。一晝一夜遶四大洲。日行向北時日即長。南行時短。行南北間時晝夜停。由遊處光即有寒暑。為冬夏際。北行六月南行六月。行至中道。曰日月迴。星輪歷遍謂之一歲。
(四) 月輪者。水珠所成。徑五十由旬。周圍百五十由旬。厚六由旬零十八分。其上復有金銀琉璃玻琍珂等。秀成四角。月天子等所居宮殿。是彼日月相去遠近自影增減。由增一分即生上半十五分畢。謂之圓滿。由減一分即生下半自影覆彼十五分畢。曰不圓滿。由增減故名曰宿空。由一晝夜名曰宿地。如是三十名曰一月。
(五) 諸星宿者。空居天宮諸寶所成。其形皆圓。小一牛吼。中三牛吼。大六牛吼。周圍三倍。係四王眾。
(六) 妙高山者。有四層級。始從水際向上相去十千由旬。即初層級。從妙高山傍出十六千由旬。向上相去一萬由旬。即二層級。傍出八千由旬。向上相去一萬由旬。即三層級。傍出四千由旬。向上相去一萬由旬。即四層級。傍出二千由旬。彼妙高山。其頂四角。各秀一峯。高四由旬半。廣百二十五由旬。周圍五百由旬。有藥叉神於中止住。是山頂上三十三天。中央城曰善見。純金所成。高一由旬半。面各二千五百由旬。周萬由旬。其城體金。俱用百一雜寶嚴飾。其地柔軟如兜羅綿。是城四面有一萬六千寶柱寶桴寶椽寶簷。四面四門又有千數?一小門。四大衢道有諸小衢。其四門側。五百天子皆服堅鎧守護是門。城中有帝釋殿曰最勝處。亦曰殊勝殿。其狀四方。高四百由旬半。面各二百五十由旬。周千由旬。百一却敵。一一却敵各有七樓。一一寶樓各七小樓。一一小樓各七池沼。一一池沼各七蓮華。一一華上各有七數童男童女。奏種種樂。歌舞歡娛。善見城東有諸所乘。曰眾車苑。高千由旬。南臨戰處曰麁惡苑。西諸行處曰相雜苑。北游戲處名歡喜苑。縱廣同前。其苑等外度二十由旬有善地。曰眾車麁惡相雜歡喜。量同四苑。善見東北有如意樹。名波利闍多。亦名圓生樹。根深五十由旬。高百由旬。枝條傍布五十由旬。能施欲樂。下有盤石。曰阿㗚摩麗歌。色白如㲲面各五十由旬。周二百由旬。善見西南諸天集處。名善法堂。周九百由旬。其狀圓相。是堂中央有帝釋座。純金所成。其座周圍有三十二輔臣之座。咸皆布列。三十三天。向上度八萬由旬。於空界中依風而住。諸寶所成○離諍天宮。量若妙高山頂二倍。上度一億六萬由旬。於空界中依風而住。諸寶所成○兜率天宮量如離諍。縱廣二倍。上度三洛叉二萬由旬。於空界中依風而住。諸寶所成○化樂天宮量如兜率。縱廣二倍。上度六洛叉四萬由旬。於空界中依風而住。諸寶所成○他化自在天宮量同化樂。縱廣二倍。此即欲界。上有初禪。如是四洲七山妙高輪圍欲界六天并初禪等。謂四洲界一數至千為小千界。一小鐵圍山圍繞。此小千界一數至千為中千界。一中鐵圍山圍繞。此中千界一數至千為三千大千世界。一大鐵圍山圍繞。如是有百億數四洲界等皆悉行布。鐵圍山等諸洲山間黑暗之處。無有晝夜舉手無見○初禪天量等四洲界○二禪天量等小千界○三禪天量等中千界。○四禪天量等三千大千世界。其相去量皆倍倍增。謂曰色界○無色界者。無別處所。若有生者何處命終。即彼生處住無色定。故曰無色。
(七) 情世界品
謂情世界總有六種。一者地獄。二者餓鬼。三者傍生。四者人。五者非天。六者天。此等六種名義云何。謂斫壞肢體。故曰地獄。飢渴所逼。故曰餓鬼。傍覆而行。故曰傍生。意多分別。故名曰人。摩㝹沙義。身及受用雖與天同。微分鄙劣。或由無酒。故曰非天。阿修羅義。從梵身生遊戲娛樂。或應供養。故謂曰天。是提婆義。一地獄者。贍部洲下過二萬由旬。曠廓四方二萬由旬。純鐵所成。火焰洞然有八熱獄。一曰更活。二曰黑繩。三曰眾合。四曰號呌。五曰大號呌。六曰炎熱。七曰大炎熱。八曰無間○更活獄者。生彼有情先業所感。執眾器仗互起冤憎。遞相斫害段段墮落。悶絕暫死。空音更活。彼等有情即便更活復相斫害。彼壽量者。四天王天一生之期為一晝夜。如是算數壽五百歲。受是苦楚○黑繩獄者。其獄卒等。於有情身從頂至足。拼界黑繩以火鋸鉞解斫肢體。由先業力解下上生。彼壽量者。忉利天一生之期為一晝夜。如算數壽一千歲。受是苦楚○眾合獄者。生彼有情。以鐵槌打或二鐵山。猶如羊頭二山相合研磕摧壞。二山開時復自然火。又被摧壞。彼壽量者。離諍天一生之期為一晝夜。如是算數壽二千歲。受是苦楚○號呌獄者。生彼有情。怖熱鐵池入稠林中。火焰熾盛永歲焚燒。由先業力其舌縱廣千由旬量。有一大牛。鐵角鐵甲架鐵犁鏵。火焰熾盛耕犁其舌。彼壽量者。兜率天一生之期為一晝夜。如是算數壽四千歲。受是苦楚○大號呌獄者。亦與前同。其苦倍增。彼壽量者。化樂天一生之期為一晝夜。如是算數壽八千歲。受是苦楚○炎熱獄者。三重鐵城火焰洞徹內受苦楚。彼壽量者。他化自在天一生之期為一晝夜。如是壽數萬六千歲。受是苦楚○極炎熱獄者。亦同其前。其苦倍增。彼壽量者。等半中劫。受是苦楚○無間獄者。於鐵室內身一聚焰受極苦楚。彼壽量者。等一中劫○十六增獄者。八熱獄傍面各四所。一煻煨增。深皆沒膝。有情遊彼。才下足時。皮肉與血俱焦爛墜。餘剩其骨。舉足還生。平復如本。二戶糞增。不淨淤泥沒有情腰。於中多有攘矩吒蟲觜利如針鑽皮透骨咂食其髓。三峯刃增。復有三種。一刀刃路。謂於此中仰布刀刃以為大道。有情遊彼。才下足時。皮肉與血俱斷碎墜。舉足還生。平復如本。二劍葉林。謂此林樹純以銛利劍刀為葉。有情遊彼。風吹葉墜斬刺肢體骨肉零落。有烏駁狗䶥掣食之。三鐵刺林。名銛摩利。謂此林樹有利銕刺。長十六指。有情被逼上下樹時。其刺銛利上下劖刺。是等有情血肉皮等掛染刺上。唯剩觔骨。有鐵觜烏。探啄有情眼睛腦髓。爭競而食。刀刃路等三種雖殊而鐵仗同。故一增攝四。烈河增。名曰無渡。遍滿極熱烈灰汁水。有情入中。或浮或沒。或逆或順。或橫或竪。被蒸被煮骨肉糜爛。如大鑊中滿盛灰汁置稻米等。猛火下然米等於中上下迴轉舉體糜爛。有情亦然。設欲逃避。於兩岸上有諸獄卒。手執刀鎗禦捍令回。無由得出。此河如塹。前三似苑。彼等名曰近邊地獄○八寒獄者。一曰水疱。二曰疱裂。三阿吒吒。四阿波波。五嘔喉喉。六裂如欝鉢羅華(此云青蓮華)七裂如蓮華。八裂如大蓮華○水疱獄者。生寒氷間極甚嚴寒。隨身生疱曰水疱獄。彼壽量者。摩伽陀國所有大斛八十斛麻。百年除一若芝麻盡。彼壽亦爾○疱裂獄者。由極嚴寒。其疱而裂黃水漏流。彼壽量者。倍前二十○阿吒吒獄者。由大嚴寒咬齒忍耐。彼壽量者。倍前二十○阿波波獄者。忍寒音聲。彼壽量者。倍前二十○嘔喉喉者。由寒號泣出是苦聲。彼壽量者。倍前二十○裂如欝鉢羅華獄者。嚴寒身裂如欝鉢羅華葉。彼壽量者。倍前二十○裂如蓮華獄者。嚴寒身裂如蓮華開。彼壽量者。倍前二十○裂如大蓮華獄者。身裂越前。如大蓮華開敷多葉。彼壽量者。倍前二十。孤獨獄者。在贍部提曠野山間。一晝一夜受苦受樂。相雜受故八熱地獄八寒地獄近邊孤獨。如是名為十八地獄。
二餓鬼者。王舍城下過五百由旬有餓鬼城。名曰黃白。亦名慘淡。彼鬼王曰閻羅法王。共三十六眷屬等居。其類有四。一者外障。二者內障。三者飲食障。四者障飲食。一外障者。飲食音聲亦不得聞。二內障者。獲微飲食口若針竅不能得入。設能入口咽如馬尾無能得過。設若過咽腹若山廓不能飽滿。雖滿腹中脛如草莖無能舉動。受此大苦。三飲食障者。見飲食時。無量獄卒執諸器仗守禦無獲。四障飲食者。食飲食時。由業所感鐵丸銅汁瀉置口中從下流出。如是四種皆是餓鬼。彼壽量者。人間一月為一晝夜。如是算數壽五百歲。即當人間一萬五千歲。或居人間寒林等處。食血肉等皆餓鬼類。
三傍生者。多居河海。亦如酒糟混漫而住。以大食小以小食大。互相驚怖。由海波濤住所不定。或處人天。彼壽量者。長如龍王壽半中劫。短如蚋等壽一剎那。身量無定。
四人者。住四大洲八中洲等及諸小洲。彼壽量者。如贍部洲人。初成劫時其壽無量。次後漸減。今六十歲。次後漸減至十歲間。次復漸增無有定量。北鳩婁人定壽千歲。東勝身人壽五百歲。西牛貨人壽二百五十歲。除北鳩婁餘有夭橫。彼等受用。北鳩婁中食自然稻。衣服瓔珞出如意樹。餘三洲者。食穀肉等資寶受用。彼等身量贍部提人身量(四肘。東勝身人身量八肘。西牛貨人身十)六肘。北鳩婁人身三十二肘。人等面相亦如洲狀。其小洲人亦如大洲。身各減半。故如是說。
五非天者。妙高水際下。過一萬一千由旬。山曠廓閒光明城內。阿修羅王曰羅睺羅(此云攝腦)眾眷屬居。又過一萬一千由旬。星鬘城內阿修羅王。名曰項鬘。眾眷屬居。又過一萬一千由旬。堅牢城內阿修羅王。名曰妙鎮。又曰大力。眾眷屬居。又過一萬一千由旬。甚深城內阿修羅王。名曰毘摩質多羅(此云絲種種亦云紋身)眾眷屬居。常共帝釋比對鬪諍。城曰具金。殿名奏樂。如意樹王名即怛鉢㗚。聚集之處。名曰賢財。石名善賢。苑名普喜。妙喜最喜甚喜善地。亦名普喜妙喜最喜甚喜。臨戰所乘象名無能敵。遊戲所乘象名壘雪。馬曰峭脖。是等非天共三十三天。諍須陀味及修羅女為戰諍故從山廓出。身服金銀琉璃玻琍珂等堅固鎧甲。手執劍槊標鎗弓箭。領四部軍。彼阿修羅王羅睺羅。項鬘。妙鎮。毘摩質多羅等。或前三來。或四皆來。是時帝釋五守護眾。一住戲海。願樂白法龍王等眾與非天軍鬪戰今迴。龍若不勝去堅守所。共二守護復與修羅鬪戰。又若不勝去持鬘所。共三守護復與鬪戰。又若不勝去恒憍所。共四守護復與鬪戰。又若不勝去四王所。共五守護復與鬪戰。四大天王率四軍眾。服寶堅鎧執諸戈杖鬪戰。多分四天王勝。若不能却去忉利天。前白帝釋曰。我等守護不能回彼修羅王應却敵。如是白已。天主帝釋乘善住象。告三十三天眾等曰。汝等應知。今修羅軍至妙高頂。當服堅鎧取所乘車與修羅戰。說是語已。彼諸天子各服寶鎧執持戈仗。去眾車苑取所乘車。入麁惡苑身心轉惡。出善見城共修羅戰。若修羅勝侵至城內。若天得勝逐修羅軍至第一海。鬪戰之時。天與非天斷其頸腰。彼等即死。手足若斷。復生如本。若薄伽梵辟支佛轉輪聖王住世間時。諸阿修羅不起諍心。設若相持諸天必勝。世間善增天眾亦勝。世不善增阿修羅勝。是故諸天護持善事。
六天者。欲界六天。色界十七。無色界四。欲界六天者。蘇迷盧山第一層級堅首眾居。第二層級持鬘眾居。第三層級恒憍眾居。持雙山上北方有城。名阿那迦縛帝。多聞天王藥叉眾居。如是東方城名賢上。有大天王。名曰持國。乾闥眾居。西方有城。名曰眾色。有大天王。名曰廣目。龍神眾居。南方有城。名曰增長。有大天王。名曰增長。焰鬘眾居。餘四層級七金山等日月星宿鐵圍輪山贍部洲山多羅樹所四王部眾亦共止住。咸屬四王。是謂一部。彼壽量者。人五十歲為一晝夜。如是壽量經五百年。若其身量一俱盧舍四分之一。三十三天妙高頂上天主帝釋住最勝處共非天女。名曰妙安。同眾天女受諸欲樂無有厭足。復有臨戰所乘象王。名曰善住。遊戲苑中所乘象王。名曰藹羅筏拏(此云持地子)二象周圍各七由旬。各以八千小象眾居。又有馬王。名迅疾風。與八千馬居。天主輔臣數三十二。是故名曰三十三天。諸天子等耽五欲樂。若放逸時。有大天鼓。鼓聲出音警諸天曰。諸行無常。有漏皆苦。諸法無我。寂滅為樂。與修羅軍鬪戰之時。出除苦音警曰。天願得勝。願修羅敗。宮殿城池樹集石等。如前所辨。彼天壽量。人間百歲為一晝夜。如是算數壽一十歲。其天身量半踰闍那○焰摩天者。三十三天共非天諍。此離諍故名離諍天。彼天壽量。人二百歲為一晝夜。如是算數壽二千歲。其天身量二踰闍那○兜率陀天者。有慈氏尊。紹世出世。法王之位受大法樂。謂曰兜率。是俱樂義。人間四百年。彼天一晝夜。壽四千歲。身量四踰闍那○化樂天者。自化受用。謂之化樂。人間八百年。彼天一晝夜。壽八千歲。身量八踰闍那○他化自在天者。受用他化。謂之他化自在。彼天中王威德自在。即是魔主人間千六百年。彼天一晝夜。壽一萬六千歲。身十六踰闍那。下從無間至他化自在天。謂之欲界。耽著欲樂所食段食。故如是說○色界一十七天者。四靜慮攝○初禪三天者。謂梵眾。梵輔。大梵。彼天壽量。梵眾半劫。梵輔一劫。大梵一劫半。彼天身量次第。半由旬。一由旬。一由旬半○二禪三天者。謂少光。無量光。極光。彼天壽量。少光二劫(以上四天。四十中劫為一大劫。已下諸天。八十中劫為一大劫)無量光四劫。極光八劫。彼天身量少光二由旬無量光四由旬。極光八由旬○三禪三天者。謂少善。無量善。廣善。彼天壽量。少善一十六劫。無量善三十二劫。廣善六十四劫。彼天身量。少善十六由旬。無量善三十二由旬。廣善六十四由旬○四禪八天者。無雲。福生。廣果。三是凡居。無煩。無熱。善現。善見。色究竟。五是聖居。名曰五淨居。彼天壽量。無雲百二十五劫。福生二百五十劫。廣果五百劫。無煩一千劫。無熱二千劫。善現四千劫。善見八千劫。色究竟一萬六千劫。彼天身量。無雲一百二十五由旬。福生二百五十由旬。廣果五百由旬。無煩一千由旬。無熱二千由旬。善現四千由旬。善見八千由旬。色究竟一萬六千由旬。始從梵眾至色究竟。皆名色界。出離欲樂非離色故。故名色界○無色界四天者。無有身色亦無處所。從定分四。謂空無邊處。識無邊處。無所有處。非想非非想處彼天壽量。空無邊處二萬大劫。識無邊處四萬大劫。無所有處六萬大劫。非想非非想處八萬大劫。彼等四處。謂無色界。非離定色出離麁色。故名無色。彼等壽量。謂歲劫時。其量云何。時最少者。名為剎那。百二十剎那為一怛剎那。六十怛剎那為一羅婆。三十羅婆為一牟休多(此云須臾)三十牟休多為一晝夜。三十晝夜即為一月。十二箇月即為一年。劫有六種。一中劫(或名減劫)二成劫。三住劫。四壞劫。五空劫。六大劫。一中劫者。或贍部人從無量歲漸漸減至八萬歲時。即成劫攝。從八萬歲減至十歲。謂中劫初。復增八萬歲減至十歲。為一轆轤。如是增減十八數者。為十八中劫然後十歲至八萬歲中劫。後際前後中間十八轆轤。為二十中劫。二成劫者。始從風輪至無間獄。生一有情器世界成。經一中劫如前已說。
(八) 情世界者。此三千界火壞後成。從極光天天人命終。生大梵處孤生疲勌嗚呼。若有同分生此界者。有何不可。發如是心。雖非念力極光天人有命終者。即生彼處。先生之心而作是念。由我貪生。故世咸稱人祖大梵。如次梵輔梵眾他化自在乃至四王。次第而生北鳩婁洲西牛貨洲東勝身洲南贍部洲。次第而生。時贍部洲人壽無量歲。飲食喜樂有色意成。身帶光明騰空自在。如色界天有如是類。地味漸生其味甘美。色白如蜜其香馥郁。時有一人稟性耽味。嗅香起愛取甞便食。亦告餘人隨學取食。食段食故身光隱沒。由眾業惑日月便出照曜四洲。次地味隱復生地餅。其味甘美色紅如蜜。競耽食之。地餅復隱。次林藤生競耽食。故林藤。復隱有非耕種自然稻生。眾共取食。此食麁故。即餘滓穢根道俱出。爾時諸人隨食早晚取香稻食。後時有人稟性懶惰。長取香稻儲宿為食。餘亦隨學香稻隱沒。隨共分田慮防遠盡。於己分田生悋護心。於他分田有懷侵奪。故生爭競。是時眾人議一有德封分田主。眾所許故。謂曰大三末多王(此云眾所許)王多有子。相續紹王。嫡子號曰光妙。彼子善帝。彼子最善。彼子靜齋。是等謂曰成劫五王。靜齋王子。名曰頂生。彼子妙帝。彼子近妙。彼子具妙。彼子嚴妙。是等謂曰五轉輪王。嚴妙王子。名曰捨帝。彼子捨雙。彼子捨固尼彼子固室。彼子善見。彼子大善見。彼子除礙。彼子金色。彼子具分。彼子離惡。彼子妙高。彼子定行。彼子甚吼音。彼子大甚吼音。彼子能安。彼子方主彼子賢塵。彼子能廣。彼子大天。此王種族五千相承。其最後子七千相承。曰阿思摩迦王。最後子八千相承。曰鳩婁王。其最後子。曰具頭王。有九千王。其最後子。名曰龍音。有一萬王。其最後子。怛彌留怛一萬五千。其最後子名瞿曇氏。即甘蔗裔。彼子相承。甘蔗王種一千一百數。其最後子甘蔗種王。名曰增長。即懿師摩王。王有四子。一名面光。二名象食。三名調伏象。四名嚴鐲。稱釋迦氏。嚴鐲有子。名嚴鐲足。彼子致所。彼子牛居。彼子獅子頰王有四子。一名淨飯。二名白飯。三名斛飯。四名甘露飯。淨飯王子。即婆伽梵。次名難陀。白飯王二子。一名帝沙。即調達。二名難提迦。斛飯王二子。一名阿尼婁馱。二名跋提梨迦。甘露飯王二子。一名阿難。二名提婆達多。婆伽梵子名羅睺羅。釋迦種族至斯已矣○又別種王依法興教。如來滅度後二百年。中印土國王曰無憂。於贍部提王。即多分中結集時。而為施主興隆佛教。後三百年。贍部西北方有王。名曰割居尸割。三結集時。而為施主廣興佛教。梵天竺國。迦濕彌羅國。勒國。龜茲國。揑巴辣國。震旦國。大理國。西夏國等。諸法王眾。各於本國興隆佛法。如來滅度後千餘年。西番國中初有王。曰呀乞㗚贊普。二十六代有王。名曰袷陀朵㗚思顏贊。是時佛教始至。後第五代有王。名曰雙贊思甘普。時斑彌達名阿達陀。譯主名曰端美三波羅。翻譯教法。修建袷薩等處精舍。流傳教法。後第五代有王。名曰乞㗚雙提贊。是王名請善海大師蓮華生上師迦摩羅什羅班彌達眾成就人等毘盧遮那羅佉怛及康龍尊護等七人。翻譯教法。餘斑彌達。共諸譯主廣翻教法。三種禁戒興流在國後第三代有王。名曰乞㗚倈巴膽。是王界廣。時有積那彌多并濕連怛羅菩提斑彌達等。共思割幹吉祥積酌羅龍幢等。已翻校勘。未翻而翻。廣興教法。西番王種至今有在。斑彌達等翻譯。譯主善知識眾廣多有故。教法由興。
北蒙古國。先福果熟生王。名曰成吉思(二合)始成吉思從北方王。多音國如鐵輪王。彼子名曰斡果戴。時稱可罕。紹帝王位疆界益前。有子名曰古偉。紹帝王位。成吉思皇帝次子名孕羅。孕羅長子名曰蒙哥。亦紹王位。王弟名曰忽必烈。紹帝王位。降諸國土。疆界豐廣。歸佛教法。依法化民。佛教倍前光明熾盛。帝有三子。長曰真金。豐足如天法寶莊嚴。二曰厖各辣三曰納麻賀。各具本德。係嗣亦爾。茲是始從。釋迦王種至今王種。
始帝王祖三未多王。是時田分互起侵盜。初發偷盜。被王推問言不曾偷。始起妄語。王法誅戮。即有殺害。不善法生。爾時眾生造不善法。命終之後。即生傍生。次生餓鬼。漸生地獄。次無間獄生一有情。時成劫終。如是有情行諸不善。壽量漸減受用乏少。閻浮提人壽八萬歲。無間地獄生一有情。是二同時。如是情世界成。十九中劫器世界成。即一中劫。如是成劫二十中劫。閻浮提人八萬歲時。始為住劫。住劫亦經二十中劫。至十歲時刀兵災起。唯七晝夜。疾疫災起七月七日。飢饉災起七年七月七日。多分死歿。餘者相覩。起希有心互相睦戀。遠離殺害漸生善故。壽量受用復增益盛。至八萬歲增上之時。轉輪王出依法化民。下減之時婆伽梵出拔濟眾生。增減時間獨覺出世。令諸有情而作福田。住劫亦經二十中劫始壞劫。初情世界壞。無間獄中無有情生。先生業盡。即生別趣。若有未盡生上地獄。或別世界地獄中生無間獄空。如是向上地獄漸空生餓鬼趣。如是餓鬼傍生趣空。人趣之中除鳩婁人。餘共欲天無師法然獲初靜慮生初禪天。北鳩婁人生欲界天。獲初靜慮生初禪天。無師法然獲二靜慮生二禪天。從無間獄至梵世空。如是亦經十九中劫。然後四洲有七日出。初不降雨藥草叢林悉皆枯槀。二日出時溝池乾涸。三日出時殑伽河等悉皆枯竭。四日出時無熱池竭。五日出時海水沒膝。六日出時大海亦竭。七日出時彼器世界一聚火聳。從無間獄直至梵世以火燒壞。經一中劫壞劫總經二十中劫。空劫亦爾。如是成住壞空即八十劫。總此八十名一大劫。為梵眾等壽量之數。
(十) 器世界壞有其三種。火水風壞者。亦如前說。如是七次後。世界復成。又被水壞至二禪天。從極光天即生大雲降注大雨。其器世界如水化鹽消鎔皆盡。彼水自竭一水災。次復七火災度七火災還有一水。如是水災滿至七。次復七火災後世界成。被風災壞至三禪天。其風之力吹散妙高。何況其餘。第四禪天雖無外災。是等有情生與殿生命盡殿隱。如是器情世界。并成壞等咸皆說已。
念常讚曰。軻書所謂五百年必有王者興。其間必有名世者。誠哉是言也。迨我。
皇元。混一區宇。萬邦咸寧。敬崇佛乘。禮請。
法王上師薩思迦大斑彌達發思巴惠幢吉祥賢。為帝師。廣興好事。詔製。
大元國字。師獨運摹畫作成。稱旨即頒行。朝省郡縣遵用。迄為一代典章。今茲彰所知論。廼。
裕宗潛邸時。請師所說也。大旨約標器情道果無為五法。總攝一切所知。故名此論。大概依念處日藏起世等經論對。
法相應之義。而錯綜其宏綱爾。苟非具大智辯窮法實相。其孰能明空劫隣虛之細大。昭然如庵摩勒果觀於掌中哉。欽惟。
世祖聖德神功文武皇帝。道契佛心德超義聖。弘護大教錫以。
皇天之下一人之上。西天佛子大元帝師璽篆。寵優其尊師重道。豈特為萬世。
帝王之彝典耶。抑亦燦昏塗迷惑之真燈也。姑錄器情二章。著于編首。餘道果無為三章。具於本論云。
佛祖歷代通載卷第一
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第二
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
太古諸君(太至極也。古兆今也。君主也。白虎通。群也。群下之歸心也)
(一) 盤古首君治一萬八千歲(列子曰。運即盤古也。北山曰。天曰高一丈。地曰厚一丈。盤古曰。長一丈。頭極東。足極西。左手極南。右手極北。開目為曙。閉目為夜。呼為暑。吸為寒。吹氣成風雲。吐氣成雷霆。四時行焉。萬物生焉。八紘九圍之大。其孰與多。三皇五紀之。尊其孰與先。古今記盤古死後形分物象也)。
(二) 天皇氏。一身十三頭。韋昭曰。兄弟十三人。分地治化。各一萬八千歲。古今記曰。天皇一身。上十三首也。
(三) 地皇氏。一身十一頭。韋昭曰。兄弟十一人。治一萬一千年。帝王甲子云。九千年也。有云三皇皆一萬八千年。
(四) 人皇氏。一身九頭。韋昭曰兄弟九人。分治九州。帝王甲子云。四千五百年。人皇六十五代。四萬五千六百年。
(五) 五紀
五龍紀五姓。在位二十七萬三千六百年。時人食葉居巢。
攝提紀七十二姓。在位六十四萬九千五百二十年。始分晝夜日時月朔。月為玉兔蝦蟆。金烏三足。出扶桑沒咸池也。
合熊紀三姓。在位六萬三千年也。
連逕紀六姓在位六萬九千年。韋昭曰。三萬二千年。
敘命紀四姓。在位四萬年也。
(六) 有巢氏。百代不記年。禮曰。昔者先王未有宮室。冬則塋窟。夏則居櫓巢。未有火化。食草木之實鳥獸之肉。飲血茹毛也。
(七) 燧人氏。鑽木出火。禮曰。燔黍擘豚。注曰。中古未有釜甑。擇米脾肉加于燒石之上食矣。古今記曰。以木德王。治八萬年。
大古以還。四時既序。晝夜長短。分至斯興。書曰。朞三百有六旬有六日。以閏月定四時成歲(天體至圓。周圍三百六十五度四分度之一。繞地左旋。常一日一周而過一度。日麗天而少遲。故日行一日亦繞地一周。而在天為不及一度。積三百六十五日九百四十分日之二百三十五而與天會。是一歲日行之數也。月麗天而尤遲。一日常不及天十三度十九分度之七。積二十九日九百四十分日之四百九十九而與日會。十二會得全日三百四十八餘分之積。又五千九百八十八如日法。九百四十而一得六不盡三百四十八。通計得日三百五十四九百四十分日之三百四十八。是一歲月行之數也。歲有十二月。月有三十日。三百六十者。一藏之常數也。故日與天會而多五日九百四十分日之二百三十五者。為氣盈月與日會而少五日九百四十分日之五百九十二者為朔虛而閏生焉。故一歲閏率則十日九百四十分日之八百二十七。三歲一閏則三十二日九百四十分日之六百單一。五歲再閏則五十四日九百四十分日之三百七十五。十有九歲七閏則氣朔分齊。是為一章也。故三年不置閏。則春之一月入于夏。而時漸不定矣。子之一月入于丑。而歲漸不成矣。積之之久至於三失閏。則春皆入夏。而時全不定矣。十二次失閏。子皆入丑。歲全不成矣)。
三皇(中庸子曰。皇大也。內外無為。以道化民者也)。
雷氏曰(上古洪荒起自三皇羲農軒轅)。
(八) 太昊伏羲氏(風姓。號太昊。母曰華胥。履巨人跡感而生焉。蛇身人首。養犧牲以庖厨。亦曰。庖犧。安國首之王。諡靜民。則法曰皇)木德都陳留(令兗州小黃縣界)在位。一百一十年。始畫八卦。造書契(以代結繩之制由是文籍生焉)制嫁娶(女適曰嫁男婚曰娶)設網罟以取魚(網羅也。爾雅鳥罟謂之羅。魚罟謂之筌。兔罟謂之置)造二十五絃瑟(長七尺二寸廣一尺八寸)女媧氏(姓風。伏羲之妹。能變化萬物也)造笙簧(長四尺。列管匏中施簧。大者十九簧小者十三簧。竿三十七。簧長四尺二寸。用竹為之。形狀參差如鳥羽)鍊五色石以補天缺。斷鼇足以立四極。在位一百四十年。
共工氏 大庭氏 柏皇氏 中央氏 陸栗氏 驪連氏 [亦-〦+(並-(前-刖))]胥氏 尊盧氏 混沌氏 昊英氏 葛天氏 朱襄氏 陰康氏 無懷氏。凡一十五代。通一萬七千七百八十七年。經史不載。
(九) 社神(昔共工氏有子。曰后土。能平九州。祀為社神五土之主。五土者。謂山川陂澤丘陵墳衍原隰也。土遠廣潤封土祀之以報土功。不知何代配乎后土。更俟知者)。
(十) 炎帝神農氏(姜姓。號炎帝母女登氏。感神龍而生。人身牛首。長于姜水。因以為姓也)王火德。都陳遷曲沃。在位一百四十年。葬長沙。易曰。神農氏。斵木為耜。柔木為耒。始教天下播種五穀。又甞百味為本草治醫藥演八卦為六十四。作市井貨易。作祭?製五絃琴。象五行也。自下帝承帝臨魁帝明帝直帝來帝哀帝揄罔。凡八代。五百四十年。
(十一 丁亥) 黃帝有熊氏(姓公孫名軒轅。少典次子。生而神靈。弱而能言。幼而循齊。長而敦敏。成而聰明。榆岡末年諸侯相伐。帝作弧矢征之。天下咸伏。伏虎貔貙貅之于?坂。有蚩尤兄弟八十一人銅頭鐵額。噉沙吞石。是山海之精。以亂天下。戰于涿鹿之野。受斬于中帝。鑄鼎成飛仙。攀龍去也。壽二百一十歲。葬衣冠於橋山)在位一百年。臣左徹(刻木為相。率諸侯朝十年行政)造合宮製衣服。使魯班造舟車(舟游也。可以濟水。車舍也。可以行居)建屋宇制棺槨以送死。始有葬禮(禮曰。天子七日而殯。七月而葬。諸侯五日而殯。五月而葬。大夫及士庶人。三日而殯。三月而葬。天子墳高三仞。樹以松。諸侯半之。樹以柏。大夫八尺。樹以栗。適士官高四尺。樹以槐。庶人無墳。樹以楊柳)。作咸池樂。用天老力牧太山稽為相。
(甲子 一) 風后定甲子(一云大橈 帝即位三十八年。始命大橈作甲子。故以三十八年為第一甲子。逆推元年得丁亥歲也)容成造曆隷首算數。問道廣成子。蒼頡為史。岐伯辨草木。俞附定脈經。伶倫制律呂(以調律呂。管長九寸以竹為之。或損或益。以定五音)置九州(歷帝紀云。黃帝有子二十五人。得姓者十二人。姬酉祁已滕箴任荀僖始儇休。分治九州。謂冀青徐豫雍梁楚揚燕。從長至幼。以次封之。後子孫五帝三王。並其苗裔。帝娶大庭氏生二子。長曰玄枵。幼曰昌意)凡十八代。一千五百二十年。
五帝(中庸子曰。帝者體也。內心無為而迹涉有為。以德教化民也。德象天地曰帝)。
雷氏曰(少顓嚳唐堯虞舜傳夏)。
(十二 甲子 二) 少昊金天氏(姓已。名摯。字青陽母曰女節。有星如虹下流。感意而生。被髮跣足無冠冕。黃帝之子壽一百歲)丁卯立。在位八十四年。王金德。都窮桑。又遷曲阜。立坊市。用度作樂置一百二十行。以鳥紀官。鳳皇至。凡十代。四百九十年。
(十三 甲子 三) 顓頊高陽氏(姓姬。名顓頊。黃帝孫。昌意子。有星如虹。女嫗感而生。壽九十八崩。葬于頓丘書疏載)辛卯立。在位七十八年。王水德。都帝丘(今濮陽縣)作曆以孟春為元。造平冠冕(廣八寸。長一尺六寸。至周始制旒。前後各十二用藻玉)制三公九。儀二十四司。養材任地。戴時象天。神人不雜。萬物有序。生八才子謂之八凱。平九黎之亂。制氣以教化。潔誠以祭祀。辨君臣之道。作五莖之樂(合為五行之根基也)凡八代五百二十年。
(十四 甲子 四) 帝嚳高辛氏(姓姬。名岐。黃帝曾孫。玄枵孫。蟜玄子。壽一百五歲崩。葬于宜陽)己酉立。在位七十九年。王木德。都亳(今偃師縣)師赤。松子置五行官。以勾芒為木正(少昊之子)祝融為火正(顓頊之子)蓐收為金正(少昊之子)玄冥為水正(亦少昊子)后土為土正(高陽之子)生八才子。謂之八元。造鐺鑊鞞鼓鐘磬塤篪(鼓以皮合木。擊乃鳴。鐘範金合土。似鈴而不圓。高二尺二寸半。厚八分。名懸鐘。磬前長三律二尺七寸。後長二律一尺八寸。名黃鐘。磬塤燒土為之。大如雁卵。銳上平底而有五孔。白虎通云。形如秤鎚有六孔。與周禮少別。箎以竹為之。一尺四寸圍三寸。小者尺二。上有六孔也)凡九代。三百五十年(左傳曰。蒼舒隤敱檮戭大。臨厖降庭堅仲容叔達。謂之八凱。伯奮仲堪叔獻叔豹季仲伯虎仲熊李貍謂之八元也)。
(十五 甲子 五) 帝堯陶唐氏(姓伊祁。名放勛。黃帝玄孫。帝嚳次子。娠十四月而生。眉分八采。土堦茅室)甲辰立。在位九十八年。王火德。都平陽(今晉州)又遷安邑。通舜為政。一百一十八年(始丙寅終癸卯舜喪服二年至乙巳。壽一百八十崩。葬穀林。諡翼善傳聖曰堯)號年曰載。師具英先生。命羲和曆象日月星辰。敬授民時。天降牝羊(名觸邪。死埋殿右。生蓂莢草。高八尺。月朔生一葉。至望全十五葉。望後凋一葉。至晦凋盡。有羔名獬豸。死葬殿左。生朱草長一丈。名指佞草)立衡室作圍棊(三百六十路象三十六旬。教丹朱矣)作大樂章。嘉禾茂鳳皇來。有賢人三十二人(未詳名姓)立敢諫鼓洪水九年(命鯀及禹治之)十日並現(命羿射之。九禽斃于地。儒說東南有羲和國。有女名羲和。生十日浴于海中。王時十日並現。羿射之九。唯一在焉○張羿善射人也。甞於西王母處得不死藥。乃獸芝也。妻盜食之。奔入月宮。名嫦娥。因此月名蟾蜍。即田父矣)。
(十六 甲子 六) 帝舜有虞氏(姓姚。名重華。字都君。顓頊六代孫。龍顏大口。目有重瞳。年二十以孝聞於天下。三十登庸南巡。崩於蒼梧。壽一百五十矣)王土德。都蒲坂(今河中府)堯時攝政二十八年。通治五十年(丙午即真終乙未。葬九疑山。諡仁聖惠明曰舜)詠南風詩。舉十六相(謂八凱八元也)去四兇(左傳曰。驩兇黃帝子。不才人也。掩義隱德。好行兇暴。謂之渾敦。共工少昊。不才子也。毀信廢忠崇飾惡言。謂之窮奇。鯀顓頊。不才子也。傲狠明德。以亂天常。謂之禱機三苗。黃帝之臣縉雲氏不才子。貪于飲食。冐于貨利。謂之饕餮也)。臣倕造漆器。使皐陶斷獄定五刑(書曰。五刑起自舜代。鄭注。禮曰。墨謂刲額涅之以墨。非事出入。不以道義者。以此加之。劓即去鼻。革輿服改制度者。以此加之。剕乃刖足。決關渠踰城郭。以此加之。宮謂男去其勢女閉幽室。男女不以禮義交通者。以此加之。大辟死罪也。寇盜劫掠者。以此加之)作韶樂造總章(韶有九數十一。堂上樂有六。謂柷如如漆桶。方二尺四寸。深一尺八寸。中有椎柄。以此起樂也。敔如伏虎。背上為二十四鉏鋙。刻以木長尺許。法三九陽數之窮。戞之以止樂也。琴長三尺六寸。象三百六十日。廣六寸。象六合。上竅曰池。下竅曰濱。前廣後狹。象尊卑也。上員下方。法天地七絃。鍊朱絲為之。長七尺二寸。法七十二候。有說。周文武王。足五絃琴成七絃。大小二絃以合君臣之思矣。風俗通云。琴者樂之統也。君子御之不離於身。非若鍾鼓陳于宮廟列於簨?也。以其大小得中而聲韻和雅。大不諠譁而流漫。小不湮滅而不聞。足以發人之意氣也。瑟如前注。搏拊形如鼓。以韋為之。實之以糠。擊之以節。樂球玉也。為磬擊之使鳴也○堂下樂有五。簫如鳳翼。編竹為之。長一尺五寸。大者二十三管曰凋簫。小者十六管曰雅簫。周禮。有二雅簫。長一尺四寸。二十四管煩簫。二十三管洞簫。長一尺二寸。[(凵@(暴-(日/共)))/(敲-高+壴)]鼓持柄搖之旁耳。自擊鏞大鍾也。笙如前注。管竹為之。而有七孔也)立十二州。葬用瓦棺(少昊之前。天下之號象其德。顓頊以來。天下之號因其名。若高陽高辛。皆所興之地。劉氏外紀以三皇五帝之號為俗傳)。
三王(中庸子曰。王往也。加以刑防政。諡仁義所往之謂王)謂夏商周三代。
夏 雷氏曰(禹啟三康相宁槐芒泄隆局廑甲皐發桀。主合十七。四百三二)。
(十七 甲子 七) 夏后氏(姓姒。名文命。字高密黃帝八代孫。鯀之子。號禹王。初舜舉禹治水。不貴尺璧而重寸陰。三過其門而不入)王金德。都安邑(今均州遷陽翟)為堯司徒(地官也。鄭注。一吏部尚書。亦曰天官。冡宰太宰。二兵部尚書。夏官。亦名大司馬。三戶部。地官。亦曰大司徒。四刑部。秋官亦曰大司寇。五禮部。春官。亦曰銓長六工部。冬官。亦曰大司空。禹乃第三部)治水十二年。乘四載(陸行車。水行舡。泥行橇。山行輦)開九州(冀州東河西。西河南。南河北。兗州東南據濟。西北距河。青州東北海。西南距岱。徐州東至海。北至岱。南及淮。楊州北距淮。南距淮。荊州北山據荊。南及衡陽。豫州西南據荊。北距河。梁州東距華山。西據黑水。雍州西距黑水。東據龍門。西河通九道。陂九澤。度九山。決九川。堯錫玄圭告厥成功。舜薦之于天下為嗣焉)在位十六年(始甲戌終己酉。東巡至會稽崩。壽一百年。諡受禪。成功曰禹)號年曰歲。建寅為正。作大夏樂。葬用?(燒土為之。時有防風氏。長四十尺)。
(甲子 八) 啟禹之子(母化為石一云生石中)癸未立在位九年(一云十年)郊禘祖宗(禘黃帝 文祖 郊鯀 配天祖 祖顓頊 配文祖 太祖 宗禹 父)啟祀立廟祧壇 太祖禹(二昭二穆)五廟。
(甲子 九) 太康(啟之子。畋于洛十旬不返。五子作歌風之。遂失其位)壬辰立。治二十九年。
仲康(太康之弟)辛酉即位。
帝相(仲康子。徙都商丘。為有窮后羿所殺而篡其位。治二十八年。羿立。二年為臣寒浞所殺。寒浞殺羿自立。十年復為夏臣靡誅之已上三主。通合四十年)。
(甲子 十) 少康(相之子。母曰有仍氏。有田一成。有眾一旅。滅于獟?。還禹舊邦。是為中興)。
癸未立。治四十九年(作箕箒秣酒)宁(少康子)癸卯立。治十七年。
槐(宁之子)庚申立。在位二十六年。
芒(槐之子)丙戌立。治十八年。
(甲子 十一) 泄(芒之子)甲辰立。在位十六年。
不降(泄之子)庚申即位。治五十九年。
扃(不降弟)己未立。在位二十一年。
(甲子 十二) 廑(扃之子)庚辰即位。治二十年。
孔甲(不降子。好事鬼神。淫亂。夏氏德衰。諸侯叛之)幸丑立。在位三十一年(湯王始生)。
(甲子 十三) 皐(孔甲之子)壬申立。治十一年。
發(皐之子)癸未即位。治十年(一云十一)。
桀(發之子。名履癸。嬖有施氏女曰未喜。淫湎暴虐荒色迷酒。峻宇彫牆民墜塗炭。以諫為妖。殺關龍逢焚黃圖)。
(甲子 十四) (二臣。大廢夏道。時有二日閉明晦自分。湯伐之放于南巢而死諡賊仁多殺曰桀)壬寅即位。都安邑。治五十二年。
凡十七代。通四百三十二年。
(十八) 殷 雷氏曰(降及殷湯外丙仲壬太甲沃丁太庚小甲雍已太戊仲丁外壬河亶甲祖乙祖辛沃甲祖丁南庚陽甲盤庚小辛小乙武丁祖庚祖甲廩辛庚丁武乙太丁帝乙。帝辛。王三十主。六百二九)。
(甲子 十五) 湯(姓子氏。其先高辛子契十四世孫。始祖[├/(咼-┌+乂)]為堯司徒官)王水德。都亳(今偃師縣即毅熟也)昭明○相土○昌生○曹圍○冥○振○微○報丁○報乙○報丙○主壬○主癸(生子履也)王名履(字天乙。以乙日生也。黃帝二十一代孫。其先契。母簡狄。吞於玄卵。剖背而生。契以玄鳥因子而生。故姓子氏。有改祝德及禽獸矣)夏桀不道。舉伊尹為相。伐之承祚。東征西怨南征北怨。大旱七年。自責六過燒身。乃雨。乙未立。大治十三年。壽一百歲建丑為正。號年曰祀(諡曰除虐去殘)代有彭祖(姓籛。名鏗。賢大夫也。壽八百歲。好述古事。諡曰彭祖)。
外丙(湯次子)治三年○仲壬(外丙弟)治四年。
太甲(湯長孫。太丁子。立而不明。伊尹放諸桐宮。三年悔過。復迎歸亳。政其位)治三十三年。立廟六([├/(咼-┌+乂)]二昭湯二穆)太甲郊祀祖宗(禘帝嚳文祖 郊冥配天祖 祖契 配文祖太祖 宗湯 父)太甲祀。
(甲子 十六) 沃丁(太甲子)辛巳立。治三十年(八年伊尹卒)。
太庚(沃丁弟)治三十年(一云二十五年。古今紀三十五年)。
(甲子 十七) 小甲(太庚子)治十七年(七年二月甲申朔起曆)。
雍己(小甲之弟殷道廢)治十二年。
(甲子 十八) 太戊(雍己弟。初立不道。諸侯叛之。以伊尹子陟為相。殷道復興)治七十五年。
仲丁(太戊子自亳遷開封陳留)治一十七年(一云十一)。
(甲子 十九) 外壬(仲丁弟)治十五年○河亶甲(外壬弟復遷于相殷又衰)治九年。
祖乙(亶甲子又遷于耿。今河東皮氏縣。巫賢任職興)治一十九年。
(甲子 二十) 祖辛(乙之子)治十六年○沃甲(祖辛弟)治二十五年。
祖丁(沃甲兄祖辛弟)治二十五年○南庚(沃甲子)治二十九年。
陽甲(祖丁子)治十七年。
(甲子 二一) 盤庚(陽甲弟。改殷曰商。復遷都于亳)治十八年。
小辛(盤庚弟)治二十一年(殷道衰。百姓思先帝。作盤庚三篇)。
(甲子 二二) 小乙(小辛之弟)治二十二年。
武丁(小乙子。以傳說為相。修德布政。天下咸歡。書曰。高宗諒闇三年君不言。禮云。三年之喪君不言。百官咸聽冡宰)治五十九年。壽一百歲。廟號高宗。
(甲子 二三) 祖庚(武丁子)治七年○祖甲(祖庚弟商道廢)治十六年。
廩辛(祖甲子)治六年○庚丁(廩辛弟。遷于朝歌。今衛州界)治二十一年。
武乙(庚丁子。不道慢神虐民。獵河渭間。暴雷震死)治四年。
(甲子 二四) 太丁(武乙子)治三年○帝乙(太丁子商道衰)治三十七年。
(甲子 二五) 紂辛。一名受(帝乙之子。微子啟弟。啟之母賤。在朝不得嗣位。辛母正后。承祚不道。內嬖妲己。外用惡來。設酒池肉林糟丘。使男女裸形相逐其間。作長夜宮。計一百二十日為一晝夜。制炮烙刑熱熨斗。衣寶玉衣剖賢人之心。斮朝涉之脛。諸侯叛亂。武王克之。以衣蒙頭。赴火而死)治三十一年(諡曰殘義損善曰紂)殷有三仁(箕子微子叔比干也)丁位即位。
凡三十主通六百二十九年。
周 雷氏曰(下迨有周文武成康昭穆共懿孝夷厲宣幽檇平桓莊僖惠襄頃匡定簡靈景悼敬元貞哀考威烈安夷顯聖慎靚赧歸。秦王三十。七八百六七)。
(十九 甲子 二六) 文王(姓姬氏至武王都于鎬。今京兆)王木德。其先起于后稷(帝嚳之妃姜嫄。履大人迹而生。多有異相。棄之阨巷。牛馬不踐。移山獸育。置水禽養。復收而育。故名棄姓。好種植事。堯為稷官。功封于邰。曰后稷也)不窋○鞠○公劉○慶節○皇僕○差弗○毀渝○公非○高圉○亞圉○公祖類○太王亶父(一曰古公)生三子太伯虞仲季歷(文王父也。初國于豳。古公遷于岐伯仲知古公欲立季歷以傳昌。乃奔荊蠻。果立歷以傳昌也。古今記世紀有異于史記。)王名昌(季歷子。一名大王。少子都豐為紂西伯。大有賢德)在位五十年(壽九十七。諡忠信接禮曰文)重八卦之爻為周易T49p0493_01.gif乾六宮數有九三十六老陽也T49p0493_02.gif坎一宮七數二十二少陽也T49p0493_03.gif艮八宮七數二十八少陽也T49p0493_04.gif震三宮七數二十八少陽也T49p0493_05.gif巽四宮八數三十二少陰也T49p0493_06.gif離九宮八數三十二少陰T49p0493_07.gif坤二宮六數二十四老陰T49p0493_08.gif兌七宮八數三十二少陰。每卦有六爻六神名。主吉凶之事。謂青龍朱雀白虎玄武騰蛇勾陳。
(甲子 二七) 伯夷叔齊(姓墨。孤竹君子)聞西伯善養老。歸之(虞芮有爭愬于西伯。又請紂去炮烙之刑)。
(二十) 武王發(文王子周公兄)既立。以太公望為師。周公旦為輔。召畢之徒為左右。同謀伐紂。起兵洧水。諸侯不期會者八百。皆云。紂可伐矣。戊午日兵臨孟津。癸亥夜陳于商郊。甲子戰于牧野。前徒倒戈血流漂杵。既克殷。大定天下(歸馬華山之陽。放牛桃林之下)倒載干戈。在位七年(壽九十三。葬于鎬。諡克定禍亂曰武)禮曰。天下有王。分地建國置都立邑(古制。王畿千里。公百里。侯七十里。伯子男各五十里。不及曰附庸。周置王畿千里。公五百里。侯四百里。伯三百里。子二百里。男一百里。不及曰附庸)葬之以翣(世本曰。武王作翣。其形如扇。置牆以飾棺)乙卯立。建子為正。
十四國諸侯(隨王代封各出其次)雷氏曰(鄭宋晉吳衛秦齊魯陳杞曹蔡燕召楚蠻。諸侯十四)。
吳太伯(太王子。與弟虞仲奔于荊蠻。斷髮文身示不可用。以辟季歷。荊人立為君。號曰勾。吳。武王克殷。封章為吳章。至壽夢十九世稱王夢生四子。次曰季扎。大有賢德。欲立扎。扎讓兄諸礬。吳人同立扎。扎又舍之。至餘祭立封扎于延陵。自太伯至夫差。二十五世。越王勾踐滅之。周章至夫差。二十一君。六百五十五年。敬王時也)列子曰。昔吳太宰問孔子曰(夫子聖者與。曰丘博識強記。非聖人也。三王聖者與。曰三王善用智勇。聖非丘所知。五帝聖者與。曰五帝善用仁信。聖則非丘所知。三皇聖者與。曰三皇善用時政。聖則丘弗知。太宰嚭駭曰。然則孰為聖者與。夫子有閒動容而對曰。西方有聖者焉。不治而不亂。不言而自信。不化而自行。蕩蕩乎民無能名焉)。
齊太公望(亦名呂尚。東海人也。本姓姜氏。其先佐禹治水有功封于呂。文王卜得飛熊之兆。獵渭而會。曰吾望子久矣。因名呂望。一名武師。伐紂。亦名尚父。封于營丘。今青州臨淄也。至小白稱桓公。始覇。自太公下。丁公呂伋乙公癸公哀公胡公獻公武公厲公文公成公莊公釐公襄公桓公孝公昭公懿公惠公傾公靈公莊公景公儒子悼公簡公平公宣公康為田和篡滅。共三十君七百四十七年。當周安王十七年也)管仲鮑叔甯戚晏子之徒(景公之前後也)。
陳胡公滿(有虞之後。姓媯氏。昔舜為庶人。堯妻二女居于媯妠因以為姓。武王克殷。乃求舜後。得滿。封于陳以奉舜祀。是為胡公。自胡公下。申桓孝慎幽釐武英平文桓厲莊宣穆共靈成哀惠懷湣。二十三君。六百五十三年。敬王四十一年。為楚滅之也)。
祀東樓公(夏禹之後。殷時或封或絕。武王克殷于祀陳留。雍丘縣是也。自東樓公。至簡公春。一十九君。五百三十九年。定王二十四年楚惠滅之)。
曹叔振鐸(文王第六子。武王弟。封之于曹。今濟陽定陶縣也。至伯陽。好田弋。怠政而亡。後曹伯背晉于宋。自振鐸下。太伯仲君宮伯孝伯夷伯幽公戴伯惠伯顧伯穆公桓莊僖昭共文宣成武平悼襄隱靖伯陽。二十六世。六百四十五年。敬王三十三年。為宋景公滅之也)。
蔡叔度(文王第五子。武王弟。克殷後。封叔鮮于管。封度于蔡。使二相紂子武庚。一名祿父。治殷餘民。自度至侯齊。二十七君。五百二十七年。當定王時。為楚滅之)。
魯周公旦(文王第四子。武王克殷。封少昊之墟。今兗州仙源縣也。公不就。留佐武王。武王崩後輔成王。使子伯禽代就于魯。公誡曰。我文王子。武王弟。成王叔。于天下亦不賤矣。然我一沐三握髮。一食三吐哺。起以待士。恐失天下賢人。子之魯。母以國驕人。伯禽受命于魯。自伯禽下。考煬幽魏厲獻真武懿伯御孝惠隱桓莊閔僖文宣成襄昭定哀悼元穆共康景平文傾。三十四君。九百一十五年。至秦莊襄元年楚考烈王滅之○隱公春秋始哀公卒。哀公十六年孔子卒)。
燕召公奭(與周同姓。武王克殷。封于燕。成王時。召為三公。主陝西。甚得兆民之意。巡行鄉邑。有甘棠樹。決獄其下。召卒民思伯。不敢伐之。作甘棠詩焉。自公之下。元世王惠侯釐傾哀鄭繆宣桓莊襄桓宣昭武文懿惠悼元平簡獻孝成湣釐桓文易王子噲昭惠武成孝今喜。三十七君。八百九十四年。秦始皇滅之)。
(二十一) 成王誦(武王子都于洛)年十三即位。周公攝政。制禮作樂。天下和睦。七年歸政于王。卜世三十。卜年七百。治四十七年。周公定君臣禮樂成王褒之。制三公(太師太傅太保)九卿(一太常主音樂。二光祿主酒饌。三大理主刑律。四宗正主皇親。五太府主庫藏。六司農主種植。七鴻臚主蕃客。八太僕主車馬。九衛尉主敷設)二十七大夫(九品各三)八十一元士。重定五刑立七廟制。禮曰(王制。天子七廟。三昭三穆與太祖之廟而七。注曰。此周制。七廟太祖及文武二祧與清廟四七。太祖社稷也。昭明也。察下為義。穆肅也。敬上為義。太祖居西面東。三昭面南。三穆面北。凡穆主藏文廟。昭主藏武廟。有禱出主祭于壇。文武二祧朝享之。皆四孟月○五代祖主藏之于祧有禱則出遷祭之。無禱乃止矣)。
T49p0494_01.gif
祭法曰(凡祭有四。春祭曰?薄也。夏祭曰禘弟也。秋祭曰甞。嗜百穀味。冬祭曰烝進也。品物進之。天子祭天地。一年九祭。三祭昊天。六祭五方。大帝。諸侯祭社稷。大夫祭五祀。司命中?門行厲五也○諸侯五廟。太祖與二昭二穆。大夫三廟。太祖與一昭一穆適士官師二廟。庶士一廟。庶人無廟。祭之于寢矣)郊禘祖宗(禘帝嚳文祖配文祖太祖○郊稷配天亦祖文王 宗武王 父也)成王祭三(天曰祭。地曰祀。人鬼曰享也)明堂制(布政之宮也。在國之陽三里之外。七里之內。丙巳之地。東西九筵。南北七筵。東西凡五室。南北亦然。上員法天。下方法地。八窓象八風。四闥法四時。九室法九州十二階法十二月。三十六戶法三十六旬。七十二牖法七十二氣。四廟九室十三位也)制冕旒袞服(有十二章)○○T49p0494_02.gif日月星辰(三象其明)龍(象其變化表聖人德)華蟲(雉也象其文也)T49p0494_03.gif(宗彝宗庶虎蚔之蜼也。象其其孝)藻(水草也象其潔)粉米(為米而粉象其養人)山(貴靜取其性不取其勢也)火(以圓也取其神不取其銳)T49p0494_04.gif(白與黑謂之黼。為之斧形取其善斷)T49p0494_05.gif(黑與青謂之黻。兩巳相背取其能辨。是以繪繡服上)丙戌即位。
(二十二) 稷神(昔厲山氏之子。名桂善植五穀。夏禹之前。皆配祀稷。周公后稷代之。自周而下。皆配祀矣。五穀之長。祀以報其功也。五穀者。稻梁菽麻麥。分成百也)。
(二十三) 宋晉衛楚四國成王封(同姓者。長曰伯父。幼曰叔父。異姓者。長曰伯舅。幼曰叔舅)。
宋微子啟(紂之庶兄。武既克殷。啟乃持祭器造于軍門。袒肉面伏。左牽羊右把茅。膝行而前。武王遂釋微子。封紂子武庚以續殷祀。使管蔡二叔傅之。武王崩。周公輔成王。殷叛王命誅武庚。乃封啟代殷為宋。今睢陽也。後至襄公。始覇。自啟下。微仲稽丁湣湯厲釐惠襄戴武宣穆殤莊湣姑桓襄成昭文共平元景昭悼伏辟別成。偃公稱王淫亂無道。諸侯與齊魏楚伐之三分其地。凡三十三君。八百三十年。當周赧王三十九年也)。
晉叔虞(字子干。武王子。成王弟。成王與叔虞戲削桐葉為圭。以與虞曰。以此封君。史佚因請擇日立叔虞。王曰。吾與戲焉。佚曰。天子無戲言。遂封于唐。今河東皮氏也。叔虞子爕是為晉侯。至獻公滅虢始都。後文公重耳始覇。自叔虞下。爕武成厲靖釐獻穆殤文昭孝鄂哀湣獻惠懷文襄靈成景厲悼平昭頃定出哀幽烈孝靜公也。三十六君。七百四十九年。安王時韓魏趙滅之)。
衛康叔(文王第九子。武王同母弟。成王以殷餘民。封康叔為衛公。居河淇之間。故商墟也。至元公徙野王縣。今河內也。自康叔下。康伯孝嗣康靖真頃釐共武莊桓宣惠辛懿文成共穆定獻殤襄靈出莊班起悼敬昭懷慎聲成平公嗣懷元君角。凡四十三君。九百年也。秦二世廢君角為庶人)。
楚熊繹(顓頊之後。至季連以勞為氏。後裔熊繹也。成王舉文武勤勞之後嗣。封繹于楚蠻。今江陵枝江縣也。至申君徙都壽春。自繹至負芻。二十五君。計七百八十九年。歸秦)。
(二十四) 康王釗(成王子)召畢二公。受顧命而相之。二世安寧。刑錯不用四十餘年。治五十二年。癸亥即位。
佛祖歷代通載卷第二
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第三
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
周
(一 己丑癸丑) 昭王瑕(康王子。王道微缺。因南巡狩乘膠船沈於水)治五十一年。
二十五年四月八日。大聖現白象瑞。七支案地乘雲而下。降神大術胎中。右脇而住。豈若虹樞現表厥命世者也。
(二 甲寅) 二月八日。世尊生于迦毘羅衛國藍毘尼園沙羅叉樹下。從母摩耶夫人右脇而出。姓剎利。父淨飯天。母大清淨。生時九龍吐水。金盤沐已周行七步。自言。吾受最後生身。天上天下唯吾獨尊。相好莊嚴具三十二大人之相。諸經有別(且依一文。三十二者。一足下平滿。二千輻輪紋。三手柔軟如兜羅綿。四指間網鞔猶如鵝王。五諸指纖長。六足跟充滿。七足趺相承。八雙臂修直。九雙腨圓滿如伊尼延鹿王。十陰峯藏密如象馬王。十一毛青右旋。十二髮毛上靡。十三身皮金色。十四皮閏離垢。十五七處充滿。十六肩項殊妙。十七膊腋?直。十八容儀紅滿。十九身相端嚴。二十量圓孤柳。二十一頷臆獅子。二十二常光一尋。二十三齒白齊密。二十四牙鮮鋒利。二十五常得上味。二十六舌覆面輪。二十七梵音頻伽。二十八眼睫紺青。二十九眼睛如牛王。三十面如滿月。三十一眉間白毫。三十二烏瑟膩吒猶如天蓋。更有八十隨好。具如般若等說)。
(丙辰) 太子三歲。父王携謁天神廟。神像起立。王驚嘆曰。天中天。
(庚申) 太子七歲。詣師習世間書典。
(三 癸亥甲子) 太子十歲。與兄弟捔力。以手擲象城外。射透銕鼓九重。世尊示出家。太子出遊四門。見生老病死者。北門見出家人生欣樂心。二月八日夜。淨居天報言。太子出家時至。遂乘馬逾城。至檀特山拔劍斬髮入彌樓山阿藍迦處習不用處定。
(戊寅) 今依六年苦行三十成道之教也。有說。十二月八日出家。諸部說異。玄贊疏云。總會諸文而為二說。一云諸部說。十九出家三十成道。本起因緣經。亦十九歲。思惟無相三昧經。三十成道。智論。亦十九。不說成道時。佛住世實八十年。有會。十九出家。五年事仙人行樂行。六年行苦行。三十成道。智論用此。二云。亦有諸部及大乘說。二十九出家。三十五成道。增一中雜三阿含經出曜經和須密論。並說二十九。悲華經善見論說三十五成道。本起經云。三十五也。菩提流支引經偈云。八年作嬰兒。七年作童子。四年學五明。十年受五欲。六年行苦行。三十五成道。四十五年中。教化諸眾生。真諦及西域記並同此說。金光明經報恩經等。同說佛壽八十年也。甲子但七十九年。略釋偈曰(言五明者。瑜伽釋云○一者內明有二種。相一顯示正因果相。二已作不失未作不得相○二者因明有二種相。一示摧伏他論勝利相。二示免脫他論勝利相○三者聲明亦有二相。二示安立字界及能成立相。二示語工巧勝利相○四醫方明有四種相。一示病體善巧相。二示病因善巧相。三示斷已更生善巧相。四示斷已不生善巧相○五者工巧明善諸世法○三端六義等。言三端者。一文筆。二武鋒。三辨舌也。六義者一禮。長幼謙謹二樂風俗正變。三書。八體六書。四數。窮知稊壤。五射。能開弓弩。六御。善調象馬。世尊在宮為太子時。性自仁賢。曰禮。通諸風俗。曰樂。六十四書悉曉。曰書。百二十數並窮。曰數。透九重銕鼓。曰射。擲塞門大象。曰御。餘如經論廣陳)。
(四 庚辰) 穆王滿(昭王子)用造父為御。乘乎八駿。日行千里(具如周史)治五十五年(五十歲即位壽一百四年)作甫刑(王命甫侯呂級入為司寇。增輕減重。約五刑為三千。墨劓各一千。剕五百。宮三百。大辟二百。孝經甫刑是)傀儡(乃偃師之作始獻于王也)化人(北山曰。王時西極有化人來。反山州移城邑。入水火貫金石。千變萬化不可窮矣。王敬之若聖。築中天臺以居之。乃曼殊室利目連等示相也。然王未知是佛弟子)。
(五 癸未) 世尊示成道。苦行六年既滿。沐於熙泥連河。受牧牛女之乳糜。納吉祥之軟草詣菩提樹王坐金剛座上三十四心示成正覺。號天人師。具一切智。住世垂訓四十九年。說法三時初中後善。以有空言破空有執。二邊既離中道斯存。俾利鈍機發修自行。故演而伸之。為八萬四千之法藏也。博施濟眾因果張焉。斷惡懲善聖凡別矣。群生自茲有仗也。
(甲申) 初入鹿苑度五比丘。度優樓頻羅迦葉千人出家。
(乙酉) 佛象頭山。為龍鬼說法等。
(丙戌) 佛度舍利弗目犍連二百五十人出家。
(丁亥) 須達長者布金。買祇陀園。建寺奉佛。
(戊子) 佛在拘耶尼國。為婆陀和菩薩。說苦行般若等經。
(己丑) 佛在柳山。為純真陀羅王等說法。
(庚寅) 佛在穢澤。為阿掘摩說法。及升忉利天。
(六) 栴檀像始建。世尊成道八年上忉利天。為母說法。經九十日。優闐國王思慕如來。命大目連及毘首羯摩天化為匠人。詣天宮摹佛相好。以栴檀香木刻像供養。既而夏滿下降中天。王及大臣及國人民同往迎佛。其像騰空向佛問訊。佛為摩頂受記曰。我滅度千年以後。汝往震旦廣利人天。
(辛卯) 佛還摩竭國。為弗沙王說法等。
(七 壬辰) 佛為彌勒說修行本起經。
(癸巳) 佛還迦毘羅國。為父王說法。普曜經載此。
(戊戌) 佛於欲色二界。說大集等經。
(己亥) 佛始說十六會八部般若等經。
(辛丑) 佛始檢約徒眾。剏置戒律。
(丙午) 佛從弟阿難始出家。
(辛亥) 阿難請佛。度摩訶波闍波底比丘尼等出家。
(甲子辛未 二九) 佛說金光明并法華等經于靈山會上。是年世尊拈花示眾。百萬人天皆茫然。唯金色頭陀破顏微笑。世尊曰。吾有正法眼藏涅槃妙心實相無相微妙法門。分付於汝。汝當護持。并勅阿難副貳傳化。聽吾偈曰。法本法無法。無法法亦法。今付無法時。法法何曾法。爾時世尊說此偈已。復告迦葉。吾將金縷僧伽黎傳付於汝。轉授補處慈氏。毋令斷絕(拈花一事荊國王公對佛惠禪師泉萬卷言。親見於梵王問佛經中。具載。但此經多言國家帝王之事。藏之祕府。世故罕聞)。
(八 壬申) 二月十五日。世尊示涅槃。應世七十九年。化緣周畢。於拘尸羅國金沙跋提河間娑羅雙樹下。說涅槃經及遺教經已。安住常寂滅光。名大涅槃右脇而臥。於中夜寂然無聲。闍維得舍利八斛四斗(涅槃經前後分具明)時有白虹一十二道南北貫通。連宵不滅。穆王問太史扈多曰。是何徵也。對曰。西方有大聖人。滅度衰相現也。王曰。朕常患此。今既滅度。更何憂耶。西土諸王以香木闍維分身建塔。震旦計十九處。
(乙亥) 共王繄扈(穆王子)有聖德治十二年(王嘗游于涇上。密康公從有三女奔。康公受之而不以獻。王遂滅密)。
(丁亥) 懿王囏(共王子)周室衰(詩人刺之遷都槐里。又遷廢丘)治二十五年(齊五世。哀公荒淫王命烹之。作變風刺之)。
(九 壬子) 孝王辟方(共王弟懿王叔)王時外國有進二尺虎又進四角犀。治十五年。
(十 丙辰) 第一祖摩訶迦葉。摩竭陀國人也。姓婆羅門。父飲澤。母香志。昔為鍛金師。善明金性使其柔伏。付法傳云。甞於久遠劫中。毘婆尸佛入涅槃後。四眾起塔。塔中像面上金色有少缺壞。時有貧女。將金珠往金師所。請飾佛面。既而因共發願。願我二人為無姻夫妻。由是因緣九十一劫身皆金色。後生梵天。天壽盡生中天摩竭陀國婆羅門家。名曰迦葉波。此云飲光勝尊。蓋以金色為號也。繇是志求出家冀度諸有。佛言善來比丘。鬚髮自除袈裟著體。常於眾中稱歎第一。復言。吾以清淨法眼將付於汝。汝可流布無令斷絕。涅槃經云。爾時世尊欲涅槃時。迦葉不在眾會(嵩禪師正宗記評曰。昔涅槃會之初。如來告諸比丘曰。汝等不應作如是語。我今所有無上正法。悉已付囑摩訶迦葉。是迦葉者。當為汝等作大依止。然正宗者聖人密相傳授。不可必知其處與時也。以經酌之則法華先而涅槃後也。方說法華迦葉預焉。及涅槃而不在其會。吾謂付法之時其在二經之間耳。或謂。靈山拈花。又曰。付法於多子塔前。然此未見所出。吾雖稍取亦不敢果以為審也)佛告諸大弟子。迦葉來時。可令宣揚正法眼藏。爾時迦葉在耆闍崛山賓鉢羅窟。覩勝光明。即入三昧以淨天眼觀見世尊於熙連河側入般涅槃。乃告其徒曰。如來涅槃也。何其駛哉。即至雙樹間悲戀號泣。佛於金棺內現雙足。爾時迦葉告諸比丘。佛已茶毘。金剛舍利非我等事。我等宜當結集法眼無令斷絕。乃說偈曰。如來弟子且莫涅槃。得神通者當赴結集。於是得神通者悉集王舍耆闍崛山賓鉢羅窟。時阿難為漏未盡。不得入會。後證阿羅漢果。由是得入。迦葉乃白眾言。此阿難比丘。多聞總持有大智慧。常隨如來梵行清淨。所聞佛法如水傳器無有遺餘。佛所讚歎聰敏第一。宜可請彼集修多羅藏。大眾默然。迦葉告阿難曰。汝今宜宣法眼。阿難聞語信受。觀察眾心而宣偈言。比丘諸眷屬。離佛不莊嚴。猶如虛空中。眾星之無月。說是偈已。禮眾僧足升法座而說是言。如是我聞一時佛住某處說某經教。乃至人天等作禮奉行。時迦葉問諸比丘。阿難所言不錯謬乎。皆曰。不異世尊所說。迦葉乃告阿難言。我今年不久留。今將正法付囑於汝。汝善守護。聽吾偈言。法法本來法。無法無非法。何於一法中。有法有不法。說是偈已。乃持僧伽黎。
(甲子丁卯 三十) 衣入雞足山。俟慈氏下生。即周孝王五年丙辰歲也。
(十一) 秦非子(其先高陽之後。始女修大業大費佐舜為相。大廉孟戲中衍乃大廉玄孫。鳥身人言。為殷太武之御中潏飛廉惡來秦之先也。後至柏翳佐禹治水有功。舜賜姓嬴氏。後之非子。周孝王使主馬。又大蕃息。封于秦。號曰秦嬴。至德公居雍城。秦州隴城縣也。後穆公始覇。至昭襄稱王自非子下。秦侯公伯秦仲莊平文宣出武德宣城穆康共桓襄惠悼厲躁懷靈簡惠出獻孝惠文王武王昭王。三十二君。六百三十八年也)。
夷王爕(懿王次子。周室陵遲。諸侯朝朔。下堂迎之。治十六年)。
(十二 癸未) 厲王胡(夷王子。暴虐無道。國人叛之。襲殺于彘。通周召五十一年)。
(十三 癸巳) 二祖阿難。王舍城人也。姓剎利帝。父斛飯王。實佛之從弟也。梵語阿難陀。此云慶喜。亦云歡喜。如來成道夜生。因為之名。多聞博達智慧無礙。世尊以為總持第一。甞所讚歎。加以夙世有大功德。受持法藏如水傳器。佛乃命為侍者。後阿闍世王白言。仁者。如來迦葉尊勝二師皆已涅槃。而我多故悉不能覩。仁者。般涅槃時願垂告別。阿難許之。後自念言。我身危脆猶如聚沫。況復衰老豈能長久。又念。阿闍世王與吾有約。乃詣王宮告之曰。吾欲入涅槃。故來辭耳。門者曰。王寢不可以聞。阿難曰。俟王覺時當為我說。時王夢中見一寶蓋七寶嚴飾。千萬億眾圍繞瞻仰。俄而風雨暴至吹折其柄。珍寶瓔珞悉墜於地。心甚驚異。既寤門者具白上事。王聞語已失聲號慟哀感天地。即至毘舍離城。見阿難在恒河中流跏趺而坐。王乃作禮而說偈言。稽首三界尊。棄我而至此。暫憑悲願力。且莫般涅槃。時毘舍離王亦在河側。復說偈言。尊者一何速。而歸寂滅場。頭住須臾間。而受於供養。爾時阿難見二國王咸來勸請。乃說偈言。二王善嚴住。勿為苦悲戀。涅槃當我淨。而無諸有故。阿難復念。我若偏向一國而般涅槃。諸國爭競。無有是處。應以平等度諸有情。遂於恒河中流將入寂滅。是時山河大地六種震動。雪山中五百仙人覩茲瑞應飛空而至。禮阿難足胡跪白言。我於長老當證佛法。願垂大慈度脫我等。阿難默然受請。即變殑伽河。悉為金地。為其仙眾說諸大法。阿難復念。先所度脫弟子應當來集。須臾五百羅漢從空而下。為諸仙人出家受具。其仙眾中有二羅漢。一名商那和修。二名末田底迦。阿難知是法器乃告之曰。昔如來以大法眼傳大迦葉。迦葉入定而傳於我。我今將滅。用傳於汝。汝受吾教。當聽偈言。本來傳有法傳了言無法。各各須自悟。悟了無無法。阿難傳法眼藏竟。踊身虛空作十八變。入風奮迅三昧。分身四分。一分奉忉利天。一分奉娑竭羅龍宮。一分奉毘舍離王。一分奉阿闍世王。各建寶塔而供養之。乃厲王十年癸巳歲也。
(辛亥) 世尊入滅一百年矣。
(十四) 傳曰。百歲已前。人傳雖異法味一如。五師傳教首迦葉波。傳之阿難。阿難傳商那和修。商傳優波毱多。優傳末田底迦。自此百年之後。法疎一味水乳兩和。析㲲分金各宗異見。源流派別二部斯興。一上座部。二大眾部。三百年來展轉分破。大眾本末別成九部。大眾部。一說部。說出世部。雞胤部。多聞部。說假部。制多山部。西山住部。北山住部○上座本末成十一部。說一切有部。上座部。犢子部。法上部。賢胄部。正量部。密林山部化地部。法藏部。飲光部。經量部。嗚呼正法加絲以麻。嘉謨增乳以水。慕道者惑于異端。孰非曷是。悲哉。
(庚申甲子) 共和元年王崩(王時不道濫謗。百姓不言政道。路相逢視之以目。由是作亂。叛王子彘。在政三十七年。周召二伯行政。號共和。凡十四年)。
(十五 甲戌) 宣王靖(厲王子。初王奔彘。太子匿召公家。國人圍之。公以子代之。太子方得脫。既長周召二伯立之為王。修文武成康之風。諸侯復宗周。時天下大旱。王自責身六年乃雨)治四十六年。王臣史籀改蒼頡古文為大篆(今岐下石鼓有數字至宋蘇軾辨得幾字)。
(乙未) 鄭桓公友(厲王少子。宣王之弟。初封鄭。今華陰縣。後徙榮陽。今新鄭是。至幽公弟君乙為君。自桓下。武莊厲昭亹嬰厲穆靈襄悼成釐簡定獻聲哀共濡君乙。凡二十三君。二百八十一年)。
(十六) 第三祖商那和修。摩突羅國人也。亦名舍那婆斯。姓毘舍多。父林勝。母憍奢邪。在胎六年而生。梵云商諾迦。此云自然服。即西域九枝秀草名也。若羅漢聖人降生。則此草生於淨地。祖生時瑞草斯應。昔如來行化至摩突羅國。見一青林枝葉茂盛。語阿難曰。此林地名優留茶。吾滅度後一百年。有比丘商那和修。於此地轉妙法輪。後百歲果誕祖。出家證道。受慶喜尊者法眼化導有情。及止此林降二火龍歸順佛教。龍因施地以建梵宮。祖化緣既久。思傳正法。尋於吒利國。得優波毱多。以為給侍。因問毱多曰。汝年幾邪。答曰。我年十七。祖曰。汝身十七性十七耶。答曰。師髮已白。為髮白耶心白耶。祖曰。我但髮白。非心白耳。曰我身十七。非性十七也。和修知是法器。三載後遂為落髮受具。乃告曰。昔如來以無上正法眼藏傳囑迦葉。展轉相授而至於我。我今傳汝。勿令斷絕。汝受吾教。聽吾偈言。非法亦非心。無心亦無法。說是心法時。是法非心法。說偈已即隱於罽賓國南象白山中。後於三昧中見弟子毱多有五百徒眾。常多懈慢。祖乃往彼現龍奮迅三昧。以調伏之。而說偈曰。通達非彼此。至聖無長短。汝除輕慢意。疾得阿羅漢。五百比丘聞偈已。依教奉行皆獲無漏。祖乃作十八變。火光三昧用焚其身。毱多收舍利。葬於梵迦羅山。五百比丘各。
(十七 己未) 持一幡迎導。至彼建塔供養。乃宣王二十二年乙未歲。王無辜殺杜伯。一日出畋。見杜伯持弓矢射王中心。墮車折脊而死。事見墨子載也。
(庚申) 幽王宮涅(宣王子。嬖褒姒。生伯服。廢太子與申后而立伯服。褒姒不好笑。王乃舉烽燧大鼓。諸侯皆至。又且無寇。褒姒大笑。王悅後申侯與犬戎同伐王于驪山。復舉烽燧。諸侯不至。遂死山下。乃扶太子宜臼為王。以奉周祀)在位十一年。
(庚午) 携王伯服(幽王庶子。西兵殺王。伯服乃立。國人不順。未經年而廢之)。
東周(二十四主都于洛陽)
(十八 辛未) 平王宜臼(幽王太子申侯立之)東遷洛京以辟難。治五十一年。
(壬申) 諸候寖盛政出方伯。
(辛卯) 世尊示滅二百年矣。
(十九 庚子) 第四祖優波毱多。吒利國人也。亦名優波崛多。又名鄔波毱多。姓首陀。父善意。十七出家二十證果。隨方行化至摩突羅國。得度者甚眾。由是魔宮震動波旬愁怖。遂竭其魔力以害正法。祖即入三昧觀其所由。波旬復伺便。密持瓔珞縻之于頸。及祖出定。乃取人狗蛇三屍化為華鬘。耎言慰諭波旬曰。汝與我瓔珞。甚是珍妙。吾有華髮。以相酬奉。波旬大喜。引頸受之。即變為三種臭屍蟲蛆壞爛。波旬厭惡大生憂惱。盡己神力不能移動。乃升六欲天告諸天王。又詣梵王求其解免。彼各告言。十力弟子所作神變。我輩凡陋何能去之。波旬曰。然則奈何梵王曰。汝可歸心尊者。即能除斷。乃為說偈令其回向曰。若因地倒。還因地起。離地求起。終無其理。波旬受教已。即下天宮禮尊者足。哀露懺悔。毱多告曰。汝自今去。於如來正法更不作嬈害否。波旬曰。我誓回向佛道永斷不善。祖曰。若然者。汝可口自唱言歸依三寶。魔王合掌三唱。華鬘悉除。乃歡喜踊躍。作禮尊者而說偈曰。稽首三昧尊。十力聖弟子。我今願回向。勿令有劣弱。尊者在此化導證果最多。每度一人以一籌置於石室。其室縱十八肘。廣十二肘。充滿其間。最後有一長者子。名曰香眾。來禮尊者志求出家。祖問曰。汝身出家心出家。答曰。我來出家不為身心。祖曰。不為身心復誰出家。曰夫出家者無我我故。無我我故即心不生滅。心不生滅即是常道。諸佛亦常。心無形相其體亦然祖曰。汝當大悟心自通達。宜依佛法僧紹隆聖種。即為剃度受具足戒。仍告之曰。汝父甞夢金日而生汝。可名提多迦。復謂曰。如來以大法眼藏次第傳授。以至於我。今復傳汝。聽吾偈言。心自本來心。本心非有法。有法有本心。非心非本法。傳法已。乃踊身虛空。呈十八變。然復本坐跏趺而逝。多迦以室內籌。用焚其軀。收舍利建塔供養。即平王三十年庚子歲也。
(己未) 王四十九年。乃魯隱公元年。孔子春秋編年始于此。
(二十 壬戌) 桓王林(平王孫太子洩早卒立王)在位二十三年。
(甲子乙酉 三三) 莊王佗(桓王子)在位十五年。
(二十一 己丑) 第五祖提多迦者。摩伽陀國人。初生之時。父夢金日自屋而出照耀天地。前有大山諸寶嚴飾。山頂泉湧滂沱四流。後遇毱多尊者。為解之曰。寶山者。吾身也。泉湧者。法無盡也。日從屋出者。汝今入道之相也。照耀天地者。汝智慧超越也。尊者本名香眾。師因易今名焉。梵語提多迦。此云通真量也。多迦聞師說已。歡喜踊躍而唱偈言。巍巍七寶山。常出智慧泉。迴為真法味。能度諸有緣。毱多尊者亦說偈曰。我法傳於汝。當現大智慧。金日從屋出。照耀於天地。提多迦聞師妙偈設禮奉持。後至中印度。彼國有八千大仙。彌遮迦為首。聞尊者至率眾瞻禮。謂尊者曰。昔與師同生梵天。我遇阿私陀仙人授我仙法。師逢十力弟子修習禪那。自此報分殊塗已經六劫。尊者曰。支離累劫誠哉不虛。今可捨邪歸正以入佛乘。彌遮迦曰。昔阿私陀仙人授我記云。汝却後六劫。當遇同學獲無漏果。今也相遇。非宿緣邪。願師慈悲今我解脫。尊者即度出家命聖授戒。餘仙眾始生我慢。尊者示大神通。於是俱發菩提心一時出家。乃告彌遮迦曰。昔如來以大法眼藏密傳迦葉。展轉相授而至於我。我今傳汝。當護念之。乃說偈曰。通達本法心。無法無非法。悟了同未悟。無心亦無法。說偈踊身虛空作十八變。火光三昧自焚其軀。彌遮迦與八千比丘。同收舍利於班茶山中起塔供養。即莊王五年己丑歲也。
(庚子) 僖王胡齊(莊王子一名釐)治五年○五覇次興(中庸子曰。覇者假也用威刑而防政。使仁義而不湮。秦漢皆覇道也。春秋稱五覇者。左傳曰。齊桓公九合諸侯一匡天下。孔子稱為五覇之首○晉文公召天子於河陽而朝諸侯矣○秦繆公因伐鄭而敗諸崤悔過脩德○宋襄公為鹿上之盟。求諸侯於楚。楚人許之○楚莊王率諸侯伐陳。而立陳靈公。諸侯皆伏矣)。
(乙巳) 惠王閬(僖王子。初莊王嬖姬妃生子頹。頹有寵而後作亂。王奔鄭。鄭伯伐頹殺之立王。時齊桓伐楚子。責包茅不貢入周矣)。
(甲子 三四) 治二十五年。
(二十二 庚午) 襄王鄭(惠王子。子帶作亂。王奔鄭。晉文公殺子帶立王)治三十三年。
(辛未) 世尊入滅三百年矣(此後龍猛菩薩。造中論。等破除有見。後提婆等諸大論師。造百論等。弘闡大義了義燈明)。
(二十三 甲申) 第六祖彌遮迦者。中印度人也。既傳法已。遊化至北天竺國。見雉堞之上有金色祥雲歎曰。斯道人氣也。必有大士為吾法嗣。乃入城。於闤闠間有一人。手持酒器逆而問曰。師何方而來。欲往何所。師曰。從自心來。欲往無處。曰識我手中物否。師曰。此是觸器而負淨者。曰師還識我否。師曰。我即不識。識即非我。又謂曰。汝試自稱名氏。吾當後示本因。彼因說偈而答。我從無量劫。至于生此國。本姓頗羅墮。名字婆須密。師曰。我師提多迦說。世尊昔遊北印度。語阿難言。此國中吾滅後三百年有一聖人。姓頗羅墮。名婆須密。而於禪祖當獲第七。世尊記汝。汝應出家。彼乃置器禮師側立而言曰。我思往劫。甞作檀那獻一如來寶座。彼佛記我云。汝於賢劫釋迦法中宣傳至教。今符師說。願加度脫。師即與披剃復圓戒相。乃告之曰。正法眼藏今傳於汝。勿令斷絕。乃說偈曰。無心無可得。說得不名法。若了心非心。始解心心法。說偈已。入師子奮迅三昧。踊身虛空高七多羅樹。却復本座。化火自焚。婆須密收靈骨貯七寶函。建浮圖寘于上級。即襄王十五年甲申歲也。
(癸卯) 頃王壬臣(襄王子)治六年(楚莊王始覇)。
(己酉) 匡王班(頃王子)在位六年。
(壬子) ○(有云。此年世尊入滅者。破邪論引誤)。
(二十四 乙卯) 定王瑜(匡王子)治二十一年○(楚子問鼎之大小輕重)。
(二十五 丁巳) 老聃氏。於是年九月十四日生于楚國陳郡苦縣賴鄉曲仁里。魏書云。老聃父姓韓名乾字元畢。母曰精敷。二合而娠。孕八十年而生於李樹下。因以為姓。名耳字伯陽。身長四尺六寸。額凸眉麁反唇騫鼻髆尖?闊聃耳髼頭。故諡曰聃。以疑獨之道祕于心。三寶之德資于用。一曰慈。二曰儉。三曰不敢為天下先。景王己卯紫氣浮關。欲往流沙。時有函關令尹喜。知道之人也。乃請言教。老氏遂著道德二篇。合五千言。皆評大道也。既而弗克。至于流沙。薨于槐里。年八十四歲。時有秦佚之弔。三號而出。是知天命殞于周也。
(甲子 三五) 墓在槐里西南三十里渭水之陽。今興平縣也。佛先三百四十五年。
(二十六 辛未) 第七祖婆須密者。北天竺國人也。姓頗羅墮。常服淨衣執酒器游行里閈。或吟或嘯。人謂之狂。及遇彌遮迦尊者宣如來往誌。自惺前緣投器。出家授法。行化至迦摩羅國。廣興佛事。於法座前忽有一智者。自稱我名佛陀難提。今與師論義。師曰。仁者論即不義。義即不論。若擬論義終非義論。難提知師義勝。心即欽伏曰。我願求道霑甘露味。尊者遂與剃度而授具戒。復告之曰。如來正法眼藏我今傳汝。汝常護持。乃說偈曰。心同虛空界。示等虛空法。證得虛空時。無是無非法。尊者即入慈心三昧。時梵王帝釋及諸天眾。俱來作禮而說偈言。賢劫眾聖祖。而當第七位。尊者哀念我。請為宣佛地。尊者從三昧起。示眾云。我所得法而非有故。若識佛地離有無故。說此語已。還入三昧示涅槃相。難提即於本座起七寶塔以葬全身。即定王十七年辛未歲也。
(丙子) 簡王夷(定王子)治十四年。
(丁丑) ○老氏仕周為守藏吏。時年二十二矣。
(己丑) ○老氏遷太史令。時年三十四矣。一云。柱下史。自是五十四年不調。時人目為吏隱也。王十四年。魯襄元也。
(庚寅) 靈王泄心(簡王子)生而有髭。治二十七年。
(二十七 庚戌) 二十一年。老氏五十五歲矣。
(二十八) 孔子生干魯國今兗州鄒邑平鄉晉昌里。實隱公後第九代襄公二十一年冬十一月初四日。按殷本紀。孔子父姓叔梁名紇。為鄒邑宰。先娶鄒氏女。生子孟皮。不才。後娶顏氏女名徵。在夫婦禱尼丘山而生孔子生而有髮。身長九尺六寸腰帶十圍。垂手過膝。河眸海口龍顏方顙。鳳顒燕頷虬髭虎視。有中和之德。衣莊而嚴。色溫而厲。有四十二表如世家。自易姓孔氏。名丘字仲尼。至唐玄宗。諡曰文宣王。丘先殷之後裔頴考叔弗何祖焉。至紇移居魯。易姓叔梁。後孔子追昔先生姓字。以子配一。更姓孔氏。是不忘本仁也。學無常師。自然英才誕秀。聖德不群世號素王。大宣文教矣魯哀公十一年。自衛反魯修文教於洙泗之濱。祖述堯舜憲章文武之風。約魯史而修春秋。周平魯隱始之自己未。終敬王魯哀壬戌記二百四。十二年之事。明王室衰諸侯覇褒貶得失。絕筆于獲麟之句也。而傳有五。左丘明公羊高穀梁赤鄒氏郟氏。刪詩三百。而詠國風雅頌正變之道也。而傳者分為四詩。毛韓魯齊。詩以關睢首之。明有夫婦。次有父子君臣之道。三綱逆順辨其國政。定尚書凡百篇。始于二典。次及三王典謨誓誥之文。備悉明也。秦火之後。漢儒伏生口授。裁二十餘篇。正禮樂有二禮記四十九篇。而以曲禮首之。終于喪服之制。俾夫孝弟施行。安上治民廣大悉備。而傳者徐生首焉。周禮者六官之屬王百七十五。明宗廟社稷王侯等差朝格典儀。大全其式矣。贊易道始于太極。是生兩儀。四象八卦萬物生焉。作十翼書以明之。謂上繫下繫上彖下彖上象下象文言說卦敘卦雜卦。而傳者古今眾矣。資學三千。達者七十有二。四科十哲。德行顏回閔損冉耕仲弓。言語宰予端木賜。政事冉求仲由。文學言偃卜商。子鯉伯魚。孫伋子思。皆預其數。壽七十三歲薨。佛先二百九十九年。
(辛亥) 世尊示滅四百年矣(時迦濕彌羅國五百六通依法智論造毘婆沙論)。
(二十九 丁巳) 景王貴(靈王次子)治二十五年。
(三十 甲子丙寅 三六) 第八祖佛陀難提者。迦摩羅國人也。姓瞿曇氏。頂有肉髻。辨捷無礙。初遇婆須密尊者出家受教。既而領徒。行化至提迦國城毘舍羅家。見其舍有白光上騰。謂徒眾曰。此家聖人口無言說。真大乘器。不行四衢知觸穢耳。言訖長者出致禮問。何所須祖曰。我求侍者。曰我有一子。名伏祖馱密多。年已五十口未曾言足未曾履。曰。如汝所說真吾弟子。祖既見之。遽起禮拜而說偈曰。父母非我親。誰是最親者。諸佛非我道。誰是最道者。祖以偈答曰。汝言與心親。父母非可比。汝行與道合諸佛心即是。外求有相佛。與汝不相似。欲識汝本心。非合亦非離。伏馱密多聞祖妙偈。便行七步。祖曰。此子昔曾值佛悲願廣大。慮父母愛情難捨。故不言不履耳。時長者遂捨令出家。祖尋授具戒。復告之曰。我今以如來正法眼藏傳囑於汝。勿令斷絕。乃說偈曰。虛空無內外。心法亦如此。若了虛空故。是達真如理。密多承師傳囑。以偈讚曰。我師禪祖中。當得為第八。法化眾無量。悉獲阿羅漢。爾時尊者佛陀難提。即現神變。却復本坐。儼然寂滅。眾興寶塔葬其全身。即景王十年丙寅歲也。
(乙亥) 孔子時年二十六。適周問禮於老聃。聃年已七十九。
(己卯) 老聃是年薨。壽八十四歲。
(辛巳) 四月王崩。劉子單子立王子猛。六月子朝作亂。十月晉納王于王城。十一月猛卒(是為悼王)。
(三十一 壬午) 敬王丐(悼王弟)劉獻公單穆公韓宣等伐子朝立王。治四十三年。
(乙酉) (冬克鞏逐王子朝入成周。自是謂王城為西周。成周為東周)。
(壬辰) 十一年乃魯定元年。
(辛丑) 孔子為魯司寇年已五十二矣。
(癸卯) 孔子去魯適衛。
(乙巳) 孔子之宋如陳。
(戊申) 孔子微服過宋。
(己酉) 孔子厄於陳。
(庚戌) 二十八年。魯哀十一年。孔子自衛返魯。作春秋定六經。時年六十一歲矣。
(三十二 甲寅) 第九祖伏馱密多者。提迦國人。姓毘舍羅。既受佛陀難提傳囑。後至中印度行化。時有長者香蓋。携一子而來瞻禮尊者曰。此子處胎六十年。因號難生。復甞會一仙者。謂此兒非凡。當為法器。令遇尊者。可令出家。祖即與落髮授戒。羯磨之際祥光燭座。仍感舍利三十粒現前。自此精進忘疲。既而師告之曰。如來大法眼藏今傳於汝。汝護念之。乃說偈曰。真理本無名。因名顯真理。受得真實法。非真亦非偽。尊者傳法已。即入滅盡三昧而般涅槃。眾以香油旃檀闍維真體。收舍利建塔于。那爛陀寺即敬王三十三年甲寅歲。
(庚申) 孔子絕筆于獲麟。
(壬戌) 王四十年。魯哀十六年夏四月八日孔子薨于曲阜。四十三年吳滅矣。
(甲子丙寅 三七) 元王仁(敬王子)治八年○(越王勾踐始覇矣)。
(三十三 癸酉) 貞定王介(元王子)在位二十八年。
(辛卯) 世尊示滅五百年矣。
(三十四 己亥) 第十祖脇尊者。中印度人也。本名難生。初將誕。父夢一白象背有寶座。座上安一明珠。從門而入。光照四眾。既覺遂生。後值伏馱尊者。執侍左右。未甞睡眠。謂其脇不至席。遂號脇尊者焉。初至華氏國憩一樹下。右手指地而告眾曰。此地變金色。當有聖人入會。言訖即變金色。時有長者子富那夜奢。合掌前立。尊者問曰。汝從何來。夜奢曰。我心非往。尊者曰。汝何處住。曰我心非止。祖曰。汝不定耶。曰諸佛亦然。祖曰。汝非諸佛。曰諸佛亦非。祖因說偈曰。此地變金色。預知於聖至。當坐菩提樹。覺華而成已。夜奢復說偈曰。師坐金色地。常說真實義。回光而照我。令入三摩諦。祖知其意即度出家復具戒品。乃告之曰。如來大法眼藏今傳於汝。汝護念之。乃說偈曰。真體自然真。因真說有理。領得真真法。無行亦無止。傳法已。即現神變入于涅槃化火自焚。四眾以衣裓盛舍利。隨處興塔焉。即貞王二十七年己亥歲也。
(辛丑) 考王嵬(一名隗貞王子)治十五年。
(丙辰) 威烈王午(考王子)在位二十四年。
(甲子 三八) 王十九年。魏斯好賢即文侯之德。
(丁丑) ○通鑑始于此。宋司馬光集。
(戊寅) 王命趙魏韓為諸侯。自此號為七雄。
佛祖歷代通載卷第三(終)
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第四
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
(戊寅) 韓魏趙 雷氏曰(魏趙韓齊燕楚及秦。是為七雄)。
韓武子(其先與周同姓。後事晉封于韓。自武子至王安。十二君。一百九十六年)。
魏武子(畢公萬之後。與周同姓。武王克殷。封于畢○時秦王嘗欲伐魏。或曰。文侯師田子方受子夏經。義客段干木過其閶。君禮人賢國民稱仁。上下和合。未可圖也。有賢人孟軻鄒衍淳于髠之徒矣○惠王時有女子。化為丈夫○其先畢萬事于晉。晉獻公封於魏。在河東郡。至悼公在絳陽。文武復魏。自畢萬至王假。凡九世。通計一百年。至秦始皇滅之)。
趙武子(其先與秦同祖。殷飛廉二子惡來季勝。季勝趙之先。後造父為穆王御。封于趙城因姓趙氏。至敬侯都邯鄲。自後至大王嘉為秦將王賁虜之。凡十一世。計一百八十七年。齊燕楚秦見上注)。
(庚辰) 安王驕(一名龍威烈王之子)治二十六年。
(辛巳) 二年晉分為三晉。趙魏及韓。同謀滅晉三分其地也。
(丙申) ○(齊滅矣)。
(戊戌) 第十一祖富那夜奢。華氏國人也。姓瞿曇氏。父寶身。既得法於脇尊者。尋詣波羅奈國。有馬鳴大士。迎而作禮。因問曰。我欲識佛。何者即是。祖曰。汝欲識佛不識者是。曰佛既不識焉知是乎。祖曰。既不識佛焉知不是。曰此是踞義。祖曰。彼是木義。復問。踞義者何。曰與師平出。又問。木義者何。祖曰。汝被我解。馬鳴豁然惺悟。稽首歸依。遂求剃度。祖謂眾曰。此大士者。昔為毘舍離國王。其國有一類人。如馬裸露。王運神力分身為蠶。彼乃得衣。王後復生中印度。馬人感戀悲。鳴因號馬鳴焉。如來記云。吾滅度後六百年。當有賢者馬鳴。於波羅奈國摧伏異道。度人無量。繼吾傳化。今正是時。即告之曰。如來大法眼藏今付於汝。即說偈曰。迷悟如隱顯。明暗不相離。今付隱顯法。非一亦非二。付法已。即現神變湛然圓寂。眾興寶塔以閟全身。即安王十九年戊戌歲也。
(丙午) 烈王喜(安王子。王時天雨金子櫟陽)治七年。是歲日食。
(癸丑) 顯王扁(烈王子)在位四十八年(時蘇秦遊說六國)。
(甲寅) 二年秦惠始稱王矣。
(甲子 三九) 王十二年。
(辛未) 世尊示滅六百年矣。
(甲午) 第十二祖馬鳴大士者。波羅奈國人也。亦名功勝。以有作無作諸功德最為殊勝。故名焉。既受法於夜奢尊者。後於華氏國轉妙法輪。忽有老人坐前仆地。師謂眾曰。此非庸流。當有異相。言訖不見。俄從地踊出一金色人。復化為女子。右手指師而說偈曰。稽首長老尊。當受如來記。今於此地上。宣通第一義。說偈已瞥然不見。師曰。將有魔來與吾校力。有頃風雨暴至。天地晦冥。師曰。魔之來信矣。吾當除之。即指空中現一大金龍。奮發威神震動山巖。師儼然於坐魔事隨滅。經七日有一小蟲。大若蟭螟。潛形坐下。師以手取之示眾曰。斯乃魔之所變。盜聽吾法耳。乃放之令去。魔不能動。師告之曰。汝但歸依三寶即得神通。遂復本形作禮懺悔。師問曰。汝名誰邪。眷屬多少。曰我名迦毘摩羅。有三千眷屬。師曰。汝盡神力變化若何。曰我化巨海極為小事。師曰。汝化性海得否。曰何謂性海。我未嘗知。師即為說性海云。山河大地皆依建立。三昧六通由茲發現。毘摩羅聞言遂發信心。與徒眾三千俱求剃度。師乃召五百羅漢與授具戒。復告之曰。如來大法眼藏今當付汝。汝聽偈言。隱顯即本法。明暗元不二。今付悟了法。非取亦非離。付法已。即入龍奮迅三昧。挺身空中如日輪相。然後示滅。四眾以真體藏之龍龕。即顯王四十二年甲午歲也。
(辛丑) 慎靚王定(顯王子)治六年(王時六國皆自稱王)。
(丁未) ?王延(慎靚王子)治五十九年(東西周分治為諸侯所侵。王與居人無異。王徙都太子治束)。
(甲子 四十) 十八年。
(丙子) 三十年宋滅矣。
(壬辰) 第十三祖迦毘摩羅。華氏國人也。初為外道有徒三千通諸異論。後於馬鳴尊者得法。領徒至西印度。彼有太子名雲自在。仰尊者名請於宮中供養。祖曰。如來有教。沙門不得親近國王大臣權勢之家。太子曰。今我國城之北有大山焉。山中有一石窟。師可禪寂于此否。祖曰諾。即入彼山。行數里逢一大蟒。祖直進不顧。遂盤繞祖身。祖因與受三歸依。蟒聽訖而去。祖將至石窟。復有一老人。素服而出。合掌問訊。祖曰。汝何所止。答曰。我昔嘗為比丘多樂寂靜。有初學比丘數來請益。而我煩於應答起嗔恨想。命終墮為蟒身。住是窟中。今已千載。適遇尊者獲聞戒法。故來謝耳。祖問曰。此山更有何人居止。曰北去十里有大樹蔭。覆五百大龍。其樹王名龍樹。常為龍眾說法。我亦聽受耳。尊者遂與徒眾詣彼龍樹。出迎尊者曰。深山孤寂龍蟒所居。大德至尊何枉神足。祖曰。吾非至尊。來訪賢者。龍樹默念曰。此師得決定性明道眼否。是大聖繼真乘否。祖曰。汝雖心語吾以意知。但辦出家何慮吾之不聖龍樹聞已悔謝。尊者即與度脫及五百龍眾俱受具戒。復告龍樹曰。今以如來大法眼藏付囑於汝。諦聽偈言。非隱非顯法。說是真實際。悟此隱顯法。非愚亦非知。付法已。即現神變化火焚身。龍樹收五色舍利。建塔瘞之。即?王四十六年壬辰歲也。
(乙巳) ○(王與六國攻秦。昭王怒攻西周。王懼伏于秦。盡獻其邑。是年秦使將軍摎攻之。取九鼎寶器。王漸而卒。已上八百六十七年內三百二十五年載春秋周滅)。
右周合三十七君八百六十七年。
秦 雷氏曰(昭襄孝文莊襄始皇胡亥子嬰。秦朝六君。四十九年)。
(丙午) 昭襄王稷(惠文王子)姓嬴氏。王水德。都咸陽(今京兆也)治五年。至始皇時建亥正通。覇五十一年。
(辛亥) 世尊示滅七百年矣。
孝文王戊(昭王子)元年修先王功臣褒厚親施苑囿除喪。在位三月。運數一年。
(壬子) 莊襄王楚(孝文王子以呂不韋為相)治三年○次年癸丑日食。
T49p0502_01.gif
(乙卯) 始皇政(莊襄子昭。四十八年正月旦日。生于鄲邯。其年十三。莊襄崩。代立為秦王。自號始皇。欲至萬世。獨稱曰朕。改年朝賀。皆自二月朔。衣服旌旗皆尚黑。置守尉監築長城。名民曰黔首。用呂不韋趙高李斯為相。蒙恬白起王翦為將。併吞六國平一天下。分三十六郡。自後驕縱周遊天下。因之會稽瑯琊還至沙丘。忽患病。七月丙申崩于平臺矣)治三十七年(壽五十)。
(甲子 四一) 下令逐諸侯客李斯諫而止。
(辛未) 滅韓。
(癸酉) 滅趙。
(丙子) 滅魏。
(戊寅) 滅楚。
(己卯) 虜燕王喜。
(庚辰) 滅齊。
(壬午) 二十八年。東巡郡縣。上鄒嶧山及登瑯琊。刻石頌德。又上泰山立石封祠祀。值風雨於松下。因封五大夫。又遣徐福求仙。
(八 癸未) 沙門室利防等一十八人。來自西域。帝惡其異俗以付獄。俄有金剛神。碎獄門而出之。帝懼即厚禮遣之。時國事區區。弗克敬奉。
(丁亥) 築長城。
(戊子) 焚書。
(己丑) 坑儒作阿房宮。
(九) 第十四祖龍樹尊者。西天竺國人也。亦名龍勝。始於毘羅尊者得法。後至南印度。彼國之人多信福業。聞尊者為說妙法。遞相謂曰。人有福業世間第一。徒言佛性誰能覩之。尊者曰。汝欲見佛性。先須除我慢。彼人曰。佛性大小。尊者曰。非大非小非廣非狹。無福無報不死不生。彼聞理勝悉回初心。尊者復於座上現自在身如滿月輪。一切眾唯聞法音不覩師相。彼眾中有長者子。名迦那提婆。謂眾曰。識此相否。眾曰。目所未覩安能辯識。提婆曰。此是尊者現佛性體相以未我等。何以知之。蓋以無相三昧形如滿月。佛性之義廓然虛明。言訖輪相即隱。復居本座而說偈言。身現圓月相。以表諸佛體。說法無其形。用辨非聲色。彼眾聞偈咸願出家以求解脫。尊者即為剃髮。命諸聖授具其國先有外道。五千餘人作大幻術。眾皆宗仰。尊者悉為化之令歸三寶。復造大智度論中論十二門論。垂之於世。後告上首弟子迦那提婆曰。如來大法眼藏今當付汝。聽吾偈言。為明隱顯法。方說解脫理。於法心不證。無瞋亦無喜。付法訖。入月輪三昧。廣現神變。復就本座凝然禪寂。迦那提婆與諸四眾共建寶塔以葬焉。即秦始皇三十五年己丑歲也。
(壬辰) 二世胡亥(始皇少子。帝崩。李斯祕之。獨趙高胡亥知之。高遂矯詔。殺扶蘇而立為帝。二十一即位。治三年)。
(癸巳) ○(劉季起沛。項羽起江東。率諸侯伐秦。陳勝吳廣起。天下大亂矣)。
(甲午) ○(為趙高殺于望夷宮)。
三世子嬰(扶蘇子○初趙高使婿閻樂殺二世。乃引璽佩之。百官莫從。將上殿。殿欲壞者三。高知天命不與。乃立子嬰即位。三世殺趙高于齊宮。夷其三族○後沛公入關。子嬰即係頸以組。白馬素車奉璽降于軹道。為秦王四十六日○沛公既入咸陽。封宮室府庫還軍壩上○項羽後入關。遂殺子嬰。秦遂滅矣)。
右秦(自始皇二十六年。初并天下。居帝位凡十五年。而漢滅之)。
(十) 西漢 雷氏曰(漢高惠呂文景武昭昌邑宣元成衰平孺。十有四君。二百十四)。
(乙未) 高祖邦(字季。姓劉氏。王火德。治十二年。初用秦正太初元年。改用夏正。都長安。今京兆也。豊沛中陽里人。隆準龍顏。左股有七十二黑子。初為泗上亭長。單父呂公。妻之以女。因徙徒驪山到豊西澤中放之。徒中壯士願從者十人。初行山澤斬當路白蛇。後人見老嫗哭曰。吾子白帝子。為赤帝子斬之。秦二世元年。布衣起于沛而滅秦為漢。以蕭何為相。韓信為將。張良為謀。即漢有三傑焉。共滅項羽于烏江。生于秦昭四十六年。壽六十二歲。大定天下。丁未夏四月。崩于長樂宮。葬長陵)。
西楚覇王項羽(名藉下相人也。楚將項燕之孫。身長八尺。目有重瞳。勢可拔山力能舉鼎。吳中子弟皆憚之。秦二世元年。從季父項梁起江。東至三年滅秦。自號西楚。都彭城。立五年。漢會諸侯于垓下。大潰破之。追至烏江。自刎而死矣)。
(丙申) 二年冬十月。五星聚東井。十一月召諸縣父老。約法三章。殺人者死。傷人及抵謫罪。餘去秦法項羽使英布殺義帝于綝。
(丁酉) 是年滅韓趙魏三國。
(戊戌) 滅齊。
(己亥) 滅燕。與項羽約洪溝為界。以分天下。
(庚子) 會諸將圍羽於垓下。虞姬自刎。
(辛丑) 改咸陽為長安。
(丁未) 孝惠盈(字日滿高祖子。母呂氏。十七即位。見母殘酷。使人請太后曰。吾終不能治天下。遂縱酒色婬樂。甲寅八月崩于未央宮。葬安陵。壽二十四歲)。
治七年始有笛(帝時丘仲作之。笛者滌也。滌蕩邪穢納于雅正。龍笛有七孔。竹笛五孔。羌笛三孔也)。
(癸丑) 起長安西市修建倉敖。
(甲寅) 高后雉(姓呂氏。單父呂公女。少帝幼太后臨朝稱制。立諸呂為王。欲謀天下。幾危劉氏。劉章周勃誅諸呂矣)治八年(壽七十一)。
(乙卯) ○地震○六月晦日食○行八銖錢。
(丙辰) ○秋星晝見。
(戊午) 五年南越王自稱武帝。
(己未) ○春星晝見○行五分錢。
(庚申) 正月日食。
(壬戌) 文帝恒(高祖次子。母薄姬。初呂后封諸呂為王。陳平周勃劉章共誅諸呂三千人。以立文帝。性資寬惠溫純謹潔。衣不華飾。百姓富樂。自即位後。凡下二十七詔利民太平。甲申崩未央宮。葬㶚陵。壽四十六)治二十三年。
(甲子 四二) 文帝三年也。
(十一 庚辰) 第十五祖迦那提婆。南天竺國人也。姓毘舍羅。初求福業兼樂辯論。後謁龍樹大士將及門。樹知是智人。先遣侍者以滿鉢。水置於座前。提婆見之。即以一針投之而進。忻然契會。樹即為說法。不起於坐現月輪相。唯聞其聲不見其形。師語眾曰。今此瑞者。師現佛性表說法非聲色也。師得法後至毘羅國。彼有長者。曰梵摩淨德。一日園樹生大耳如菌。味美甚。唯長者與第二子羅睺羅多。取而食之。取已隨長。盡而復生。自餘親屬皆不能見。時尊者知其宿因。遂至其家。長者問其故。尊者曰汝家昔曾供養一比丘然此比丘道眼未明。以虛霑信施故報為本菌。唯汝與子精誠供養。得以享之。餘即否矣。又問。長者年多少。曰七十有九。尊者乃說偈曰。入道不通理。覆身還信施。汝年八十一。此樹不生耳。長者聞偈彌加歎伏。且曰。弟子衰老不能事師。願舍次子隨師出家。尊者曰。昔如來記此子。當第二五百年為大教主。今之相遇蓋符宿因。即與剃髮執侍。至巴連弗城。聞諸外道欲障佛法計之既久。尊者乃執長旛入彼眾中。彼問祖曰。汝何不前。祖曰。汝何不後。又曰。汝似賤人。祖曰。汝似良人。又曰。汝解何法。祖曰。汝百不解又曰。我欲得佛。祖曰。我灼然得佛。又曰。汝不合得。祖曰。元道我得汝實不得。又曰。汝既不得。云何言得。祖曰。汝有我故所以不得我無我我故自當得。彼辭既屈。乃問祖曰。汝名何等。祖曰。我名迦那提婆。彼既夙聞祖名。乃悔過致謝。時眾中猶互興問難。尊者折以無礙之辯。由是歸伏。乃告上足羅睺羅多而付法眼。偈曰。本對傳法人。為說解脫理。於法實無證。無終亦無始。說偈已。入奮迅定身放八光而歸寂滅。學眾興塔而供養之。則前漢文帝十九年庚辰歲也。
(乙酉) 景帝啟(文帝子。母竇氏。三十二歲即位。好黃老二子。令宮人皆誦之。因改于書為經。庚子崩未央宮。葬陽陵。壽四十八)治十六年。
(丁亥) ○(三年用晁錯策。七國皆反。遣周亞夫將三十六將攻之。復用袁盎之謀。斬錯以謝七國。天下大定矣)。
(辛亥) 世尊示滅八百年矣。
(戊戌) ○(帝滅笞法定箠令○疑周亞夫功大欲獄之。遂嘔血而死)。
(十二 辛丑) 武帝徹改建元(景之中子。母王夫人。嘗得策文曰。二十七倒策。果七十二歲崩于五祚殿。葬于茂陵。十七即位)。
治五十四年(依運曆圖辛丑建元。東方朔為太史)。
(乙巳) ○(帝好仙術。敬方士文成五利等○鑄半兩錢。貪地好殺○命司馬遷等。造漢太祖曆。以正月為歲首。色尚黃。數用五。興太學修郊祀定音律作詩樂。建封禪禮百神。紹周後。號令文章煥然可述矣)。
(丁未) 改元光。
(癸丑) 改元朔。
(己未) 改元狩○(淮南王安衡山王賜以謀反誅戮。其黨。累數萬人)。
(庚申) ○用孫寬為相。衛青霍去病為將。北伐匃奴。開河朔之地○又平南越王○東滅朝鮮為郡縣。西歷五國。執昆耶王收休屠王○後遣張騫西往身毒國。尋浮圖教。果獲之。
(甲子 四三) 四月初作誥官之有誥始此。
(乙丑) 改元鼎。
(十三 戊辰) 第十六祖羅睺羅多者。迦毘羅國人也。行化至室羅筏城。有河名曰金水。其味殊美。中流復現五佛影。祖告眾曰。此河之源凡五百里。有聖者僧伽難提居於彼處。佛誌一千年後當紹聖位。語已領諸學眾泝流而上。至彼見僧伽難提安坐入定。祖與眾伺之。經三七日方從定起。祖問曰。汝身定邪心定邪。曰身心俱定。祖曰。身心俱定。何有出入。曰雖有出入不失定相。如金在井金體常寂。祖曰。若金在井若金出井。金無動靜。何物出入。曰言金動靜。何物出入許金出入。金非動靜。祖曰。若金在井出者何金。若金出井在者何物。曰金若出井在者非金。金若在井出者非物。祖曰。此義不然。曰彼理非著。祖曰。此義當墮。曰彼義不成。祖曰。彼義不成我義成矣。曰我義雖成法非我故。祖曰。我義已成我無我故。曰我無我故復成何義。祖曰。我無我故故成汝義。曰仁者師於何聖得是無我。祖曰。我師迦那提婆證是無我。曰稽首提婆師而出於仁者。仁者無我故。我欲師仁者。祖曰。我已無我故。汝須見我我。汝若師我故。知我非我我。難提心意豁然。即求度脫。尊者曰汝心自在非我所繫。語已即以右手擎金鉢舉至梵宮。取彼香飯將齋大眾。而大眾忽生厭惡之心。尊者曰。非我之咎汝等自業。即命僧伽難提分坐同食。眾復訝之。祖曰。汝不得食。皆由此故。當知與吾分坐者。即過去娑羅樹王如來也。愍物降迹。汝輩亦莊嚴劫中已至三果而未證無漏者也。眾曰。我師神力斯可信矣。彼云過去佛者。即竊疑焉。羅睺羅多知眾生慢。乃曰。世尊在日世界平正。無有丘陵江河溝洫。水悉甘美草木滋茂。國土豐盈無八苦行十善。自雙樹示滅八百餘年。世界丘墟草木枯悴。人無至信正念輕微。不信真如唯愛神力。言訖以右手漸展入地。至金剛輪際取甘露水。以琉璃器持至會所。大眾見之即時欽慕悔過作禮。於是尊者命僧伽難提而付法眼。偈曰。於法實無證。不取亦不離。法非有無相。內外云何起。付法已安坐歸寂。四眾建塔當前漢武帝二十八年戊辰歲也。
(辛未) 改元封。
(丁丑) 改太初。
(辛巳) 改天漢。
(乙酉) 改太始。
(己丑) 改征和。
(庚寅) ○(巫蠱起。江充等㭾蠱於太子宮。太子與皇后謀斬。充與丞相劉屈釐大戰長安。死者不啻數萬)。
(十四 乙未) 昭帝弗(武之子。母趙婕好九歲即位。霍光受遺詔。以周公輔政。至戊申四月崩未央宮。葬于平陵。壽二十二歲)治十三年改始元。
(辛丑) 改元鳳(上官桀子。安與霍光爭權。帝終知霍光之忠烈矣)。
(丁未) 改元平。
(十五) 第十七祖僧伽難提者。室羅筏城寶莊嚴王之子也。生而能言。常讚佛事。七歲即厭世樂。以偈告其父母曰。稽首大慈父。和南骨血母。我今欲出家。幸願哀愍故。父母固止之。遂終日不食。乃許其在家出家。號僧伽難提。復命沙門禪利多為之師。積十九載未嘗退倦。尊者每自念言。身居王宮胡為出家。一夕天光下。屬見一路坦平。不覺徐行。約十里許。至大岩前有石窟焉。乃燕寂于中。父既失子。即擯禪利多出國。訪尋其子不知所在。經十年尊者得法受記已。行化至摩提國。忽有涼風襲眾身心悅適非常。而不知其然。祖曰。此道德之風也。當有聖者出世嗣續祖燈乎。言訖以神力攝諸大眾遊歷山谷。食頃至一峯下。謂眾曰。此峯頂有紫雲如蓋。聖人居此矣。即與大眾徘徊久之。見山舍一童子持圓鑑直造尊者前。祖問。汝幾歲邪。曰百歲。祖曰。汝年尚幼。何言百歲。曰我不會理正百歲耳。祖曰。汝善機邪。曰佛言若人生百歲不會諸佛機。未若生一日而得決了之。祖曰。汝手中當何所表。曰諸佛大圓鑑。內外無瑕翳。兩人同得見。心眼皆相似。彼父母聞子語。即舍令出家。祖携至本處。受具戒訖。名伽邪舍多。他時聞風吹殿銅鈴聲。祖問。鈴鳴邪風鳴邪。舍多曰。非風非鈴。我心鳴耳。祖曰。心復誰乎。曰俱寂靜故。尊者曰。善哉善哉。繼吾道者非子而誰。即付法。偈曰。心地本無生。因地從緣起。緣種不相妨。華果亦復爾。付法已。右手攀樹而化。大眾議曰。尊者樹下歸寂。其垂蔭後裔乎。將奉全身於高原建塔。眾力不能舉。即就樹下起塔。當前漢昭帝十三年丁未歲也。
(戊申) 昌邑王(名賀。哀王髆之子。武之孫。在位二十七日。狂縱淫戲無度。罪犯一千一百二十七事。霍光與田延年白太后解璽送之。昌邑廢為海昏侯。誅昌邑。群臣不能輔道者二百餘人。唯王吉龔。遂以數諫得免)。
(十六) 宣帝詢改本始(武帝曾孫。戾太子孫。生而足下有毛。初名病已。及太子被巫蠱事。已在襁褓。賴丙吉救養在於掖庭。外家霍光廢昌邑。奏太后就民間迎之即位。遠方來朝。號中興主。壬申十二月崩未央宮。壽四十三。葬杜陵)。
治二十四年(時穀一石五錢)。
(壬子) 改地節。
(丙辰) 改元康。
(庚申) 改神爵。
(甲子 四四) 改五鳳。
(戊辰) 改甘露。
(辛未) ○(帝興自民間。知民疾苦。魏相丙吉為相。黃霸龔遂為太守。從耿壽昌奏。置常平倉以利民)。
世尊示滅九百年矣。
(十七) 時北天竺富婁叉國。有大論師。名憍尸迦。三子同號婆蘇槃豆。此曰天親。長曰阿僧佉。此云無著。首暢大乘。阿瑜闍國大講堂中。請聖慈尊說瑜伽論。廣明五分十七地義。次曰伐蘇畔徒。此云世親。首學小乘造俱舍論。後從兄化演暢真宗。造唯識等窮探大義。幼曰比隣持弗婆提。此云獅子覺。造集論釋大有研尋。異矣哉。三弘中道並譽五天。妙栴檀林寧容荊棘。俱求知足歸真應期。御世談玄難可詳矣。
(壬申) 改黃龍。
(癸酉) 元帝奭改初元(宣之子。二十七歲即位。戊子五月崩于未央宮。葬渭陵。壽四十三。用儒)治十六年。
(戊寅) 改永光。
(癸未) 改建昭。
(戊子) 改竟寧。
(十八 己丑) 成帝驁改建始(字太孫。元帝子。二十即位。以諸舅王鳳等為列侯。更遞為相。五侯專政。賢臣屏退。甲寅三月崩未央宮)。
在位二十六年(壽四十五葬延陵)。
(癸巳) 改河平。
(丁酉) 改陽朔。
(辛丑) 改鴻嘉○(光祿大夫劉向傳比觀典籍往往見有佛經)。
(乙巳) 改永始。
(十九 戊申) 第十八祖伽邪舍多。摩提國人也。姓欝頭藍。父天蓋。母方聖。嘗夢大神持鑑。因時有娠。凡七日而誕。肌體瑩如琉璃。未嘗洗沐。自然香潔。幼好閒靜。語非常童。持鑑出遊。遇難提尊者得度。領徒至大月氏國。見一婆羅門舍有異氣。祖將入彼舍。舍主鳩摩羅多問曰。是何徒眾。曰是佛弟子。彼聞佛號心神竦然。即時閉戶。祖良久自扣其門。羅多曰。此舍無人。祖曰。答無者誰。羅多聞語知是異人。遽開關延接。尊者曰。昔世尊記曰。吾滅後一千年。有大士出現於月氏國。紹隆玄化。今汝值吾。應斯嘉運。於是鳩摩羅多發宿命智。投誠出家。受具訖付法。偈曰。有種有心地。因緣能發萌。於緣不相礙。當生生不生。付法已。踊身虛空現十八變化。火光三昧自焚其身。眾以舍利起塔。當前漢成帝二十年戊申歲也。
(己酉) 改元延。
(癸丑) 改綏和(都水使者劉向集列仙傳。檢藏得梵本佛經六十餘卷。編入仙傳。則知自周以來自之人未識爾)。
(乙卯) 哀帝欣改建平(元帝庶孫定陶恭王子。十九即位。六年庚申六月崩未央宮。葬義陵。壽二十五)在位六年。
(己未) 改元壽(景憲使西域大月氏王。令木子口投獻浮圖經)。
(辛酉) 平帝衍改元始(元帝庶孫。中山孝王興之子。三歲封為王。元壽二年九月即位。時方九歲。王莽秉政。已丑崩未央宮。葬康陵。壽十四)。
治五年(加王莾為大司馬。又升為太傅。號安漢公)。
(甲子 四五) 立莽女為后○莽加宰衡。
(丙寅) 孺子嬰(宣帝玄孫。廣戚侯顯之子。莾既鴆平帝。嬰在襁褓。年二歲即位。莾初行周公故事。一如天子。吏民稱臣。帝至戊辰而崩矣)治三年。
(二十 戊辰) 改初始(王莾以偽符瑞遂即位矣)。
新室(姓王氏都長安。以十二月建平)雷氏曰(莾玄盆子合十八年)。
(己巳) 莽字巨君(王皇后弟。成帝之舅。王曼之子。元城人。初封新都侯。以女為正帝后。後纂奪即位。國號大新。至地皇四年。為漢光武軍師殺之)。
在位十五年改元建國。
(甲戌) 改天鳳。
(庚辰) 改地皇。
(二十一 壬午) 第十九祖鳩摩羅多者。大月氏國婆羅門之子也。昔為自在天人(欲界第六天)見菩薩瓔珞忽起愛心墮生忉利(欲界第二天)聞憍尸迦說般若波羅蜜多。以法勝故升于梵天(色界)以根利故善說法要。諸天尊為導師以繼。祖時至遂降月氏。後至中天竺國。有大士闍夜多。問曰。我家父母素信三寶。而嘗縈疾瘵。凡所營作皆不如意。而我隣家久為旃陀羅行。而身常勇健所作和合。彼何幸而我何辜。尊者曰。何足疑乎。且善惡之報有三時焉。凡人但見仁夭暴壽逆吉義凶。便謂亡因果虛罪福。殊不知影響相隨毫釐靡忒。縱經百千萬劫亦不磨滅。時闍夜多聞是語已。頓釋所疑。祖曰。汝雖已信三業。而未明業從惑生。惑因識有。識依不覺。不覺依心。心本清淨。無生滅無造作。無報應無勝負。寂寂然靈靈然。汝若入此法門可。與諸佛同矣。一切善惡有為無為。皆如夢幻。闍夜多承言領旨。即發宿慧懇求出家。既受具。尊者告曰。吾今寂滅時至。汝當紹行化迹。乃付法眼。偈曰。性上本無生。為對求人說。於法既無得。何懷決不決。祖曰。此是妙音如來見性清淨之句。汝宜傳布後學。言訖既於坐上以指爪[((牙-才+木)*ㄆ)/(厂@刀)]面如紅蓮開。出大光明照耀四眾而入寂滅。闍夜多起塔。當新室十四年壬午歲也。
(癸未) 淮陽劉玄(字聖公。景帝七代孫。光武族兄。景帝生長沙王發。舂陵侯買。戴侯熊渠。蒼梧太守利子張生聖公為王素懦弱羞愧汗流舉手不能言二年因。牧馬于郊下因。縊殺之光。武使鄧禹葬于覇陵)治二年改元更始。
(甲申) 劉盆子(太山式人。陽城王章之後。憲武侯萌之子。初與樊崇起莒皆朱眉破莾。建武三年降于光武。遂封趙王)治一年。
(二十二) 東漢(都洛陽姓劉氏王火德)雷氏云(光明章和殤安北鄉順冲質桓靈獻遭殃。合十三主百九十五)。
(乙酉) 世祖光武帝秀(字文叔南蔡人。高祖九世孫。景帝子。長沙王發生舂陵侯買。欝林太守外鉅鹿都尉回。南頓令欽之子生。有赤光照室。既長用嚴子陵策。復興漢室。遂即位於鄗南。後移都洛。丁巳二月崩于南宮前殿。壽六十二。葬原陵)治三十三年。改元建武。
(戊戌) 封孔子為褒城侯。
(辛亥) 世尊示滅一千年(此後護法諸大菩薩等相次出世造論矣)。
(丙辰) 改中元○京師有醴泉出飲者疾愈矣。
(戊午) 明帝莊(光武第四子。十歲通春秋。三十即位。大興儒學。乙亥崩于東宮前殿。壽四十八。葬顯節陵)。
治十八年。改元永平。
(二十三 辛酉) 帝夢金人身長丈六。項佩日輪飛至殿庭。旦集群臣令占所夢。通人傅毅奏曰。臣按周書異記。昭王二十四年甲寅四月八日。平旦之時。暴風忽起宮殿人舍咸悉震動。夜有五色光氣入貫太微。遍於四方盡作青紅色。王問太史蘇由曰。是何祥也。對曰。西方有大聖人生也。王曰。於天下何如。對曰。此時無他。後一千年聲教被及此土。王使鑴石記之。埋在南郊天祠前。以年計之。至今辛酉一千一十年也。陛下所夢將必是乎。帝信以為然。即遣中郎將蔡愔博士王遵秦憬等十有八人。西訪其道至。大月氏國果遇迦葉摩騰竺法蘭二三藏。持優填王第四造白㲲像并四十二章經。愔等奉迎而歸于洛矣。
(甲子 四六)。
(二十四 戊辰) 教流此土。十二月三十日。愔等迎二沙門。至于洛陽。帝令模像置清涼臺及顯節陵并洛京西門以示萬姓。梵漢二經。安蘭臺石室。
(二十五 己巳) 詔以釋迦寶像奉安顯節陵及清涼臺供養。帝於城西雍門外立寺。與騰蘭居之。以白馬駝經而來。遂名白馬寺。騰蘭初譯四十二章經。帝幸其寺。騰蘭進曰。寺東何館。帝曰。昔有阜無因而起。夷之復然。夜有光怪。民呼為聖冡。因祀之。疑洛陽神也。騰曰。按天竺金藏詮所誌。阿育王藏如來舍利。於天下凡八萬四千所。今支那震旦境中十有九處。此其一也。帝大驚。即日駕幸聖冡。而騰蘭隨往拜起。忽有圓光現冡上。三身現光中。侍衛呼萬歲。帝喜曰。不遇二大士安。知上聖遺祐哉詔。塔于上受。制度於騰蘭塔。成九層高。二百尺明。年光又現有。金色手出塔頂尺許。如琉璃中見。天香郁然。帝駕幸拜瞻。光隨步武旋繞。自午及申而滅矣。
(庚午) 法蘭出十地斷結經。
(辛未) (楚王英皇弟也。學黃老與佛。作圖讖以謀反。廢徙丹陽自殺。累及千餘人)。
(二十六 壬申) 釋道比較焚經。是年正月一日。五嶽諸山道士褚善信等上表欲相比較。時南嶽道士褚善信等。西嶽道士劉正念等。北嶽道士桓文度等。東嶽道士焦德心等。嵩嶽道士呂惠通等。諸山道士費叔才祁文信等。一千三百一十人。表以奏聞。勅納表。遣尚書令宋庠引入長樂宮。以今月十五日可集白馬寺築壇火驗。時道士等將真元五訣符錄等五百九卷。茅成子等二十七家二百三十五卷。通計七百四十八卷。置之壇上。褚費之徒焚香呪已。遂使火之。諸子道書皆滅灰燼。褚費二人自感而死。次將梵本火然赫奕。宛如鼎新更增光潔。時摩騰法師神變凌空冷然偈曰。狐非師子類。燈非日月明。池無巨海納。丘無山嶽嶸。法雲垂世界。善種得開萌。顯通希有法。處處化群生。乃至弘宣法戒藏等神通勝事驚心。士庶投誠出家者眾。時有司空陽城侯劉善峻等一千餘人。出家慕道。四嶽道士呂惠通等六百二十八人。抽簪落髮。夫人王婕妤等與宮媛二百三十餘人。厭俗歸真。南嶽道士葬褚善信不蒙披剃。既而明帝設齋。親與下髮廣施衣鉢。大啟玄宗廣度僧尼。高崇十寺。城外七寺安僧。城內三寺安尼。寺之得名自斯而始。備如佛道論。
石室論云。昔西域聖人之教。既非衰周暴秦之君能致。然西漢二三英主有可致之德。而聖教亦不致獨現夢於顯宗。凡近古高僧皆推聖人。去世登千載而後教至。曾未有考著顯宗之德。有必感聖人之理。此予通論所以作也。夫兩漢有天下。傳一十四世。有君德者二祖四宗而已。二祖蓋立極之主。固無可議。若三宗各有其美而不能亡其弊。唯顯宗為至焉。有太宗恭儉之美。而文雅威重過之。有世宗經略四夷之勳。而無世宗淫侈之弊。有中宗政治之明。而崇儒尚德過之。斯蓋兼有三宗之長。而無三宗之短。是以班固傅毅頌其勳德。於漢為最盛。然世之學者不以班傅為信。徒見鍾離意傅謂帝性褊察好以耳目隱發為明。遂以此為顯宗實錄。嗚呼豈篤論哉。昔仲尼平章討論五帝三王治具以貽後世。迨其歿。遭暴秦燔毀之餘。世宗僅能舉之而已。至顯宗乃始躬行儒術尊養三老五更饗社禮畢帝正坐自講諸儒執經問難。於是時冠帶縉紳之士。圜橋門而觀聽者。億萬計。濟濟乎洋洋乎。由三代以來儒風之盛。莫甚於永平時也。及章和之後。諸儒開館授道著籍者。動逾千數。蓋永平之化行。猶周南麟跡之應也。初雖獄訟繁劇。帝臨政刻意裁斷精嚴。蓋善善惡惡之實。猶孔子為司寇七日而誅少正卯。暫臨夾谷而盡誅優倡。此誠不可以少假仁恕也。謂之褊察則過矣。予謂使孔子復生。必曰顯宗吾無間然矣。由顯宗包舉西漢三宗之美。躬行古帝王之道。此所以精爽與吾佛感通。而聖教因之被于中夏。與儒相表裏而廣天下以善也。夫豈偶爾哉。
(二十七 甲戌) 第二十祖闍夜多者。北天竺國人也。智慧淵冲化導無量。後至羅閱城敷揚頓教。彼有學眾唯尚辨論。為首者名婆脩盤頭(此云遍行)常一食不臥六時禮佛。清淨無欲為眾所歸。祖將欲度之。先問彼眾曰。此遍行頭陀能脩梵行。可得佛道乎。眾曰。我師精進。何故不可。祖曰。汝師與道遠矣。設苦行歷於塵劫。皆虛妄之本也。眾曰。尊者蘊何德行而譏我師。祖曰。我不求道。亦不顛倒。我不禮佛。亦不輕慢。我不長坐。亦不懈怠。我不一食。亦不雜食。我不知足。亦不貪欲。心無所希。名之曰道。時遍行聞已發無漏智歡喜讚歎。尊者又語彼眾曰。會吾語否。吾所以然者。為其求道心切。夫絃急即斷。故吾不贊令其住安樂地入諸佛智。復告遍行曰。吾適對眾抑挫仁者。得無惱於衷乎。曰我憶念七劫前生安樂國。師於智者月淨記我。非久當證斯陀含果。時有大光明菩薩出世。我以老故策杖禮謁。師叱我曰。童子輕父。一何鄙哉。時我自謂無過。請師示之。師曰。汝禮大光明菩薩。以杖倚壁畫佛面。以此過慢遂失二果。我責躬悔過。以來聞諸惡言如風如響。況今獲飲無上甘露。而反生熱惱邪。唯願大慈以妙道垂誨。祖曰。汝久植眾德。當繼吾宗。聽吾偈曰。言下合無生。同於法界性。若能如是解。通達理事竟。付法已。不起於坐奄然歸寂。闍維收舍利建塔。當後漢明帝十七年甲戌歲也。
佛祖歷代通載卷第四
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第五
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
東漢
(丙子) 章帝炟改建初(一名坦。明帝第五子。十九即位。戊子正月崩于章德殿。壽三十一。葬敬陵)治十三年。
(庚辰) 帝命鄭玄等諸生作白虎通。
(甲申) 改元和(徐州刺史王景上。金人頌美。先帝致佛之功。載漢書○有神雀鳳皇白鹿白烏之瑞)。
(丁亥) 改章和。
(己丑) 和帝肇改永元(章第四子。十歲即位。乙巳崩章德前殿。壽二十七。葬慎陵)在位十七年。
(乙巳) 改元興。
(丙午) 殤帝隆改延平(和之少子。降誕百餘日。即位于元興元年十二月。時鄧太后臨朝稱制。次年八月崩崇德前殿。壽齡二歲。葬康陵)在正位一年。
(一 丁未) 安帝祐改永初(章帝孫清河孝王慶之子。年十三即位。乙丑二月因南巡狩。幸于葉。崩之車輦。壽三十二。葬恭陵矣)治十九年。
(甲寅) 改元初。
(二 丁巳) 第二十一祖婆脩盤頭者。羅閱城人也。姓毘舍佉。父光蓋。母嚴一。家富而無子。父母禱于佛塔而求嗣焉。一夕母夢吞明暗二珠。覺而有孕。經七日有一羅漢。名賢眾。至其家。光蓋設禮。賢眾端坐受之。嚴一出拜。賢眾辟席云。回禮法身大士。光蓋罔測其由。遂取一寶珠。跪獻賢眾。試其真偽。賢眾即受之。殊無遜謝光蓋不能忍。問曰。我是丈夫。致禮不顧。我妻何德。尊者辟之。賢眾曰。我受禮納珠。貴福汝耳。汝婦懷聖子。生當為世燈慧日。故吾辟之。非重女人也。賢眾又曰。汝婦當生二子。一名婆脩盤頭。則吾所尊者也。二名芻尼(此云野鵲子)昔如來在雪山修道。芻尼巢於頂上。佛既成道。芻尼受報為那提國王。佛記云。汝至第二五百年。生羅閱城毘舍佉家。與聖同胞。今無爽矣。後一月果生二子。尊者婆脩盤頭。年至十五。禮光度羅漢出家。感毘婆訶菩薩與之授戒。行化至那提國。彼王名常自在。有二子。一名摩訶羅。次名摩拏羅。王問尊者曰。羅閱城土風與此同異。尊者曰。彼土曾三佛出世。今王國有二師化導。曰二師者誰。尊者曰。佛記第二五百年有一神力大士出家繼聖。即王之次子摩拏羅是其一也。吾雖德薄敢當其一。王曰。誠如尊者所言。當捨此子作沙門。尊者曰。善哉大王。能遵佛旨。即與受具付法。偈曰。泡幻同無礙。如何不了悟達法在其中。非今亦非古。尊者付法已。踊身高半由旬。屹然而住。四眾仰瞻虔請。復坐跏趺而逝。茶毘得舍利建塔。當後漢安帝十一年丁巳歲也。
(庚申) 改永寧。
(辛酉) 改建光。
(壬戌) 改延光。
(甲子 四七) 王十八年也。
(丙寅) 北鄉侯懿(章帝孫。濟北王壽之子。閻太后立之。是年三月即位。至十月而薨。治二百七十二日)。
順帝保改永建(安帝子。年十一登位梁商父子秉政。甲申八月崩玉堂前殿。壽三十。葬于憲陵。永寧初為太子)在位十九年。
(壬申) 改陽嘉。
(丙子) 改永和。
(壬午) 改漢安。
(甲申) 改建康。
(乙酉) 冲帝炳改永嘉(順帝子。母曰虞貴人。建康甲申八月即位。時年二歲。梁太后臨朝。梁冀輔政。次年三月而崩玉堂前殿。壽三歲。葬于懷陵)運數一年。
(丙戌) 質帝纘改本初(章帝玄孫。渤海王鴻之子也。八歲即位。聰惠夙成。甞朝會日。梁冀曰跋扈將軍。冀惡之。鴆于玉堂前殿。壽九歲葬靜陵)在位一年。
(三 丁亥) 桓帝志改建和(章帝曾孫。蠡吾侯翼之子。十五即位。梁冀輔政。永康丁未崩于德陽前殿。壽三十六。葬宣陵也)在位二十一年。
(四 己丑) 安息國沙門。安清字世高。本世子當嗣位。讓之叔父舍國出家。既至洛京譯經二十九部。一百七十六卷。絕筆于靈帝建寧三年。因附舟浮游次廬山之䢼亭廟。艤舟祠下廟神靈甚。能分風送往來之舟。有乞神竹者。未許而斫。神怒覆其舟致竹斫處。過者雀息汗下。高之舟人奉牲請福。神輒降語曰。舟有沙門。乃不與俱來耶。高至廟下神復降與高語奮。因泣曰。弟子家此湖。千里皆所轄。坐宿多嗔今報形極醜。又旦夕且死必入地獄。有縑千段并雜寶玩。當為建寺塔為冥福。高許之。徐曰。能出形相勞苦乎。神曰。形惡奈何。高曰。第出之。於是出其首帳中。蓋巨蟒也。高梵語呪之。蟒若雨淚俄不見。高舟未發。有少年跪前。高又呪之乃去。舟人問誰氏子。高曰。廟神已脫蟒形。故來謝耳。高至豫章建寺。即今大安是也。由高而名蓋江淮寺塔之始。
(庚寅) 改和平。是年月支國沙門支婁迦讖。亦云支讖。至洛陽。少時習語大通華言。遂譯經。至中平年凡二十一部。六十三卷。永興元年桓帝於宮中鑄黃金浮圖老子像。覆以百寶華蓋。身奉祀之。由是百姓嚮化。事佛彌盛。
(辛卯) 改元嘉。
世尊示滅一千一百年矣。
(癸巳) 改永興。
(乙未) 改永壽。
(戊戌) 改延熹。
(五 乙巳) 第二十二祖摩拏羅者。那提國常自在王之子也。年三十遇婆脩祖師。出家傳法至西印度。彼國王名得度。即瞿曇種族。歸依佛乘勤行精進。一日於行道處現一小塔。欲取供養眾莫能舉。王即大會梵行禪觀咒術等三眾。欲問所疑。時尊者亦赴此會。是三眾皆莫能辨。尊者即為王廣說塔之所因(阿育王造塔此不繁錄)今之出現。王福力之所致也。王聞是說。乃曰。至聖難逢世樂非久。即傳位太子。投祖出家。七日而證四果。尊者深加慰誨。曰汝居此國善自度人。今異域有大法器。吾當化令得度。曰師應迹十方動念當至。寧勞往邪。尊者曰然。於是焚香遙語月氏國鶴勒那比丘曰。汝在彼國教導鶴眾。道果將證宜自知之。時鶴勒那為彼國王寶印說脩多羅偈。忽覩異香成穗。王曰。是何祥也。曰此是西印度傳佛心印祖師摩拏羅將至。先降信香耳。曰此師神力何如。答曰。此師遠承佛記。當於此土廣宣玄化。時王與鶴勒那俱遙作禮。尊者知已即辭得度比丘往月氏國。受王與鶴勒那供養。後鶴勒那問尊者曰。我止林間已經九白(印土以一年為一白)有弟子龍子者。幼而聰慧。我於三世推窮莫知其本。尊者曰。此子於第五劫中。生妙喜國婆羅門家。曾以旃檀施於佛宇作槌撞鐘。受報聰敏為眾欽仰。又問。我有何緣而感鶴眾。尊者曰。汝第四劫中。甞為比丘。當赴會龍宮。汝諸弟子咸欲隨從。汝觀五百眾中無有一人堪任妙供。時諸子曰。師常說法。於食等者於法亦等。今既不然。何聖之有。汝即令赴會。自汝捨生趣生轉化諸國。其五百弟子以福微德薄生於羽族。今感汝之惠故。為鶴眾相隨。鶴勒那聞語曰。以何方便令彼解脫。尊者曰。我有無上法寶。汝當聽受化未來際。而說偈曰。心隨萬境轉。轉處實能幽。隨流認得性。無喜復無憂。時鶴眾聞偈飛鳴而去。尊者跏趺寂然奄化。鶴勒那與寶印王起塔。當後漢桓帝十九年乙巳歲也。
(丁未) 改永康。
大教至東夏一百年矣。
(六 戊申) 靈帝宏改建寧(章帝玄孫。瀆亭侯萇之子。十二即位。己巳四月崩南宮。壽三十四。葬文陵)在位二十二年(寶武立之)。
(壬子) 改熹平。
(七 癸丑) 是年天竺沙門竺佛朔至洛陽。譯道行般若經。棄文存質深得經意。至光和中同支讖譯般舟三昧經共三卷。是歲安息國優婆塞都尉安立至洛邑。同清信士嚴佛調譯經七部。于時復有沙門支曜康巨康猛詳曇果竺大力。皆善方言。終漢世譯經凡三百餘部。
(丙辰) 詔刻五經文字。立于太學門外。
(戊午) 改光和。
(八 甲子 四八) 改中平○道始黃巾作叛(初鉅鹿張角假術治病謀反。自稱大賢良師。又稱黃天。不數年結三十六萬人。皆著黃巾。以甲子年同起殺人。建安癸未焚燎郡縣。內外太恐。舉左中郎將皇甫嵩討滅之張角病死。斬其尸。二弟皆戰敗。俱斬而盡。傳首京師)。
(戊辰) ○(綦稠自稱天子起兵作亂)。
(己巳) ○(益州黃巾馬相自稱天子○黃巾賊起。鬻獄賣官。宦者卜常侍弄權。天下大亂)。
洪農王辯(靈帝子即位。改元光熹○袁術收閹人無少長斬之。又改昭寧。太原牧董卓入朝。因廢帝為洪農王。尋又殺之。立陳留王為少帝矣)在位一百七十日。
(九 庚午) 獻帝協改初平(靈帝中子。昭寧九年九月。董卓廢皇子辯立之。九歲即位)在位三十年(董卓自稱太師。劫土遷都長安。三年王允呂布共誅卓滅其族矣)。
(十 癸酉) 帝初平中。牟子未詳名字。世稱牟子。既修經傳諸子。書無大小靡不好之。雖不樂兵法。然猶讀焉。雖讀神仙不死之書。抑而不信。以為虛誕。會靈帝崩後天下擾亂。獨交州差安。北方異人咸來在焉。多為神仙辟穀長生之術。牟子常以五經難之。道家術士莫敢對焉。先是牟子將母辟世。年二十六。歸蒼梧娶妻。太守聞其守學。謁請署吏。時年方盛志精於學。又見世亂無仕宦意。竟不就。是時州郡相疑隔塞不通。太守以其博學多識。使致敬荊州。牟子以為榮爵易讓使命難辭。會牧弟豫章太守為中郎將笮融所殺。牧遣騎都尉劉彥將兵赴之。恐外界相疑兵不得進。乃謂牟子曰。弟為逆賊所害。骨肉之痛憤發肝心。嘗遣劉都尉行。恐界外疑難行人不通。君文武兼備有專對才。今欲相屈之零陵桂陽假塗於通路何如。牟子重違其意諾之。適其母卒。遂不果行。久之歎曰。老子絕聖棄智修身保真。萬物不干其志。天下不易其樂。天子不得臣。諸侯不得友。故可貴也。於是銳志於佛道兼研老子五千文。舍玄妙為酒漿。翫五經為琴篁。世俗之徒多非之者。以為背五經而向異道。欲爭則非道。欲默則不能。遂以筆墨之間。略引聖賢之言證解之。名曰牟子理惑云。
問曰。何以正言佛。佛為何謂乎。牟子曰。佛者覺也。猶名三皇神五帝聖也。佛乃道德之元祖。神明之宗緒。佛之言覺者。恍惚變化分身散體。或存或亡。能小能大。能圓能方。能老能少。能隱能彰。蹈火不燒履刃不傷。在污不染在禍無殃。不行而到。無作而光。故號為佛也。
問曰。何謂之為道。道何類也。牟子曰。道之言導也。導人致於無為。牽之無前引之無後。舉之無上抑之無下。視之無形聽之無聲。四表為大蜿蜒其外。毫釐為細間關其內。故謂之道。
問曰。孔子以五經為道教。可拱而誦履而行之。今子說道虛無恍惚。不見其意不指其事。何與聖人言異乎。牟子曰。不可以所習為重所希為輕。惑於外類失於中情。立事不失道德。猶調絃不失宮商。天道法四時。人道法五常。老子曰。有物混成先天地生可以為天下母。吾不知其名。強字之曰道。道之為物。居家可以事親。宰國可以治民。獨立可以治身。履而行之充乎天地。廢而不用消而不離。子不解之。何異之有乎。問曰。夫至實不華至辭不飾。言約而至者麗。事寡而達者明。故珠玉少而貴瓦礫多而賤。聖人制七經之本。不過三萬言。眾事備焉。今佛經卷以萬計言以億數。非一人力所能堪也。僕以為煩而不要矣。牟子曰。江海所以異於行潦者。以其深廣也。五嶽所以別於丘陵者。以其高大也。若高不絕山阜。跛羊凌其巔。深不絕涓流。孺子浴其淵。麒麟不處苑囿之中。吞舟之魚不遊數仞之溪。剖三寸之蚌。求明月之珠。探枳?之巢。求鳳凰之雛。必難獲也。何者小不能容大也。佛經前說億載之事。却道萬世之要。太素未起太始未生。乾坤肇興。其微不可握。其纖不可入。佛悉彌綸其廣大之外。剖析其窈妙之內。靡不紀之。故其經卷以萬計言以億數。多多益具眾眾益富。何不要之有。雖非一人所堪。譬若臨河飲水。飽而自足。焉知其餘哉。問曰。佛經眾多。欲得其要而棄其餘。直說其實而除其華。牟子曰否。夫日月俱明各有所照。二十八宿各有所主。百藥並生各有所愈。狐裘備寒。絺綌御暑。舟輿異路俱致行旅。孔子不以五經之備。復作春秋孝經者。欲博道術恣人意耳。佛經雖多。其歸為一也。猶七典雖異。其貴道德仁義亦一也。孝所以說多者。隨人行而與之。若子張子游俱問一孝。而仲尼答之各異。攻其短也。何棄之有哉。
問曰。佛道至尊至大。堯舜周孔曷不修之乎。七經之中不見其辭。子既耽詩書悅禮樂。奚為復好佛道喜異術。豈能踰經傳美聖業哉。竊為吾子不取也。牟子曰。書不必孔丘之言。藥不必扁鵲之方。合義者從。愈病者良。君子博取眾善以輔其身。子貢云。夫子何常師之有乎。堯事尹壽。舜事務成。旦學呂望。丘學老聃。亦俱不見於七經也。四師雖聖。比之於佛。猶白鹿之與麒麟。燕鳥之與鳳凰也。堯舜周孔。且猶與之。況佛身相好變化神力無方。焉能舍而不學乎。五經事義或有所闕。佛不見記何足怪疑哉。
問曰。云佛有三十二相。八十種好。何其異於人之甚也。殆富耳之語。非實之云也。牟子曰。諺云。少所見多所怪。覩馲駝言馬腫背。堯眉八彩。舜目重瞳。臯陶鳥啄。文王四乳。禹耳三漏。周公背僂。伏羲龍鼻。仲尼反宇。老子日角目玄鼻有雙柱手把十文足蹈二五此非異於人乎。佛之相好奚疑哉。
問曰。孝經言。身體髮膚受之父母。不敢毀傷。曾子臨沒。啟予手啟予足。今沙門剃頭。何其違聖人之語。不合孝子之道也。吾子常好論是非平曲直。而反善之乎。牟子曰。夫訕聖賢不仁。平不中不智也。不仁不智何以樹德。德將不樹頑嚚之儔也。論何容易乎。昔齊人乘船渡江。其父墮水。其子攘臂捽頭顛倒。使水從口出。而父命得甦。夫捽頭顛倒不孝莫大。然以全父之身。若拱手修孝子之常。父命絕於水矣。孔子曰。可與適道。未可與權。所謂時宜施者也。且孝經曰。先王有至德要道。而泰伯斷髮文身。自從吳越之俗。違於身體髮膚之義。然孔子稱之。其可謂至德矣。仲尼不以其斷髮毀之也。由是而觀。苟有大德不拘於少。沙門捐家財棄妻子不聽音視色。可謂讓之至也。何違聖語不合孝乎。豫讓吞炭漆身。聶政皮面自刑。伯姬蹈火。高行截容。君子為勇而死義。不聞譏其毀沒也。沙門剃除鬚髮。而比之於四人。不已遠乎。
問曰。夫福莫踰於繼嗣。不孝莫過於無後。沙門棄妻子捐貨財終身不娶。何違其福孝之行也。自苦而無奇。自拯而無異矣。牟子曰。夫長左者必短右。大前者必狹後。孟公綽為趙魏老則優。不可以為滕薛大夫。妻子財物世之餘也。清躬無為道之妙也。老子曰。名與身孰親。身與貨孰多。又曰。觀三代之遺風。覽乎儒墨之道術。誦詩書修禮節。崇仁義視清潔。鄉人傳業名譽洋溢。此中士所施行。恬惔者所不恤。故前有隋珠後有虓虎。見之走而不敢取何也。先其命而後其利也。許由栖巢木。夷齊餓首陽。聖孔稱其賢曰。求仁得仁者也。不聞譏其無後無貨也。沙門修道德。以易遊世之樂反淑賢以貸妻子之歡。是不為奇孰與為奇。是不為異孰與為異哉。
問曰。黃帝垂衣裳製服飾。箕子陳洪範。貌為五事首。孔子作孝經。服為三德始。又曰。正其衣冠尊其瞻視。原憲雖貧不離華冠。子路遇難不忘結纓。今沙門剃頭髮被赤布。見人無跪起之禮儀。無盤旋之容正。何其違貌服之制。乖搢紳之飾也。牟子曰。老子云。上德不德。是以有德。下德不失德。是以無德。三皇之時。食肉衣皮巢居穴處。以崇質朴。豈復須章甫之冠。曲裘之飾哉。然其人稱有德而敦龐。正信而無為。沙門之行有似之矣。或曰。如子之言。則黃帝堯舜周孔之儔。棄而不足法也。牟子曰。夫見博則不迷。聽聰則不惑。堯舜周孔修世事也。佛與老子無為志也。仲尼栖栖七十餘國。許由聞禪洗耳於淵。君子之道。或出或處。或默或語。不溢其情。不淫其性。故其道為貴。在乎所用。何棄之有乎。
問曰。佛道言。人死當更復生。僕不信此言之審也。牟子曰。人臨死其家上屋呼之。死已復呼誰。或曰。呼其魂魄。牟子曰。神還則生。不還則神何之乎。曰成鬼神。牟子曰。是也。魂神固不滅矣。但身自朽爛耳。身譬如五穀之根葉。魂神如五穀之種實。根葉生必當死。種實豈有終已。得道身滅耳。老子曰。吾有大患。以吾有身也。若吾無身。吾有何患。又曰。功成名遂身退。天之道也。或曰。為道亦死。不為道亦死。有以異乎。牟子曰。所謂無一日之善。而問終身之譽者也。有道雖死神歸福堂。為惡既死神當其殃。愚夫闇於成事。賢智預於未萌。道與不道如金比草。禍之與福如白方黑。焉得不異。而言何易乎。
問曰。孔子云。未能事人。焉能事鬼。未知生焉知死。此聖人之所紀也。今佛家輒說生死之事鬼神之務。此殆非聖哲之語也。夫履道者當虛無淡泊歸志賀朴。何為乃道生死以亂志。說鬼神之餘事乎。牟子曰。若子之言。所謂見外而未識內者也。孔子疾。子路不問本末。以此抑之耳。孝經曰。為之宗廟以鬼享之。春秋祭祀以時思之。又曰。生事愛敬死事哀戚。豈不教人事鬼神知生死哉。周公為武王請命曰。旦多才多藝能事鬼神。夫何為也佛經所說生死之趣。非此[顓-而+(一/糸)]乎。老子曰。既知其子復守其母。沒身不殆。又曰。用其光復歸其明。無遺身殃。此道生死之所趣。吉凶之所住。至道之要。實貴寂寞。佛家豈好言乎。來問不得不對耳。鐘鼓豈有自鳴者。桴加而有聲矣。
問曰。孔子曰。夷狄之有君。不如諸夏之亡也。孟子譏陳相更學許行之術曰。吾聞用夏變夷。未聞用夷變夏者也。吾子弱冠學堯舜周孔之道。而今舍之更學夷狄之術。不已惑乎。牟子曰。此吾未解大道時之餘語耳。若子可謂見禮制之華。而闇道德之實。?炬燭之明。未覩天庭之日也。孔子所言矯世法矣。孟軻所云疾專一耳。昔孔子欲居九夷。曰君子居之。何陋之有。及仲尼不容於魯衛。孟軻不用於齊梁。豈復仕於夷狄乎。禹出西羌而聖哲。瞽叟生舜而頑嚚。由余產狄國而覇秦。管蔡自河洛而流言。傳曰。北辰之星。在天之中。在人之北。以此觀之。漢地未必為天中也。佛經所說上下周極。含血之類物皆屬佛焉。是以吾復尊而學之。何為當含堯舜周孔之道。金玉不相傷。隋璧不相妨。謂人為惑。特自惑乎。
問曰。孔子稱。奢則不孫儉則固。與其不孫也寧固。御孫曰。儉者德之共。侈者惡之大也。今佛家以空財布施為名。盡貨與人為貴。豈有福哉。牟子曰。彼一時也。此一時也。仲尼之言疾奢而無禮。御孫之論刺莊公之刻桶。非禁布施也。舜耕歷山恩不及州里。太公屠牛惠不逮妻子。及其見用。恩流八荒惠施四海。饒財多貨貴其能與。貧困屢空貴其履道。許由不貪四海。伯夷不甘其國。虞卿捐萬戶之封。救窮人之急。各其志也。僖負羈以盤飱之惠。全其所居之閭。宣孟以一飯之故。活其不貲之軀。陰施出於不意。陽報皎如白日。況傾家財發善意。其功德巍巍如嵩泰。悠悠如江海矣。懷善者應之以祚。挾惡者報之以殃。未有種稻而得麥。施禍而獲福者也。
問曰。人之處世。莫不好富貴而惡貧賤。樂歡逸而憚勞倦。黃帝養性以五肴為上。孔子食不厭精鱠不厭細。今沙門被赤布。日一食閉六情自畢於世。若茲何聊之有。牟子曰。富與貴是人之所欲。不以其道得之不處也。貧與賤是人之所惡。不以其道得之不去也。老子曰。五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁畋獵令人心發狂。難得之貨令人行妨。聖人為腹不為目。此言豈虛哉。柳下惠不以三公之位易其介。段干木不以其身易魏文之富。許由巢父栖木而居。自謂安於帝宇。夷齊餓于首陽。自謂飽於文武。蓋各得其志而已。何不聊之有乎。
問曰。若佛經深妙靡麗。子胡不談之於朝廷。論之於君父。修之於閨門。接之於朋友。何復學經傳讀諸子乎。牟子曰。子未達其源而問其流也。夫陳爼豆於壘門。建旌旗於朝堂。衣狐裘以當蕤賓。被絺綌以御黃鍾。非不麗也。乖其處非其時也。故持孔子之術入商鞅之門。齎孟軻之說詣蘇張之庭。功無分寸過有丈尺矣。老子曰。上士聞道勤而行之。中士聞道若存若亡。下士聞道而大笑之。吾懼大笑。故不為談也。渴不必待江河而飲。井泉之水何所不飽。是以復治經傳耳。問曰。老子云。智者不言。言者不智。又曰。大辯若訥大巧若拙。君子恥其言過行。設沙門有至道。奚不坐而行之。何復談是非論曲直乎。僕以為此德行之賤也。牟子曰。來春當大饑今秋不食。黃鍾應寒蕤賓重裘。備預雖早不免於愚。老子所云。謂得道者耳。未得道者何知之有乎。大道一言而天下悅。豈非大辨。老子不云何。功遂身退。天之道也。身既退矣。又何言哉。今之沙門未及得道。何得不言。老氏亦猶言也。如其無言五千何述焉。若知而不言可也。既不能知。又不能言愚人也。故能言不能行。國之師也。能行不能言。國之用也。能行能言。國之寶也。三品各有所施。何德之賤乎。唯不能言。又不能行。是賤也。
問曰。如子之言。徒當學辨達修言論。豈復治情性履道德乎。牟子曰。何難悟之甚乎。夫言語談論各有時也。蘧瑗曰。國有道則直。國無道則卷而懷之。寧武子曰。國有道則智。國無道則愚。孔子曰。可與言而不與言失人。不可與言而與言失言。故智愚自有時。談論各有意。何為當言論而不行哉。
問曰。云佛道至尊至快無為淡泊。世人學士多譏毀之。云其辭說廓落難用虛無難信何也。牟子曰。至味不合於眾口。大音不比於眾耳。作咸池設大童發簫韶詠九成。莫之和也。張鄭衛之絃。歌時俗之音。必不期而柎手也。故宋玉云。客歌於郢為下俚之曲。和者千人。引商激角。眾莫之應。此皆悅邪聲不曉於大度者也。韓非以管闚之見而謗堯舜。接輿以毛釐之分而刺仲尼。皆耽小而忽大者也。夫聞清商而謂之角。非彈絃之過。聽者之不聰矣。見和璧而名之石。非璧之賤也。視者之不明矣。神蛇能斷而復續。不能使人不斷也。靈龜發夢於宋元。不能免豫且之網。大道無為非俗所見。不為譽者貴。不為毀者賤。用不用自天也。行不行乃時也。信不信其命也。
問曰。吾子以經傳理佛之說。其辭富而義顯。其文熾而說美。得無非真誠是子之辯也。牟子曰。吾非辯也。見博故不惑耳。問曰。見博其有術乎。牟子曰。由佛經也。吾未解佛經之時。惑甚於子。雖誦五經適以為華未成實矣。吾既覩佛經之說。覽老子之要。守恬淡之性。觀無為之行。還視世事猶臨天井而窺谿谷。登嵩岱而見丘垤矣。五經則五味。佛道則五穀矣。吾自聞道以來。如開雲見白日。炬火入冥室焉。
問曰。子以經傳之辭華麗之說。褒讚佛行稱譽其德。高者陵青雲。廣者踰地圻。得無踰其本過其實乎。而僕譏刺頗得疹中而其病也。牟子曰。吁吾之所褒。猶以塵埃附嵩岱。收朝露投江海。子之所謗。猶握瓢觚欲減江海。操耕耒欲損崑崙。側一拳以翳日光。舉土塊以塞河衝。吾所褒不能使佛高。子之毀不能令其下也。
論曰。牟子理惑三十有七篇。梁僧祐律師載之宏明集。可謂所從來遠矣。觀其崇德辨惑閒邪御侮。發揮大教之耿光。蓋閎覽博物之君子也。當是時。吾佛法源濫觴之初。凡西域沙門至中國者。由騰蘭而下不過十人。所新出經三百餘卷。俱小乘教。若微妙大乘諸經。皆所未至。牟子乃能玄鑑頴悟契佛心宗。得法味若是之深。比夫漢末禰衡陳元龍孔北海諸公。虛負奇資終於不聞道。不過為一俗士而死矣。然則牟子賢矣哉。惜其書不能備載。聊取二十篇輔成通論。大抵世之惑也者。雖世尊在世。尚莫能無。矧今去聖逾二千載。欲天下之廓廓皆正信。其可得哉。雖然是書正不可不以垂世也。
(十一) 漢書西域傳。史官范曄論曰。西域風土之載前史未聞也。張騫懷致遠之略。班超奮封侯之志。終能立功西遐羈服外域。自兵威之所肅服。財賂之所懷誘。莫不獻方奇納愛質。露頂肘行東向而朝天子。故設戊巳之官分任其事。建都護之帥總領其權。其後甘英乃抵條支。而歷安息臨海以望大秦。拒五門陽關四萬餘里。靡不周盡焉。若其境俗性習之優薄。產載物類之區品。川河障嶺之基源。氣節涼暑之通隔。梯山棧谷繩行沙渡之道。身熱首痛風災鬼難之域。莫不備寫情形審求根實。至於佛道神化。興自身毒。而二漢方志莫有稱焉。張騫但著地多暑濕乘象而戰。班超雖列其奉浮圖不殺伐。而精文善法導達之功。靡所傳述。予聞之說也。其國則殷乎中土。玉燭和氣靈聖之所降集。賢懿之所挺生。神迹詭異則理絕人區。感驗明顯則事出天外。而騫超無聞者。豈非道祕往運數開叔葉乎。不然何誣異之甚也。漢自楚王英始盛齋戒之祀。桓帝又修華蓋之飾。將微義未譯而但神明之耶。詳其清心釋累之訓。空有兼遣之宗。道書之流也。且好仁惡殺蠲救崇善。所以賢達君子多愛其法焉。然好大不經奇譎無已。雖鄒衍談夭之辯。莊周蝸角之論。尚未足以概其萬一。又精靈起滅因報相尋。若曉而昧者。故通人多惑焉。蓋導俗無方適物異會。取諸同歸措夫疑說。則大道通矣。曄字蔚宗。生晉末仕於宋。凡史籍議論釋氏。自曄而始。
(十二) 袁宏漢紀曰。永平十一年。浮屠者佛也。西域天竺有佛道焉。佛者漢言覺。將覺悟群生也。其教以修善慈心為主。不殺生專務清淨。其精者號為沙門漢言息心。蓋息意去欲而歸於無為也。又以為人死精神不滅。隨復受形。生時所行善惡皆有報應。故所貴行善修道。以鍊精神不已。以至無為而得為佛也。佛身長一丈六尺。黃金色項中佩日月光。變化無方無所不入。故能化通萬物而大濟群生。初明帝夢見金人長大項有日月光。以問群臣。或曰。西方有神。其名曰佛。其形長大。因遣使天竺問其道術。圖其形像而還。有經數千萬卷。以虛無為宗。包羅精麁無所不統。善為宏闊遠大之言。所求在一體之內。所明在視聽之外。世俗之人。或以為虛誕。然歸於玄微。深遠難得而測。故王公大人觀死生報應之際。莫不矍然而自失焉。本朝東坡居士曰。此殆中國始知有佛時語也。雖淺近大略具足矣。野人得鹿。正爾煮食之耳。其後賣與市人。遂入公庖中饌之百方。然鹿之所以美。未有絲毫加於煮食時也。袁宏漢紀。論佛世罕見全篇。東坡大全集所載。袁宏論佛說。乃唐章瓌太子注漢書楚王英傳。所引用漢紀者。當以此全篇為正云。
(甲戌) 改興平。
(乙亥) (穀一石二十五萬。麥與豆一石。各二十萬錢)。
(丙子) 改建安。帝東歸洛。
(丁丑) (曹公遷都。許昌。以操為司空。劉備為豫州牧)是年千歲寶掌和尚至自西土。
(十三 戊寅) 沙門康猛竺大力。譯四諦及興起本行等經。六部凡十一卷於洛陽。
(辛巳) (曹操與遠紹將顏良戰于官渡。為關雲長走馬。入寨刺殺顏良)。
(己丑) (吳周瑜破曹公於赤壁矣)。
(十四) 第二十三祖鶴勒那者(勒那梵語。鶴即華言。以尊者出世常感群鶴戀慕故名)月氏國人也。姓婆羅門。父千勝。母金光。以無子故禱于七佛金幢。即夢須彌山頂一神童持金環云我來也。覺而有孕。年七歲遊行聚落。覩民間淫祀。乃入廟叱之曰。汝妄興禍福幻惑於人。歲費牲牢傷害斯甚。言訖廟貌忽然而壞。由是鄉黨謂之聖子。年二十二出家。三十遇摩拏羅尊者付法眼藏。行化至中印度。彼國王名無畏海。崇信佛道。尊者為說正法次。王忽見二人緋素服拜尊者。王問曰。此何人也。師曰。此是日月天子。吾昔曾為說法。故來禮耳。良久不見。唯聞異香。王曰。日月國土總有多少。尊者曰。千釋迦佛所化世界。各有迷盧日月。我若廣說即不能盡。王聞忻然。時尊者演無上道度有緣眾。以上足龍子早夭。有兄師子。博通彊記。事婆羅門。厥師既逝弟復云亡。乃歸依于尊者。而問曰。我欲求道。當何用心。尊者曰。汝欲求道無所用心。曰既無用心誰作佛事。尊者曰。汝若有用即非功德。汝若無作即是佛事。經云。我所作功德而無我所故。師子聞是言已。即入佛惠。時尊者忽指東北問云。是何氣象。師子曰。我見氣如白虹貫乎天地。復有黑氣五道橫亘其中。尊者曰。其兆云何。曰莫可知矣。尊者曰。吾滅後五十年。此天竺國當有難起嬰在汝身。吾將滅矣。今以法眼付囑於汝。善自護持。乃說偈曰。認得心性時。可說不思議。了了無可得。得時不說知。師子比丘聞偈欣愜。然未曉將罹何難。尊者乃密示之。言訖現十八變而歸寂。闍維畢分舍利各欲興塔。尊者復現空中而說偈曰。一法一切法一切一法攝。吾身非有無。何分一切塔。大眾聞偈遂不復分。就馱都之場而建塔焉。即後漢獻帝二十年己丑歲也。
(十五 丙申) ○道始作靈寶(張陵客蜀。居鵠鳴山作此經。又造章醮道書二十四卷。以惑百姓。陵傳子衡。衡傳子魯。自號三師。結寇謀叛。後曹操入蜀率眾降之。黃衣始滅。三張鬼法自茲始)。
(己亥) ○(正月魏王曹公薨。子丕襲位。三月改建康。十月帝禪位于丕國號魏。改元黃初。封帝為山陽公。四子俱列侯。青龍三年山陽公方崩。壽五十四。以漢天子禮葬于禪陵)。
東漢十二君。一百九十五年。
三國(蜀吳附魏年紀)魏(五主王土德姓曹氏都于鄴)雷氏曰(魏武文明齊芳高貴陳留歸晉。五主四八)。
(十六 庚子) 武帝操(字孟德。沛國譙人也。漢相國參之後。為漢相破黃巾定天下。自撰兵書三十卷。又注孫子兵法。漢封魏王。壽六十六薨。葬洛陽高陵)諡。
太祖武皇帝
文帝丕(字子桓。武帝子。受漢禪即位。丁未五月崩嘉福殿。壽四十歲。葬于首陵)改黃初。治七年。
(十七 辛丑) 蜀(姓劉氏二主都于蜀)雷氏曰(蜀唯二主四十四年)。
先主備(字玄德。涿群人也。漢景帝孫。中山靖王勝之後。三顧茅廬。舉諸葛亮孔明為謀相。關羽張飛為將。立蜀三年崩永安宮。葬惠陵。壽六十三歲)。
諡曰昭烈大帝(改年章武)吳(姓孫氏都金陵)雷氏曰(權亮休浩四主六二)。
(十八 壬寅) 大帝權(字仲謀漢將軍堅之子。蓋孫武子之後。吳郡富春人。黃龍元年春即正位于南郊。遷都建業。太元二年改神鳳。夏四月薨壽七十一。葬蔣陵)。
諡大帝(改年黃武)治三十一年。
論曰。自漢以來天下一統。建安之後鼎峙始分。袁曹競逐於中原。劉孫分鹿於江峽。五嶽塵擁九牧雲屯。或二祀而啟帝圖。或三分而陳霸業。故使魏祖挾天子而令諸侯。劉宗馮劍閣而規雍[啟-口+車]。孫氏英略高枕長江。橫武爪牙。臥龍威力。別據一域吞噬為心。各跨疆場牙嚴關塞。廣延俊乂以佐股肱。厚禮賢能賓為國寶。良匠妙法復此徂來。僧會適吳。舍利耀靈於江左。迦羅游魏。禁律剏啟於洛都。歸戒自此大行。圖塔由斯特立。譯人隨俗仍彼方言。出經逐時便題名目。故有吳品蜀晉耀焉。重疊再翻由此而始。派流失譯良在於茲。且三國峙居。夫何西蜀一都。獨無於代錄。今大吳次紀。而以魏朝道俗具列于左方云。
(甲辰) 蜀後主禪(字公嗣。先主子。改元建興。在位四十一年。崩于洛矣。魏青龍二年。武侯卒。景元四年降于魏。蜀遂滅矣)。
(十九) 沙門維祇難(此云障礙)天竺國人。同沙門竺律炎至武昌郡。譯經二部。及祇難卒。律炎復於揚都譯經三部凡三卷。時優婆塞支謙者字恭明。月氏國人。初遊洛邑。受業于支亮。亮字紀明。受業于支讖。世稱天下博知不出三支。謙博覽經籍為人細長黑瘦。眼多白而睛黃。時人語曰。支郎眼中黃。身雖細是智囊。及辟地歸吳。主見而大悅。拜為博士。譯經一百二十九部。一百五十二卷。
(二十 丁未) 明帝叡。改太和(字元仲。聰悟能文文之子也。景初三年庚申崩嘉福殿。壽三十六。葬于高平陵)在位十三年。
(二十一) 陳思王曹植者。字子建。武帝中子。十歲誦詩書十餘萬言。善屬文。太祖見而異之曰。汝倩人耶。植曰。言出成論下筆成章。顧面試。奈何倩人乎。及長於世間藝術無不精練。邯鄲淳見而駭嘆。稱為天人。植每讀佛經。留連嗟玩以為至道之宗極。轉讀七聲升降曲折之響。世皆諷而則之。游魚山聞有聲特異清颺哀婉。因倣其聲為梵囋。今法事中有魚山梵。即其遺奏也。始魏武欲立為嗣。植荒酒自穢。以故得免。文帝頗嫉其才。抑而不用。甞求自試。帝不允。既而十一年中。三徙其藩。植滋不得志而薨。年三十一。初植登魚山臨東阿。喟然有終焉志。遂營墓遺誡其子令薄葬。植在日不甚信黃老。著辨道論見意。今載藏經中弘明集。
(己酉) 吳稱帝遷建業。改元黃龍。
(壬子) 吳改嘉禾。
(癸丑) 改青龍。
(丁巳) 改景初。建丑為正月。
(戊午) 蜀改延熙○吳改赤烏。
(二十二 庚申) 齊王芳。改元始(字蘭卿。明帝無子。養秦王詢。宮省事祕人皆不知。年八歲承魏祚。至嘉平六年。為司馬懿廢之)治十三年。
(二十三 辛酉) 康僧會至吳。按吳書。赤烏四年有康居國大丞相子姓康名僧會。棄俗歸緇。以遊化為任。行至建康營立茅茨。設像行道。吳人初見謂為妖異。有司奏聞。主欲幽之。詔至問狀。會進曰。如來大師化已千年。然靈骨舍利神應無方。昔阿育王奉之為八萬四千塔。此其遺化也。權以為誇己曰。舍利可得當為塔之。苟無驗則國有常刑。會假請七日。謂其屬曰。大法廢興在此一舉。當加意洗心潔齋懇求。至期無驗。乃展二七又無應。權趣烹之。會默念。佛名真慈。夫豈違我哉。更請展期以死祈之又七日。眾懼無天色。五鼓矣聞鏗然有聲。起視缾中五色錯發。大呼曰。果吾願矣。黎明進之。權與公卿聚觀歎曰。希世之瑞也。會又言。舍利威神一切世間無能壞者。權使力士槌之。砧碎而光明自若。於是建塔度人立寺。以其所名佛陀里。寺曰建初。奉會居焉。
(二十四) 闞澤字德潤。會稽山陰人也。家世為農。澤好學。居貧無資。常為人傭書自給。所寫既畢即能誦。由是博覽群籍。虞翻見而稱之曰。闞生矯傑。仲舒子雲流也。仕吳官太子太傅。僧會入吳。吳主因問澤曰。漢明何年佛教入中國。何緣不及東方。澤曰。永平十一年佛法初至。計今赤烏四年。則一百七十年矣。永平十四年。五嶽道士褚善信等乞與西僧角法。於是善信負妄而死。其徒以尸歸葬南嶽。凡中國人例不許出家。無人流布。加之罹亂歲深方至本國。吳主曰。孔子制述典訓教化來業。老莊修身自玩。放蕩山林歸心澹泊。何事佛為。澤曰。孔老二教法天制用。不敢違天。佛教諸天奉行。不敢違佛。以此言之。優劣可見也(出宗炳明佛論)。
(二十五 甲子丁卯 四九) 第二十四祖師子比丘者。中印度人也。姓婆羅門。得法遊方至罽賓國。有波利迦者。本習禪觀。故有禪定知見執相捨相不語之五眾。尊者詰而化之。四眾皆默然心服。唯禪定師達磨達者。聞四眾被責憤悱而來。尊者曰。仁者習定何當來此。既至于此胡云習定。曰我雖來此心亦不亂。定隨人習。豈在處所。祖曰。仁者既來。其習亦至。既無處所豈在人習。曰定習人故非人習定。我雖來此其定常習。祖曰。人非習定定習人故。當自來時其定誰習。彼曰。如淨明珠內外無翳。定若通達必當如此。祖曰。定若通達一似明珠。今見仁者非珠之徒。彼曰。其珠明徹內外悉定。我心不亂猶若此淨。祖曰。其珠無內外。仁者何能定。穢物非動搖。此定不是淨。達磨達蒙師開悟心地朗然。尊者既攝五眾名聞遐邇。方求法嗣遇一長者。引其子問尊者曰。此子名斯多。當生便拳左手。今既長矣。而終未舒。願尊者示其宿因。尊者覩之。即以手接曰。可還我珠。童子遽開手奉珠。眾皆驚異。祖曰。吾前報為僧。有童子名婆舍。吾甞赴西海齋。受嚫珠付之。今還吾珠。理固然矣。長者遂舍其子出家。祖與受具。以前緣故名婆舍斯多。祖即謂曰。吾師密有懸記。罹難非久。如來正法眼藏今轉付汝。汝應保護普潤來際。偈曰。正說知見時。知見俱是心。當心即知見。知見即于今。尊者說偈已。以僧伽梨衣密付斯多。俾之他國隨機淹化。斯多受教直抵南天。當魏齊王芳元始八年丁卯歲也。尊者以難不可苟免。獨留罽賓。時本國有外道二人。一名摩目多。二名都落遮。學諸幻法欲共謀亂。乃盜為釋子形像潛入王宮。且曰。不成即罪歸佛子。妖既自作禍亦旋踵。事既敗。王果怒曰。吾素歸心三寶。何乃構害一至于斯。即命破毀伽藍祛除釋眾。復自秉劍至尊者所。問曰。師得蘊空否。尊者曰。已得蘊空。曰離生死否。曰已離生死。王曰。既離生死可施我頭。祖曰。身非我有何悋於頭。王即揮劍斷尊者首。涌白乳高數尺。王之右臂旋亦墮地。七日而終。太子光首歎曰。我父何故自取其禍。時有象白山仙人者。深明因果。即為光首廣宣宿因解其疑網(事具聖胄集及寶林傳中)遂以師子尊者報體。而建塔焉。尊者付婆舍斯多心法信衣為正嗣。外傍出達磨達四世二十二師。祖罹難時。乃在魏高貴鄉公己卯歲也。
(二十六 己巳) 改嘉平。
(庚午) 嘉平二年。西竺曇摩迦羅及婆芬陀至洛陽。與康僧顗等翻譯眾經。四分律鈔云。自漢以來法流濫觴。比丘特剪髮而已。未有律儀。供會齋懺事同祠祀。至曹魏之初。一同漢式。迨嘉平間。天竺曇摩迦羅(此云四時)及梵僧曇無德。康僧藏師地梨茶耶。乃阿瑜闍第九世弟子也。藏承其後妙善律宗。准用十僧大行佛制。而以戒心為日用。立羯磨受具。中夏戒律之始也。
(辛未) 吳改太元。
世尊示滅一千二百年矣。
(壬申) 吳王亮(字子明。權之少子。十歲即位。改元建興。治七年。後孫綝黜亮為會稽王。立兄孫休)。
(二十七 甲戌) 高貴鄉公髦(字士彥。文帝孫。東海定王霖子。己卯為司馬昭弑之。壽二十)。
改正元。治六年。
吳改五鳳。
(丙子) 改甘露○吳改太平。
(戊寅) 蜀改景耀。
吳王休(字子烈。權第六子。孫綝廢亮立之。改永安元年。治六年。壽三十崩)。
(二十八 己卯) 罽賓國賊。竊釋子形服作亂。王怒以為釋子不知恩。遂毀伽藍罷釋氏。二十四祖師子尊者遇害而寂。
(二十九 庚辰) 陳留王奐。改景元(武帝孫。燕王宇之子。是年六月大將軍司馬師。弑其君高貴鄉公。復立常道鄉公。即奐也。是為元帝。咸熙二年二月讓位晉王。晉王固辭。八月薨。孫晉炎繼其位。帝又讓之。炎受而立之。是為西晉矣)治五年。
(三十 辛巳) 沙門朱士衡。於洛講道行般若經。義有闕文發足于闐求正本。漢地講經自此而始。
(癸未) 蜀改炎興。魏鄧艾兵至。後主出降國亡右蜀漢二主。四十三年(而魏併之)。
(甲申) 魏咸熙元。
吳王皓(字元宗。孫和之子。初號明主。後恣淫虐。甞燒鋸斷人頭。或剝人面皮鑿人眼睛。在位十七年。死於洛陽。壽四十二。改元興)。
佛祖歷代通載卷第五
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第六
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
西晉
(一) 雷氏曰(宣景文武惠懷愍帝西晉四主五十二年)。
高祖宣帝懿(姓司馬氏。王金德都洛陽。字仲達。河內溫人也。高陽氏之後。祖雋頴川太守。父防京兆尹。帝乃防之次子。事魏忠烈。大有賢能。壽七十三崩。葬高原陵)。
景帝師(字子元。宣之長子。壽四十八。崩于許昌。葬峻平陵)。
文帝昭(字子上。景之母弟。壽五十五。崩于露寢。葬峻平陵)。
(乙酉) 武帝炎(字安世。文之長子。寬惠仁厚。好莊老之書。咸熙二年受魏禪降。封晉賓為陳留王。遷于鄴。用天子儀衛之。帝自滅吳之後。奢侈縱恣。後宮殆將萬人。甞乘華車至于所寢。己酉四月崩含章殿。壽五十五。葬峻陽陵)在位二十五年。改元大始。
(二) 吳孫皓始即位。改甘露元年。下令遍毀神祠被及梵宇。臣僚諫。先帝感瑞剏寺。不可毀也。乃遣臣張昱往告康僧會。會挫其辭理辯鋒出。昱不能屈。歸以會才高聞。皓召至。問曰。佛言善惡報應。可得聞乎。會曰。明主以孝慈治天下。則赤烏翔而老人見。以仁德育萬物。則醴泉冽而嘉禾茁。善既有應惡亦如之。故為惡於隱鬼得而誅之。為惡於顯人得而誅之。易稱積善餘慶。詩美求福不回。雖儒典之格言。即佛教之明訓。皓曰。然則周孔既明。安用佛教。會曰。周孔不欲深言。故略示其跡。佛教不止淺言。故詳示其要。皆為善也。聖人唯恐善之不多。陛下以為嫌何也。皓無以酬之。遂罷。他日宿衛治圃得金像。皓使置穢處蒙不潔以為笑樂俄得腫疾晝夜呻吟。占者曰。坐犯神祠。禱諸廟不効。宮人有奉佛者曰。乃不請福於佛耶。皓仰視曰。佛神若是怪乎。曰佛之威靈視神如天淵。皓乃悟曰。吾以慢像致此耳。趣迎像龕而供事之。仍請會說法悔罪。會為開示玄要。并取本業百二十願。分二百五十事。使皓行住坐臥增益善意。及授之五戒。少頃疾愈。由是奉會為師。崇飾寺塔。
(三) 太始元年。月氏國沙門曇摩羅奈。晉言法護。至洛陽。護學究三十六國道術。兼通其語。及自天竺大齎梵本婆羅門經達於玉門。因居燉煌。世號燉煌菩薩。後游洛邑及之江左。永嘉中隨處譯經。未甞暫停。時優婆塞聶承遠執筆助翻。垂四百卷。及承遠卒。其子道真者。詢稟咨承法護。筆授外道真自譯經六十餘卷。時晉沙門釋法炬法立支敏度及優婆塞衛仕度等。譯出眾經。外炬與立等每相參合。廣略異同編次部類。凡一百四十餘卷。復有沙門畺良婁至安法欽竺叔蘭白法祖支法度等。各出眾經。所以西晉已來宣譯漸盛。
論曰。吳黃武初。陸績有言曰。從今更六十年。天下車同軌書同文。及泰康改元而吳平天下一統。果如績言。自是才二十載。至永寧之初。正道?頹群雄嶽峙。趙王剏基叛逆。篡主於朝張軌繼請外遷。擅據涼土內外糜沸。仍漸亂階。劉淵所以平陽。李雄因茲井絡。懷帝蒙塵外郡。愍后播越長安。既道藉時興而兩都版蕩。法由人顯屬二主恓惶。萬姓崩離歸信靡託。百官失守釋種無依。時有沙門竺法護及釋法炬等。忘身利物志在宏宣。匪憚苦辛闡法為務。護於晉世譯經最多。且晉雖不文文才實著。翻傳妙典日有賞音。所以禮樂衣冠晉朝始備。信源道種相資而興焉。
(丙戌) 吳改寶鼎。
(丁亥) 大教東流二百年矣。
(己丑) 吳改建衡。
(壬辰) 吳改鳳凰。
(乙未) 改咸寧○吳改天冊。
(丙申) 吳改天璽。明年又改天紀。
(己亥) ○九月會公示疾而化。
(庚子) 改大康(滅吳) 右吳四主六十年(而晉併之天下一統)。
(四 壬寅) 會稽育王塔緣起。有劉薩訶。病死入冥見梵僧。指往會稽育王塔處懺悔。既穌出家名惠達。及至會稽遍求不見。偶一夜聞地下鍾聲。倍加誠懇。經三日忽從地涌出寶塔。高一尺四寸。廣七寸。佛像悉具。達既見塔精勤禮懺。瑞應甚多。明州塔此其始也。
(五 庚戌) 惠帝衷改永熙(字正度。武次子。生而不惠。不辨菽麥。娶賈充女南風為后。淫虐酷殘。誅滅大臣。致天下大亂。為司馬越鴆于顯陽殿。壽四十八。葬太陽陵)治十七年。
(六 辛亥) 改元康。又改永平。
道家三皇經。乃鮑靜所撰十四紙也。彼曰。凡諸侯有此文者必為國王。大夫有此文者為人父母。庶人有此文者錢財自聚。婦人有此文者必為皇后。既犯國諱。永康中被誅。出晉史。後人改曰三洞。至唐二十年貞觀間。吉州囚人劉紹妻王氏。有五嶽真仙圖及鮑靜所撰三皇經。時吉州司法參軍吉辨因檢囚。於王氏處得之申省。勅令邢部郎中紀懷業等。追京下道士張惠元成武英等勘問。得在先道士鮑靜所撰妄為墨本。非今元等所造。勅令毀除。追諸道士及百姓有此文者。其年冬並集得之。遂於禮部廳前悉焚之。
(甲寅) 瑞像到龜茲國(已上一千二百八十五年在西竺。是年始到丘慈。凡住六十八年)。
(七) 永平四年。天竺沙門耆域至洛陽。指沙門竺法淵曰。此菩薩從羊中來。指竺法興曰。此菩薩從天中來。又曰。比丘衣服華麗大違戒律。非佛意也。望見帝都宮室曰。大略似忉利天宮。然人天殊分。疲民之力繕刻如此。不亦侈乎。未幾而洛陽亂。域辭歸天竺。數百人遮道。請中食乃行。域許之。明日百餘家域分身同時赴之。家喜其來。及發跡洛南。域徐行而追者不及。即以杖畫地曰。于此訣矣。是日有出長安者。見域在寺中。有賈胡濕登者。其夕會域宿于流沙。蓋一昔萬里沙門神迹。于此為濕云。初域來交廣。並有靈異。既達襄陽。欲寄載過江。舟人見是胡僧。輕而不渡。及舡達岸域已前行。路見兩虎。虎弭耳掉尾。域以手摩其頭。虎下道而去。見者皆敬焉。
(庚申) 改永康。
(辛酉) 改永寧(正月趙王倫纂位遂誅之)。
十六國(自永寧之後所在分十六國五凉四燕二趙三秦大夏并蜀為十六)。
雷氏曰。張軌據涼號曰前涼。九主六七符堅侮亡。
李特據益號曰後蜀。六主四六桓溫戮辱。
劉淵平陽號曰前趙。四主二六石勒平勦。
石勒襄國號曰後趙。六主三二冉閔除討。
符健長安號曰前秦。五主四四姚萇反臣。
慕雋據鄴號曰前燕。二主二二滅于符堅。
姚萇長安號曰後秦。三主三二劉裕即真。
乞伏金城號曰西秦。四主二八赫連使賓。
呂光姑臧號曰後涼。四主十三姚興復彊。
慕容山中號曰後燕。四主四二馮跋滅焉。
烏狐廣武號曰南涼。三主十九熾盤僭王。
慕德廣固號曰南燕。二主十一劉裕得天。
李暠燉煌號曰西涼。二主二四蒙遜威彊。
蒙遜張掖號曰北涼。二主三九拓跋乃昌。
赫連朔方號曰大夏。二主二五魏有天下。
馮跋昌黎號曰北燕。魏滅。二主二十八年。是十六國雜晉魏間。
前涼張軌(字士彥。安定烏氏人。漢張耳十七代孫。永寧初涼州刺史。建興年僭立為王。依晉王朔立十三年晉武太元滅)。
(壬戌) 改大安。
後蜀李特(字玄休。巴西宕渠人。其先廩君之裔。自氐羌之亂。隨流人至蜀。自稱益州牧。號蜀。改年建初)。
(癸亥) 蜀武帝雄(字仲雋。特第三子。母曰羅氏。是年羅尚殺特而立帝。二十年改元建興。咸和八年生瘍于頭六日。而卒壽六十一)。
(甲子 五十) 改永興。
前趙劉淵(字元海。新興匈奴人。冐頓之後。初漢祖以宗女為公主。妻冐頓。約為兄弟。故子孫冐姓劉氏。都平陽六年改光熙)。
(丙寅) 改光熙○蜀改晏平。
(丁卯) 懷帝熾改永嘉(字豊度。武帝二十五子也。生而姿奇。後無罪為劉聰虜之。壽三十歲)治六年。
(戊辰) 趙改永鳳。
(庚午) 趙和(字玄泰。淵之子。身長八尺。既立改年河瑞。未幾為銳景斬於光極臺矣)。
逍劉聰改稱漢(字玄明。劉淵第四子。性極勇傑。承位自號昭武帝。改元光興。在位八年。時河東大蝗食田。唯不食黍豆。靳準率人收埋之。哭聲聞十餘里。鑽土復出。黍豆竟盡食矣)。
(辛未) 漢改嘉平。
(八 癸酉) 愍帝鄴改建興(字彥奇。武帝孫。吳王晏之子。初即位時。長安城中不盈百戶。篙棘成林官無章服印綬。唯桑板署號爾。後被劉聰虜之。使帝戎服執戟前導。降封懷安侯遇害于洛。壽十八歲)治四年。
涼張寔(字安遜。在位五年。壽四十八。號昭公)。
(九) 吳中是年有維衛迦葉二佛石像。汎海而至。吳淞江滬瀆口。遙見浮遊道士巫師往迎。並風濤汹湧。吳縣朱膺素奉正法。乃同數人共迎像。於是乘流自到。背有銘誌。登舟其輕如羽。乃奉安通玄寺供養(今開元寺事載珠林)。
(甲戌) 日隕○三日並出西方○漢星隕平陽化肉。
(乙亥) 漢改建元。
(丙子) 漢改麟嘉。
東晉 雷氏曰(元明成康穆哀廢簡武安楚恭。東晉十一。一百四年)。
(十 丁丑) 元帝睿改建武(司馬氏。王金德。遷都建鄴。避愍帝名改建康。字景文。宣帝曾孫。瑯瑘王覲之子。生于洛陽。劉聰破洛。與王導南渡據江東。壬午崩內殿。葬平陵。壽四十七)治六年。
敘曰。經云。三界無常。有為非久。晉氏之基。魏室遠系。乃誅曹爽而絕其宗。設帝策而陳其績。金承土運曆數在躬。平蜀而降大吳。升平而布寬政。文既允備武亦戢戈。百六奄臻王官失守。天下大亂莫匪斯焉。于時道俗崩離。朝不謀久。寄政江表法隨代興。沙門信士於是攸集。故就紀之。別號東晉。元帝者宣皇曾孫。恭王覲之子也。諱睿字景文。初生之辰。內有神光一室盡明。白毫生于日角之左。累官都督楊州諸軍事左丞相。懷愍敗後百官分離。或走江南。或為俘戮。長安失據帝幽平陽江東于時。忽有五日並出。都下勸睿宜稱晉王。統攝萬機以臨億兆。愍帝崩後遂即居尊。立元建武。因都建鄴。避愍帝諱改名建康。先是泰康二年。吳舊將管恭作亂。太史伍振筮曰。恭即滅矣。然更三十八年。楊州當有天子。至是果如其言。又秦始時。望氣者云。吳金陵山五百年後當出天子。始皇忌之。因發兵鑿金陵山斷。改稱抹陵冀絕其王。凡自政至睿五百二十六年。有晉金行奄君四海。又時謠曰。五馬浮渡江。一馬化為龍。永嘉喪亂宗室中。唯瑯瑘西陽汝南南頓彭城五王。獲濟江表。而睿首基為帝。將知受命上感天靈。欲跨輿圖下資地勢。地負其勢。始皇鑿之而弗亡。天降其靈。劉曜殲之而莫盡。爰自建武至於元熙。凡十二主。一百四年。華戎道俗譯經律論垂六百卷。而弘法之務至是特盛焉。
(戊寅) 改大興。
前趙劉曜(字永明。劉元海族子。少孤貧。養于元海家而承位。十二年改光初元年)。
(己卯) 後趙石勒(字世龍。上黨武鄉人。其先匈奴別部也。年十四至洛陽。依笑上都門。王衍異之曰。胡雛聲視有奇志。將為天下之患。遣人收之。會勒已去。後起兵據襄國一十五年。壽六十。勒初暴政。及見圖澄鉢長青蓮之驗。回心納諫。延及子虎慕德推賢)。
(辛巳) 涼茂(字成遜寔之弟在位四年)。
(壬午) 改永昌。上憂崩。
(十一) 天竺沙門。吉友抵建康。丞相王導見之曰。我輩人也。太尉庾亮光祿周顗廷尉柏彝。一時名公皆造門結友。聲名著搢紳間。甞對王導解帶盤礴。尚書卞望之適至。友正容肅然。有問其故。對曰。王公風道期人。卞令軌度格物。吾正當以此應之耳。柏彝欲為友作目。久之未得。友曰尸黎密(此云吉友)可謂卓朗。彝絕嘆以為盡品目之極。大將軍處仲。聞友為諸公器重。心未然。及見不覺手足增敬。周顗為僕射。領選將入局。過友嘆曰。為朝廷選賢。得如君真令人無愧耳。及顗歿友慰其孤。對靈作梵唄。清響凌雲。又呪語千餘言而去。王導甞戲之曰。外國有君。一人而已。友笑曰。使我如諸君。今日豈得在此。時以為名言。譯孔雀經。梵名尸黎密。蓋讓王位出家。如吳泰伯然。
(十二 癸未) 明帝紹改太寧(字道畿。元之長子。敏有機斷。故能以弱制強。克復大業。惜乎降年不永。未致太平崩。壽二十七。葬于平陵)治三年。
(乙酉) 涼駿(字公建。寔之子。立二十二年。壽四十)。
(十三) 第二十五祖婆舍斯多者。罽賓國人也。姓婆羅門。父寂行。母常安樂。初母夢得神劍。因而有孕。既誕拳左手。遇師子尊者顯發宿因。密受心印。後適南天至中印度。彼國王名迦勝。設禮供養。時有外道。號無我尊。先為王禮重。嫉祖之至。欲與論議。幸而勝之以固其事。乃於王前謂祖曰。我解默論。不假言說。祖曰。孰知勝負。曰不爭勝負。但取其義。祖曰。汝以何為義。曰無心為義。祖曰。汝既無心。安得義乎。曰我說無心。當名非義。祖曰。汝說無心。當名非義。我說非心。當義非名。曰當義非名。誰能辨義。祖曰。汝名非義。此名何名。曰為辨非義。是名無名。祖曰。名既非名。義亦非義。辨者是誰。當辨何物。如是往返五十九翻。外道杜口信伏。于時祖忽然面北合掌。長吁曰。我師師子尊者今日遇難。斯可傷焉。即辭王南邁。達于南天潛隱山谷。時彼國王名天德。迎請供養。王有二子。一兇暴而色力充盛。一和柔而長嬰疾苦。祖乃為陳因果。王即頓釋所疑。又有呪術師。忌祖之道。乃潛置毒於飲食中。祖知而食之。彼返受禍。遂投祖出家。祖即與受具。後六十載太子德勝即位。復信外道致難于祖。太子不如密多以進諫被囚。王遽問祖曰。予國素絕妖訛。師所傳者當是何宗。祖曰。王國昔來實無邪法。我所得者即是佛宗。王曰。佛滅已千二百年。師從誰得邪。祖曰。飲光大士親受佛印。展轉至二十四世師子尊者。我從彼得。王曰。予聞。師子比丘不能免於刑戮。何能傳法後人。祖曰。我師難未起時。密授我信衣法偈以顯師承。王曰。其衣何在。祖即於囊中出衣示王。王命焚之。五色相鮮薪盡如故。王即追悔致禮。師子真嗣既明。乃赦太子。太子遂求出家。祖問太子曰。汝欲出家當為何事。曰我若出家不為其事。祖曰。不為何事。曰不為俗事。祖曰。當為何事。曰當為佛事。祖曰。太子智慧天至。必諸聖降迹。即許出家。六年侍奉。後於王宮受具羯磨之際。大地震動頗多靈異。祖乃命之曰。吾已衰朽安可久留。汝當善護正法眼藏普濟群有。聽吾偈曰。聖人說知見。當境無是非。我今悟本性。無道亦無理。不如密多聞偈再啟祖曰。法衣宜可傳授。祖曰。此衣為難故假以證明。汝身無難何假其衣。化被十方人自信向。不如密多聞語作禮而退。祖現于神變化三昧火自焚。平地舍利可高一尺。德勝王剏浮圖而祕之。當東晉明帝太寧三年乙酉歲也。
(十四 丙戌) 成帝衍。改咸和(字世根。明帝長子。五歲即位。庾后臨政。壽二十五)治十七年。
(十五) 三藏理法師名惠理。西竺人也。東晉咸和初。來遊此土。至杭州見山岩秀麗曰。吾國中天竺靈鷲山之一小嶺。不知何年飛來。佛在世時多為仙靈所隱。今此亦復爾耶。洞舊有白猿。遂呼之。應聲而出。人始之信。飛來由是得名。師即地建兩剎。先靈鷲後靈隱。常宴坐岩中。號理公岩。今瘞塔在焉。
(戊子) 趙改太和。
(庚寅) 後趙改建平。
(壬辰) 燕慕容皝立。
(癸巳) 蜀斑(字世文。雄兄之子。初署南平將軍後立為太子。雄疾。斑侍。卒而立。一年復為雄子越殺之。壽四十一)。
趙弘(字大雅。勒之次子。立一年改元建熙。壽四十二)。
(甲午) 趙石虎(勒弘自立。盡殺勒種。改元建熙)。
(乙未) 改咸康○趙改建武。
蜀期(字世運。雄第四子。立三年改元玉桓。後自縊死。雄諸子皆為壽所殺)。
(丙申) ○後趙大旱。斗米直金一斤。
(戊戌) 蜀壽(字武考。驤之子。雄之弟。殺期自立。六年改元漢興。國號漢)。
(十六) 咸康六年。成帝幼冲。庾氷以元舅輔政。奏沙門應盡禮王者。尚書令何充等議。不應致拜。下禮官詳議。博士議與充合。而門下承氷風旨為駁。尚書令充僕射褚翌諸葛恢尚書馮懷戴廣等奏曰。世祖武皇帝。以盛明革命。肅祖明皇帝。聰聖玄覽。豈于時沙門不易屈膝。顧以不變其修善之法。所以通天下之志也。臣等謂。宜遵承先帝故事於義為長。氷固謂應盡敬。下制曰。夫萬方殊俗神道難辯。有自來矣。達觀旁通誠當無怪。況跪拜之禮。何必尚然。當後原先王所以尚之之意。豈直好此屈折而坐遘盤辟哉。良有以也。既其有以。將何以易之。然則名禮之設。其無情乎。且今果有佛耶無佛耶。有則其道固弘。無則義將安取。縱其信然。將是方外之事。方外之事豈方內所體。而當矯形體違常度易禮典棄名教。是吾所甚疑也。名教有由來。百代所不廢。昧旦丕顯後世猶殆。殆之為弊其故難尋。而今當遠慕茫昧依稀未分。棄禮於一朝。廢教於當世。使夫凡流傲逸憲度。又是吾所甚疑也。縱其信然。縱其有之。吾將通之於神明。得之於胸懷耳。軌憲宏謨固不可廢之於正朝。凡此等類皆晉民也。論其才智又常人也。而當因所說之難辨。假服飾以凌度。抗殊俗之傲禮。直形骸於萬乘。又是吾所弗取也。諸君並國器也。悟言則當測幽微。論治則當重。
(十七) 國典。苟其不然。吾將何述焉。充等重抗。表曰。臣等暗短。不足以讚揚聖旨。宣暢大義。伏省明詔震懼屏營。輒共尋詳有佛無佛。固非臣等所能定。然攷其遺文鑽其旨要。五戒之禁實助王化。賤昭昭之名行。貴冥冥之潛操。行德在於忘身。抱一心之精妙。且興自漢世迄至于今。雖法有隆衰而弊無妖妄。神道經久未有其比也。夫議有損也。況必有益。臣之愚誠。實願塵露之微增潤岱岳。區區之況上裨皇極。今一令其拜。遂壞其法。修善之俗廢於聖世。習實生常。必致怨懼。隱之臣心竊所未安。臣雖愚蔽。詎敢以偏見疑誤聖聽。直謂世經三代人更明聖。今不為之制無虧王度。而幽冥之格可無雍滯。是以復陳愚誠。乞垂省察。氷猶以為不可。復下制曰。省所陳具情旨。幽昧之事誠非寓言所盡。然較略其大。人神常度粗復有分例用。大率百王制法雖文質隨時。然未有以殊俗參治恢誕雜化者也。豈曩聖之不達。來聖之宏通哉。且五戒之才善粗擬似人倫。而更與世之略其禮敬服禮重矣。敬大矣。為治之綱盡於此矣萬乘之君非好尊也。區城之民非好卑也。而尊卑不陳。王教不得不一二之則亂斯曩聖。所以憲章國體宜而不惑也。通才博採往往備其事。修之家可。以修之國及朝則不可。斯豈不遠耶。省所陳。果亦未能了有之與無矣。縱其了。猶謂不可以參治。而況都無而當以兩行耶。充等三上章執奏曰。臣等雖誠愚蔽不通遠旨。至乾乾夙夜思循王度。寧苟執偏管而亂大倫。直以漢魏逮晉不聞異議。尊卑憲度無或暫虧也。今沙門之守戒專專。然及為其禮一而已矣。至於守戒之篤。亡身不恪。曷敢以形骸而慢禮敬哉。每見燒香祝願。必先國家欲福裕之。備情無極已。奉上崇順出於自然。禮儀之簡蓋是專一守法。是以先聖御世。因而弗革也。然天網恢恢疎而不失。臣等慺慺以為。不令致拜於法無虧。因其所利而惠之。使賢愚莫敢不用情。則上有天覆地載之施。下有守一修善之人。謹復陳其愚淺。願蒙省察氷議遂寢。何充字次道。廬江潛人。魏光祿大夫宴之孫。少以文義見稱。初為王敦掾。敦兄含守廬江貪污。敦甞於坐稱之曰。家兄在郡定佳。廬江士人稱之。充正色曰。充即彼郡人。所聞異此。敦默然。坐客皆為不安。充宴然自若。丞相庾亮甞薦之於明帝曰。何充器局方概。有萬夫之望。若能總錄朝端為老臣副。及充拜尚書令。推能用功不私樹恩。世甚重之。初阮裕甞戲之曰。卿志大宇宙。勇邁前古。充審其故。裕曰。我圖數千戶郡。尚未能。卿圖作佛不亦大乎。卒年五十有五。其後門世事佛甚精。厥孫尚之及點胤等。並建大義闡明佛法云。
(癸卯) 康帝嶽。改建元(字世同。成之母弟。年二十一即位。庾亮為相專權。後崩式乾殿。壽二十三。葬昌陵)治二年。
(甲辰) 蜀勢(字子仁。壽之長子。身長七尺九寸。腰十四圍。善俯仰。立五年改元太和。後死建康)。
(十八 乙巳) 穆帝聃。改永和(字彭祖。康之長子。二歲即位。母褚后臨朝。壽十九崩于顯陽殿。葬永平陵)在位十七年。
(丙午) 蜀改嘉寧。
(丁未) 涼張重華(字大臨。駿次子。立七年。壽二十七)。
(戊申) 後趙佛圖澄。諫殺太子宣。
(己酉) 後趙改太寧。即帝位。尋死而國亂。
前燕儁(姓慕容。字子英。祖名廆。字奕。昌黎棘城鮮卑人。其先有能之裔。世居北夷。邑于紫蒙之野。晉封燕王遷都龍城。生子皝儁。乃皝之次子也。居鄴十一年。壽四十二歲)。
(十九) 天竺佛圖澄至洛。自言百餘歲。常服氣自養。能積日不食。善誦呪役使鬼神。腹旁有孔以綿塞之。夜讀書則拔綿出光照室。又每臨溪從孔中出腸胃洗濯還納腹中。能聽鈴音言吉凶。莫不奇驗。會洛陽寇亂潛伏草野以觀時變。時石勒屯葛陂多殘殺。澄杖錫謁勒。勒命試以道術。澄取滿鉢水呪之。俄青蓮花生鉢中。光色耀目。勒由此神敬。延之軍中。未幾劉曜求戰以決雌雄。左右以為未可。勒以訪澄。澄曰。相輪鈴音云。秀支替戾岡僕谷劬禿當。此羯語也。秀支軍也。替戾岡出也。僕谷劉曜胡位也。劬禿當捉也。言軍出捉得劉曜。又令童子潔齋三日。取麻油合臙脂。躬自塗於掌中。舉手示童子。燦然有輝。童子驚曰。有軍馬。一人白皙以朱絲縛肘。澄曰。此即曜也。勒遂出戰。果生擒劉曜。勒稱趙王行皇帝事。敬澄彌篤。每舉事必咨而後行。勒殂。弟季龍襲其位。徙都鄴城。尤傾心事澄。下令衣以綾錦乘雕輦。朝會引見。常侍御史悉助舉輿升殿。太子諸公扶翼而前。主者唱大和尚。坐者皆起。勅司空季農朝夕問候。時支道林聞之曰。澄公其以季龍為鷗鳥耶。及晉軍侵淮泗。季龍怒曰。吾奉佛供僧返更致寇。佛無神矣。澄入見曰。陛下前身為商人。經罽賓寺設大會。會有六應真。吾其一也。有聖者曰。此檀越報盡為雞乃王晉地。今陛下為天子。豈非奉佛供僧而致耶。疆場侵噬有國之常。何為怨謗三寶興毒念乎。季龍悔謝。因問曰。佛法不殺。朕為天下掌生殺。恐違佛戒。澄曰。帝王事佛在恭儉慈忍。顯讚法道不為暴虐不害無辜。民有為惡化之不悛者。其可不罰乎。但殺不可濫。刑不可不恤耳。尚書張離家富事佛。而所為不法。澄曰。事佛在清淨無欲。君雖崇飾寺塔。而貪冒不已無益也。及將去世詣辭季龍。驚曰。大和尚遽棄我。國有難乎。澄曰。出生入死道之常也。修短分定無由增損。但道貴行全德貴不怠。苟德行無玷雖死如生。咸無焉千歲尚何益哉。然有可恨者。國家存心佛理建寺度僧。當蒙祉福而布政猛虐賞罰交濫。特違聖教致國祚不延也。季龍號慟嗚咽。澄安坐而逝。後有沙門自雍州來。見澄入關以聞季龍。命發塜視之。唯塊石存焉。季龍大惡之歎曰。石吾姓也。大和尚埋我而去。其能久乎。未幾石氏果滅。澄度弟子數千萬人。凡居其所。國人無敢向之涕唾。每相戒曰。莫起惡心。大和尚知汝。其道化感物如此。自大教東來。至澄而盛。
論曰。大覺璉禪師有云。妙道之意聖人甞遇之於易。由生民已來淳朴未散。則三皇之教簡而素。春也。及情竇日鑿。則五帝之教詳而文。夏也。時與世異情隨日遷。故三王之教密而嚴。秋也。至周衰先王之法壞禮義亡。迨為秦漢則無所不至。而天下至有不忍願聞者。於是我佛世尊之教入東土。示以性命之理。教以慈悲之行。冬也。旨哉斯言。觀澄公區區西來。當石勒季龍磣暴虓噬之際。而能憫物垂軌。示以玄言德祥。導以慈悲之行。卒使二暴革心道化融洽。於戲天有四時循環。以生成萬物。而聖人之教。迭相扶持以化成天下。厥有以哉。
(庚戌) 趙石祗(三月即位。襄國改永寧。去帝號。劉顯殺祇。冉閔以顯為大單于。稱帝於襄國。引兵攻鄴。敗還。魏克襄國。殺顯及公卿焚宮室。遷其民于鄴。至辛亥國除)。
魏冉閔(殺石虎。子孫十八人。及胡羯二萬人。壬子克襄國。殺劉顯。後為慕容儁所滅。殺閔於遏。徑山七里之內草木皆枯。半年不雨。祭之乃雨。國除)。
(辛亥) 前秦符健(字建業。洪第三子。洛陽臨渭氏人。其先有扈之裔。父洪字廣世。為西戎酋長。初住石虎。滅洪。有師十萬。自稱秦王。生健。背有草付字。改姓苻氏。僭立四年。都長安。改元皇始。壽二十九。而終)○符子朗(堅之兄。英潔不仕。著書二十篇。曰符子多讚釋)。
世尊入滅一千三百年矣。
(壬子) 燕改元璽。
(甲寅) 涼張祚(改和平元)。
(乙卯) 符生(字長生。健第三子。立二年改元壽光。二十三為堅殺之)。
涼張玄靚立。
(丁巳) 改升平。帝加元服。
符堅(字永固。洪之子。雄武智略。盡有中原。以百萬之眾伐晉。為謝石所敗。立二十七年。壽四十八終。改元永興)。
燕改壽光。
(二十) 釋涉公。本蜀人也。預言多驗。遊化至長安。時天大旱。堅命師祈雨。呪龍鉢中。其雨沛然。恪加敬事。師不食五穀。日行五百里。是年示滅而歲復旱。堅謂祕書朱彤曰。涉公若在。豈使朕焦心于雲漢哉。其思仰如此。
(己未) 秦改甘露。
(庚申) 燕慕容暐(字景茂。俊第二子。僭立十年。改元建熙)。
(二十一 辛酉) 沙門于法開。蘭公徒弟也。善放光法華。尤精醫法。甞值婦人在草危急。開曰此易治耳。主人宰羊欲祀神。開令取肉為羹進竟。因氣針之。須臾羊瘼裹兒而出。或問。法師高明剛簡。何以醫術經懷。答曰。明六度以除四魔之病。調九候以療風寒之疾。自利利人。不亦可乎。
(二十二 壬戌) 哀帝丕改隆和(字千齡。成之長子。即位修身。後斷穀服長生藥。過度中毒。崩于西堂。壽二十五。葬于安平陵)治四年。
栴檀瑞像(已上六十八年。在龜茲。此下一十四年。在西涼府)。
(癸亥) 改興寧。
(甲子) 涼張天錫立(駿之少子。玄靚委政。與臣謀殺。自立。至丙子。為符堅所虜)。
(二十三) 是年哀帝。詔法師竺潛。講般若於禁中。甞著屐至殿中。人聚觀歎道德高風。初不省有市朝。時簡文輔政。沛國劉惔甞遇潛於簡文座中。嘲曰。道人亦遊朱門乎。對曰。君自見朱門。貧道以為蓬戶。及辭還剡山。支遁寓書求買沃州小嶺歸隱。潛答曰。欲來當給。未聞巢由買山而隱也。寧康二年卒。武帝下詔曰。法深理悟虛遠風鑑清高棄宰輔之榮。襲染衣之素。山居世外篤懃匪懈。方賴宣道以濟蒼生。奄從遷謝用痛于懷。其賜緡錢十萬。助建塋塔。潛字法深。凡中國勅葬沙門。自潛而始。
(二十四) 法師支遁字道林。與謝太傅安王右軍羲之厚善。安守吳興。以書抵遁。略曰。思君日積北辰尤甚。知欲還剡自治為之愴然。人生如寄耳。自頃風流得意事殆磨滅都盡。唯終日戚戚。遲君一來以晤言消遣之。一日千載也。及竺潛辭闕。有詔遁。繼講法於禁中。一時名士殷浩郄超孫綽柏彥表王敬仁和充王坦之袁彥伯。並與結方外交。天下想見其標致者劉系謁于白馬寺。談莊周以適性為逍遙。遁曰。不然。桀跖以殘虐為性。豈亦逍遙乎。於是注逍遙篇。學者宗之。王濛甞極精思作數百語。詣遁曰。與君別久。而君了不長何也。濛慚汗曰。絳鉢之王何也。郄超甞問謝太傅曰。遁談何如嵆中散。太傅曰。嵆努力裁得半耳。又曰。何如殷浩。太傅曰。亹亹論辨恐當抗衡。超拔淵源殷有慚德。超後與親舊書曰。林公神理所通玄拔獨悟。數百年來紹隆大法。令真理不絕一人而已。太和二年。廢帝海西公在位。遁抗表辭還山。有詔資給敦遣。諸公祖餞于征虜亭。蔡子叔者。先至近道林坐。適起而謝。萬亟趨其處。子叔還合褥舉萬投諸地。萬曰。幾損我面。子叔曰。吾初不為卿面計。其為當時所慕如此。晚居山陰講維摩。許詢為都講。遁通一義。眾意詢不能難。及詢設難。又意遁不能通。而賓主之難相尋無窮。聽者多言。自得遁旨。詰之輒失。著即色遊玄聖不辯知等論。有遺其馬者。畜之曰。吾愛其神駿耳。有遺其鶴者。縱之曰。冲天之物豈耳目玩哉。君子多其達。及卒戴逵過其塔歎曰。德音未遠而拱木已繁。計神理綿綿不與氣運俱盡也。
(二十五) 郗超字嘉賓。少有曠世之度。談論義理精微。標志慕佛加好行檀。大將軍桓溫辟為參軍。時王珣同府。珣為主簿。超美髯。珣身短小。府中語曰。髯參軍短主簿。能令公喜。能令公怒。謝安王坦之詣溫府。溫先令超臥帳中。听其論事。俄風動帳開。安笑曰。郄生可謂入幕之賓矣。超喜隱遁。聞拂衣者。必為起屋具器用遺之。支道林每謂。其造微之功足參正始。甚重之。又與汰法師厚善。甞約先歿者。凡幽冥報應當以相報。俄而汰卒。一夕見夢曰。向與君約報應之事。今皆不虛。願君無忘脩德。以昇濟神明。超由是循道彌篤云。
(二十六 乙丑) 秦改建元。
(丙寅) 廢帝奕(字延齡。哀之母弟。後大司馬桓溫。廢為海西公。十月卒于吳。壽三十五)。
改太和在治五年。
(丁卯) 大教東被三百年矣。
(二十七) 釋道安者姓衛。常山扶柳人。圖澄之門學。家世英儒。早失覆廕。為表兄所養。早年讀書一覽無忘。十一出家而能日記萬言。終為緇林奇表。寧康初。安於襄陽檀溪寺。建浮圖鑄銅像。能起自行。至方山而止。光明燭天傾都瞻拜。歡呼動山谷。秦主符堅送外國金飾倚像金縷結珠彌勒等。安每講設以作證。一夕像光照室。視之頂有舍利焉。習鑿齒襄陽高士。先以書通好。廼詣安自稱曰。習鑿齒。安曰。彌天釋道安。相得歡甚。即以書抵謝東山。稱安蓋非常勝士。恨公不一見耳。孝武帝聞安名。詔曰。法師以道德照臨天人。使大法流行。為蒼生依賴。宜日食王公祿。所司以時資給。安固辭不受。未幾符堅攻陷襄陽。得安而喜。謂左右曰。吾以十萬師取襄陽。得一人半耳。左右問為誰。曰安公一人。習鑿齒半人也。安入關。沙門萬數皆隨師姓而名。安曰。師莫如佛世也。應沙門宜以釋為氏。及增一阿含經至廼云。四河入海無復異名。四姓出家同稱釋氏。遂與符合焉。世益重之。又藍田得古鼎。容二十有七斛。腹有篆文。朝無識之者。有以問安。安曰。魯襄公所鑄也。由是符堅勅三館學士有所疑皆師於安。國人語曰。學不師安義不禁難。時符氏東極滄海。西併龜茲。南包襄陽。北盡沙漠。唯建康未服。堅雅意欲取而有之。群臣諫不從。太尉符融者叩頭請安。為蒼生一言。安諾。及堅出東苑。命安升輦同載。僕射權翼進曰。臣聞天子法駕侍中陪乘。道安毀形寧可參廁。堅怒曰。安公道德可尊。朕以天下易輿輦之榮。未稱其德。即詔翼扶安登輦。於是翼跪而掖之。堅顧謂安曰。朕將與公南遊吳越。整六師以巡狩。登會稽以觀滄海。不亦樂乎。對曰。陛下應天御世。富有八州居中而制四海。宜棲神無為與堯舜比隆。今欲以百萬之師求厥田下下之土。東南地區勢卑氣厲。昔舜禹遊而不返。始皇適而不歸。以貧道觀之。未見其可。平陽公懿戚石越重臣。皆憂國至深。其論可聽。堅曰。非區域不廣也。朕欲簡天心明大運所在耳。順時巡狩。且有格言儻如高論。則帝王無省方之文乎。安曰。必欲往。宜駐蹕洛陽枕戈畜銳傳檄江南。如其不服伐之未晚。堅不納。太元七年堅自將步騎。百萬次壽春。為晉徐州刺史謝玄所敗。單騎遁還。安每疏經義必求聖證。一日感龐眉尊者降。安出所製似之。尊者欽歎以為盡契佛心。仍許以密助弘通。安識其為賓頭盧也。因設日供祀之。今供賓頭自安而始。門弟子通其業者數十人。知名于世有法遇者。傳教長沙。門徒數百。有私飲者。遇縱而不舉。安兼知之。即封荊以寄。遇抱荊而泣曰。董眾無狀而遠遺師憂。於是俯伏躬受其譴。太元十四年正月晦日。安命其徒具浴。忽見異僧出入隙中。安以生處問之。僧指西北即雲開見樓閣如幼出。曰彼兜率天也。是夕有敷百小兒。皆就浴而去。識者以為應真之侶也。二月八日跏趺而逝。安貌侻而姿黑。博學善詞章。諺曰。漆道人驚四隣。左臂有肉方寸許隆起如印。時號印手菩薩。著僧尼軌範及法門清式二十四條。世遵行之。
論曰。法源濫觸之初。由佛圖澄而得安。由安而得遠公。是三大士化儀軌則。或無以異。至於出處操尚。若相戾者何哉。大抵晉室渡江自明帝之後。當代時君雖無可稱者。然而朝廷紀綱法度未始或虧。當是之際。故遠公得以遂其高。天子臨潯陽而詔不出山。若澄安二公。失身偏霸之朝。萬一不區區俯仰曲徇其情。彼季龍符堅其肯容之高臥山林。而不為之屈耶。此古所謂易地皆然。三大士有之矣。孟軻氏稱伯夷伊尹柳下惠。皆曰聖人者。良以其道通方而善趨時也。世謂澄安之操不逮遠公。吾弗信矣。
(二十八) 孫綽字興公。父楚有重望。綽博學美文辭。與高陽許詢俱有高尚之志。初隱稽山放情山水。作遂初賦。以見志。友道林問綽曰。君何如許。答曰。高情遠志弟子早已伏膺。然一詠一吟。許將生面。甞作天台賦。示友人范榮期曰。卿試以擲地當作金聲。榮期曰。恐此金聲非中宮商。然每至佳句。輒云。應是我輩語。於吾道多有論撰。具見弘明等集。年五十八卒。史臣稱綽有匪躬之節。不徒文雅而已。
(二十九) 許詢字玄度。高陽人。魏中領軍允曾孫也。澡心學佛。甚為江左諸公卿仰慕。簡文帝高其風。每月白風恬。思清言妙理必造焉。至其亹亹。簡文不覺前席。達旦忘倦。帝謂親友曰。玄度才情故未易有。劉真長為時譚宗。而與結清言友。每謂人曰。吾不見玄度幾為輕薄令尹。又甞曰。清風明月何甞不思玄度。
(戊辰) ○王珣與弟瑉捨宅為寺。今虎丘是也。
(庚午) ○符堅滅燕。
(三十) 晉司馬桓溫。末年奉法。有尼造之。溫敬而不倦。浴必移晷。訝而私覿。見尼揮刃自割。截支分臠。有頃尼出。溫以情問尼曰。君志若遂形當如之。時溫方謀問鼎。聞此悵然乃止。尼遂辭不測所之(出感通錄)。
(三十一 辛未) 簡文帝昱(字道萬。元之少子。神識怡暢。無濟世之略。後崩于東堂。壽五十。葬高平陵)。
(三十二) 改咸安○是年慧星現。帝詔竺法曠禳之。曠曰。陛下當勤修德政以賽天譴。貧道當盡情。帝乃齋懺災遂滅。
佛祖歷代通載卷第六
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第七
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
東晉
(癸酉) 孝武帝曜。改寧康(字昌明。簡文第三子。十歲即位。崇德太后臨朝。二月桓溫擁兵來朝。有不臣之志。三月疾還姑孰。七月卒。弟冲代領兵。盡忠王室。三十五崩清暑殿。葬隆平陵。治廿四年)。
(丙子) 改太元○栴檀瑞像是年到長安。住一十七年。
(癸未) 後秦姚萇(字景茂。南安赤亭羌人。其先有虞之裔。父弋仲。有二十四子。萇幼子也。初仕苻堅為陽武將軍。因南伐敗績而歸。遂縊苻堅而據長安僭立。八年改建興。壽六十四)。
西秦乞伏國仁(本西鮮卑人。其先自漢北出陰山。後降苻堅。署為南單于鎮勇士川。苻堅既敗國仁。自稱大單于王。後號西秦。據金城僭立。四年乙酉改建義)。
後涼呂光(字世明。洛陽氐人也。父婆婁。仕苻堅官至太尉。生光身長八尺四寸。目有重瞳。王猛見而異之。舉以為將。率兵七萬西征。降者四十餘國。至龜茲獲羅什。聞堅死據姑。俱臧稱涼州牧。立十年)。
後燕慕容垂(字道明。皝之弟。身長七尺五寸。垂手過膝。因懼誅奔秦。苻堅用之將使伐晉。既敗。遂據中山。改國號燕立十三年。壽七十一)。
(甲申) 苻丕(字永叔。堅之庶子。既聞堅卒。出鎮于鄴。據晉陽。立一年。改大安)。
後秦改白雀。
(二) 太元九年。法師惠遠以秦亂來歸于晉。遠出雁門賈氏。少為儒生。博極群書。尤邃周易莊老。甞與弟惠持造安法師席下。聞出世法而悅之。歎曰。九流特粃糠耳。遂出家。安門徒數千。遠居第一座。及關中擾亂。安散其徒。皆諄諄規誨而遣之。遠別獨不與一言。遠怪問。安曰。若汝吾何言哉。遂自荊州將之羅浮。抵潯陽見匡山。愛之廬於山陰。大守桓伊為剏精舍。一昔風雷拔樹鼓沙石。蕩平基致木于土。時以為神運焉。初太尉陶侃鎮廣州。有漁于海。得文殊像。送寒溪寺。寺甞經火而像屋無恙。其後侃鎮武昌。使人迎之。十輩不能舉。既而叢力致之舟。舟輒沒。遂失其像。時謠曰。侃唯劍雄。像以神標。可以誠致。難以力招。及遠剏寺。心祈之。於是像冷然自至。時晉室微而天下奇才多隱居不仕。若彭城劉遺民豫章雷次宗雁門周續之新蔡畢頴之南陽宗炳張士民李碩等。從遠遊。并沙門千餘人結白蓮社。於無量壽像前建齋立誓期生淨土。及聞羅什法師入關。遠望風欽敬。遺書通好。詞曰。去歲得姚右軍書。且承德聞。仁者曩日殊域。越自外境。于時音譯未交。聞風而悅。頃承懷寶來游。則一日九馳。徒情欣雅味而無由造盡。寓目望途增其勞佇。夫旃檀移植則異物同薰。摩尼吐曜則眾珍自積。且滿願不專美於絕代。龍樹豈獨善於前踪。今往比量衣裁。願登高座為著之。什答曰。既未言面。又文詞殊隔。導心之路不通。得意之緣圮絕。傳譯來貺粗述德風。比何如必備聞一途可以蔽百。經言。末後東方當有護法菩薩。勗哉仁者善弘其事。夫才有五備。福戒博聞辯才深智。兼之者道隆。未具者凝滯。仁者備之矣。所以寄言通好。因譯傳心。豈其能盡粗酬來意耳。損所致比量衣裁。欲令登法座時著。當如來意。但人不稱物。以為媿耳。今往常所用鍮石雙口澡灌。可以備法物數也。并遺偈一章曰。既已捨染樂。心得善攝否。若得不馳散。深入實相否。畢竟空相中。其心無所樂。若悅禪智惠。是法性無照。虛誑等無實。亦非停心處。仁者所得法。幸願示其要。遠復答以偈曰。本端竟何從。起滅有無際。一微涉動境。成此頹山勢。惑想更相乘。觸理自生滯。因緣雖無主。開塗非一世。時無悟宗匠。誰將握玄契。來問尚悠悠。相與期暮歲。初中國未有涅槃常住之說。但云。壽命長劫。遠曰。佛是至極。至極則無變。無變之理豈有窮哉。乃著法性論。略曰。至極以不變為性。得性以體極為宗。羅什見論歎曰。遠未及見經。暗與理會。豈不妙哉。秦王姚興致書餉遠龜茲細縷雜變像。以伸欵敬。安城侯姚嵩獻珠像并釋論。曰。大智論新記。龍猛所作。法師當冠以敘文以昭示萬世。此邦道人同所欽聞也。遠以大論文廣。謙讓不諾。乃抄其要為二十卷。而別敘之。桓玄輔政。勸安帝沙汰僧尼詔曰。沙門有能伸述經牒演說義理。律行修整可宣寄大化者。聽依所習。不者悉令罷道。唯匡山道德所居。不在搜簡。遠以書抵玄。陽縱而陰奪之。遂停其詔遠甞稽考禪宗別傳之旨源流所自。及祖師達磨之來。遂皆符合云。陶淵明隱居柴桑。從遠問道。深相敬仰。謝靈運投名入社。遠拒之不內。及宗炳著明佛論。顏延之析達性論。周顒駁夷夏論。鄭道子著神不滅論。皆稟遠是正焉。至隆安中桓玄重申庾氷之義。欲沙門盡敬王者。朝廷承風旨多與玄合。因以問遠曰。此一代大事。不可使朝廷失體也。得八座書。今以似君。君其件件詳論不敬之意以釋其疑。便當行之。遠答其書。并著沙門不敬王者論五篇劇陳所以不拜之意。玄始意堅。及得遠論即緩其事。未幾篡位。乃下書曰。佛法弘大所不能測。推奉主之情欲興其敬。今事既在己。宜體謙冲應諸道人。勿復致禮也。安帝避玄還次潯陽。詔遠見于行在。輔國何無忌勸遠一出。遠固辭以疾。帝再詔問勞。勅九江太守歲時送米資奉。卜居三十年。影不出山迹不入俗。送客以虎溪為限。弟惠持亦有高行。蓮社眾數千。持居第一座。太尉王珣甞問豫章刺史范寗。遠公與持孰愈。寗曰。賢弟兄也。珣曰。但令如弟所未易有。況復賢耶。遠臨終其徒進蜜漿者。遠懼違律。令左右檢律。未終卷遂合掌西面而逝。年八十有三。有匡山集三十卷。行于世。
宋朝明教大師契嵩。過遠影堂。列六事題之。其辭曰。陸脩靜異教學者。而送過虎溪。是不以人而棄言也。陶淵明耽湎于酒。而與之交。蓋簡小節而取其達也。跋陀高僧。以顯異被擯。而延且譽之。蓋重有識而矯嫉賢也。謝靈運以心雜不取。而果沒于刑。蓋識其器而慎其終也。盧循欲叛。而執手求舊。蓋自信道也。桓玄震威而抗對不屈。蓋有大節也。大凡古今人情莫不畏威而苟免。忘義而避疑。好名而昧實。黨勢而忍孤。飾行而畏累。自是而非人。孰有道尊一代為賢者師。肯以片言而從其人乎。孰有夙稟勝德為行耿潔。肯交醉鄉而高其達乎。孰有屈人師之尊。禮斥逐之客。而申其賢乎。孰有拒盛名之士不與於教而克全終乎。孰有義不避禍敦睦故舊而信道乎。孰有臨將帥之威。在殺罰暴虐之際。守道不撓而全其節乎。此固遠公識量遠人獨出於古今矣。若其扶荷至教廣大聖道垂裕於天人者。非蒙乃能盡之。其聖歟賢耶。偉乎大塊噫氣六合清風遠公之名聞也。四海秋色神山中聳遠公之清高也。人龍僧鳳長揖巢許遠公風軌也。白雲丹壑玉樹瑤草遠公棲處也。
(三) 劉程之字仲思。彭城人。少孤事母以孝聞。才藻自負不委氣于時俗。雖寒餓在己威福當前。其意湛如也。司徒王謐承相桓玄侍中謝琨太尉劉裕。咸嘉其賢。欲相推薦。程之力辭。乃之匡山託于遠公。遠曰。官祿巍巍何以不為。程之曰。君臣相疑疣贅相虧。晉室無磐石之固。物情有累卵之危。吾何為哉。遠然其說大相器厚。太尉亦以其志不可屈。與群公議遺民之號旌焉。時雷次宗周續之畢潁之張秀實宗炳等。同依遠公。遠曰。諸君之來豈宜忘淨土之遊乎。有心焉當加勉勵。無宜後也。以程之最文使誌其事。號蓮社誓文。其辭曰。維歲在攝提格七月戊辰朔二十八日乙未。法師釋惠遠真感幽興霜懷特發。乃延命同志息心正信之士雷次宗劉程之等百有二十三人。集于廬山之陰般若臺精舍阿彌陀佛像前。率以香花敬薦而誓。惟茲一會之眾。夫緣化之理既明。而三世之傳顯矣。遷感之數既符。則善惡之報必矣。推交臂之潛論。悟無常之期切。審二報之相催。知險阻之難援。此其同志諸賢所以夕惕宵勤仰思攸濟者也。蓋神者可以感涉。而不可以迹求。必感之有物則幽路咫尺。苟求之無方則渺茫何津。今幸以不謀而感。僉心西境叩篇開信。亮情天發。乃機象通於寢夢。欣歡百於子來。於是雲圖表暉景侔神造。功由理諧事非人運。茲實天啟其誠冥運求萃者矣。可不克心克念重精疊思以凝其慮哉。然景續參差功福不一。雖晨期云同而夕歸攸隔。即我師友之眷。良可悲矣。是以慨然胥命整衿泫堂。等施一心亭懷幽極。誓茲同人俱遊絕域。其有警世絕倫首登神界。則無獨善於雲嶠忘兼全於幽谷。先進後升勉思彙征之道。然後妙觀大儀啟心真照。識以悟新形由化革。藉芙蕖於中流。蔭瓊柯以詠言。飄靈衣於八極。沈香風以窮年。體忘安而彌穆。心超樂以自怡。聽三途而緬謝。傲天宮而長辭。紹眾靈而繼軌。指太息以為期。究茲道也。豈不弘哉。
(四) 太元初。符秦盛時德星屢現。太史奏。外國當有智人入輔。及秦主攻襄陽得法師道安。喜以為應。安謙讓不敢當。因勸秦主迎龜茲國法師鳩摩羅什。堅從之。即遣驍騎將軍呂光以鐵騎七萬伐龜茲。謂曰。若獲羅什馳驛送歸。光軍至。什謂龜茲王白純曰。國運替矣。有就敵從日下來。宜供承之。勿抗其鋒。鈍不納拒之。大為光所破。遂獲羅什。光見什齒少。凡人戲之。妻以龜茲王女。什苦辭以為不可。光飲以醇酒同閉室中。遂為所逼。及光還而符堅已敗。因僭王姑臧。父子相繼皆庸材不知道。什蘊深解混居其國亡所宣化。
(五) 秦主姚萇者。西戎羌也。符堅之敗。萇為宿將率其部屬反叛。堅與之戰不利。遂為萇縊殺之于佛寺。萇襲其位都雍關。改長安為常安。在御八年。符堅領鬼兵白日入宮刺中其陰。出血石餘而崩。子興即位。降帝號而稱天王。未幾干戈寢息風化大行。嘉祥沓現。及樹連理剏生於殿庭。咸謂智人入國之瑞乃遣姚碩德伐涼呂隆。迎羅什法師至。秦主深加禮遇待以國師。大闡經論。震旦宣譯至符秦并什法師等。兩朝出經律論三藏。凡八百餘卷云。
(乙酉) 符丕改大安。
西秦改建義。
(六) 北朝魏(姓拓跋王水德都雲中)。
雷氏曰(道武明元太武文成獻文孝文宣武孝明孝莊節閔後廢出帝魏主十二一百四九)。
太祖道武皇帝珪(其先十一主。國號代晉。始拓跋詰汾。因畋于野遇天女而生力微。即魏之始祖神元皇帝也。)(帝時辟暑五臺山。有梵僧來乞坐具地。帝然之。遂敷坐具于是。頭出星辰。尾搖日月。方圓五百里。皆屬聖基。乃文殊化身也。)(始祖生章帝悉鹿。平帝綽。思帝弗。昭帝祿官。穆帝猗廬平文帝欝律。惠帝賀傉。煬帝紇那。烈帝翳槐。昭成帝什翼犍。已上十一主未通中國○珪按世錄。其先出自黃帝之後。昌意之子。受封北國。有大鮮卑山。自以為號。西晉之亂有拓跋廬。出居樓煩。晉封為代王。於後部落分散。經六十餘年至廬孫什翼涉珪。魏書云。珪即魏太祖道武帝也。太元元年據朔州東三百里築城邑。號恒安。為符堅護將軍。堅敗後。乃即真號太祖道武。殂明元立。元殂世祖太武帝立。自是又四主至世宗孝文帝。遷都于洛。改姓元氏。去胡衣冠絕虜語尊華風。是時天下唯二國謂之南北朝。魏初未聞佛。及神元與晉通聘。方知致信。僧至二百萬。寺院三萬餘所。譯經律論一千九百餘卷。自古佛圖塔之盛無出於此。改年登國)。
(丙戌) 前秦符登(字文高堅之族孫在位九年改元太初。壽五十二)。
後秦改建初(入長安稱帝)涼改大安。
燕改建興。
(丁亥) 西秦乞伏乾歸(國仁弟立二十四年。後為兄殺之)。
(戊子) 西秦改太初(稱王於河南)。
(七) 第二十六祖不如蜜多者。南印度德勝王之太子也。既受度得法至東印度。彼王名堅固。奉外道師長爪梵志。暨祖將至。王與梵志同覩白氣貫于上下。王曰。斯何瑞也。梵志預知尊者入境。恐王遷善。乃曰。此魔來之兆耳。何瑞之有。即鳩諸徒眾議曰。不如蜜多將入都城。誰能挫之。弟子曰。我等各有呪術。可以動天地入水火。何患哉。尊者至。先見宮牆有黑氣。乃曰小難耳。直詣王所。王曰。師來何為。祖曰。將度眾生。曰以何法度。祖曰。各以其類度之。時梵志聞言不勝其怒。即以幻法化大山於尊者頂上。尊者指之忽在彼眾頭上。梵志等怖懼投尊者。尊者愍其愚惑。再指之化山隨滅。乃為王演說法要俾趣真乘。又謂王曰。此國當有聖人而繼於我。是時有婆羅門子。年二十許。幼失父母。不知名氏。或自言纓絡。故人謂之纓絡童子。遊行閭里匃求度日。若常不輕之類。人問汝何行急。即答云。汝何行慢。或問何姓。乃云。與汝同姓。莫知其故。後王與祖同車而出見纓絡稽首於前。尊者曰。汝憶往事否。曰我念遠劫中與師同居。師演摩訶般若。我轉甚深修多羅。今日之事蓋契昔因。尊者又謂王曰。此童子非他。即大勢至菩薩是也。此聖之後復出二人。一人化南印度。一人緣在震旦。四五年內却返此方。遂以昔因故名般若多羅。付法眼藏。偈曰。真性心地藏。無頭亦無尾。應緣而化物。方便呼為智。尊者付法已。即辭王曰。吾化緣已終。當歸寂滅。願王於最上乘毋忘外護。即還本坐跏趺而逝。化火自焚。王收舍利塔而瘞之。當東晉孝武帝太元十三年戊子歲也。
(己丑) 後涼改麟加。
(癸巳) 栴檀瑞像此下至江南。住一百七十三年矣。
(甲午) 前秦符崇改延初(十月為乾歸所殺國除)。
後秦姚興改皇初(字子略。萇長子弁。之長安立于槐里。二十二年。壽五十五歲)。
(八 丙申) 安帝德崇(武帝長子。生而不惠。至於寒暑飢飽不能辨。年三十二。崩于東堂。葬休平陵。一名儒宗。十五歲即位。治二十二年)。
後涼改龍飛(稱涼天王)。
後燕慕容寶(字道祐。乘之第四子。立二年。改元永康。壽四十四歲)。
北魏改皇始(建天子旌旗)。
南燕慕容德(字玄明。皝少子。身長八尺二寸。姿貌雄偉。後燕寶死。乃據滑臺號燕都廣。僭立七固年。壽五十而卒)。
南涼禿髮烏孤(河西鮮卑人。其先與魏同出。八世祖匹孤率其部。自塞北遷于河西。呂光遣使署為益州牧。自稱大單于西平王。都廣武徙樂都。改年太初。僭立三年)。
此涼改業(據張掖次年改神璽)。
西涼李暠(字玄盛。龍西成紀人。漢將軍李廣十六代孫。祖弇仕張軌為將。因據河右至暠稱涼。立十七年○即唐太宗八世祖也)。
(九) 竺僧朗。京兆人也。專以講說為任。而疎食布衣志耽物外。自皇始移上太山薙茅居之。時聞風而造者百有餘焉。道德凝懷。千里哲人競湊。芳聲播遠。五朝天子移風。貢物飛符孰能並駕。
一符堅書曰。皇帝敬問太山朗和尚。大聖應期靈權超逸。蔭蓋十方化融無外。若四海之養群生。等天地之育萬物。養生存死澄神寂妙。朕以虛薄生與聖會。而隔萬機不獲輦駕。今遣使人安車相請。庶冀靈光逈蓋京邑。今并奉紫金數斤供鍍形像。績綾三十疋。奴子三人。可備洒掃。至人無違。幸望納受。想必玄鑒見朕意焉。既請已師禮事之。
二晉武帝曜書曰。皇帝敬問太山朗和上。叡德光時聲飛東嶽。乃至思與和上同養群生。至人通微想明朕意。今遣使者送五色珠像一軀。光錦五十疋。象牙簞五領。金鉢五枚。到願受納。
三後燕成武帝慕容垂書曰。皇帝敬問太山朗和上。澄神靈緒慈蔭百國。凡在含生孰不蒙潤。朕承籍纂統。方夏事膺。昔蜀不恭魏武含慨。今二賊不平。朕豈獲安。又元戎克興狂掃暴亂。至人通靈隨權指化。願兵不血刃四海混伏。委心歸依久敬何已。今遣使者送官絹一百疋。袈裟三領。綿五十斤。幸為呪願。
四魏太祖道武皇帝書。皇帝敬問太山朗和上。承妙聖靈要須經略。已命元戎。上人德同海嶽神算遐長。冀助威謀克寧荒服。今遣使送素絹二十端。白㲲五十領。銀鉢三枚。到願受納。
五南燕慕容德。親與齊州朗和上建神通寺。與師書曰。敬問太山朗和上。遭家多難災禍屢臻。昔在建熙王室西越賴武王中興。神武御世大啟東夏。拯拔區域遐邇蒙蘇。天下幸甚。天未忘災。武王即宴。永康之始東傾西蕩京華播越。每思靈闕屏營飲淚 朕以無德生在亂兵遺民未幾繼承天祿。幸和上大思神祇蓋護。使者送絹百疋。并假東齊王奉高山荏二縣封給。書不盡意。稱朕心焉。五朝御啟。師悉回答。恐煩不錄。見唐弘明集。
(丁酉) 改隆安○北涼改神璽。
後燕改永康。
(戊戌) 後燕慕容盛(字道運。寶之庶子。立三年。壽二十九卒。改年建平)。
(十) 北魏是年即帝位。改元天興。道武下詔曰。夫佛法之興其來遠矣。濟益之功冥及存沒。神蹤遺法信可依憑。勅有司于京師建飾容像修整宮舍。令信向之徒有所居正。是歲作浮屠殿二所。謂耆闍須彌。別構禪房法座。莫不嚴具焉。
(己亥) 後秦改弘始○後燕改長樂(字道文垂。少子在。位六年壽。二十三歲)。
後涼呂纂改咸寧○北涼改天璽。
(庚子) 南涼利鹿孤(烏孤之弟立二年改建和)。
(十一) 是年什法師卒。鳩摩羅什。此翻童壽。天竺人也。家世勛烈。父鳩摩羅炎。有美節。避相位出家。龜茲王聞請為國師。以妹妻焉遂生什。日誦千偈三萬餘言。大小乘宗莫不該覽。符秦建元十三年。德星現之。苻堅使呂光西討。及聞堅敗。據姑臧稱涼。弗獲師面。姚秦弘始三年三月。庭樹生連理。逍遙園有葱變茝。以表智人應入中國。九月呂隆來降。十二月二十日。迎師居逍遙園。興以國師禮待之。甚見優寵。仍命譯經論三百餘卷。資學三千拔萃有八。曰道生僧肇道融僧叡道恒僧影惠觀惠嚴等。各有著述。知別傳明。可謂一時之盛千載光華。又舉僧䂮為僧正。以政僧事。沙門惠叡精誠遠到。隨什傳寫。每與叡言。西方辭體特重文制。其宮商體韻以入管絃。為善。凡覲王者必有贊德。經偈皆其式也。甞歎曰。吾著大乘阿毘曇非迦旃延比也。時無深識者。因悽然而止。獨與秦王著實相論二卷。秦王機政之暇。躬與什對譯。尋覽舊經多所紕繆。什釐正之。甞講經草堂寺。及朝臣沙門數千眾肅容觀聽。一日王謂什曰。法師才明超悟海內無雙。可使法種不嗣哉。遂以宮嬪十人逼令受之。什亦自謂。每講有二小兒。登吾肩欲障也。自是不住僧房。別立廨舍。諸僧有効之者。什聚針盈鉢謂曰。若相効能食此者乃可畜室耳。舉已進針如常饍。諸僧愧止初在龜茲。隣國諸王會同。每請什說法。必跪伏座前命什踐肩而登座。甞與母謁大月氏國北山尊者。北山謂其母曰。善護此沙彌。年三十五。毘尼無缺。度人如優波毱多。不爾正俊法師耳。杯渡比在彭城。聞什入關。歎曰。吾與此子戲別三百年矣。相見杳然未期。遲於來世耳。什甞升座。每曰。譬如臭泥中生蓮華。但取其華勿取臭泥也。居秦才九年而疾。口出三番神呪令外國弟子誦之。以自救。未及致力轉覺危殆。於是力疾集眾告別曰。因法相逢殊未盡心。方復後世。惻愴可言。自以闇短謬充傳譯。所出經論。唯十誦律未及刪繁。若義契佛心焚身之日舌不焦壞。言訖而逝。闍維日舌果若紅蓮色而不壞云。
論曰。漢光武生於南陽。而南陽無賤士。羅什至關中而奇才畢集經稱。聖賢出世。皆有因中同行開士。隨從下生以佐佑其化。信不誣矣。方魏晉以來大法草昧。西域沙門至者。例以神迹顯化中國。雖有奇傑閒出。然多囿情外學。迨什公之來然後大法淵源始淳。學者得以盡心方等而蔑視老莊。蓋什公有力於法門。豈小補哉。特以宿障之累。致其居關中才九年所蘊十未行一而不克壽。秦王有致什之功而弗能成其美。嗚呼使什公峻德梵行副其所蘊。獲永天年以光大教之序。雖彌勒出世。尚何加焉。
(十二) 法師道䂮。以奉律精苦。為秦王所重。自什公入關。僧尼以萬數。頗多愆濫。秦王患之。遂置僧正。下詔曰。大法東遷於今為極。僧尼寖多宜設綱領。宣授遠視以濟頹緒。䂮法師早有學誼。晚以德稱。可為國僧正。給輿吏力資侍中秩。傳詔羊車各二人。又以僧遷禪惠為悅眾。以法欽惠斌為僧錄。班秩有差。尋加親信仗身白從各三十人。
(十三) 時師子國有婆羅門。號聰明。為異道之宗。聞什在關中。馱其書至。乞與僧辨論。關中沙門相視缺然。什謂法師道融曰。子可以當之。融顧外道經書未讀。乃密使人錄其書目。一覽即誦。剋日議論。秦主與公卿大集。婆羅門以能博觀為誇。融數其書并秦地經史三倍之。什乘勝嘲曰。卿乃未聞秦有博學者乎。敢輕遠來。於是婆羅門愧服再拜融足下而去。
(十四) 法師道恒。幼事後母以孝聞。母亡去為沙門。從什公遊。什愛其才。與道標齊名。秦主雅聞二人有經綸術業。令尚書姚顯宣旨敦勉罷道輔政。恒標抗表陳情。略曰漢光武成嚴陵之節。魏文帝全管寧之高。陛下天縱之聖。議論每欲遠輩堯舜。今乃冠巾兩道人。反在光武魏文之下。主復命什䂮等勉諭之。必欲遂其心。什䂮等奏章敘其事。略曰。惟聖人能通天下之志恒標業已毀除鬚髮。著不正之衣。今使處簪紳之朝。非其志也。且大秦龍興異才輩出。如恒標等未為卓越。主又下書。於是舉眾懇乞。乃得寢。恒歎曰。名進真道之累。乃與標去入琅邪山。終世不出。
(十五) 法師僧叡。幼有盛名。及從羅什受業。妙悟絕倫。秦王甞問司徒姚嵩曰。叡公誰可比。嵩曰。未見歸宿及朝會公卿大集。叡風神朗徹。主指以謂嵩曰。四海僧望也。叡講成實論。什公曰。此諍論中有七處破毘曇。子能辦乎。叡舉以應問。皆當其意。什歎曰。子真精識。傳譯有賞音。吾何恨焉。
(十六) 法師僧肇。幼家貧。為人傭書。遂博觀子史。尤善莊老。蓋其粗也。年二十為沙門。名震三輔。什公在姑臧。肇走依之。什與語驚曰。法中龍象也。及歸關中詳定經論。四方學者輻湊而至。設難交攻肇迎刃而解。皆出意表。著般若無知論。什覽之曰。吾解不謝子。文當相揖耳。傳其論至匡山。劉遺民以似遠公。公撫髀歎曰。以為未甞有也。復著物不遷等論。皆妙盡精微。秦主尤重其筆札。勅傳布中外。肇卒年三十有二。當時惜其早世云。
(辛丑) 涼呂隆改神鼎。
北涼沮渠蒙遜(臨松盧水胡人。其先為兇奴。遜後殺歆。立于張掖。治三十三年。壽六十六。改永安)。
後燕慕容熙改光始。
(壬寅) 改元興。
南涼傉檀(利鹿孤弟。立十三年。壽五十五。改元弘昌)。
(十七) 元興元年。天竺弗多羅尊者至秦。義學沙門數百人從之。於中寺出十誦梵本。什公翻譯。及半而弗多卒。會沙門曇摩流支至。亦善毘尼。匡山遠公聞而喜。走書關中勸流支出其律足成之。流支乃與什公續而終焉。律儀大備自此而始。
(十八) 天竺尊者佛陀耶舍至姑臧。聞什公受秦宮女。歎曰。什如好綿。其可使入棘刺乎。什聞耶舍為已遠來。恐相失而返。勸秦王迎之。使至。耶舍曰。明旨遠降。便當驛馳副檀越待士之勤。脫如見禮羅什。則貧道當在北山北矣。使還。王欽佇不已。復遣使盡禮致之。耶舍乃肯來。王郊迎。別剏精舍處之。供設如王者。耶舍一無所受。時至分衛一食而已。善毘婆沙論。而髭赤。時號赤髭毘婆沙。後遊匡山為遠公所重。躬自負鐵。於紫霄峯頂鑄塔。以如來真身舍利藏其中。今存焉。
(十九 癸卯) 元興二年。太尉桓玄久懷篡奪。及升宰輔。以震主之威下書。令沙門致拜君親。玄與八座書。重申何庾議沙門不敬王者。以謂庾意在尊主而禮據未盡。何出於偏信遂淪名體。夫佛之為化。雖誕以范浩推乎視聽之外。以敬為本。此處不異。蓋所期者殊。非恭敬宜廢也。老子同王侯於三大。原其所重皆在於資生通運。豈獨以聖人在位而比稱二儀哉。將以天地之大德曰生。通生理物在乎王者。故尊其神器而禮實惟隆。豈是虛相崇重。義在君御而已。沙門之所以生生資存。亦日用於理命。豈有受其德而遺其禮。沾其惠而廢其敬哉。于時尚書桓謙中書王謐等。抗諫曰。今沙門者意深於敬。不以形屈為禮。如育王禮比丘足。魏文侯之揖干木。漢光武之遇子陵。皆不令屈體。況沙門之人也。於是亟其書咨于遠公。遠嘅然惜之曰。悲夫斯乃交喪之所由。千載之否運。懼大法之將淪。感往事之不忘。故著論五篇究敘微意。庶後之君子崇敬佛教者。或詳覽焉。
(二十)沙門不敬王者論在家第一。
原夫。佛教所明。大要以出處為異。出處之人凡有四科。其弘教通物。則功侔帝王化兼治道。至於感俗悟時。亦無世不有。但所遇有行藏。故以廢興為隱顯耳。其中可得論者。請略而言之。在家奉法則是順化之民。情未變俗迹同方內。故有天屬之愛奉主之禮。禮敬有本。遂因之而成教。本其所因則功由在昔。是故因親以教愛。使民知有自然之恩。因嚴以教敬。使民知有自然之重。二者之來。實由冥應。應不在今。則宜尋其本。故以罪對為刑罰。使懼而後謹。以天堂為爵賞。使悅而後動。此皆影響之報而明於教。以因順為通而不革其自然也。何者夫厚身存生。以有封為滯累。深固在我未忘。方將以情欲為苑囿。聲色為游觀。沈湎世樂不能自免而特出。是故教之所檢。以此為涯而不明其外耳。其外未明則大同於順化。故不可受其德而遺其禮。沾其惠而廢其敬。是故悅釋迦之風者。輒先奉親而獻君。變俗而投簪者。必待命而順動。若君親有疑則退求其志以俟同悟。斯乃佛教之所以重資生助王化於治道者也。論者立言之。旨貌有所同。故位夫內外之分。以明在三之志。略敘經意宣寄所懷。
沙門不敬王者論出家第二。
出家則是方外之賓。迹絕於物。其為教也。達患累緣於有身。不存身以息患。知生生由於稟化。不順化以求宗。求宗不由於順化。則不重運通之資。息患不由於存身。則不貴厚生之益。此理之與形乖。道之與俗反者也。若斯人者因誓始於落簪。立志形乎變服。是故凡在出家。皆遯世以求其志。變俗以達其道。變俗則章服不得與世典同禮。遯世則宜高尚其迹。夫然故能拯溺俗於沈流。拔幽根於重劫。遠通三乘之津。廣開天人之路。如令一夫全德。則道洽六親澤流天下。雖不處王侯之位。亦已協契皇極在宥生民矣。是故內乖天屬之重。而不違其孝。外闕奉主之恭而不失其敬。從此而觀。故知超化表以尋宗。則理深而義篤。照太息以語仁。則功末而惠淺。若然者雖將面冥山而游步。猶惑恥聞其風。豈況與夫順化之民尸祿之賢。同其孝敬者哉。
沙門不敬王者論求宗不順化第三。
問曰。尋老氏之意。以天地得一為大。王侯以順體而尊。終於義存於此。斯沙門所以抗禮萬乘高尚其事不爵王侯而沾其惠者也。
沙門不敬王者論體極不兼應第四。
問。歷觀前史。上皇已來。在位居宗者未始異其原本。本不可二。是故百代同典咸一其統。所謂唯天為大。惟堯則之。始此則非智有所不照。自無外可照。非照有所不盡。自無理可盡。以此推視聽之外廓無所寄。理無所寄則宗極可明。今諸沙門不悟文表之意。而惑教表之文。其為謬也。固已全矣。若復顯然驗。此乃希世之聞。
答曰。夫幽宗曠邈神道精微。可以理尋難以事詰。既涉乎教則以因時為檢。雖應世之具優劣萬差至於典成在用。咸即民心而通其分。分至則心。其智之所不知。而不關其外者也。若然則非體極者之所不兼。兼之者不可並御耳。是以古之語大道者。五變而形名可舉。九變而賞罰可言。此但方內之階差。而猶不可頓說。況其外者乎。請復推而廣之以遠其類。六合之外存而不論者。非不可論。論之或乖。六合之內論而不辨者。非不可辨。辨之或疑。春秋經世先王之志辯而不議者。非不可議。議之或亂。此三者皆其身耳目之所不至以為關鍵。而不關視聽之外者也。因此而求聖人之意。則內外之道可合而明矣。常以為道法之與名教。如來之與堯孔。發致雖殊潛相影響。出處誠異終期則同。詳而辨之指歸可見。理或有先合而後乖。有先乖而後合。先合而後乖者。諸佛如來則其人也。先乖而後合者。歷代君王體極之至。斯其流也。何以明之。經云。佛有自然神妙之法。化物以權廣隨所入。或為靈仙轉輪聖帝。或為卿相國師道士。若此之倫在所變現。諸王君子莫知為誰。此所謂先合而後乖者也。或有始剏大業。而功化未就迹有參差。故所受不同。或期功於身後。或顯應於當年。聖王即之而成教者。亦不可稱算。雖抑引無方。必歸塗有會。此謂先乖而後合者也。若命乖而後合。則擬步通塗者必不自涯於一檢。若令合而後乖。則釋迦之與堯孔歸致不殊斷可知矣。是故自乖而求合。則知理會之必同。自合而求乖。則悟體極之多方。但見形者之所不兼。故或眾塗而駭之而異耳。因茲而觀。天地之道功盡於運化。帝王之德理極於順通。若以對夫獨絕之教不變之宗固不得同年而語其優劣。亦以明矣。
沙門不敬王者論形盡神不滅第五。
問曰。論旨以化盡為至極。故造極者必違化而求宗。求宗不由於順化。是以引歷代君王。使同之佛教。令體極之至以權君統。此雅論之所託。自必於大通者也。求之實當。理則不然。何者夫稟氣極於一生。生盡則消液而同無。神雖妙物。固是陰陽之化耳。既化而為生又化而為死。既聚而為始。又散而為終。以此而推。固知神形俱化原無異統。精粗一氣始終同宅。宅全則氣聚而有靈。宅毀則氣散而照滅。散則反所受於本。本滅則復歸於無物。反覆終窮。皆自然之數耳。孰為之哉。若反本則異氣。數合則同化。亦為神之處形。猶火之在木。其生必並。其毀必滅。形離則神散而罔寄。木朽則火寂而靡託。理之然矣。假使同異之分昧而難明。有無之說必存乎聚散。聚散氣變之總名。萬化之生滅。故莊子曰。人之生氣之聚。聚則為生。散則為死。若死生為彼之徒。則吾又何患。古之善言道者。必有以得之。若果然耶。至理極於一生。生盡不化。義可尋矣。
答曰。夫神者何耶精極而為靈者也。精極則非封象之所圖。故聖人以妙物為言。雖有上智猶不能定其體狀窮其幽致。而談者以常識生疑。多同自亂。其為誣也亦已深矣。將欲言之。是乃言夫不可言。今於不可言之中復相與言依俙。神也圓應無主妙盡無名。感物而動。假數而行。感物而非物。故物化而不滅。假數而非數。故數盡而不窮。有情則可以物感。有識則可以數求。數有精粗。故其性各異。智有明闇。故其照不同推此而論。則知化以情感。神以化傳。情為化之母神為情之根。情有會物之道。神有冥移之歸。悟徹者及本。惑理者逐物耳。古之論道者。亦未有所同。請弘之明之。莊子發玄音於大宗。稱皇帝之言。形有美而不化。又云。火傳於薪。猶神之傳於形。此曲從養生之談。非遠尋其類者也。就如來論。假令形神俱化始自天本。愚智資生同稟所受。問所受者為受之於形耶。受之於神耶。若受之於形凡在有形皆化而為神矣。若受之於神。是為以神傳神。則丹朱與帝堯齊聖。重華與瞽瞍等靈。其可然乎。如其不可。固知冥緣之合。著於在昔。明闇之分。定於形初雖靈鈞差運。猶不能變性之自然。況降茲已還乎。驗之於理則微言而有徵。校之以事可無惑於大通。論成。後有退居之賓。步朗月而宵游。相與共集法堂。因而問曰敬尋雅論大歸可見。殆無所間。一日試重研究。蓋所未盡亦少許處耳。意以為沙門德式是變俗之殊制。道家之名器施於君親。固宜略於形敬。今所疑者謂甫創難就之業。遠期化表之功。潛澤無現法之効來報玄而未應乃令王公獻供信士屈體。得無坐受其德陷乎早計之累。虛沾其惠同夫素飡之譏耶。主人良久曰。請為諸賢近取其類。有人於此。奉宣時命遠通殊方九譯之俗。問王當資以糇糧錫以輿服否。答曰然。主人曰。類可尋矣。夫稱沙門者何耶。謂其能蒙俗之幽昏。啟化表之玄路。方將以兼忘之道與天下同往。使希高者揖其同風。漱流者味其餘津。若然雖大業未就。觀其超步之跡。所悟固已弘矣。然則運通之功資存之益。尚未酧其始誓之心。況三業之勞乎。又斯人者。形雖有待情無近寄。視夫四事之供。若雀蚊之過乎其前耳。濡沫之惠復焉足語哉。眾賓於是始悟冥塗以開轍為功。息心以淨畢為道。乃忻然怡衿詠言而退。
(甲辰) 魏改天賜。
(乙巳) 改義熙。
南燕慕容超改太上。
夏赫連勃勃(字屈局。兇奴有賢王去卑之後。劉衛之子。淵之族。身長八尺五寸。腰闊十圍。據夏州自稱天王。尚性兇暴以殺為樂。立二十年)。
西涼改建初。
(二十一 丙午) 天竺尊者佛馱跋陀。自義熙二年至長安。什公倒屣迎之。以相得遲暮為恨。議論多發藥。跋陀曰。公所譯未出人意。乃有高名何耶。什曰。吾以年運已往。為學者妄相粉飾。公雷同以為高可乎。從容決未了之義。彌增誠敬。秦太子姚泓。延至東宮。對什論法。什問曰。法云何空。答曰。眾微成色。色無自性。故色即空。又問。既以極微破色空。復云何破一微。答曰以一微故眾微空。以眾微故一微空。沙門寶雲譯出此語。不省其意。皆謂跋陀所計微塵是常。更申請之。跋陀曰。法不自生。緣會故生。緣一微故有眾微。微無自性則是空矣。寧當言不破一微乎。時秦尚玄化沙門出入宮闕者數千。跋陀隤然而已。偶謂弟子曰。昨見天竺五舶俱發。應合至矣。又其徒自言得初果。僧正道䂮曰。佛不許言自所得法。五舶之論何所窮詰。弟子輕言誑惑。於律有違義不同處。跋陀遂渡江入匡山見遠公。議論不為遠屈。遠高之。遣書關中雪其枉。後於江都謝司空寺譯華嚴經六十卷。感二青衣童子每旦自庭沼中出。炷香添瓶不離座右。暮夜則潛入治中。日以為常。至譯經畢。遂絕迹不見。
(丁未) 夏改龍升。
後燕高雲(字子羽。惠文熙之長子。自云高陽之後。因以為姓。熙死僭立一年。改國曰大燕。年改正始)。
(二十二) 淵明陶潛字元亮。為彭澤令。解印去居柴桑與廬山相近。時訪遠公。遠愛其曠達。招之入社。陶性嗜酒謂許飲即來。遠許之。陶入山。久之以無酒攢眉而去。
(戊申) 南涼改嘉平。
北燕馮跋(字文起。長樂信都人。小字乞直伐。其先畢萬之後。子孫皆食爵馮獅者。因以氏。馮跋善飲酒一石不亂。初仕後燕。因殺慕容熙立雲。雲復為臣離班桃仁所弑。跋乃僭稱燕于昌黎。次年改太平。在位二十一年)。
(己酉) 西秦改更始。
魏明元皇帝嗣(乃道武長子。是年即位。改元永興。在位十五年。壽三十二崩西宮。葬雲中金陵)。
(二十三) 沙門法果。戒行精至開演法籍。是歲明元皇帝進加僧統。言允愜賜封輔國宜城子忠信侯安城公之號。師皆固辭。帝親幸其居。以門巷狹小不容輿輦。更廣大之。瞻敬慰問若此。年八十餘卒。帝三臨其喪。追贈老壽將軍趙胡靈公。
(二十四 庚戌) 法師法顯自西域還。初顯於隆安二年。同惠景曇整等入西域求法。渡流沙迷失路。以日準東西。視人骨處進行。遭熱風惡鬼不顧。至葱嶺積雪有毒龍飛。砂路盤空而進。不顧皆萬仞險處。梯而過者。七日以繩為梁躡而濟者。水闊八十步。漢張騫甘英皆所未至也。過小雪山寒甚。惠景股栗而死。顯哭之慟。收涕孤征。又三十餘國至中天竺。去王舍城三十里。入一寺問耆闍崛山路。僧曰。日暮矣。彼多師子。且食人。不可往。顯念吾欲瞻靈境。幸至而晚。今夕若死吾志不酬。身非所愛。乃畏師子乎。顯既至日已夕。遂留山中。流涕拜曰。我不自知至此也。坐樹下誦經。夜三更師子蹲踞舐齕。顯以手循之曰。欲肉醉我遲誦經畢乃可耳。於是妥尾而去。明日歸。老僧植杖立揖不答。徐去。有少年來。顯問耆年謂誰。曰頭陀大迦葉也。顯追之至山。有石塞岩竇不得往。至南天竺。得摩訶僧祇律泥洹等經。留三年學梵字。以經像附商。至師子國。同侶皆無存。翩然自止。會有以紈扇供佛者。顯見之動東歸之思。又二年達于青州。太守李嶷躬迎之。護送入于京師。
(壬子) 西秦熾盤(乾歸之子。立十六年。改元永康)北涼改玄始。
(二十五) 西域三藏曇無讖。由龜茲至姑臧。涼王沮渠蒙遜素奉大法。讖居久之遍曉華言。譯大般涅槃大集等經六十餘萬言。猶以涅槃品數未足。復還西域訪求得之。至涼譯成。四十二卷。凡一萬偈。讖神異頗多。時拓跋珪王中山。聞讖思一瞻禮。遣使來迎。遜不許。珪再遣高平公李順。策拜遜涼王加九錫諭之曰。曇無讖道德廣大。朕思一奉見。可馳驛送至。遜曰。臣奉事朝廷亡所負。前表乞留讖。今復來追。此臣師也。有死則已。欲往則不可也。順曰。朝廷欽王忠義。故顯加殊禮。今乃以一道人虧損大功。不忍一朝之忿。吐所不當言。失朝廷待遇之意。切為大王不取也。遜曰。如公之言誠美。第恐情不副此耳。遜竟不遣讖。於是拓跋珪銜之。道進者從讖求授菩薩戒。讖曰。當自悔七日乃未。既而詣讖。讖忽怒。進曰。此宿障也。遂精修三年。夢中感釋迦世尊為授戒法。是夕十餘人同夢如進所見。於是復詣讖望見大喜曰。善哉已感戒矣。今為汝作證。及固辭西歸遜怒其去已。密遣親信中路刺殺之。初讖出關日。謂送者曰。業期至矣。雖上聖不能逃。非愛死而固欲相遠也。未幾遜心愧悔。白日見鬼以劍刺之而卒。其國為魏所併。
(癸丑) 夏改鳳翔。
(二十六) 道生法師天縱妙悟。初涅槃後品未至。生熟讀久之曰。阿闡提人自當成佛。此經來未盡耳。於是文字之師交攻之。誣以為邪說。於律當擯。生白眾誓曰。若我所說不合經義。願於此身即見惡報若實契佛心。願舍壽時據師子座。於是袖手南來入虎丘山。竪石為聽徒講涅槃經。至闡提有佛性處。曰如我所說義契佛心不。群石皆首肯之。後游匡山居銷景岩。聞曇無讖重譯涅槃後品至南京。果言闡提皆有佛性。生慰喜不自勝遂誓死奉法。
(甲寅) 魏改神瑞。
(丙辰丁巳) 後秦泓(興之子。立二年。晉劉裕滅之。壽三十。改永和)魏改泰常。
(戊午) 西涼李歆(立三年改嘉興)。
(己未) 夏改昌武。次年改真興。
(二十七) 恭帝德文改元熙(安帝母弟。永初元年。劉裕使后兄叔度踰垣殺之。壽三十六葬于沛陵。晉室滅矣)。
治二年○是年梁誌公生。
右(西晉都洛陽。四主三十七年。而有五胡之燉。東晉都建業十二主一百四年。而歸于宋)。
(庚申) 西秦改建弘。
西涼冠軍恂。改永建(二年河西王拔燉煌。恂自殺國亡)。
(二十八) 北朝魏泰常五年。光祿卿崔浩被讒。帝命浩以公歸第。因修服食養性之術。初嵩山道士寇謙之。修張道陵術。自言甞遇老子降。命謙之繼道陵為天師授以辟穀輕身之術。及科戒二十卷。使之清正道教。又遇神人李譜文云。老子之玄孫也。授以圖籙真經六十餘卷。并出天宮靜輪之法。謙之奉其書獻于太武。朝野多未之信。崔浩獨師事之。從受其術。且上書贊明其事。太武忻然。使謁者奉玉帛牲牢祭嵩嶽迎致謙之起天師道場於平城之南重臺五級。道徒由此而盛。
宋司馬文正公曰。老莊之書。大旨欲同生死輕去就。而為神仙者服餌修鍊以求輕舉。鍊草石為金銀。其為術正相戾矣。是以劉歆七略敘道家為諸子。神仙為方技。其後有符水禁呪之術。至謙之遂合而為一。至今循之。其訛甚矣。崔浩不信佛老之書而信謙之之言。其故何哉。昔臧文仲祀鶢鶋。孔子以為不智。如謙之者其為鶢鶋亦大矣。詩三百一言以蔽之。曰思無邪。君子之於擇術。可不謹哉。
(二十九) 禪師玄高居夌?山。與沙門曇弘友善。聞曇無毘自北山至涼妙禪觀。高往親之。旬日即悟。無毘歎異以為勝己。及無毘西歸。有妖比丘。嫉高譖於河南王世子曼曰。高今聚徒將為國害。曼信之欲殺高。其父不許。遂擯於河北。居林陽堂山。山蓋地仙所宅。夜有鐘磬聲。高門弟子百餘輩。拔萃者玄紹有神力。甞指地出水以給眾。如紹者又十有一人。河南王迎曇弘至。問王何以擯高。其人希世之瑞也。王厚禮迎之。高欲赴命。山中草木為摧偃亂石塞路。高曰。吾志弘道。自滯岩竇無益也。路乃可行。王郊迎之禮以為師。後游涼土。沮渠蒙遜禮遇尤勤。弟子僧印自謂得阿羅漢果。高假以神力。使於定中見十方無盡世界。及聞諸佛所說之法。各各不同。即於一夏尋其所見不盡。方生愧懼。明年魏使請高入于平城。拓跋燾在位。益加誠敬令太子晃師事之。
(三十) 齊著作魏收。著魏書佛老志。其略曰。釋氏之學聞於前漢。武帝元狩中。霍去病獲昆耶王及金人。率長丈餘。帝以為大神。列於甘泉宮燒香禮拜。此則佛道流通之漸也。及開西域遣張騫使大夏。還云身毒天竺國有浮圖之教。哀帝元壽中。景憲受大月氏王口授浮圖經。後漢明帝夢金人項有日光飛行殿庭。傅毅始以佛對帝。遣中郎蔡愔等使於天竺。寫浮圖遺範。仍與沙門迦葉摩騰竺法蘭還洛陽。得四十二章經及釋迦立像帝令畫工圖之。置清涼臺及顯節陵。緘經於蘭臺石室。浮圖或言佛陀。聲相轉也。譯云淨覺。言滅穢明道為聖悟也。
凡其經旨。大抵言生生之類。皆因行業而起。有過去當今未來三世。神識常不滅也。凡為善惡必有報應。多積勝業陶冶麁鄙。經無數形藻練神明。乃至無生而得佛道。其閒階次心行等級非一。皆緣淺以至深。藉微而為著。率在於積仁順蠲緣欲。習虛靜而成通照也。故其始修心則依佛法僧。謂之三歸。若君子之三畏也。又有五戒。去殺盜婬妄言飲酒。大意與仁義禮智信同。奉持則生天人勝處虧犯則墮鬼畜諸苦。又善惡生處。凡有六道焉。
諸服其道者。則剃落髮須釋累辭家。結師資遵律度。相與和居治心修淨。行乞以自給。謂之沙門。或曰桑門。亦聲相近也。其根業各差。謂之三乘。聲聞緣覺及以大乘。取其可乘運以至道為名也。上根者以修六度進萬行。整度億流彌歷長遠。登覺境而號為佛也。本號釋迦文。此譯能仁。謂德充道備戡濟萬物也。降於天竺迦維羅衛國王之子。於四月八日從母右脇而出。姿相超異三十二種。天降嘉瑞亦三十二而應之。以二月十五日而入涅槃。此云滅度。或言常樂我淨。明無遷謝及苦累也。又云。諸佛有二義。一者真實。謂至極之體妙絕拘累不得以方處期。不可以形量限。有感斯應體常湛然。二者權應。謂和光六道同塵萬類。生滅隨時脩短應物。形由感生體非實有。權形雖謝真體不遷。但時無妙感。故莫得常見耳。斯則明佛生非實生滅非實滅也。
佛既謝往香木焚屍。靈骨分碎大小如粒。擊之不壞。焚之不焦。而有光明神驗。謂之舍利。弟子收奉。竭香花致敬募建宮宇。謂之為塔。猶宗廟也。故時稱為塔廟者是矣。於後百年有王阿育者。以神力分佛舍利。役諸鬼神造八萬四千塔。布於世界。皆同日而就。今洛陽彭城姑臧臨淄。皆有育王寺。蓋承其遺迹焉。而影迹爪齒留於天竺。中途往來者咸言見之。
初說教法。後皆著錄。綜覈深致無所漏失。故三藏十二部經。如九流之異。統其大歸終以三乘為本。後有羅漢菩薩。相繼著論。讚明經義以破外道。皆傍諸藏部大義。假立外問而以內法釋之。傳於中國。漸流廣矣。漢初沙門皆衣赤布。後乃易以雜色云。
論曰。唐太宗世既修晉書。復有勸修南北七朝史者。太宗以元魏書甚詳。故特不許。以今攷之信然也。凡佛老典教於儒者九為外學。或欲兼之。自非夙薰成熟願力再來。莫能窺其彷彿。況通其旨歸而祖述源流者乎。異哉魏書佛老志。不介馬而馳遷固之間。御靡旌以摩荀楊之壘。步驟雍容有足觀者。然則魏收兼三聖人難兼之學。平四作者不平之心。厥書獨見信於後世。顧不美哉。
佛祖歷代通載卷第七
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第八
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
(一 庚申) 宋(姓劉氏都建康)雷氏曰(高少文武前明後順宋朝八主合六十年)高祖武皇帝。裕改永初(字德輿。小字寄奴。彭城縣綏輿里人。漢高弟。楚元王交二十世孫。彭城楚都。故苗裔家焉。帝仕晉為太尉。有雄才大略而清簡寡慾。晉氏東遷。劉氏移居晉陵。受禪晉室。幸建康宮。六十七歲崩于西殿。葬建康縣蔣山初寧陵。治三年)。
西秦改建弘。
西涼冠軍恂。改永建。
(壬戌) 四月上殂。
(癸亥) 營陽王義符。改景平(小字車兵。武帝長子。所為多乘失。皇太后令廢為營陽王。年十九終。治一年)。
(甲子 五一) 文帝義隆。改元嘉(小字車兒武帝第三子。身長七尺五寸。聰明仁厚躬勤政事。江左之政未甞有也。壽四十七。為張超之殺于合殿。葬長寧陵。在位三十年)。
魏世祖太武帝燾。改始光(明元長子。壽四十五崩于永安宮。在位二十九年)。
(乙丑) 夏赫連昌改承光。
北燕有女人化男子○魏崔浩自比張良。
(二 丙寅) 元嘉三年。神僧杯渡初出冀州。如清狂者。挈十木杯。渡水必乘之。因號焉。甞自孟津乘杯絕岸至金陵。時年四十許。狀寒窶喜怒不常。遇盛寒輒穴氷而浴或著屐登山。或跣足市中行。荷一蘆圈。時造延賢寺。沙門法意遇之尤勤。忽棄去行瓜步欲登舟。舟人不即應。遂乘杯絕北岸。廣陵村有李氏。方飯僧。渡徑入以蘆圈置庭中坐席上。眾環目之。渡自若座有怒者。見蘆圈礙道移之。饒力不能動。渡食畢挈之而去。笑曰。四天王。時有童子。竊見圈中。有四小兒。皆長數寸。眉目如畫。及追之失所在。由此顯迹。及卒後復時時有人見之云。
(戊辰) 西秦慕末改永弘。二年夏滅之。
夏赫連定立二年改勝光。次年魏滅之(昌之弟也)北涼改丞玄○魏改神䴥。
(三 己巳) 天竺求那跋陀羅至金陵。文帝遣使郊迎。跋陀神情爽邁。帝見之大悅。命居祇桓寺。屢延入內供養。僕射何尚之彭城王義康。南譙王義宣。並師事之。請講華嚴。跋陀以未通華言。乞觀音為增智力。夜夢神力士易其頭。旦起猶覺痛甚。遂遍曉華言。即為眾講之。時以跋陀妙大乘宗旨。因號摩訶衍。
(辛未) 北涼改義和。
北燕馮弘。改大興(跋之弟。殺跋之子翼。自立七年)。
(壬申) 魏改延和。
(四) 九年文帝幸大莊嚴寺設大會。親同四眾地坐。及齋眾疑日過午。不敢下箸。帝曰。日才午耳。法師道生在席。即曰。白日麗天。今天言方中。何謂過耶。舉鉢便食。一眾從之。帝大悅。下詔。留生止都下。一時巨公王弘范泰顏延之等。皆造門結友。生每以經文未能達諸佛之旨而學者多滯聞見因著善不報論。頓悟成佛論。二諦論。佛性有常論。法身無色論。佛無淨土論。應有緣論皆網羅舊說發其淵奧皎如日星。又明年正月庚子升法座。詞音朗潤聽者悟悅。俄麈尾墮地隱几而化。
(癸酉) 北涼牧虔(蒙遜子立六年改永和)。
(五) 是歲謝靈運以謀叛棄市。初靈運與顏延之齊名。其文縱橫俊發過於延之。深邃則弗及。襲封康樂侯。居會稽與隱士王弘之孔淳之。放蕩為娛。太守孟顗事佛精懇。為靈運所輕。甞謂顗曰。得道須惠業。文人生天當在靈運前。成佛必在靈運後。顗深恨此語。及顗入朝。屢為裁抑不得召用。晚為臨川內史。在郡游放不法。為有司所糾。司徒遣隨州從事鄭望生收之。運即興兵叛逸。遂有逆志。望生追擒之送廷尉。帝怜其才減死徙廣州。既而復叛。有旨棄市。年四十九。
(六 甲戌) 十一年。天竺三藏求那跋摩。初讓國出家。解四阿含。精貫三藏誦數百萬言。屬國諸王皆從之稟受歸戒。每謂諸王曰。道在精通。遇緣即應但依慈悲。勿故發害意足矣。遊闍婆國。其王欲出家事跋摩。群臣固請不可。乃令國中曰。若率土奉大和尚歸戒。勿殺害賑給貧乏。即從爾請。於是群臣士民稽首遵命。朝廷雅聞其名。沙門惠觀等白於文帝。請遣使致之。有詔交州刺史津遣。沙門道冲等航海邀之。冲至跋摩欣然附舶抵廣。詔聽乘驛詣闕。道由始興。愛其山類靈鷲。為留周朞。寺有寶月殿。跋摩於東壁戲作定光儒童布髮像。極妙。夜輒有光。甞在定累日不出寺僧遣沙彌候之。見白獅子仰躡柱而戲彌空皆青蓮花沙彌驚走大呼。寺僧爭至。豁無所有。至金陵引對。帝迓勞殊勤。因從容問曰。寡人每欲持齋。以身應物不獲所願。法師遠來。陋邦之幸。何以教寡人。對曰。道在心不在事。法由己不由人。且帝王所修與匹夫異。匹夫身賤名微。言今不威。倘不克己苦節。何以為用。帝王以四海為家。萬民為子。出一嘉言則士庶咸悅。布一善政則人臣以和。刑不夭命。役不勞力。則風雨時若寒暑應節。百穀滋繁桑柘欝茂。以此為持齋。不殺亦大矣。安在輒半日之飡全一禽之命。然後為弘濟耶。帝撫几歎曰。俗迷遠理。僧滯近教。如法師之言。可與論天人際矣。命居祇桓寺。講法華并十地品。帝率公卿日集座下。法席之盛前此未聞也。摩即於寺譯菩薩善戒經等十八卷。
(乙亥) 魏改太延。
(七) 十二年京尹蕭謨之請制建寺鑄像。帝以問侍中何尚之吏部羊玄保曰。朕少讀經不多。比日彌復無暇。因果之事昧然未究。所以不敢立異者。以卿輩時秀率皆信敬耳。范泰謝靈運皆言。六經法度本任濟世。必求妙道。當以佛經為指南。比見顏延之析達性論。宗炳難白黑論。其說汪洋大明至理。若使率土之民皆敦此化。則朕坐致太平矣。夫復何事。昨蕭謨之請制。即以相示。委卿增損。必有以戒遏浮[泳-永+(炙-火+(午/一))]。無傷弘獎者。以當著爾。尚之對曰。橫目之俗聞不敬信。以臣庸陋獨有愚勤。實懼缺薄上玷大法。更蒙獎論重有愧耳。然前代群英則不負明詔。自渡江而來。王導周顗庾亮王蒙謝安郗超王坦之王恭王謐郭文謝尚戴逵許詢及亡祖兄弟王元琳昆季范汪孫綽張玄殷凱。或宰輔冠冕。或人倫羽儀。或致情天人之際。或抗迹雲霞之表。靡不倒心歸依。其閒比對如蘭護開潛淵遁崇邃。並亞迹黃中。或不測人也。近世道俗較論便爾。若悉舉者。夷夏漢魏奇傑輩出不可勝數。惠遠云。釋迦之化無所不可。適道固自教源。齊物亦為要務竊味此言。有契至理。何則百家之鄉千人持五戒則十人淳謹。千室之邑。百人修十善則百人和睦。傳此風教以周寰區。編戶億千則仁人百萬。夫能行一善則去一惡。去一惡則息一刑。一刑息於家。萬刑息於國。此明詔所謂坐致太平者是也。故圖澄適趙二石減暴。靈塔放光符健損虐。神道助化昭然可觀。謨之請制不謂全非。但傷蠹道俗本在無行僧尼。然而情偽難分。去取未易耳。至土木之工。雖若靡費。且植福報恩不可頓絕。臣比斟酌進退未安。今日面奉德音實用忻抃。羊玄保進曰。此談蓋天人之學。非臣愚所宜預聞。切恐秦楚論強兵之術。孫吳盡吞併之計。無取於此。帝曰。此非戰國之具。良如卿言。尚之曰。夫禮隱逸則戰士息。貴仁德則兵氣消。尚以孫吳為志。動期吞併。則將無取於堯舜之道。豈特釋教而已哉。帝悅。謂尚之曰。釋門之有卿。猶孔氏之有季路也。自是帝留神釋典益重玄化。及顏延之著離識論及論檢。勅法師惠嚴辨其同異。酬酢終日。帝笑曰。卿等殆不愧支許矣。
(八 丙子) 文帝幸曲水。公卿畢集。帝命賦詩。沙門惠觀詩先成奏之。句有奇勝之韻。帝悅以示百官。皆歎服其才。觀與惠嚴謝靈運等。詳定大涅槃經。頗增損其辭因夢為神人呵之曰。乃敢妄以凡情輕瀆聖典。觀等惶懼而止。
(九) 時有僧惠琳者。以才學得幸于帝與決政事。時號黑衣宰相。致門下車蓋常不容迹。琳妄自驕蹇。見公卿纔寒暄而已。著白黑論。毀佛叛教遂感現報。膚肉糜爛歷年而死。
論曰。世智辯聰人情所歆慕以為英靈者也。佛世尊則以為八難之一。何哉。靈運恃才傲世。以謀叛伏誅。惠琳毀形衣僧伽黎而竊與朝政。既叛教矣。復從而毀佛。遂蒙惡報以死。嗚呼蓋世智之為難也明矣。觀嚴二人妄以凡情輕議聖典。向使不遇神人呵之。則世智之難亦幾不免。大哉跋摩尚之對制之言。可謂旨窮大體而識盡精微。真天下之通論也。
是歲文帝。詔求沙門能述生法師頓悟義者。刺史庾登之以釋法瑗聞召對顧問瑗伸辯詳明。何尚之歎曰。意謂生公之歿微言永絕。今復聞象外之談。所謂天未喪斯文也。未幾天保寺成。詔瑗主之。王景文至。值其講歎曰。所舉皆所未聞。所指皆出意表。真法中龍也。湘宮寺成。復移瑗居之。帝臨幸聽法。時以為榮。
(庚辰) 魏太武燾即位改太平真君。
(壬午) 真君三年。上詣道壇受籙。
(十 甲申) 是年。北魏太武以戊寅平蕩中原。江北盡臣伏。又為寇謙之倚崔皓為天師。故改真君之號。迨今五年。崔信寇術憎釋愈甚。太子晃師事法師玄高。崔皓妬晃讒於太武。疑之令幽死晃求哀於高。高為作金光明懺。太武夢其先祖讓之曰。不當以讒疑太子。既寤以所夢語群臣。臣下皆稱。太子無過待之如初。其相崔皓懼太子將不利於己。白太武曰。太子前實有謀。仍結玄高以術致先帝。恐陛下耳。若不早誅必為大害。太武大怒。收玄高惠崇害之。高弟子玄暢居雲中。聞高遇害。日馳六百里。至魏闕泣曰。和上神力當為我起。於是高開眸曰。大法應化隨緣盛衰。盛衰在迹理恒亘然。但惜汝等行如我耳。或恐過之矣。唯玄暢南渡。汝等死後法當更興。善自修心毋令中悔。言訖即化。沙門法進號呼曰。聖人去世。我何用生。應聲見高於雲中。進頂禮乞救高曰。不忘一切。寧獨棄汝耶。曰和尚與崇公並生何所。高曰。我往惡處。救護眾生。崇已歸安養矣。言訖不見。
(十一) 世祖時。道士寇謙之字輔真。雍州人。早好仙道修張魯之術。服食餌藥歷年亡效。有仙人成公興。求謙為之弟子。相與入華山居石室。興採藥與謙之服。能不飢。又共入嵩山石室。尋有異人。將藥與謙之。皆毒蟲臭物。謙之懼走。興歎息曰。先生未仙。正可為帝王師耳。未幾興仙去謙守志嵩山忽遇大神。乘雲駕龍導從百靈。集於山頂稱太上老君。謂謙之曰。自天師張陵去世以來。地上曠職。汝文身直理。吾故授汝天師之位。錫汝雲中新科二十卷。自開闢以來。不傳於世。汝宣吾新科清整道教。除去三張偽法租米錢稅及男子合氣之術。大道清虛寧有斯事。專以禮度為首。加之以服食閉練。使玉女九疑十二人授謙之導引口訣。遂得辟穀氣盛顏色鮮麗云。
(十三 丙戌) 是歲即元嘉二十三年。魏太武三月西伐長安。與崔皓皆信重寇謙之而奉其道。皓特不喜佛。每言於魏主。以為佛法虛誕為世費害。宜悉除之。及魏主討蓋吳。至長安入佛寺。沙門飲從官酒。從入其室。見大有兵器出白太武。武怒曰。此非沙門所用。必與蓋吳同謀欲為亂耳。命有司按誅合寺僧。閱其財產大有釀具。及州郡牧守富人所寄物以萬計。又為窟室以匿婦人。皓因說帝。將誅天下沙門毀諸經像帝從之。寇謙之切諫以為不可。皓不從。先盡誅長安沙門焚燒經像。還宮勅臺下四方命一依長安法。詔曰。昔後漢荒君信惑邪偽以亂天常。自古九州之中未甞有此。誇誕大言不本人情。叔季之世莫不眩焉。由是政化不行禮儀大壞。九服之內掬為丘墟。朕承天緒欲除偽定真復羲農之治。其餘一切蕩除滅其蹤跡。自今已後敢有事胡神及造形像泥人銅人者門誅。自王公已下。有私養沙門者。限今年三月十五日。過斯不首身死有司。宣告征鎮將軍刺史。諸有浮圖形像及一切經。皆擊破焚燒。沙門無少長悉坑之。太子素好佛法。屢諫不聽乃緩宣詔書。使遠近預聞之。得各為計。沙門多亡匿獲免收藏經像。唯塔廟在魏境者。無復孑遺。
魏真君九年。天師寇氏勉帝以京之東南地建靚輪天宮。奏曰。陛下以真君御世開古未有。應受符命。帝然之。遂受符錄。建靚輪天宮令極高大。不聞雞犬之音。要與天神交接。工力萬計。經年不成。其寇謙之惡疾死。功遂止。
(十五 庚寅) 真君十一年。崔皓甞見妻郭氏讀金剛經。乃奪之火焚棄廁。初崔皓為魏司徒。自恃才略。及魏主所寵任專制朝權。太武以皓監祕書。其黨閔湛者。勸皓刊所撰國史于石以彰直筆。皓從之。於是刊石立於郊壇。書魏先世事皆詳實。往來見者咸以為言。北人無不忿恚。相與譖皓於帝。以為暴陽國惡。帝大怒。使有司按皓罪狀。皓惶惑不能對。執皓檻車置于城南道側。使衛士路人行溲其面。呼聲嗷嗷徹于道曰。此吾投經溺像之報也。凌遲而死。時年七十矣。崔寇二家悉夷五族。坐及僚屬凡百二十人。皓既勸魏主除蕩釋氏。及經像毀廢。皓行路見遺像必停車溺之。及族誅尸無收者。又積怨在人。於是競溺皓尸。至糜潰乃止(已上見北史)。
論曰。崔皓之不智。司馬溫公論詳矣。大抵拓跋氏起自沙塞未遷都時。性殘忍殺人如甘美飲食。其俗習然也。初太子晃被讒。而玄高等數僧受誅頗見其無辜矣。及罷釋氏沙門誅而坑之者。豈勝道哉。此雖虜人性凶。亦崔皓當權用法如此。既而皓被讒。迹其所坐。蓋作史之失。在唐世不過黜官榮投之荒裔而已。假令誅之亦不過一已。乃遂夷滅五族何哉。蓋以無辜而施於人也。深則其報之於己也必厚。此天道常數而不易者也。至於吾釋之經像。於皓庸有傷害哉。而皓每見必停車而溺之。及皓未旋踵而尸亦為人溺之。至糜潰而止。嗚呼皓不畏聖人之言而欺天也又如此。故天復為之速報以警動乎人世也。可不戒哉。可不戒哉。
(辛卯) 魏改正平。
世尊示滅一千四百年矣。
(十六) 魏朝元會。沙門曇始振錫至宮門。吏白太武曰。趣斬之。刃下無傷。又白。臨殿陛矣。太武抽佩劍自斬之。亦不能傷。劍微有㾗如線。令收捕投虎檻中。虎皆怖伏不敢瞬。左右請以天師試之。虎即虓吼太武大驚。延始上殿。再拜悔謝。魏書佛老志云。沙門惠始清河張氏子。初聞羅什出經。詣長安見之。學習禪定於白渠北。晝入城聽講。夕還處靜。三輔識者高之。武帝滅姚氏留子義真鎮長安。及義真為赫連屈局所敗。始身被刃而無傷。屈局怒召始於前。以所佩劍自擊之。又不能害。乃懼而謝。後至魏多所化導。自初習定至卒。五十餘年。未甞寢臥。跣行足不沾泥。愈加鮮白。世號白足阿練若。太武深加敬禮。始預知終期。齋潔端坐。僧徒滿側。泊然而寂。停尸十日容色不變。閱十餘年改葬貌亦如存。舉世歎異。及葬日送者萬餘人。皆號慕哭之慟。中書監高允。為傳頌其德云。
魏太武以癘作二月五日卒矣。
(壬辰) 魏文成帝?改興安(景穆帝長子。先太子晃被害。立吳王。改元正平。十月一日吳王亦崩。立太孫。濬晃之子也。既立有人君之度。視前昏失復弘聖道。在位十二年。壽二十六崩太華殿也)。
(十七) 二十九年魏太武帝殂。吳王立。未幾而薨。
高宗文成帝即位。乃太武之孫也。群臣勸請興復釋氏。下詔曰。夫為帝王者。必祇奉明靈顯彰仁道。其能惠著生民濟益群品雖在往古猶序其風烈。是以春秋喜崇明之禮。祭典載功施之族。況釋教如來功濟大千惠流塵境。尋生死者歎其達觀。覽文義者貴其妙門。助王政之禁律。益仁智之善性。排撥群邪開演正覺。故前代已來莫不崇尚。亦我國家常所尊事。世祖太武皇帝開廣邊荒德澤遐被。沙門道士善行純誠。如惠始之倫。無遠不至。風義相感往往如林。夫山海之深。寧免奸婬之儔得容假託。講寺之中。致有兇黨。是以先朝因按假亹戮其有罪。所司失旨一切禁斷。景穆皇帝每為慨然。值軍國多事未遑修腹。朕承鴻緒君臨萬邦。思述先志以隆斯道。今制諸州郡。眾居之所各聽建佛圖一區。其有好樂道法欲為沙門。性行素篤鄉里所明者。聽出家。於是天下承風朝不及夕。往時所毀圖寺經像。並還修復。有罽賓王種沙門師賢者。東游涼城。至魏值罷教。權假藥術守道不改。於復教日即為沙門。同輩五人。高宗親為下髮。命師賢為僧統。明年有旨。於五級大寺為太祖已下五帝鑄釋迦文像五尊。各長丈有六尺。用赤金二十五萬斤云(出魏書佛老志)。
(十八 甲午) 武帝駿改孝建(字休龍。小字道人。文帝第一子。聰明穎悟。文武所全。壽三十五崩玉燭殿。在位十年)。
魏改興光。
(十九) 第二十七祖般若多羅者。東印土人也。既得法已。行化至南印度。彼王名香至。崇奉佛乘尊重供養度越倫等。又施無價寶珠。時王有三子。其季開士也。尊者欲試其所得。乃以所施珠問三王子曰。此珠圓明有能及此否。第一子月淨多羅。第二子功德多羅。皆曰。此珠七寶中尊。固無踰化。非尊者道力。孰能受之。第三子菩提多羅曰。此是世寶。未足為上。於諸寶中法寶為上。此是世光。未足為上。於諸光中智光為上。此是世明。未足為上。於諸明中心明為上。此珠光明不能自照。要假智光光辨於此。既辨此已即知是珠。既知是珠即明其寶。若明其寶。寶不自寶。若辨其珠。珠不自珠珠不自珠音。要假智珠而辨世珠。寶不自寶者。要假智寶以明法寶。然則師有其道其寶即現。眾生有道心寶亦然。尊者歎其辨慧。乃復問曰。於諸物中何物無相。曰於諸物中不起無相。又問。於諸物中何物最高。曰於諸物中人我最高。又問。於諸物中何物最大。曰於諸物中法性最大。尊者知是法嗣。以時尚未至。且默而混之。及香至王厭世眾皆號絕。唯第三子菩提多羅。於柩前入定。經七日而出。乃求出家。既受具戒。尊者告曰。如來以正法眼付大迦葉。如是展轉乃至於我。我今囑汝。聽吾偈曰。心地生諸種。因事復生理。果滿菩提圓。華開世界起。尊者付法已。即於座上起立。舒左右手。各放光明二十七道五色光耀。人踊身虛空高七多羅樹。化火自焚。空中舍利如雨。收以建塔。當宋孝武帝孝建元年甲午歲也(正宗記云。宋孝武之世也。注云。以達磨六十七年計之。當在宋孝武孝建元年。傳燈作丁酉非)。
(二十) 孝建元年。宋孝武帝舉兵誅元凶。而求那跋陀羅逃民間。其後王玄謨軍梁山。孝武令軍中。得跋陀者驛馳至臺。俄得之。送金陵引見。帝曰。企德日久。乃今始遇。間關來歸亦有恨乎。曰亡所恨。但念夙緣遇此遂成熟耳。帝慰之且戲曰。尚念譙王乎。對曰。古人不忘一飯。王飯我十年。乃敢遽忘耶。念當從陛下求為王長修冥福。帝悽然改容。中興寺成。有旨命住持。帝宴東府。公卿畢集。召跋陀至。皤然清癯孝武望見謂謝莊曰。摩訶衍有機辯當戲之。必能悟人情。跋陀趨升陛。帝曰。摩訶衍不負遠來。唯有一在。即應聲曰。貧道客食聖朝三十載。恩德厚矣。所欠者一死耳。帝大悅移席相促。一座盡傾。
(乙未) 魏改大安。
(二十一) 孝武詔沙門道猷。為新安寺鎮寺法主。初文帝間惠觀。頓悟之理孰精。觀以猷對。有旨召入大內。盛集名流。猷敷宣有緒法義粲然。聞者開悟。有攻難者猷必挫以釋之。帝拊髀稱善。至是為天下法主。甚允時望。
(二十二 丙申) 法師寶亮居中興寺。中書袁粲見而異之。以書抵其師道。明略曰。比見亮公。非常人也。日聞所未聞。不知歲之將暮。然珠生合浦。魏人取以照乘。玉在邯鄲。秦人請以華國。天下之寶不可自專。當與同之也。自是亮名益重。晚居靈味寺。講席冠京邑。弟子三千餘。亮英氣駸駸逼人。辭鋒錯逸。議者或蔽於理。亮釋之莫不渙然。
(丁酉) 改大明。
(二十三) 是歲有羌人高闍反。累及沙門。曇標乃下詔付所司。精加沙汰。遂設諸條。自非戒行精苦之者。並令還俗。詔雖嚴重竟不施行。
(庚子) 魏改和平。
(二十四 壬寅) 大明六年九月右司陳言。臣聞邃拱凝居非期弘峻。拳跪盤伏豈止恭敬。將以昭彰四維締制六寓。故雖儒法支派名墨條流。至於崇親嚴上。厥繇靡爽。唯浮圖教特異於此。凌滅禮度偃居尊戚。失隨方之妙迹。迷至化之淵美。臣聞佛以謙儉自牧。以忠順為道。不輕比丘逢人必拜。目連大士遇長則禮。寧有屈膝四輩而閒禮二親。稽顙耆臈而直骸萬乘者耶。故咸康剏議元興再述。而事屈於偏黨。道剉於餘分。今鴻源遠洗群流仰鏡。九仙贐寶百神[芝/耳]職。而畿輦之內含弗臣之民。階席之間延抗禮之客。懼非所以澄一風軌詳示景則者也。臣等參議以為沙門接見皆當盡禮敬之容。依其本俗則朝徽有序。乘方兼遂矣。制可。法師僧遠聞而歎曰。我剃頭為沙門。本出家求道。何關於帝王。即日拂衣歸于林壑。
(二十五) 是歲吳郡朱靈期者。自高麗還舶為風携至一洲。洲有山因意登之十餘里聞午梵知有寺。寺七寶所成。見僧數輩皆石像。欲返有呼靈期再拜得食。食味香美非世間有也。有人云。此去金陵二萬餘里。甞識杯渡道人否。靈期曰。識之。其人指北壁一囊并瓶錫曰。乃其鉢具耳。今取附君并書。又以青竹杖授之曰。見杯渡即付之。令一沙彌送至舶。沙彌命靈期以竹杖置前水中。三日而至石頭淮。遂失竹杖。有須渡來。得鉢大笑曰。我不見此鉢且四千年矣。以擲雲中。又接之乃去。渡屢示寂。已而復游於世。復至齊諧家。同呂道惠杜天期水丘熙。三大士在焉。諧大驚即再拜。渡曰。年大凶。無忘修福業。法意道人德高。可親之以禳災。俄門楣上一僧呼渡。仰見之即辭去。後不復見。
(二十六 癸卯) 釋僧導。京兆人也。十歲從師所學弘大。為王者之敬。初姚興欽重出入同輦。後帝悅其賢。躬為壽春立光山寺勅開講。首曰。昔王宮托生雙林見滅。自爾已來歲逾千載。淳源永謝澆風不追。給苑丘墟鹿園蕪穢。九十五種。以趣下為升高。三界群生。以火宅為淨土。豈知上聖流涕大上悽惶者哉因即涕泗四眾為之改容。
(二十七 乙巳) 廢帝業改景和(小字法師。孝武長子。不仁不孝。淫虐無度。其嬖臣壽寂之投之。年十七崩光華殿。在位一年)。
(二十八) 魏文成帝末年。疏勒國王遣使送佛袈裟一頂。長二丈餘。帝審是佛衣。應有靈異。置之猛火經日不然。於是駭然心形俱肅信乎(出北史)。
(二十九) 明帝或改太始(字休炳。小字榮期。文帝第十一子。好事鬼神。嚴酷暴虐。壽三十四崩于景福殿。在位七年)。
魏獻文帝弘(文成長子。即位治六年。禪位與太子。自號太上皇。二十三歲崩)。
(丙午) 改永光。
魏改天安。
(丁未) 大教東被四百年矣 ○魏改皇興。
魏是年建永寧寺浮圖。七級高三百餘尺。為天下第一。又鑄釋迦文像。高四十三。尺用赤金十萬斤黃金六百斤。又造三級石浮圖。
(三十) 寶誌大士於是年往來皖山劍水之下。髮而徒跣著錦袍。俗呼為誌公。面方而瑩徹如鏡。手足皆鳥爪。初金陵東陽民朱氏之婦。上巳日聞兒啼鷹巢中。梯樹得之。舉以為子。七歲依鍾山大沙門僧儉出家。專修禪觀。至是顯迹。以剪尺拂子掛杖頭。負之而行。經聚落兒童嘩逐之。或微索酒。或累日不食。甞遇食鱠者從求之。食者分啗之。而有輕薄心。誌即吐水中。皆成活魚。時時題詩。初若不可解。後皆有驗。
(三十一) 邵碩者。本康居國人。大口醜目狀如狂。小兒得侮慢。時時從酒徒入肆酣飲。後為沙門號碩公。與誌最善。出入經行不問夜旦。意欲為之則去游益州諸縣。皆以滑稽言事。能發人歡笑。因勸以善。家家喜之。將亡謂沙門法進曰願露骸松下。然兩脚須著屐。進諾之。已而化。舁其尸露之。明日往視失所在。俄有自[郫-卑+((白-日+田)/廾)]縣來者曰。昨日見碩公著一屐行市中曰。為我語進公。小兒見欺。止與我隻履。進驚問沙彌。答曰。舁尸時。一履墮。行急不及繫也。
(三十二 戊申) 明帝詔僧瑾。為天下僧正。止靈根寺。帝多諱忌。犯者必殺之瑾每匡諫。賴免者甚眾。時京邑諸師立二諦義。有三宗。宗各不同。於是汝南周顒。作三宗論以通其異。然畏譏不敢傳。法師智林者。最有時望。以書抵顒。略曰。切聞三宗論。鉤深索隱。盡眾生之情。廓而通之。盡諸佛之意。使法燈有種勝利無窮。借使國城妻子之施。何以逮此哉。傳者以為公畏譏評故欲中輟。詎可特纏疑障。自發現行乎。顒得書戄然悟。此論遂行于世矣。
(辛亥) 元魏文皇帝宏改延興(獻文長子。生多詳感。五歲受禪。有人君之度。馬太后臨朝稱制。十七始親政。改姓元氏。遷都洛陽。斷胡服番語。在位二十九年。壽三十三崩。葬長陵)。
(三十三) 釋老志曰。有魏孝文者。聖天子也。五歲受禪十歲服冕。太和十八年遷都于洛。二十年改姓元氏。文章百篇。冠絕今古。初登詔誥假手有司。太和以後並自運筆。前後諸帝不能及之。凡下七詔大興三寶。帝建鹿野鹿苑二浮圖。岩房禪室無不嚴麗。
(壬子) 改泰豫。四月上殂。太子昱立。十歲。
(癸丑) 後廢帝昱改元徽(字德融。明帝長子。淫虐不道。廢為蒼梧王。壽十五歲。為揚王夫弑之。在位四年)。
(丙辰) 魏改承明。
(丁巳) 順帝準改昇明(字仲謨。小字智觀。明帝第三子。蕭道成為司空總軍國事。戊午三月以太傅為相國。又加丸錫。遂禪位于道成在位八年)。
魏改太和。
右宋八主六十年(而禪于齊)。
(三十四 己未) 齊 雷氏曰(高武欝林海陵明帝東昏及和。齋朝七主二十四年)。
太祖高皇帝道成(姓蕭氏。字紹伯。小字聞將。漢相國何二十四代孫。祖整過江居晉陵。遂為蘭陵人。皇考承之。仕宋為漢中太守。生帝龍顙鐘聲。亦仕宋立功。蒼梧王屢欲害之。遂生猜釁而伐宋為齊王。壽五十四歲。崩臨光殿。在位四年。順帝之禪位也。泣而彈指曰。願後身世世勿生天王家)。
改建元。
(三十五 庚申) 是年高祖有事于鍾山。因幸沙門僧遠所居。遠床坐辭以老病不能出迎。高祖將詣床下見之。左右以房閤狹不容輿蓋。遂駐蹕遣使勞問臥起而去。遠居山凡五十餘年。初猶有食。食不繼㵎飲二十餘年。天下仰其高行。及終武帝致書沙門法獻曰。承遠上無常。弟子夜中已知。遠去此玄甚得好處。諸佳非一。不復增悲也。一二遲見法師方可敘瑞夢耳。今為作功德。所須可具疏來。
(三十六 癸亥) 武帝頤改永明(字宣遠。高帝長子。性儉約好積儲庫。至八億萬。金銀布帛不可稱計。壽五十四崩延昌殿在位十一年)。
(三十七 三十八 甲子 五二) 勅沙門法獻玄暢。為天下僧主。他日會于帝前。對制稱名而不坐。中興寺僧鍾對帝稱貧道。武帝訝之。以問中書王儉。儉曰。漢魏佛法未盛。傳記無載者。獨宋魏始盛。而沙門多稱貧道而預坐。晉庾氷桓玄皆欲屈之。然竟不可行。今亦稱貧道。帝曰。獻暢二師道行如此猶稱名。朕以稱名乃得宜。可著令以為定式。初獻公慕法猛西遊。自巴蜀出河南。經芮芮國到于闐欲度葱嶺。會棧道絕不得往。獲佛牙一枝。舍利十有五粒。并經論梵夾而還。暢公精究經律博貫子史百氏之言。初華嚴未有疏。暢首為之。學者得以祖述焉。風詣高簡弘道輔世有功國。家莫年特聽肩輿入殿。時稱黑衣二傑焉。
明教嵩禪師論曰。近古高僧見天子不名。預制書則曰師曰公。鍾山僧遠鑾輿及門而床坐不迎 虎溪惠遠天子臨潯陽而詔不出山。當時待其人尊其德。是故聖人之道振其徒尚德。儒曰。貴德何如。以其近於道也。後世之慕其高僧者。交卿大夫尚不得預下士之禮。其出其處不若庸人之自得。況如惠遠之見天子乎。僧遠之自若乎。望吾道之興吾人之修。其可得乎。存其教而不須其人。存諸何以益乎。惟此未甞不涕下也。
(丙寅) 魏始服袞冕乘御輦。
(己巳) 魏祀員丘方澤作孔子祠。
(三十九) 永明七年。帝怒大士寶誌惑眾。收逮建康獄。是日國人咸見大士游行市井。既而檢校仍在獄中。其夕語吏曰。門外有兩輿食。金鉢盛飯。汝可取之。果文惠太子竟陵王送供至。建康令呂文顯以聞。帝悔謝迎至禁中。俄有旨屏除後宮為家人宴。誌例與眾暫出。已而猶見行道于顯陽。殿比丘七輩徒其後。帝驚遣吏至。問吏。白誌久出在省中及視之身如塗墨焉。帝益神敬之。後在華林園忽重著三頂布帽。亦不知自何而得之。未幾而帝崩。文惠太子豫章王相繼而殂。果如其讖。靈味寺沙門寶亮者。欲以衲帔遺之。未及有言。誌忽來牽帔而去。王仲熊問。仕何所至。不答直解杖頭左索與之。仲熊初不曉。後果至尚書左丞焉。建武末。平旦出門。忽褰裳走過曰。門上血腥。及明帝遇害。果以犢車載尸自此門出。舍閹人徐龍駒宅。而帝頸血流被門限。初欝林多害宗室。高士江必憂南康王問誌。誌覆香爐灰示之曰都盡無餘。徐陵兒時父携之謁誌。誌拊曰。天上石麒麟也。陵後果顯于世。
沙門曇超者。居錢塘靈苑山。一夕有異人至曰。此邦蒙師留。蒼生之福。然富陽民無故鑿山麓。斷壞群龍之室。龍忿不致雨。今二百日矣。欲法師一往誨龍為蒼生請福。豈有意乎。超曰。此檀越事。吾何能為哉。神曰。弟子力能吐雲。不能致雨。超諾之。至赤庭山為龍說法。俄大雨。因止臨溪。縣令聞超在。辦舟迎之。超即日遁還靈苑。
(辛未) 逸士顧歡。隱居不仕。尚黃老。南史云。歡以佛道二家教異學者。互相非毀乃著夷夏論。其略曰。辨是與非宜據聖典。道經云。老子入關之天竺。維衛國王夫人曰淨妙。老子因其晝寢乘日精入淨妙口。後年四月八日剖右腋而生。墮地即行七步。於是佛道興焉。此出玄妙內篇。佛經曰。釋迦成佛有塵沙之數。或為國師道士儒林之宗。出瑞應本起。試論之。曰五帝三皇未聞有佛。國師道士無過老莊。儒林之宗孰出周孔右。孔老非聖誰或當之。然二經所說若合符契。道則佛也。佛則道也。其聖則符。其迹則反。或和光以明近或耀靈以示遠。道濟天下。故無方而不入。智周萬物。故無物而不為。其入不同。其為必異。各成其性。不易其事。是以端委縉紳諸華之容。剪髮曠衣群戎之服。全形守禮繼善之風。毀貌易形絕惡之學。豈伊同人爰及異物。無盡世界聖人代興。或昭五典。或布三乘。在鳥而鳥鳴。在獸而獸吼。教華而華言。化夷而夷語。雖舟車均於致遠。而有川陸之節。佛道齊乎達化。而有夷夏之別。若謂其致既均其法可換者。是車可涉川而舟可行陸乎。屢見刻有。沙門守株道士互爭。小大交相彈射。或域道以為兩。或混俗以為一。是牽異以為同。破同以為異。則乖爭之由淆亂之本也。尋夫聖道雖同而法有左右。始乎無端。終乎無末。泥洹仙化各是一術。佛號正真。道稱正一。一歸無死。真會無生。在名則返。在實則合。但無生之教賒。無死之化切。切法可以進謙弱。賒法可以退夸強。佛教文而博。道教質而精。精非麁人可信。博非精人所能。佛言華而引。道言實而抑。抑則明者獨進。引則昧者競前。佛經繁而顯。道經簡而幽。幽則妙門難見。顯則正路易遵。此二法之辨也。聖匠無方。方圓有體。器既殊用。教亦異施。佛是破惡之方。道是興善之術。興善則自然為高。破惡則勇猛為貴。佛迹光大宜以化物。道迹密微宜用為己。優劣之分大略在茲。歡雖同二法而意黨道教。
(四十二) 司徒袁粲託為沙門通公駁之。略曰。白日停光恒星隱照。誕降之應事在老先。固非入關方昭斯瑞。又西域之記佛經之說。俗以膝行為禮。不慕蹲坐為恭。道以三繞為虔。不尚踞傲為肅。豈專戎土爰及茲方。襄童謁帝膝行而前。趙王見周三環而上。今佛法乘化或因或革。清信之士容衣不改。息心之人服貌必變。變本從道不遵彼俗。俗風自殊無患其亂。孔老釋迦其人或同。觀其設教其道必異。孔老教俗為本。釋氏出世為宗。發軫既殊。其歸亦異。又仙化以變形為尚。泥洹以陶神為先。變形者白首為緇。而未能無死。陶神者使塵惑日損。而湛然常住。泥洹之道無死之地。陶神若此。何謂其同。時何常侍鎮之。覩顧歡和同二教大不平之。以書抵歡。劇言道教不足以擬釋氏。歡答其書固自封執。鎮之重與之書。猥辱返釋究詳淵況。既和光道佛而涇渭釋李。觸類長之爰至碁弈。然敷佛彌過精旨愈昧。所謂馳走滅迹跳動息影。焉可免乎。輒復略諸近要以標大歸。夫太極剖判兩儀妄立。五陰合興形識謬彰。識以流染因結。形以愛滯緣生。三皇之前民多顓愚。專愚則巢居穴處飲血茹毛。君臣父子自相胡越。猶如禽獸。又比童蒙。道教所不入。仁義所未移。及其沈欲淪波。觸涯思濟。思濟則祈善。祈善則聖應。夫聖者何耶。感物而遂通者也。夫通不自通感不自感。常在此通每自彼。自彼而言懸鏡高堂。自此而言萬像斯歸。故知天竺者居娑婆之正域。處淳善之嘉會。故能感通於至聖。中土於大千。聖應既彼聲被則此。覩日月之明。何假離朱之察。聞雷霆之音。奚事子野之聽。故卑高殊物不嫌同道。左右兩儀無害天均。無害天均則雲行法教。不嫌同道則雨施夷夏。夫道者一也。形者二也。道者真也。形者俗也。真既猶一。俗亦猶二。盡二得一。宜一其法。滅俗歸真。必其違俗。是以如來制軌玄劫同風。假令孔老是佛。則為韜光潛導。匡救褊心立仁樹義將近順情。是以全形守祀恩接六親。攝生養性自我外物乃為盡善。不為盡美。蓋是有涯之制。未鞭其後也。何得擬道菩提比聖牟尼哉。且佛教敷明要而能博。要而能博則精疎兩級。精疎兩級則剛柔一致。是以清津幽暢誠視易。准夫以視為員者易。以手為員者難。將不捨其所難從其所易耶。道家經籍簡陋多生穿鑿。至如靈寶妙真採撮法華。制用尤拙。如上清黃庭。所尚服食。咀石飡霞。非徒法不可効。道亦難同。其中可長唯在五千之文。全無為用。全無為。用未能違有。違有為懷。靈芝何養。佛家三乘所引九流均接。九流均接則動靜斯得。禪通之理是三中之一耳。非其極也。禪經微妙境相精深。以此締真尚未能至。今云道在無為得一而已。無為得一是則棄契千載。棄契千載不俟高唱。夫明宗引會導達風流者。若當廢學精思不亦怠哉。豈道教之筌耶。敬尋所辨。非徒不解佛。亦不解道也。反亂一首。聊酬啟齒。
亂曰。運往兮韜韜明。玄聖兮幽幽翳。長夜兮悠悠。眾星兮晰晰。太暉灼兮昇曜。列宿奄兮消蔽。夫輪桷兮殊材。歸敷繩兮一制。苟專迷兮不悟。增上驚兮遠逝。卞和慟兮荊側。豈偏尤兮楚厲。良箏蔑兮詖若。焉相責兮智慧。時復有朱常侍昭之。因何鎮之書。乃作難夷夏論。而朱廣之作諮夷夏論。並章分句解。以破顧歡之蔽於淺也。汝南周顒高僧惠通。並著駁夷夏論。歡之作遂不勝其謬矣。復有法師紹正者。著二教論其略曰。佛明其宗道全其生。守生者蔽。明宗者通。今道名長生不死。名補天曹。大乖老莊立言之旨。
(四十三) 齊文惠太子及竟陵王子良。並酷好佛。竟陵著淨住子四部二十卷。闡揚佛教。有吳興道士孟景翼者。頗有時譽。太子召入玄圃。眾僧大會。子良使景翼禮佛。景翼弗禮。子良送十地經與之。景翼造正一論。略曰。佛以一音演說法。老子抱一以為天下式。一之為妙。空玄絕於有境。神化贍於無窮。為萬物而無為。處一數而無數。莫之名。而強號為一。在佛為實相。在道為玄牝。道之大象。即佛之法身。以不守之守守法身。以不執之執執大象。但物有八萬四千行。說有八萬四千法。法乃至於無數。行亦達於無央。等級隨緣須道歸一。歸一即回向。向正即無邪。邪觀既遣億善日新。三五四六隨用而施。獨立不改絕學無憂。曠劫諸聖共遵斯一。老釋未始於常分。迷者分之而未合。億善遍修。遍修成聖。雖十號千稱。終不能盡。終不能盡。豈思議哉。
(四十四) 司徒中郎張融作門律云。道之與佛逗極無二。吾見道士與道人戰儒墨。道人與道士辨是非。昔有鴻飛天。首積遠難亮。越人以為鳧。楚人以為乙。人自楚越鴻常一耳。以示汝南周顒。顒難之曰。虛無法性其寂雖同。位寂之方其旨則別。論所謂逗極無二。為逗極於虛無。為無二於法性耶。足下所宗本一物而為鴻乙耳。驅馳佛道無免二未。未知高鑒緣何識本。輕而宗之。其有旨乎(已上出南史)。
論曰。自漢西域傳范曄論釋氏大概。陳壽三國志則置而勿言。唐太宗晉書則班班紀著沙門神異之迹。未始輒有一言訾佛。況佛化自晉抵南北朝始大振於天下。賢哉魏收李延壽之作。當世帝王公卿從事吾佛者。未甞諱之而不書。書之亦未甞以人事議佛也。及顧歡傳則假乎當時群公。評議二教而罪歡曰。歡雖同二法。而意黨道教。嗚呼可謂良史矣。陋哉歡翼之論。猶昔人寶燕石者。渠信有真玉哉。
(四十五 壬申) 元魏太和十六年。下詔。每四月八日。七月十五日。聽大州一百人為僧尼。中州五十人。下州二十人。著之制令。以為常准○祀孔子於中書省。
(甲戌) 欝林王照業。改隆昌(文惠長子。武帝之孫。初上淫虐。鸞伐之而立其太子之子昭文。改延興。奢佚無度。廢先君儲積數月而盡。西昌侯鸞以太后令廢之而自立)。
明帝鸞改建武(字景栖。太祖兄安貞王道之子。小字玄慶。性多情忌。好占吉凶利害。壽四十七崩正福殿。在位五年○立太子寶卷)。
(丙子) 魏改國姓元。
(戊寅) 改永泰。
(四十六 己卯) 東昏侯寶卷改永元(字正嚴。明帝次子。自即位不與臣下相接。奢佚後宮。一年之中府庫匱乏。民間倍價市金。與潘妃作金步蓮花。和帝刺於制州。舉蕭衍伐之。遂廢為東昏侯。壽十九而終。在位二年)。
(庚辰) 元魏宣武恪改景明(孝文第五子。即位深好佛法。百二十三。葬景平陵。在位十六年)。
(四十七) 道士陳顯明。妄造道真步虛品經六十四篇(出珠林)。
(辛巳) 和帝寶融改中興(字智昭。明帝第八子蕭衍迎立于江陵。明年三月禪位于梁。梁武奉帝為巴陵王。年十五崩。在位一年)。
齊高帝蕭道成。自戊午昇明二年四月受宋禪。相襲七主。二十四年。傳譯華戎道俗二十人。所出經律論傳錄等四十七部。凡三百五十卷。
外國有所謂天竺沙門僧伽跋陀羅者。師資相傳云。佛涅槃後優波離結集律藏訖。即於其年七月十五日。受自恣竟。以香花供養律藏。便下一點置律藏前。年年如是。優波欲涅槃時。付弟子陀寫俱。陀寫俱付弟子須俱。須俱付弟子悉伽婆。悉伽婆付弟子目犍連子帝須。帝須付弟子旃陀跋闍。如是師師相付。至今三藏法師。法師將律藏至廣州。臨上舶還本國。時以律藏付弟子僧伽跋陀羅。羅以永明六年共沙門僧猗於廣州竹林寺譯出善見毘婆沙一部十八卷。即共安居。以七年庚午歲七月望。受自恣竟。如前師法以香花供養律藏。即下一點。當其年凡得九百七十五點。點是一年也。至梁大同元年。有隱士趙伯休。於廬山遇苦行律師弘度。得此點記年月。伯休因問度曰。自永明七年後云何。不復見點。度云。自彼已前皆得道聖賢手自下點。度乃凡夫止可奉持頂戴而已。故不復點也。伯休因舊點推至大同元年。凡一千二十年。今以此究參諸家傳記。佛世尊誕生入滅之年並不相類。大抵西域山川之廣。國土之多佛化之盛。各承一宗。此亦一家之說不可廢。故附著于此。
(壬午) ○(四月寶融禪位于蕭衍尋後之)。
右蕭齊七主二十四年(而禪于蕭梁)。
佛祖歷代通載卷第八
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第九
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
(一) 梁(姓蕭氏四主都建康)○雷氏曰(高太世敬梁朝四主五十七年)。
(壬午) 高祖武皇帝衍改天監(字叔達。南蘭陵都里人。與齊同出。亦漢相何二十四代孫。父順之為丹陽尹。母曰張氏。生帝狀貌奇偉日角龍顏項有圓光身不映日。受齊禪後酷好佛法。降將侯景反叛舉兵圍帝于臺城。斷食而崩于淨居殿。壽八十六。在位四十八年○或問曰。梁武終身奉佛。然困殍于臺城。佛法之驗其在何也。答之曰。有是疑乎。有是誚也。且夫人之性命業性定焉。苟往世之業會矣。豈今生之善革哉。故文中子曰。齋戒修而梁國危非釋迦之罪也。緣行齊廢帝之愆。值侯景臺城之困業理既昭。惑疑遣矣)。
(二) 道家太清經。及眾醮儀十卷。乃梁時陶弘景妄造(出珠林)。
(三 癸未) 武帝詔曰。大士寶誌迹拘塵垢神游冥寂。水火不能燋濡。蛇虎不能侵懼。語其佛理則聲聞以上。談其隱淪則遁仙高者。豈可以俗法常情空相疑忌。自今中外任便宣化。帝一日問誌曰。弟子煩惑未除。何以治之。答曰。十二。帝問。其旨云何。答曰。在書字時節刻漏中。帝益不曉。他日更問國祚有留難否誌指其頸示之。帝曰。朕享國幾何。答曰。元嘉。元嘉。帝喜以為倍宋文之年。時革命之初帝臨政刻急。誌假帝神力。令見先君受極苦於地下。由是䘏刑。甞詔畫工張僧繇寒誌像。僧繇下筆輒不自定。既而以指釐面門分披。出十二面觀音。妙相殊麗或慈或威。僧繇竟不能寫。他日與帝臨江縱望。有物泝流而上。誌以杖引之。隨杖而至。乃紫旃檀也。即以屬供奉官俞紹雕誌像。頃刻而成。神采如生。帝悅以安內庭時法雲雲光二師俱有重望。每講法天輒雨華。帝疑其證聖。夜於便殿焚疏請誌偕光雲三大士齋。翌日誌獨赴。而光雲俱未知。帝由是益異其禮。又甞與帝登鍾山之定林寺。指前獨龍岡阜曰。此為陰宅則永其後。帝曰。誰當得之。曰先行者得之。至十三年。大士示寂。帝憶其言。以金二十萬易其地。建浮圖五級其上。鎮以無價寶珠。勅王筠勒碑。葬日車駕親臨致奠大士忽現於雲間。萬眾歡呼聲震山谷。自是道俗奉祀。奇瑞顯應為天下萬一。凡大士所為祕讖偈句多著南史。為學者述大乘贊十篇科誦十四篇并十二時歌。皆暢道幽致。其旨與宗門冥合。今盛傳于世。
(四) 是歲帝妃郄氏者。初生有赤光照室。器皿盡明。及長性明惠。善隷書讀史傳女工之事靡不閑習。宋齊間諸王求婚。父曄皆不許後以適帝。生三女。帝為雍州刺史而妃薨。其性酷妬。及是化為巨蟒入于後宮。通夢於帝。帝體將不安蟒輒激水騰涌。或現龍形光彩照灼。因於露井上為殿衣服委積。置銀轆轤金瓶灌百味以祀之。帝畢世不復議立皇后云。
(五 甲申) 天監三年四月八日。帝率道俗二萬餘人升重雲殿。親製文發願。乞憑佛力永棄道教。不在崇奉。略曰。經云。發菩提心者即是佛心。一切散善不得為喻。弟子蕭衍比經荒逆耽事老君。累葉相承深此邪法。今捨棄奮習歸仗正因。願使未來世童男出家廣弘經教化度含識。共證菩提。寧在正法中長淪惡道。不樂歸依老子暫得神仙。陟大乘心永離邪見。正願諸佛證明菩薩攝受。弟子蕭衍和南。
十一日勅門下曰。大經中說。九十六種唯一佛道是其正道。餘皆邪也。朕捨道以事諸佛正內之道。公卿能入此誓者各可發菩提心。老君周公孔子等。雖是如來弟子化迹既邪。止是世間之善。不能革凡成聖(具載如弘明集)。
(六) 是歲詔隱士何點。點以巾褐入見帝。帝賜之酒。特除侍中。點前席將帝須曰。乃欲臣老子耶。固辭不受。復詔何胤。胤謂使者曰。吾年五十七矣。月食四斗米不盡。那復有宦情耶。帝知不可致。有旨給白衣尚書祿。胤苦辭。晚入虎丘之西寺講維摩經。及將終夢天女六十餘人列于前。及寤猶見之如故。即具浴儼衣冠。少頃而卒。何氏自晉司徒充宋司徒尚之。並建大義伸明佛法。累葉遵承至胤姪侍中敬容而止。
(七 丙戌) 五年帝注大品。臣僚命法師法雲講之。雲辭疾不赴。帝遣使強起之曰。將冀流通。非高德無以憑也。雲始從之。雲最有譽當世。雅為昭明太子所敬。儒釋兩優。為天下第一。
(戊子) 魏改永平。
(八 己丑) 八年。魏主於式乾殿。為諸僧及朝臣講維摩詰經。時魏朝專尚釋氏不事經籍。中書侍郎裴延雋上疏。以為漢光武魏武帝雖在戎馬間未甞廢書。先帝行師還都。手不釋卷。良以學問多益不可輟故也。陛下升法座親講大覺。凡在瞻聽塵蔽俱開。然五經治世之楷模。應務之所先。伏願經書互覽孔釋兼存。則內外俱周真俗斯暢。時洛陽中國沙門之外。自西域來者三千餘人。魏主別立永明寺千餘間。以處之遠近承風無不事佛。比及延昌州郡凡一萬三千餘寺。僧至二百萬。
(九 辛卯) 十年詔法師僧旻。入惠輪殿講勝鬘經。帝臨聽。公卿畢集。有旨於莊嚴寺建八座法輪。妙選奇傑番次主之。時以旻為第一。當講日聽者傾都。堂無容足。名士劉葉甞謂旻曰。法師佛學有餘。何故弘義多伸儒旨。旻曰。昔生公以頓悟通經。次公以毘曇發論。若貧道初不以儒釋限。但據文義所向耳。沙門道超者頻年力學。慕旻公之講。誓欲齊之。夜夢神告之曰。旻公毘婆尸佛時預宣法化。君新發意者何能類之。第自求成名。不必苟齊也。旻性謙冲不恃能矜物。一時公卿道俗咸推仰之。
(壬辰) 魏改延昌。
(十) 十一年有旨。命寶亮法師授涅槃義疏。帝為之序。略曰。離文字以設教。忌心相以通道。欲使珉玉異價涇渭分流。制六師而正四倒返八邪而歸一味。則法雨降而燋種受榮。慧日昇而長夜蒙曉。發迦葉之悱憤。吐真實之誠言。雖復三施等於前。五大陳於後。三十四問參差異辯。方便勸發各隨意答。舉要論經不出兩途。佛性開其有本之源。涅槃明其歸極之旨。非因非果不起不作。義高萬善事絕百非。空空不能測其真際。玄玄不能窮其妙門。自非德均平等心合無生。則金牆玉室豈易入哉。
(十一 癸巳) 下詔曰。夫宗廟犧牲修行佛戒。蔬食斷肉省貪絕欲。天下水陸不令蒐捕。又勅太醫不使肉藥。公家織官錦帛並斷。又造斷酒肉文。及著淨業賦。
(甲午) 天監十三年誌公和尚示寂。
(十二) 是年特進沈約卒。約字休文。婺州東陽人。左目重瞳。腰有紫誌。少為書生。名聞一時。以風流見稱。而肌體清癯。時謂沈郎瘦。甚為武帝所重。官業具南史。甞出意撰聲律以革古詩。後世取則。號曰四聲。約甚精佛理。著中食論。理趣甚高。其略曰。人所以不得道者。由於心神昏惑。心神所以昏惑。由於外物擾之。擾之大者其事有三。一則勢利榮名。二則妖妍靡曼。三則甘旨肥醲。榮名難日用於心。要無晷刻之累。妖妍靡曼方之已深。甘旨肥醲為累甚切。萬事紜紜皆三者之枝葉耳。聖人知不斷此三事求道無從可得。乃為之法使簡而易從。若也直云。三事惑本並宜禁絕。而此三事。是人情所甚惑。念慮所難遣。雖有禁之之旨。而事難卒從。譬如方舟濟河。豈不欲直至彼岸。河流湍急。會無直濟之理。不得不從流。靡久而獲至。非不願速。事難故也。禁此三事。事宜有端。何則食之於人不可頓息。其於情性三累莫甚。故推此晚食併置中前。自中之後清虛無事。因此無事念慮得簡。在始未專。在久自習。於是束以八支紆以禁戒。靡曼之欲無由得前。榮名眾累稍隨事遣。故云。往古諸佛過中不飡。此蓋是遣累之筌罤。適道之捷徑。而惑者咸謂止於不食。此乃迷於向方。不知厥路者也。又甞著設會謂意謂如來在日。眾居伽藍不置食具。時至則分衛持鉢以福眾生。今之僧徒一皆違廢。不止不持中食。甚者甘腴厨饍豐美飲食。或遇請召得蔬蔌之具。莫不顰蹙以為不能甘也。此豈有志於道哉。其論略曰。出家之人本資行乞。戒律炳然。不許立厨帳并蓄淨人。今既取足官寺。行乞事廢。或有持鉢登門。便呼為僧徒鄙事。既為眾所鄙恥。不復行乞。悠悠後進求理者寡。將謂乞食之業不可復行。由淨飯王子轉輪之貴。持鉢行乞以福施者。豈不及千載之外凡庸沙門躬命僕竪自營口腹者乎。行乞受請二事不殊。今不復行乞。又不赴請。則行乞之法於此永冥。此法既冥則僧非佛種。佛種既離則三寶墜地矣。約有文集百餘卷。行于世。
(十三 乙未) 是年魏胡太后。作永寧石窟二寺。極土木之美。而永寧尤盛。有金像高丈八尺如中人者又十軀。為浮圖九級。築基下及黃泉。其高九十丈。上立剎復高十丈。每夜靜鈴鐸聲聞十餘里。佛殿如太極殿。三門如端門。僧房千楹。玉珠錦綉。駭人心目。未幾雷電火爇其塔。遠近咸見烟焰中有塔升空而沒。後月餘有自東州來者云。此日見塔乘空飛海上。而望海者時亦見之。
(丙申) 魏孝明帝詡(宣武次子。六歲即位。胡太后臨朝。在位十二年。十九歲崩。葬定陵。改熙平)。
(戊戌) 魏改神龜。
(十四 己亥) 會稽沙門惠皎。以寶唱所撰名僧傳頗多浮汎。因著高僧傳十四卷。始元漢永平十年終于是歲。凡四百五十三載。二百五十有七人。附見者二百餘人。開其德業大略為十例。其自敘曰。前古撰集多曰名僧。然名者實之賓也。若實行潛光則高而不名。若寡德適時則名而不高。茲焉用紀。高而不名則備今錄。世以為確論。
(十五) 釋僧朗者。常誦法華。風度凝遠飲啗不常。每出一狗一猴隨之。日循乞得飲膳。即置木盂中。食畢舉其餘以飼猴狗。善作龜藏。或時手足頭頸俱縮不見。又甞登舟初無篙力。朗坐其中猴狗馴側。舟自泝流而上。法師道英。初隱太行山禪宴。樹枝縈結如蓋覆之。居久之棄去。行龍臺澤。觀游魚愛之。即解衣入水。宴坐深淵七日而出。又甞隆冬覩嚴氷愛其瑩澈。就臥其上信宿而起。晚居蒲州普濟寺。一日講起信。至真如門奄爾氣絕。眾意其逝矣。有都講識之。即謂眾曰。此入滅盡想耳。三日乃甦矣。
(庚子) 改普通○魏改正光。
(十六) 普通元年。帝於禁中築圓壇。將稟受歸戒。妙選德行尤異者為之師。朝議以惠約法師望高。詔至。約以禮遜讓不許。夏四月丁巳。帝行問道。禮稟約為師授具足戒。方羯磨次甘露降于庭。有三足烏二孔雀。歷階馴伏。帝大悅。賜約別號智者。自是入朝必設特榻處之。而帝座其側。凡太子諸王公卿道俗從約授戒者。四萬八千人。沙門雖在耆艾。亦重稟授。獨法雲公曰。吾既戒矣。其可以佛法為人事耶。於是議者高之。
(十七) 時有達禪師者。得水觀三昧。每入此定。有窺之者。唯見清水凝渟滿室。沙門道僊從達遊。得火光三昧。所居之室玄夜大明焉。
(十八) 帝留神法門。時釋子多縱率。主僧懦不能制。帝患之。欲自以律行僧正事。詔下京城大德。無敢議者。獨藏法師以為佛法淵博非一人能盡之。執不奉詔。帝訝之。召入光華殿問狀。藏面陳大旨。秉執有據。帝不能奪。遂從之。藏退謂諸僧曰。上以佛法為己任誠當推順。然衣冠家子弟十輩。猶不能俱稱父意。今糅雜五方之眾而以一己好惡繩之。戒律將廢矣。諸君不慮此何也。法雲公歎曰。教理深致未能多謝。一日之事良可愧服。
(十九) 帝自受具。寢處略同沙門。雖宮禁每亦恣僧游覽。獨禁御座而已。藏公一日昇殿登之。左右呵止之。藏曰。貧道定光金輪之裔。寧愧此座。倘見殺不慮無受生處。帝聞置之弗罪。藏少時遇相者曰。法師壽不過三十一藏。歲懼日誦金剛般若。至期夢前人復來告曰。法師以般若力故。壽倍僧矣。又甞夢維摩詰降其房與語。臨別以素麈尾遺之而去。藏自是玄辯日新矣。
(二十) 魏正光元年孝明帝加元服。命沙門道士講道於禁中。時道士姜斌沙門曇謨最對論。帝曰。佛與老子同時否。姜斌曰。按開天經云。老子西入化胡。佛充侍者。明是同時。曇謨最曰。老子當周何年而生。斌曰。定王三年生。簡王四年仕於周。敬王四年年八十五西入化胡。最曰。吾佛以周昭王二十四年誕生。穆王五十二年滅度。自世尊滅度至定王三年。凡三百四十五年。老子方生。及敬王元年老子西游。則世尊示寂已四百二十五年矣。據此相去懸遠。而言化胡。無乃謬乎。斌曰。佛生周昭之世。有何文記。最曰。周書異記。漢法本內傳。並有明文。斌曰。孔子制法。於佛逈無文記何也。最曰。孔子有三備十經。謂天地人也。佛之文言出於中備。斌曰。孔子聖人何假十乎。最曰。佛是眾聖之王。達一切含識先後際。吉凶終始不假卜筮。自餘小聖雖曉未然。必藉蓍龜方通休咎。時侍中劉騰宣勅曰。姜斌論無宗旨。宜退席。又問。開天經何從而得。是誰所說。可疾取來。及取經至。帝命群臣詳定真偽。時太尉蕭綜太傅李寔洎公卿大夫百六十餘人。覽畢劾奏曰。老子止著五千文。更無他說。今姜斌所據。文詞鄙俚宗旨乖謬。既瀆先師又罔聖德。罪當惑眾。制可。將抵以刑。三藏菩提流支奏解。斌特流馬邑。曇謨最善大小乘有律行。初在邯鄲說律。感異比丘六十餘輩降席聽戒。流支每見稱為東方開士焉。
(二十一) 魏書佛老志曰。道家之源出於老子。其自言也。先天地生以資萬類。上處玉京為神王之宗。下在紫微為飛仙之主。千變萬化有德不德。隨機應物厥迹無常。授軒轅於峨嵋。教帝嚳於牧德。大禹聞長生之訣。尹喜受道德之旨。至於丹書紫字升玄飛步之經。五石金光妙有靈洞之說。不可勝紀。其為教也。咸蠲去邪累澡雪精神。積行樹功累德增善。乃至白日升天長生世上。是以秦皇漢武甘心不息。勞心竭思所在追求。終莫之致。退恨於後。故有欒大徐氏之誅。然其道惑人効學非一。靈帝置華蓋於濯龍。設壇場而為禮。及張陵授道於鶴鳴。因傳天宮章本千有二百。弟子相授其事大行。齋祠跪拜各有成法。於是三元九府百二十宮。一切諸神咸所統攝。又稱劫數頗竊佛經。及其劫終稱天地俱壞。其書多有禁祕。非其徒不得輒觀。至於化金銷王行符勅水奇方妙術万等千條。上云羽化飛天。次稱消災減禍。故好異者往往而尊事之。初文帝入賓于晉。從者云登仙伊闕。太祖好老子之言。誦詠不倦。天興中儀曹郎董謐上服食仙經數十篇。乃置仙人博士。立仙坊煮煉百藥。封西山以供其薪蒸。令死罪者服之。多死無驗。久之太祖意少懈乃止。
(壬寅) 魏用正光曆。
(癸卯) 鑄鐵錢。民盜鑄者多。物價騰踊。
(乙巳) 魏改孝昌。
(丁未) 改大通。上幸同泰寺捨身。
(二十二) 初祖菩提達磨大師。天竺南印度國香至王第三子也。王薨師出家。遇二十七祖般若多羅付以大法。因問。我既得法。宜化何國。多羅曰。汝得法已。俟吾滅度六十餘年。當往震旦國闡化。曰彼有法器堪繼吾宗。千載之下有留難否。多羅曰。汝所化方。得菩提者不可勝數。吾滅度後彼有劫難。水中文布善自降之。汝至時南方不可久留。聽吾偈曰。路行跨水復逢羊。獨自悽悽暗度江。日下可怜雙象馬。二株嫩桂久昌昌。復演八偈。皆預為讖。至多羅示寂。師演化本國。會其姪異見王者輕毀三寶。師遣其徒波羅提。微現神力攝化歸正。師以震旦緣熟即別其眾。而異見王枉駕見師。曰告之曰。當勤修福行護持三寶。吾去非晚一九即回。王泣曰。叔既有緣在彼。非吾所留。唯願不忘父母之國。事畢早回。遂具大舟實以眾寶。王躬率臣僚送至海濱。師同商馭舟達于南海。廣州刺史蕭昂舘之。以表聞奏。有詔迎見。師入朝。帝問。朕即位以來。造寺寫經度僧。不可勝數。有何功德。師曰。並無功德。帝曰。何以並無。師曰。人天小果有漏之因。雖有非實。帝曰。何謂真功德。師曰。淨智妙明體自空寂。如是功德不於世求。帝曰。何為聖諦第一義。曰廓然無聖。帝曰。對朕者誰。曰不識。帝不省玄旨。師遲留數日。遂度江之魏。止於嵩山少林寺。終日壁觀而已。有僧神光者。因神人發起來見師。師端坐不顧。會天大雪。光立雪中。至積雪過膝。師憫而問曰。汝久立雪中。求何事耶。光曰。唯願大慈開甘露門廣度群品。師曰。諸佛無上妙道曠劫難逢。豈小德小智輕心慢心欲冀真乘徒勞勤苦。光聞誨勵喜不自勝。即以利刀自斷左臂置於師前。師曰。諸佛最初求道重法忘身。汝今斷臂吾前。求亦可矣。光承其言即易名惠可。復問曰。諸佛法印可得聞乎。師曰。諸佛法印匪從人得。曰。我心未寧。乞師與安。師曰。將心來與汝安。可曰。覓心了不可得。師曰。與汝安心竟。久之為可等略辨大乘入道四行。其辭曰。
夫入道多雲。要而言之。不出二種。一理入。二行入。理入者。謂藉教悟宗。深信含生同一直性。但為客塵妄想所覆不能顯了。若捨妄歸真凝住壁觀。無自無他凡聖一等。堅住不移。更不隨於文教。此則與理冥符。無有分別寂然無為。名之理入。行入者。有四。一報冤行。二隨緣行。三無所求行。四稱法行。謂報冤行者。凡修道人若受苦時。當念我從往昔無數劫中。棄本逐末流浪諸有。多起冤憎違害無限。今雖無犯。是我夙殃惡業果熟。非天非人所能見與。甘心忍受都無怨恨。作是觀時與理相應。體冤進道。故名報冤行。隨緣行者。眾生無我並緣業所轉。苦樂齊受皆從緣生。若得勝報榮譽等事。皆是過去夙因所感。緣盡還無何喜之有。得失從緣心無增減。喜風不動冥順於道。名隨緣行。無所求行者。世人長迷處處貪著。智者悟真安心無為。萬有皆空無所希冀。三界久居猶如火宅。有身皆苦誰得而安。了達此處息念無求。故經云。有求皆苦無求乃樂。是則無求真為道行。故名無所求行。稱法行者。性淨之理因之為法。此理眾相斯空。無染無著無此無彼。經云。法無有我。離我垢故。智者信解此理。應當稱法而行。法體無慳。於身命財行檀捨施。心無慳惜。達解三空不倚不著。但為無垢。稱化眾生而不取相。此為自行。亦復利人。莊嚴菩提之道。檀施既爾。餘五亦然。為除妄想。修行六度而無所行。是名稱法行。
大同元年十月。師將示寂。道副尼總持道育惠可等。侍側。曰時將至矣。汝等蓋各言所得乎。時道副曰。如我所見。不執文字不離文字。而為道用。師曰。汝得吾肉。尼總持曰。我今所見。如慶喜見阿閦佛國。一見更不再見。師曰。汝得吾皮。道育禪師曰。四大本空五陰非有。而我見處無一法可得。師曰。汝得吾骨。大師惠可即禮三拜復依位而立。師曰。汝得吾髓。即顧謂可曰。世尊以正法眼藏付囑大迦葉。展轉傳授以至於吾。吾今付汝。汝當護持。并授汝袈裟以為法信。可跪受其衣。願聞指示。師曰。內傳法印以契真心。外付法衣以定宗旨。後代澆薄疑慮競生。謂吾西土汝乃此方。憑何得法以何為證。或遇難緣。但出此衣用以表信。其化無礙。至吾滅後二百餘年。衣止不傳。法周沙界。潛符密契千萬有餘。汝當闡化勿輕未悟。一念回機便同本有。聽吾偈曰。吾本來茲土。傳法救迷情。一花開五葉。結果自然成。又曰。吾有楞伽經四卷。亦付與汝。即是如來心地要門。吾自離南印來此東土。見赤縣神州有大乘氣象。遂逾海越漠為法求人。際會未諧如愚若訥。今得汝傳授。吾意已終。乃與其徒往禹門千聖寺。有期城太守楊衒之。問曰。西天五印師承為祖。其道云何。師曰。明佛心宗行解相應。名之曰祖。衒之曰。弟子素奉三寶而智慧昏蒙。願師慈悲開示宗旨。師以偈答之曰。不覩惡而生嫌。不觀善而勤措。不捨智而近愚。不拋迷而就悟。達大道兮過量。明佛心兮出度。不與凡聖同纏超然。名之曰祖。衒之聞偈乃稽首曰。願師慈忍久住世間。師曰。吾化緣已畢傳法得人。吾即逝矣。是日端坐而寂。門人奉全身葬熊耳山定林寺。明年魏使宋雲西域回。遇師于葱嶺。手携隻履翩翩獨邁。雲問。師今何往。曰西天去。及雲歸朝具言其事。門人啟壙唯空棺隻履存焉。梁武帝聞師顯化始末如此。遂親撰碑。刻石于鍾山。
論曰。昔嵩明教著傳法正宗記。稱達磨住世凡數百年。諒其已登聖果得意生身。非分段生死所拘。及來此土示終葬畢。乃復全身以歸則其住壽固不可以世情測也。傳燈錄云。師以九月二十一日至廣州。刺史以表聞奏。帝遣使齎詔迎之。師以十月一日至金陵。然自廣至金陵亡慮三千餘里。將命者往而復。師方啟行。豈以十日之間能歷三千里乎。又謂魏孝明帝欽師異迹三屈詔命。師竟不下少林。及師示寂。宋雲自西域還遇師于葱嶺。孝莊帝有旨令啟壙。如南史普通八年即大通元年也。孝明以是歲四月癸丑殂。師以十月至梁。蓋師未至魏時。孝明已去世。及其子即位未幾。為爾朱榮所弑。乃立孝莊帝。由是魏國大亂。越三年而孝莊殂。又五年而分割為東西魏。然則吾祖在少林時。正值其亂。及宋雲之還則孝莊去世。亦五六年。其國至於分割久矣。烏有孝莊令啟壙之說乎。奮唐史云。後魏末有僧達磨。航海而來。既卒。其年魏使宋雲於葱嶺回見之。門徒發其墓但有隻履而已。此乃實錄也。又謂光統律師菩提流支數下毒害師。師遂不救。嗚呼甚哉。光統流支法門龍象。詎能爾乎。是皆立言者誤也。雖然吾宗從上來事。昭昭若揭日月而行。故二祖禮三拜後依位而立。當爾之際。印塵劫於睡息。洞剎海於毫端。直下承當全身負荷。正所謂通玄峯頂不是人間。入此門來不存知解者也。抑烏有動靜去來彼此時分而可辯哉。
(戊申) 魏莊帝子攸(獻文之孫。彭城王第三子。是年二月孝明為胡太后鴆之。時爾朱榮立帝即位。二年改元建義。永安二號後復欲篡逆求九錫。九月入朝。帝知召榮手殺之。其弟爾朱兆舉兵向洛。立東海王曄。改元建明。十二月殺子攸。空宮百日。兆又以曄疎遠殺之。而更立孝文之姪廣陵王恭。是為節閔帝)。
(己酉) 改中大通。
九月上幸同泰寺舍身。群臣以錢一億萬奉贖回宮。
(庚戌辛亥) 十月上幸同泰寺。升座講涅槃經。十一月講般若經。
(二十三) 是年四月。昭明太子薨。太子諱統字維摩。天監元年生於覇府。三日而建康平。識者以為天命所集。幼聰睿。三歲受孝經論語。五歲遍讀五經悉能諷誦。八歲於壽光殿講孝經。名儒重臣畢集座側。太子詞吐華暢淵源無滯。皆欽服以為聖童。年十二於內省決獄。剖斷平允。自是數使聽訟。賴活者不可勝數。性慈孝美容止。讀書數行俱下。過目憶誦無違。帝既留心內典躬自講說。太子亦天性好佛。凡釋部經論披覽略遍。於東宮別立惠義殿。專為法集之所。招引名僧。撰次法事儀注。及立三諦等義。世咨美之。母薨每哭輒動絕水漿不入口。帝勅左右宣旨曰。毀不滅性聖人所制。不勝哀比於不孝。有我在那得自毀如此。即可強進飲粥。太子奉旨始進粥。體素肥腰帶十圍。至是減削過半。帝尋委以軍國政事。太子處決無留滯。引納天下奇材賞愛無倦。東宮有書凡二萬餘卷。群賢畢集。文雅之盛由晉已來未之有也。甞游後池乘綵文舸。摘芙蕖以嬉。姬人蕩舟沒溺而出。感疾動股。恐貽帝憂。不以聞。遂薨。天下哭之如喪其親焉。
(二十四) 劉勰者名士也。雅為太子所重。撰文心雕龍五十篇。家貧不婚娶。依沙門僧裕遂博通經論。區別部類而為之序。定林寺藏經即其銓次也。中書令沈約絕重其文。常置几桉間。凡都下寺塔及名僧碑碣皆出其手。累官通事舍人。表求出家。先燔須自誓。帝嘉之。賜法名惠地。
安定王朗改中興(十月高歡起兵言都。討爾朱氏。乃奉太武玄孫朗。行至芒山。既平爾朱兆。以朗疎遠。又以恭英毅難制。乃幽之。假安定王詔奉之。文曰孫修即位)。
節閔帝恭改普泰(是年安定王節閔帝皆為高歡所殺)。
右魏自太祖(登國丙戌凡十二主。百四十九年。至梁中大通而分東西之焉)。
(壬子) 西魏孝武修改永熙(字孝則。孝文之孫。廣平武穆王懷之子。高歡廢節閔而立帝。歡有不臣之跡。帝欲除之。欲覺舉兵內發。帝恐奔長安。依關西大都督字文泰。在位三年。壽二十五)。
(癸丑) 大通五年。義烏雙林大士者。姓傅氏名翕法號善惠。年十六納劉氏女妙光為室。生二子普建普願。甞有西域沙門嵩頭陀者。見大士曰。吾與汝毘婆尸佛所同發誓。今兜率宮衣鉢現在。何日當歸。因命臨水觀其影見圓光寶蓋。大士笑謂之曰。爐鞴之所多純錢。良醫之門足病人。度生為急何思彼樂乎。居無幾常見釋迦金粟定光三如來放光襲其身。大士喜曰。吾得首楞嚴三昧。即舍田宅及賣妻子。得錢五萬以設法施會。遂於松山之頂。因雙檮樹剏寺而居。故名雙林。日自營作夜則行道。有偈云。空手把鋤頭。步行騎水牛。人從橋上過。橋流水不流。復一日於山頂。繞連理雙樹行道。感七佛相隨。釋迦前引維摩接後。唯釋尊頻顧大士共語。由是異迹日顯。是年正月十五日。遣弟子傅暀致書於朝。其辭曰。
雙林樹下當來解脫善惠大士。白國主救世菩薩。今欲修上中下善悉能受持。其上善略以虛懷為本。不著為宗。無相為因。涅槃為果。其中善略以治身為本。治國為宗。天上人間果報安樂。其下善略以護養眾生勝殘去殺普令百姓皆稟六齋。今聞皇帝崇法欲申論義未遂襟懷。故遣弟子傅暀告白。暀投書太樂令何昌。昌曰。約法師猶置啟。翕是國民。又非長老。殊無謙卑。豈敢進達。暀燒手御路。昌乃馳往同泰寺詢皓法師。勸速呈。二月十一日進書。帝覽之。遽遣詔迎。既至。帝問曰。從來師事何人。答曰。從無所從。來無所來。師事亦爾。昭明太子問大士。何不論義。答曰。菩薩所說非長非短非廣非狹非有邊非無邊如如正理。復有何言。帝曰。何為真諦。答曰。息而不滅。帝曰。息而不滅。此則有色。有色故鈍。如此則居士未免流俗。答曰。臨財無苟得。臨難無苟免。帝曰。居士大識禮。答曰。一切諸法不有不無。大千世界所有色像莫不皆空。百川叢注不過於海。無量如法不出真如。如來何故於三界九十六道中獨超其最。視一切眾生有若赤子。天下非道不安非禮不樂。帝默然。大士辭退。異日帝於壽光殿講金剛經。聖師云。大士能耳。帝即召大士。大士對帝執拍板講經。唱成四十九頌。遂還雙林。至陳太建元年四月將示寂。謂其徒曰。此身甚可厭惡。眾苦所集。要在護持三業精勤六度。若墮地獄卒難得脫。常須懺悔。又曰。吾滅已不得移寢床。七日當有法猛上人持像及鐘來鎮于此。弟子問。既歸寂後形體如何。曰山頂焚之。問若不遂復何如。曰勿用棺斂。但累甓為壇移尸於上。屏風周繞絳紗覆之。上建浮圖隨意安立。又問諸佛滅度時皆說功德。師之發迹可得聞乎。曰。我從第四天來為度汝等次補釋迦。故大品云。有菩薩從兜率天來。諸根猛利疾與般若相應。即吾身是也。言訖跏趺而逝。壽七十有三。至七日上人法猛果持織成彌勒像及九乳鐘來鎮龕所。須臾不見。大士道具十餘事。晉天福中錢王發塔取靈骨十有六片。皆紫金色。并道具。就府城南建龍華寺。塑像安置。大士甞著心王銘一篇。其辭曰。
觀心空王。玄妙難測。無名無相。大有神力。能滅千災。成就萬德。體性雖空。能施法則。觀之無形。呼之有聲。為大法將。心戒傳經。水中鹽味。色裏膠青。決定是有。不見其形。心王亦爾。身內居停。面門出入。應物隨情。自在無礙。所作皆成。了本識心。識心見佛。是心是佛。是佛是心。念念佛心。佛心念佛。欲得早成。戒心自律。淨律淨心。心即是佛。除此心王。更無別佛。欲求成佛。莫染一物。心性雖空。貪瞋體實。入此法門。端坐成佛。到彼岸已。得波羅蜜。慕道真士。自觀自心。知佛在內。不向外尋。即心即佛。即佛即心。心明識佛。曉了識心。離心非佛。離佛非心。非佛莫測。無所堪任。執空滯寂。于此漂沈。諸佛菩薩。非此安心。明心大士。悟此玄音。身心性妙。用無能改。是故智者。放心自在。莫言心王。空無體性。能使色身。作邪作正。非有非無。隱顯不定。心性雖空。能凡能聖。是故相勸。好自防慎。剎那造作。還復漂沈。清淨心智。如世黃金。般若法藏。盡在身心。無為法寶。皆淺非深。諸佛菩薩。了此本心。有緣遇者。非去來今。
(甲寅) 東魏孝靜善見改天平(孝文之孫。清河宣王亶之子。高歡迎立都洛遷鄴。年十一即位。十七年。壽二十八歲)。
(二十六 乙卯) 改大同○惠約法師垂誡門人。言訖合掌而逝。帝輟朝三日。素服哭之。葬誌公塔之左方。甞從約授戒者四萬八千人。皆服緦麻哭送至塔。約甞所乘青牛垂淚悲鳴。及雙鶴繞塔哀唳。彌月而去。
(丙辰) 作皇基寺○陶弘景號山中宰相。
(二十七 丁巳) 東魏定州孫敬德。虔事觀音。為賊橫引坐罪。臨刑念救苦觀音。刀三斫不傷。三換刀俱折。有司以聞高歡。歡為表請免死。敬德還家。事像項有三痕。今世謂高王經出此也。
(戊午) 李胤之得佛舍利遂大赦○東魏改元象東魏元象元年。有使西域。回至葱嶺。見達磨隻履單己而西還。門徒啟壙禮之唯存隻履。
(己未) 東魏改興和。
(二十八 庚申) 佛祖傳法偈。按禹門太守楊衒之銘系記云。東魏靜帝興和二年庚申。西魏文帝大統六年。梁武大同六年。高僧雲啟往西域求法。至龜茲國。遇天竺三藏那連耶舍欲來東土傳法。雲啟曰。佛法未興且同止此。遂將梵本譯為華言。雲啟去游印土。那連親將至西魏。值時多故乃入高齊。以宣帝禮遇甚厚廷居石窟寺。以齊方受禪。未暇翻譯別經。乃將龜茲與之合所譯祖偈因緣。傳居士萬天懿。乃殷勤扣問深悟玄旨。遂將校勘昭玄沙門曇曜同天竺三藏吉迦夜所譯付法藏。失於次序兼無偈讖。寫本進去魏朝證其差謬付法藏傳乃魏武真君年中。崔浩寇謙之邪說毀滅佛法。至文成帝和平中重興故缺。梁簡文帝聞魏有本。遣使劉玄運往彼傳寫。歸建康流布江表。唐貞元中金陵沙門惠炬將此祖偈往曹溪。同西天勝持三藏。重共參校。并唐初以來傳法宗師機緣集成寶林傳。光化中華嶽玄偉禪師集貞元以來出世宗師機緣。將此祖偈作其基緒。編為聖胄集。開平南嶽三生藏惟勁頭陀又錄光化以後出世宗匠機緣。亦以祖偈為由。集成續寶林傳。宋景德中吳僧道原集傳燈錄進于真宗。勅翰林學士楊億工部員外李淮太常丞王曙同議校勘具奏。詔作序編入大藏頒行。天聖中附馬都尉李遵勗參石門聰禪師發明因緣。聚禪學僧列此祖偈世系事緣。成廣燈錄上仁宗。御製序文。勅入大藏流通。建中靖國元年沙門惟白將此祖偈以為標本。成續燈錄進上(云云)。他宗不知其原。謂七佛偈無譯。寡聞淺識一至妄謬。良可笑也。
(二十九) 時隱士阮孝緒。陳留人也。家世仕宦。父彥大尉從事中郎。孝緒年十三通五經大旨。十六丁家難。終喪入鍾山。聽講久之。母有疾。緒在席心驚而歸。合藥須生人參。躬入鍾山採求未獲。忽一鹿在前。心異之至鹿息處。果得人參。藥成母疾得愈。齊尚書令王晏來候之。緒惡其人穿籬而遁。及晏被誅以非黨獲免。甞以鹿林為精舍。環以林池杜絕交游。世罕得而見之。御史中丞任昉欲訪焉而不敢進。乃指鹿林謂其兄曰。其室則邇。其人甚遠。繇是朝貴絕於造請。唯與裴子野交好。天監末累召不赴。天子以為苟立虛名以要顯譽。故二何孝緒並得遂其高焉。南平元襄謂曰。昔君大父舉不以來游取累。吾弟獨執其志何也。緒曰。若麕䴥盡可參馭。何以異乎騄驥哉。鄱陽忠烈王其姊夫也。歲時之饋。一無所受。與劉著作同年。劉卒。緒曰。吾其幾何。即辨後事數日而亡。壽五十八。孝緒博極群書。無一不善。精力強記為學者所宗。既卒。門人諡曰文貞處士。初漢劉歆著七略。齊王儉著七志。孝緒普通四年著七錄。前五曰內篇。六曰佛法錄七曰仙道錄。謂之外篇。劉歆七略則以道家為諸子。以神仙為方技。王儉七志則先道而後佛。孝緒七錄則先佛而後道。蓋所宗有不同。亦由其教有淺深也。
(三十) 七錄內外圖書。總四萬四千五百二十六卷。凡天下之遺書祕記盡於此矣。內佛法錄經律論等五部。凡五千四百卷。至隋文帝仁壽間。嘉則殿書凡三十七萬卷。及唐開元中祕府以甲乙丙丁四部為次。列經史集四庫。并唐之學者所著之書。共八萬二千三百七十四卷。今唐書藝文志。四部著錄者。凡五萬二千一百卷。不著錄者二萬七千六百三十卷。共七萬九千八百三十卷。其間釋部特載僧俗二十五家所著之書。凡三百九十五卷而已。此古今書籍之數也。
(癸亥) 東魏改武定。
沙門尚圓為武陵王。遣宮中鬼怪。一稱南無佛陀。鬼皆失所。自爾安靜○是年黃門侍郎顧野王玉篇成。
(甲子 五四) 上自天監以來事佛長齋。日止一食。惟菜羹糲飯。
(丙寅) 改中大同。
(丁卯) 改太清。
(三十一 己巳) 太清三年夏四月。逆賊侯景陷臺城。以甲士五百人自衛。帶劍上殿拜訖。帝神色自若。使引向三公坐榻。謂曰。卿在戎日久。無乃為勞。景惶懼不能對。出謂左右曰。吾每據鞍臨敵。矢石交下了無所怖。今見蕭公使人畏慴。豈非天威難犯。吾不復見之矣。及景自稱大丞相而徵求無已。帝憤之。遂寢疾。然齋戒不衰。日夕念佛不絕於口。獨皇子侍側。五月丙辰大測。不能進膳。久而口苦。索蜜未至。而舉手曰荷荷。遂崩於淨居殿。年八十有六。帝日角龍顏舌文八字。項有浮光身映日無影。右手文成武字。幼甞蹈空而行。所居之室常若雲氣。人或遇者體輒肅慄。前後受命符端凡六十餘事。及即位太極殿常有六龍。各守一柱。其神奇異瑞自書契以來人君皆所未有。幼而好學。六藝備閒棊登逸品。至於陰陽緯候卜筮占決草隷尺牘騎射。並洞精微。雖登大位萬機多務。猶手不釋卷。然燭測光常至戊夜。撰通史六百卷金海三十卷五經義注講疏等合二百餘卷。贊序詔誥銘誄箴頌牋奏諸文凡一百二十卷。晚奉佛道日止一食。膳無鮮腴唯豆羹糲飯而已。或遇事擁不暇就食日才過中。便嗽口而坐。製涅槃大品淨名三惠諸經義記數百卷。聽覽餘暇即於重雲殿同泰寺講說。名僧碩學四部聽眾常萬餘。衣布衣木綿皂帳。一冠三載一被二年。自五十外便斷房室不飲酒不取音樂。非宗廟祭祀大會饗宴及諸法事。未甞舉樂。勤於政事。每冬月四更竟即勅把燭看事。執筆觸寒手為皴裂。然仁愛不斷。親親及所近倖愆犯多縱捨。坐是政刑珥紊。每決死罪常矜哀流涕然後可奏。性方正為居小殿暗室常理衣冠小坐。暑月未甞褰袒。雖見內竪小臣如遇嚴賓焉。諡曰武皇帝。廟號高祖(出南史)。
(三十二) 史官魏徵曰。高祖固天攸縱聰明稽古。道亞生知學為博物。允文允武多藝多才。爰自諸生不覊之度。屬昏凶肆虐天倫及禍。糾合義旅將雪家冤。曰紂可伐。不期而會。龍躍樊漢電擊湘郢。剪離德如振槁。取獨夫如拾遺。其雄才大略固不可得而稱矣。既懸白旗之首。方應皇天之眷。而布澤施仁悅近來遠。開蕩蕩之王道。革靡靡之商俗。大修文學盛飾禮容。鼓扇玄風闡揚儒業。介胃仁義折衝樽爼。聲振寰區澤周遐裔。干戈載戢凡數十年。濟濟焉洋洋焉。魏晉以來未有若斯之盛也。然不能息末敦本斵雕為樸。慕名好事崇尚浮華。抑揚孔墨流連釋老。或終夜不寐。或日旰不食。非弘道以利物。唯餙智以驚愚。且心未遺榮。虛廁蒼頭之位。高談脫屣。終戀黃屋之尊。夫人之大欲在乎飲食男女。至於軒冕殿堂。非有切身之慈。高祖屏除嗜欲眷戀軒冕。得其所難而滯其所易。可謂神有所不達。智有所不通矣。
論曰。魏鄭公論梁武帝。可謂天下仁人之言也。而新唐史蕭瑀傳贊。亦曰。梁蕭氏興江左。實有功在民。厥終無大惡。以浸微而已。故餘祉及其後裔。以此驗鄭公之論。益可詳矣。然韓退之甞曰。梁武餓死臺城。蓋謂其屏嗜欲絕午後食至臨終齋戒不衰。在恣情豐美享用者視之。近乎餓死耳。猶孔子稱伯夷叔齊餓死首陽。其微意乃所以成其美焉。豈謂不得食而餓死哉。凡謂得失成敗。如魏鄭公之言。乃春秋責備賢者之旨。得不為萬世之公道哉。
(三十二 庚午) 簡文綱改大安(字世讚。小字六通。武帝第三子。侯景破臺城立帝。大安二年景又廢之)。
右東魏十六年(而高洋篡之)。
北齊(姓高氏五主都于鄴)雷氏曰(神武文襄文宣孝昭武成後主。北齊五帝。二十九年)。
高祖神武帝歡(字賀六。渾渤海蓨人。崩於晉陽。葬漳水矣)。
文襄帝澄(字子惠。高祖長子。為梁將所害。壽二十九歲也)。
文宣帝洋(字子進。高祖次子。承父相位。朝臣使受禪。使中張亮謂孝靜曰。五行遞運有始有終。願陛下遠法堯舜。孝靜斂容避遜而出。齊王洋入即位。降封孝靜為中山王。洋惡過桀紂。復鴆靜帝在位十年。改元天保。壽三十一)。
(三十四) 沙門慧文禪師。當齊高之世獨步河淮。法門非世所知。履地戴天莫知高厚。閱中論發明。論是龍樹所說。故遙稟焉。是為台宗二祖北齊尊者(九祖傳)。
(辛未) 侯景(懷朔鎮人。初仕高歡為將。擁兵十萬專制河南十三州。歡死降梁祖。後反改梁祖立簡。是年弑簡自立稱漢。改年太始。登太極殿御床脚陷。借立百日。陳覇先殺之)。
(三十五 壬申) 元帝繹改承聖(字世誠。小字七符。武帝第七子。初父夢僧眇一目執香爐云。托生王宮。已而母夢月墜懷中。後生帝也。首封湘東王。統義兵于江陵。既臺城失守。即位于江陵。復命陳覇先王僧辨破侯景。又為詩四絕。西魏進士襄弑之。壽四十七。在位三年)。
西魏廢帝欽(受帝太子。字文泰立之。雖在位而制由泰。帝不勝憤。欲除之。泰覺遂廢帝立恭帝即位。二年不改號)。
(三十六) 世尊示滅一千五百年矣。
承聖元年。三藏真諦將歸天竺。至廣州。刺史歐陽顏延之。制止寺沙門東愷等請譯起信俱舍等論。諦有氣宇風神爽邁。顏之子紇居別墅。在河渚間。諦每訪紇。以坐具敷水面跏趺其上飄然往還。坐具略不霑潤。或不敷具。即折荷葉而濟。時好事多圖畫而奉祀之。
(三十七) 荊山居士陸法和。少隱江陵清溪山。服勤沙門執弟子禮。及長出游。語音巴楚。容色異常。以操行絕等為梁湘東王所重。即以間散甚為諸公欽敬。初侯景始降。法和知其必叛。以語朱元英。元英不了其意。未久景圍京城。元英求策。和曰。取果宜待熟。景遣將任約擊湘東王。法和就乞軍禦之。對壘赤沙湖。賊因風縱火燒廬。法和以白羽揮風。風即返。約軍大潰。士卒求約不獲。法和曰。洲際有水剎。約在其下也。可往擒之。果得約。抱剎仰頭出鼻。法和捨之。謂王曰。他日當得力。約後果立効。法和所至江湖必立放生池。切戒殺生。湘東王即位。是為元帝。以法和為郢州刺史。始法和欲大舉定魏。帝不許。法和笑曰。吾甞不希釋梵天王坐處。豈窺人王位耶。但於空王佛所與王有因緣。如不能用則奈業何。帝敗歸齊。齊宣帝喜其來。封太尉賜甲第。法和乞為佛寺。身居偏室。日手持香爐行道體佛燒香凝坐預期死日。時至坐去。尸縮三尺許。題壁曰。十年天子為尚可。百日天子急如火。周年天子遞代坐。又曰二母生三天。兩天共五年。指婁太后也。人懼塗削之。終不能去。其神異如此。
(三十八) 承聖二年。北齊高帝。詔僧稠禪師。稠將啟行。而峯巒振響飛走悲鳴。如是者三日而止。稠至京師降蹕迎候。命入宮授菩薩戒。盡停五坊鷹犬及傷生之具。禁境內屠殺。稠留禁中四十日。出居外寺。尋有旨罷講席。俾沙門盡習禪觀。稠入諫帝。以為弘通教理漸誘童蒙正賴講授。願勿禁也。從之。及宣帝即位。甞謁稠。稠床坐不迎。其徒有勸迎者。稠曰。昔賓頭盧尊者迎阿育王起行七步。致王失國七年。貧道雖寡德。冀帝獲福耳。俄以此被譖。帝銜之。將復入寺按其不敬誅之。稠已知之。及帝入寺預出十里許候之。帝怪問。稠曰。恐身血污伽藍。故遠來就刃耳。帝懼然悔謝。謂其臣楊遵曰。朕不明幾妄黷聖師。即奉之如故。因從容啟帝曰。陛下前身羅剎也。今好殺蓋餘習耳。帝問。何以知之。稠請以盆貯水自呪之命帝臨觀。果自形正羅剎之狀。仍有群羅剎隨之。帝大驚。自是絕葷終日坐禪禮佛行道如旋風焉。
(三十九 甲戌) 敬帝方智(字惠相。小字法真。元第九子。元被西魏破江陵殺之。陳覇先殺王僧辨而立帝即位。以覇先為相。進封陳王。明年受禪。帝十六歲終。在位二年)。
西魏恭帝廓(文帝第四子。字文泰以柳刺之言。廢欽立帝。泰卒其子。覺襲相位進封周公。時年十有五歲。其叔宇文護逼帝禪位于覺。封帝為宋公。帝在政三年)。
(乙亥) 改紹泰。
後梁(姓蕭氏都江陵)雷氏曰(宣詧巋琮西魏附庸。後梁三主三十四終)。
宣帝詧(字理孫。蘭陵人。武帝孫。昭明太子統第二子也。字文泰立之于江陵。在位八年。改元大定。壽四十四矣)。
(四十) 北齊勅二教角試。天保六年九月。下詔。勅諸沙門與道士達者十人親自對校。于時金陵道士陸修靜等初為梁武所棄。遂奔入魏。至是頗盛。而齊文帝復事佛。靜等忌之。詣闕請與釋子角法。有旨令上統法師剋日較勝負。至期大集公卿。修靜等以術呪僧衣鉢及宮殿梁柱。皆舉震動。諸僧相顧缺然無對。於是萬眾諠譁得以道流為勝。修靜等雀躍魚視高自矜誇。以己為神仙輩也。又言。沙門現一我即現二。今以小術誘之耳。帝顧謂上統曰。佛門豈無人哉。統曰。方術小技儒俗鄙之。況出家人也。既承天命令拒。可令最下座僧對之。于時有法師曇顯。不知何許人。居下位被酒昂兀而坐。統令二人扶上高座。登而笑曰。向呪衣柱而飛動者。我故開門試卿術耳。令取稠禪師衣鉢置地使呪之。靜徒併力作法。逾時不能動。帝勅取衣一加十輩並不能舉。顯即自取置諸梁上使呪梁柱。亦不能動。顯又曰。我先醉耳有所聞云。沙門現一我當現二。果爾否。靜曰然。顯乃翹一足曰。我正現一。請卿現二。靜徒默無所為。相顧慚縮失色。獨修靜更欲以頰舌勝之。即曰。爾佛自言為內。內即小也。以道家為外。外即大也。顯應聲曰。然則天子居九重之內。亦應小於百官耶。靜氣咽無對。群臣皆呼萬歲。忻躍而罷。顯風度弘曠趣向叵測。後不知終。帝親鑒臧否於十月乙卯朔日也。是月丙辰文帝詔曰。法門不二真法在一。求之正路寂泊為本。祭酒道者中世假妄。俗人未悟乃有祗崇。麴[麥*薛]是味喪昧虛宗。既乖仁祀之源。復違祭典之式。宜從禁止。無或遵風應。道士自謂得神仙者可上三爵臺飛騰遠舉。不能爾者並宜改迷歸正。詣昭玄上統剃度出家。繇是齊境道流遂絕矣。
(四十一) 杜弼字輔言。中山曲陽人。年十三進士。甄琛問策。下筆如流。王澄見所答。歎曰。王佐才也。仕高歡甚見敬。使魏帝知弼深於佛理。問經中佛性法性何異。弼曰。正是一理。帝曰。說者言法性寬佛性狹如何。弼曰。在寬成寬在狹成狹。若論性體非寬非狹。帝曰。既言成寬成狹。何得非狹非寬。弼曰。若定是寬則不能成狹。若定是狹亦不能為寬。以非寬非狹故能寬能狹。所成雖異能成常一。帝曰善。奉使稱旨既還。文襄問政要。弼曰。天下大務莫過刑賞二端。賞一人而天下喜。罰一人而天下服。二事得中自然盡善。文襄悅曰。言雖不多於理甚要。
(丙子) 改太平○右西魏二十五年(而禪于宇文周)。
後齊。
(四十二) 敘曰。元魏將季其祚分崩。肅宗孝明帝崇尚佛法。胡太后親臨國政。一紀之內天下晏然。及帝崩太后死。高歡誅賊爾朱榮於鄴燒洛陽宮室。奉清河郡王立于鄴。凡一十七載扶翼魏朝。至太清三年武帝崩。歡亦先殞。世子澄襲相王位。未幾而殂。魏靜帝乃遜位於高洋。即歡之第三子也。世族武川。仍都鄴下。神用卓詭智愚混兼。十餘年間教法中興。僧至二百餘萬。寺院凡四萬餘所。六主相承二十有八年。為周所滅。齊書。著作王劭述佛曰。釋氏非管窺所及。率爾妄言之。又引列禦寇書。述商太宰問孔子聖人事。又黃帝游華胥氏之國。華胥氏之國在佛游神而已。此之所言髣髴於佛。石符姚世經譯遂廣。蓋欲柔伏人心。故多寓言以方便。不知是何神異。浩蕩之甚乎。其說人身心善惡世事因緣。以慈悲喜捨常樂我淨。書辨至精明如日月。非正覺孰能證之。凡在順首莫不歸念。達人則謹其身口修其定慧。平等解脫究竟菩提。及僻者為之。不能通理。徒務費竭財力功利煩濁。猶六經皆有所失。未之深也已矣。
(丁丑) 右梁五十七年(而禪于陳)。
後周(宇文氏。王木德。共五主都長安)雷氏曰(太祖閔明武宣靜帝後周五主二十五年)。
(四十三) 敘曰。周之藝祖宇文覺者。即魏大丞相泰之世子也。泰舉高陽王為帝。遷都長安號西魏。凡一十八年。廢帝更立齊王為帝。四年而泰薨。覺承魏禪當年被廢。立弟毓為帝。四年而殂。乃立弟邕。邕即周武帝也。閱十餘年至建德初。惑於道士張賓等妖言。惡黑衣之讖除廢釋氏。毀寺院四萬餘所。僧三百萬悉令還俗。洎滅齊未幾改元宣政。五月而殂。太子贇立。自稱天元皇帝。大象二年五月崩。太子衍立。明年二月禪位于隋。周五主凡二十五年國除。初宇文泰及大冡宰字文護。並崇重佛法。與西域三藏十餘人宣譯經論天文等。凡百餘卷云。
周太祖文皇帝(小字黑獺。郡代武川人。其先出于炎帝之後。炎為黃帝?。子孫遁居朔野。有裔孫普回。狩得玉璽三細。文曰。皇帝璽。回以為天授。俗謂天文曰宇。乃遂以國號宇文并以為姓。後廢齊即位焉)。
孝閔帝覺(小字陀羅尼。文帝第二子。泰卒帝受魏恭帝禪。不改年號。王木德。在位二年)。
佛祖歷代通載卷第九
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
(一) 陳(都建康) 雷氏曰(陳高覇先文廢宣後合為五主三十三年)。
(丁丑) 高祖武皇帝(姓陳。諱霸先。字興國。小字法生。吳興長成下里人。受梁敬帝遜禪即位。年五十七。崩于璇璣殿。在位三年)。
改元永定○周閔帝(字文覺。從兄護殺之而立毓)。
敘曰。有梁祚微禍難自作。東魏賊侯景因隙來奔。高祖建義內之。封為河南王。乘寵作亂遂陷臺城。先是梁湘東王出鎮荊陝。使王僧辨陳霸先等平金陵。未幾湘東王為西魏所滅。侯景既誅。僧辨仍為霸先所殺。太平元年梁敬帝遜位。霸先即帝位于金陵。以姓為國。蓋吳興長城下里人也。世本甚微。自云。漢太丘長陳寔之裔。身長九尺二寸。鬚長三尺。垂手過膝。神明高敬有大志略。眾所推重。既臨大寶復梁舊政崇重釋氏。金陵舊來七百餘寺侯景焚蕩幾盡。陳高祖悉皆修復。翻經講道不替前朝。自創國至禎明三年。凡五主三十三年國入于隋。其二十四年與周同政。九載與隋同政。時天竺優禪尼國三藏法師拘那陀羅。陳言真諦。十四年間隨處譯經論疏傳等四十八部。凡二百三十二卷云。
真觀法師釋門龍象也。時徐僕射領軍禦世。欲僧兵之。師馳書勉止。其言傷怛足以發回向之心。又著無性因緣論。
周明帝(毓小字統萬。宇文之長子每在位四年。改元武定)。
(庚辰) 文帝篟改天嘉(字子華。高祖兄昭烈王興之長子。高祖與兄同經營帝業故遺詔立之。天康乙酉崩于有覺殿。在位七年)。
周(明帝中從兄護毒死而立弟邕)。
(二) 沙門稠禪師乃魏跋陀三藏之資也。受具往嵩山少林。又抵覃懷王屋之柏岩寺。解二虎鬪。由是舉世知名。齊乾明元年示寂于龍山雲門寺。
齊孝昭帝演改皇建(字延安。神武第六子。聰敏仁孝勤于政治。一年因捕兔。驚馬墜地而崩。壽五十七。葬靜陵)。
周武帝邕改保定(小字彌羅。宇文之第四子。登位唯布衣帔。無金寶飾。禁斷華綺。土階聽政。不施櫨栱。後宮嬪御不過十人。在位十八年。壽三十六。崩于輦輿。葬孝陵)。
(三) 法師洪偃。雅為文帝所重。及齊使崔武子有專對才。朝廷憚之。帝以偃才學兩優命館伴武子。武子加嘆而歸。由是朝儀欲奪其志斂以冠巾。偃聞命即絕食以死自誓。帝以其確誠從之。時稱偃四絕。謂姿容德行文章草隷。臨終謂其徒曰。世人為貪心之所暗。貪己則惜落一毫。貪他則永無厭足。至於身死之後。高其墳重其槨。必謂九泉之下還結四隣一何可歎。今瞑目之後。以脯腊鄙形布施飛走。及卒弟子如其誡。有文集二十卷。詔藏祕閣。
(四) 法師寶瓊。陳宣帝命為僧統。綏禦有法四眾安之。屢入重雲殿講道。帝尊之為師。初梁魏間僧統盛飾杖直僭擬官府。至瓊奏罷之。每出從數頭陀杖笠而已。于時海東有十二國。聞瓊道德不可見。遣使奉金帛求瓊畫像。其為天下敬慕如此。及卒。法師曇衍繼為僧統。亦有重名。衍初生下四十齒已具舉世異之。
(壬午) 後梁世宗巋改天保(字仁遠。?第三子。在位二十三年)。
齊武成湛改太寧(神武第九子。淫亂無度。信用嬖寵。傳位太子。在位四年。壽三十二崩)又改河清。
(癸未) 周(保定三年有牛生足于背上。出北史)。
(乙酉) 齊後主緯(字仁綱。武帝長子。昏亂暴虐。殺于崔季等忠臣。在位十三年。改天統)旃檀瑞像至此三百六十七年在淮南。
(五) 是年衛元嵩上疏減僧。初周武崇佛氏。天保六年嵩上十一條省寺減僧。云僧多怠惰貪財冒利不足欽尚。召百僧入內道場。七日伺過不得。無何乃止。嵩後感惡疾而卒。世尊曰。獅子身中蟲。嵩何不當之矣。
(丙戌) 改天康○周(改天和用天和曆)。
(六 丁亥) 廢帝伯宗改光太(十九歲而卒在位二年)。
大教東被五百年矣。
(七) 台宗三祖惠思禪師。姓李氏。武津人也。少以寬慈頂生肉髻耳有重輪。象視牛行與世自異。夢梵僧勉令出俗。辭親入道。及稟具戒日唯一食不受別施。聞北齊惠文聚徒眾法清淨。乃往歸依。從受正法性樂苦節。營僧為業。於三七日中得宿命智。而習漏未盡。後於定中放身倚壁。未至間霍爾開悟法華三昧。大乘法門一念明達。十六特勝背舍徐入。便自通徹不由他悟。示眾曰。道源不遠性海非遙。但向己求莫從他覓。覓亦不得得亦非真。侯在大蘇弊於烽警。山侶不遑安處。將四十餘僧徑趣南岳。時陳光大二年六月二十三日也。至即告曰。吾至此滿十年耳。先是梁僧惠海居衡嶽寺。及見師欣然讓之。時稱思大和上。或問。何不下山教化眾生。思答曰。三世諸佛被我一口吞盡。有何眾生可化。甞不豫。因念曰。病由業生業由心起。心緣不起外境何狀。業病與身都是雲影。作是觀已身遂輕安。陳高祖徵至都。安置栖玄寺。甚蒙咨揖。久之辭還南岳。師曰。寄迹茲山止十年耳。期滿當移。時眾不識其旨。及還大集門學連日說法。苦切呵責。聞者寒心。陳大建九年丁酉六月二十二日。咸聞異香。師更攝心諦坐。至盡頂煖身軟顏色如生。春秋六十有四。師奉菩薩三聚淨戒。至如繒纊皮革。多由損生故。其服章率皆以布。寒則艾衲用犯風霜。至於所被法衣都無蠶服。縱皆受法不云得成。若乞若得蠶綿作衣。准津結科斬捨定矣。約情貪附何由縱之。唯南嶽獨斷高遵聖檢也。今之列其派者。華裾茜服恣尚鮮麗。得無恧乎。
(八 己丑) 宣帝頊改大建(字紹世。小字師利。昭烈王興次子。文之弟也。身長八尺三寸。大有勇力善騎射。生五十一子。年五十三歲崩宣福殿。在位一十四年)。
(九) 周武天和四年。帝命名儒僧道伸述三教利病。沙門道安作二教論二十篇。以儒道九流為外教。釋氏為內教。意謂上古朴素墳典之誥未弘。淳風日澆丘索之文乃著。苞綸七典統括九流。咸為治國之謀。並是修身之具。若派而分之。數應為九。若總而合之。則同屬儒宗。今乃一化之內令九流爭川。大道之世使小成競辨。豈不上傷皇極莫大之風。下開拘放鄙蕩之弊哉。及闡譯內興奏之于朝。久而無報。安勤於奉母。凡薪水飲食皆自力營進。其徒有代之者。安曰。吾母也。豈可勞人哉。及周武廢教。以安宿望欲官之。安以死拒絕。尋以大教堙阨號慟而卒。
(十) 周武天和四年。謠言黑衣。武以猜為心。有道士張賓之等。譎詐罔上私構其黨。以黑釋為國忌。以黃老為國祥。帝納其言信道輕釋。親受符錄。躬服衣冠。是年己丑三月十五日。召三教名士文武百官二千餘人。帝御正殿量述三教。以道最先出於無名之前超乎天地之表。議者紛紜弗定。至二十日。依前集論是非更廣。帝曰。儒道二教此國常遵。佛教後來。朕意不立僉議陳理無由除削。至四月初。更依前集。雖極言陳無得面從也。又各理伸弗克定矣。遂勅司隷大夫甄鸞詳審二教。至于天和五年。鸞詳二教上笑道論三卷。其表略曰。
(十一) 切以佛道二教事迹不同。出沒隱顯變通亦異。幽微妙密未易詳度。且一件相對。佛者以因緣為宗。道者以自然為義。自然者無為而成。因緣者積行乃證。春秋傳曰。君所謂可而有否焉。臣獻其可以去其否。臣亦何人。奉勅降問。敢不實答。其道德二篇可為儒林之宗。疑紕繆者去其兩端。請量刪定。按五千文曰。上士聞道勤而行之。中士聞道若存若亡。下士聞道則大笑之。不笑不名為道。臣諏率下士見為笑道論三卷。合三十六條。三卷者笑其三洞之名。三十六條者笑其道經有三十六部。戰汗上呈心魂失守(出弘明集)。
周武至五月十日。大集群臣。詳鸞上論。以為傷蠧道法不愜本圖。火焚而已。論具如弘明集。周大夫甄鸞者寔高識君子也。弗知懼大敵而勇於小敵者焉。王令詳定二教優劣。直以正見剖析。無使遍意在懷。而著此論褒貶臧否。詩曰。豈弟君子求福不回。其此之謂夫。傷哉火矣。
(十二) 又上道安所著二教論二十篇。帝詳審諸以問朝宰。無有抗者。遂寢其事。其論略曰。鍊心之術名三乘。內教也。救形之術名九流。外教也。道無別教即在儒流。漢書藝文志曰。儒家者流蓋出于司徒之官。助人君順陰陽。明教化者也。游文於六經之中。留意於五德之際。祖述堯舜憲章文武。宗師仲尼。其道最高也。道家者流蓋出史官。清虛以自守。卑弱以自持。此君人者面南之術。合於堯之克讓易之謙謙。是其所長也。陰陽家者流蓋出於羲和之官。敬順昊天曆象日月敬授民時。此其所長也。法家者流蓋出理官。信當辟罰以輔禮制。易曰。先王以明罰勸政。此其所長也。名家者流蓋出於禮官。古者名位不同禮亦數異。孔子曰。必也正名乎。名不正則言不順。言不順則事不成。此其所長也。墨家者流蓋出清廟之官。茅屋採椽。是以貴儉。養三老五更。是以墨兼愛。選士大射。是以上賢。宗祀嚴父。是以有鬼。此其所長也。縱橫家者流蓋出於行人之官。孔子曰。誦詩三百。使於四方不能專對。雖多亦奚以為。又使乎使乎。言其當權受制宜受命而不受詞。此其所長也。雜家者流蓋出於議官。兼儒墨含名法。知國體之有此。見王制無不貫之。此其所長也。農家者流蓋出於農稷之官。播五穀勸耕桑以足衣食。故八政曰。一曰食。二曰貨。此其所長也。若派而別之則應有九。若總而合之則同屬儒宗。其論文之作內外該括。文詞峭拔義理淳簡。誠可敬也。
(庚寅) 齊改武平。
(壬辰) 周改建德。
(甲午) 周廢釋。建德三年五月十七日。周武終成妬忌信張賓之議。欲偏廢釋教。因大集百僚命沙門與道士辯優劣。預令張賓之飾詭辭以挫釋子。冀即其義負而擠之。于時法師知炫對帝抗酬。辭吐精壯。帝意賓不能制。即逞天威垂難辭。左右叱炫聽制旨。炫安詳應對。陳義益高。陪位大臣莫不動容欽歎。帝不能屈。明日詔下。遂兼道教罷之。
(丙申) 齊改隆化(周兵陷并州。上走鄴。傳位太子恒)。
(子酉) 周伐齊至鄴。齊王緯走獲之封為溫國公幼主恒改承化(與後主俱走青州。周兵執之。國已)。
右高齊五主二十八年宇文周并之。
(十三 戊戌) 周武承光二年。滅北齊據鄴都。用韋孝寬楊堅等眷東平高氏。召前修大德並赴殿下。帝登座序廢立義。其略曰。六經儒教禮義忠孝。於世有宜。故須存立。且真佛無相遙敬表心。佛經廣歎崇建浮圖徒廢民財。凡是經像皆毀滅之。一切僧尼並令還俗。朕意如此。諸大德謂理何如。于時沙門大統五百餘人。咸以王威震赫決諫難從。關內已除。義非孤立。眾各默然。下勅催答。並相顧無色。俛首垂淚。于時有沙門惠遠者。姓王氏。乃曇始和上之門資也。聲名光價。乃自惟曰。佛法之寄四眾是依。豈以杜言謂能通理。遂排眾出對曰。陛下統臨大域得一居尊。隨俗致詞憲章三教。詔云。真佛無相誠如天旨。但耳目生靈賴聞經佛藉像表真。今若廢之無以興敬。帝曰。虛空真佛咸自知之。何假經像。遠曰。漢明已前經像未至此土。含生何故不知虛空是佛。帝時無答。遠曰。若不藉經教自知有法者。三皇以前未有文字。人應自知有五常等法。當時諸人何故但識其母不識其父同於禽獸。帝又無語。遠曰。若以形像無情事之無福故須廢者。則國家七廟豈是有情而妄相尊事。帝又不答。乃曰。佛經外國之法。此國不須。國家七廟上代所立。朕亦不以為是。將同廢之。遠曰。若以外國之經非此用者。仲尼所說出自魯國。秦晉之地亦應廢而不行。又以七廟為非將亦廢者。則是不尊祖考。祖考不尊則昭穆失序。昭穆失序則五經無用。前存儒教其義安立。若是則三教同廢。將何治國。帝曰。魯邦之與秦晉封域乃殊。莫非王者一化。故不類佛經。七廟之難帝無以通。遠曰。若以秦魯同遵一化經義通行者。其震旦之與天竺國界雖殊。莫不同在閻浮四海之內輪王一化。何不遵佛經而令獨廢。帝又無答。遠曰。退僧還家崇孝養者。孔經亦云。立身行道以顯父母。即是孝行。何必還家。帝曰。父母恩重交資色養。棄親向疎未成至孝。遠曰。若如是者陛下左右皆有二親。何不放之乃使長假五年不見父母。帝曰。朕亦依番上下得歸侍奉。遠曰。佛亦聽僧。冬夏隨緣修道。春秋歸家侍養。故目連乞食餉母。如來檐棺臨葬。此理大通未可獨廢。帝又無答。遠抗聲曰。陛下今恃王力自在廢滅佛法。是邪見人。阿鼻地獄下揀貴賤。陛下何得不怖。帝悖然作色大怒。直視於遠曰。但令百姓得樂。朕亦不辭地獄諸苦。遠曰。陛下以邪法化人現種苦業。當共陛下同趣阿鼻。何處有樂可得。帝屈無對。所圖意盛更無所答。但云。僧等且還。有司錄取論僧姓字。帝已行虐。師知時不濟。隱居楚澤青蓮山養道。造涅槃等疏。有擲筆凌空之驗。武既怒佛道二宗俱被廢滅。東川寺觀凡四萬餘區。並賜王公。僧道三百萬人悉充軍民。財產並收入官。帝以為得志焉。傷哉。
(十四) 法師靜藹者。聞詔下慨然曰。食周之粟而忘其事。謂之忠乎。即詣闕奉表求見。武帝許之。及引對極陳毀教禍福報應之事。指證明白。帝為改容。顧業已成。既行之詔不可返。因謝遣之。藹退而泣曰。大教阨塞。吾何忍見之。遂遁入終南山。帝尋欲官之遣衛士求藹。藹聞徙入太一曰。衛士不獲而返。藹以法滅號泣七日夜聲不絕。撰三寶錄二十卷。假設主賓抑揚飛伏。廣羅文義弘贊大乘。并錄見聞事實藏諸岩洞。庶後代之再興耳。尋告弟子曰。吾生無補于世。將事捨身。眾號泣不許。因令侍者出山。藹瀝血書偈一篇。遂坐磐石留一內衣自條其肉布於石上。引腸胃掛于松枝。五臟皆外見。餘筋肉手足頭面咼拆都盡。以刀割心捧之而卒。侍者歸山。猶見捧心而坐。餘骸並無遺血。但見白乳傍流凝於石次。聞者靡不流涕。時年四十有五云。
(丁酉) 周武承光三年。既克齊改元宣政。帝癘疾稍作。五月一日歸長安延壽殿。癘甚。二十四日遷雲陽宮。六月一日。殂子贇立于同州○唐吏部尚書唐臨冥報記云。自言外祖為隋僕射封齊公。親見文帝。問死還活者。初死見周武帝云。為我上聞大隋天子。昔日與我共食倉庫。玉帛亦我儲之。我今為滅佛法受大極苦願帝為我助作功德也。帝以庫藏不敢私費。乃化天下人各一錢。為追福懺罪也。
(戊戌) 周宣帝贇(字乾伯。武長子。即位未及年禪位太子。自稱天元皇帝。驕佚淫湎。改元大成。又改大象。年三十二崩葬定陵。在位一年)。
(十五) 釋任道琳者。以學業淹博得近周武。議論二十餘日。酧酢七十番。周武窮極精思不能屈。甞許以復教。會其崩不果。至是道琳伸請尤力。帝從之。
(己亥) 周宣帝二月二十六日。詔曰。佛法弘大前古共崇。詎宜沈隱舍而不行。自今應王公下逮黎庶並宜修事。知朕意焉○四月二十六日。復詔曰。教義幽深神奇弘大。雖以廣開化儀通其修事。而崇奉之徒勿須剪髮以乖大道。宜視菩薩儀範權服冠纓。所司條為儀注。於是琳等妙選舊沙門懿行貞粹聲望卓異者百二十人。入陟岵寺。仍舊住持。
(庚子) 周靜帝衍更名闡(宣之長子大象即位。隋公楊堅修政。十二月封為隋國公。罷入市稅錢。復佛道二教。大定元年。孫位于隋。居于別宮。隋氏奉帝為介國公。服飾禮樂一如周制。上書不稱表答不稱詔。隋開皇元年五月帝年十九而崩葬之恭陵。在位一年○五月天元殂以天元皇后之父楊堅輔政。襲封隋國公也)。
(辛丑) 周改大定(正月改元二月禪于隋)。
右宇文周(五主共二十五年)。
(十六) 隋高祖文皇帝名堅(小字那羅延。本弘農華陰人也。其先漢太尉楊震之後八世孫[筑/心]仕燕。北平太守元壽仕魏。武川司馬惠[嘏-(巨-匚)+几]太原太守烈平原太守定遠真隋國公忠生帝堅。相周封隋王。大定元年受周禪。八年廢梁。九年平陳。天下一統克儉為良主。都于龍首山。故長安也。仁壽四年太子廣弑之。壽六十四。葬之太陵。在位二十三年)。
改年開皇。
(壬寅) 上殂太子立○設無礙會舍身。
(癸卯) 後主叔寶改元至德(字元秀。小字黃奴。宣之長子。即位荒淫酒色。禍亂非常。後與張麗華孔貴嬪逃入宮井。隋文廢為長城公。至仁壽四年癸亥十一月壬子。終于洛陽。壽五十二歲。在位六年)。
(甲辰) 隋初行甲子曆。
(丙午) 後梁琮(字溫文。巋太子。寬仁大度。博學善射。即位改元廣運。後其叔安平王嵓擁江陵。仕庶奔陳。琮時朝隋。隋乃廢琮為莒國公。在位二年而梁絕矣)。
(丁未) 改禎明。
(己酉) 右陳五主三十三年(而隋併之)後梁三主三十四年(而隋併之)。
(庚戌) 隋文帝開皇十年。
(十七) 序曰。天命有隋膺斯五運。帝君榮祐宅此九州。所以誕育之初神光洞發。君臨已後靈瑞競臻。故使天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視啞語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。是知昔聞七寶匪局金輪。今則神異四時遍知玉燭。往以赤若之歲黃屋馭宸。土制水行。興廢毀之佛日。火乘木運。啟嘉號於開皇。高祖以周靖帝大定二年。黃龍降於舊第。卿雲見於城闉。二月十三日。周以帝祚歸禪在隋。景命既臨服黃簪皂。廢(周六)官依漢三省。佛日還曜法水潛通。其冬有周沙門齎西域梵經二百餘部膺期而至。下勅所司訪人翻譯。開皇二年仲春之月便就宣傳。季夏詔。以龍首之山川原秀麗卉木滋阜宜建都邑。凡城殿門縣園寺。皆以大興為額。三寶慈化自此而興。萬國仁風緣茲遠大。伽藍欝峙法宇交臨。開士肩聯信心踵接。及仁壽啟號寶塔是興。百有餘州皆陳瑞應。于斯時也。四海靜浪九州無塵。大度僧尼將三十萬。崇緝寺宇向有五千。翻譯道俗二十四人。所出經論垂五百卷。及煬帝嗣籙卜宅東都。仍於洛濱上林園置翻經館。四事供養無乏于時。今敘一朝兩代三十七年祖師顧儒高僧法匠十有五人。顯大隋我教之隆盛焉。
(十八 辛亥) 法師曇延。姿度環異身長九尺六寸。垂手過膝目光外射。才望與惠遠相捋。述諸經義疏。議者謂標舉綱目遠不逮延。文句愜當延不逮遠。齊太祖從之問道給月俸。會周使周弘正來聘。大臣舉延接伴。弘正恃才氣出人上。見延悠然意消。及還求延畫像并所著疏論而歸。帝益重之。進位昭玄上統。周武廢教。延遁入太行山。及隋受禪。即日削髮。以沙門謁見。文帝大悅下書復教。久之歲旱。有旨命延率眾祈雨。雨不降。帝問故。對曰。事由一二。帝遣京尹蘇成問一二之意。延曰。陛下躬萬機之政。群臣致股肱之力。雖通治體然俱愆玄化。欲雨不雨。事由一二也。帝識其意。勅有司擇日於正殿設儀。命延授以八戒。群臣以次受訖。方炎威如焚而大雨沛然傾注。帝悅。自是延每入朝。必親手奉御饌供之。臨終以表辭帝託以外護。帝哭之哀甚。葬日百僚縞素送之。內史薛道衡文祭。略曰。往逢道喪玄綱落紐。棲心幽岩確乎不拔。高位厚祿不能回其慮。嚴威峻法不足懼其心。經行宴坐夷險莫二。戒德威儀始終如一。聖皇啟運像法再興。卓爾緇衣欝為稱首。屈宸極之重。申師資之義。三寶由之弘護。二諦藉以宣揚。信足以追踪澄什超邁安遠矣。
(十九 壬子) 釋尼智僊者。河東蒲坂劉氏女也。少出家有戒行。長通禪觀。時言吉凶成敗。事莫不奇驗。居般若寺。會文帝生於寺。方季夏盛暑。乳母遽扇之。帝寒甚。幾絕不能啼。左右大驚。尼就視之曰。兒天佛所祐。宜勿憂也。即舉之呼曰。那羅延。因以為小字抱詣太祖。語曰。兒來處絕倫。俗家穢雜不宜留。請為養之。太祖遂割宅為小門通寺以鬼委僊視育。後皇妣來抱。忽見兒為龍驚墮于地。僊失聲曰。奚為觸損我兒。令晚得天下。及帝稍長。僊密告之曰。汝後大貴。當自東方來。佛法時滅賴汝而興。及周武廢教僊隱其家。內著法衣戒行彌篤。至是帝果自山東來入為天子。大興釋氏。僊前此而卒。帝對群臣稱阿闍黎以為口實。又云。朕興由佛法。而好食麻豆。前身定從道人中來。少時在寺長育。至今樂聞鐘磬之聲。
(二十) 是年關輔旱。帝引民就食洛州。先是律師靈藏者。帝為布衣交。至是命藏陪駕。既而趣向藏者極盛。帝聞之手勅曰。弟子是俗人天子。律師是道人天子。有樂離俗者任師度之。藏由是度人前後數萬。間有譖之者。帝曰。律師化人為善。弟子禁人為惡。言雖有異意則無殊。
(二十一) 是年李士謙卒。士謙字約。少喪父。事母以孝聞。其族長伯瑒每歎曰。此子吾家顏子也。善天文術數。自以少孤未甞飲酒食肉。如此積三十年。雅好舉止約以戒定。有謂其修陰德。士謙笑曰。夫陰德其猶耳鳴。唯己知之。人無得而知者。今吾所作仁者皆知。何陰德之有。最善玄言。客有疑佛報應之說。士謙喻之曰。積善餘慶積惡餘殃。豈非休咎之徵耶。佛曰。輪轉五道無復窮已。而賈誼亦云。千變萬化未始有極。至若鮌為黃熊。杜宇為鶗鴂。褒君為龍牛哀為虎。君子為鵠。小人為猿。彭生為豕。如意為犬。黃母為黿。宣武為鼈。鄧艾為牛。徐伯為魚。羊祜前身李氏子。此皆佛家變異形報之驗。客人曰。邢子才云。世有松柏化為樗櫟。僕以為然。士謙曰。此不類之談也。變化皆由心業。豈關木乎。又問三教優劣。士謙曰。佛日也。道月也。儒五星也。客不能難而去。
論曰。北史史官蔣沈等。記李君之事。詳悉如此。豈非心懷佛德盡已之誠不敢欺[言*末]後之來者歟。士謙以日月星方三教。然乍觀似有優劣。至若照明世界運轉生靈。則一德也。是三者闕一則安立不成。故易曰。乾道變化各正性命。賢哉李君。吾見其深於性命之大原也。
(二十二 癸丑) 二祖惠可大師。示寂於開皇十三年三月十六日也。師虎牢人。少博極群書尤精玄理。及覽佛經超然自得。遂出家依龍門香山寶靜禪師得度具戒。年甫四十。忽一日定中神告曰。將證聖果無滯於此。須臾頓覺頭痛如刺。欲行求治。空中有聲曰。此換骨耳。非常痛也。因以告師。師視其頂。有五峯隆起。乃曰。神既助汝。可行求道。吾聞天竺達磨近至少林。宜往依之。師至少林投機授法。語載達磨章中。及少林歸寂。師繼闡玄化。甞至北齊遇一居士。不言姓氏。且曰。弟子身纏風恙。請師懺罪。師曰。將罪來與汝懺。居士良久曰。覓罪了不可得。師曰。與汝懺罪竟。宜依佛法僧住。曰今見師已知是僧。未審何名佛法。師曰。是心是佛。是心是法。法佛無二。僧寶亦然。曰今日始知罪性不在內不在外不在中間。其心亦然。佛法無二也。師器之。即為剃髮云。是吾寶也。宜名僧璨。授具戒畢乃告之曰。達磨大師來自天竺。以正法眼藏密授於吾。吾今付汝并達磨信依。汝當護持無令斷絕。聽吾偈曰。本來緣有地。因地種花生。本來無有種。花亦不曾生。汝受吾教。宜處深山。未可行化。當有國難。曰師既預知。願聞示誨。師曰。昔達磨傳般若多羅讖記云。心中雖吉外頭凶。吾校年代正在汝身。當審前言勿罹世難。然吾亦有夙累。今要償之。師於鄴都隨宜行化。經三十四年。乃晦迹混俗。或過屠門。或入酒肆。有怪而問之者。答曰。我自調心。非關汝事。最後於筦城縣匡救寺三門下談無上道。聽者雲集。有辯和法師者。於寺中講涅槃經。學徒聞師說稍稍別去。和不勝憤。興謗于邑宰翟仲侃。侃惑其說。加師以非法。遂怡然委順。年一百有七。識真者謂師償債。葬磁州淦縣東北七十里。唐德宗諡大祖禪師。
(二十三 丁巳) 天台智者禪師。示寂於開皇十七年十一月二十四日。師諱智顗。字德安。姓陳氏。頴川人。有晉遷都。寓居荊州華容縣。梁散騎益陽公起第三子。母徐氏夢。香煙五彩縈回在懷。欲拂去之。聞人語曰。宿世因緣寄託王道。福德自至何以去之。誕育之夜室內洞明。信宿其光乃止。憶先靈瑞呼為王道。臥必合掌。坐必面西。年長時口不妄噉。見像便禮。逢僧必敬。七歲喜往伽藍。諸僧訝其情志。口授普門品。初啟一遍即得。二親遏絕不許更誦。志學之年仕梁。承聖屬元年淪沒。北度硤川依乎舅氏尋討名師。年十有八。投湘州果願寺法緒出家。授以十戒。仍北度詣惠曠律師。北面橫經具蒙指誨。又詣光州大蘇山南嶽禪師。受業心觀。乃於北山行法華三昧。始住三夕。誦至藥王品心緣苦行至是真精進白解悟便發。見共思師處靈鷲山七寶淨土聽佛說法。思為印可。甞令代講。思躬執如意在座觀聽。語學徒曰。此吾徒之義兒。恨其定力少耳。於是師資改觀名聞遐邇。學成往辭思。思曰。汝於陳國有緣。往必利益。思既入南嶽。大師詣金陵綿歷八周。語默每思林澤。乃夢岩崖萬重雲日半垂。其側滄海無畔。見一僧搖伸手臂挽師上山。以夢通告門人。咸曰。此天台山也。因挾道南征隱淪斯岩。陳少主降勅徵入。前後七使師乃赴都。迎入太極殿之東堂講智論。及金陵敗覆。策杖荊湘。會大業在蕃任總淮海。承風佩德欲遵戒法。致書累請。師初陳寡德。次讓名僧。後舉同學。三辭不免。開皇十一年十一月二十三日於楊州設千僧會。為王授戒。未幾王入朝。師旋台嶽。躬率禪門行光明懺。仍立誓曰。若於三寶有益者。當限此餘年。若其徒生願從速化。不久告眾曰。吾當卒此地矣。誡曰。宜各默然。吾將去矣。言已端坐如定而卒於天台大石像前。春秋六十七矣。弟子章安親傳戒法焉。
(二十四 辛酉) 改仁壽。
初文帝龍潛時遇梵僧。以舍利一裹授之曰。檀越他日為普天慈父。此大覺遺靈。故留與供養。僧既去。求之不知所在。帝登極後。甞與法師曇遷。各置舍利於掌而數之。或少或多。竟不能定。遷曰。諸佛法身過於數量。非世間所測。帝始作七寶箱貯之。至是海內大定。帝憶其事。是以岐州等三十州各建塔焉。
是年六月十三日。詔曰。仰惟正覺大慈大悲。救護眾生津濟庶品。朕歸依三寶重興聖教。思與四海之內一切人民俱發菩提共修福業。使當今現在爰及來世永作善因同登妙果。宜請沙門三十人諳解法相兼堪宣導者。各將侍者二人散官一人薰陸香一百二十片。分送舍利往前三十州建塔。每州僧三百六十人。為朕及皇太子后妃諸王內外官僚士庶懺悔。及於相州戰場立寺七日行道。任人布施。限十文而止。所施之錢以供營塔。若少不充役。正下及用庫物。別外州郡僧尼普為舍利設齋。限十月十五日午時同下石函。總管刺史下至縣尉。自非軍機停務七日。專檢校行道務盡誠敬。副朕意焉。是日帝親以七寶箱奉三十舍利。自內而出置于御座之桉。與諸沙門燒香禮拜。願弟子常以正法護持三寶。救度一切眾生。乃取金瓶瑠璃瓶各三十。以瑠璃瓶盛金瓶。置舍利於其內。薰陸為泥塗蓋而印之。諸沙門各奉而行。初入州境。總管刺史夾道步引。四部大眾威儀齋肅。共以寶蓋旛幢華臺像輦佛帳經輿香山香鉢種種音樂。盡來供養圍繞讚唄。依阿含經舍利入拘尸那城法。於是沙門對四部大眾。作是唱言。至尊以菩薩大慈無邊無際。哀愍眾生切於骨髓。故分布舍利。共天下同作善因。又引經文種種方便。訶責之教。導之深至。懇惻涕零。及宣讀懺悔文。至舍利將入函。沙門高奉寶瓶巡示大眾。人人拭目諦視共覩光明。哀戀號泣聲響震地。凡是安置之處。悉亦如之。帝於十月十五日午時。在大興宮之大殿西面。執珪而立。延請佛像及沙門三百六十人。旛蓋香花讚唄音樂。自大興善寺來居殿堂。帝燒香禮拜降御東廊。親率文武百僚素食齋戒。及舍利入塔訖。帝曰。爾佛法重興。必有感應。其後處處表奏。皆如其言(見著作王邵舍利感應記)。
(癸亥) 三年文中子王通。既冠慨然有濟世之志。西遊長安見帝。坐大極殿召見。因奏太平策十有二道。尊王道推覇略稽古驗今。恢恢乎運天下於掌上。帝大悅曰。得生幾晚。天不以生賜朕也。下其議於公卿。公卿不悅。時將有蕭牆之憂。通知謀之不用也。作東征之歌而歸。乃續詩書正禮樂修元經贊易道。九年而六經大就。門人自遠而至者。河南董常。太山姚義。京兆杜如晦。趙郡李靖。南陽程元。扶風竇威。河東薛收。中山賈瓊。清河房元齡。鉅鹿魏徵。太原王珪溫彥博。頴川陳叔達等。咸稱師。北面受王佐之道餘往來受業者千餘人。大業中累徵不就。十三年疾病聞江都有變。泫然而興曰。生民厭亂久矣。天其或者將啟堯舜之運。吾不與焉命也。遂卒。門人諡曰文中子。甞為中說以擬論語。其周公篇曰。詩書盛而秦世滅。非孔子之罪也。玄虛長而晉室亂。非老莊之罪也。齋戒修而梁國亡。非釋迦之罪也。易不云乎。苟非其人道不虛行。或問佛。文中曰。聖人也。曰其教何如。曰西方之教也。中國則泥。又曰。觀皇極讜議。三教於是乎一矣。通弟績亦著書。號東臯子。
(二十五) 文中子講道于白午之磎。弟子捧書北面環堂成列。講罷程生退省于松下。語及周易。薛收歎曰。不及伏羲氏乎。何辭之多也。俄而有負苓者。皤皤然委擔而息曰。吾子何歎也。薛收曰。叟何為者而徵吾歎。負苓者曰。麗朱者赤。附墨者黑。蓋漸而得之也。今吾子所服者道。而猶歎。是六腑五臟不能受也。吾是以問。收曰。收聞之師。易者道之蘊也。伏羲畫卦而文王繫之。不逮省文矣。吾是以歎。負苓者曰。文王焉病。伏羲氏病甚者也。昔者伏羲氏之未畫卦也。三才其不立乎。四序其不行乎。百物其不生乎。萬象其不森乎。何營營乎而費畫也。自伏羲氏泄道之密漏神之幾。分張太和磔裂先氣。使天下之智者詭道逆出。曰我善言象而識物情。陰陽相磨遠近相取。作為剛柔同異之說。以駭人志。於是知者不知而大朴散矣。則伏羲氏始兆亂者。安得羸歎而嗟文王。負其苓而行。追而問之居與姓名。不答。文中子聞之曰。隱者也。
石室論曰。宋司馬文正公曰。文中子云。佛聖人也。審如文中子之言。則佛之心可見矣。弟今言禪者。好為隱語以相迷。大言以相勝。使學者倀倀然益入於迷妄。因廣文子之意。作解禪頌六首。果如此言雖中國亦可行矣。不然則吾所不知也。其卒章曰。言為百世師。行為天下法。為賢為大聖。是名佛菩薩。噫文正公繼孔孟荀楊為大賢者也。庸有不知佛哉。觀其頌則文正公平生所為。皆佛菩薩之心也。特禪之一法。雖吾門亦標表以為教外別傳。自非積三二十年息心絕慮。則莫能究其旨。謂之隱語大言。似是而實非也。何則東臯子猶以伏羲畫卦泄道之密漏神之機分張太和磔裂元氣使知者不知大朴散矣。矧不立文字之禪。直指人心。於語言形迹之表。詎可常程義理而求其言說耶。是不獨文正公。文中子楊孟諸賢。未暇留神。吾徒傳教大法師輩。固有不知而興謗者。故先德云。千人萬人中撈摝一箇半箇而已。夫豈易信也哉。
(二十六) 闍那崛多。西天竺人也。帝時至長安大興善寺。奉勅譯法華等經。是年示滅。
(二十七) 仁壽初。詔曰。皇帝敬問章洪山之南谷智舜禪師。冬月極寒味道安隱。勉勗蒼生成就聖業。惟慈願力。朕實嘉焉。今遣開府盧元壽。宣朕意起禪師赴闕。舜以疾辭不赴。初舜從稠禪師出家習定。或時覺有妄念。即以錐刺股。由是塵慮不入至不得已或出一言。不過戒定慧而已。如是十餘年。稠奇之曰。汝於人事殆無心哉。而今而後可與言道矣。後辭入贊皇山。好事者奉米麪供之。舜辭去一不受。或問故。舜曰。山居橡栗足以禦飢。何煩於人其簡易如此。見啗肉者必慘容戒之曰。六道殊形汝無不經。一切有命皆女父母。一切有生皆女曩形。而食其肉者。是食女父母。女心。
(二十八 甲子 五五) 安忍哉。聞者悛革也(詔賞罰度支。並付太子廣。上疾。楊素使張衡入侍。上暴崩。太子即位)。
○(時天下戶口抄計八百九十萬)。
(乙丑) 煬帝廣(小字阿[序-予+(樊-大+女)]。高祖次子。篡立于仁壽宮。初登有政治民。後幸洛陽營建東京。發河南人夫數百萬。開通濟渠而達淮泗龍舟鳳舸。又至江都。民不堪命。而群盜蜂起。四海土崩。後為宇文弑之。壽五十九年)。
(二十九) 冬煬帝有事于南郊。詔僧道並同俗拜。道流莫敢言。諸沙門例不奉詔。帝詰之曰。詔條久頒。卿等固不奉命何也。時法師明瞻者對曰。陛下若使准制罷道。則微軀敢不奉命。如知大法可崇。則法服之下僧無敬俗之禮。帝曰。何以致拜周武。瞻曰周武任威縱暴仁德不施。不足為有國者法。陛下聖政惟仁不枉非罪。是以貧道得盡忠言。帝默然而罷。有司以瞻抗對。將抵以罪。瞻曰。所坐者瞻也。願不以非律加吾徒。帝壯其不撓而不問。凡敬主之議由此而絕焉。
(三十 丙寅) 是歲三祖僧璨大師示寂。師或云徐州人。初以白衣謁二祖既授衣。屬周武廢教。往來司空山。積十餘年人無識者。隋開皇十二年有沙彌道信。禮師曰。願和尚大慈乞與解脫法門。師曰。誰縛汝。曰無人縛。師曰。何更求解脫乎。信於言下大悟。服勞九載。授具戒已屢驗以玄犍。知其緣熟乃付衣。說偈曰。花種雖因地。從地種花生。若無人下種。花地盡無生。并付法衣曰。吾既得汝能事已畢。即優游江國。歷羅浮諸山復還舊止。士民樂其歸相率致供。師為四眾說法已。於法會大樹下儼立合掌而逝。十月十五日也。唐玄宗諡曰鑑智禪師。著信心銘一篇。其辭曰。至道無難。唯嫌揀擇。但莫憎愛。洞然明白。毫釐有差。天地懸隔。欲得現前。莫存順逆。違順相爭。是為心病。不識玄旨。徒勞念靜。圓同太虛。無缺無餘。良由取捨。所以不如。莫逐有緣。勿住空忍。一種平懷。泯然自盡。止動歸止。止更彌動。唯滯兩邊。寧知一種。一種不通。兩處失功。遣有沒有。從空皆空。多言多慮。轉不相應。絕言絕慮。無處不通。歸根得旨。隨照失功須臾反照。勝却前空。前空轉變。皆由妄見。不用求真。唯須息見。二見不住。慎莫追尋。才有是非。紛然失心。二由一有。一亦莫守。一心不生。萬法無咎。無咎無法。不生不心。能隨境滅。境逐能沈境由能境。能由境能。欲知兩段。元是一空。一空同兩齊含萬象。不見精麁。寧有偏黨。大道體寬。無易無難。小見狐疑。轉急轉遲。執之失度。必入迷路。放之自然。體無去住。任性合道。逍遙絕惱。繫念乖真。昏沈不好。不好勞神。何用疎親。欲取一乘。勿惡六塵。六塵不惡。還同正覺智者無為。愚人自縛。法無異法。妄有愛著。將心用心豈非大錯。迷生寂亂。悟無好惡。一切二邊。良由斟酌。夢幻虛花何勞把捉。得失是非。一時放却眼若不寐諸夢自除。心若不異。萬法一如。如如體玄兀爾忘緣。萬緣齊觀。復歸自然。泯其所以。不可方比。止動無動。動止無止。兩既不成。一何有爾。究竟窮極。不存軌則契心平等。所作皆息。狐疑淨盡。正信調直。一切不留。無可記憶。虛明自照不勞心力。非思量處。識智難測。真如法界。無他無自。要急相應。唯言不二。不二皆同。無不包容。十方智者皆入此宗。宗非促延。一念萬年。無在不在。十方目前。極小同大。忘絕境界。極大同小。不見邊表。有即是無。無即是有。若不如是。必不須守。一即一切。一切即一。但能如此。何慮不畢。信心不二。不二信心。言語道斷。非去來今。
(三十一 丁卯) 始平令楊宏。率道士名儒。入智藏寺啟曾義法莚。命法師惠淨與道士余永通論議永通欲先立義。淨曰。道流入寺。義有主賓汝安得先。於是淨問老子云。有物混成先天地生。吾不知其名。字之曰道。且道體一故混耶。體異故混耶。若體一故混則正混之時已自成一。是則一非道生。若體異故混。且未混之時已自成二。然則二非一起矣。永通茫然不知所對。無言而罷。
(乙亥) 煬帝窮奢極侈。乘龍舟錦帆沿汴而下入于楊州。天下諸侯反叛稱帝王者各據一方。凡五十二處。太原唐公李淵起義兵而來救駕矣。
(丙子) 唐師至江都。帝以手琢案曰。渠有奇相。渠得之矣。十一月唐師入京。遙尊為太上皇。立代王侑為帝。紹隋室也。
(三十二) 恭帝侑(煬之孫。元德太子之子。十三即位。以唐公為相。進封唐王。次年五月禪位與唐。封為鄗固公。武德二年薨。壽十五。在位二年)。
(丁丑) 改義寧(上在汀都淫虐日甚。宇文化及因思歸之士夜入宮弑帝及宗室皆死)。
(三十三) 神僧法喜者貌寢陋。年若四十許。嶺表父老咸言。兒時見之。談晉宋間事。歷歷可聽。又自言。甞從東林遠公游。語默不常。然皆為吉凶之兆。煬帝幸維楊。聞其有異召之。俄一日繞宮中遍索羊頭。帝惡之以付廷尉。手足銀鐺禁衛嚴甚。喜日丐于市飲食自若。有司以聞。帝命按視封鑰如故。及啟戶視之。唯見袈裟覆黃金骨。骨皆連鎖。遽以白帝。勅長安王怛覈實如狀。詔以香泥樹骨塑之。是夕喜以泥像起行。言笑如故。遂釋其禁。未幾示疾。命甞所善者。去其薦置身簀上。下以熾炭炙之數日。半身紅爛即死。葬之香山寺側。後數歲有自海南歸者。見喜無恙其人發塚視之。唯空棺爾。計是時喜已三百餘歲矣。及煬帝於江都遇弑。方悟喜索羊頭之驗云。
石室論曰。唐牧之云。昔有相士。稱文帝當有天下。後果篡奪得之。周末楊氏為八柱國。公侯相繼久矣。一旦以男子偷竊位號。不三十年。老壯嬰兒皆不得其死。彼知相法當曰此為楊氏禍。乃可謂善相者。牧之之論誠為警絕。然文帝削平天下混一海字。君臨萬國者二十四年。剏置禮樂法度。多為唐所遵用。仁壽間天下戶至八百七十萬。以唐疆宇之廣。歷五朝至天寶末。纔九百餘萬戶。隋文開統而身及太平。固一代之英主也。惜其末年任一楊素而弗獲其終。嗚呼豈唯隋文而已哉。凡魏晉以來符石姚劉二蕭陳高宇文楊氏十三朝。興亡因果循環之驗。皆毫末無差。吾教所以誕敷六合有大益於天下國家者。其言因果報應之事。與天道大合。有以助天為勸沮也。故鴻經廣論深切著明。必欲人人自信。因即如是。果亦如之。莫可逭也。儒雖曰其事好還。然未伸勸沮之理。此所以牧之唯詆隋文而不遠推累朝積習循環之弊。獨唐家之興則異於彼。故其運祚靈長。益足以為天下之至鑑右隋三主凡三十八年。
佛祖歷代通載卷第十
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十一
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐(姓李氏王土德都二京)雷氏曰(神太高則中睿玄肅代德順憲穆景文武宣懿僖昭哀濮亡。唐主二十二。二百九十二年)。
(戊寅) 高祖神堯皇帝淵改武德(字叔德。隴西成紀人。其先武昭王李暠之後。李歆弘農太守重耳金門鎮將熙李天錫周八柱虎。西魏賜姓大野氏。官至太尉。與李弼等八人佐周有功。皆為柱國號八柱也。虎卒周追其功封唐國公。公生昞。襲封唐公。高祖父也。仕隋為安州總管。生高祖於長安。紫氣充庭。體有三乳。性寬仁厚。又襲唐公。隋恭帝進封唐王。既太宗世。民知隋必亡。謀舉大事。祖從之。秋七月舉義兵。冬十一月克京城。明年夏五月恭遜位于高祖。即位於長安。改國號唐。在位九年。壽七十一崩。葬獻陵內禪太宗太宗。佛心天子也。創基定業廊清方維。傳世二十二。凡二百九十二年。自開闢以來。有天下者俱未若唐甚盛也。吾教盛衰常與帝道相望。由是內外護聖賢之多典章之備。亦無出此朝。故於唐頗稱全書幸名教君子。與夫吾屬後之來者有以稽考焉)。
七廟制(東西直排皆面陽明。始祖居中。三昭居左三穆居右次序如是)。
(二) 帝受隋禪百官拜舞。僧但山呼拱立一面。鄂國公尉遲敬德金吾衛將軍劉文靖奏曰。僧未登聖。俱是凡夫。何乃高揖王侯父母反拜。孰可忍也。帝令定儒釋優劣編入朝典議訖表聞。不合拜上。
(己卯) 定租稅法。
(甲申) 七年二月丁巳。高祖釋奠於國學召名儒僧道論義。道士劉進喜問沙門惠乘曰。悉達太子六年苦行求證道果。是則道能生佛。佛由道成。故經曰。求無上道又曰體解大道發無上心。以此驗之。道宜先佛。乘曰。震旦之於天竺。猶環海之比鱗洲。老君與佛先後三百餘年。豈昭王時佛而求敬王之道哉。進喜曰。太上大道先天地生。欝勃洞靈之中。煒燁玉清之上。是佛之師也。乘曰。按七籍九流。經國之典宗本周易。五運相生二儀斯闢。妙萬物之謂神。一陰一陽之謂道。寧云別有大道先天地生乎。道既無名。曷由生佛。中庸曰。率性之謂道車胤曰。在己為德。及物為道。豈有頂戴金冠身披黃褐鬢垂素髮手執玉璋居大羅之上獨稱大道。何其謬哉。進喜無對。已而太學博士陸德明隨方立義。遍析其要。帝悅曰。三人皆勍敵也。然德明一舉輒蔽之。可謂賢矣。遂各賜之帛。
(三 乙酉) 太史令庾儉。恥以術官。薦傅奕自代。奕在隋為黃冠。甚不得志。既承革政得志朝廷。及為令有道士傅仁均者。頗閑曆學。奕舉為太史丞遂與之附合。上疏請除罷釋教事。十有一條其略曰。佛在西域言妖路遠。漢譯胡經恣其假託。故使不忠不孝。削髮而揖君親。游手游食。易服而逃租賦。演其妖書述其邪法偽啟三途謬彰六道。恐訹愚夫詐欺庸品。凡百黎庶通識者稀。不究根源信其矯妄。仍追既往之罪。虛擬將來之福。至有躬造惡逆觸法抵刑。方乃獄中禮佛口誦梵言。曉夕忘疲視免其罪。且死生壽夭本於自然。刑德威福關之人君。而愚僧矯託皆言由佛。竊人主權攘造化理。其為害政良可悲也書曰。惟辟作福。惟辟作威。惟辟玉食。臣無有作福作威玉食。害于而家。凶于而國。自五帝三王。皆未有佛法。君明臣忠年祚長久。至漢明始立胡祠。令西域乘門自傳其法西晉已前不許中國之人髠髮出家。洎符石亂華。乃弭厥禁政虐祚短。皆由佛教致災。梁武齊宣尤足為戒。昔褒姒一女熒惑幽王致亡其國。況今僧尼十萬。刻繪泥像以耗天下者乎。陛下以十萬之眾。自相夫婦。十年滋產。十年教訓。自可足食足兵四海免蠶食之患。百姓知威福所自。則妖妄之風息而淳朴之化還也。且古今忠諫鮮不逮禍。近北齊章仇子他獻言。僧尼縻損國家。塔寺虛費金帛。為諸僧尼附會宰相依託妃主陽讒陰謗。子他卒死都市。及周武入齊首封其墓。臣雖不敏竊希其踪。疏奏。不報。
(丙戌) 九年太史令傅奕。前後七上疏請除罷釋氏。詞皆激切。帝春秋高而優柔無斷。頗信之。以其疏付群臣雜議。大臣皆言佛法興自累朝。弘善遏惡冥助國家。理無廢棄。獨太僕卿張道源。附奕稱其奏合理。宰相蕭瑀廷斥奕曰。佛聖人也。奕為此議非聖人者無法。請寘嚴刑。奕曰。禮本於事親。終於事君。此則忠孝之禮著。臣子之道成。佛逾城出家逃背其父。以匹夫抗天子。以繼體悖所親。瑀非出於空桑。而反尊無父之教。臣聞非孝者無親。瑀之謂矣。瑀曰。地獄正為此人設也(已上見舊唐史)。
(四) 帝復以奕疏。頒示諸僧問。出家於國何益。時法師法琳者。姓陳氏。頴川人。祖因從宦寓襄陽。後住長安齊法寺。作破邪論二卷。博引圖史及道教經籍。大略申明佛教。徹萬法之源。而孔老立言。特域中之治。未陽遠塗。非盡究竟之理。凡出家者。守志明道。弘善興福。啟迪昏迷利國非淺。法師明概作決對奕謗佛僧事八條。法師惠乘作辯正論。十喻九箴。破道士李仲卿十異九迷之謬。琳等奉表奏上。并致啟秦王。而門下典儀李師政。著內德論三篇。開陳佛化之益。仍自序而進之。其詞曰。若夫十力調御。運法舟於苦海。三乘汲引。坦夷途於火宅。勸善進德之廣。七經所不逮。戒惡防患之深。九流莫之比。但窮神知化。其言宏大而可驚。去惑絕塵厥軌清邈而難蹈。華夷仕庶朝野文儒。各附所安鮮味斯道。自非研精以考真妄。沈思而察苦空。無以立匪石之信根。去若亡之疑。蓋遠則淨名妙德。弘道勝而服勤。近則天親龍樹。悟理真而敦悅。羅什道安之篤學。究玄宗而益敬。僧睿惠遠之歸信。迄皓首而彌堅。邁士安之淫書。甚宣尼之翫易。千金未足驚其視。八音不能改其聽聞之博而樂愈深。思之深而信彌篤。皆欲罷而不能。則其非妄也必矣。我皇誕膺天命弘濟區宇。覆等蒼旻載均厚地掃氛祲清八表救塗炭寧兆民。五教惟敷九功惟敘。總萬古之徽猷。改百王之餘弊。網羅庶善。崇三寶以津梁芟夷群惡。迸四部之稊莠。遵付囑之遺旨。弘紹隆之要術。功德崇高昊天罔喻。但縉紳之士祖述多途。各師所學異論蠭起。或謂三王無佛而年永。二石有僧而政虐。損化由於奉佛。益國在於廢僧。苟明偏見未申通理。博考興王足證浮偽。何則亡秦者胡亥。時無佛而土崩。興佛者漢明。世有僧而國治。周除佛寺。而天元之祚未永。隋弘釋教。而開皇之令無虐盛衰由布政。治亂在庶官。歸咎佛僧實非通論。且佛唯弘善。不長惡於臣民。戒本防非何損治于家國。若人人守善家家奉戒。則刑罰何得而廣。禍福無由而作。騏驥雖駿不乘無以致遠。藥石徒豐未餌焉能愈疾。項籍喪師。非范增之無算。石氏興虐。豈浮圖之不仁。但為違之而暴亂。未有遵之而凶虐。由此觀之。亦足明矣。復有謂正覺為妖神。比淨居於淫祀。訾而謗之。無所不至。聖朝勸善。立伽藍以崇福。迷民興謗。反功德以為尤。此深訕上。非徒毀佛。愚竊撫心而太息。所以發憤而含毫者也。忝賴皇恩預霑法雨。切磋所惑積稔於茲。信隨聞起。疑因解滅。昔甞苟訾而不信。今則篤信而無毀。近推諸己廣以量人。凡百輕毀而弗欽。皆為討論之未究。若令探賾索隱。功齊於澄什。必皆深信篤敬。志均於名僧矣。師政學匪鉤深識不臻妙。少有所聞微去其惑。謹課庸短著論三篇。辨惑第一明邪正之通蔽。通命第二辨殃慶之倚伏。空有第三破斷常之執見。覈之以群言。考之以眾善。上顯聖朝之淨福。下析淫祀之虛非。徒有斯意實乏其材。屬詞鄙陋援證膚淺。雖竭愚勤何宣聖德。庶同病於未愈者。聞淺譬而深悟也。如藩籬之卉。或蠲疾於腹心。藜藿之飡。儻救餒於溝壑。若金丹在目玉饌盈。桉顧瞻菲薄良足陋矣。內德論辨惑篇第一。其略曰。有辨聰書生。謂忠正君子曰。蓋聞釋迦生於天竺。修多出自西胡。名號無儔於周孔。功德靡稱於典謨寔遠夷所尊若。非中夏之師儒。逮攝摩騰之入漢。及康僧會之游吳。顯舍利於南國。起招提於東都。自茲厥後乃尚浮圖。沙門盛洙泗之眾。精舍類王侯之居。既營之于[塽-(爻*爻)+((人/人)*(人/人))]塏。又資之以膏腴。擢修幢而曜日。擬甲第而當衢。王公大臣助之以金帛。農商富族施之以田廬。其福利之焉在。何遵崇之有餘也。未若銷像而絕鑴鑄。貨泉可以無費。毀經以禁繕寫。筆紙不為之貴。廢僧以從編戶。益黍稷之餘稅。壞塔以補不足。廣賑恤之仁惠。欲詣闕而効愚忠。上書而獻斯計。竊謂可以益國而利民矣。吾子以為何如乎。忠正君子曰。是何言之過歟。余昔篤志於儒林。又措心于文苑。頗同吾子之言論。良由聞法之遲晚。賴指南以去惑。幸失途之未遠。每省過而責躬。則臨飡而忘飯。子若博考而深計。亦將悔迷而知返矣。竊聞有太史令傅君者。又甚於曩日之惑焉。內自省於昔迷。則十同其五矣。請辯傅君之惑言。以釋吾子之邪執。傅謂佛法本出於西胡。不應奉之於中國。余昔同此惑焉。今則悟其不然矣。夫由余出自西戎。輔秦穆而開伯業。日磾生於北狄。侍漢武而除危害。臣既有之。師亦宜爾。何必取其同俗而捨於異方乎。師以道大為尊。無論於彼此。法以善高為勝。不計於遐邇。若夫尚仁為美去欲稱高。戒積惡之餘殃。勸為善以邀福。百家之所同。七經無以易。但褊淺而未深至。齷齪而不周廣。其恕己及物。孰與佛之弘乎。其覩未知本。孰與佛之遠乎。其勸善懲惡。孰與佛之廣乎。其明空析有。孰與佛之深乎。由此觀之。其道妙矣。聖人之德。何以加焉。豈得生於異域而賤其道。出於遠方而棄其寶。夫絕群之駿。非唯中邑之產。曠世之珍。不必諸華之物。漢求西域之名馬。魏收南海之明珠。貢犀象之牙角。採翡翠之毛羽。物生遠域尚於此而為珍。道出遐方獨奈何而可棄。若藥物出於戎夷。禁呪起於胡越。苟可以蠲邪而去疾。豈以遠來而不用之哉。夫滅三毒以證無為。其蠲邪也大矣。除八苦而致常樂。其去疾也深矣。何得拘夷夏而計親疎乎。況百億日月之下。三千世界之內。則中在於彼域。不在此方矣。傳計詩書所未言。以為修多不足尚。余昔同此惑焉。今又悟其不然矣。夫天文曆象之祕奧。地理山川之卓詭。經脈孔穴之診候。針藥符呪之方術。詩書有所不載。周孔未之明言。然考之吉凶有時而徵矣。察其行用而多効矣。且又周孔未言之物。蠢蠢無窮。詩書不載之法。茫茫何限。信乎書不盡言。言不盡意。何得拘六經之局教。而背三乘之通旨哉。夫能事未興於上古。聖人開務於後世。故棟宇易橧巢之居。文字代結繩之制。飲血茹毛之饌。則先用而未珍。火化粒食之功。雖後作而非弊。彼用捨之先後。非理教之通蔽。豈得以詩書早播而得隆。修多晚至而當替。人有幼噉藜藿長飯粱肉。少為布衣老遇侯服。豈得以藜藿先獲謂勝粱肉之味。侯服晚遇不如布衣之貴乎。萬物有遷三寶常住。寂然不動感而遂通。化身示隱顯之迹。法體絕興亡之數。非初誕於王宮。不長逝於雙樹。何得論生滅于赴感。計修促于來去乎。傅氏譽老子而毀釋迦。讚道書而非佛教。余昔同此惑焉。今又悟其不然矣。夫釋老之為體。一而不二矣。同蠲有欲之累。俱顯無為之宗。老氏明而未融。釋典言臻其極。道若果是佛。固同是而無非。佛若果非道。亦可非而無是。理非矛盾之異。人懷向背之殊。既同眾狙之喜怒。又似葉公之愛畏。至如柱下道德之旨。漆園內外之篇。雅奧而難加。清高而可尚。竊甞讀之。無間然矣。豈以信奉釋典而苟訾之哉。抑又論夫死生無窮之緣。報應不朽之旨。釋氏之所創明。黃老未之言及。不知今之道書何因類於佛典。論三世以勸刑。出九流之軌躅。若目覩而言之。則同佛而等其照。若耳聞而放之。則師佛而遵其說。同照則同不當非。相師則師不可毀。譽道而非佛。何謬之甚哉。傅云。佛是妖魅之氣寺為淫邪之祀。此其未思之甚也。妖唯作㜸。豈弘十善之化。魅必憑邪。寧興八正之道。妖猶畏狗。魅亦懼猫。何以降帝釋之高心。摧天魔之神力。又如圖澄羅什之侶。道安惠遠之儔。高德高名。非醉非狂。豈容捨愛辭榮求魑魅之邪道。勤身苦節事魍魎之妖神。又自昔東漢至我大唐。代代而禁妖言處處而斷淫祀。豈容捨其財力放其士民。營魑魅之堂塔。入魍魎之徒眾。又有宰輔冠蓋人倫羽儀王導庾亮之徒。戴逵許詢之輩。置情天人之際。抗迹煙霞之表。並稟教而歸依。皆厝心以崇信。豈容尊妖奉魅以自屈乎。良由覩妙知真使之然耳。又傅氏之先。毅字武仲。高才碩學世號通人。辯顯宗之祥夢。證金人之冥感。釋道東被毅有功焉。竊揆傅令之才識。未可齊於武仲也。何為毀佛謗法。與其先之反乎。吳尚書令闞澤對吳主孫權曰。孔老二家比方佛法優劣遠矣。何以言之。孔老設教。法天以制用。不敢違天。諸佛說法。天奉而行。不敢違佛。以此言之。實非比對。愚謂闞子斯論知優劣之一隅矣。凡百君子可不思其言乎。夫大士高僧。觀於理也深矣。明主賢臣。謀於國也忠矣。而歷代寶之以為大訓何哉。知其窮理盡性道莫之加故也。傅氏觀不深於名僧。思未精於前哲。獨師心而背法。輕絕福而興咎。何其為國謀而不忠乎。為身慮而不遠乎。大覺窮神而知化。深觀過患而豫防。惟可齡之易盡嗟五福而難常。命川流而電逝。業地久而天長。三塗極迍而杳杳。四流無際而茫茫。憑法舟而利濟。藉信翮以翱翔。宜轉咎而為福。何罔念而作狂也。傅云趙時梁時皆有僧反。況今天下僧尼二十萬眾。此又不思之言也。若以昔有反僧而廢今之法眾。豈得以古有叛臣而棄今之名士。隣有逆兒而逐己之順子。皆有亂民而不養今之黎庶乎。夫普天之下出家之眾。非雲集於一邑。實星分於九土。攝之以州縣。限之以關河。無徵發之威權。有憲章之禁約。縱令三五兇險一二闡提。既無緣於烏合。亦何憂於蟻聚。且又沙門入道。豈懷亡命之謀。女子出家。寧求帶甲之用。何乃混計僧尼之數。當同梟鏡之黨架虛以亂真。蔽善而稱惡。君子有三畏。豈當如是乎。夫青衿有罪。非關尼父之失。皂服為非。豈是釋尊之咎。僧干朝憲。尼犯俗刑。譬誦律而穿窬。如讀禮而驕倨。但以人稟頑嚚之性而不遷於善。非是經開逆亂之源而令染於惡。人不皆賢。法實惟善。何因怒惡而反善。咎人而棄法。若夫口談夷惠而身行桀蹠。耳聽桀蹠而口廢詩禮。然則人有可誅之罪。法無可廢之過。但應禁非以弘法。不可以人而賤道。竊篤信于妙法。不苟黨於沙門。至於耘稊稗以殖嘉苗。肅奸危以清大教。所深願矣。所深願矣。傅云。道人土梟皆是貪逆之惡種。此又不思之言也。夫以捨俗修道。故稱道人。學道離貪逆。若云貪菩提道逆生死流。則僖子興言未及斯旨。觀沙門之律行也。行人所不能行。止人所不能止。具諸釋典可得而究。蠕動之物猶不加害。況為梟鏡之事乎。嫁娶之禮尚捨不為。況為禽獸之心乎。何乃引離欲之上人。匹聚塵之下物。援有道之賢俊。比無知之庶類。毀大慈之善眾。嫓不祥之惡鳥。謂道人為逆種。以梵行比獸心。害善一何甚乎。反正頓如此乎。余昔每引孝經之不毀傷。以譏沙門之法去鬚髮謂其反先王之道。失忠孝之義。今則悟其不然矣。若夫事君親而盡節雖殺身而稱仁。虧忠孝而偷存。徒全膚而非義。論美見危而致命。禮防臨難而苟免。何得一概而訶毀傷雷同而顧膚髮。割股納肝傷則甚矣。剔鬚落髮損乃微焉。立忠不顧其命。論者莫知咎。求道不愛其毛。何獨以為過。湯恤烝民。尚焚軀以祈澤。墨敦兼愛欲磨足而至頂況夫上為君父深求相利。須髮之毀何足顧哉。夫聖人之教。有殊途而同歸君子之道。或反經而合義。則泰伯其人也。廢在家之就養。託採藥而不歸。棄中國之服章。依剪髮以為飾。反經悖禮莫甚於斯。然而仲尼稱之曰。泰伯可謂至德矣。其故何也。雖迹背君親。而心忠於家國。形虧百越。布德全乎三讓。故泰伯棄衣冠之制。而無損於至德。則沙門捨縉紳之容。亦何傷乎妙道。雖易服改貌。違臣子之常儀。而信道歸心。願君親之多福。苦其身意。修出家之眾善。遺其君父。延歷劫之深慶。其為忠孝不亦多乎。浪謂沙門為不忠。未之信矣。傅又云。西域胡人因埿而生。是以便事埿瓦。此又未思之言也。夫崇立靈像摸寫尊形。所用多塗。非獨埿瓦。或彫或鑄。則以鐵木金銅。圖之繡之。亦在丹青縑素。復謂西域士女遍從此物而生乎。且又中國之廟以木為主。則謂制禮君子皆從木而育邪。親不可忘。故為之宗廟。佛不可忘。故立其形像。以表罔極之心。用申如在之敬。欽聖仰德何失之有哉。夫以善為過者。故亦以惡為功矣。傅又云。帝王無佛則國治年長。有佛則政虐祚短。此又未思之言也。則謂能仁設教。皆闡淫虐之風。菩薩立言。專弘桀紂之事。以實論之。殊不然矣。夫殷喪大寶。災興姐已之言。周失諸侯禍由褒姒之笑。三代之亡。皆此物也。三乘之教。豈斯尚乎。佛之為道慈悲喜捨。齊物而等怨親。與安樂而救危苦。古之所以得其民者。佛既弘之矣民之所以逃其上者。經甚戒之矣。羲軒舜禹之德。在六度而苞籠。羿浞癸辛之咎。總十惡以防禁。向使桀遵少欲之教。紂順大慈之道。伊呂無以用其謀。湯武焉得行其計。可使鳴條免去國之禍。牧野息倒戈之亂。夏后從洛汭之歌。楚子違乾溪之難。然則釋氏之化。為益非小。延福祚於無窮。遏危亡於未兆。傅謂有之為損。無之為益。是何言與。是何言與。佛何讐而誣之至此。佛何負而疾之若讐乎。傅又云。未有佛法之前。人皆淳和世無篡逆。此又未思之言也。夫九黎亂德。豈非無佛之年。三苗逆命。非當有法之後。夏殷之季何有淳和。春秋之時寧無篡逆。寇賊奸宄。作士命於皐陶。玁狁孔熾。蕩伐勞於吉甫。而傅謂佛興篡逆。盜法佛猶戒之。豈長篡逆之亂乎。一言之競佛亦防之。何敗淳和之道乎。惟佛之為教也。勸臣以忠。勸子以孝。勸國以治。勸家以和。弘善示天堂之樂。懲非顯地獄之苦。不唯一字以為褒。豈止五刑而作戒。乃謂傷和而長亂。不亦誣謗之甚哉。亦何傷於佛日乎。但自淪於苦海矣。輕而不避。良可悲夫。於是書生心伏而色愧。避席而謝曰。僕以習俗生常違道自佚。忽於所未究。翫其所先述。背正法而異論。受邪言以同失。今聞佛智之玄邃。乃知釋教之忠質。豁然神悟而理攄。足以蕩迷而祛疾。雖從邪於昔歲。請歸正於茲日。謹誦來戒以為口實矣。
論曰。昔司馬文正公。譏元魏崔浩昧於擇術。若傅令者。不善擇術尤可數也。方天意大啟唐祚。而太宗以大權聖人示現出世。為千載道德盛明之主。豈易遇哉。有文中子者。身任百世師儒。出河汾間。凡太宗一時宰輔。若凌煙閣上諸公。皆北面稱師。受王佐之道。當是時使傅令稍知向方。預出王氏之門。則其施設縱非公台之任。亦不失為名卿才大夫。徒以卜史占候下技。位貌既卑無以自逞。乃以夙昔私憾。謗黷大教。規竊聲譽。及太宗登位。天下文明諸公雍容廟堂。論道經邦制禮作樂。雖堯舜之運。亡以加也。此時奕之學素荒而伎且索矣。抱慚自廢于家。其無聊而斃也可知矣。妙哉李君內德論。熟覽之蓋天下精識讜論也。其通命一篇。以儒所謂命釋所謂業。原始要終合而通之。尤為警絕。惜辭多未能具載云。
是歲夏四月。太子建成秦王世民。怨隙已成將興內難。而又邊境屢優軍國務殷。傅奕妄生毀佛。乞行廢教之請復云云未決。及法琳等諸僧著論辨之。合李黃門內德論。同進之于朝。帝由是悟奕等譽道毀佛為協私。大臣不獲已。遂兼汰二教而施行焉。五月辛巳。詔曰。
(五) 釋迦闡教清淨為先。遠塵離垢除去貪欲。所以弘宣勝業修植善根。開導愚迷津梁庶品。是以敷演經教檢括學徒。調懺身心捨諸染著。衣服飲食咸資四輩。自大覺遷謝道法流行。末代陵遲漸以虧損。乃有猥殘之侶規自尊高。游墮之民苟辟徭役。妄為剃落託號出家。嗜欲無厭營求不已。致有出入閭里周旋闤闠。驅策畜產聚積貨財。耕織為生沽販為業。事同偏戶迹等齊人。進違戒律之文。退無禮典之訓。或有躬行劫掠身自穿窬。造作奸訛交通豪猾。每罹憲網自蹈重刑。瀆玷真如虧損妙法。譬夫稂莠有穢嘉苗。類若淤泥混乎清水。又伽藍之地本曰淨居。栖心之所理尚幽清。近代以來多立寺舍。不求間曠之地。唯趨諠雜之方。繕綵崎嶇甍宇殊錯。拓舛隱慝誘納奸邪。或有接延䣑邸隣近屠沽。塵埃滿室腥羶盈路。徒長輕薄之心。有虧崇敬之義。且老氏垂化本實冲虛。養志無為違情外物。全真守一是謂玄門。驅馳世務尤乖宗旨。朕應期御宇興隆教法。志思利益情在護持。欲使玉石區分薰蕕有辨。長存妙道永固福田。正本澄源宜從沙汰。諸僧尼道士女冠。有精勤練行守戒律者。並令就大寺觀居止。供給衣食不令乏短。其不能精進無行業。弗堪供養者。並令罷道各還桑梓。所司明為條式務依教法。違制之坐悉宜停斷。京城留寺三所觀二所。其餘天下諸州各留一所。餘悉毀之。六月四日。秦王以府兵平內難。高祖以秦王為皇太子。付以軍國政事是月癸亥大赦天下。停前沙汰二教詔。甲子高祖遜于位。稱太上皇。太子即位于東宮。是為太宗。
(六 丁亥) 太宗文皇帝世民改貞觀(高祖次子。厥性仁賢。輕財重義。隋末起義兵。高祖謂之曰。破家亡軀由汝。化家為國亦由汝焉。肇興唐室。皆太宗之功也。武德九年太子建成齊王元吉死。八月受禪即位。制體作樂選賢任良。與公卿大臣論議政事。吞蝗以整年穀之凶。其叡德如此。用魏徵李靖房玄齡杜如晦等諸賢為相。慰遲敬德劉文靖為將。在位二十三年)。
(七) 帝對群臣太息曰。今大亂之後。其難治乎。魏徵對曰。大亂之治譬飢人之易食。帝曰。古不云乎。善人為邦百年而後勝殘去殺。徵曰。此不為聖哲之論。聖哲之治其應如響。蓋不其難。僕射封德彝曰。不然。三代之澆詭日滋。秦任法律漢雜覇道。皆欲治而不能。非能治而不欲。徵書生好虛論徒亂國家不足聽。徵曰。五帝三王不易民而教。行帝道而帝。行王道而王。顧所行何如耳。黃帝戰蚩尤。七十而戰勝其亂。因致無為。九黎害德。顓頊征之。既克而治。桀為亂。湯放之。紂無道。武伐之。湯武身及太平。若人漸澆詭不復撲。今當為鬼為魅。尚安得而化之哉。德彝不能對。然復以為不可。帝雅以徵對為然。他日帝甞召傅奕。賜之食而謂曰。佛道微妙聖迹可師。且報應顯然屢有徵驗。汝獨不悟其理何也。奕曰。佛是西方桀黠欺詸夷狄。及流入中國。尊尚其教皆邪僻纖人。摸寫莊老玄言飾其妖妄。無補於國家。有害於百姓。帝惡其言不答。自是終身不齒。
(己丑) ○放宮女三千。
(八) 七月蝗害稼。帝在苑中掇蝗而言曰。民以穀為命。而汝害之。是害吾民也。百姓有過在予一人。汝而有靈。當食朕身無害吾民。將吞之。左右恐致疾遽求代。帝曰。所貴移災朕躬。何疾之避。遂吞之。由是終帝世蝗不為害。冬十二月癸酉。詔曰。有隋失道九服沸騰。朕親總見戎致茲明罰。其有桀犬嬰此湯羅。銜鬚義憤終乎握節。各狥所奉咸有可嘉。日往月來逝川斯遠。切恐九泉之下向淪鼎鑊。八難之間永纏氷炭。愀然疚懷無忘興寢。所以樹立福田濟其營魄。可於建義以來交兵之處為義士凶徒殞身戎陣者各建寺剎招延勝侶。望法鼓所振。變災火於青蓮。清梵所聞。易苦海於甘露。所司量定處所。并立寺名支配僧徒。及修院宇。具於事條以聞。稱朕矜哀之意。仍命虞世南李伯樂褚遂良顏師古岑文本許敬宗朱子奢等。為碑銘以紀功業(已上見舊史)。
(庚寅) ○禁笞背法。
十月天下斷獄。死罪二十有九人。東南薄海。西極于嶺。北窮玄塞。戶不夜閉。旅不齎糧。取給於路。米斗三錢。天下大治。蠻夷君長衣冠帶刀宿衛。帝喜謂群臣曰。此魏徵勸朕仁義之効也。惜不令封德彝見之。因追念初平天下時。手誅千餘人不及享太平。即以御服施諸寺。命僧禮懺薦擢焉。
(辛卯) 詔僧尼拜父母。
(壬辰) ○縱死囚四百還家。
(九 癸巳) 七年。三藏法師玄奘。游天竺求法。達于王舍城。奘生洛州偃師陳氏。隋季出家具戒。博貫經籍。每慨前代譯經多所訛略。志游西土訪求異本以參訂焉。以三年冬抗表辭帝。制不許。即私遁自原州出玉關抵高昌。高昌王麴文泰奉奘行資。護送達于罽賓。從僧伽論師決俱舍因明。大毘婆沙等論。至大林國。從婆羅門學中論及異道典籍。時婆羅門七百餘歲。至僕底國。從伏光法師學對法宗顯理門等論。至那伽羅國。從月胄論師學眾事分毘婆沙。至祿勒那國從闍那屈多三藏學經部毘婆沙及薩婆多部辨真等論。至麴闍國從毘邪犀那三藏學二毘婆沙。王有勝兵十萬雄冠西域。奘與胡商八十許人渡殑伽河。彼俗以人祀天。奘與諸商被執。以奘風度特異。將戮以祭。俄大風作塵沙漲天晝日晦暝。彼眾震懼。以奘為聖人。遂釋之。至中天竺。遇大乘居士。為奘開瑜伽師地。即入王舍城。彼預聞奘至。具禮郊迎之。安置那蘭陀寺。寺七寶所成。僧以萬數。奘見上方戒賢論師。時春秋一百有六。道德為西土宗師。號正法藏。國主以十城租賦奉之。奘啟以求法意。賢咨嗟流涕曰。吾頃疾病且死。忽夢文殊大士謂吾曰。汝未應厭世。後三年震旦有大沙門。從女受道。自爾已來今三稔矣。於是慰喜交集。有同宿契焉。奘見王。王給象車從者三十輩。日供上饌。饌有龍腦香乳蘇蜜及大人米。米香聞百步。然國產不多。唯君長與后。及主法上德與焉。奘寓其國。從正法藏窮探大乘祕奧。日益智證云。
(十 乙未) 九年十月法師玄琬卒于延興寺。遺表陳。聖帝明王賞罰三寶不濫痛愍。沙門犯法不應與民同科。乞付所屬以僧律治之。并上安養論三德論各一卷。帝嘉納。有詔傷悼。遣皇太子臨弔。勅有司給葬具。唐勅葬沙門由琬而始。
(十一) 十一月。詔曰。三乘結轍濟度為先。八正歸依慈悲為主。流智慧之海膏澤群生。剪煩惱之林津梁品物。任真體道理叶至仁。妙果勝因事符積善。朕欽若金輪恭膺寶命。至德之訓無遠不思。大聖之規無幽不察。欲使人免蓋纏。家臻仁壽。比緣喪亂僧徒減少。華臺寶塔窺戶無人。紺髮青蓮櫛風沐雨。眷言凋毀良用憮然。其天下諸州有寺之處宜度僧尼。數以三千為限。其州有大小地有華夷。當處所度多少有司詳定務取德業精明。其往因減省還俗。及私度白衣之徒。若行業可稱通在取限。必無人可取。亦任其開數。比聞多有僧徒溺於流俗。或假託鬼神妄傳妖怪。或謬稱醫巫左道求利。或灼鑽膚體駭俗驚愚。或造詣官曹囑致贓賄。凡此等類大虧聖教。朕情在護持。必無寬貸。自今宜令所司依附六律。
(十二 丙申) 參以金科明為條制。十年皇太子問張士衡曰。事佛營福其應如何。對曰事佛在清淨仁恕。如貪惏驕虐。雖傾財事之無損於禍。且善惡必報若影赴形。聖人之言備矣。為君明。為臣忠。為子孝。則福祚永。反是則禍至矣。時太子有逆志。故士衡因對以箴之。
(十三 丁酉) 帝幸洛京下詔曰。老君垂範義在清虛。釋迦貽則理存因果。求其教也。汲引之迹殊途。論其宗也。弘益之風各致。然大道之興肇于遂古。源出無名之始。事高有形之外。況是國家先宗。宜居釋氏之右。自今已後齋供行位至於稱謂。道士女冠可在僧尼之前。庶敦返本之俗。暢於九有。貽於萬葉。京邑沙門各陳極諫。有司不納。時有沙門智實者。洛下賢僧也。丰度雋頴內外兼明。携諸宿德隨駕表奏於關口。其略曰。僧某等言。年迫桑榆。始逢太平之世。貌同蒲柳。方值聖明之君。竊聞父有諍子。君有諍臣實等雖在出家。仍在臣子之列有犯無隱。敢不陳之。伏見詔書。國家本繫出自柱下。宗祖之風形於前典。頒告天下無德而稱。今道士在僧尼之上。奉以周旋。豈敢拒詔。尋其老君垂範治國治家。所佩服章初無改易。不立觀宇不領門人。處柱下以全真。隱龍德而養性。今道士等不遵其法。所著冠服並是黃巾之徒。實非老子之裔。行三張之鬼術。棄五千之玄言。反同張陵。謾行章醮。從漢以來常以鬼道化於浮俗。妄托老君之後。即是左道之苗。若在僧尼之上。誠恐國家同流有損國化。遂以道經及漢魏諸史佛先道後之事。具陳如左。帝壯其志於教。遣宰相岑文本諭旨遣之。實固執不奉詔。帝震怒。杖實于朝堂。民其服流之嶺表。而卒。年三十有八。初實得罪。有譏其不量進退者。實曰。吾固知已行之詔不可易。所以爭者。欲後世知大唐有僧耳。聞者莫不歎惜。◎
◎(十四 戊戌) 十二年尚書虞世南卒。帝手勅魏王泰曰。虞世南與我猶一體也。拾遺補過無日暫忘。當代名臣人倫準的。吾有小失。必犯顏而諍之。今其云亡石渠東觀之中。無復人矣痛惜豈可言耶。未幾帝賦往代興亡詩一篇。輒歎惜曰。鍾子期死伯牙不復鼓琴。朕此詩將何所示。令褚遂良持詣世南靈帳讀畢焚之。冀其神識感悟焉。明年夢世南進讜言有如平生。因下詔曰。故禮部尚書文懿公虞世南。德行純備文為辭宗。夙夜盡心志存忠益。奄從物化忽移時序。昨因夜夢倏覩斯人。兼進讜言有若平生之日。追懷遺美良用悲悼。宜資冥福申朕思舊之情。可即其家齋五百僧造佛像一軀(出舊唐史本紀)。
(十五) 秋八月。詔三學秀異。於弘文殿論議。道士蔡子晃問法師惠淨曰。法華稱序品第一。未審序第何分。淨曰。如來入定放光現瑞假遠開近。為破二之鴻基。啟一真之由致。此其序也。第者為居。一者為始。故曰序品第一。晃難曰。第者弟也。為弟則不宜稱一。言一則不應稱弟。兩言矛盾。何以會通淨曰。向不云。第者為居。一者為始。先生不省名義。安能難人。晃忙亂曲為之詞。淨乘勝剉折。遂蒙慚而退。淨雅與房玄齡厚善尤為太常褚亮所敬。亮甞謂人曰。淨俯視安遠顧蔑生肇。真當世獨步也。及天竺三藏波頗那羅譯大莊嚴論。詔淨筆授。并勅趙郡王孝恭詹事杜正倫同監護。
(十六 己亥) 十三年。方士秦世英譖法師惠琳著論訕毀皇宗。有旨捕琳。琳知之變服自繫詣闕請譴。制旨曰。據爾論。有念觀世音者臨刑不傷。今詳罪犯當坐大辟。賜假七日。爾可勤念之。貴臨刑自免。琳奉制一無所念。至期詔問所念觀音感應如何對曰。隋季失德四海沸騰。陛下廓清寰宇道洽生靈。琳自七日已來。不念觀音唯念陛下。帝訝其言。遣御史韋琮問琳所以念朕之狀。對曰。觀音至聖垂形六道。上天下地皆為師救。陛下御臨宸極萬國歡心。文治至平靈鑒無外。聖與觀音齊等。所以唯念陛下。且琳挺志蓋弘宣釋氏之法以助皇化。冀民懼報應。畏刑罰而遠惡也。琳何求而敢訕謗哉。陛下察琳忠於所事。則所謂臨刑自免若唯讒是信。則琳伏尸無地。琮奏其語。有旨免刑流于益州(法師著辨正論八卷。為諸死于蜀百牢關。未幾秦世英被誅矣)。
(十七 庚子) ○定嫂叔甥舅服。
華嚴法師法順卒。順生杜氏。亦稱杜順。如晦族長也。長安萬年人。以陳永定二年生。少為隋文帝所重。給月俸供之。有病者。師對之危坐少頃即愈。或生而聾者。順召之與言耳即聰。或生而啞者。順就與之悟即能言。或狂而顛者。順使人領住向之禪定少選。彼即拜謝而去。又甞臨溪隨侍者懼不可濟。順率同涉。水即斷流。其神迹類如此。而順隤然初不以介意。尤邃華嚴宗旨。帝素敬重之。甞引入宮禁。導迎善氣妃主。戚里諸貴奉之有如生佛。集華嚴法界觀門弟子智儼尊者傳其教。
(十八) 傅奕感報。於十四年秋卒暴而亡冥報記曰。奕初與傅仁均薛蹟同司太史。仁均先死。蹟昔欠仁均錢五千未償。後夢仁均索討。蹟問先所欠錢當付與誰。仁均曰。付與埿人。又問。埿人者誰。曰傅奕也。是夕溤長命少府亦夢同焉。又多見先亡者。問佛經之虛實。彼曰。實也。曰傅奕毀法當受何報。彼曰。配越州埿人。長命入殿庭告蹟。蹟亦言如之。時有唐臨在側蹟送錢與奕。及告其夢。不數日奕果暴亡。或為埿犁中人也。
(十九) 相國蕭瑀字時文。梁明帝子也。九歲封新安王。國除入隋晉王妃實瑀姊。官右千牛。甞疾。不肯呼醫。自信天命。嘆曰。吾更餘年則從此遁矣。及晉王踐祚姊為后。聞其言。召責之以其不安小官。後病損拜內史侍郎。以直言事頗為煬帝憎。隋亂瑀出為河池郡守。唐高祖入關以書招之。因挈郡歸。封宋公。委以樞要。帝不名。呼為蕭郎。瑀家世貴胄。自武帝以來。皆奉佛清修。瑀及其孫勉精嚴尤甚。太宗即位屢入相。既而房杜得君事任稍分。瑀不能無少望。甞乞度為僧。帝許之。瑀尋度不能而止。事兩朝凡五入相位。年七十四薨。瑀性忠鯁雅薄福貴。善屬文。通儒柳顧輩皆高其才。唐史稱之曰。梁蕭氏興江左實有功在民。厥終無大惡。以寖微而亡。故餘祉及其後裔。自瑀逮遘。八葉宰相名德相望。與唐盛衰。世家之盛古未有也。
(二十 辛丑) 十五年五月戊辰。帝幸宏福寺。召大德道懿等五人賜座。諭以剏寺為專一追崇穆太后。言發涕零。懿及左右皆哽咽逡巡。自製疏施絹二百疋。自稱皇帝菩薩戒弟子。令回向罷。顧謂道懿等曰。頃以老子是朕先宗。故令名位在前。卿等應恨恨也。道懿曰。陛下尊祖宗降成式。懿等蒙荷國恩安閑學道。詔旨初下咸皆歡悅。詎敢有恨。帝曰。尊祖重親有生之大本。故先老子以別親疎之序。非不留心於佛也。自有國以來。未甞剏立道觀。凡有功德並歸僧舍。雖往日操戈臨陣。亦未始縱威濫殺。今所在戰場皆立佛寺。至於太原舊第亦以奉佛。朕存心如此。卿等想未諭也。道懿等遽起趨謝。帝曰。少坐。此是朕意。不述則人不知。天時向熱。寺宇未備。今所施可別造經寮令僧眾寬展行道。
(二十一 壬寅) 十六年。三藏玄奘法師。發王舍城入祇羅國國主郊迎之。已而問曰。而國有聖人出世。作小秦王破陣樂試為我言其為人。奘粗陳帝神武削平天下躬行堯舜之治。其王大驚。東向稽首曰我當朝覲與師偕行也。奘因出所撰制惡見論似之。王欽歎曰。此論一出。可謂日光既昇螢火奪明矣。即以青象名馬助奘馱經而還。
(二十二 癸卯) ○圖功臣於凌烟閣。
八月四日。原州松昌鴻池谷忽有五石。皆青質白文。成字曰。高皇海出多子李元王八十年太平天子李世民千年太子李治書燕山人士樂大國主尚汪譚獎文仁邁千古大王五王六王七王十風毛才子七佛八菩薩及上果佛田天子文武貞觀昌大聖延四方上不治示孝仙戈八為善。原州奏于朝。字初若不甚顯。及群公擬定。遂粲然明著。十一月辛卯。有事于南郊。詔遣使以玉帛詣原州鴻池谷祭之曰。嗣天子諱祚繼鴻業君臨㝢縣。宿興旰食無忘於政。道德齊禮愧於前修。天有成命表瑞徵符。文字粲然曆數惟永。既旌高廟之業。又錫眇身之祚。迨於皇太子治。亦降貞符。具紀李氏于石言。仰瞻宵漢空名大造。甫惟寡薄彌增寅懼。敢因大禮重薦玉帛。上謝冥靈之貺。以伸祗慄之誠。
(二十三 乙巳) 十九年正月丙子。法師玄奘齎經像歸于京師。留守房玄齡館于宏福寺。以表聞帝。壬辰奘如東都。二月己亥見于儀鸞殿。帝曰師去何不相報。對曰。當去時表三上。以誠願微淺。不蒙諒許。無任慕道之至。乃輟私行。專擅之罪惟深愧懼。帝曰。師出家與俗殊隔。能委命求法惠利蒼生。朕甚嘉焉固不煩為愧。但念山川阻遠方俗異心。怪師能達也。對曰。奘聞乘疾風者造天地而非遠馭龍舟者涉江海而不難。自陛下握乾符清四海。德籠九域仁被八區。淳風扇炎景之南。聖威震葱嶺之外。所以戎夷君長。每見翔雲之鳥自東來者。猶疑發於上國。斂衽而敬之。況玄奘圓頂方親承化育者耶。既賴天威。故得往還無難。帝曰。此長者之言。朕何敢當。因廣問雪嶺以西印度之境玉燭和氣物產風俗八王故迹七佛遺蹤。並博望之所不傳。班馬無得而載者。奘既親游其地。記憶無遺。隨問而對。皆有條理。帝大悅曰。師所經一百餘國。可盡掇其山川風俗。撰大唐西域記以遺後來。不亦美乎奘奉詔將罷。帝謂侍臣曰。昔符堅稱道安為神器。舉國遵敬朕觀法師。詞吐溫雅風節貞峻。非徒不愧古人。實過之遠甚。司徒長孫無忌曰。誠如明詔。道安雖高行博識。然弘法之功。固不如法師躬趨聖域討論眾妙究探宗極者矣。時車駕將問罪高麗。聞法師之還。期暫引見。及對談論不覺日莫。帝曰。匇匇言不盡懷。欲共法師東行。省方觀俗。指揮之暇。別更談敘可乎。對曰玄奘遠歸。兼有病疾。不堪陪駕。帝曰。師向能孤游絕域。今此行如跬步耳。尚何辭。對曰。陛下東征六軍奉衛。伐亂誅姦必有牧野之功昆陽之捷。玄奘無所裨助。虛負道路之費。且兵刃交戰。佛制沙門不得觀視。惟陛下矜察。帝嘉納而止。奘因奏西域所獲梵本經論凡六百五十七部。乞就嵩山少林寺為國宣釋。帝曰。朕頃為穆太后剏宏福寺。極為虛靜。可就彼翻譯。所須並與玄齡平章。奘因進曰。百姓無知見奘遠歸妄有窺看。不徒妨廢法務。兼慮不測之患。願得監門官以防釁隙。帝悅曰。此言可謂保身之計當為處分。及罷即別。有旨差官監護。
(二十四 丙午) 二十年七月辛卯。法師玄奘表上新譯菩薩藏經六門陀羅尼經顯楊聖教論大乘雜集論凡五部五十八卷。請帝為聖教序。降手勅曰。省書具悉雅意。法師夙標高行早出塵表。泛寶舟而登彼岸。搜妙道而闢度門。弘闡大猷蕩除眾罪。朕學淺心拙。在物猶迷。況佛道幽微。豈能仰讚。側請為序。非己所聞。奘重表請曰。伏奉墨勅猥垂獎諭。祗奉綸言精守振越。玄奘行業空疎謬參緇侶幸屬九瀛有截四海無虞憑皇靈以遠征。恃國威而訪道。窮遐冐險雖勵愚誠。纂異懷荒實資朝化所獲經論蒙遣翻譯。見成卷軸志有銓序。伏惟陛下睿思雲敷。天華景爛。理苞繫表調逸咸英。跨千古以飛聲。掩百王而騰實。切以神力無方。非神思不足銓其理。聖教玄遠。非聖藻何以序其源。故乃冐犯威嚴敢希題目。宸睠冲邈不蒙矜許。撫躬累息相顧失圖。奘聞。日月麗天。既分輝於戶牖。江河紀地。亦流潤於巖崖。雲和廣樂。不祕響於聾瞶。金玉奇珍。豈鞱彩於愚瞽。敢緣此理重有干祈。伏乞雷雨曲垂天文俯照。配兩儀而同久。與二曜而俱縣。然則鷲嶺微言。假神筆而弘遠。鷄園奧典。託英詞而宣揚。豈止區區梵眾獨荷恩榮。蠢蠢迷生方超塵累而已。制許之。
(二十五 丁未) ○作翠微宮於終南山。
是歲帝得祕讖云。唐三世而後女主武王代有天下。遂密召太史令李淳風訪其事。對曰。臣據術推之。其兆已成。今在陛下宮中矣。逾三十年當有天下。誅唐子孫殆盡。帝曰。疑似者殺之何如。對曰。天命不可易。且真王者不死。徒使疑似之戮淫及無辜。今既在宮。已是陛下眷屬。更三十年又當衰老。老則心慈。雖受終易姓。於陛下子孫或不甚損。今若戮之。即當復生少莊嚴毒。況又立讐則陛下子孫必無遺類。帝善其言而止。
(二十六 戊申) 二十二年六月。帝在玉華宮。召法師玄奘至。乃曰。朕在京苦暑。故就此宮。泉石既涼氣力稍佳。然憶法師故茲相屈。涉塗當大勞也奘謝曰。四海黎庶。依陛下而生。聖躬不安。則率土煌灼。伏聞。鑾輿至此御膳順宜。凡預含靈孰不無蹈。願陛下永保崇高。與天地無極。玄奘庸薄猥蒙齒召。銜荷而來。不覺為勞。帝以法師德業冲博儀表絕倫。欲令罷道共康庶政。因曰。昔三五帝王。靡不以六合務廣萬機事殷。不能遍理。故周憑十亂。舜託五臣。翼亮朝猷弼諧邦國。彼盛明之后且爾。況朕寡昧而不寄眾哲哉。意欲法師脫緇服掛纁衣。升鉉路以陳謀坐槐庭而論道。師意何如。對曰。玄奘微生伏奉明詔。稱三五之君不能獨治。寄諸賢哲共而成之。此陛下盛德含光謙讓之詞。在理則不爾也。何哉。使臣能至治。桀紂柏靈之君豈無臣耶。以此而言不必由也。伏惟陛下聖哲之治。一人紀綱萬事咸得其緒。況撫運已來。天地休平中外寧晏。皆陛下不荒不矜不麗不侈。兢兢業雖休勿休居安思危。為善承天之所致也。餘何預焉。請粗陳其梗概。陛下經緯八紘驅駕豪傑。戡定禍亂崇闡雍熙。聰明文思之德。體元合極之姿。皆天之所授。無假於人。一也。敦本棄末崇儒尚德。移澆風於季俗。反淳政於上古。賦遵薄制刑用輕典。九州四海稟識懷生。俱沐恩波咸遂安逸。此又聖心自化。無假於人。二也。至道旁通深仁遠洽。東逾日域西邁崑丘。南盡炎州北窮玄塞。彫題鼻飲之俗。卉服左衽之人。靡不候風瞻雨稽顙屈膝。獻琛貢寶充委夷邸。此又天威所感。無假於人。三也獫狁為患其來自久。五帝所不止。三王莫能制遂使渭河為被髮之野。酆鄗為鳴鏑之場。中國陵遲匈奴得逞。殷周已來不能攘弭至漢武窮兵衛霍盡力。雖收枝葉根本猶存。自是而後無聞良策。陛下御圖一征斯殄傾巢倒穴無復孑遺。澣海燕然之域。盡入提封。單于弓騎之人。俱充臣妾。若言由人。則虞舜已來賢輔多矣。何因不獲。故知有道斯得。無假於人。四也。高麗小蕃失禮上國。煬帝總天下之師三自征伐。攻城無傷半堞。掠卒不獲一人。虛喪六軍狼狽而返。陛下暫行提數萬騎。摧駐蹕之強陣。破遼蓋之堅城。振旅凱旋俘馘三十餘萬。用兵御將其道不殊。隋以之亡。唐以之得。故知由主無假於人。五也。天地交泰日月光華。和氣氤氳慶雲紛郁。五靈見質一角呈奇。白狼白狐朱雁朱草。昭章雜沓無量億千不可遍舉。皆應德而至。無假於人。六也。明詔乃欲比喻前王寄功十亂。切為陛下不取。總復須才。今亦伊呂多矣。
(二十七) 玄奘庸陋何足以預之。至於守戒緇門闡揚遺法。此其誠願。伏乞天慈終而不奪。帝大悅曰。師所陳並上玄垂祐。及宗廟之靈卿士之力。朕安能自致哉。師既欲敷揚妙道。亦不固違高志。中書令褚遂良曰。今四海廓清九域寧晏。皆陛下聖德。實如法師之言。帝笑曰。不如此。珍裘豈一狐之腋。大廈必眾材共成。何有君能獨濟。法師欲自全雅操。故濫相光飾耳。因問比譯何經。對曰。瑜伽師地論。帝曰。明何等此。對曰。此彌勒大士所造明十七地義。曰何謂十七地。奘曰。六識相應地。有尋有伺地。無尋唯伺地。無尋無伺地。三摩呬多地。有心地無心地。聞所成地思所成地。修所成地。聲聞地。獨覺地。菩薩地。有餘依地。無餘依地是為十七。及標舉綱目陳列大義。帝深愛焉。遣使取論入宮凡一百卷。帝自詳覽覩其詞義宏奧。非向所聞。謂侍臣曰。朕觀法師新譯經論。猶瞻天噉海莫極高深頃既軍國務殷。未暇委尋。今而後知宗源杳曠。顧儒道九流猶汀瀅之方溟渤耳。因勅有司揀祕書手寫新譯經論各九部。令宣賜九道總管展轉流布。冀率土之內同稟未聞之法。
司徒長孫無忌。中書令褚遂良。奏曰。佛教冲玄天人莫測。言本則甚深。語門則難入。伏惟陛下至道照明輝光昱日。澤霑遐界化溢中區。擁護五乘建立三寶。致法師當叔葉而秀質。閒千載而挺生。陟重險以求經。履危塗而訪道。見珍異俗具獲真文。歸國飜宣。若庵摩之始說。精文奧義。猶金口之新開。皆陛下聖德所感。臣等愚瞽預此見聞。苦海波瀾舟航有寄。況天慈廣遠使布之九州。蠢蠢黔黎俱飡妙法。臣等億劫忻逢。不勝慶幸。
(二十八) 六月。帝撰大唐三藏聖教序成。御慶福殿百官陪位。宣法師玄奘升殿賜座。勅弘文館學士上官儀。以序對群臣宣讀。霞煥錦舒極褒揚之美。其辭曰。蓋聞。二儀有像。顯覆載以含生。四時無形。潛寒暑以化物。是以窺天鑑地。庸愚皆識其端。明陰洞陽。賢哲罕窮其數。然而天地包乎陰陽而易識者。以其有象也。陰陽處乎天地而難窮者。以其無形也。故知像顯可徵。雖愚不惑形潛莫覩。在智猶迷。況乎佛道冲虛乘幽控寂。宏濟萬品典御十方。舉威靈而無上。抑神力而無下。大則彌於宇宙。細則攝於毫釐。無滅無生。歷萬劫而不古若隱若顯。運百福而長今。妙道凝玄。遵之莫知其際。法流湛寂。揖之莫測其原固知蠢蠢凡愚區區庸鄙。投其旨趣能無疑惑者哉。然則大教之興基於西土。騰漢庭而皎夢。照東域而流慈。昔者分形分迹之時。言未馳而成化。當常現常之世。民仰德而知遵。及乎晦迹歸真遷儀越世。金容掩色。不鏡三千之光。麗像開圖空端四八之相。於是微言廣被。拯含類於三塗遺訓遐宣。導群生於十地。然而真教難仰。莫能一其旨歸。曲學易遵。邪正於焉紛糾。所以空有之論。或習俗而是非。大小之乘。乍沿時而隆替。有玄奘法師者。法門之領袖也。幼懷貞敏。早悟三空之心。長契神情。先包四忍之行。松風水月。未足比其清華。仙露明珠。詎能方其朗潤。故以智通無累神測未形。超六塵而逈出。敻千古而無對。凝心內境。悲正法以陵遲。棲慮玄門。慨深文之訛闕。思欲分條析理廣彼前聞 截偽續真開茲後學。是以翹心淨土往游西域。乘危遠邁仗策孤征。積雪晨飛塗閒失地。驚沙夕起空外迷天。萬里山川潑烟霞而進影。百重寒暑。躡霜露而前蹤。誠重勞輕求深願達。周游西宇十有七年。窮歷異邦詢求正教。雙林八水味道飡風。鹿苑鷲峯瞻奇仰異。承至言於先聖。受真教於上賢。探賾妙門精窮奧義。一乘五律之道馳驟於心田。八藏三篋之文。波騰於口海爰自所歷之國。總將三藏要文凡六百五十七部。譯布中夏宣揚勝。業引慈雲於西極。注法雨於東垂。聖教闕而復全。蒼生罪而還福。濕火宅之乾焰。共拔迷途朗愛水之昏波同臻彼岸。是知惡因業墜善以緣升。升墜之端唯人所記。譬夫桂生高嶺。零露方得泫其華蓮出綠波。飛塵不能污其葉。非蓮性自潔而桂質本貞。良由所附者高則微物不能累。所憑者淨則濁類不能沾。夫以卉木無知。猶資善而成善。況乎人倫有識。不緣慶而求慶。方冀茲經流施。將日月而無窮。斯福遐敷。與乾坤而永大。於是御筆親書。綴于新經之首。法師奉表。謝曰。六爻探賾。局於生滅之場。百物正名。未涉真如之境。遠惟羲冊覩奧不測其神遐想軒圖歷選普歸其美。恭惟陛下玉毫降質金輪御天。廓先王之九州。掩百千之日月。廣利代之區域。納恒沙之法界。遂使給孤精舍盡入提封。貝葉靈文咸歸冊府。玄奘往因振錫聊謁崛山。經途萬里。怙天威如咫步。匪乘千葉。詣雙樹如食頃。搜揚三藏。盡龍宮之所儲。研究一乘。窮鷲嶺之遺旨。並已載於白馬還獻紫宸。尋蒙下詔勅使翻譯。玄奘識乖龍樹。謬忝傳燈之榮。才異馬鳴。深愧瀉瓶之敏。所譯經論紕舛尤多。遂荷天威留神製序。文超象繫之表。理括眾妙之門。忽以微生親聞梵響。踊躍歡喜如聞授記。無任感荷之極。手勅答曰。朕才謝珪璋言慚博達。至於內典尤所未聞昨製序文深慚鄙拙。穢翰墨於金簡。標瓦礫於珠林。忽得來書謬承褒讚。循躬省慮彌益厚顏。善不足稱虛勞致謝。
(二十九) 時皇太子覩聖序遂撰述聖記。法師進啟奉謝。帝復覽新譯菩薩藏經。愛其辭旨微妙。因詔皇太子撰菩薩藏經後序。其辭曰。蓋聞。羲皇至賾。精粹止於龜文。軒后幽通。雅奧窮於鳥篆。考丹書而索隱。殊昧實際之源。徵錄錯以研幾。蓋非常樂之道猶且事光圖史。振薰風於八埏德洽生靈。激堯波於萬代。伏惟陛下轉輪垂拱而化漸鷄園。勝殿凝旒而神交鷲嶺。總調御於徽號。匪文思之所窺。極般若於綸言。豈象繫之所擬。由是教覃溟表。咸傳八解之音。訓浹寰中。皆踐四禪之軌。遂使三千世界。盡懷生而可封百億須彌。入提封而作鎮。尼蓮德水。邇帝里之滄池。舍衛庵園。接上林之茂苑。雖復法性空寂。隨感必通。真乘深妙無幽不闡。所以大權御極。導法流而靡窮。能仁撫運。拂劫石而無盡。體均相具不可思議。校美前王。焉可同年而語矣。爰自開闡地限流沙。震旦未融靈文尚隱。漢皇精感。託夢想於玄宵。晉后翹誠。降修多於白馬。有同蠡酌。豈達四海之涯。取譬管窺。寧窮七曜之奧。洎乎皇靈遐暢。威加鐵圍之表。至聖發明德被金剛之際。恒沙國土普襲衣冠開解脫門踐真實路。龍宮梵說之偈。畢萃清室。猊吼貝葉之文。咸歸冊府。灑茲甘露普潤芽莖。乘此惠雲遍霑翾走豈非歸依之勝業。聖政之靈感者乎。菩薩藏經者。大覺義宗之要旨也。佛修此道已證無生。菩薩受持咸登不退。六波羅蜜關鍵所資。四無量心根力斯備。蓋彼岸之津涉。正覺之梯航者焉。貞觀年中身毒歸化。越熱坡而頒朔跨懸渡而輸琛。文軌既同道路無壅。法師玄奘振錫尋真。出自玉關長驅奈苑。於天竺力士生處。訪獲此經。歸而奏上。降旨翻譯。於是畢功。余以問安之暇。澄心妙法之寶奉述天旨微表讚揚。式命有司綴于卷末。帝自是情信日篤平章法義不輟於口。與法師相得之深。無時暫閒。凡衣服臥具頻詔換易。如家人焉。
(三十) 八月丙申。賜奘百金磨衲并寶剃刀。奘奉表謝。略曰。忍辱之服。彩合流霞智惠之刀。銛逾切玉。謹當衣以降煩惱之魔。佩以斷塵勞之網。帝自伐遼而還。氣力不逮平昔有憂生之慮。既遇法師留神大教稍遂平復。因問欲植法門之益何所宜先。奘對曰。眾生寢惑非惠莫啟。惠芽抽植法為之資。弘法須人即度僧為最帝悅。
九月乙卯。詔曰。隋季失御天下分崩。四海塗炭八埏鼎沸。朕屬當戡亂親履兵鋒。亟犯風霜宿于馬上。頃加藥餌猶未痊除。比日以來方遂平復。豈非福善之致耶。京城及天下諸州寺。各度僧五人(時天下寺三千七百餘所。度僧凡一萬七千餘人)。
(三十一) 十月車駕還京師。勅有司於北闕紫微殿西南剏弘法院。留奘居禁中。晝則陪御談論夜分就院譯經。
(三十二) 十二月。皇太子為文德皇后剏大慈恩寺成。詔選京城宿望五十大德。各度侍者六人。入居新寺。是月丙辰。太子備寶車五十乘。迎諸大德。并綵亭寶剎數百具奉安新獲梵夾諸經及瑞像舍利等。勅太常九部樂及長安萬年音樂京城諸寺。花旛導引入寺。帝御安福門樓。執爐致敬。經像過盡始罷。皇情大悅。
(三十三 己酉) 二十三年四月。帝幸翠微宮。法師玄奘陪駕。每談敘淵奧。帝必攘袂曰。與法師相值恨晚耳。未盡弘法之意。夏五月不豫。詔太尉長孫無忌中書令褚遂良入臥內。囑曰公等忠烈著在朕心。昔漢武託霍光。劉備囑諸葛亮。朕之後事一以委卿。太子仁孝。必須盡誠輔導永保社稷。無忌等叩頭流涕。帝復執太子手曰。無忌遂良在。國家事汝無憂矣。是年崩于含風殿年五十有三。
(三十四) 唐史贊曰。甚矣至治之君不世出也。禹有天下傳十有六王。而少康有中興之業。湯有天下傳二十八王。而其甚盛者號稱三宗。武王有天下傳三十六王。而成康之治與宣之功。其餘無所稱焉。雖詩書所載有時闕略。然三代千有七百餘年。傳七十餘君。其卓然著見於後世者。此六七君而已。嗚呼可謂難得也。唐有天下傳世二十。其可稱者三君。玄宗憲宗皆不克其終。盛哉太宗之烈也其除隋之亂。比迹湯武。致治之美。庶幾成康。自古功德兼隆。由漢以來未之有也。至其牽於多愛。復立浮圖。好大喜功勤兵於遠。此中材庸主之所常為。然春秋之法常責備於賢者。是以後世君子之欲成人之美者。莫不歎息於斯焉。
論曰。君子謂立言之難其實非難。特為好惡所欺耳。如歐陽文忠公作太宗本紀贊。雖筆高語奇傑出諸史。至貶太宗復立浮圖好大喜功勤兵於遠類中材庸主所為而不取。予謂文忠責備之深。而為好惡所欺也。方貞觀之世。天下昆蟲草木咸被其澤。至於日月霜露所至之國。皆欵關而修職直。獨高麗莫離支叛逆阻命。太宗身任千載道德英雄之主。其肯坐視之。留為子孫憂。而不少假經略乎。蓋其威德之盛。其勢之必然。非好大喜功之謂也。昔黃帝平蚩尤。七十戰而勝其亂。高宗伐鬼方。三年而後克。太宗舉偏師而陰山平。臨駐蹕而高麗服。然黃帝高宗。經孔子而未甞少貶。文忠特以為太宗之疵。庸詎非責備之過與。以太宗盛德大業如此。猶曲貶之將恐後之君子。懷免貶之難而無意於功名也。文忠徒欲高尚其事。而不知此亦自蹈好大之失。矣至於復立浮。圖乃所以和順道德。而齊天地鬼神之心。以開濟天下後世之人。為無窮之益也。文忠以為不當。則是太宗暗於取舍矣。使太宗果暗於此。則當時房杜王魏之流。亦因循戶祿而暗於取舍者耶。或曰。文忠慕韓愈為人。故不得不爾。嗚呼文忠何忍哉。慕人毀佛而兼棄太宗之道德。是不為好惡所欺耶。孔子立名教者也。老氏則非毀之。及孔子刪禮。則曰。吾聞諸老聃云。然孔子亦以人而廢言乎。亦若世情之好惡耶。況真佛也者耶。聖凡本有之體。毀之乃所以自毀之也。詎傷於真佛哉。甞聞文忠一昔夢。為勇士數輩攝至太宗之庭。太宗怒而責曰。吾文武勳烈如此。不能逃子之貶何也。文忠震懼而寤。後欲追改之。而業已進書頒行矣。遂不克改。甞慨然曰。平懷最難。此殆非偶然而云耳。
佛祖歷代通載卷第十一
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十二
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐
(一 庚戌) 高宗治改永徽(字為善。小名雉奴。太宗第九子。年五十六崩葬乾陵。在位三十四年。一云。三十六年。或云。三十年○復以周公為先聖。孔子為先師)。
(辛亥) 世尊示滅一千六百年矣。
(二) 四祖道信大師示寂。師姓司馬。世居河內。後徙蘄州。生而超異。幼慕空宗諸解脫門。宛如夙習。既紹祖位。攝心無寐脇不至席者。僅六十年。隋大業末。領眾至吉州。值群盜圍城。七旬不解萬眾惶怖。師憫之。教誦摩訶般若。既而賊眾望雉堞間。若有神兵。乃相謂曰。城中必有異人。遂即引去。武德中始居破頭山學徒奔湊。甞一日於黃梅道中逢一小兒。骨相秀異。師曰。汝何姓。答曰。姓即有不是常姓。師曰。是何姓。答曰。是佛性。師曰。汝無性耶。答曰。性即空故。師默識其為法器。令侍者詣其母求之出家。母以夙緣故了無難色。以至傳衣付法。偈曰。華種有生性。因地華生生。大緣與信合。當生生不生。遂以學徒委之。一日告眾曰。吾甞游廬山。登絕頂望破頭山。見紫雲如蓋。下有白氣橫分六道汝等會否。眾皆默然。忍大師曰。莫是和上他後橫出一枝佛法否。師曰善。貞觀末太宗嚮師道味欲瞻風彩。詔赴京師師上表遜謝。前後三返竟以疾辭。第四度命使者曰。如果不起即取首來。使至山諭旨。師乃引頸就刃神色怡然。使異之。回以狀聞。帝彌加歎慕。就賜珍繒以遂其志。及是忽垂誡門人曰。一切諸法悉皆解脫。汝等各自護念流化未來。言訖安坐而逝。壽七十有二。塔于本山。明年四月八日。塔戶無故自開。儀相如生。爾後門人不敢復閉。代宗諡大醫禪師云。
(三 壬子) 雁塔成。太宗二十二年。上在春宮日。天陰掌疼問及左右對曰。應是太子洞玄下針處于是思報昊天追崇福業。命有司擇地為母文德順聖皇后建慈恩寺。凡十餘院。一千八百九十七間。度僧三百員。勅奘三藏為上座。盛事如碑所載。至今永徽三年。帝用七宮亡者衣物財帛而建此塔於慈恩寺。其基四面各一百四十尺。倣西域制度而有五級。并象輪露盤高一百八十尺。層層中心皆葬舍利。不啻萬顆。上層以石為室。南面立碑。載二聖所製三藏聖教序記。乃尚書右僕射河南公褚遂良筆也○西域之制以塔為方墳。然有四類。輪王一級。聲聞四級。獨覺十二級。菩薩如來十三級。各有所表也。
(四 癸丑) 四年禪師惠寬卒。生楊氏。父為道士。號三洞先生。姊信相生而知道。終日凝然禪寂。寬五六歲日與信相譚論。俱非世事。家世奉道寬獨不喜。父詬厲使拜天尊。寬不得已跪之。鐵像蹶然崩壞。舉族驚異。因錄每與信相所論言句。先是龍懷寺禪師曇相臨終。語弟子會曰。吾報緣當生廣漢綿竹峰頂楊氏家。後七年汝來見吾。言訖而逝。其後會頗忘之。一昔夢相責以負約。會驚寤遂造峯頂而扣其扉。寬曰。扣扉者誰。會遽曰。弟子會也。寬笑曰。何以知吾而稱子。會曰。得師聲猶昔日聲也。遂相見。其父出所錄每與信相譚論示之。蓋大莊嚴等論。會即奉寬再歸龍懷寺落髮。由是神異日顯。俗呼聖和上。其姊信相亦隨出家。甞因淨惠寺異僧入定。滿寺紅焰亘然。而人未識之。信相曰。此火聚尊者入火光三昧耳。因入其寺。入水觀一室湛然。唯水不見其形。異僧欽歎以為得果。時亦號聖尼。寬十世為大僧。今十生記存焉。累朝賜諡不一。
(五 甲寅) 五年中天竺國摩訶菩提寺。遣僧致法師玄奘書。并獻方物。其辭曰。微妙吉祥世尊金剛座側摩訶菩提寺諸多聞眾所共圍繞上座惠天。致書摩訶支那國於無量經律論妙盡精微木叉阿遮利耶。敬問無量少病少惱。我惠天苾芻今造佛大神變讚頌及諸經論比量智等。今附苾芻法長將往。此無量多聞長老大德阿遮利耶。智光亦同前致問。鄔波索迦日授稽首和南。今共寄白㲲一雙示不空心。路遠莫怪其少。願領。彼須經論錄名附來。當為抄送。木叉阿遮利耶願知。及法長辭還。奘答長老智光書。其略曰。往年使還承正法藏大師無常。奉問摧割不能已已。嗚呼苦海舟沈人天眼滅。遷奪之痛何可述歟。昔大覺潛輝。迦葉紹宗洪業。商那遷逝。鞠多闡其嘉猷。今法將歸真。法師次任其事。惟願清辭妙辨。共四海而弘流。福智莊嚴。與五山而永久。玄奘所將經論已翻瑜伽師地論等大小三十餘部。即日大唐天子聖躬萬福率土安民。以輪王之慈。敷法王之化。所出經論並蒙神筆製序。令所司抄寫國內流行。爰及隣邦亦俱遵奉。雖居像季之末。而教法光榮邕邕穆穆。亦不異室羅筏逝多林之化也。伏願照知。頃信度河失經一馱。今錄名于後。有便請為附來。并有片物供養。願垂納受。是歲特旨度沙彌窺基為大僧。入大慈恩寺參譯經正義。基姓尉遲代郡人(鄂國公敬德之姪。右金吾衛將軍敬宗之子)母裴夢掌月輪吞之而孕。誕夕神光盈室。甫六歲能著書。初法師奘公於西域得一童子。敏悟絕倫。因携之詣宗。宗呼基出拜。奘使誦所著兵書。且數千言。奘數目童子。及基誦畢。奘紿之曰。此古書耳。宗未之信。奘令西域童子覆誦之。不差一字。宗大怒。以基竊古書罔已將殺之。奘就丐出家。基曰。聽我御葷色晚膳即從出家。不然寧伏劍死不為餓死。奘愛其俊而許之。遂從入道。每覽疏記過目成誦。義亦頓解。善大小乘。既參譯經。從奘受瑜伽唯識宗旨。著論凡百部。時號百本論師。然性豪侈。每出必治三車。亦號三車法師。
(六 乙卯) 六年五月。法師玄奘譯因明論。沙門神泰等各造義疏釋之。法師栖玄者。以其論示尚藥奉御呂才。才深藝之士也。頗毀其文。作因明注解破義圖。輕薄者聽信之。秋七月譯經法師惠立致書左僕射于志寧斥其謬。辭曰。聞諸佛之立教。文言奧遠旨義幽深。等圓穹之寥廓。類滄波之浩澣。談真如之性相。居十地而尚迷。說小草之因緣。處無生而猶昧。況有縈纏八邪之網。沈淪四倒之流。而欲窺究宗因辨彰其理者。無乃惑哉。切見大慈恩寺翻經法師惠基。早樹智力夙成行潔。珪璋操逾松杞遂能。躬游聖域詢稟微言。擅三藏於胸懷。苞四含於掌握。嗣清徽於曩哲。扇遺範於當今。實季俗之舟航。信緇林之龜鑑者也。所翻聖教已三百餘軸。中有小論。題曰因明。詮論難之旨歸。序催邪之軌式。雖未為玄門之要妙。亦非造次之所知。近聞尚藥呂奉御。以常人之資。竊眾師之說。造因明圖釋宗因義。不能精悟好起異端。苟覓聲譽妄為穿鑿。排眾德之正說。任我慢之[懨-猒+扁]心。媒衒公卿之前。囂諠閭巷之側不慚顏厚靡勌神勞。數易炎涼心猶未已。然奉御於俗事少間。遂謂真宗可了。何異鼷鼠見釜竈之堪陟。乃言崑閬之不難。蛛螫覩棘林之易羅。遂謂扶桑之可網。不量涯分無以異斯。況大音希聲大辯若訥。所以淨名契理杜口毘耶。尼父德高恂恂鄉黨。未聞誇矜自媒而獲縉紳之推仰也。立致書其事稍息。
冬十月丁酉。太常博士柳宣。以其事寢。作歸敬書并偈。檄譯經大德。求畢其說。於是法師明?。答還述頌并書。極大尊嚴。而訓呂才妄舉。柳宣得書即劾呂才。列奏其事。有旨集公卿學士。領才詣慈恩寺。見法師受辭悔謝而退。
(七 丙辰) 改顯慶正月丙寅。立代王弘為皇太子。是日於慈恩寺齋僧五千員。勅黃門侍郎薛元超主其事。因問法師玄奘前代翻經之式。對曰。漢魏既遠未可詳論。晉宋已來翻經皆有監閱詳緝之官。故符堅時曇摩難提譯經。黃門趙整執筆。姚興時羅什譯經。興及姚嵩執筆。後魏菩提流支譯經。侍中崔光筆授。以至梁陳周隋之代。並亦如之。貞觀初年波頗那羅譯經。先帝勅趙郡王孝恭詹事杜正倫監護。今特闕如。又大慈恩寺莊麗輪奐今古罕儔。尚未建碑。貧道懷此二寺。願聞之於上也。元超奏其語制可。
(八) 是月壬申朝會中書令崔敦禮宣勅曰。大慈恩寺法師。玄奘新翻經論文義須精。宜令左僕射于志寧。吏部尚書來濟。禮部尚書許敬宗。黃門侍郎薛元超。中書侍郎李義府杜正倫。時為看閱。或不穩處隨事潤色。朝罷遣內給事王君德。報法師曰。承須友人助翻經。已為處分于志寧等。其慈恩寺碑。朕望自作。不知師意如何。且令相報。奘奉旨。即率眾詣闕抗表陳請。未幾高宗親製大慈恩寺碑文成。遣長孫無忌遍示群公。其辭曰蓋聞乾坤締構之初。品物權輿之始。莫不載形厚土藉覆穹蒼。然則二曜輝天靡測。盈虛之像四溟紀地。豈究波瀾之極。況乎法門虛寂。出生不滅之前。聖教牢籠。示有無形之外。故以道光塵劫化洽生靈。緬惟王宮發迹。蓮披起步之花。神沼騰光。樹曲高堤之?。演德音於鹿苑。會多士於龍宮。福已罪之群生。興將滅之人代。能使下愚抱道。骨碎寒林之野。上哲欽風。身沒雪山之偈。絲流法雨。清火宅以辭炎。輪昇惠日。皎重冥而歸晝。朕逖覽緗史詳觀道義。福永劫者。其唯釋教歟。文德皇太后憑柯瓊樹疏派泉源。德照塗山道光媯汭。流芬彤管。彰懿則於八紘。垂訓紫宮。扇徽猷於萬古。遽而乾精掩月永戢貞輝。坤維絕紐長淪茂毓。撫奩鏡而增感望陟屺以何追。仲由興歎於千鍾。虞丘致哀於三失。朕之罔極。實有切於終身。故載懷興緝剏斯金地。却背邠郊點千莊之樹錦前臨終嶽。吐百仞之峯蓮。左面八川。皎池光而分鏡。右隣九達。飛羽蓋以連雲抑天府之奧區。信上京之勝地。迹其彫軒架逈綺閣凌虛。丹空曉烏。煥日宮之泛麗。素天初兔。鑒月殿而澄輝。薰徑秋蘭。疎亭佩紫。芳岩冬桂。蜜戶叢丹。燈皎繁花。焰轉心中之鶴幡標逈剎。綵縈天外之虹。飛陛參差。含文露而栖玉。輕簾舒卷。網靨面而編珠。霞班低岫之紅。池漠泛烟之翠。鳴珮與宵鍾合韻。和風共晨梵分音。豈直香積天宮遠慚輪奐。閬風仙闕遙愧彫華而已哉。有玄奘法師者。實真如之冠冕也。器宇凝邃若清風之肅長松。縟思繁蔚。如綺霞之輝逈漢。騰今照古之智。挺自生知。蘊寂懷真之誠。發乎齠齓。孤標一代邁生。遠以照前。逈秀千齡。架澄什而光後。以為淳風替古澆俗移今。悲巨夜之長昏。痛微言之永翳。遂投迹異域廣飡祕教。乘杯雲漢之外。振錫烟霞之表。滔天巨海。浸驚浪而覊游。亘地嚴霜。犯悽氛而獨逝。平郊散敘。衣單雪嶺之風。曠野低輪。肌弊流沙之日。遐征月路。影對宵而暫雙。遠邁危峯。形臨朝而永隻。思窮妙境探賾至真。心罄玄津研幾祕術。通昔賢之所不達。悟先典之所未聞。遂得金牒東流。續將絕之教。寶偈西徙補已闕之文。時睠靈基栖心此地。弘宣奧旨。葉重翠於祇林。遠闢幽關。波再清於定水。朕之虔心八正肅志雙林。冀延景福式資冥助。奉願皇太后逍遙六度。神游丹闕之前。偃息四洲。魂升紫極之境。悲夫。玉燭易往。促四序於炎涼。金箭難留。馳六龍於晷漏。恐波遷樹在。移溟海以變桑田。地是勢非。淪高岸而為幽谷。於是敬刻貞石式旌真境。銘不錄。
三月庚申。百僚奉表美揚聖製。別詔禮部尚書許敬宗送碑文示法師玄奘。甲子奘率徒詣闕。奉表謝曰。造化之功。既播物而成教。聖人之道。亦因辭而見情。然則畫卦垂文。空談形於器宇。設爻分象。實未越於寰域。羲皇之德。尚見稱於前古。姬后之風。亦獨高於後代。豈若開物成務。闡八正以摛章。詮道立言。證三明而導俗。理窮天地之表。情該日月之外。校其優劣。斯為盛矣。共惟陛下金輪在運玉曆乘時。化洽四洲仁覃九有。道苞前聖功茂乃神。縱多能於生知。資率由於天至。始悲奩鏡即剏招提。俄樹勝幢乃敷文律。若乃天華欵發睿藻波騰。吞筆海而孕龍宮。掩詞林而苞鶴樹。內該八藏。外覈六經。奧而能典。宏而且密。使祇園遺迹。託寶思而彌高。奈苑餘芳。假瓊章而不朽。豈直抑揚夢境昭晰迷途。諒以鎔範四天牢籠三界者矣。奘以其文宜得聖筆自寫。因抗表勸請制不許。再表遂許之。
四月八日。奘率京城僧尼。備幢旛寶輦香花梵儀扣芳林門迎御製碑。勅太常九部樂并長安萬年二縣樂戲及戚里侯王耆耋送之是日以雨不克。十四日遂迎之。舊史本紀云。帝御安福門樓觀。法師玄奘迎御製大慈恩寺碑導從。以天竺法儀。其徒甚盛。帝望之大悅。
(九) 五月法師玄奘寢疾。勅尚藥奉御蔣孝章針醫上官琮專視病。又遣北門使者伺氣候遞報消息。奘因陳先朝以釋氏名位次道流之下。先帝晚年許為改正。又永徽初勅僧尼罪犯情難知者。同俗法推鞠。奘慮疾病委頓永隔天顏。附內使以聞。即日勅使報曰。所陳但佛道名位先朝處分事須平章。其同俗勅即為除落。師宜安意將息。奘疾尋愈。
十一月會天后難月。命入宮祈福。及分難神光滿宮。自庭燭天因號佛光王(即中宗也)初帝甞謂奘曰。若生男子即聽出家。至是奘奉表請許。佛光王出家紹隆三寶。制可。
(十 丁巳) 二月幸洛陽。詔奘陪駕。五月奘辭還陳留。改葬父母。勅有司給葬具。
六月。召法師惠立與道士張惠。先辨二教先後。大臣臨證惠先義負。
(十一) 金陵牛頭山法融禪師者。潤州廷陵人也。姓韋氏。年十九學通經史。尋閱大部般若曉達真空。忽一日歎曰。儒道世典非究竟法。般若正觀出世舟航。遂隱茅山投師落髮後入牛頭山幽棲寺北岩之石室。有百鳥銜花之異。唐貞觀中。四祖遙觀氣象。知彼山有奇異之人。乃躬自尋訪。問寺僧此間有道人否。曰出家兒那箇不是道人。祖曰。阿那箇是道人。僧無對。別僧云。此去山中十里許有一懶融。見人不起亦不合掌。莫是道人。祖遂入山。見師端坐自若曾無所顧。祖問曰。在此作什麼。師曰。觀心。祖曰。觀是何人。心是何物。師無對。起曰。師自何來。甞識道信大師否。曰即貧道是也融再拜請示心法。祖曰。夫百千法門同歸方寸。河沙妙德盡在心源。一切戒定慧門神通變化悉自具足不離汝心。一切煩惱業障本自空寂。一切因果皆如幻夢。無三界可出。無菩提可求。人與非人性相平等。大道虛曠絕思絕慮。如是之法汝今已得。更無欠少與佛何殊。汝但任心自在。莫作觀行。亦莫息心。莫起貪嗔。莫懷愁慮。蕩蕩無礙任意縱橫。不作諸善不造眾惡。行住坐臥觸目遇緣。皆是佛之妙用快樂無憂。故名為道。融曰。心既具足復誰是佛。又誰為心。祖曰。非心不問佛。問佛非不心。融曰。既不許作觀行。於境起時如何對治。祖曰。境緣無好醜。好醜起於心。心若不強名。妄情何由起。妄情既不起。真心任遍知。汝但隨心自在無復對治。即名常住法身無有變易。吾受璨大師頓宗法門。今以付汝。汝諦受吾言可止此山。當有五大士紹汝玄化。祖付法已歸于雙峯。師至顯慶二年閏正月二十三日。終於建初寺。壽六十四。臈四十一。窆于雞籠山。會送者萬餘人。廣如傳燈具載。
(十二 戊午) 夏四月。追僧道各二七人入宮論議。道士李榮以本際立義。法師義褒徵曰。既標本際。為道本於際耶。際本於道耶。榮曰。互得。褒曰。若道本於際際為道本。則亦可際本於道道為際源。榮曰。亦通耳。褒曰。若本際與道互得相返。則亦可自然與道互相法也。榮曰。道法自然。自然不法道。褒曰。若爾則道本於際。本際不本於道矣。榮意前言之失不復主義。以他語嘲褒。褒正色曰。對萬乘之前立論。申明邪正以簡帝心。豈以他辭塵瀆天聽。榮慚服。帝嘉之令引榮退席。揖黃頤對褒談論。極莫而罷。
(十三) 是歲法師玄奘抗表。辭入嵩山少林寺。專意譯經。降御札報曰。省表知欲晦迹岩泉。追遁遠而架往。託慮神寂。軌澄什以標今。仰揖風規是所欽尚。朕業空學寡靡究高深。然以淺識薄聞未見其可。法師津梁三界汲引四生。智皎心燈定凝意水。非情塵之所翳。豈識浪之能驚。道德可居。何必太華疊嶺。空寂可舍豈獨少室重巒。幸戢來言勿復重請。則市朝大隱。不獨貴於前賢。見聞弘益。更可珍於即代。奘進啟奉謝。略曰。昔季重蒙魏君之禮。唯敘睽離。惠遠辱晉后之書。才令給米。未覩辭兼空寂可舍之旨。誨示大隱市朝之情。故知人主之懷窮真罄俗。綜有該無。超羲軒而更高。駕曹馬而逾遠者矣。時奘公道震天下。謀欲禁止舊經唯弘新典。有禪師法冲者。善楞伽宗旨。雅為房梁公所重。因見奘而諫之曰。聞君將廢罷舊經不許弘宣。此未可也。法師頃依舊經入道。今若棄舊崇新。則法師亦當返初復依新經出家可乎。奘悟而止。
(十四 己未) 四年帝在合璧宮。追僧道論義。法師會隱立五蘊義。法師神泰立九斷知義。道士李榮黃壽不知名義。茫如夢海。雖事往返而廓落無歸。遂勅道士立義。於是李榮立道生萬物義。法師惠立問曰。先生立道生萬物。未審此道是有知耶是無知耶。榮曰。人法地。地法天。天法道。既為天地之法。豈曰無知。立曰。必若有知則合唯生於善。何故亦生於惡。既善惡升沈叢雜混生則無知矣。請試劇陳之。如上古未開闢時。何不早生今日聖明子育黔黎與之榮樂。乃先誕共工蚩尤桀紂幽厲之徒而殘賊斯民耶。人臣之中。何不唯生稷契夔龍之輩。而使飛廉惡來靳尚新莽之儔諛諂其君致邦國傾亂耶。羽族之中。何不唯生鸞鳳嘉禽。而更生梟鏡惡鳥乎。毛群之中。何不唯生麒麟驊騮。復生豺狼豪蝟乎。以至草木等類美惡不同。既混糅俱生不別善惡。則道無知不能生物。云何得稱天地取法而生萬物乎。據佛世尊窮理盡性之教則天地萬物是業。眾生以業力故所感不同。以善業勝者。則琉璃為地。黃金為道。瓊樹蔭陌。玉葉垂亭。甘露充飡。綺衣為座。惡業多者。沙壤為地。瓦礫為衢。稗飯充飢。麻衣蔽體。泥行雨宿。霜穫暑耕。皆自業所感無人使之。吾子心迷不識。妄言道生。一何可憫。榮愕然不知所對。惠立乘機拂弄。榮亦杜默遂赧然下座。揖黃壽前席。立老子名義。法師會隱以老子國家先宗。既難其名恐有觸犯。即奏曰。黃壽身預黃冠不知諱忌。城狐社鼠猶事依憑。國家遠承龍德之後。陛下老氏子孫。豈有對人子孫而公談祖諱。至如五千言中大有好義。壽不能標列而說聖人之名。計罪論刑死有餘及。帝肯首曰。固當別立義。壽既遭沮挫慚汗失圖。雖事言對而次序乖越。及罷。帝曰。朕觀二家之論。宗旨竟未分明。法師惠立驟對曰。二家之論宗旨未明。實如明詔。何則眾僧立義道士不識其源。既恥無辭遂讜?謾語。至如會隱立五蘊義。黃頤以蔭名來難。且蔭以覆蓋為宗。蘊以積聚為義。如色有十一。聚在色名之下。識有八種。積在一名之中。舉統以收稱為蘊義。若以蔭名見難義理全乖。又神泰立九斷知義。道士生來。未聞此名。論座雖登不知發問之處。無以遮慚遂浪作餘語。由是宗旨不明光瀆天聽。過在道士。然佛法大宗因緣為最。故云。未甞有一法不從因緣生。且如目見殿柱須具五緣。一識心不亂。二眼根不壞。三藉以光明。四有境現前。五中間無障。必具此緣方得見柱。若曦光已沒龍燭未明。縱有朱楹何由可見。又如嘉穀陽和之月。假水土人工則能萌芽。夏盛甕中冬藏地陷。緣不具故畢竟不生。而人亦然。內則業感為因。外則父母為緣。身方得生。父母乖違終無生理。乃至羽毛萬彙悉亦如之。故經云。深入緣起斷諸邪見。由佛智慧窮法實相。是稱無上正覺為人天師。外道之輩則不如是。或計諸法自然。即同此方莊老。或言無因。或云宿作。並是邪宗不明法本。又對御說依他遍計圓成三性之義。及辭出宮。少選勅內給事王君德傳宣曰。師等因緣義甚好。何不早論。詣道士李榮等傳勅曰。何不學佛經。於是榮等羞縮。為之氣塞。
是歲帝勅奘三藏于玉華宮譯般若經。至龍朔三年冬十月二十三日纔畢。凡六百卷進上。帝嘉歎曰。朕以軍國務殷不及委讀。今觀佛經之大。若其瞻天望海莫測高深。以儒道九流方之。如河瀅之類溟渤也。而世云三教齊致者是妄談耳。
(十五 庚申) 屈僧拜俗詔。帝初崇三寶。後復憍慢。四月十五日下詔。令沙門致敬君親。恐爽恒請。至十六日勅付有司詳議。是月二十一日大莊嚴寺威秀等上不拜表。至二十五日沙門道宣等上雍州牧沛王倫不拜表。二十七日宣等又上榮國夫人楊氏不拜俗啟及上敘佛教隆替事狀。大意是前朝代興替。然後引經不拜俗文。梵網經云。出家人法不向國王禮拜。不向父母禮拜。六親不敬。鬼神不禮。涅槃經第六卷云。出家人不禮敬在家人。四分律云。佛令諸比丘相次禮拜。不應禮拜一切白衣。佛本行經五十三卷云。輸頭檀王與諸眷屬百官次第禮佛足已。佛言。王今可禮優波璃并諸比丘足。王聞佛教即從座起頂禮五百比丘足。新出家者次第而禮。薩遮尼乾子經云。若謗聲聞辟支佛法及大乘法毀訾留難者犯根本罪。僧道宣尋白朝宰群公。伏見詔書令僧致敬君父。事理深遠非淺情能測。夫以出家之迹列聖齊規。真俗之科百王同軌。干木在魏。高抗而謁文侯。子陵居漢。長揖而尋光武。彼稱小道尚懷高蹈之門。豈此沙門不垂閑放之美者矣。
沙門威秀等謹錄佛經。沙門不合跪拜父母。有損無益。其文如左。梵網如前。順正理云。國君不求比丘禮拜。略曰。玄教東漸六百餘載。上代皇王無不依經敬仰也。僧威秀等言。竊聞。真俗異區。桑門割有生之戀。幽顯殊服。田衣無拜首之容。理同越情道仍舛物。伏惟陛下匡振遠猷提獎幽概。既已崇之於國。亦以行之於家。足使捨俗無習俗之儀出家絕居家之敬。護法斯在提福莫先。自然教有可甄人知自勉。不勝誠懇之至。謹奉表以聞。于時上表者眾不煩具錄。備如弘明集○至五月十五日。大集文武百僚於中臺。將議其事。京邑沙門道宣等三百餘人競陳狀啟。紛諍不定。有司各以表聞。一右司成令狐德業等五百三十九人表請不合拜。一右兼司平太常閻立本等三百五十四人表請合拜。帝覽已下詔。朕啇確群議沈研幽頤。然箕頴之風高尚其事。遐想前代固亦有之。今於君處勿須致拜。其父母所慈育彌深。祗伏斯曠更將安設。自今已後即宜跪拜。主者施行。又至六月八日。京邑老人程士顒等上表。略曰。且高尚之風人王猶有抗禮。豈惟臣下。及受跪拜之儀。俯仰撫循無由啟處。意願國無兩敬。大開方外之迹。僧奉內教便得立身行道。不任私懷之至。謹奉表以聞。拜俗之條從茲泯定矣。
(辛酉) 改龍翔。
(癸亥) 帝苦風疾。委政武后。◎
◎(甲子 五六) 改麟德武后專恣。
(十六) 二月初五日。法師玄奘寢疾。命弟子大乘光錄所譯經論。凡一千三百三十有五卷。造彌勒像十俱胝。及疾革口誦色蘊不可得。受想行識不可得。眼界不可得。乃至意識界不可得。無明不可得。乃至菩提不可得。不可得亦不可得。復令左右同聲三唱。南謨慈氏如來應正等覺。願與含識速奉慈顏。南謨慈氏如來所居內院。願捨壽必生其中。遂右脇安臥而逝。春秋六十有三。是夕白虹四道自北亘南。貫井宿直慈恩寺塔。計聞于朝。帝哭之甚哀。顧左右曰。朕失國寶矣。輟朝三日。自終及葬五降御札。裒錄遺典勤恤喪事。俄異僧奉旃檀末香至。請依天竺法用塗法師之體。大乘光等以掩龕日久不欲開。其僧曰。別奉進旨。倘見拒即具奏。遂啟龕而顏色如生。香氣馥郁。其僧塗畢恍然不見。識者以為兜率內院人也。夏四月勅準佛世尊故事。斂以金棺銀槨。塔于滻東門。弟子神泰栖玄會隱惠立明?義褒大乘光等。皆法門龍象焉。
(十七) 道造偽經。天皇甲子。西京諸觀道士郭行真等東明觀李榮姚義玄劉道合會聖觀田仁惠郭蓋宗等。將隱沒道書重更修改。私竊佛經改換文句。人法名數三界六道五蔭十二入十八界三十七品大小法門。並偷安道經。并改長安經。為太上靈寶元陽經。改餘佛經別號勝牟尼經。或云太平經等。及改酒脯祭祀。用乾棗香水。以惑後人妖妄作矣。沙門道世表聞以辯真偽。其略曰。竊聞白馬東遊。三藏創茲而起。青牛西逝。二篇自此而興。或闡玄玄以化民。或明空空而救物。檢之圖牒指掌可知。所以發唱顯宗終乎此世。釋教翻譯時代炳然。文史備彰黎民不惑。至如道家玄籍。斯則不然。唯老子二篇李聃親闡。自餘經制皆雜凡情。何者前漢王褒造洞玄經。後漢張陵造靈寶經及章醮等二十四卷。吳葛孝先造上清經。晉世王浮造化胡經。又鮑靖造三皇經。齊朝陳顯明造六十四真步虛經。梁陶弘景造太清經及眾醮儀十卷。周武張賓之焦子順馬翼李運。挑攬佛經一千餘卷。隋輔惠祥改涅槃經為長安經。笑道論曰。道家妄註諸子三百五十卷為道經。又按漢明帝時。褚善信等總將道經諸子書等三十七部七百四十四卷。晉葛洪神仙傳云。老教所有度世消災之法凡九百三十卷。符書等七十卷。宋太始七年。陸修靜答明帝云。道家經書并藥方符圖等一千二百二十八卷云。一千九十卷已行於世。一百三十八卷猶在天宮。又檢玄都目錄。妄取藝文志書名。矯注八百八十四卷為道經。今玄都經目云。依宋陸氏所上之目。乃有六千三百六十三卷云。二千四十卷見有其本。四千三百二十三卷並未見。據此前數目有無不同虛妄明矣。增加卷目添足篇章。依傍佛經改頭換尾。或言名山唱出。或云仙洞飛來。何乃黃領獨知英賢不覩。書史無聞典籍不記。請問道士後世之經。為是老子別陳。為是天尊更說。縱其說也應有時方師資說處。代年邦月復是如何。如其有據容不㳅行。若也妄言理須焚剪。伏願當今明朝(云云)。由是郭行真等捨邪歸正。啟願文具如佛道論。
(丙寅) 改乾封○尊老君為玄元皇帝○米斗五錢。
(丁卯) 大教東被六百年矣○用麟德曆。
(十八) 南山律師道宣卒。師京兆錢氏。父吏部尚書申。母夢月輪貫懷而孕。又夢梵僧語之曰。所孕者梁僧祐律師也。處胎彌十二月而生。九歲遍覽群書。十二善習文墨。十五師日嚴頵公。十六誦法華兩旬而徹。十七落髮。二十依首師進具戒。三衣唯布常坐一食。武德四年再依首師學律。性好禪那期修正定。頵曰。戒淨定明慧方有據。始聽未閒持犯焉識。七年徙居終南紵麻蘭若。始製行事鈔。正觀四年行般若三昧于清宮精舍。經九十日。龍化人形體覲聽法。沙彌染心顧盻其女。龍怒欲害之。念師教誡頓息惡心。攝毒吐井。白師勿飲此水。及往視之其井涌沸。又於雲際寺行此三昧。前後二十會。常感天童為之給侍。十九年偕奘公翻經弘福。筆受潤文推為上首。永徽元年復居紵麻。乾封二年春。天人告師曰。師報緣將盡。當生彌勒內宮。十月三十日。眾見空中。旛華交列。異香天樂。天人同聲。請師歸覲彌勒。上聞之。詔天下寺院圖形奉祀。穆宗製讚曰。代有覺人為如來使。龍鬼歸降天神奉事。聲飛五天辭驚萬里。金烏西沈佛日東舉。稽首歸依肇律宗主。懿宗朝諡澄照。師所撰刪定僧戒本(一卷今所盛行) 刪定比丘尼戒本(一卷) 注僧戒本(三卷) 戒疏(四卷) 注羯磨經(二卷) 羯磨疏(四卷) 行事鈔(二卷) 比丘尼鈔(三卷) 拾毘尼義鈔(三卷) 亡物輕重儀章服儀歸敬儀正行懺悔儀新學教誡儀(各一卷) 法華義苑(三十卷亡本) 釋迦方誌(二卷) 佛道論衡(四卷) 續高僧傳(三十卷) 後續僧傳(十卷) 廣弘明集(三十卷) 三寶感通記(三卷) 天人感通傳(一卷) 大唐內典錄(十卷)。
(十九 戊辰) 改總章○詔僧道會于百福殿。定奪化胡經真偽。百官臨證。僧法明者預選入。方三教首座議論紛紜。明察其非是。即排眾出曰。老子化胡成佛之際。為作華言化之耶。為作胡語誘之。若作華言則胡人未善必作胡語。既傳此土須假翻譯。未審道流所謂化胡經者。於何朝代翻譯。筆授證義。當復為誰。於是舉眾愕然無能應者。公卿列辟咸服其切當。忻躍而罷。有勅搜聚天下化胡經焚棄。不在道經之數。既而洛京恒道觀桓彥道等奉表乞留。詔曰。三聖重光玄元統敘。豈忘老教偏意釋宗。朕志欵還淳情存去偽。理乖事舛者。雖在親而亦除。義符名當者。雖有冤而必錄。自今道經諸部有記及化胡事者。並宜削除。有司條為罪制。
(庚午) 改咸亨。
(癸酉) 上稱天皇。后稱天后。
是歲讓和上四月八日生。有白氣六道貫天。太史奏聞。有德之象當應空門。帝曰。在何方位。史曰。安康分野。有頃金州太守韓偕具表奏聞。帝曰。道人之德國之善慶。勅偕親詣撫恤。兼厚賜養育之費。一家蒙之。後長出家。果傳六祖心印。住于南嶽光大教門也。
(甲戌) 改上元。
(二十 乙亥) 是年五祖弘忍大師示寂。師蘄州黃梅周氏子。生而岐嶷。兒時有異僧歎曰。是子闕七種相。不逮如來。後遇信大師得法。嗣化於破頭山。咸亨中有盧居士者名惠能。自遠來參。師問。汝自何來。曰嶺南。師曰。欲求何事。曰唯求作佛。祖曰。嶺南人無佛性。若為得佛。曰。人即有南北。佛性豈然。師知其異。乃訶之曰。著槽厰去。能禮足而退。便入碓坊服勞於杵臼之間。經旬月祖知付法時至。遂告眾曰。正法難解。不可徒記吾言將為已任。汝等各自隨意述一偈。若語意冥符衣法皆付。時會七百餘眾。神秀居第一座。學通內外眾所推仰。秀亦自負無出其右者。不復思惟。乃於廊壁間書一偈曰。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時勤拂拭。莫遣惹塵埃。祖因行次見偈。心知秀之所為。因紿曰。後代依此修行亦得道果。眾聆此語人各諷誦。他日能在碓坊。聞偈乃問同列。此誰為之。同侶告以和上將欲付法各令述偈。此乃秀上座所為。能曰。美則美矣。了則未了。同侶共訶其謬妄。能至莫命童子引至廊間。能自執燭令童子於秀偈側寫偈曰。菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何假拂塵埃。祖復見此默念。必能之所為。因故為之語曰。此誰作亦未見性。眾以師弗許皆莫之顧。即於是夕潛使人自碓坊喚能至。告曰。諸佛出世為一大事因緣。隨機大小而引化之。遂有十地三乘頓漸等法。以為教門。然以微妙祕密圓明真實正法眼藏付于上首迦葉。展轉傳授二十八世。至菩提達磨大師屆于此土得可祖。承襲以至于吾。吾今授汝。并所傳袈裟用以表信。汝善護持勿令斷絕。聽吾偈曰。有情來下種。因地果還生。無情既無種。無性亦無生。能受畢乃曰。法則既受。衣付何人。師曰。昔達磨初至。人未之信。故傳此衣以明得法。今信心已熟。衣乃爭端。止於汝身勿復傳也。且當遠引俟時行化。所謂受衣之人命如懸絲。能曰。當隱何所。祖曰。逢懷且止。遇會即藏。能禮足捧衣而出。通夕南邁。眾皆未知。祖由是三日不上堂。眾疑之因致問。祖曰。吾道行矣。又問。衣法誰傳。祖曰。能者傳之。眾意盧居士名能必此人也。共力推尋能已不在。至有相率而物色追之者。祖既付法已。復經四載而寂。塔于東山。代宗諡大滿禪師法雨之塔。
舊唐史云。後魏末有僧達磨者。本天竺王子。以讓國出家。得禪宗妙法云。自釋迦相傳有衣鉢為記世相傳授。達磨將衣鉢航海而來。初至梁國。武帝問以有為之事。達磨不悅。乃之魏隱于嵩山少林寺。遇毒而卒。其年魏使於葱嶺回見之。門徒發其墓。但有隻履而已。達磨傳惠可。可甞斷臂以求其法。可傳僧璨。璨傳道信。信傳弘忍。忍姓周氏。黃梅人。與信並住東山寺。世謂其法為東山法門。
論曰。舊史敘諸祖雖簡略。然大要與寶林傳燈之說皆合。至謂達磨遇毒而卒及魏使復於葱嶺見之。則毒與卒果有之乎。世稱五祖前身蓋栽松道者。往見四祖將付以衣法。俄惜之曰。汝耄矣。雖嗣化能復幾何。倘再來可也。五祖因託質周氏。無父而生。母幾受禍僅死而免。四祖果忍死以遲其來。卑以大法。噫吾祖出入死生正游戲耳。自非果位上聖。孰能與於此哉。
(丙子) 改儀鳳。
(二十一) 北印度佛陀波利尊者。至五臺清涼山逢一叟問曰。爾來何為。利曰。求禮覲文殊。叟曰。帶佛頂尊勝呪來否。利曰。未也。叟曰。此土眾生滋惡。而出家者犯四棄尤多。不持此呪隨行遠來奚益。能回取之以流此土可乎。波利作禮而返。以開曜元年取其呪至於長安。有旨命日照三藏翻譯。帝聞此呪靈驗特異。祕之禁掖。波利屢奏請布中外。高宗不得已從之。利即辭入五臺。後不知終。時南天竺有菩提流志。習頭陀行。從耶舍瞿沙受道。為西域宗師名震中夏。帝聞風而悅之。因使西域有詔敦請。
(己卯) 改調露。
(庚辰) 改永隆。
(辛巳) 改開曜。
(壬午) 改永淳。
(二十二) 是歲慈恩法師窺基卒。世壽五十有一。有詔傷悼御製畫像贊。勅葬樊川北渠。近奘公之塋。基貌豐碩長八尺。氣概萬夫項上有玉枕。十指紋皆盤折如印。見者讋伏。然心慈善誨人。晚節祈生內院。循戒彌篤。甞造玉文殊像。及金寫大般若經。皆瑞應。初南山宣律師。以弘律名震五天。感天厨供饌。每薄基三車之玩。甚不為禮。基甞訪宣。其日過午而天饌不至。及基辭去天神乃降。宣責以後時。天曰。適見大乘菩薩在此翊衛嚴甚。故無自而入。宣聞之大驚。於是遐邇增敬焉。先是奘公親授西域戒賢師瑜伽師地唯識宗。而基盡領其妙恢廓源流。天下後世。尊之目為三乘法相顯理宗。謂之慈恩教。
隱士孫思邈卒。年百餘。善莊老及陰陽推步醫藥之術。尤重釋典。世稱孫真人焉。
(癸未) 改弘道。十一月上崩。遺詔軍國大事取天后處分。太子顯即位。
(二十三) 法師玄惲卒。惲字道世。或云名道世。以避太宗偏諱故以字行。三學洞貫。甞慨教藏及古今圖史之博而學者難以備究。因撰法苑珠林凡一百卷。各開門類。識者重其精博云。
高帝於是年崩。中宗即位數月。天后廢為廬陵王。幽于房州。天后臨朝稱制。是為則天。明年七月沙門十輩詣闕上大雲經。盛稱則天當即宸極。則天大悅。賜十沙門紫方袍銀龜袋。頒經于天下郡國。各建大雲寺。九月則天革唐命改國號周。自稱聖神皇帝。
(甲申) 中宗顯改元嗣聖(二月改文明。正月立韋玄禎女為后。上謂我以天下與韋玄禎。何不可。二月天后廢上為廬陵王。立其弟豫王旦為帝。居於別殿。天后臨朝)。
(二十四) 則天武后曌改元光宅(一云。順聖曌并州文水人也。父武士彠。官至工部尚書荊州都督。封應國公。天后甞為尼於感業寺。時年十四。天皇幸寺見而悅之。選為昭儀。進號宸妃。帝崩后攝政。立諸武為王。甲辰大定。及天后疾。狄梁公仁傑等。迎廬陵王登位。明年乙巳崩于上陽。壽八十一。附之乾陵。在位二十一年)。
(乙酉) 改垂拱○制母齊縗。古者母亡朞年而已。喪服篇云。天無二日。士無二主。國無二君。家無二尊。以一制朞年禮也。自天皇上元元年。天后表請。父在為母三年。下詔依行。至今垂拱始編入格。
(二十五 丙戌) 歸政於帝。帝固辭。后乃臨朝○始建明堂。貞觀五年欲建明堂。勅孔頴達等十人定議制度。不成乃止。天皇永徽三年。宣問無式樣。群儒執議不定又止。乾封至三年。下詔又令群儒取議。復不克定而止焉。天后垂拱二年。又取議群儒創制。垂拱四年正月五日功畢。其制凡高二百九十四尺。東西南北各三百尺。而有三層。下設四方。中十二辰。上設二十四氣。鑄銕為槽。二十四步為辟雍之水。造舟為梁以通道路。與前代制度有別。夏曰世室。殷曰垂屋。周曰明堂也。
(二十六) 是年有慶山始出。唐五行志曰。垂拱二年九月。雍州新豐縣有大風雷電震吼涌出一山。高二十丈。有池周三百畝。池有龍鳳之形禾麥之異。天后以為休應。故名曰慶山。
(己丑) 改永昌。
(庚寅) 改天授○二月辛酉。后策貢士於洛城殿。殿試始此○九月改元建國。號曰周。至朔同日用周正。
(壬辰) 改如意。又改長壽。
(甲午) 改延載。
(乙未) 改證聖。九月又改。天冊萬歲。
(二十七) 是歲則天加號天冊金輪聖神皇帝。作七寶。復聞于闐國梵本華嚴大經。即遣使奉玉帛往求之。并請彼國善梵學者一人。隨經以來。於是于闐主以實叉難提(此云喜學)妙華嚴宗旨遣赴命。則天見之大悅。詔入大遍空寺。同三藏菩提流志法師神測玄景復禮等翻譯華嚴。則天時幸其寺。親施供饌焉。至聖曆二年十月八日功畢。成八十卷。
(二十八) 天冊萬歲元年。詔沙彌康法藏於太原寺。開示華嚴宗旨。方緒經題感白光昱然自口而出。須臾成蓋。停空久之。萬眾歡呼嘆異。都講僧恒奏其事。則天悅。有旨命京城十大德為藏授滿分戒。賜號賢首。詔入大遍空寺參譯經。
(二十九) 是歲詔嵩嶽惠安禪師。入禁中問道。與神秀禪師同被欽重。則天甞問安甲子幾何。對曰不記。曰何以不記。安曰。生死之身有若循環。環無起盡焉用記為。況識心流注無有間斷。見漚起者乃妄想耳。從初識至動相滅時。亦只如此。何年月而可記乎。則天嘆美久之。時安春秋百餘。而天下之人稱為老安國師。
(丙申) 改萬歲登封。又改通天萬歲。
(丁酉) 改神功。
(戊戌) 改聖曆。迎中宗于房陵。立為太子。姚玄崇相。
(三十) 五月戊辰。淨義三藏自西域還。獲梵本經論四百餘部。及金剛座真容舍利三百餘粒則天降蹕上東門迎勞。安置佛授記寺。未幾詔入大遍空寺。同實叉難提等譯經證義。明年十月新華嚴經成。實叉難提等奉表奏上。則天親製序引。御太極殿宣示百官。其護法弘通無出天后之德矣。法師姓張。齊州范陽人。家世珪璋。十五有西行志。三十七歲方遂雅懷。是年乃旋也。
(己亥) 天后重眉八字○慶山佛現。勅建寺宇○李白生。
(庚子) 改久視○十月復夏正。
(三十一) 詔斂天下僧錢。日一文聚作大像於白馬阪。宰相狄仁傑上疏諫曰。為政之本必先人事。陛下矜念群生迷謬弱喪無歸。欲令像法兼行覩相生善。然今之伽藍制過宮室。窮奢極壯刻繪盡功。寶技殫於綴嚴。瓌材極於輪奐。工不役鬼。物不天來。既皆出於民。將何以堪之。且生之有時。用之無度。編戶所奉常若不充。痛切肌膚不辭捶楚。游僧一說矯陳禍福。剪髮解衣仍漸其少。亦有離間骨肉事均路人。身自納妻謂無彼我。皆託佛法掛誤愚人。里陌動有經坊。闤闠尤多精舍。化誘諄切倍於官徵。法事供需嚴逾制勅。膏腴物業水磑庄園。富有其多不知厭斁。逃丁辟罪駢集法門。且一夫不耕猶受其弊。浮食者眾又劫人財。臣每念之實切悲痛。昔梁武簡文捨施無算。及三維浪沸五嶺烟騰。列剎盈衢莫救危亡之禍。緇衣蔽路。豈有勤主之功。況北風塵屢擾征役稍繁。遽興此務力所未堪。伏惟功德無量。何必興建大像以勞費為名乎。雖斂僧錢百未及一。尊容既廣不可露居。覆以百層尚憂未遍。臣今兼採眾議。咸以為如來設教以慈悲為主。普濟群品是其用心。豈以勞人而存虛飾哉。疏奏。則天不納。
論曰。法師支遁曰。沙門之於世也。猶虛舟之寄大壑耳。其來不以事退亦乘閑。四海之內竟自無宅。邦亂則振錫孤游。道洽則忻然共萃。蓋謂吾徒於天下固無事人也。至末法敗道之徒苟安衣食者。於狄梁公之論。殆不可得而諱焉。嗚呼是豈真沙門者所為哉。疏謂如來設教以普濟群品為心。詎以勞人而存虛飾。此不獨匡則天之失。抑有以輔吾佛之正教也。與夫後世泛然排佛老以苟名者雲泥矣。
(辛丑) 改大足。又改長安。
則天將建大像。御史張廷珪復上疏諫曰。夫佛者以覺知為義。因心而成。不可以諸相見也。經云。若以色見我。以音聲求我。是人行邪道。不能見如來。此真如之果。不可以外求也。陛下信心歸依發弘誓願。壯其塔廟廣其尊容。已遍於天下久矣。蓋有為住相布施。非最上第一希有之法。何以知之。經云。若人滿三千大千世界七寶以用布施其福甚多。不如有人於此經中受持四句偈等為人演說其福勝彼。如佛所說。則陛下傾四海之財。竭萬夫之力。窮山之木以為塔寺。極冶之金以為尊像。勞則多矣。費則甚矣。其所獲福乃不若禪房之匹夫。菩薩所作福德不應貪著。蓋有為之法不足高也。況此營建事因土木。或開發盤礴峻築基階。或塞穴洞通轉採斫。碾壓虫螘動盈巨億。豈佛標坐夏之義。憫蠢動而不忍害其生乎。又役鬼不可。惟人是營。通計工匠率多貧寠。朝歐莫役勞筋苦骨。簞食飄飲晨炊星飯。飢渴所致疾疹交集。豈佛標徒行之義愍畜產而不忍苦其力乎。又營築之役僧尼是稅。雖展轉乞匃窮乏尤多。州縣徵輸星火逼迫。或謀計靡所。或粥賣以充。怨聲載路和氣不洽。豈佛標喜捨之義愍愚蒙而不忍奪其產乎。且邊朔未寧軍裝日急。天下虛竭海內勞弊。伏惟陛下慎之重之。思菩薩之行。為利益一切眾生。應如是布施。則其福德若東西南北四維上下虛空不可思量矣。何必勤於住相彫蒼生之業崇不急之務哉。臣以時政言之。則宜先邊境畜府庫養人力。以佛教論之。則宜救危苦滅諸相崇無為。伏惟察臣之言行佛之行。務以理為尚。無以人廢言。疏奏則天大悅。御長生殿召見廷珪。賜以金帛。
(三十二) 是歲詔賢首法師法藏。於東都佛授記寺講新華嚴經。至華藏世界感大地震動。逾時乃息。即日召對長生殿。問帝網十重玄門海印三昧參合六相總別同異成壞之義。藏敷宣有緒玄旨通貫。則天驟聞茫然驚異。伸請再三。藏就指殿隅金師子為曉譬之。能所謂一毛頭師子。百億毛頭師子。則天豁然領解。由是集其語。目為金師子章。初雲華寺儼尊者。傳杜順華嚴宗旨。藏執侍儼盡傳其教。及儼去世藏以巾幘說法。於是京城耆德連名抗表乞度為僧。凡藏落髮受具皆則天特旨。又甞為則天以十圓鏡置八隅上下。皆使相向中安佛像然燭照之。則鏡鏡現像互相攝入。及觀之者交羅齊現。以表剎海十界普容無盡之旨。藏沒清涼國師澄觀宗其教。天下學者宗之。目為一念圓融具德宗。謂之賢首教。
(壬寅) ○初試武舉。
(三十三) 是年則天鑄像之費將具。納言李嶠上疏諫曰。臣聞。佛法慈愍菩薩護持。唯志利益群生非假修崇土木。伏聞。造像稅非戶口錢出僧尼。非假州縣祗承不能濟辦。且天下編戶貧弱者眾。或傭力客作以濟糇糧。或賣田貼舍以供王役。今造像錢數已有一十七萬緡。若以散施廣濟貧窮。人與一千尚濟一十七萬戶。拯飢寒之弊。省勞役之勤。順諸佛慈悲之心。廣人主停毒之意。則人神胥悅功德無量。則天不納。是冬像成。率百僚禮祀。
(三十四 乙巳) 中宗改神龍(高宗第七子。母曰則天皇后。納狄仁傑諫。正月張柬之桓彥範等五王。以兵誅姦臣而迎帝即位。遷則天于上陽宮。冬崩。二月復國號曰唐○老君為玄元皇帝。景隆四年韋后安樂公主。於餅中進毒上崩。壽五十五。奉相王旦即位)。
(三十五) 正月流房融于高州。夏四月融。於廣州遇梵僧般剌密諦齎楞嚴梵夾至。刺史請就制止道場宣譯。融筆授。及譯經十卷畢。般刺復携梵本歸于天竺。
(三十六) 是月中宗降御札。召曹溪六祖惠能入京。其辭曰。朕請安秀二師宮中供養。萬機之暇每究一乘。二師並推讓云。南方有能禪師。密授忍大師衣法。可就彼問。今遣內侍薛簡馳詔迎請。願師慈念速赴上京。師以表辭疾願終林麓。薛簡曰。京城禪德皆云。欲得會道當須坐禪集定。若不因禪定而得解脫者。未之有也。未審師所說法如何。師曰。道由心悟。豈在坐耶。經云。若見如來若坐若臥。是行邪道。何則無所從來亦無所去若無生滅。是如來清淨禪。諸法空寂。是如來清淨坐。究竟無證。豈況坐耶。簡曰。弟子回朝主上必問。願師慈悲指示心要令得見性明道。祖曰。道無明暗。明暗是代謝之義。明明無盡亦是有盡。簡曰。明喻智慧。暗況煩惱。學道人儻不以智慧照破煩惱。生死憑何出離。師曰。若以智慧照煩惱者。此是二乘小兒羊車等機。上智大根悉不如是。簡曰。何謂大乘見解。師曰。明與無明其性無二。無二之性即是實性。實性者處凡愚而不減。在聖賢而不增。住煩惱而不亂。居禪定而不寂。不斷不常不來不去。不在中間及其內外。不生不滅。性相如如常住不遷。名之曰道。簡曰。師說不生不滅。何異外道。師曰。外道將滅止生以生顯滅。滅猶不滅。生說無生。我說本自不生今亦無滅。所以不同外道。汝欲知心要但一切善惡都莫思量。自然得入清淨心體。湛然常住妙用恒沙。簡禮辭歸闕。表上師語。帝咨美久之。尋遣使賜袈裟瓶鉢等。諭天子嚮慕之意。
(三十七 丙午) 大通禪師神秀入寂。中書令張說製碑曰。譔夫總四大者成乎身矣。立萬始者主乎心矣。身是虛哉。即身見空始同妙用。心非實也。觀心若幻乃等真如。名數入焉妙本乖。言說出焉真宗隱。故如來有意傳要道力持至德。萬劫而遙付法印。一念而頓授佛身。誰其弘之。實大通禪師其人也。禪師尊稱大通。諱神秀。本姓李。陳留尉氏人也。心洞九流懸解先覺身長八尺秀眉大耳。應王覇之像。合聖賢之度。少為書生游問江表。老莊玄旨書易大義。三乘經論四分律儀。說通訓詁音參吳晉。爛乎如襲孔翠。玲然如振金玉。既獨鑒潛發多聞旁施。逮知天命之年。自拔人間之世。企聞蘄州有忍禪師。禪門之法胤也。自菩提達磨天竺東來。以法傳惠可。可傳僧璨。璨傳道信。信傳弘忍。繼明重迹相承五光。乃不遠遐阻翻飛謁詣。虛受與沃心懸會。高悟與真乘同轍。縷指忘識湛見本心。住寂滅境行無是處。有師而成。即然燈佛所。無依而說是空王法門。服勤六年不捨晝夜。大師歎曰。東山之法盡在秀矣。命之洗足引之並座。於是涕辭而去。退藏於密。儀鳳中始隸玉泉。名在僧錄。寺東七里地坦山雄。目之曰。此正楞伽孤峯度門蘭若。蔭松藉草吾將老焉。雲從龍風從虎。大道出賢人。覩岐陽之地就去成都。華陰之山學來如市。未云多也。後進得以拂三有超四禪。升堂七十。味道三千。不是過也。爾其開法大略。則忘念以息想。極力以攝心。其入也品均凡聖。其到也行無前後。趣定之前萬緣盡閉。發慧之後一切皆如。特奉楞伽遞為心要。過此以往未之或知。久視年中禪師春秋高矣。詔請而來。趺坐覲君肩輿上殿。屈萬乘而稽首。洒九重而宴居。傳聖道者不北面。有盛德者無臣禮。遂稱兩京法主三帝國師。仰佛日之再中。慶優曇之一現。然處都邑婉其祕旨。每帝王分座后妃臨席。鴛鷺四匝龍象三繞。時熾炭待礦。故對默而心降。時診飢投味。故告約而義領。一雨普霑於眾緣。萬籟各吹於本分。非夫安住無畏應變無方者。孰能至爾乎聖敬日崇朝恩代積。當陽初會之所置寺曰度門。尉氏先人之宅置寺曰報恩。軾閭名鄉表德非擬。局厭諠輦長懷虛壑。累乞還山既聽中駐。久矣衰憊無他患苦。魄散神全形遺力謝。神龍二年二月二十八日。夜中顧命趺坐泊如化域。禪師武德八年受具于天宮寺。至是年丙午復終于此寺。蓋僧臘八十矣。生於隋末百有餘歲。未甞自言。故人莫審其數也。三界火心四部氷背。榱崩梁壞雷動雨泣。凡諸寶身生是金口。故其喪也如執親焉。詔使弔哀王侯歸賵。三月二日冊諡大通。展飾終之義禮也。時厥五日。假安闕塞緩及葬之期懷也。宸駕臨訣至午橋。王公悲送至伊水。羽儀陳設至山龕。仲秋既望還詔乃下。帝諾先許冥遂夙心。大常卿鼓吹導引城門郎監護喪葬。是日天子出龍門泫金櫬。登高駐蹕目盡迴輿。自伊及江扶道哀侯。旛花百輦香雲千里。維十月哉生魄。明即舊居後岡安神起塔。國錢嚴飾賜逾百萬。巨鍾蓋先帝所鑄。群經乃後皇所錫。金榜御題花旛內造。塔寺尊重遠稱標絕。初禪師形解東洛相見南荊。白霧積晦於禪山。素蓮寄生於坐樹。則雙林變色泗水逆流。至人違代同符異感。百日卒哭也。在龍華寺設大會八千人度二十七人。二祥練縞也。成就西明道場數如前會。萬回菩薩乞施後宮。寶衣盈箱珍價敵國。親舉寵貴侑供巡香。其廣福博因存沒如此。日月逾邁榮落相推。於戲法子永戀宗極。痛慈舟之遽失。恨涌塔之遲開。石城之歎也不孤。廬山之碑焉可作。竊比夫子貢之論夫子也。生於天地。不知天地之高厚。飲於河海。不知河海之廣深。強名其迹以慰其心。銘曰。額珠內隱。匪指莫効。心鏡外塵。匪磨莫照。海藏安靜。風識牽樂。不入度門。孰探法要。倬哉禪伯。獨立天下。功收密詣。解却名假。詣無所得。解亦都捨。月影空如。現於悟者。無量善眾。為父為師。露清熱惱。光射昏疑。冀將住世。萬壽無期。奈何過隙。一朝去之。嗟我門人。憂心斷續。進憶瞻仰。退思付囑。盡不離定。空非滅覺。念茲在茲。敢告無學。時岐王範及徵君盧鴻一。皆勒碑製碣。舊唐史有傳稱。沙門被王者禮敬。古未之有。
(丁未) 改景隆。
(三十八) 神僧萬回入宮。賜號法雲公。舘于集賢院。給二美人奉事。未幾忽求閿鄉河水。左右倉皇莫能得。又曰。第穴堂前地可得也。既得之。回飲水畢湛然而逝。賜號國公。圖形集賢院。初回幼能三千里致兄書。朝往暮歸。因號萬回。高宗聞其名詔入宮。度為沙門。則天在位。廷之禁中賜錦衣。令宮人給侍。莊惠太子始生。則天抱之示回。回曰。此西域樹精。養之宜兄弟。及安樂公主怙韋后將謀逆。回遇之望塵唾曰。血腥不可近。未幾安樂果誅。玄宗在蕃甞私謁回。回拊其背曰。五十年太平天子。睿宗為相王每將出。回必告市人曰。天子來。少頃而相王至。其神異類如此。示寂于長安醴泉里。壽七十四矣。
論曰。法雲公甞有偈曰。明暗兩忘開佛眼。不繫一法出蓮叢。真空不壞靈智性。妙用甞存無作功。聖智本來成佛道。寂光非照自圓通。熟味厥旨。蓋大乘了悟之言也。而法雲特以小乘神異顯化。至於佛菩薩出世宏正法眼。必涵光混世未始泄露密機。直至臨終方有付囑。然則法雲章章顯異。抑聖賢之權與。
(三十九) 是年七月庚辰下詔曰。釋典玄宗理均迹異。拯人化俗教別功齊。自今每緣法事聚集僧尼道士女冠等宜齊行並集。初太宗以老子為皇宗。升於釋氏之上。至則天朝。復在釋氏之下。今此已往遂為永式。令齊班並集云。
(四十) 國師惠安卒。誡其徒曰。吾氣盡將尸置林中恣野火焚之。偶神僧萬回至。與安握手言論。其徒側聆俱莫之省。至八日合戶偃身而寂。春秋一百二十八。其徒奉命舁尸林中。果野火至闍維之。得舍利八十粒。五粒最巨而紫紅色光焰奪目。詔留禁中云。
(四十一) 是歲再詔于闐國三藏實叉難提至。帝降蹕迎勞。備兩街法儀。旌幢鼓吹迓之。載以青象安置薦福寺。難提風神宏曠儀韻秀整。善大小乘通華梵語。
(四十二 戊申) 泗洲大士僧伽詔入宮供養。度惠儼惠岸木叉三人為侍者。帝親書所居寺額曰普光王。未幾遷止薦福寺。明年京畿旱。有旨命大士致雨。僧伽以瓶水散洒。即有濃雲自所居而涌大雨傾注。又明年二月示寂。壽八十有三。神采如生。勅就薦福寺塑身建塔。即穢氣滿城。帝炷香祝之。許送歸淮。言訖異香郁然。傾都歎異。遂奉全身歸泗洲普光王寺建塔。帝甞問法雲公萬回曰。僧伽何如人。對曰。觀音大士化身耳。神化事迹具如蔣頴叔所著傳。大師自西國來。唐高宗時至長安洛陽行化。歷吳楚間手執楊枝混于緇流。或問。師何姓。即答曰。我姓何。又問。師是何國人。師曰。我何國人。尋於泗上欲構伽藍。因宿州民賀跋氏捨所居。師曰。此本為佛宇。令掘地果得古碑云。香積寺。即齊李龍建所創。又獲金像。眾謂然燈如來。師曰。普光王佛也。因以為寺額云。乾符中諡證聖大師。
(四十三 己酉) 是歲召律師道岸入宮。為妃主授歸戒。因留禁中。別日帝至。諸師皆辟席。岸獨逡巡長揖而已。帝高其量圖形于林光宮。御製讚曰。戒珠皎潔惠流清淨。身局五篇心融八定。學妙真宗貫通實性。維持法務綱紀德政。律藏冀兮傳芳。像教因而光盛。時以為榮焉。
八月乙卯。以高宗舊第興聖寺有柹樹天授中枯死至是忽重榮。因大赦天下。賜百官封爵。普度僧尼道士凡數萬。
(四十四) 九月。詔三藏菩提流志。於北苑白蓮池甘露亭譯大寶積經。勅中書陸象先尚書郭元振宰相張說潤文。經成凡五十九會。總一百二十卷。
(四十五 庚戌) 是年三月。勅東都留守韋安石。齎詔起嵩山沙門一行赴闕。行辭疾不赴。遁入荊州當陽山。舊唐史云。行姓張氏。初名遂。剡國公公瑾之孫。武功令擅之子。少聰敏覽觀子史。甞詣道士尹崇。借太玄經讀之。數日而還。崇曰。此經精微吾尋積年尚未曉。子宜研究無忽也。行曰。已究其義。因出所撰太衍玄圖并義決。崇覽之大驚。因與談其淵奧。退謂人曰。此後生顏子也。由此知名於世。初武三思慕其學行就請結交。行遁匿辟之。尋出家遍歷天下訪求異術。至天台國清寺。見別院古松數十門有流水。行立門屏聞僧於庭中布算聲。而語其徒曰。今日當有弟子自遠來求吾算法。已合到門豈無人導引乎。即除一算曰。門前水當西流。弟子亦至矣。行返顧溪水果已西流。遂承其言。遽趨入再拜咨求其法。彼盡授與之。遂洞曆象陰陽推步之學。回入嵩山。依普寂禪師參決禪門宗旨。及遁當陽山。又從律師惠悟學毘尼。凡經籍一覽畢世不忘。
佛祖歷代通載卷第十二
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十三
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐
(一 庚戌) 睿宗旦改景雲(高宗第八子。初封豫王。武后廢中宗而立為帝者。七年而廢封相王。壽五十五。立隆基為太子。任宋璟姚崇為政。帝妹太平公主恃功專橫。在位三年)。
(壬子) 初改太極又改廷和又改先天(七月傳位太子)。
(二) 先天元年。三十三祖惠能大師示寂。姓盧氏。其先范陽人。父行瑫。武德中左官于南海之新州。遂占籍焉。三歲喪父其母守志掬養。及長家貧。師樵采以給。一日負薪至市中。聞客讀金剛經。悚然問客曰。此何法。得於何人。客曰。此名金剛經。得於黃梅忍大師。歸告於母以為法尋師直抵黃梅。忍大師一見默識之。後傳衣法令隱于懷集四會之間。儀鳳元年正月八日屆于南海。及返曹溪雨大法雨。一日示眾曰。諸善知識各各淨心聽吾說法。汝等諸人自心是佛。更莫狐疑。外無一物而能建立。皆是本心生萬種法。故經云。心生種種法生。心滅種種法滅。若欲成就種智。須達一相三昧一行三昧。若於一切處而不住相。於諸法中不生憎愛。亦無取舍。不念利益成壞等事。安閒恬靜虛融淡泊。此名一相三昧。若於一切處行住坐臥純一直心。不動道場即成淨土。名一行三昧。若人具二三昧。如地有種能含藏長養成就其實。一相一行亦復如是。我今說法猶如時雨普潤大地。汝等佛性譬如種子遇茲沾洽悉得發生承吾言者決獲菩提。依吾行者定證妙果。師說法度人。往來學者嘗逾千數。明年七月辭歸新州故宅國恩寺。其徒泣曰。師歸當復來不。師曰。葉落歸根來時無口。又問。師之法眼何人傳受。師曰。有道者得無心者通。至國恩寺。以八月三日示眾曰。吾受忍大師衣法。今為汝等說法不付其衣。蓋女等信根已熟決定無疑。堪任大事。聽吾偈曰。心地含諸種。普雨悉皆萌。頓悟花情已。菩提果自成。復謂眾曰。其法無二。其心亦然。其道清淨亦無諸相。女等不用觀靜及空其心。此心本淨無可取舍各自努力隨緣好去。吾涅槃時至珍重。即跏趺而逝。於是山林變白鳥獸哀鳴。綵雲香霧連日不開。既時廣州都督韋據率韶新二郡官吏。迎奉全身歸于曹溪寶林寺建塔。真身今尚存焉。舊唐史曰則天聞神秀名詔至都。肩輿入殿親加跪禮。勅當陽山剏度門寺以旌其德。時王公已下及京城士庶。聞風爭來謁見。望塵拜伏日以萬數。初神秀與惠能同師弘忍。而行業相埒。及忍卒能住韶州廣果寺。韶陽山中舊多虎豹。一夕去盡。遠近驚歎咸歸伏焉。秀嘗奏則天。請召能赴闕。能固辭。秀復自作書重邀之。能謂使者曰。吾形貌矬陋。北土見之恐不敬吾法。又先師以吾南中有緣。亦不可違。及中宗召之。竟不度嶺而卒。天下散傳其法。謂秀為北宗。能為南宗。
(三 癸丑) 玄宗隆基改開元(睿宗第三子。嬖楊貴妃。為道士。曰太真。帝初用姚崇宋璟為相治平。晚年耽湎淫佚。用李林甫楊國忠為相。安祿山為將致亂。幾致亡國。二十九即位。壽至七十八歲。至上元元年崩。葬泰陵)。
(四 甲寅) 二年十月十七日。永嘉玄覺禪師示寂。姓戴氏。丱歲出家。博貫三藏精天台止觀圓妙法門。與東陽策禪師偕謁六祖。師至振錫繞祖三匝。祖曰。夫沙門者具三千威儀八萬細行。大德自何方而來生大我慢。師曰。生死事大無常迅速。祖曰。何不體取無生了無速乎。師曰。體即無生了本無速。祖曰。如是如是。師乃具威儀參禮。須臾告辭。祖曰。返太速乎。師曰。本自無動。豈有速耶。祖曰。誰知非動。師曰。仁者自生分別。祖曰。女甚明得無生之意。師曰。無生豈有意耶。祖曰。無意誰當分別。曰分別亦非意。祖曰。善哉善哉。少留一宿。時謂一宿覺。及回學徒奔萃。著證道歌一篇。梵僧傳歸天竺。彼皆欽仰目為東土大乘經。又著禪宗悟修圓旨十篇及觀心十門。並盛傳于世。
(五 乙卯) 三月八日。玄宗遣禮部郎中張洽。齎詔詣當陽山。起沙門一行赴闕。行以再命不許辭赴之。有旨安置光泰殿。帝數訪以安國撫民之要。行啟陳無隱。未幾永穆公主出降。詔依太平公主故事優厚發遣。行諫以為高宗末年唯有一女。所以特加優禮。而太平竟以驕僭得罪。不應引以為例。帝納其言。遽追勅但依常禮。其忠諫多類此。或謂行優於憶誦。帝一日命出宮籍示之。行閱畢。令內侍執本對帝復之。不差一字。帝驚異顧謂左右曰。聖人也。自是頻召咨質佛心之要。行雍容啟沃聖眷日隆。天下之人。以帝從之問道。稱為天師焉。
(六 丙辰) 嵩嶽元珪禪師示寂。師居嶽之龐塢。一日有異人。峨冠盛服擁衛而至。珪曰。善來仁者。胡為而至。彼厲聲曰。師寧識我耶。珪曰。吾觀佛與眾生等吾一目之。豈分別耶。曰我此嶽神也。能生殺於人。師安得一目我哉。珪曰。吾本不生。汝安能殺。吾視身與空等。視吾與汝等。汝能壞空與汝乎。使果能之。吾則不生不滅也。況汝不能。焉能生殺我耶。神稽首曰。我聰明正直過於餘神。詎知師有廣大智慧。願授以正戒令我度世。珪曰。汝既乞戒。即既戒矣。所以者何。戒外無戒。又奚戒哉。神曰。此理也我聞茫昧。止求師戒。我身願為門弟子。珪即張座秉爐正几曰。付汝五戒。若能即曰能。不爾即曰否。神曰。謹奉教。曰汝能不婬乎。神曰。亦娶也。曰非謂此也。謂無羅欲也。神曰能。曰汝能不盜乎。神曰。無乏我也。安有盜取哉。曰非謂此也。謂饗而福淫不供而禍善。神曰能。曰汝能不殺乎。神曰。實司其柄。焉得不殺。曰非謂此也。謂有濫誤疑混也。神曰能。曰汝能不妄乎。神曰。我惟正直。焉有妄哉。曰非謂此也。謂先後不合天心也。神曰能。曰汝不遭酒敗乎。曰能。曰如上是為佛戒也。以有心奉持而無心拘執。以有心為物而無心想身。能如是則先天地生而不為精。後天地死而不為老。終日變化而不為動。畢竟寂滅而不為休。悟此則雖娶非妻也。雖饗非取也。雖柄非權也。雖作非故也。雖醉非惛也。是謂無心而已。無心則無戒。無戒則無心。無佛無眾生。無汝亦無我。無汝則孰為戒哉。神曰。我神通去佛幾何。曰汝神通則十句五不能。佛則十句七能三不能。神竦然辟席曰。可得聞乎。珪曰。汝能戾上帝東天行而西七曜乎。曰弗能也。珪曰。汝能奪地祇融五嶽而結四海乎。曰弗能也。珪曰。是謂五不能也。佛能空一切相成萬法智。而不能即滅定業。佛能知群有性窮億劫事。而不能化導無緣。佛能度無量有情。而不能盡眾生界。是謂三不能也。然定業亦不牢久。無緣亦謂一期。眾生界本無增滅。廓無一人能主有法。有法無主是謂無法。無法無主是謂無心。如我解佛。亦無神通也。但能以無心通達一切法耳。神曰。我誠淺昧。未聞空義。師所授戒我當奉行。今願報慈德効我所能。師曰。吾觀身無物。觀法無常。了然更有何欲。神曰。師必命我為世間事展我神功。使已發心未發心信心不信心等人目我神蹤知有佛有神有能有不能有自然有非自然者。師曰。吾無用是為。曰佛亦使龍神護法。師寧墮叛佛耶。第隨意示誨。師不得已曰。東岩寺之障。莾然無樹。北岫有之。然而背非屏擁。汝能移北樹於東嶺乎。神曰。既聞命矣。恐昏夜必有喧動。願師無駭。即作禮辭去。使門人送而且觀之。見儀衛逶迤如王者之狀。嵐靄煙霞紛綸間錯。幢幡環佩凌空隱沒。是夕果有暴風迅雷奔雲震電。棟宇搖蕩宿鳥驚呼。師謂眾曰。無怖神與我契矣拂旦和霽則北山之松盡移東嶺。森然行植焉。師誡其徒曰。吾沒後無令外知。若為口實人將妖我矣。師伊闕人。姓李氏。幼歲出家具戒得法于老安國師。壽七十有三云。
論曰。荊國王文公嘗問張文定公曰。去孔子百年而有孟。軻此後迨孔孟者為。誰何吾道之寥寥乎。文定沈吟久之曰。有人第恐過之耳。曰誰耶。文定曰。南嶽讓嵩山珪馬祖石頭丹霞無業。若此類。孔孟之教轡勒不住。故歸釋氏矣。文公深肯之。其後張公無盡聞之歎曰。達人之論也。然嵩山蓋祖庭之旁出者也。其感應超絕說法沛然如此。則南嶽而下的傳正續宗師。世教轡勒不住。端可見矣。二三公之讜論。渠不信夫。
(七) 是歲天竺三藏法師無畏至京師。帝嗣位之初。一夕夢梵僧謁見。風度環異。及寤追憶不已。因追畫工授以形段。圖于殿壁。及畏至入對。帝熟視蓋夢中所見僧也。竦然異之。舘于西明寺。寧薛諸王皆降禮欽重。其後秋旱。帝廉知無畏能致龍。遣內使傳詔請雨。畏難之。奏以旱數當然若苦召龍恐暴物。帝再遣諭旨。人苦秋暑。雖暴風疾雨適足快意。畏諾之。有司設壇儀華綵光麗。畏笑曰。是可以致雨耶。命撤去之。獨持滿鉢水。以小刀攪之。誦呪語百餘番。即有微物如蚪龍。從鉢矯首水面。頃之復沈。畏呪遣之。白氣自鉢騰涌。語詔使曰。速歸雨即至矣。詔使馳出回顧有雲如練。自講堂盤旋而上。頃刻風雷震電。詔使趨入奏御。衣巾已透濕。於是震風凌雨。飄蕩廬舍。士民悚懼。彌日而息。又嘗霖霪逾時。詔畏止之。畏於寺揑泥媼五軀。向之作梵語。若斥罵者即刻而霽。其神驗類如此。帝敬之若神。未幾通華言。譯虛空藏毘盧遮那蘇悉地羯羅等經十餘部。禪師一行三藏寶月等參預其事。畏性簡靜好禪觀。每勸學者習之。累表求還。帝堅留不許。
(八) 是歲廣州節度宋璟入曹溪禮祖塔。誓曰。弟子願畢世外護大法。祈一祥瑞表信。言訖微風飄香氤氳襲人。俄而甘雨傾注。唯遍一寺之內。璟忻躍而去。未幾召入。與姚元崇相繼執政。世稱姚宋為中興賢相。
(九 辛酉) 朝廷以麟德曆署日蝕比不驗。詔禪師一行改撰新曆。行受詔推大衍數立術以應之。較經史所書。氣朔日名度數可考者。皆合而著之。久之道士邢和璞謂太史令尹愔曰。一行其聖人乎。昔洛下閎造太初曆。嘗記曰。八百年後當差一日。必有聖人出世糾正之。今年期差滿。而一行推大衍數。以糾數家之謬。閎之言不誣矣。愔亦以為然。行復欲知黃道進退。而太史無黃道儀。表請剏置之。制可。
(十 壬戌) 帝注孝經并製序。
是歲沙門智昇。上釋教經律論目錄凡二十卷。銓次大藏經典及聖賢論譔。凡五千四十八卷。自是遂為定數。
(十一 癸亥) 十一年十月癸酉。禪師一行製黃道儀成。帝自為之銘。詔安武成殿庭以示百官。其儀準圓天之像。具列宿赤道及周天度數。注水激輪令其自轉。一晝夜而天運周外絡二輪。綴以日月令得運行。每天東行一周。日西行一度。月行十三度。以十九分度之二十九轉日有餘日月會。三百六十五轉而日周天。以木匱為地平。令儀半在地下晦明朔望遲速有準。立木人二於地平。其一前置鼓以候刻。至一刻則自擊之。其一前置鍾以候辰。至一辰亦自撞之。皆於地中略施輪軸。關鎖交錯相持。當時稱其妙以為神功。無幾銅鐵漸澁不能自轉。遂藏之於集賢院。
是歲改政事堂曰中書門下省。
(十二) ○有登州文登縣郭行妻王氏。生女鶴喙。將喪自言。酬先世甞齋之報以此示人。
(甲子 五七) 沙門牛雲者少不慧。因詣臺山禮文殊。初至東臺見老人問曰。胡為而來。曰願見大聖求聰慧耳。老人曰。文殊居北臺爾往見之。雲奉教趨北臺。老人亦在彼矣。雲意其即文殊也。遂拜之。老人曰。汝沙門也。不應禮俗士。雲拜不已。老人憐之。為入定觀雲前身蓋牛也。以嘗馳經故獲比丘報。老人起定為雲言之。復云。汝性昏迷胸中有淤肉在。當為汝钁去之。因戒雲閉目無輒開。雲如約。頗覺老人以钁鋤其胸。然不甚楚。少頃心懷開豁頓異往時。及開眸見老人現身為文殊妙相端嚴。謂雲曰。與汝聰明竟。雲喜躍作禮及起身而文殊隱。雲自是總持辨悟為時導師。以夙因故牛雲稱焉。
(十四 丙寅) 日本國沙門。榮叡普照等至于揚州。奉僧伽黎十領。其上綴以山川異物之狀。蓋其國主附之以施中國高行沙門。于時律師鑒真受其衣。歎外國人有佛種性。欲往化之。會叡照等亦勸請遂附舶而東。為惡風飄入魚蛇等海。以真律行高皆脫禍。既至日本。彼王預知枉駕迎勞。舘于毘盧遮那殿。未幾請真授歸戒。夫人群臣皆以次稟授。日本自是始有律教。
(十五 丁卯) 三藏菩提流志卒。春秋一百五十有六。流志南印土國王之子。以讓位出家。高宗聞名有詔要之。以垂拱中至京師。凡四十年。如華嚴寶積經等。皆出其手。帝及重臣敬之如生佛。葬日特給鹵簿羽儀。塔于龍門之西原。賜諡曰開元一切遍知三藏。名德之盛古未有焉。
(十六) 時嵩山破竈墮和上者。不稱名氏言行叵測。初見老安國師。契悟心要隱居嵩山。山有廟靈甚。殿中唯安一竈。遠近祭祀烹宰無虛日。師領徒入廟。以杖擊竈三下云。咄此竈泥瓦合成。聖從何來。靈從何起。恁麼烹宰物命。又擊三下。竈乃傾破墮落。須臾有一人青衣峨冠。設拜師前曰。我本廟竈神。久受業報。今蒙師說無生法。得說此處當生天上。特來禮謝。師曰。是汝本有之性。非吾強言。神再拜而去。少遷徒眾問師。某等久在和上左右。未蒙指示。竈神得何徑旨。便得生天。師曰。我只向伊道是泥瓦合成。別無道理為伊。眾無語。師良久云。會麼。眾云。不會。師曰。本有之性為什麼不會。眾僧乃禮拜。師曰。破也破也。墮也墮也。於是其眾皆悟玄旨。後有義豐禪師。舉問安國師。國師歎曰。此子會盡物我一如。可謂如朗月處空無不見者。只是難湊伊語脈。豐曰。未審什麼人湊他語脈。安曰。不知者。又僧問。物物無形時如何。師曰。禮即唯汝非我。不禮即唯我非汝。其僧禮謝。師曰。本有之物物非物也。所以道若能轉物即同如來。有僧從牛頭處來。師曰。來自何人法會。僧進前叉手繞師一匝而出。師曰。牛頭會下不可有此人。僧乃回上邊叉手而立。師云。果然果然。僧却問。應物不由他時如何。師曰。爭得不由他。僧云。恁麼即順正歸原去也。師曰。歸原何順。曰若非和上幾錯招愆。師曰。猶是未見四祖時道理。見後道將來。僧乃繞師一匝而出。師曰。順正之道今古如然。又僧侍立次。師曰祖祖佛佛只說如人本性本心。此外別無道理。會取會取。僧禮謝。師以拂子打之曰。一處如是千處亦然。師後不知終。
(十七) 是年十一月己丑。禪師一行寢疾于華嚴寺。舊唐史云。帝一夕夢游其寺見一室繩床竹窓氣象蕭索。及旦行以疾聞。帝遣中使候問。使還奏行居處之狀。與所夢冥合。帝歎久之。有旨命京城十大德為行結壇祈福。既而行疾少間。詔陪駕幸新豐。未幾行疾革。帝親候問。遂沐浴端坐而逝。春秋四十有五。帝哭之哀甚。輟朝三日。有詔傷悼聽停龕三七日。與中外贍禮。行容貌如生。而鬢髮日長。帝親製碑書之於石。出內庫錢五十萬建塔銅人原。諡曰大惠禪師。帝嘗從容問國祚幾何有留難不。行曰。鑾輿有萬里之行。社稷終吉。帝驚問故不答。退以小金合進之曰。至萬里即開。帝一日發合視之。蓋當歸少許。及祿山亂駕幸成都至萬里橋。忽悟未幾果歸。昭宗初封吉王。而唐以昭宗而滅。故云終吉。有里媼素供行。而媼一子坐殺人將之刑。媼悲泣請救。行怜之。令弟子捕生物。得雉豕七。行日藏其一於甕中。為梵語呪之。七日北斗盡沒。朝廷震驚。太史奏將有變。請避正殿禳之。帝密以問行。對曰。此無他。蓋妖魔也。凡嗔心壞一切善。慈心降一切魔。若賜赦天下則妖不能為。帝然之。遂大赦。媼子由是得免。行日出一豕則一星現。至七日而斗復如故。其祕術多此類。著易論十二卷。大衍論二十卷。開元大衍曆五十二卷。七政長曆三卷。釋氏系錄。大衍玄圖。心機算術。括遁甲十六局。六壬連珠歌。六壬髓經。天一太一經。太一局遁甲經。各一卷。五音地里經十五卷。宰相李吉甫奉詔撰一行傳一卷。並見唐藝文志。十六年詔特進張說曆官陳玄景等。編次一行所撰大衍曆施用。三月駕幸溫湯。道由一行塔所。帝為駐蹕徘徊。令品官詣塔。告以出豫之意。賜帛五十疋。令蒔塔前松柏。其為聖眷如此。宋史官歐陽文忠曰。自太初至麟德曆。凡二十三家。與天雖近而未密。至一行則密矣。其倚數立法。固無以易也。後世雖有改作者。皆依倣而已。沙門道泓者。生黃州與侍郎張敬之厚善。能言吉凶亡不明驗。嘗為中書張說視宅。戒曰。無穿東北壬隅也。他日見說曰。宅氣索然云何。與說共視隅有三坎丈餘。泓驚曰。公富貴一世而已。諸子將不終。說懼將平之。泓曰。客土無氣。與土脈不連。譬身瘡痏。補他肉無益也。其後說諸子皆污祿山以斥死。果如其言。
論曰。歐陽文忠公雅嫉吾釋。未始略有假借。獨於唐志尊一行大衍之作。而宋景文於方技篇削一行玄奘等傳。而獨著道泓地理之說。或者以為唐浮圖行業無足為二公取者。故止於是而已。夫豈然哉。蓋大衍所以統天時。地理則切於人事。是宜史筆取也。若吾釋之盛莫甚於唐。凡三百年間。以道德為天下宗師者。不可悉數。歐宋以為奉異方之教。故諱之而不書。猶春秋時雖老聃郯子之賢。返不若江人黃人得書于經。豈亦老氏不足取哉。蓋國經之典。凡禮樂刑政所及貴賤必書。若吾浮圖大絕世累頴脫塵表者。於刑政何與焉。宜其不參於世典也。由是言之。歐宋黜吾釋。其微意乃所以尊之也。盛哉一行。前膺洛下閎八百年之讖。當時則明天子跪之稱為聖人。及其製作施於後世。縕天地貫幽明歷數百年而其術益驗。果聖與賢耶。吾弗得而知矣。
(十八 己巳) 初以上生日為千秋節○用大衍曆。
是年太師燕國公張說薨。說為唐宗臣。朝廷大述作多出其手。為文屬思精壯。尤善釋典。嘗謫岳州而詩益悽婉。時人謂得江山之助。天下不稱姓而曰燕公。著石刻般若心經序曰。萬行起於心。心人之主。三乘歸於一。一法之宗。知心無所得是真得。見一無不通是玄通。如來說五蘊皆空。人本空也。如來說諸法空相。法亦空也。知法照空。見空捨法。二者知見復非空耶。是故定之與慧俱空法中。入此門者為明門。行此路者為超路。非夫行深般若者。孰能證於此乎。駙馬都尉滎陽鄭萬鈞深藝之士也。學有傳僻書成草聖。乃揮灑手翰鐫刻心經。樹聖善之寶坊。啟未來之華業。佛以無依相而說。法本不生。我以無得心而傳。今則無滅。道存文字意齊天壤。國老張說聞而嘉焉。讚揚佛事題之樂石。又製法池院二法堂贊并序曰。法池西三歸院二法堂。茲院長老初上禪師所造也。禪師姓彭氏名知。至性篤孝執親之喪七日不食。微言密行志道探玄。究易老莊太一之旨。善正書。擅鍾王品格。其點畫婉秀毫縷必見。如折槁荷磨文石。筋理洒颯固非人力之所致也。中朝名士山藪高尚法流開勝遠近慕焉。及晚年專意於禪頌。平生事業脫若遺塵矣。常歎帝王父母許我出家。雨露生成恩惟一揆。依如來教剏是功德。萬一乎獻福二宮潛祐七祖。將與一切咸登道場。於是三歸堂以長安元年辛丑子月望日癸卯立。善法堂以開元元年癸丑丑月望日戊辰建。禪師母弟仁婉弟子啟疑及沙彌令哲。左右斯業實有力焉。而作贊曰。敬告諸佛子。一心清淨觀。欲求正真道。當從信根入。是佛虛空相。是法微妙光。定慧不相離。是僧和合義。人空法亦空。二空亦復空。住心三空寶。是名三歸處。至哉初上人。建立善法堂。彩翠三世佛。莊嚴清淨眼。能運無礙心。普入於一切。見若不染色。知若不取識。是名真實見。亦名解脫知。佛觀離生滅。諸法等如是。
(十九 壬申) 是歲定五服制。蓋出自古。至天后請母三年。及盧氏駁議有異。開元五年盧履氷上言。眾議紛然。自是卿士之家。孝服有異。今二十年蕭嵩等改修五禮。勅下依行。五服禮者。一三年服。為父曰斬衰。哀情至切斬截其心。為母曰齊衰次其父也。然二十七箇月終矣。十二月小祥。二十五月大祥。二十七月?服。更加一月心喪。服之終也。齊斬服以縗麻。臣孝于君亦爾。二期年服。十三箇月。為祖父等。三大功。九月。為叔伯等。四小功。五月。堂兄弟等。五緦麻。三月。三從兄弟等內外族等。餘如五服注疏全之。
(二十) 八月壬申朔。三藏金剛智告其徒曰。白月圓時吾逝矣。至時遶毘盧像頂梵夾退歸寢室跏趺而逝。賜諡灌頂國師。勅中書杜鴻漸撰紀德碑。智西域人。本王種。出家從龍智阿闍黎傳密教及來東土初達南海。廣州節度聞于朝。有旨驛馳赴闕入見。帝大悅。館于大慈恩寺。未幾夏旱。詔智祈雨智結壇圖七俱胝像。約開眸即雨。閱三日像果開眸。有物自壇布雲彌空。斯須而雨。帝特降詔褒美。明年辭游雁門不允。遂遷薦福寺。為人語默興居容止凝粹。喜慍不形于色。見者莫測其涯。所至必結灌頂道場。弟子不空傳其教。初不空事智。智授以梵本悉曇章及聲明論。不逾旬而誦之。智奇其駿。引入金剛道場。以擲花驗之。智以為勝己。不空因求瑜伽五部。智未之許。不空擬入天竺求之。智一夕夢京城佛像皆東行。及寤以詰不空。空啟以西游意。智曰。汝有授道之資。吾何靳哉。即授以五部及毘盧遮那經蘇息軌範。及智沒不空奉遺教游天竺增廣其學。
是歲禪師義福卒。舊唐史云。福得法於神秀禪師。初止藍田化感寺。處方丈之室。二十餘年未嘗出宇之外。嘗隨駕幸東都。蒲號二州刺史及官吏士民皆齎旛華迎之。所在塗路充塞。及卒有旨。賜號大智禪師。葬伊闕之上。送者數萬人。中書嚴挺之為製碑。初神秀雖德行為禪門之傑得帝王欽重。而未嘗聚徒開堂傳法。至義福普寂。始於京城傳教。二十餘年人皆仰之。
(二十二 癸酉) 恒州刺史韋濟奏。方士張果有長年祕術。自言數百歲矣。則天嘗召之。果徉死不赴。今復見之。帝聞遣中書侍郎徐嶠齎璽書迎之。果至。帝聞其變化不測而疑之。時邢和璞者。善算。能知人壽夭。帝令。算果。懵然莫知其甲子。又有師夜光者。善視鬼。帝召果與之密坐。令夜光視之。夜光不能見。帝聞飲菫汁無苦者真奇士。會天寒以菫汁賜之。果飲三巵醺然如醉。顧左右曰。非佳酒也。傾之取鏡視齒則盡燋黑。命左右取鐵如意擊齒墮盡。更出神藥傅其齗寢。頃之齒復粲然如故。帝始信之。將妻以公主。果預知苦辭獲免。後懇辭歸山。下制曰。恒州張果先生游方之外者也。迹造高尚深入窈冥。早渾光塵應詔城闕。莫詳甲子之數。且謂羲皇上人。問以道樞盡會宗極今特行朝禮。爰昇寵命可銀青光祿大夫。號通玄先生。其年果入恒山。後不知終。
(二十三 乙亥) 二十三年三藏無畏卒。春秋九十有九。詔鴻臚丞李現監護喪事。塔于龍門之西山廣化寺。藏其全身。畏本釋種。甘露飯王之後。以讓國出家。道德名稱為天竺之冠。所至講法必有異相。初在烏茶國演遮那經須臾眾會咸見空中有毘盧遮那四金字各尋丈排列。久之而沒。又嘗過龍河。一托駝負經沒水。畏懼失經。遽隨之入水。於是龍王邀之入宮講法。不許。彼請堅至。為留三宿而出。所載梵夾不濕一字。其神異多類此。
(二十四) 是歲。三藏不空於師子國從普賢阿闍梨求開十八會金剛灌頂及大悲胎藏建壇之法。其王一日調象。俄而群象逸。莫敢禦之者。不空遽於衢路安坐。及狂象奔至。見不空皆頓止跪伏。少頃而去。由是舉國神敬之。
論曰。自大教東流。諸僧間以神異助化。是皆功行成熟契徹心源。自覺本智現量發聖。絕非呪力幻術所致也。殆自東晉尸利密已降。宣譯祕呪。要其大歸。不過祀鬼神驅邪妄為人禳災釋患而已。其間往往不無假名比丘自外國來挾術驚愚。有所謂羅漢法者。正公䯢邪術下劣之技。亦猶道家雷公法之類也。茲豈高道巨德弘禪主教者齒哉。及開元中西域金剛智無畏不空三大士。始傳密教。以玄言德祥開佑至尊。即其神功顯効幾與造化之力均焉。故三大士雖宏密教。抑本智現量發聖與。嘗慨資治通鑑稱。貞觀中有僧自西域來。善呪術能令人立死。復呪之使蘇。太宗擇飛騎中壯者試之。皆如其言。因以問傅奕。奕曰。此邪術也。臣聞邪不干正。請使呪臣必不能行。帝命僧呪奕。奕初無所覺。須臾僧忽僵仆。若為物所繫。遂不復蘇。此恐好事者曲為之辭。何則若使果有是。則僧非真僧呪非真呪。正謂邪術耳。固不足以張吾教之疵也。矧萬萬無此理。向使彼能自西域遠至長安厥術能死人而復蘇。乃不暇自衛其身。對常人無故而僵死。雖兒童莫之信也。又當是時三大士者雖俱未至。若京城大德僧惠乘玄琬法琳明贍諸公。其肯坐視絕域偽僧破壞教門。不請峻治乃留帝命傅奕辨耶。佛制戒律。雖春蹊生草猶不許比丘踐之。恐害其生。況說斷人命呪傳于世乎。故予謂好事者曲為之辭斷可見矣。◎
◎(二十五 戊寅) ○始建置州學。
二十六年。沙門法秀者。夢異僧勸置袈裟五百領。施回向寺僧。既覺歎異。遂乞匃造之。然遍訪所謂回向寺者。咸無得焉。一日道逢一僧。逆而問曰。託置袈裟今成未。秀曰。成矣。僧曰。吾導女入回向寺。女可裹糧載燧從吾以往。秀曰諾。翌日隨之入終南山。行二日。至深絕處。所見唯雲物掩苒嵓洞崎嶇。進遇石壇共止其上。僧命秀鑽燧出火。炷香望層霄拜之。忽雲開見崖半有朱門高聳剎旛飛揚。秀忻然與之攀躋而上。漸聞午梵清圓鐘磬交作。須臾望見其寺。有額曰回向。其僧即趨而入。命閽者授秀舘。因具儀謁上方老宿。次見諸僧皆奇偉雍穆相勞問。明日秀出袈裟遍寺施之。老宿謝畢携秀入一空房。呼侍者取尺八。俄頃侍者持玉簫至。老宿曰。此唐天子舊居之室也。向在此好聲樂。故降為人主。久當復歸。秀止再宿不得留。老宿授與玉簫并袈裟。囑曰。持歸獻唐天子。即遣僧送秀出寺。行未遠回望而雲霧四合。秀慨歎而還。詣闕表上所寄。帝覽之。因取玉簫調弄。宛如夙御焉。其後燕沈香亭詔李白為辭。帝吹玉簫楊妃起舞。歡甚疑飄搖而仙去(舊唐史)。
(己卯) ○封孔子文宣王(衣袞冕南面十哲坐圖七十二賢廟壁)。
(二十六 庚辰) 長者李通玄唐宗子也。開元二十八年順世。長者以七年至太原盂縣。有高仙奴者。識其為大賢。舘之齋中。每旦唯服棗十顆柏葉餅如七大者一枚。終日濡毫臨紙。未嘗接人事。如是三稔。遷馬氏古佛堂側。築土室以居。盡日危坐而已。閱十年忽囊負經書而去。行二十里。偶一虎當途馴伏。玄撫之曰。吾將著論釋華嚴經。能為擇棲止處不。即以經囊負其背而隨之至神福山原下土龕之前蹲駐玄取其囊置龕中。虎即妥尾而去。其龕瑩潔廣六七肘。圓轉上下稱之。蓋天設以卑有道。非人力所為也。長者著論之夕。心窮玄奧口出白光。以代燈燭。于時忽有二女子。容華絕世皆可笄年。衣布衣俱以白巾幪首。日為長者汲泉炷香奉紙墨。每於卯辰之間。輒具淨饌置長者前。齋畢徹器則引去莫測所之。如是五載。至長者著論畢。遂滅迹不見。長者美髭髯朗眉目。丹唇紫肥。冠樺皮衣麻衣。長裙博袖散腰徒跣而行。放曠人天靡所拘執。嘗一日出山。遇里人高會燕樂。長者就語之曰。汝等好住。吾將歸矣。眾驚其去有送入山者。至龕而謝遣之。即於是夕煙雲凝布嵓谷震蕩。有二白鶴翔空哀唳。其餘飛走悲嗚滿山。翌日里人共往候之。則已端坐示寂于龕中。壽九十有五。華嚴論四十卷決疑論四卷。會釋二卷。十門玄義排科釋略及緣生解迷十明論各一卷。十玄六相普賢行願華嚴緣觀偈贊詩賦等。里人聚於方山逝多蘭若。大曆中沙門超廣始獲之。遂行于世。
(二十七) 十二月。青原行思禪師示寂。吉州安城人也。姓劉氏。幼年出家。初見六祖。問當何所務即不落階級。祖曰。汝曾作什麼。師曰。聖諦亦不為。祖曰。落何階級。師曰。聖諦尚不為。何階級之有。祖深器之。及居青原。有沙彌希遷者。見師。師云。子何方而來。曰曹溪。師曰。將得什麼來。曰未到曹溪亦不失。師曰。恁麼則用去曹溪作什麼。曰若不到曹溪爭知不失。遷問。曹溪還識和尚不。師曰。汝今識吾不。曰識又爭識得。師曰。眾角雖多一麟足矣。他日又問遷。汝什麼處來。曰曹溪。師乃竪起拂子云。曹溪還有這个麼。曰非但曹溪。西天亦無。師曰。子莫曾到西天不。曰若到即有也。師曰。未在更道。曰和尚也須道取一半。莫全靠學人。師曰。不辭向汝道。恐已後無人承當。又令遷往南岳和尚處下書曰。汝達書了速回。吾與汝个鈯斧子住山。遷至彼未呈書。便問。不重己靈不求諸聖時如何。讓曰。子問太高生。何不向下問。遷曰。寧可永劫沈輪。不慕諸聖解脫。讓便休。遷回。師問。子返甚速。書達不。遷曰。信亦不通。書亦不達。師曰。作麼生。遷舉前話了便云。去時蒙和上許鈯斧子。便請。師垂下一足。遷禮謝。辭往石頭。即石頭和上是也。及是師既歸寂。門人咸尊為七祖焉。
(二十八) 時京都興唐寺禪師普寂卒。舊唐史云。寂生河東馬氏。少時遍尋高僧學經律。師事神秀凡六年。秀奇之。盡以道授之。秀入京因薦與則天。得度為僧。秀歿天下好釋氏者咸師事之。中宗聞其高行。特下制令代神秀統其法眾。開元十三年有旨移寂於都城居止。時王公士庶爭來禮謁。寂嚴重少言。來者難見其和悅之容。遠近尤以此重之。及卒凡京城士庶曾謁見者。皆制弟子之服。有勅賜號大照禪師。葬日河東尹裴寬及其妻子並衰麻列于門徒之次。士庶傾城哭送市易幾廢。
(壬午) 改天寶。
(二十九) 九月。太子詹事嚴挺之卒。少有風操累登顯用。皆著聲績。天下引領望其為相。帝亦知其賢。欲遂相之。晚為李林甫所抑。欝欝不得逞至是預為墓誌曰。天寶元年挺之自絳州刺史抗疏陳乞。天恩允從許養疾歸間。兼授太子詹事。前後歷三十五官。每承聖恩常忝獎擢。不盡驅策駑蹇。何階仰答鴻造。春秋七十無所展用。為上士所悲。其年九月寢疾于洛陽之私第。以某月某日葬于大照和上塔次之西禮也。盡忠事君叨載國史。勉拙從事或布人謠。陵谷可以自紀。文章焉用為飾。初挺之師事大照禪師惠義。深明釋典。及遺葬大照塔次。示不忘其德。見舊唐史。
(三十 癸未) 帝遣中使楊庭光入司空山采常春藤。光因詣無相寺問本淨禪師曰。弟子慕道斯久。願和上慈悲略垂開示。師曰。天下禪宗碩學咸會京城。天使足可啟決。貧道猥山傍水無所用心。楊再拜。師曰。天使休禮貧道。天使為求佛耶。問道耶。曰弟子昏昧。未審佛之與道其義云何。曰若欲求佛即心是佛。若欲會道無心是道。曰云何即心是佛。曰佛因心悟心以佛彰。若悟無心佛亦不有。曰云何無心是道。曰道本無心。無心名道。若了無心。無心即道。庭光跪受。回闕具以山中所遇聞奏。即勅庭光齎詔起師。以是冬十二月到京安置白蓮亭。明年正月上元日。追兩街名僧碩學赴內道場。共師闡揚佛理。有遠禪師者。問如禪師所見以何為道。師曰。無心是道。遠曰。道因心有。何得言無心是道。師曰。道本無名。因心名道。心名若有。道不虛然。窮心既無。道憑何立。二俱虛妄總是假名遠曰。禪師見有身心是道以否。師曰。山僧身心本來是道。遠曰。適言無心是道。今又言身心本來是道。豈不相違。師曰。無心是道。心泯道無。心道一如。故言無心是道。身心本來是道道亦本是身心。身心本既是空。道亦窮源無有。遠曰。觀禪師形體甚小。却會此理。師曰。汝只見山僧相不見山僧無相。遠曰。請禪師於相上說出無相師曰。淨名經云。四大無主身亦無我。無我所見與道相應。大德若以四大有主是我。若有我見窮劫不可會道也。遠慚汗而退。如遠者又七人往復論道。師皆縱口詞辯傾注。帝及四眾莫不稱善而罷。
(三十一 甲申) 三年南嶽懷讓禪師示寂元和中名儒張正甫製其碑曰。天寶三載觀音大師終于衡岳。春秋六十八。僧臘四十八。元和十年故大師弟子道一之門人曰惟寬懷暉。感塵劫遽遷塔樹已拱。懼絕故老之口將貽後學之憂。丕若貽謀思揚祖德。乃列景行託於廢文。強名無跡以慰乎罔極之思。曰自騰蘭演教于此土也殆將千歲。達磨傳心至六葉也分為二宗。不階初入頓入佛慧。曹溪教旨於是乎傳。弘而信之觀音其人也。大師諱懷讓。京兆杜氏。其先因家安康。即為郡人。髫年駿發聰悟絕眾。群言所涉一覽無遺。居常而未或好弄。在醜而不可褻近。嘗默觀止水。因而顧影。形儀顒若宛在鏡中。三反厥像如初。沛然而心乎獨得。還步未輟。聞於空中曰。佛法津梁俟子而大。既應付囑。爾盍勉之。乃深割愛線亟從剃落。以荊土律藏之微密也。大士智京在焉。攝衣從之。既進而儀法峻整冠於等輩。以嵩嶽禪之泉海也。長安長老在焉。稽首咨之。既授而身心自在超出塵垢。厭離文字恩會宗元。周法界以冥搜。指曹溪而遐舉。能大師方弘法施學者如歸。涉其藩閫者十三焉。躋其堂室者又十一焉。師以後學弱齡分於末席。虛中而若無所受。善閉而唯恐有聞。能公異焉。置之座右。會一音吹萬有。衍方寸彌大千。同焉而友暢。異焉而脗合。同受祕印因為宗師。乃陟武當窮棲十霜朅來衡岳終焉是託般若勝概。有觀音道場。宴居斯宇。因以為號。或微言析理。辯士順風而杜其口。或杖屨將撰。山靈借留而現於夢。遠自梁益近從荊吳。雲趨影附風動川至。靈山聖會古今一時。至矣哉未始聞也。一公見性同德。弘教鍾陵欝為名家。再揚木鐸而施及寬暉。繼傳心燈共鎮國土。乃追琢琬琰揭于故山。揚其耿光以示來劫。其受法弟子亦序列于左。式明我教之有開焉。
(三十二 乙酉) ○立楊太真為貴妃矣○道士吳筠。是年詔見于大同殿。帝問道要。對曰。深於道者無如老子五千文。其餘徒喪紙扎耳。復問神仙治鍊法。對曰。此野人事。積歲月求之。非人主宜留意。筠每陳皆名教世務。以微言諷天子。天下重之。沙門嫉其見遇而高力士素事佛共短筠於帝。筠知不得留辭還山。下詔為立道館。後徙茅山由會稽剡中卒。初筠見惡於力士而斥。故其文深詆釋氏。議者譏其背向。時浙西觀察使陳少游。大惡筠所為。因命法師神邕著論折之。邕著翻迷論以訂其妄。筠論遂廢。給事中竇紹。見邕論歎曰。邕可謂塵外摩尼論中師子。
(三十三 丙戌) 五月制天下度僧尼。並令祠部給牒。今謂之祠部者。自此而始也。
(三十四 丁亥) 是歲不空三藏自西域還。詔入內結壇為帝灌頂賜號智藏國師。時方士羅思遠者。以術得幸。有旨令與不空驗優劣。他日會于便殿。思遠持如意向之言論次。不空就取如意投諸地。令思遠舉之。思遠饒力不能舉帝擬自取。不空笑曰。三郎彼如意影耳。即舉手中如意示之。思遠欽服而罷。不空凡祈禱必張繡座。手持木神誦呪擲之。神自立于座。四眾環視必見其神目吻瞬動。所禱雖造化之功可奪。朝野奉之如佛焉。是年鳳凰現。
(辛卯) 世尊示滅一千七百年矣。
(三十五 壬辰) 潤州鶴林寺徑山大師玄素卒。左補闕李華製碑。其略曰。嗚呼菩提位中六十一夏。父母之生八十五年。赴哀泣者可思量否。至有浮江而奠望寺而哭。十里花雨四天香雲。幡幢蓋網光蔽日月。以其月二十一日。四眾等號捧全身建塔于黃鶴山西原。象法也。州伯邑宰執喪師之禮率申哀慕。江湖震悼。曩於寺內移居高松互偃。涅槃之夕猗桐雙枯。虎狼哀號聲破山谷。人祇慘慟天地晦冥。及發隱登原風雨如掃。慈鳥覆野靈鶴徊翔。有情無情德至皆感。門人法鏡法海。親奉微言繕崇龕座。菩薩戒弟子故吏部侍郎齊翰。故刑部尚書張均。故江東採訪使劉日正。故廣東都督梁昇。故潤州刺史徐嶠韋昭理。故給事中韓延賞。故御史中丞李丹。道流人望莫盛於此。弟子嘗聞道於徑山。猶樂正子春之於夫子也。洗心瞻仰天漢彌高。鏡公門人悟甚深者。大理評事楊詣過去聖賢諸功德藏。志之所至無不聞知。魯史從告。況乎傳信。其文曰。濁金清鏡在爾銷鍊。磨之瑩之功至乃見。膏漬注然光明外遍。陽升律應草木皆變。啟迪瘖瞽唯吾大師。息言成教捨法興悲。辰極不動風波自移。境由心寂道與人隨。沓然玄默湛入無為。性本非垢云何淨除。身心宴寂大極淪胥。內光無盡萬境同如。甘露正味琉璃妙器。遍施大千無同無異。度未度者化周緣備。道樹忽枯涅槃時至。我生無滅隨世緣因。吉祥殿上應化諸天。寂寂靈塔滔滔逝川恒沙劫壞智月常圓。
(三十六 癸巳) 西蕃寇圍涼州。帝命三藏不空祈陰兵救之。空誦仁王密語數番。有神介冑而至。帝親見之。問曰。神謂誰。空曰。北方毘沙門天王長子也。空誦密語遣之。數日涼州捷報。有神兵至威武雄盛。賊畏懼卷甲而去。帝悅詔天下。軍壘皆立毘沙門天王祠。
(三十七 甲午) 左溪玄朗法師卒。朗如意中得度。就會稽叩宗法師商略律部依恭禪師研究心法行頭陀教。初南岳惠文禪師。悟法華宗旨以授惠思禪師。思授天台智顗。顗授章安灌頂。頂授縉雲智威。威授東陽惠威。朗奉事東陽盡傳其道。重山深林怖畏之地。獨處岩穴凡三十年。宴坐左溪。因以為號。每曰。泉石可以洗昏蒙。雲松可以遺身世。吾以此始亦以此終。建立精舍約而不陋。跪懺其間。奉觀音上聖。願生兜率親近彌勒。心不離定口不嘗藥。或衣弊食絕。布紙而綻掬泉而齋。如繒纊之溫。如滑甘之飽。或問。萬行俱空云何苦行。答曰。本無苦樂妄習為因。眾生妄除我苦隨盡。又問。山水自利如聚落何。對曰。名香挺根於海岸。如來成道於雪山。未聞籠中比夫寥廓也。一日告門人曰。吾五印道成萬行無得。戒為心本。爾等師之。言訖而逝。春秋八十有二。弟子神邕玄淨法燈消辯湛然等數十人傳其教。補闕李華誌其碑陰。略曰。禪師誨人匪勌。謂不待眾。一欝多羅四十餘載。一尼師壇終身不易。食不重味居必遍廈。非披閱聖教。不空然一燭。非瞻禮尊儀。不虛行一步。其微細修心。皆循律法之制。是以遠方沙門隣境耆宿擁室填門。
(三十八) 若冬暘夏陰不召而自至也。其後翰林梁肅。深得台教之旨趣。嘗著天台法門議曰。修釋氏之訓者務三而已。曰戒定慧。斯道也始於發心成於妙覺。經緯於三乘。導達於萬行。而能事備矣。昔法王出世由一道清淨。用一音演法。機感不同所聞益異。故五時五味半滿權實偏圓小大之義。播於諸部粲然殊流。要其所歸無越一實。故經曰。雖說種種道。其實為佛乘。又曰。開方便門示真實相。喻之以眾流入海。標之以不二法門。自次兩得同詣祕密。此教之所由作也。洎鶴林滅而法網散。神足隱而宗塗異。各權所得互為矛盾。更作其中。或三昧示生四依出現。應機不等持論亦別。故攝論地持成實唯識之類。分路並作。非有非空之談。莫能一貫。既而去聖非遠。其風東扇。說法者桎梏於文字。莫之自解。習禪者虛無其性相。不可牽復。是此者非彼。未證者謂證。慧解之道流以亡反。身口之事蕩而無章。於是法門之大統。或幾乎息矣。既而教不終否。至人利見。惠聞惠思或躍相繼。法雷之震未普。故木鐸重授於天台大師。大師像身子善現之超悟。備帝堯大舜之休相。相贊龍樹之遺論。從南嶽之妙解。然後用三種止觀。成一事之因緣。括萬法於一心。開十乘於八教。戒定慧之說。空假中之觀。坦然明白可舉而行。是故教無遺法。法無棄人。人無廢心。心無擇行。行有所證。證有其宗。大師教門所以為盛。故其在世也。光照天下為帝王師範。其去世也。往來上界為慈氏輔佐。卷舒於普門示現降德。為如來所使。階位境智蓋無得而稱焉。於戲應跡雖往微言不墜。習之者猶足以抗折百家昭示三藏。又況聞而能思。思而能修。修而能信。信而不已者歟。斯人也雖曰未證。吾必謂之近矣。今之人正信者鮮。啟禪關者或以無佛無法何罪何善之化。化中人已下。馳騁愛欲之徒。出入衣冠之類。以為斯言且不逆耳。故從其門者若飛蛾之赴明燭。破塊之落空谷。殊不知坐致燋爛。而莫能自出。雖欲益之而實損之。與夫眾魔外道為害一揆。由是觀之。此宗之大訓。此教之旁濟。其於天下為不侔矣。自智者傳法。五世至今湛然大師中興其道。為予言之如此。故錄之以繫于篇。
(三十九) 是歲魯山令元德秀卒。德秀字紫芝。河南人。少孤事母孝。舉進士不忍去左右。自負其母至京師。母亡廬墓側。刺血寫佛經數千言。絕筆感異香。芬馥彌日而息。食不鹽酪藉無茵席。調南和尉。德秀不及親在而娶。不肯婚。人以為不可絕嗣。答曰。兄有子先人得祀。吾何娶為。初兄子襁褓喪親。無資得乳媼。德秀自乳之數日涌流。能食乃止。家苦貧求為魯山令。歲滿笥餘一縑駕柴車還。愛陸渾佳山水。乃定居。家無僕妾。歲饑或日一爨。嗜酒陶然鼓琴以自娛。房琯每見德秀。歎息曰。見紫芝眉宇。使人名利之心都盡。蘇源明嘗語人曰。吾不幸生衰俗。所不恥者識元紫芝也。及卒家唯枕履簞瓢而已。族弟元結哭之慟。或曰。子哭過哀禮與。結曰。若知禮之過而不知情之至。大夫弱無固壯無專老無在死無餘。人情所耽溺喜愛可惡者。大夫無之。生六十年。未嘗識女色。視錦繡未嘗求足。苟辭佚色。未嘗有十畝之地十尺之舍十歲之僮。未嘗完布帛而衣具五味而飡。吾哀之以誡荒婬貪佞綺紈粱肉之徒耳。
論曰。凡諸史雜傳。俱未有卓行篇。唐史特設此題。載元魯山數人而已。觀魯山行己之操及其弟元結所稱。儼然一高僧耳。寘唐史數千人中。遂嶄然傑出。顧不美哉舊史稱。其居母喪刺血寫佛經數千言。絕筆感異香。芬馥彌日而息。而新史削之。夫魯山居喪所為出乎至誠。宋景文何嫌而削之。若謂惡求福於佛。佛固未嘗邀魯山。魯山自為之而不疑。何佛之嫌。若以身體髮膚受之父母不應毀。則乳亦婦人之事。非男子有也。魯山尚能出乳以食兄之子。獨不當以血為母寫經何也。景文深存名教。然君子百行殊塗同歸。奚必靳靳然以儒釋歉哉。
(四十 乙未) (○安祿山請以蕃將三十二人代漢將。十一月反。兵十五萬發范陽陷東都)。
(丙申) 肅宗亨改至德元載(玄宗第三子。祿山反。玄宗幸蜀。權立太子於鳳翔。因即位。李泌為相。郭子儀李光弼為平安祿山史思明之亂。帝年五十二崩葬建陵。在位七年)。
(四十一) 五月。逆賊安祿山陷長安。玄宗幸蜀。或謂車駕入蜀之初。有守臣與祿山偕反者。其人曾為閬守。有畫像在路次。玄宗忽見之不勝大怒。命侍臣。以劍斬像首。其人時在陝西。不覺其首無故忽墮于地。及是駕至成都渡萬里橋。悟一行金合當歸之讖。於是洗然忘憂云。
秋七月。皇太子即位于靈武。是為肅宗。旬日諸鎮節度兵至者數十萬。乃以房琯為相。兼元帥討賊。未幾為祿山所敗。于時寇難方剡。或言宜憑福祐。帝納之引沙門百餘人。行宮結道場。朝夕諷唄。帝一夕夢沙門身金色誦寶勝如來名。以問左右。或對曰。賀蘭白草谷有新羅僧名無漏者。常誦此佛頗有神異。帝益訝之。有旨追見無漏。固辭不赴。尋勅節度郭子儀諭旨。無漏乃來見于行在。帝悅曰。真夢中所見僧也。既而三藏不空亦見于行宮。帝併留之託以祈禳。
(四十二 丁酉) 正月。安祿山子慶緒使李猪兒。弑祿山而自立。九月副元帥郭子儀破安慶緒復京師。十月帝至自靈武。十二月太上皇至自西蜀○未幾於內禁立道場。講誦讚唄甚嚴。宰相張鎬諫曰。天子之福要在養人。以一函宇善風俗。未聞區區佛事能致太平。願陛下以無為為心。不以小乘擾聖慮。帝不納。尋勅五嶽各建寺妙。選高行沙門主之。聽白衣能誦經五百紙者度為僧。或納錢百緡請牒剃落。亦賜明經出身及兩京平。又於關輔諸州納錢度僧道萬餘人。進納自此而始。改乾元復稱年○史思明殺安慶緒復反。
(四十三 戊戌) 是歲新羅僧無漏示寂于右閤門。合掌凌空而。立足去地尺許左右以聞。帝驚異降蹕臨視。得遺表乞歸葬舊谷。有詔護送舊居建塔。至懷遠縣下院。輒舉不動。遂以香泥塑全身。留之下院。
(四十四 己亥) 是歲遣使詣韶州曹溪。迎六祖能大師衣鉢。入內供養。詔南陽惠忠禪師赴闕。忠越州諸暨人。自受曹溪心印。居南陽黨子谷中。凡四十年。足不下山門。嘗示眾曰。禪宗學者應遵佛語一乘了義契自心源。不了義者互不相許。如師子身虫。夫為人師若涉名利別開異端。則自他何益。如世大匠斤斧不傷其手。香象所負非驢所堪。及是赴詔。初安置千福寺。一日帝問。如何是十身調御。忠起身而立曰。會麼。帝曰。不會。忠顧左右云。與老僧過淨瓶來帝又問。如何是無諍三昧。答曰。檀越踏毘盧頂上行。帝曰。此意如何。忠曰。陛下莫認自己清淨法身。帝益不曉。於是齋沐別致十問其一曰。見性已後用布施作福否。忠對。無相而施合見性。二曰。日夕作何行業合得此道。忠答。無功而修合此道。三曰。或有病難將何道理修行抵擬。忠對。無功而修了業本空得不動轉。四曰。臨終時作麼生得清涼自在無疑。忠以努力自信道為對。五曰。煩惱起時將何止息。忠以本心湛然煩惱回歸妙用。六曰。見性已去用持戒念佛求淨土否。忠對。性即是佛性即是淨土。七曰。捨此陰了當生何處。忠以無捨無生自在生為對。八曰。臨終時有華臺寶座來迎可赴否。忠以不取相為對。九曰。作麼生得神通以佛國。忠以見性如貧得寶如民得王對。十曰。只依此本性修定得作佛否。忠對。定得作佛佛亦無相。無得乃為真得。前十對皆廣有其辭。今約科目為對耳。帝由是凝心玄旨。
(四十五) 三月己丑。詔天下州郡各置放生池。冬十月昇州刺史顏真卿。撰有唐天下放生池碑銘并序曰。皇唐七葉我乾元大聖光天文武孝感皇帝陛下。以至聖之姿。屬艱虞之運。無少康一旅之眾。當祿山強暴之初。乾鞏勞謙勵精為理推誠而萬邦胥悅。克己而天下歸仁。恩信侔於四時。英威達于八表。功庸格天地。孝感通神明。故得迴紇奚霫契丹大食循蠻之屬扶服萬里決命而爭先。朔方河東平廬河西隴右安西黔中嶺南河南之師虓闞五年椎鋒而効死。摧元惡如拉朽。舉兩京若拾遺。慶緒遁逃。已蒙赤族之戮。思明跧伏。行就沸鼎之誅。拯已墜之皇綱。據再安之宗社。迎上皇於西蜀。申子道於中京。一日三朝。大明天子之孝。問安侍膳。不改家人之禮。蒸蒸然翼翼然。真帝皇之上儀。誥誓所不及已。歷選內禪。生人以來。振古及隨未有如我皇帝者也。而猶嫗煦萬類憂勤四生。乃以乾元二年歲次己亥春三月己丑。端命左驍衛右郎將史元琮中使張廷玉。奉明詔布德音。始于洋州之興道。洎山南劍南黔中荊南嶺南浙西諸道。迄于昇州之江寧秦淮太平橋。臨江帝郭上下五里。各置放生池。凡八十一所。蓋所以宣皇明而廣慈愛也。易不云乎。信及豚魚。書不云乎。洎鳥獸魚鼈咸若。古之聰明睿智神武而不殺者。非陛下而誰。昔殷湯克仁。猶存一面之綱。漢武垂惠。纔致銜珠之答。雖流水救涸寶勝稱名。蓋事止於當時。尚介祉於終古。豈我今日動者植者水居陸居。舉天下以為池。罄域中而蒙福。乘陀羅尼加持之力。竭煩惱海生死之津。揆之前古曾何髣髴。微臣職忝方面。生丁盛美受恩寖深。無以上報。謹緣臯陶奚斯歌虞頌魯之義。述天下放生池碑銘一章。雖不足雍容聖明萬分之一。亦臣之精懇也。碑銘不錄。
(四十六 庚如) 改上元。
(辛丑) 尚書左丞王維卒。維字摩詰。臨終無病。遺親故書數幅。停筆而化。工草隷善畫。名盛於開元天寶間。豪英貴人虛左以迎之。寧薛諸王待以師友畫思入神。至山水平遠雲勢石色。繪工以為天機所到非由學致也。客有以按樂圖示者。無題識。維曰。此霓裳第三疊最初拍也。客未然。引工按曲乃信。與弟縉皆篤志奉佛。食不葷血。衣不文綵。別墅在輞川地奇勝。有華子岡欹湖竹里館柳浪茱萸[洉-口+ㄒ]辛夷塢。與裴廸游其間賦詩相酧為樂。喪妻不娶。孤居三十年。母喪表請以輞川第施為佛祠。
(四十七 壬寅) 改寶應。四月庚戌。楚州龍興寺尼真如恍若有人接之。升天見天帝。帝授以十三寶。謂真如。曰中國有災。宜以第二寶鎮之。甲子楚州刺史崔侁奉表獻于朝。其一曰。玄黃天符(形如笏。長八寸闊二寸。黃玉也。有文云辟兵後)。二曰玉雞(毛文悉備白玉也)。三曰穀璧(徑六寸粟粒自然白玉也)。四曰西王母環二枚(徑七寸白玉也)。五曰碧色寶(圓而有光)。六曰如意珠(形如卵光如月)。七曰紅靺鞨(大如巨粟)。八曰琅玕珠二枚(長二寸)。九曰玉玦(如環四分缺其一)。十曰玉印(有文如鹿以印物則鹿形著)。十一曰。皇后採桑鉤(長六寸形如箸屈。其末色如金又如銀)。十二曰雷公斧(長二寸闊二寸)。十三曰(史失其名)帝覽之大悅。以置日中則白氣屬天。名之曰定國寶。帝以獻自楚州。即皇太子始封之國。又聞中原有災。宜以第二寶鎮之。遂詔皇太子攝政事。大赦天下。
五月太上皇崩。年七十有八。帝自春至夏多不豫。及太上皇崩。哀感號慟致疾。相距十四日而崩。年五十四。皇太子即位。是為代宗。
佛祖歷代通載卷第十三
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十四
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐
(一 癸卯) 代宗豫改年廣德(肅宗長子。玄皇諸孫百餘人代居長為嫡孫即位。後用元載為相。而黜李泌。及誅元載復用楊綰。年五十三崩紫宸內殿。葬元陵。在位十七年)。
(乙巳) 改年永泰○九月鑄金銅佛像於光順門。率百僚拜祀之。十月吐蕃寇逼京師。內出仁王經。輦送西明諸寺。置百尺高座講之。寇平○帝夢六祖惠能大師請衣鉢歸于曹溪。翌日遣中使送還。是時寇難屢逼。帝寖以為憂。宰相王縉曰。國家慶祚靈長福報所憑。雖多難無足道者。祿山思明毒流方煽而皆有子禍。僕固懷恩臨敵而踣。群戎來寇未及戰輒去。非人事也。帝由是篤意佛道修祠祀。詔天下官司無箠辱僧尼。禁中講誦仁王護國經。詔命不空三藏。
(二) 重譯舊本。帝親為之序。官不空特進鴻臚卿。是年詔法師良賁。於大明宮之桃園。造新仁王經疏成。賁以表進呈。略曰。洗心滌慮扣寂求音。發明啟自天宮。加被仰憑佛力。咸約經論演暢真宗。亦猶集群玉於荊山。約百川於溟海。火生於木。並兩曜而俱明。識轉於如。體一相而等照。成道者法也。載法者經也。廣度群有同於大通。足菩提心如陛下意。帝覽之稱善。改大曆元年。
(三 丙午) 道義禪師。是年建金閣寺。勅十節使助之以二稅。七月。始作盂蘭盆會于禁中。設高祖太宗已下七聖位。備鑾輿建巨旛。各以帝號標其上。自太廟迎入內道場。鐃吹鼓舞旌幢燭天。是日立仗百僚於光順門迎拜導從。自是歲以為常癸未太廟二宮生靈芝。帝賦詩美之。百僚皆屬和。
(四 丁未) ○大教東被七百年矣。
七月。宰相杜鴻漸。出撫巴蜀。至益州遣使詣白崖山請禪師無住入城問法曰。弟子聞今和上說無憶無念莫妄三句法門。未審此三句是一是三。無住曰。無憶名戒。無念名定。無妄名慧。然一心不生則具戒定惠。非一非三也。曰後句妄字莫非從心否。無住曰。從女者是。曰有據否。無住曰。法句經云。若起精進心是妄非精進。若能心不妄精進無有涯。又問。師還以三句接人否。對曰。初心學人還令息念澄停識浪清水影現。悟無念體寂滅現前。無念亦不立也。時庭樹鵶鳴。公曰。師還聞否。曰聞。鵶去矣。又問。師今聞否。曰聞。公曰。鵶去無聲。云何言聞。無住顧四眾曰。正法難聞。各宜諦聽。聞與不聞非關聞性。本來不生今亦不滅。有聲之時。是聲塵自生。無聲之時。是聲塵自滅。而此聞性不隨聲生不隨聲滅。悟此聞性則免聲塵流轉。乃至色香味觸亦復如之。當知聞無生滅聞無去來。公與僚屬喜躍稱善。又問。弟子頃著起信論疏二卷。得名解佛法否。曰夫造疏皆用心思量分別。但可著成傳益初學。據論云。知一切法從本以來離言說相離文字相離心緣相畢竟平等無有變異。唯是一心故名真如。今相公著言說相著名字相著心緣相。既著種種相。何由體解佛法。公稽首曰。師今從理確論。合心地法門實不思議。然何由得不生不滅契解脫去答曰。見境心不起名不生。不生即不滅。既無生滅即不被前塵所縛。當處解脫。公曰。何謂識心見性。答曰。一切學道人隨念流浪。蓋為不識真心不見本性。真心者。念生亦不順生。念滅亦不依寂。不來不去不定不亂。不取不舍不沈不浮。無為無相活鱍鱍平常自在。此心體畢竟不可得。無可知覺。觸目皆如。無非見性也。鴻漸由是棲心禪悅。嘗有詩云。長願追禪理安能揖化源。晚以疾辭宰相。釋位三日而薨。臨終沐浴儼朝服加僧伽黎剃鬚髮而逝。遺命依沙門法葬。
論曰。無住說法簡當明妙。雅合首楞嚴所謂聞無生滅之旨。宜乎聞者悟悅而信解也。鴻漸靈武策立功臣。家世奉佛。其臨終剔髮鬚服僧衣。遂與宋朝王文王公旦肖焉。雖文正公巨德元勳完名高節卓冠名臣之表非鴻漸所能彷彿。然暮年付囑諸子及其友楊文公大年。丁寧曲折。文公談苑著之甚詳。茲可想見知佛之深而見道之明也。嗚呼吾宗直指當人見聞覺知。一段大事本爾現成。柰何人自棄昧往往終身役役為他間事長無明者。天下碌碌皆是。若二公能自回頭存心後世打徹大事。夫豈易得也哉。
(五 戊申) 清涼國師澄觀。字大休。會稽人。姓夏侯氏。生於開元戊寅。身長九尺四寸。垂手過膝。口四十齒。目光夜發。晝乃不眴。天寶七年出家。至肅宗二年丁酉受具。是年奉詔入內勅譯華嚴。初至德中即以十事自勵曰。體不捐沙門之表。心不違如來之制。坐不背法界之經。性不染情礙之境。足不履尼寺之塵。脇不觸居士之榻。目不視非儀之綵。舌不味過午之餚。手不釋圓明之珠。宿不離衣鉢之側。從牛頭忠徑山欽。問西來宗旨。授華嚴圓教於京都詵禪師。至是大曆三年代宗詔入內。與大辯正三藏譯經。為潤文大德。既而辭入五臺大華嚴寺覃思華嚴。以五地聖人栖身佛境心體真如。猶於後得智起世俗心學世間解。繇是博覽六藝圖史九流異學華夏訓詁竺經梵字及四圍五明聖教世典等書。靡不該洽。至建中四年下筆著疏。先求瑞應。一夕夢金容當陽山峙。光相顒顒。因以手捧咽面門。既覺而喜以謂獲光明遍照之徵。自是落筆無停思。乃以信解行證。分華嚴為四科。理無不包。觀每慨舊疏未盡經旨。唯賢首國師頗涉淵源。遂宗承之製疏。凡歷四年而文成。又夢身為龍。矯首南臺尾蟠北臺。宛轉凌虛鱗鬣耀日。須臾變百千數蜿蜓青冥。分散四方而去。識者以為流通之像也。初為眾講之。感景雲凝停講堂庭前之空中。又為僧叡等著隨疏演義四十卷隨文手鏡一百卷云。
(六) 是年帝召國師惠忠入內。引太白山人見之。帝曰。此人頗有見解。請師驗之。忠曰。汝蘊何能。山人曰。忝識山識地識字善算。曰山人所居之山。是雄山是雌山。山人茫然不能對。忠曰。識地否。曰識。忠指殿上地問曰。此是何地。答曰。容弟子算方知。忠曰。識字否。曰識。忠於地上畫一畫曰。此甚字。山人曰。是一字。忠曰。土上一畫是王字。何謂一字耶。又問。能算否。曰能。忠曰。三七是多少。山人曰。國師琉弟子。三七豈非二十一。忠曰。却是山人算貧道。三七是十。何謂二十一。復問。更有何能。答曰。弟子縱有亦不敢向國師開口。忠曰。縱汝有能。亦俱未是。師却謂帝曰。問山不識山。問地不識地。問字不識字。問算不解算。陛下何處得此懵漢來。帝謂山人曰。朕有國位不足為寶。師乃國寶也。山人曰。陛下真識寶者矣。
(七) 是歲詔徑山道欽禪師至闕下。帝親加瞻禮。一日師在內庭。見帝起立。帝曰。師何以起。欽曰。檀越何得向四威儀中見貧道。帝悅謂忠國師曰。朕欲賜欽師一名。忠欣然奉詔。遂賜號國一禪師。後辭歸本山。馬祖大師令門人智藏問十二時中以何為境。師曰。待汝回去時有信。藏曰。只今便回。師曰。傳語却須問取曹溪。又僧問。如何是祖師西來意。師曰。汝問不當。曰如何得當。師曰。待吾滅後却向汝說。至貞元八年示寂。賜諡大覺禪師。
(八 己酉) 牛頭惠忠禪師示寂。師得法於威師。為牛頭宗第六祖。平生一衲不易器用唯一鐺。嘗有供僧穀二廩。盜者窺伺虎為守。縣令張遜者入山頂謁。問師有何徒弟。曰有三五人。遜曰。可得見否。師敲床三下有三虎哮吼而出。遜驚怖而退。及移居莊嚴寺將建法堂。有古樹群鵲巢其上。師謂巢曰。此地建堂女可速去。言訖群鵲遷巢他樹。及築基有二神人定其四角。潛資夜役不日而成。由是學徒雲集。師有安心偈曰。人法雙淨。善惡兩妄。直心真實。菩提道場。至是將終。石室前掛鐺樹掛衣藤無故枯死。師集眾布薩訖淨髮浴身。是夕有瑞雲覆其院。空中復有天樂之聲。詰旦怡然坐化。俄頃風雨暴作震折林木。有白虹貫于岩壑云。
(九 庚戌) 西域大耳三藏至京師。自云得他心慧眼。帝令入光宅寺。請國師惠忠試驗。忠問。汝得他心通耶。對曰。不敢。忠曰。汝道老僧即今在什麼處。三藏云。和上是一國之師。何得往天津橋看弄猢孫。又問。老僧即今在什麼處。三藏曰。和上是一國之師。何得去西川看競渡。忠第三問語亦如前三藏良久罔知去處。忠叱曰。這野狐精。他心通在什麼處。三藏無對。
論曰。四祖下融大師橫說竪說。猶未知向上關棙子。此黃蘗運公語也。以黃蘗大機大用逸格手段。作如是說則其然矣異時學人相似語言以為禪道者。凡貶剝諸方往往猶不止於此。嗚呼世謂學不躐等。矧吾宗單傳心印用以了生死者。其可以躐等乎。觀牛頭諸祖道盛一時。於死生之際感驗昭著。有生而百鳥䘖花虎狼給侍者。有滅而鳥獸哀鳴逾月乃止者。有異香經旬而歇者。有山林變白溪㵎絕流者。有空中神旛從西而來遶山數匝者。有所居舊院林木變白七日而復者。及是忠禪師所感。皆不思議事。出於造化之表。自非神德妙行蔽天地而不恥關百聖而不慚者曷以臻此邪。如大耳三藏。分證小果得五神通。及見國師初二度國師以有所緣心則灼見其處。及第三度國師入甚深祕密大寂定門。大耳於是茫然不知。然則證果有階級。大道有淺深。端不誣矣。或謂巫咸相壺子揕擬國師者。自性圓通與夫區區術數。烏可同年而語哉。
(十) 是年大廣智三藏不空示疾。誡門人曰。普賢行願出無邊法門。汝等勤而行之。宜觀菩提心本尊大印直詮阿字。了法無生證大覺身。又命弟子趙遷執筆。授所撰涅槃軌範以貽後世。使準此送終。以表辭帝。詔遣內使賜。湯藥勞問。就加開府儀同三司肅國公食邑三千戶。辭讓數四不允。不空歎曰。吾以法濟世。不意垂死濫污封爵。乃以先師金剛智所付法物。因中使李憲誠進之。遂沐浴更衣。吉祥安臥而寂。闍維頂骨不壞。中含舍利光彩奪目。御史嚴郢撰紀德碑。太常徐浩書之于石。其辭曰。
和上諱不空。西域人也。氏族不聞於中夏。故不書。玄宗燭知至道。特見高仰。迄肅宗代宗三朝。皆為灌頂國師。以玄言德祥開佑至尊。代宗初以特進大鴻臚褒表之。及示疾不起。又就臥內加開府儀同三司肅國公。皆牢讓不允。特賜法號曰大廣智三藏。大曆五年夏六月癸未。滅度于京師大興善寺。代宗為之廢朝三日。贈司空追諡大辯正廣智三藏。和上荼毘日。詔遣中謁者齎祝文祖祭。申如在之敬。睿詞深切加薦令芳。禮冠群倫舉無與比。明年九月。詔以舍利起塔于舊居寺院。和上性聰朗博觀前佛法藏要旨。緇門獨立邈蕩蕩其無雙。稽夫真言字儀之憲度。灌頂升壇之軌迹。即時成佛之速。應聲儲祉之妙。天麗且彌地普而深。固非未學所能詳也。敢不概見序其大歸。昔金剛薩埵親於毘盧遮那佛前受瑜伽最上乘義。後數百年傳於龍猛菩薩。龍猛又數百年傳於龍智阿闍黎。龍智傳金剛智阿闍黎。金剛智東來傳於和上。和上又西遊天竺師子等國。詣龍智阿闍黎。揚搉十八會法。法化相承自毘盧遮那如來至於和上。凡六棄矣。每齋戒留中導迎善氣。登禮皆答福應較然。溫樹不言莫可紀已。西域隘巷狂象奔突。以慈眼視之。不旋踵而象伏不起。南海半渡天吳鼓駭。以定力對之。未移晷而海靜無浪。其生也。母氏有毫光照燭之瑞。其沒也。精舍有池水竭涸之異。凡僧夏五十享年七十。自成童至于晚暮。常飾供具坐道場浴蘭焚香入佛知見。五十餘年晨夜寒暑未嘗有傾欹懈倦之色。過人絕遠乃如是者後學陞堂誦說。有師法者非一。而沙門惠朗受補處之記。得傳燈之旨。繼明佛日紹六為七。至矣哉。於戲。法子永懷梁木將絕本行。託予勒崇。昔承微言今見几杖。光儀眇漢壇宇清愴。綦書昭銘小子何讓。銘曰。嗚呼大士。起我三宗。道為帝師。秩為儀同。昔在廣成軒后順風。歲逾三千。復有肅公。瑜伽上乘。真語密契。六葉授受。傳燈相繼。述者牒之。爛然有第。陸伏狂象。水息天吳。慈心制暴。慧力降愚。寂然感通。其可測乎。兩楹夢奠。雙樹變色。司空寵終。辨正旌德。天使祖祭。宸衷悽惻。詔起寶塔。舊庭之隅。下藏舍利。上飾浮圖。跡殊生滅。法離有無。刊石為碣。傳之大都。
(十一 辛亥) 越州律師曇一卒。補?梁肅製其碑曰。釋氏先律師。諱曇一字覺胤。報年八十。僧夏六十一。以大曆六年十二月七日。滅度于越州開元寺。遷座起塔于秦望山之陽。製縗會葬者以千百數。大師南陽張氏。曾祖隋太常恒。始家會稽之山陰。大師誕鍾粹氣聰悟夙發。幼學五經因探禹穴。至雲門寺遂依沙門諒公出家。景龍中剃度。尋受具戒。天縱辯慧益以軌儀。翕然已為人望矣。開元初西遊長安。觀音亮律師見而奇之。授以毘尼之學。又依崇聖寺壇子法師。學俱舍唯識。從印度大沙門無畏。受菩薩戒。探道覩奧出類拔萃。期月之間名動京師。大師崖岸峻峙機神坦邁。體識詳雅應用虛明。得三藏之隱賾。究諸宗之源底。加以素解玄儒旁總曆緯。長老聞風而悅服。公卿下榻以賓禮。由是與少保兗國公陸公象先賀賓客知章李北海邕徐中書安貞褚諫議庭誨。為儒釋之遊莫逆之友。其導世皆先之以文行。弘之以戒定。入蘭室而馨香自發。臨水鏡而毫髮必鑑。不知其所由然矣。開元二十六年。復歸會稽。謂人曰。三世佛法戒為根本。本之不修道遠乎哉。故設教以尸羅為主。取鄴郡律疏。合終南事鈔。括其同異詳發正義。學徒賴焉。大凡北際河朔南越荊閩。四分之宗自我而盛。烈炬之破昏黑。群流之赴㵎澤。適來之時行化也如彼。有為而生乘化而息。草木潛潤慈雲無心。適去之時處順也如此。人世遷轉道存運往。瞻望不見寂寥空山。哀哉。銘曰。越水漫漫。崇山回合。大師化滅。式建靈塔。緬慕上士。誕修淨法。有威有儀。不窪不雜。德溥化洽。雲從海納。勒銘垂後。千萬億劫。
(十二) 是歲淮南節度使楊州牧御史大夫張延賞狀舒州三祖行實。請諡于朝。夏四月。天子賜諡曰鏡智禪師。刺史獨孤及製賜諡碑曰。按前志。禪師號僧粲。不知何許人。出見于周隋間。傳教於惠可大師。摳衣鄴中。得道於司空山。謂身相非真。故示有瘡疾。謂法無我。故居不擇地。以眾生病為病。故所至必說法。度人以一相。不在內外中間。故必言不以文字。其教大略以寂照妙用。攝群品流注生滅。觀四維上下。不見法不見身不見心。乃至心離名字身等空界。法同夢幻無得無證。然後謂之解脫。禪師率是道也。上膺付屬下拯昏疑。大雲垂廕國土皆化。謂南方教所未至。我是以有羅浮之行。其來不來也。其去無去也。既而以袈裟與法。俱付悟者。道存影謝遺骨此山。今二百歲矣。皇帝即位後五年。歲次庚戌。某剖符是州登禪師遺居。周覽塵跡明徵故事。其荼毘起塔之制。實天寶景戌中。別駕前河南尹趙郡李公常經始之。碑版之文隋內史侍郎河東薛公道衡唐相國河南房公琯繼論撰之。而尊道之典易名之禮。則朝廷方以多故而未遑也。長老比丘釋湛然。誦經於靈塔之下。與㵎松俱老。痛先師名氏未經邦國焉。與禪眾寺大律師澄俊。同寅叶恭亟以為請。會是歲嵩山大比丘釋惠融至自廣陵。勝業寺大比丘釋開悟至自廬江。俱慕我禪師後七葉之遺訓。日相與歎塔之不命號之不崇。懼象法之根本墜于地也。願申無邊眾生之弘。誓以紓罔極楊。州牧御史大夫張公延賞以狀聞。於是六年夏四月。上霈然降興廢繼絕之詔。冊諡禪師曰鏡智。塔曰覺寂。以大德僧七人掃灑供養。天書錫命煇煥崖谷。眾庶踴躍謂大乘中興。是以大比丘眾議立石于塔東南隅。紀心法興廢之所以然。某以謂初中國之有佛教。自漢孝明始也。歷魏晉宋齊及梁武。言第一義諦者不過布施持戒。天下惑於報應而人未知禪。世與道交相喪。至菩提達磨大師。始示人以諸佛心要。人疑而未思。惠可大師傳而持之。人思而未修。迨禪師三葉其風寖廣。真如法味日漸月漬。萬木之根莖枝葉悉沐我雨。然後空王之密藏。二祖之微言。始行於世間浹於人心。當時聞道於禪師者。其淺者知有為無非妄想。深者見佛性於言下。如燈照物。朝為凡夫夕為聖賢。雙峯大師道信其人道。其後信公以傳弘忍。忍傳惠能神秀。秀公傳普寂。寂公之門徒萬人。陞堂者六十有三。得自在惠者一。曰弘正。正公之廊廡。龍象又倍焉。或化嵩洛。或之荊吳。自是心教之被於世也。與六籍侔盛。於戲微禪師吾其二乘矣。後代何迷焉。庸詎知禪師之下生不為諸佛故現比丘身以救濁劫乎。亦猶堯舜既往周公制禮。仲尼述之游夏弘之。使高堂后蒼徐孟戴慶之徒可得而祖焉。夫以聖賢所振為木鐸。其揆一也。諸公以為司馬子長立夫子世家。謝臨川撰惠遠法師碑銘。今將令千載之後知先師之全身禪門之權輿王命之追崇在此山也。則揚其風紀其時宜在法流。某嘗味禪師之道也久。故不讓。其銘曰。人之靜性。與生偕植。智誘於外。染為妄識。如浪斯鼓。與風動息。淫駭貪怒。為刃為賊。生死有涯。緣起無極。如來憫之。為闢度門。即妄了真。以證覺源。啟迪心印。貽我後昆。間生禪師。俾以教尊。二十八世。迭付微言。如如禪師。應期弘宣。世溷法滅。獨與道全。童蒙來求。我以意傳。攝相歸性。法身乃圓。性身本空我為說焉。如如禪師。道既棄世。將二十紀。朝經乃屆。皇明昭賁。億兆摸拜。凡今後學。入佛境界。於取非取。誰縛誰解。萬有千歲。此法無壞。
(十三 壬子) 魯郡公顏真卿。撰撫州寶應寺律藏院戒壇記曰。如來以身口意業難調伏也。淨尸羅以息其內。行住坐臥四威儀攝善心也。明布薩以昭其外。故曰。波羅提木叉是汝之師。則憍陳如之善來。迦葉波之尚法。諸聲聞三歸約眾。十四年以八敬度尼羯磨相承。其致一也。漢靈帝建寧元年。有北天竺五葉門支法領等。始於長安譯出四分戒本兼羯磨。與大僧受戒。至曹魏有天竺十尼自遠而來為尼受具。後秦姚興弘始十一年。有梵僧佛陀耶舍。釋出四分律本。而關中先行僧祇。江南盛行十誦。至元魏法聰律師。始闡四分之宗。聰傳道覆。覆傳惠光。光傳雲暉願。願傳隱樂洪雲。雲傳遵。遵傳知首。首傳道宣。宣傳法勵滿意。意傳法成。成傳大亮道省。亮傳雲一道岸超惠澄。澄傳惠欽。皆口相授受臻於壼奧。欽俗姓徐。洪州建昌人也。蓋漢孺子之後。年二十二尋師於臨川楮山。後五歲削髮隸于高安龍崗寺。遂受戒有唐義淨。則譯經上足曰洪州之靈傑。其秉宣羯磨者曰兩京滌法銳欽。智度冲深神用高爽。行無權實身絕開遮。闡律藏而日月光明。騁辯才而龍象蹴踏。江嶺之外凜然風生。開元末北游京師。充福先大德。常誦涅槃經而講之。兼明俱舍論維摩金剛經。又登講座。其下日有二三千人。由是名動輦轂。屬祿山作亂杖錫南歸。居于西山洪井雙嶺之間。慕高僧觀顯之遺蹤。於寺比剏置蘭若。山泉之美頗極幽絕。欽雖堅持律儀而志在弘濟。好讀周易左傳下筆成章。著律儀輔演十卷。甞撰本州龍興寺戒壇碑。頗見稱於作者。三年真卿添刺撫州。東南四里有宋侍中臨川內史謝靈運翻涅槃經古臺。基局儼然軒陛摧圮。高行頭陀僧智清者。首事修葺安居住持。明年秋七月。真卿績秩將滿。有觀察使尚書御史大夫趙國魏公。願以我皇帝降誕之辰奏為寶應寺。仍請山林高行僧三七人。冬十月二十三日。聖恩允許。於是鼎新輪奐。其興也勃焉。乃請止觀大師法源法泉襄陽乘覺清涼善弘羅浮圓覺佛跡本喻餘杭惠達洎常州海通海岸等。同住熏修以資景福。僉以為學徒雖增毘尼未立。明年三月乃請欽登壇而董木鐸焉。仍俾龍崗道?天台法裔招提智融白馬法胤衡嶽智覺同德義盈香城藏選龍興藏智開元明徹等同秉法事。於是遠近駿奔。道場側塞。聖像放光。而龍王不雨者四旬。僧尼等三百五十七人。而文士正議大夫前衛尉少卿張延臯脫俗歸真。其法名曰壞網。為稱首焉。又欽此年已來為受具者凡一萬餘人。江嶺湖海之間幅員千里。像法於變。皆欽化道之力焉。臨川在嶺隅。未嘗弘律。於是二眾三百餘人。請法裔敷演而依止之。後有上都資聖寺高德。曰還本律主。偉茲能辯深嗟嘆而讚美之。謂於寺東南置普通無礙禪院。內立鎮國觀音道場。請善弘居之。以開悟心要。雲一上足曰。智融精持本事如會尊眾。乃命智晃等。於普通道場東置律藏院剏立戒壇。以行欽公之來儀。且施肇紀之不朽。經營未幾。壇殿欝興肅乎。渡海浮囊。分毫絕羅剎之請。嚴身瓔珞照耀有摩尼之光。則入佛位而披伽黎者。名香普熏神足無極。半月可勝紀而無絕乎。有唐大曆辛亥歲。行撫州刺史魯郡開國公顏真卿書而志之。
(十四 十五 甲寅) 九年。道士史華以術得幸。因請立刃梯與沙門角法。有旨兩街選僧剋日校勝負。沙門崇惠者。不知何許人。常誦首楞嚴呪。表請挫之。帝率百僚臨觀。史華履刃梯而上。命惠登之。惠躡刃而昇。往復無傷。惠承勝命聚薪于庭舉烈焰。惠入火聚呼史華令入。華漸汗不敢正視。帝大悅而罷。賜崇惠號護國三藏。後不知終。沙門圓澤者。寓東都惠林寺。與隱士李源厚善。惠林即源舊第也。父憕守東都。為祿山所害。源以故不仕常居寺中與澤談噱終日。偶相率游峨嵋山。源欲自荊州泝峽以往。澤欲由長安斜谷。源以為久絕人事。不欲復入京師。澤不能強。遂自荊州舟次南浦。見婦人錦襠負甖而汲者。澤望而泣曰所不欲由此者為是。源驚問故。澤曰。婦人孕三稔矣。遲吾為之子。不逢則已。今既見之。無可逃者。公當以符呪助我令速生。三日浴見願公臨顧以一笑為信。後十三年。於杭州天竺寺外。當與公相見。源悲哀具浴。至暮而澤亡。婦乳三日。源往視之。兒見源果軒渠而笑。即具以語其家。葬訖源返寺中。後如期自洛之吳赴其約。至期於葛洪井畔聞有牧童扣牛角而歌曰。三生石上舊精魂。賞月吟風莫要論。慚愧情人遠相訪。此身雖異性常存。源曰。澤公健否。答曰。李君真信。士然世緣未盡。且勿相近。惟勤修不惰乃復相見。又歌曰。身前身後事茫茫。欲話因緣恐斷腸。吳越江山尋已遍。却回煙棹上瞿塘。遂隱不見。源復歸惠林。至長慶初年八十矣。御史中丞李德裕表薦曰。源天與至孝絕心祿仕。五十餘年常守沈默理契深要。一辭開析百慮洗然。抱此真節棄於清世。臣竊為陛下惜之。穆宗下詔以源守諫議大夫。不赴尋以壽終。
(十六 乙卯) 國師惠忠將終。耽源問。百年後有人問極則事作麼生。忠曰。幸自可憐生須要護身符子作麼。乃入辭代宗。代宗曰。師滅度後。弟子將何所記。忠曰。告檀越造取一所無縫塔。帝曰。請師塔樣。忠良久曰。會麼。帝曰。不會。忠曰。貧道去後有侍者應真。却知此事。以十二月九日右脇而寂。門弟子奉全身於黨子谷建塔。賜諡大證禪師。帝尋召應真入內。舉前語問之。真良久曰。聖上會麼。帝曰。不會。真述偈曰。湘之南潭之北。中有黃金充一國。無影樹下合同船。瑠璃殿上無知識。代宗嘗在便殿。指天下觀軍容使魚朝恩。謂忠曰。朝恩亦解些子佛法朝恩即問忠曰。何者是無明。無明從何而起。忠曰。佛法衰相今現。帝曰。何也。忠曰。奴也解問佛法。豈非衰相今現。朝恩色大怒。忠曰。即此是無明。無明從此起。朝恩復抗聲曰。有人言師今是佛得否。忠曰。朝廷有人言汝是天子果否。朝恩伏地曰。死罪死罪。朝恩實非天子。忠曰。我不是佛。所以二尊不並化。朝恩曰。師長作凡夫無成佛時耶。恩曰。我向後必當作佛。汝姓什麼。朝恩曰。姓魚。忠曰。我向後作佛不名惠忠。汝向後若作天子。改却姓莫不姓魚否。朝恩伏地曰。死罪死罪。朝恩此去實不敢向師論佛法。忠謂帝曰。幾帕殺此奴。
(丁巳) 十二年。宰相元載王縉有罪。載伏誅。籍其家鍾乳五百兩。胡椒八百斛。他物稱是。縉貶括州刺史。縉素奉佛不茹葷。晚節尤謹。妻死以第為佛祠。初帝未知重佛。每從容問縉所以然。縉必開陳福業報應。帝意向之。由是宮中祀佛。梵唄齋熏無少懈。群臣承風旨言死生報應。故人事置而不修。議者以縉與杜鴻漸泥佛太過云。
(戊午) ○米斗三文○猫鼠同乳。
(十七 己未) 三月上崩太子即位。
十四年。天柱山崇惠禪師示寂。師彭州人。得法於牛頭威禪師。後居天柱寺。僧問達磨未來此土。還有佛法也無。師曰。未來時且置。即今事作麼生。曰某甲不會。師曰。萬古長空。一朝風月。良久又曰。闍黎會麼。自己分上作麼生。干他達磨來與未來作麼。他家來太似賣卜漢相似。見汝不會為汝錐破。卦文才生吉凶在汝分上一切自看。僧問。如何是解卜底人。曰汝才出門時便不中也。問宗門中請師舉唱。答曰。石牛長吼真空外。木馬嘶時月隱山。問如何是西來意。曰白猿抱子歸青嶂。蜂蝶䘖花綠蘂間。及是遷化。肉身不壞。數百年猶在。
(十八 庚申) 德宗适改年建中(代宗長子。詔天下勿上祥瑞。放馴象出宮女。用盧杞為相。致朱泚之亂。幸奉天。壽六十四崩。葬崇陵。在位二十五年○立誦為皇太子○始定秋夏二稅)。
(十九) 沙門惠超。於五臺乾明寺錄出大廣智三藏不空所譯大乘瑜伽金剛性海曼殊室利千臂千鉢大教王。經其序文。曰。大唐開元二十一年歲次癸酉正月一日。於薦福寺道場內。金剛三藏與僧惠超授大乘瑜伽金剛五頂五智尊千臂千手千鉢千佛釋迦曼殊室利菩薩祕密菩提三摩地法。遂於其後受是法已。不空三藏奉事經于八載。至開元二十八載歲次庚辰四月十五日。聞奏開元聖上皇於薦福御道場內。至五月五日。奉詔譯經。即時焚燒香火起首飜譯。三藏演梵本惠超筆授。大乘瑜伽千臂千鉢曼殊室利經法教。十二月十五日才訖。天寶元年二月十九日。三藏將此梵本及五天竺阿闍黎書。並付與梵僧目叉難陀婆伽。令送此經梵本并書。將與五印土南天竺國師子國本師寶覺阿闍黎。經今不回。後於大曆九年十月再至大興善寺大師大廣智三藏和上邊。復伸咨決大教瑜伽心地祕密法門。復將千鉢曼殊經本。至建中元年四月十五日。到五臺山乾元菩提寺。遂將舊飜唐言梵音經本。於寺校證。至五月五日惠超重與抄寫出。一切如來大教王經瑜伽祕密金剛三摩地三密聖教法門述經祕義諸佛出世應物。隨意志求者智鏡玄通。念之者無憂不入。根緣感赴必籍此經。登菩提山除去邪執。契傳二密得究瑜伽要祕法門窮理微妙。身口意業用智修持。戒定慧學顯現通達。證如來地以信為首。乘般若舟速超彼岸。今述曼殊之德。靈迹殑伽聖覺無方。神力潛運以多塵劫。悲願不住菩提。一主無二尊現為菩薩。自茲金色世界。來其忍士清涼之山。導引群品而即現燈現雲。及萬菩薩信生奇特。現光現相人皆發明正智。為利益三世蒼生有趣。悉證菩提也。
(壬戌) ○括富商錢出萬緡者官借其餘以供軍。
(癸亥) ○稅閒架。◎
◎(二十 甲子 五八) 改興元○是年壽州毛罕妻生子毛債。猪頭象耳騾足魚腮人身。鐵杖自鞭金田掃地。償盜常住錢債也。
南嶽明瓚禪師者。不知何許人也。初宰相李泌。乾元中辭入衡嶽。瓚隱居上封。泌往謁之。瓚誦經其聲先悲悽而後悅豫。泌隱知音。因謂曰。將非避隱者有雲霄意乎。瓚唾之曰。莫相賊莫相賊。泌色不為動。瓚久之。見泌立候不懈。乃曰。飯未。泌曰。未也。瓚撥火出芋食與語。久之辭去。瓚撫其背曰。好做十年宰相。至是泌感事為帝言其高行。有詔徵之。使者至石窟宣麻命曰。尊者起謝恩。瓚寒涕垂頤凝坐略不以介意。使者歎其淳正不之迫。回奏其事。帝咨美之數四不已。瓚著歌一篇。其辭曰。兀然無事無改換。無事何須論一段。直心無散亂。他事不須斷。過去已過去。未來猶莫算兀然無事坐。何曾有人喚。內外覓功夫。總是癡頑漢。糧不蓄一粒。逢飯但知?。世間多事人。相趁渾不及。我不樂生天。亦不愛福田。饑來喫飯。困來即眠。愚人笑我。智乃知焉。不是癡鈍本體如然。要去即去要住即住。身披一破衲。脚著娘生袴。多言復多語。由來轉相誤。若欲度眾生。無過且自度。莫謗天真佛。真佛不可見。妙性及靈臺。何曾受熏鍊。心是無事心。面是娘生面。劫石可移動。箇中無改變。無事本無事。何須讀文字。削除人我本。冥合箇中意。種種勞筋骨。不如林下睡兀兀。舉頭見日高。乞飯從頭?。將功用功展轉昏蒙。取即不得不取自通。吾有一言絕慮忘緣。巧說不得只用心傳。更有一語無過真與。細如毫末大無方所。本自圓成不勞機抒。世事悠悠不如山丘。青松蔽日碧㵎長流。山雲當幙夜月為鉤。臥藤蘿下塊石枕頭。不奉天子豈羨王侯。生死無慮更復何憂。水月無形我常只寧。萬法皆爾本自無生。兀然無事坐。春來草自青。
(二十一) 荊溪湛然禪師。臨終告其徒曰。大道無方無體。生歟死歟。其旨一貫。吾歸骨此山。報盡今夕。聊與汝等談道而決。夫一念無相謂之空。無法不備謂之假。不一不異謂之中。在凡為三因。在聖為三德。爇炷則初後同相。涉海則淺深異流。自利利人在斯而已。爾其志之。言訖而化。翰林梁肅題其碑陰曰。聖人不興。必有命世者出焉。自智者以法付灌頂。頂再世而至左溪朗。道若昧待公而發。乘此寶乘煥然中興。其受業身通者三十有九人。而縉紳先生高位崇名屈體受教者數十。師嚴道尊遐邇歸仁。自非命世亞聖。曷以臻此。
(乙丑) 改貞元。
(二十二 丙寅) 二年翰林梁肅。修天台止觀論成。著止觀統例曰。夫止觀何為也。導萬化之理而復於實際者也。實際者何也。性之本也。物之所以不能復者。昏與動使之然也。照昏者謂之明。駐動者謂之靜。明與靜止觀之體也。在因謂之止觀。在果謂之智定。因謂之行。果謂之成。行者行此者也。成者證此者也。原夫聖人有以見惑足以喪志。動足以失方。於是乎止而觀之靜而明之。使其動而能靜。靜而能明。因相待以成法。即絕待以照本。御大車以禦正。乘大事而總權。消息乎不二之場。鼓舞於說三之域。至微以盡性。至頤而體神。語其近則一毫之善可通也。語其遠則重玄之門可?也。用至圓以圓之。物無偏也。用至實以實之。物無妄也。聖人舉其言所以示也。廣其目所以告也。優而柔之使自求之。擬而議之使自至之。此止觀所由作也。夫三諦者何也。一之謂也。空假中者何也。一之目也。空假也者相對之義。中道也者得一之名。此思議之說。非至一之旨也。至一即三至三即一。非相含而然也。非相生而然也。非數義也。非強名也。自然之理也。言而傳之者迹也。理謂之本。迹謂之末。本也者聖人所至之地也。末也者聖人所示之教也。由本以垂迹。則為小為大。為通為別。為頓為漸。為顯為祕。為權為實。為定為不定。循迹以返本。則為一為大。為圓為實。為無住為中。為妙為第一義。是一三之蘊也。所謂空也者通萬法而為言者也。假也者立萬法而為言者也。中也者妙萬法而為言者也。破一切惑莫盛乎空。建一切法莫盛乎假。究竟一切性莫大乎中。舉中則無法非中自假則何法非假。舉空則無法不空。成之謂之三德。修之謂之三觀。舉其要則聖人極深研幾窮理盡性之說乎。昧者使明。塞者使通。通則悟。悟則至。至則常。常則盡矣。明則照。照則化。化則成。成則一矣。聖人有以彌綸萬法而不差。旁礴萬劫而不違。燾載恒沙而不有。復歸無物而不無。寓名之曰佛。強號之曰覺。究其旨解脫自在。莫大極妙之德乎。夫三觀成功者如此。所謂圓頓者。非漸次非不定。指論十章之義也。十章者恢演始末通道之關也。五略者舉其弘綱截流之津也。十境者發動之機立觀之諦也。十乘者妙用所修發行之門也。始於正觀而終於見境者。義備故也。闕其餘者。非修之要也。乘者何也。載物運者也。十者何也。成載之事也。知其境之妙。不行而至者德之上也。乘一而已。豈藉夫九哉。九者非他相生之說。未至者之所踐也。故發心者發無所發。安心者安無所安。遍破者遍無所破。爰至餘乘皆不得已而說也。至於別其義例判為章目。推而廣之不為繁。統而簡之不為少。如連環不可解也。如貫珠不可雜也。如懸鏡不可揜也。如通川不可遏也。議家多門非諍論也。按經正義非虛說也。辯四教淺深事有源也。成一事因緣理無遺也。噫止觀其救世明道之書乎。非夫聖智超絕卓爾獨立。其孰能為乎非夫聰明深達得意思象。其孰能知乎。今之人乃專用章句文字。從而釋之。又何疎漏耶。或稱不思議境與不思。議事皆極聖之域。等覺至人猶所未盡。若凡夫生滅心行三惑浩然。於言說之中推上妙之理。是猶醯雞而說大鵬。夏虫之議層氷。其不可見明矣。今止觀之說文字萬數。廣尋果地無益初學。豈如暗然自修功至自至。何必以早計為事乎。是大不然。凡所謂上聖之域。豈隔闊遼敻與凡境杳絕與。是惟一性而已。得之謂悟。失之謂迷。一理而已。迷而為凡。悟而為聖。迷者自隔理不隔也。失者自失性不失也。止觀之作所以離異同而究聖神。使群生正性而順理者也。正性順理所以行覺路而至妙境也。不知此教者。則學何所入。功何所施。智何所發。譬如無目昧于日月之光行於重險之處顛踣墮落可勝己乎。噫去聖久遠賢人不出。庸昏之徒含識而已。致使魔邪詭惑諸黨並熾。空有云云為坑為阱。有膠於文句不敢動者。有流於漭浪不能住者有。太遠而甘心不至者有。太近而我身即是者。有枯木而稱定者。有竅號而稱慧者。有奔走非道而言權者。有假於鬼神而言通者。有放心而言廣者。有罕言而為密者。有齒舌潛傳而為口訣者。凡此之類自立為祖。繼祖為家。反經非聖。昧者不覺。仲尼有言。道之不明也。我知之矣。由物累也。悲夫。隋開皇十八年智者去世。至皇朝建中垂二百載。以斯文相傳凡五家師。其始曰灌頂。其次曰縉雲威。又其次曰東陽小威。又其次曰左溪朗公。其五曰荊溪然公。須於同門中慧解第一。能奉師訓集成此書。蓋不以文辭為本故也。或失則繁。或得則野。當二威之際緘授而已。其道不行。天寶中左溪始弘解說。而知者蓋寡。荊溪廣以傳記數十萬言網羅遺法。勤矣備矣。荊溪滅後知其說者適三四人。古人云。生而知之者上也。學而知之者次也。困而不學又其次也。夫生而知之者。蓋性德者也學而知之者。天機深者也。若其嗜欲深耳目塞。雖學而不知。斯為下矣。今夫學者內病於蔽外役於煩。沒世不能通其文。數年不能得其益。是則業文為之屨校梏足也。棼句為之簸糠眯目也。以不能之師。教不領之弟子。止觀所以未光大於時也。予常戚戚。於是整其宏綱撮其機要。其理之所存教之所急。或易置之或引伸之。其義之迂其辭之鄙。或薙除之或潤色之。大凡浮疎之患。十愈其九。廣略之宜三存其一。於是祛鄙滯導蒙童。貽諸他人則吾豈敢。若同見同行且不以止觀罪我。亦無隱乎爾。建中上元甲子首事筆削。三年歲在析木之津功畢云爾。
(二十三 戊辰) 般若三藏新譯大乘理趣六波羅蜜經成。代宗皇帝親製敘文曰。大朴既散有為遂作。名利牽乎德。巧智喪乎真。愛惡攻乎性情。因緣堅其染習。內則百慮無節。外則六根競誘。天理滅而莫知。道源迷而忘返。淪溺苦海劫盡還初。惟至人了萬物之宗。越三界之表。廓獨立而不改。遍諸有而常然。故能開導群迷濟拔流品。六波羅蜜經者。眾法之津梁度門之圓極也。昔日月燈明如來為菩薩說。歷劫曠遠真偈寂寥。文殊師利於耆闍會中與彌勒菩薩語及其事。成一切種智會無量義因。唯佛能知。唯佛能說。教必有主。其在茲乎。是以釋迦如來為法而生俟時而現。三身不異。故處代而常離。萬行無修。故隨方而自在。運慈悲之力。開攝護之門。因其六塵示之六度。導於法分全證法身。結習紛綸乘理而悟。是真般若之旨也。故有慈氏善問大音讚言。天垂寶華雲集仙蓋。甘露流液光明燭幽。使迷方淺深皆得自然之慧。恒沙億眾能通般若之知。嘗試論之。先儒有言。誠者自成而道自導也。夫誠己於內。則不勉而中不思而得。誠物於外。則不言而應不為而成。其內者證法之身。其外者大悲之力。德產之致密化育之功也。夫春風吹發萬類咸滋。旭日升畫群陰盡釋。乾坤易簡之道。是則大同神明幽贊之情。孰云區別。殊途一致其理固然。朕虔奉丕圖保又烝庶。思建皇極以升。大猷遐想靈蹤期於叶契。舍城妙說久祕梵文。徒懷瀉瓶未啟遺夾。微言不昧將或起予。於是罽賓沙門般若受旨宣揚。光宅沙門利言為之飜譯。時大德則資聖寺道液。醴泉寺超悟。慈恩寺應真。莊嚴寺圓照。光宅寺道岸等。法門領袖人中龍象。證明正義輝潤玄文。知釋迦之寶城。識眾尊之滿字。以貞元四年歲次戊辰十二月二十八日。於西明寺譯成上進。凡一部十卷。神龍翊衛。如從金口之傳。梵眾護持。無異毫光之現。朕齋心滌慮仰味宗源。聞所未聞寔為希有。聊因暇日三復斯經。雖法海甚深波流不讓。舉其梗概昭悟將來。
(二十四) 二月江西馬祖大師道一示寂。師漢州什邡人。姓馬氏。容貌豐偉。牛行虎視。引舌過準。足有二輪文。遇懷讓禪師密契心法。始自建陽遷臨川次南康。所至聚徒說法剏建禪林。大曆中始居豫章開元寺。嘗示眾曰。汝等諸人各信。自心是佛此心即佛。達磨大師自南天竺國來此中華。傳上乘一心之法。令汝等開悟。又引楞伽經文以印眾生心地。恐汝顛倒不自信。此一心之法各各有之。故楞伽經云。佛語心為宗。無門為法門。又云。夫求法者應無所求。心外無別佛。佛外無別心。不取善不取惡。淨穢兩邊都不依怙。達罪性空念念不可得。無自性故。故云。三界唯心森羅及萬像一法之所印。凡所見色即是見心。心不自心。因色故有。但隨時言說即事即理都無所礙。菩提道果亦復如是。於心所生即名為色。知色空故生即無生。若了此意。乃可隨時著衣喫飯長養聖胎任運過時。復有何事。汝受吾教聽吾偈曰。心地隨時說。菩提亦只寧。事理俱無礙。當生即不生。師於開元示寂。先是師甞經由豫章泐潭之石門。愛其山水奇勝洞壑平坦。顧謂其從曰。吾朽質之日歸骨于此。至是門弟子奉靈骨舍利。建道場于石門。相國權德輿為之碑。宣宗賜諡大寂禪師。得法弟子凡百三十有九人。一為一方宗主轉化無窮。禪宗至此大盛于世。
(二十五) 大珠惠海禪師者。建州人。初參馬祖。祖問。從何處來。曰越州大雲寺來。祖曰。來此擬須何事。曰來求佛法。祖曰。自家寶藏不顧。拋家散走作什麼。我這裏一物也無。求什麼佛法。師遂禮拜問。那箇是惠海自家寶藏。祖曰。即今問我者是汝寶藏。一切具足更無欠少。使用自在何假向外求覓。師於言下自識本心不由知覺。禮謝畢服勞。久之後以受業師年老歸奉養。乃晦迹藏用外現癡訥。撰頓悟入道要門一卷。為好事竊出。及馬祖見之。即告眾曰。越州有大珠。圓明光透自在。無遮障處也。眾中有知師本姓朱者。遂共尋訪。師由是道望顯著。說法彼翻海湧浩然無礙。有頓悟門及廣語。行于世。
(二十六 庚午) ○迎佛骨。
六年石頭希遷禪師示寂。師得法於清原。天寶中居衡山南寺。寺東有石其狀如臺。乃結菴其上。時號石頭和尚。南嶽鬼神多見身聽法。師皆與之授戒。大曆中江西主大寂。湖南主石頭。往來憧憧並湊二大士之門。嘗示眾曰。吾之法門先佛傳授。不論禪定精進。唯達佛之知見。即心即佛心佛眾生菩提煩惱名異體一。汝等當知自己心靈。體離斷常性非垢淨。湛然圓滿凡聖齊同。應用無方離心意識。三界六道唯自心現。水月鏡像豈有生滅。汝等知之無所不備。師初閱肇論云。會萬物為己者。其唯聖人乎。遂豁然曰。聖人無已靡所不已。因著參同契。其辭曰。竺土大仙心。東西密相付。人根有利鈍。道無南北祖。靈源明皎潔。枝派暗流注。執事元是迷。契理亦非悟。門門一切境。回互不回互。回而更相涉。不爾依位住。色本殊質像。聲元無樂苦。暗合上中言。明明清濁句。四大性自復。如子得其母。火熱風動搖。水濕地堅固。眼色耳音聲。鼻香舌醎醋。然依一一法。依根葉分布。本末須歸宗。尊卑用其語。當明中有暗。勿以暗相遇。當暗中有明。勿以明相覩。明暗各相對。比如前後步。萬物自有功。當言用及處。事存函蓋合。理應箭鋒拄。承言須會宗。勿自立規矩。觸目不會道。運足焉知路。進步非遠近。迷隔山河固。謹白參玄人。光陰莫虛度。
(癸酉) ○張滂請稅茶。得錢四十萬緡。茶稅之始也。
(二十七 丙子) 十二年。宣河東節度使禮部尚書李詵。備禮迎法師澄觀入京。觀至。有旨命同罽賓三藏般若。翻譯烏茶國所進華嚴後分梵夾。帝親預譯場一日不至。即差僧寂光依僧欲云。皇帝國事因緣如法僧事與欲清淨。觀承叡旨。翻宣既就進之帝命開示華嚴宗旨。群臣大集。觀陞高座曰。我皇御宇德合乾坤。光宅萬方重譯來貢。東風入律。西天輸越海之誠。南印御書。北闕獻朝宗之敬。特回明詔再譯真詮。光闡大猷增輝新理。澄觀顧多天幸。欽屬盛明。奉詔譯場。承旨幽贊。抃躍競惕三復竭愚。露滴天池。喜含百川之味。塵培華岳。無增萬仞之高。極虛空之可度。體無邊涯大也。竭滄溟而可飲。法門無盡方也。碎塵剎而可數。用無能測廣也。離覺所覺朗萬法之幽邃佛也。芬敷萬行榮耀眾德華也。圓茲行德飾彼十身嚴也。貫攝玄微以成真光之彩經也。總斯七字為一部之宏綱。將契本性非行莫階。故說普賢無邊勝行。行起解絕智證圓明。無礙融通現前受用。帝大悅。賜觀紫方袍。號教授和尚。其後相國齊抗鄭餘慶高郢。請撰華嚴綱要三卷。相國李吉甫侍郎歸登駙馬杜琮。請述正要一卷。又為南康王韋皐相國武元衡。著法界觀玄鏡一卷。僕射高崇文。請著鏡燈說文一卷。司徒嚴綬司空鄭元刺史陸長源。請撰三聖圓融觀一卷。節度使薛華觀察使孟簡中書錢徽拾遺白居易給事杜羔等。請製七處九會華藏界圖心鏡說文十卷。又與僧錄靈邃大師十八首座十寺三學上流。製華嚴圓覺四分中觀等經律論關脈三十餘部。皆古錦純金隨器任用云。
(二十八 己卯) 十五年。清涼受鎮國大師號。進加天下大僧錄。四月帝誕節。勅有司備儀贊迎教授和上澄觀。入內殿闡揚華嚴宗旨。觀陞高座曰。大哉真界萬法資始。包空有而絕相。入言象而無迹。妙有得之而不有。真空得之而不空。生滅得之而真常。緣起得之而交映。我佛得之妙踐真覺廓淨塵習。寂寥於萬化之域。動用於一虛之中。融身剎以相含。流聲光而遐燭。我皇得之靈鑒虛極保合大和。聖文掩於百王。淳風扇於萬國。敷玄化以覺夢。垂天真以性情。是知不有太虛。曷展無涯之照。不有真界。豈淨等空之心。華嚴教者。即窮斯旨趣盡其源流。故恢廓宏遠包納冲邃。不可得而思議矣。指其源也。情塵有經智海無外。妄惑非取重玄不空。四句之火莫焚。萬法之門皆入。冥二際於不一。動千變而非多。事理交涉而兩忘。性相融通而無盡。若秦鏡之互照。猶帝珠之相含。重重交光歷歷齊現。故得圓至功於頃刻。見佛境於塵毛。諸佛心內眾生新新作佛。眾生心中諸佛念念證真。一字法門。海墨書而不盡。一毫之善。空界盡而無窮。語其定也。冥一心於無心。即萬動而常寂。海湛真智光含性空。星羅法身影落心水。圓音非叩而長演。果海離念而心傳。萬行忘照而齊修。漸頓無得而雙入。雖四心廣被八難頓超。而一極唱高二乘絕聽。當其器也。百城詢友一道棲神。明正為南方盡南矣。益我為友人皆友焉遇三毒而三德圓。入一塵而一心淨。千化不變其慮。萬境順通于道。契文殊之妙智。宛是初心入普賢之玄門曾無別體。失其旨也。徒修因於曠劫。得其門也。等諸佛於一朝。諦觀一塵法界在掌。理深智遠識昧辭單。塵黷聖聰退座而已。帝時默湛海印朗然大覺。顧謂群臣曰。朕之師言雅而簡。辭典而富。扇真風於第一義天。能以聖法清涼朕心。仍以清涼賜為國師之號。朕思從來。執身心我人及諸法定相斯為甚倒。群臣再拜稽首頂奉明命。由是中外台輔重臣。咸以八戒禮而師之。
(二十九) 是歲廬山東林律大德熙怡卒。許堯佐製其碑曰。大師熙姓曹氏。桂陽人也。舊勳前烈垂休積慶。史氏詳之矣。夫真如不遠。其要在乎無垢。妙理不深。其要在乎見性。本於真實暢其虛無。俾聆芳咀潤孜孜請益。則大師之教也。大師體識深靜風度端敏。受具戒於南嶽。修律儀於東林。常趺坐一室。而四方學者差肩繼踵。發此柔軟納其歸依。堯言玉振微文氷釋。故崇德雅美臨壇持法垂五十年。嘗以至德初隷東林寺居耶舍塔院。數逾二紀而信心長者懷甘奉贄紛然並進。監厨守藏不遑祇受。既而悉歸精舍頒于眾僧。大師率同門人布衣糲食而已。故推己以見相。因相而歸空。搜閱精微鑽研旨要。甞苦背悶。而針石不能及也。故於中夜累歎。有神人撫背。殊形駭物。斯須乃去。自茲窮討經論切磋心要。加以律儀。端靜受持勤至。感通之應故難盡書。至於山鹿歸仁林鳥効祉。大師之室不足駭也。大曆五年躋五老峯望彭蠡臨瀑布。乃剏凌雲精舍。為經行之地。旁引泉竇以滌塵迷。近躡松壑以求清涼。丹崖雲岫勢若屏牖。然趨風望景攀危輦重。翼如而至者難以數記。積十餘年乃至大林精廬。淬法刃然惠炬。俾夫恂恂圍繞者割其縛導其迷洗然而自得。貞元中歸東林戒壇院。以吾道已成吾教已行。十五年秋七月召門弟子曰。吾隨化還。須臾寂滅。僧臘五十。報齡七十一。大師精貫六藝旁達百氏。甞與故太師魯國公顏真卿。故丞相趙公憬。故御史大夫盧公群。今吏部侍郎楊公於陵。為參禪之侶。幽鍵洞發玄言兩得。門人法粲等十餘人傳其教焉。高僧傳誌熙怡異迹尤多。而堯佐之文美雅。故錄其文而不載其傳。
(三十 庚辰) 十六年逸士劉軻。游廬山之黃石岩。遇高僧異之。因為記曰。古老有言。太極之氣積成山嶽洩為川瀆。然則匡阜之境。其大者乎。庚辰歲山客劉軻來拾怪異。自麓至頂却下半里餘。次于黃石岩。岩中有棲禪子。不知其幾臘。乃蹟其輕重頗見其宅心之地。及問其住年。但以手指松桂曰。毫髮我植今環人臂。烏飛兔走吾復何齒。矧卯戌之昏旦。霜炎之凍灰。生落之榮顇。去留之沿泝。雖云云自彼。而於我蔑如也。於戲句非岩房峭絕僧行孤峙。則人境兩失其宜也。復何言哉。觀夫雲煙雜乎履舄。嵐靄生於襟袖。群形浩擾併人眸子。每煙雨初霽山光澄練。泠泠仙語如在耳右。況又聳凌競上冥冥。焉知不能與洪崖接袂浮丘連駕。盈縮造化吐納顥氣。絕慚顏於厚面。遠喧卑於臊穢乎。不得而然者蓋鉤也餌也。名為利鉤。利為名餌。吞鉤食餌手足羈鎖。彼焉得跳躍於此乎。夫禪子脫去桎梏四支宣展。動與雲無心。靜將石何機。物我一致端邪徑塞。僕所謂非斯人不能住斯境也。禪師生宜春。姓黃氏名常進。以師久住。遂以其姓易其岩名焉。
(三十一 辛巳) 南嶽雲峯律師法證示寂。師族郭氏。色厲而仁。行峻而周。道廣而不尤。功高而不有。毅然居山之北峯。以為儀表。世之所謂賢人大臣者。至南方咸用嚴事。由其內者。聞大師之言律儀。莫不震動悼懼如聽誓命。由其外者。聞大師之稱道要。莫不悽欷忻踴如獲肆宥。故時推人師則專其首。詔求教宗則冠其位。凡度學者五萬人。壽七十有八。僧臘五十七。河東柳子厚銘其塔。復為之碑曰。乾元元年某月日。皇帝曰。予欲俾慈仁怡愈洽于生人。惟浮圖道允迪。乃命五嶽求厥元德以儀于下。惟茲嶽上于尚書。其首曰。雲峯大師法證。凡蒞事五十年。貞元十七年乃沒。其徒曰詮。曰遠。曰振。曰巽。曰素。凡三千餘人。其長老咸來言曰。吾師軌行峻特器宇弘大。有來受律者。吾師示以尊嚴整齊。明列義類。而人知其所不為。有來求道者。吾師示以高廣通達一其空有。而人知其所必至。元臣碩老稽首受教。髫童毀齒踴躍執役。故從吾師之命而度者凡五萬人。吾師冬不燠裘飢不豐食。每歲會其類讀群經。俾聖言必出。有以見其大。又率其伍伐木輦土。作佛塔廟洎經典。俾像法益廣。有以見其用。將沒告門人曰。吾自始學至去世。未嘗有作焉。然後知其動無不虛靜無不為。生而知未始來。沒而知未始往也。其道備矣。願刻山石知教之所以大。其詞曰。師之教尊嚴有耀。恭夫子之詔。維大中以告後學是効。師之德簡峻淵默柔惠以直。渙焉而不積。同焉而皆得。茲道惟則。師之功勤勞以庸。維奧祕必通。以興祠宮。遐邇攸從。師之族由號而郭。世德有奕。從佛於釋。師之壽七十有八。惟終始罔闕。丕冐遺烈。厥徒蒸蒸。惟大教是膺。惟憲言是懲。愽愽恢弘。如川之增。如雲之興。如嶽之不崩。終古其承之。
(三十二 壬午) ○雪下一丈○丹霞出家。年六十四矣。
(癸未) 隱士陸羽卒。羽字鴻漸。初為沙門得之水濱畜之。既長以易自筮得蹇之漸。曰鴻漸于陸。其羽可用以為儀。乃以陸為姓氏。名而字之。師教以旁行書。答曰。終鮮兄弟而絕後嗣。得為孝乎。逃去為優人。天寶中。太守李齊物異之授以書。貌侻陋口吃而辨。上元中隱苕溪。與沙門道標皎然善。自號桑苧翁。闔門著書。召拜太子文學。不就。嗜茶著茶經三卷。言茶之原之法之具尤備。天下益知飲茶矣。時鬻茶者至陶羽形置突間祀之為茶神。初開元中有逸人王休者。居太白山。每至冬取溪氷敲其精瑩者煮。茗共客飲之。時覺林寺僧志崇取茶三等。以驚雷笑自奉。以萱草帶供佛。以紫茸香待客。赴茶者至以油囊盛餘滴以歸。復有常伯熊者。因慮仝茶詩。深信飲茶之益。乃取羽之論。復廣著茶功。御史李季卿宣慰江南。知伯熊善煮茶召之。伯熊執器而前。季卿為再舉杯。時又有舉羽者召之。羽野服挈具而入。季卿不為禮。羽愧之更著毀茶論。其後尚茶成風。致回紇入朝驅馬市茶焉。
(三十三) 是歲東都聖善寺大師凝公卒。翰林白居易作八漸偈弔之。其序曰。居易甞求心要於師。師賜教焉。曰觀。曰覺。曰定。曰慧。曰明。曰通。曰濟。曰捨。由是入於耳貫於心。嗚呼今師之報身則化。師之八言不化。至哉八言。實無生忍觀之漸門也。故自觀至捨次而贊之。廣一言為一偈。謂之八漸偈。蓋欲以發揮師之心教。且明居易不敢失墜也。既而升于堂禮于床。跪而唱泣而去。偈曰 觀 以心中眼。觀心外相。從何而有。從何而喪。觀之又觀。則辨真妄 覺 惟真常在。為妄所蒙。真妄苟辨。覺生其中。不離妄有。而得真空 定 真若不滅。妄即不起。六根之源。湛如止水。是為禪定。乃脫生死 慧 專之以定。定猶有繫。濟之以慧。慧則無滯。如珠在盤。盤走珠慧 明 定慧相合。合而後明。照彼萬物。物無遺形。如大圓鏡。有應無情 通 慧至乃明。明則不昧。明至乃通。通則無礙。無礙者何。變化自在 濟 通力不常。應念而變。二相非有。隨求而見。是大慈悲。以一濟萬 捨 眾苦既濟。大悲亦捨。苦既非真。悲亦是假。是故眾生。實無度者。
(三十四) 幽州盤山寶積禪師。僧問。如何是道。師曰出。僧曰。學人未領旨在。師曰去。師上堂示眾曰。心若無事萬象不生。意絕玄機纖塵何立。道本無體。因道而立名。道本無名。因名而得號。若言即心即佛。今時未入玄微。若言非心非佛。猶是指蹤之極則向上一路千聖不傳。學者勞形如猿捉影。夫大道無中復誰先後。長空絕際何用稱量。空既如斯道復何說。夫心月孤圓光吞萬象。光非照境境亦非存。光境俱亡復是何物。禪德譬如擲劍揮空。莫論及之不及。斯乃空輪無迹劍刃無虧。若能如是。心心無知。全心即佛。全佛即人。人佛無異。始為道矣。禪德。可中學道似地擎山不知山之孤峻。如石含玉不知玉之無瑕。若如此者。是名出家。故導師云。法本不相礙。三際亦復然。無為無事人。猶是金鎖難。所以靈源獨耀道絕無生。大智非明真空無迹。真如凡聖皆是夢言。佛及涅槃並為增語。禪德。且須自看無人替代。三界無法何處求心。四大本空佛依何住。璿機不動寂爾無言。覿面相呈更無餘事。珍重。師將順世。告眾曰。有人貌得吾真否。眾皆將寫得真呈師。師皆打之。弟子普化出曰。某甲貌得。師曰。何不呈似老僧。普化乃打筋斗而出。師曰。這漢向後如風狂接人去在。師既奄化。勅諡凝寂大師真際之塔。
(三十五) 是歲監察御史柳宗元送?上人歸淮南。序曰。金仙氏之道蓋本於孝敬。而後積以眾德歸於空無。其敷演教戒於中國者離為異門。曰禪。曰法。曰律。以誘掖迷濁。世用宗奉。其有修整觀行尊嚴法容以儀範於後學者。以為持律之宗焉。上人窮討祕義發明上乘。奉威儀三千。雖造次必備。甞以此道宣於江湖之人。江湖之人悅其風而受賜。攀慈航望彼岸者蓋千百計。天子聞之。徵至闕下。御大明祕殿以問焉。道揚本教頗甚稱旨。京師士眾方且翹然。仰大雲之澤以植德本。而上人不勝顧復之恩。退懷省侍之禮。懇迫上乞。遂無以奪。由是杖錫東顧振衣晨往。右司員外郎劉公。深明世典通達釋教。與上人為方外游。始榮其至今惜其去。於是合郎署之友。詩以貺之。退使孺子執簡而序之。因繫其詞曰。上人專於律行。恒久彌固。其儀形後學者歟。誨於生靈觸類蒙福。其積眾德者歟。覲于高堂視遠如邇。其本孝敬者歟。若然者是將心歸空無捨筏登地。固何從而識之乎。古之贈禮必以輕先重。故鄭商之犒先乘韋。魯侯之贈後吳鼎。今餞詩之重皆眾吳鼎也。故乘韋之比得序而先之。且曰。由禮而不敢讓焉。
(三十六 甲申) 南嶽般舟和上卒。柳子厚作第二碑。其詞曰。佛法至于衡山。及津大師始修起律教。由其壇場而出者為得正法。其大弟子曰日悟和上。盡得師之道以補其處。為浮圖者宗。世家于零陵。蔣姓也。和上心大而行密。體卑而道尊。以為由定發慧。必用毘尼為之室字。遂執業於東林恩大師。究觀祕義。乃歸傳教。不覩文字。懸判深微登壇蒞事度比丘眾歲凡千人者。三十有七而道不慁。以為去凡即聖必以三昧為之軌道。遂服勤於紫霄遠大師。修明要奧得以觀佛。活入性海洞開真源。道場專精長跪右遶。不衡不倚凡七日者。百有二十而志不衰。初開元中詔定制度。師乃居本郡龍興寺。肅宗制天下名山。置大德七人。茲嶽尤重。推擇居首。師乃即崇嶺是作精室。闢林莽刳岩巒。殿舍宏大廊廡修直。不命而?力。不祈而薦貨。凡南方人顓念佛三昧者。必由於是。命曰般舟臺焉。和上生十三年而始出家。又九年而受具戒。又十年而處壇場。又三十七年而當貞元二十年正月二十七日化于茲室。嗚呼無得而修。故念為實相。不取於法。故律為大乘。壞衣不飾。揣食不味。覆薦服役。凡出於生物者擯而勿用。不自知其慈。攝取調御。凡歸於正真者動而成群。不自知其教。萬行方厲一性恒如。寂用之涯不可得也。有弟子曰景秀。嗣居法會。欲廣其師之德延于罔極。故申明陳辭俾刊之茲碑。銘曰。像教南被。及津而尊。威儀有嚴。載闢其門。吾師是嗣。增?道源。度眾逾廣。大明群昏。乃興毘尼。微密是論。八萬總結。彰於一言。聲聞熙熙。遐邇來奔。如木既拔。有植其根。乃法般舟。奧妙斯存。百億冥會。觀于化元。同道祈祈。功庸以敦。如水期壅。流之無垠。帝求人師。登我先覺。赫矣明命。表茲靈嶽。于彼南阜。齋宮爰作。負揭致貨。時靡要約。袒奮程力。不呼而諾。是刈是鑿。既塗既斲。層架孔碩。以延後學。出不牛馬。服不絮帛。匪安其躬。亦菲其食。勤而不勞。在用恒寂。縱而不傲。在捨恒得。洪融混合。孰究其跡。懿茲遺光。式是嘉則。容貌往矣。軌儀無極。其徒追思。賡薦茲石。
(三十七 己酉) 順宗誦改永貞(德宗長子。好浮圖教。禮清涼為國師。性寬仁愛。尤善文隸。壽四十六崩咸寧殿。葬豊陵。居攝一年)。
(三十八) 是歲九月太尉中書令韋臯薨。臯初生。厥父飯僧祈福。忽有應真尊者至。齋畢乳媼抱兒求呪願。尊者起謂眾曰。此兒諸葛武侯也。他日有美政於蜀。宜以武字之。言訖恍然不見。其後臯游官出處節義功名。大概與武侯相類。治蜀二十有一年。封南康群王。有德在民。四川至今奉祀之。雅好釋氏法。嘉州石像初成。臯為之記。略曰。頭圍千尺目廣二丈。其餘相好一一稱是。世美其簡而雅。又甞訓鸚鵡念佛。鸚鵡斃以桑門故事闍維之。得舍利。臯為之記曰。元精以五氣授萬類。雖鱗介毛羽必有感清英純粹者矣。或炳耀離火。或稟其蒼精。皆應乎人文以奉若時政。則有革彼禽類習乎能言。了空相於不念。留真骨於已斃。殆非元聖示現感於人心。同夫異緣用一真化。前歲有獻鸚鵡鳥者曰。此鳥聲容可觀。音中華夏。有河東裴氏者。志樂金仙之道。聞西方有珍禽。群嬉和鳴演暢法音。以此鳥名載梵經智殊常類。意佛身所化。常狎而敬之。始告以六齋之禁。比及辰後非時之食。終夕不視。固可以矯激流俗端嚴梵倫。或教持佛名號曰。當由有念以至無念。則仰首奮翅若承善聽。其後或俾之念佛。則默然而不答。或謂之不念。即唱言阿彌陀。歷試如一曾無爽異。余謂其以有念為緣生。無念為真際。緣生不答以為緣起也。真際雖言言本空也。每虛室戒曙發和雅音。穆如笙篁靜鼓天風。下上其音念念相續。聞之者莫不洗然而嘉善矣。嗚呼生有辰乎。緣其盡乎。以今年七月悴爾不懌。七日而甚。馴養者知將盡。乃鳴磬而告曰。將西歸乎。為爾擊磬。爾其存念。每一擊磬一稱彌陀佛。洎十擊磬而十念成。斂翼委足不震不仆。揜然而絕。按釋典。十念成往生西方。又云。得佛惠者歿有舍利。知其說者固不隔殊類哉。遂命以闍維之法焚之。餘燼之末果有舍利十餘粒。炯爾耀目瑩然在掌。識者驚視聞者駭聽。咸曰。苟可以誘迷利世。安往而非菩薩之化歟。時有高僧惠觀。甞詣三學山巡禮聖迹。聞說此鳥涕淚悲泣。請以舍利於靈山用陶甓建塔旌異之。余謂此禽存而有道歿而有徵。古之所以通聖賢階至化者。女媧蛇軀以嗣帝中。衍鳥身而建侯。紀乎冊書。其誰曰語怪。而況此鳥有弘於道流聖證昭昭。胡可默已。是用不愧。直書于辭。是歲八月。順宗遜于位。皇太子立。是為憲宗。初順宗甞在東宮。問佛光如滿禪師曰。佛從何方來。滅向何方去。既言常住世。今佛在何處。答曰。佛從無為來。滅向無為去。法身等虛空。常住無心處。有念歸無念。有住歸無住。來為眾生來。去為眾生去。清淨真如海。湛然體常住。智者善思惟。更勿生疑慮。帝又問曰。佛向王宮生。滅向雙林滅。住世四十九。又言無法說。山河及大海。天地及日月。時至皆歸盡。誰言不生滅。疑情猶若斯。智者善分別。滿復答曰。佛體本無為。迷情妄分別。法身等虛空。未曾有生滅。有緣佛出世。無緣佛入滅。處處化眾生。猶如水中月。非常亦非斷。非生亦非滅。生亦未曾生。滅亦未曾滅。了見無心處。自然無法說。帝聞大悅。又甞問心要於清涼國師。國師答之。其略曰。至道本乎其心。心法本乎無住。無住心體靈知不昧。性相寂然包含德用。該攝內外能深能廣。非有非空。不生不滅。無終無始。求之而不得。棄之而不離。迷現量則惑苦紛然。悟真性則空明廓徹。雖即心即佛。唯證者方知。然有證有知。則慧日沈沒於有地。若無照無悟。則昏雲掩蔽於空門。若一念不生。則前後際斷照體獨立。物我皆如直造心源。無智無得。不取不捨。無對無修。然迷悟相依真妄相待。若求真去妄。如棄影勞形。若體妄即真。似處陰影滅。若無心妄照。則萬慮都捐。若任運寂知。則眾行爰啟。放曠任其去住。靜鑑覺其源流。語默不失玄微。動靜未離法界。言止則雙亡知寂。論觀則雙照寂知。語證則不可示人。說理則非證不了。是以悟寂無寂真知無知。以知寂不二之一心。契空有雙亡之中道。
佛祖歷代通載卷第十四
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十五
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐
(一 丙戌) 憲宗純改元和(順宗長子。以北突厥承瓘為招討使。白居易陳自中官為統帥者。天下安寧。咸謂中興之主。北方天帝降夢。令興佛法。帝不承命。愛服丹藥。致性燥急。後為中官陳弘志弑之。壽四十三歲。葬于景陵時有名賢柳子厚韓退之元微之劉禹錫白居易等。在位十五年)。
(二) 信州鵝湖大義禪師者。衢州須江人也。姓徐氏。李翱嘗問師。大悲用千手眼作麼。師云。今上用公作麼。有一僧乞置塔。李尚書問云。教中不許將屍塔下過。又作麼生。無對。僧却來問師。師云。他得大闡提。上詔入內。於麟德殿論議。有一法師。問。如何是四諦。師云。聖上一帝。三帝何在。又問。欲界無禪。禪居色界。此土憑何而立禪。師云。法師只知欲界無禪。不知禪界無欲。法師云。如何是禪。師以手點空。法師無對。帝云。法師講無窮經論。只這一點尚不奈何。師却問諸碩德曰。行住坐臥畢竟以何為道。有對曰。知者是道。師曰。不可以知知。不可以識識。安得知者是道乎。有對。無分別是道。師曰。善能分別諸法相。於第一義而不動。安得無分別是道乎。有對。四禪八定是道。師曰。佛身無為不墮諸數。安在四禪八定是道邪。眾皆杜口。師又舉。順帝問尸利禪師。大師眾生如何見性成佛。尸利云。佛性猶如水中月。可見不可取。因謂帝曰。佛性非見必見。水中月如何攫取。帝乃問。何者是佛性。師對曰。不離陛下所問。帝默契真宗。
(三) 益加欽重。師於元和十三年正月七日歸寂。壽七十四。勅諡惠覺禪師見性之塔。
時寒山子者。不知其氏族鄉里。隱於台州唐興縣寒岩。故父老以寒山子稱之。為人癯野。好冠樺皮冠著木屐。裘衲繿縷狀若風狂。笑歌自若。其所居近天台國清寺。寺僧豐干者。亦非常人也。每自薪水力於杵臼。以給眾用。與寒山子為方外友。先是豐干行赤城道中。聞兒啼草菜間。視之見孩童十餘歲。問其出處初無言對。心異之。引歸寺令掃除。以其得之於野。因名拾得。既長頭陀苦行精敏絕倫。甚為豐干寒山所器。與之偕遊。三人者相得歡甚。寺僧皆訝之。然中心疑而莫之省也。拾得日常滌器冀有殘䐹。著以筒留餌寒山。二子皆能詩。或時戲村保。寓事感懷輒有詩以見意。或書石壁。或樹葉間。或酒肆中。語皆超邁絕塵。雖古名流未能髣髴也。自述云元非隱逸士。自號山林人。在魯蒙白幘。旦愛裹疎巾。道有巢許操。恥為堯舜臣。獼猴罩帽子。非學辟風塵。又曰。欲得安居處。寒山可長保。微風吹幽松。近聽聲愈好。下有斑白人。喃喃誦黃老。十年歸不得。忘却來時道。又曰。有身與無身。是我復非我。如此審思量。遷延倚岩坐。足間青草生。頂上紅塵墮。以見世間人。靈床施酒果。又曰。玉堂掛珠簾。中有嬋娟子。顏貌勝神仙。容華若桃李。東家春霧合。西舍秋風起。更足三十年。還如甘蔗滓。其句語若此者甚夥。拾得甞掌供獻。至食時對佛而食。又於憍陳如像前訶斥之曰。小根敗種何為者耶。寺僧深怪之。不使直供。又伽藍神粥飯多為烏鳶所殘。拾得杖擊神而嫚罵曰。汝食猶不能護。焉能護伽藍乎。神遍夢寺僧曰。拾得鞭我。至旦互以語及。一一皆同。志是眾駭之。豐干出雲遊。貞元末閭丘胤出守台州。欲之官我病頭風。名醫莫差。豐干偶至其家。自謂善療此疾。閭丘聞而見之。干命水噀濡之。須臾所苦頓除。因是大喜甚加敬焉。問所從來。曰天台國清。曰彼有賢達者不。曰有之。然不可以世故求也。寒山拾得師利普賢示迹。二子混干國清。公若之官當就見。不宜後也。閭丘南來上事未久。入寺訪豐干遺迹。但見茆宇蕭條虎伏舍側。復入寺謁二大士。寺僧引至後厨。閭丘拜謁二大士。起走曰。饒舌彌陀汝不識。禮我何為。遽返寒岩。次日閭丘令遺贈。寒山見使至罵曰。賊賊。遂隱入岩石。拾得亦潛去。後不知終。
(四 子亥) 荊州城東天皇道悟禪師。協律郎符載撰碑。其略云。姓張氏。婺州東陽人。十四出家。依明州大德祝髮。二十五受戒於杭州竹林寺。初參國一服勤五年。大曆十一年隱于大梅山。建中初謁江西馬祖。二年參石頭。乃大悟。遂隱當陽紫陵山。後於荊南城東有天皇寺。頃因火廢。僧靈鑑將謀修復。乃曰。苟得悟禪師為化主必能福我。時江陵尹右僕射裴公稽首問法。致禮迎至。師素不迎送。客無貴賤皆坐而揖之。裴愈加敬。石頭之道貽盛于此。師患背痛。臨終大眾問疾。師驀召典座近前。師曰。會麼。對曰。不會。師拈枕子拋於地上。即便告寂。壽六十。坐三十五夏。法嗣三世。曰惠真。曰幽間。曰文賁。實元和二年四月十三日也。
(五) 元和十三年四月十三日。天王道悟禪師入寂。唐正議大夫戶部侍郎平章事荊南節度使丘玄素。撰碑云。道悟渚宮人。姓崔氏。子玉之後胤也。年十五依長沙寺曇翥律師出家。二十三詣嵩山受戒。三十三參石頭。頻沐指示曾未投機。次謁忠國師。三十四與國師侍者應真南還謁馬祖。祖曰。識取自心本來是佛。不屬漸次不假修持。體自如如萬德圓滿。師於言下大悟。祖囑曰。汝若住持莫離舊處。師蒙旨已便反荊州。去郭不遠結草為廬。後因節使顧問。左右申其端緒。節使親臨訪道。見其路隘車馬難通。極目荒榛曾未修削。覩茲發怒令人擒師拋於水中。旌旆才歸乃見遍衙火發內外洪焰莫可近之。唯聞空中聲曰。我是天王神。我是天王神。節使回心設拜。煙焰都息宛然如初。遂往江邊見師在水都不濕衣。節使重申懺悔。迎請在衙供養。於府西造寺。額號天王。師常云快活快活。及臨終時叫苦苦。又云。閻羅王來取我也。院主問曰。和尚當時被節度使拋向水中。神色不動。如今何得恁麼地。師舉枕子云。汝道當時是如今是。院主無對。便入滅。壽八十二。夏六十三。嗣法一人。曰崇信。即龍潭也○論曰。
(寂音尊者曰。荊州天王寺道悟禪師。如傳燈所載。則曰道悟得法於石頭。所居寺曰天皇。婺州東陽人。姓張氏。年十四出家。依明州大德披剃。年二十五。杭州竹林寺受具。首謁經山國一禪師。服勤五年。大曆中抵鍾陵。謁馬大師。經二夏。乃造石頭。元和丁亥四月示寂。壽六十。臘三十五。及觀達觀頴禪師所集五家宗派。則曰道悟嗣馬祖。引唐丘玄素所撰碑文幾千言。其略曰。師號道悟。渚宮人。姓崔氏。即子玉後胤也。年十五於長沙寺禮曇翥律師出家。二十三詣嵩山律德得尸羅。謁石頭扣寂。二年無所契悟。乃入長安親忠國師。三十四與侍者應真南還謁馬大師。大悟於言下。祝曰。他日莫離舊處。故復還渚宮。元和十三年戊戌。四月初示疾。十三日歸寂。壽八十二。臘六十三。考其傳。正如兩人。然玄素所載曰。有傳法一人崇信。住澧州龍潭。南嶽讓禪師碑。唐聞人歸登譔。列法孫數人于後。有道悟名圭峯。答裴相國宗趣狀。列馬祖之嗣。六人。首曰江陵道悟。其下注曰。兼稟徑山。今妄以雲門臨濟二宗競者。可發一笑。出林間錄○覺夢堂重校五家宗派序云。景德間。吳僧道源集傳燈錄三十卷。自曹溪下列為兩派一曰南嶽讓。讓出馬大師。一曰青原思。思出石頭遷。自兩派下又分五宗。馬大師出八十四員善知識。內有百丈海。海出黃蘗運大溈祐二人。運下出臨濟玄。故號臨濟宗。祐下出仰山寂。故號溈仰宗。八十四人內又有天王悟。悟得龍潭信。信得德山鑑。鑑得雪峯存。存下出雲門偃。號雲門宗。次玄沙備。備出地藏琛。琛出清涼。益號法眼宗。次石頭遷出藥山儼天皇悟二人。悟下得惠真。真得幽間。間得文賁三世便絕。唯藥山得雲岩晟。晟得洞山价。价得曹山章。是為曹洞宗。今傳燈。却收雲門法眼兩宗。歸石頭下誤矣。緣同時道悟有兩人。一曰。江陵城西天王寺道悟者。渚宮人也。崔子玉之後。嗣馬祖。元和十二年四月十三日化。正議大夫丘玄素撰塔銘。文幾千言。其略云。馬祖祝曰。他日莫離舊處。故復還渚宮。一曰。江陵城東天皇寺道悟者。婺州東陽人也。姓張氏。嗣石頭。元和二年丁亥化。叶律郎符載撰塔銘。二碑所載。生緣出處甚詳。但緣道原採集傳燈之日非一一。親往討尋不過宛轉。託人捃拾而得其差誤可知也。自景德至今。天下四海以傳燈為據。雖列剎據。位立宗者。不能略加究辨。惟丕相無盡居士張公及呂夏卿二君子。每會議宗門中事。甞曰。石頭得藥山。藥山得曹洞。一宗教理行果言說宛轉。且天皇道悟下出箇周金剛。呵風罵雨。雖佛祖不敢嬰其鋒。恐自天皇處或有差誤。寂音尊者亦甞疑之云道悟似有兩人。無盡居士後於達觀穎禪師處。得唐符載所撰天皇道悟塔記。又討得丘玄素所作天王道悟塔記。齎以遍示諸方曰。吾甞疑德山洞山同出石頭下。因甚垂示處作用殺活不同。今以丘符二記證之。朗然明白。方信吾擇法驗人不謬耳。寂音曰。圭峰答斐相國宗趣狀。列馬祖之嗣六人。首曰江陵道悟。其下注曰。兼稟徑山今妄以雲門臨濟二宗競者。可發一笑。略書梗概以傳明達者。庶知五家之正派如是而已)。
(六) 江西北蘭讓禪師湖塘亮長老問。伏承師兄畫得先師真。暫請瞻禮。師以兩手撥胸開示之。亮便禮拜。師云。莫禮莫禮。亮云。師兄錯也。某甲不禮師兄。師云。汝禮先師真。亮云。因什麼教某甲莫禮。師云。何曾錯。
(七 己丑) 元和四年。上問侍臣。政之寬猛孰先。宰相權德輿。對曰。唐家承隋苛虐以仁厚為先。太宗皇帝見明堂圖。即禁鞭背刑。列聖所循皆尚德教。故天寶大盜竊發俄而夷滅。蓋本朝之化感人心之深。帝曰。誠如公言。德輿善辯論。開陳古今本末。以覺悟人主。為輔相寬和不為察察名。文章雅正贍縟。當時公卿侯王功德卓異者。皆所為銘紀。雖動止無外飾。其醞藉風流。自然可慕。貞元元和間為縉紳羽儀。
(八) 德輿甞著草衣禪師宴坐記曰。信州南嶽有清淨宴坐之地。而禪師在焉。師所由來莫得而詳。初州人析薪者遇之于野中。其形塊然與草木俱。咨於州長。乃延就茲地。三十年矣。州人不知其所以然也。遂以草衣號焉。足不蹈地口不甞味。日無晝夜時無寒暑。寂默之境一繩床而已。萬有囂然此身不動。其內則以三世五蘊皆從妄作。然後以有法諦觀十二緣。於正智中得真常真我。方寸之地湛然虛無。身及智慧二俱清淨。微言軟語有時而聞。涉其境之遠近。隨其根之上下。如雨潤萬物風行空中。履其門閾皆獲趣入。若非斡玄機於無際窮實相之源底。則四時攻於外。百疾生於內矣。古所謂遺物離人而立於獨者。禪師得之。嗚呼世人感物以游心。心遷於物。則利害生焉。吉凶形焉。牽縻鞿瑣蕩而不復。至人則反靜於動。復性於情。夭壽仁鄙之殊。由此作也。斯蓋世諦之一說耳。於禪師之道。其猶稊稗耶。建中二年予吏役道于上饒。時左司郎崔公出為郡左。探禪師之味也。熟為予詳言之。拂拭纓塵携手接足。洗我以善得於儀形。且以為楞嚴妙旨。毘耶之密用。皆在是矣。又焉知此地之宴坐。不為他方之說法乎。故粗書聞見以志于石。
(九 庚寅) 帝問國師澄觀曰。華嚴所詮何謂法界。奏曰。法界者一切眾生之身心本體也。從本以來靈明廓徹廣大虛寂。唯一真境而已。無有形貌而森羅大千。無有邊際而含容萬有。昭昭於心目之間。而相不可覩。晃晃於色塵之內。而理不可分。非徹法之慧目。離念之明智。不能見自心如此之靈通也。故世尊初成正覺。歎曰。奇哉我今普見一切眾生。具有如來智慧德相。但以妄想執著而不能證得。於是稱法界性說華嚴經。全以真空簡情。事理融攝周遍凝寂。帝天縱聖明。一聽玄談廓然自得。於是勅有司備禮鑄印。遷國師統冠天下緇徒。號僧統清涼國師。
(十) 時禪者無著。入五臺山求見文殊大士。至金剛窟前炷香作禮。暝坐少頃聞有叱牛者。著遽開眸。見山翁野貌瓌異牽牛臨溪而飲。著起揖。山翁曰。爾來何為。曰願見文殊大士。翁曰。大士未可見。汝飯未。著曰。未也。翁牽牛歸。著躡迹隨之。俄入一寺。翁呼均提。有童子應聲出迎。翁縱牛引著升堂。堂宇皆金璧所成。翁踞床指繡墩命著坐。童子俄進玻璃盞。貯物如酥酪。揖與對飲。著納其味頓覺心神卓朗。翁曰。近自何來。著曰。南方。翁曰。南方佛法如何住持。著曰。末法比丘少奉戒律。翁曰。多少眾。曰或三百或五百。著問。此間佛法如何住持。翁曰。龍蛇混雜凡聖同居。曰眾幾何。翁曰。前三三後三三。遂談諸及莫。著欲留。翁不許。著戀戀不即去。翁投袂起。叱童子引著出之。著不得留。行未遠問童子。適何寺。童子曰。般若寺也。著悽然悟彼翁者即文殊也。不可再見。即稽首童子足下。願匃一言為別。童子隱身而歌曰。面上無嗔供養具。口裏無嗔吐妙香。心內無嗔是珍寶。無垢無染即真常。著因駐錫五臺。往往頻與文殊會語云(師嘉禾語溪朱氏子七歲依本邑常樂寺今崇福寺)。
(十一 辛卯) 有詔。移京兆章敬寺懷惲禪師。入居上寺。玄徒輻湊。惲示眾曰。至理忘言。時人不悉強習它事以為功能。不知自性元非境所。是箇微妙大解脫門。所有鑑覺不染不礙。如是光明未曾休廢。曩劫至今固無變易。猶如日輪遠近斯照。雖及眾色不與一切和合。靈燭妙明非假鍛鍊。為不了故取於物象。但如揑怪妄起空華。徒自疲勞枉經劫數。若能返照無第二人。舉措施為無虧實相(號柏岩姓謝晉亂誓服緇褐權德輿作記余如傳燈錄)。
(十二) 居士龐蘊。字道玄。衡陽人。世業儒。貞元初謁石頭和尚。玄言妙契。一日石頭問。子自見吾以來。日用事作麼生。對曰。若問日用事。即無開口處。乃呈一頌曰。日用事無別。唯吾自偶諧。頭頭非取捨。處處勿張乖。朱紫誰為號。丘山絕點埃。神通并妙用。運水及般柴。石頭然之。後參馬祖問。不與萬法為侶者是什麼人。祖曰。待汝一口吸盡西江水即向汝道。居士於言下大悟。自爾玄機妙句竦動諸方。與丹霞最友善。一日訪百靈和尚。路次相遇靈問。昔日石頭得意句。還曾舉向人麼。士云。曾舉來。靈云。舉向阿誰來。士以手自指云。龐公。靈云。直是妙德空生也。讚歎居士不及。士却問。師得力句是誰知。靈便戴笠子而去。士云。善為道路。靈一去更不回首。又訪則川和尚。川云。還記得初見石頭時道理否。士云。猶得阿師重舉在。川云。情知久參事慢。士云。阿師老耄。不啻龐公。川云。二彼同時又爭幾許。士云。龐公鮮健差勝阿師。川云。不是勝我。只是反箇幞頭。士云。恰與師相似。川大笑而已。因摘茶次。士云。法界不容身。師還見我否。川云。不是老僧怕答公話。士云。有問有答。蓋是尋常。用乃摘茶不聽。士云。莫怪適來容易借問。川不顧。士云。這無禮儀漢。待一一舉似明眼人在。川乃拋却茶籃便歸方丈。又訪松山和尚。喫茶次。士舉起槖子云。人人盡有分。因什麼道不得。山云。只為人人有分。所以道不得。士云。阿兄因什麼却道得。山云。不可無言也。士云。灼然灼然。山便喫茶。士云。阿兄喫茶何不揖客。山云誰。士云。龐公。山云。何須更揖。後丹霞聞之乃云。若不是松山幾被箇老翁作亂一上。士聞之乃令傳語丹霞云。何不會取舉起槖子時。又訪齊峯和尚。峯云。俗人頻來僧舍討什麼。士回顧兩邊云。誰恁麼道。誰恁麼道。齊峰乃咄之。士云。却在這裏。峯云。莫是當陽道底。士云。背後底聻。峯回首云。看看。士云。草賊大敗。峯無語。又訪石林和上。林豎拂子云。子落丹霞機。試道一句。士奪却拂子乃竪起拳。林云。正是丹霞機。士云。與我不落看。林云。丹霞患啞龐公患聾。士云。恰是。又一日林云。有箇借問居士莫惜言句。士云。便請。林云。元來惜言句。士云。這箇問訊不覺落他便宜。林乃掩耳。士云。作家作家。一日丹霞訪居士。見女子靈照取菜次。霞問。居士在否。女子放下籃子斂手而立。又問。居士在否。女子便提籃子去。時居襄陽。靈照常隨製竹漉籬售之以供朝夕。居士將終。命靈照視日。及中即報。靈照遽報曰。日中矣。而有蝕也。居士出觀日次。靈照即登父座合掌端坐而逝。居士笑曰。我女鋒揵矣。於是居士更延七日。襄州牧于公枉駕候問。居士談笑良久。居士顧謂公曰。但願空諸所有。慎勿實諸所無。好住世間猶如影響。言訖枕公膝而逝。
(十三 壬辰) 永州司馬柳宗元。製南嶽彌陀和尚碑。其詞曰。在代宗時。有僧法照為國師。乃言。其師南嶽大長老有異德。天子南嚮而禮焉。度其道不可徵。乃名其居曰般舟道場。用尊其位。公始居山西南岩石之下。人遺之食則食。不遺則食土泥茹草木。其取衣類是。南極海裔此自幽都。來求厥道。或值之崖谷。羸形垢面躬負薪槱。以為僕役。而媟之乃公也。凡化人立中道而教之權。俾得以疾至。故示專念。書塗巷刻谿谷。丕勤誘掖以援于下。不求而道備。不言而物成。皆負布帛斬木石委之岩戶。不拒不營祠宇既具。以洎于德宗申詔褒立。是為彌陀寺。施之餘則施與餓疾者。不尸其功。公始學成都唐公。次資川詵公。詵公學於東山忍公。皆有道。至荊州進學玉泉真公。真公授公以衡山。俾為教魁。人從而化者以萬計。初法照居廬山。由正定趣安樂國。見蒙惡衣侍佛者。佛告曰。此衡山承遠也。出而求教肖焉。乃從而學。傳之天下由公之訓。公為僧凡五十六年。其壽九十一。貞元十八年七月十九日終于寺。葬于寺之南岡。刻石于寺大門之右。銘曰。一氣回薄范無窮。其上無初下無終。離而為合蔽為通。始末或異今焉同。虛無混冥道乃融。聖人無迹示教功。公之率眾峻以容。公之立誠放其中。服庇草木蔽穹窿。仰攀俯取食以充。形游無極交大雄。天子稽首師順風。四方奔趨雲之從。經始尋尺成靈宮。始自蜀道至臨洪。咨謀往復窮真宗。弟子傳教國師公。化流萬億代所崇。奉公寓形于南岡。幼曰弘願惟孝恭。立之茲石書玄蹤。
(十四) 是歲永州修淨土院成。司馬柳宗元為之記曰。中州之西數萬里有國。曰身毒。釋迦牟尼如來示現之地。彼佛言。西方過十萬億國土有世界。曰極樂。佛號無量壽如來。其國無有三毒八難。眾寶以為飾。其人無有十纏九惱。群聖以為友。有能誠心大願歸心是土者。苟念力具足則生彼國。然後出三界之外。其於佛道無退轉者。其言無所欺也。晉時廬山遠法師作念佛三昧詠。大勸于時。其後天台顗大師著釋淨土十疑論。宏宣其教。周密微妙迷者咸賴焉。蓋其留異迹而去者甚眾。永州龍興寺前刺史李承晊及僧法林。置淨土堂于寺之西偏。常奉斯事。逮今餘二十年。廉隅毀頓圖像崩墜。會巽上人居其宇下。始復理焉上人者修最上乘解第一義。無體空析色之迹而造乎真源。通假有借無之名而入於實相。境與智合事與理并。故雖往生之因。亦相用不捨。誓葺茲宇以開後學。有信士圖為佛像。法相甚具焉。今刺史憑公作大門以表其位。余遂周延四阿環以廊廡。繢二大士之像。繒蓋幢幡以成就之。嗚呼有能求無生之生者。知舟筏之存乎。是遂以天台十疑論書于牆宇。使觀者起信焉。
(十五) 法師智?者。悟解絕倫多所撰著。然寡徒侶。因棄講居衡嶽寺。每覽所撰必一唱三歎。以為吾達解如此。而不遇賞音。偶一日有耆宿至。借?著述而閱之。乃曰。汝識至高頗符佛意。今寡徒眾蓋闕人緣耳。佛猶不能度無緣。況初心者乎。可辦食布施飛走。却後二十年當自有眾。言訖恍然不見。?遂如其教。鬻衣單易米。炊之散郊外。感群鳥大集搏飯而去。?祝之曰。食吾飯者願為法侶。後二十年?往鄴城開講。座下有眾千餘人。果皆少年比丘。
(十六) 是歲道樹禪師卒。師初參神秀禪師得旨。結茅于壽州三峰山。有野人服色素朴言譚詭異。或時化現佛菩薩聲聞天仙等形。或放異光。或出聲響。妖幻百端。師之徒眾常為驚怖。皆莫能測。如此凡十年方滅迹不見。師告眾曰。野人作無限伎倆。眩惑於人。只消老僧不見不聞。伊伎倆有窮。吾不見不聞無盡。繇是遠近聞之靡不欽服。所謂見怪不怪其怪自敗云。
○(吳元濟反拒官軍)。
(十七) 是歲正月百丈懷海禪師示寂。春秋九十有五。師福州長樂人。丱歲離塵三學該鍊。屬馬祖闡化江西。師傾心依附。與西堂智藏禪師同號入室。時馬祖之門會學千百。二大士為角立焉。及祖遷化。師往新吳百丈山居。未期月而玄學之徒四方輻湊。師雖臘高凡作息必與眾同均。甞謂一日不作則一日不食。僧問。如何是大乘頓悟法門。師曰。汝等先歇諸緣休息萬事。善與不善世出世間。一切諸法。莫記憶莫緣念。放捨身心令其自在。心如木石無有辨別。心無所行心地若空。慧日自現如雲開日出相似。名為解脫人。對一切境心無靜亂。不攝不散一切聲色無有滯礙。是非好醜是理非理。諸知見總盡不彼繫縛。處心自在。名初發心菩薩。便登佛地。若垢淨心盡。不住繫縛本住解脫。無一切有為無為縛脫。平等心量。處於生死。其心自在。畢竟不與虛幻塵勞蘊界生死諸入和合。逈然無寄一切不拘去留無礙。往來生死如門開相似。若遇種種苦樂不稱意事。心無退屈。不念名聞衣食。不貪功德利益。不為世法之所滯。心雖親受苦樂不干于懷。麁食接命補破禦寒。兀兀如愚。如聾相似。稍有親分。於生死中廣學知解。求福求智於理無益。即被解境風漂。却歸生死海裏。佛是無求人。求之即乖。理是無求理。求之即失。若取於無求。復同於有求。此法無實無虛。若能一生心如木石相似不為陰界五欲八風之所漂溺。即生死因斷去住自由。僧問。如今受戒身心清淨。已具諸善得解脫否。答曰。少分解脫。未得心解脫。問云何是心解脫。答曰。不求佛不求知解。垢淨情盡。亦不守無求為是。不住盡處。亦不畏地獄苦。不愛天堂樂。一切法不拘。始名為解脫無礙。汝莫言有少分戒善。將為便了。有河沙無漏戒定慧門。都未涉一毫在。努力猛作。莫待耳聾眼暗頭白面皺。老苦及身眼中流淚。心裏慞惶未有去處。到恁麼時。整理手脚不得也。縱有福智多聞。都用不著。為緣念諸境不知返照復不見佛道。一生所有惡業悉現於前。變為好境。隨所見重處受生。都無自由分。龍畜良賤亦總未定。問如何得自由。答曰。如今對五欲八風情無取捨。垢淨俱亡。如日月在空。不緣而照。亦如香象截流而過。更無疑滯。此人天堂地獄所不能攝也。凡讀經看教。皆須宛轉切就自己。但是一切言教只明如今覺性自己。俱不被一切有無諸法境轉。是名導師。能照破一切有無境法。是名金剛。即有自由獨立分。若不能恁麼。縱令誦得十二韋陀經。只成增上慢。却是謗佛。不是修行。讀經看教若准世間。是好善事。若向明眼人邊數此。是壅塞人。十地之人脫不去。流入生死河。但不用求覓知解語言義句。離一切有無諸法。透過三句外。自然與佛無差。既自是佛。何患佛不解語。只恐不是佛。被一切有無諸法轉。不得自由是以理未立。先有福智載去。知賤使貴。不如於理先立後有福智。臨時作得主。握土為金。變海水為酥酪。破須彌山為微塵。於一義作無量義。於無量義作一義。師每說法竟大眾下堂。乃召之。大眾回首。師云。是什麼。諸方目為百丈下堂句。
師以禪宗肇自少室至曹溪以來多居律寺說法住持未有規度。乃剏意別立禪居。凡具道眼有可尊之德者。號曰長老。既為化主即處於方丈。不立佛殿唯樹法堂。表佛祖的傳受當代為尊也。學眾無多少無高下。並入僧堂依臘次安排。設長連床施椸架掛搭道具。臥必斜枕床唇。以其坐禪既久略偃息而已。除入室請益。任學者勤惰。或上或下不拘常准。其闔院大眾朝參夕聚。長老上堂升座。主事徒眾雁立側聆。主賓問酧激揚宗要。齋粥二時隨眾均遍。行普請法上下均力也。置十務寮舍。每用主領一人營眾事令各司其局。或有假號竊形混於清眾并別置喧撓之事。即維那檢舉。抽下本位掛搭。擯令出院。或彼有所犯。即以拄杖杖之。集眾燒衣鉢道具。遣逐由偏門而出。以示恥辱焉。其大要如此。其後叢林日盛。當代宗師從而廣之。今所謂禪苑清規者備矣。
(十八) 是年河東柳子厚。製南嶽大明律師碑。其詞曰。儒以禮立仁義。無之則壞。佛以律持定慧。去之則喪是以離禮於仁義者。不可與言儒。異律於定慧者。不可與言佛。達是道者惟大明師。師姓歐陽氏。號曰惠開。唐開元二十一年始生。天寶十一載始為浮圖。大曆十一年始登壇為大律師。貞元十五年十一月十日卒。元和九年正月其弟子懷信道嵩尼無染等。命高道僧靈嶼為行狀。列其行事。願刊之茲碑。宗元今掇其大者。言曰。師先因宦世家潭州。為大族勳烈爵位。今不言大浮圖也。凡浮圖之道衰。其徒必小律而去經。大明恐焉。於是從峻洎偘。以究戒律。而。大法以立。又從秀洎昱。以通經教。而奧義以修。由是二道出入隱顯。後學以不惑。來求以有得。廣德三年始立大明寺于衡山。詔選居寺僧二十一人。師為之首。乾元三年又命衡山立毘尼藏。詔講律僧七人。師應其數。凡其衣服器用動有師法。言語行止皆為物軌。執巾匜奉杖屨為侍者數百。剪髦髮被教戒為學者數萬。得眾若獨居尊若卑。晦而光介而大。浩浩焉無以加也。其塔在祝融峯西趾下。碑在塔東。詞曰。儒以禮行。覺以律興。一歸真源無大小乘。大明之律是定是慧。丕窮經教為法出世。化人無量垂裕無際。詔尊碩德威儀有繼。道遍大洲徽音勿替。祝融西麓洞庭南裔。金石刻辭彌億千歲。
子厚復題其碑陰曰。凡葬大浮圖無竁穴。其於用碑不宜。然昔之公室禮。得用碑以葬。其後子孫因宜不去。遂銘德行用圖久於世。及秦刻山石。號其功德亦謂之碑。而其用遂行。然則雖浮圖亦宜也。凡葬大浮圖。其徒廣則能為碑。晉宋尚法。故為碑者多法。梁尚禪。故碑多禪。法不周施禪不大行而律存焉。故近世碑多律。凡葬大浮圖。未嘗有比丘尼主碑事。今惟無染實來涕淚以求。其志益堅。又能言其師他德尤備。故書之碑陰。而師凡主戒事二十二年。宰相齊公映。李公泌趙公憬尚書曹王皐裴公胄侍郎令孤公峘或師或友。齊親執經受大義為弟子。又言師始為童時。夢大人縞冠素舃來告曰。居南嶽大吾道者必爾也。已而信然。將終夜有光明笙磬之聲。眾咸見聞。若是類甚眾。以儒者所不道而無染。勤以為請。故末傳焉。無染韋氏。女世顯貴。今主衡山戒法。
(十九) 南海經略馬總。以曹溪六祖未有諡請于朝。天子賜諡曰大鑑。總乃命河東柳宗元撰賜諡碑。其詞曰。扶風公廉問。嶺南。三年以佛氏第六祖未有稱號。疏聞於上。詔諡大鑑禪師。塔曰靈照之塔。元和十年十月十三日。下尚書祠部符到都府。公命部吏洎州司功掾告于其祠。幢蓋鐘鼓增山盈谷。萬人咸會若聞鬼神。其時學者千有餘人。莫不欣。踴奮勵如師復生。則又感悼涕慕如師始亡。因言曰。自有生物則好鬪奪相賊殺喪其本實。誖乖淫流莫克返于初。孔子無大位。沒以餘言持世。更楊墨黃老益雜其術分裂。而吾浮圖說後出。推離還源合所謂生而靜者。梁氏好作。有為。師達磨譏之空術益顯。六傳至大鑑。大鑑始以能勞苦服役。一聽其言。言希以究。師用感動遂受信具。遁隱南海上。人無聞知。又十六年度其可行。乃居曹溪為人師。會學去來常數千人。其道以無為為有。以空洞為實。以廣大不蕩為歸。其教人始以性善終以性善。不假耘耡本其靜矣。中宗聞名使幸臣再徵。不能致。取其言以為心術。其說具在。今布天下。凡言禪皆本曹溪。大鑑去世百有六年。凡治廣部而以名聞者以十數莫能揭其號。今乃始告天子得大諡。豐佐吾道。其可無辭。公始立朝以儒重。刺虔州都護安南。由海中大蠻夷。連身毒之西。浮舶聽命咸被公德。受旂纛節鉞來蒞南海。屬國如林。不殺不怒而人畏無噩。允克光于有仁昭列大鑑。莫如公宜。其徒之老乃易石于宇下。使來謁辭。其辭曰。達磨乾乾傳佛語心。六承其授大鑑是臨。勞勤專默終揖于深。抱其信器行海之陰。其道爰施在溪之曹。庬合猥附。不夷其高。傳告咸陳唯道之褒。生而性善在物而具。荒流奔軼乃萬其趣。匪思愈亂匪覺滋誤。由師內鑑咸護於素。不植乎根不耘乎苗。中一外融有粹孔昭。在帝中宗聘言于朝。陰翊王度俾人逍遙越百有六祀號諡不紀。由扶風公告今天子。尚書既復大行乃誄。光于南土。其法再起。厥徒萬億同悼齊喜。惟師教所被。洎扶風公所履咸戴天子。天子休命嘉公德美。溢于海夷浮圖是視。師以仁傳公以仁理。謁辭圖堅永胤不已。
宋紹興二年。東坡居士過曹溪。題曰。釋迦以文教。其譯于中國。必託於儒之能言者。然後傳遠。故大乘諸經至首楞嚴。則委曲精盡勝妙獨出。以房融筆授故也。柳子厚南遷始究佛法。作曹溪南嶽諸碑。妙絕古今。而南華今無石刻。長老重辨師。儒釋兼通道學純備。以謂自唐至今頌述祖師者多矣。未有通亮典則如子厚者。蓋推本其言與孟軻氏合。其可不使學者日見而誦之。乃具石請予書其文。
(二十 丙申) 臺山隱峯禪師。自衡嶽之五臺。道由淮右屬吳元濟阻兵蔡州違拒王命。官軍與賊交鋒未決勝負。師曰。吾當少解其患。乃震錫空中飛身而過。兩軍將士仰觀歎異鬪心頓息。以是官軍得成其功焉。師姓鄧氏。幼若不慧。父母聽其出家。既具戒參馬祖。言下契旨。一日推車次。祖展脚在路上。師曰。請收足。祖曰。已展不收。師曰。已進不退。遂推車碾過。祖脚損。歸法堂執斧子曰。適來碾損老僧脚底出來。師便出於祖前引頸就之。祖乃置斧。其後遍歷諸方所至輒有奇詭久之。以神異頗顯。恐成惑眾。乃入臺山金剛窟前將示寂。問於眾曰。諸方遷化坐去臥去吾皆見之。還有立化者否。眾曰。有之。師曰。還有倒化者否。眾曰。未甞有也。師乃倒殖而化。亭亭然其衣亦皆順體。眾為舁尸荼毘。䇄然不動。遠近瞻禮歎異。師有妹為尼。時亦在彼。乃附近而咄之曰。老兄平日惱亂諸方不循法律。死更熒惑於人。乃以手推之。僨然而踣。於是闍維收舍利塔于五臺云。
(二十一) 主歸宗智常禪師。目有重瞳。遂用藥手按摩。久而目眥俱赤。世號拭眼歸宗。江州刺史李渤問曰。教中謂須彌納芥子。渤則不疑。芥子納須彌。莫是妄談否。師云。人傳史君讀萬卷書。是否。渤曰然。師曰。摩頂至踵如椰子大。萬卷書向什麼處著。渤俛首而已。又問。一大藏教明得什麼邊事。師舉拳示之云。會麼。渤云。不會。師云。這箇措大拳頭也不識。渤云。請師指示。師曰。會則途中受用。不會則世諦流布。師甞示眾曰。從上古德不是無知解。他高尚之士不同常流。今時不能自成自立空度時光。諸子莫錯用心。無人替汝。亦無汝用心處。莫就他覓。從前只是依他作解。發言皆滯。光不透脫。只為目前有物。僧問。如何是玄旨。師云。無人能解。僧云。向者如何。師云。有向即乖。僧云。豈無方便令學人得入。師云。觀音妙智力能救世間苦。僧云。如何是觀音妙智力。師敲頂蓋三下云。還聞麼。僧云聞。師云。我何不聞。僧無語。即以棒趂下。復一日上堂云。吾今欲說禪。諸子總近前。大眾近前。師云。汝聽觀音行善應諸方所。僧云。如何是觀音行。師乃彈指云。諸人還聞否。僧云聞。師云。一隊漢向這裏覓箇什麼。以棒趂下。大笑歸方丈。師沒。有賢者贊其像曰。知見一何高。拭眼避天位。回觀洗耳人。千古未為愧。
(廿二) 供奉吳元卿者。敏悟絕人。憲宗殊喜之。一日在昭陽宮。見群芳敷榮賞玩徘徊。倏聞空中有聲曰。虛幻之相開謝不停。能壞善根仁者安可嗜之元卿猛省志脫塵俗。帝一日游宮。問曰。卿何不樂。對曰。臣幼不食葷。志願從釋。帝曰。朕視卿若昆弟。但富貴欲出人表者不違卿。惟出家不可。既浹旬而容貌瘦顇。帝憫而詔曰。如卿願任選日遠近奏來。元卿荷恩致謝。尋得鄉報母患。乞歸寧。帝厚賜津遣。元卿至家。會韜光法師勉之。謁鳥窠禪師。啟曰。弟子七歲蔬食。十一受五戒。今年二十有二。為出家故休官。願和尚授與僧相。鳥窠曰。今時為僧鮮有精苦者行多浮濫。元卿曰。本淨非琢磨。元明不隨照。曰汝若了淨智妙圓體自空寂。即真出家何假外相。汝當為在家菩薩戒施俱修如孫許之流也。元卿曰。理雖如是。然非本志。倘蒙攝受則誓遵師教。如是三請皆不諾。韜光為勸請曰。宮使未甞娶。亦不畜侍女。禪師若不攝受。其誰能度之。鳥窠乃與披剃具戒。法號會通。晝夜精進誦大乘經習安般三昧。忽一日固辭遊方。鳥窠曰。汝將何往。曰會通為法出家。以和尚不垂慈誨。今往諸方學佛法去。窠於身上拈起布毛吹之。通遂悟玄旨。時號布毛侍者云。◎
(二十三) ◎重巽法師。自湘西赴其叔父中丞之請。柳子厚贈之以序曰。或問宗元曰。悉矣子之得於巽上人也。其道果何如哉。對曰。吾自幼學佛。求其道積三十年。世之言者罕能通其說。於零陵吾獨有得焉。且佛之言。吾不可得而聞之矣。其存於世者。獨遺其書。不於其書而求之。則無以得其言。言且不可得。況其意乎。今是上人。窮其書得其言諭其意。推而大之。逾萬言而不煩。總而括之。立片詞而不遺。與夫世之析章句徵文字。言至虛之極則蕩而失守。辨群有之夥則泥而皆存者。其不以遠乎。以吾所聞知。凡世之善言佛者。於吾則惠誠師。荊則海雲師。楚之南則重巽師。師之言存。則佛之道不遠矣。惠誠師已死。今之言佛者加少。其由儒而通者。鄭中書洎孟常州。中書見上人執經而師受。且曰。於中道吾得以益達。常州之言曰。從佛法生得佛法分。皆以師友命之。今連帥中丞公具舟來迎。飾館而俟。欲其道之行於遠也。夫豈徒然哉。以中丞公之直清嚴重。中書之辯博。常州之敏達。且猶宗重其道。況若吾之昧昧者乎。夫眾人之和由大人之唱。洞庭之南竟南海。其土汪汪也。求道之多半天下。一唱而大行於遠者。是行有之。則和焉者將若居蟄之有雷不可止也。於是書以為巽上人赴中丞叔父召序。
(二十四) 馬郎婦不知出處。方唐隆盛佛教大行。而陝右俗習騎射。人性沈鷙樂於格鬪。蔑聞三寶之名。不識為善儀則。婦憐其憨乃之其所。人見少婦單子風韵超然姿貌都雅幸其無侍衛無羈屬。欲求為眷。曰我無父母又鮮兄弟。亦欲有歸。然不好世財。但有聰明賢善男子。能誦得我所持經。則吾願事之。男子眾爭求觀之。婦授以普門品。曰能一夕通此則歸之。至明發誦徹者二十餘輩。婦曰。女子一身家世貞潔。豈以一人而配若等耶。可更別誦。因授以金剛般若所約如故。至旦通者猶十數。婦更授以法華經七軸。約三日。通徹此者定配之。至期獨馬氏子得通。婦曰。君既能過眾人。可白汝父母具媒妁娉禮。然後可以姻。蓋生人之大節。豈同猥巷不檢者乎。馬氏如約具禮迎之。方至而婦謂曰。適以應接體中不佳。且別室俟少安。與君相見未晚也。馬氏子喜頓之他房。客未散而婦命終。已而壞爛。顧無如之何。遂卜地葬之。未數日有老僧。紫伽黎姿貌古野。仗錫來儀。自謂向女子之親。詣馬氏問其所由。馬氏引至葬所。隨觀者甚眾。僧以錫撥開見其尸已化。唯金鎖子骨。僧就河浴之。挑於錫上謂眾曰。此聖者憫汝等障重纏愛故垂方便化汝。宜思善因免墮苦海。忽然飛空而去。眾見悲泣瞻拜。自是陝右奉佛者眾。由婦之化也。
(二十五) 是歲撫州景雲寺律師上弘卒。江州司馬白居易製碑曰。元和十一年春。廬山東林寺僧道深懷縱如建冲契等凡二十輩。與白黑眾千餘人俱。實持故景雲大德弘公行狀一通贄錢十萬。來詣潯陽請司馬白居易作先師碑。會有故不果。十二年夏作石墳成。復來請。會有病不果。十三年冬作石塔成。又來請。始從之。既而僧返山。眾返聚落。錢返寺府。翌日而文成。明年而碑立。其詞云。我聞乾竺古先生出世法。法要有三。曰戒定慧。戒生定。定生慧。慧生八萬四千法門。是三者迭相為用。若次第言。則定為慧因。戒為定根。根植則苗茂。因樹則果滿。無因求滿。猶夢果也。無根求茂。猶揠苗也。佛雖以一切種智攝三界必先用戒。菩薩以六波羅蜜化四生。不能捨律。律之用可思量不可思量。如來十弟子中。稱優波離善持律。波離滅有南山大師得之。南山滅有景雲大師得之。師諱上弘。生饒氏。曾祖君雅。祖公悅。父知恭。臨川城南人。童而有知。故生十五歲發出家心。始從舅氏剃落。壯而有立。故二十五歲立菩提願。從南岳大圓律師具戒。樂所由生。故大曆中不去父母之邦。隷于本州景雲寺修道德。應無所住。故貞元中離我我所。徙居洪州龍興寺說法。親近善知識。故與匡山法真。天台靈祐。荊門法裔。興果神湊。建昌惠進等。五長老交游。佛法囑王臣。故與姜相國公輔顏太師真卿洎本道廉訪使楊君憑韋君丹四君子友善。提振禁戒。故講四分律。而從善遠罪者無其數。隨順化緣。故坐甘露戒壇。而擔眾生盟者二十年。荷擔大事。故前後登方等。施尸羅者十有八會。救拔眾生。故娑婆男女由我得度者萬五千五百七十二人。示生無常。故元和十年十一日己亥遷化於東林精舍。示滅有所。故是月丙寅歸全身于南崗石墳。住世七十七歲。安居六十五夏。自生至滅隨迹示教。行止語默無非佛事。夫施於人也博。則反諸己也厚。故門人鄉人報之如不及。繇是藝松成林琢石為塔。塔有碑。碑有銘。銘曰。佛滅度後。薝蔔香襄。醍醐味漓。孰反是香。孰復是味。景雲大師。景雲之生。一匡苾芻。中興毘尼。景雲之滅。眾將安仰。法將疇依。昔景雲來。行道者隨。入室者歸。今景雲去。升堂者思。入室者悲。廬峯之西。虎溪之南。石塔巍巍。有紀事者。以真實辭。書于塔碑。
(二十六 戊戌) 元和十三年禪師元浩卒。浩弘台教。翰林梁肅甞請撰涅槃經疏。浩許之。是夕感異夢。喜以為瑞應。即下筆自述所證。其略曰。予聞先覺云。大寶流輝之不變曰常在。宥布和之盛典曰教。率土知化之歸宗曰行。交感人心之至極曰證。然則以道行御其時。以法性合其運。當應物之際。與顯晦同其光。恢揚至化自他昭著者。實播厥鴻名。欽恭文思協和至極。四德克彰者。實存乎妙體。格變群家歷觀諸行。至典克修庶績有成者。實賴乎本宗。信以授人大。明宗極。厥旨厥幾有補于將來者。實存乎妙用。綜博群玄以立成訓。風行十方率用歸順者。實存乎妙教矣。議者以浩疏比王輔嗣易。而與清涼華嚴疏抗衡焉。
(二十七) 是年正月丁亥。詔迎鳳翔法門寺佛骨入于京師。帝御安福門迎拜。留禁中供養三日。乃送諸寺。王公士庶奔走膜拜。具釋部威儀及太常長安萬年音樂。旌幢皷吹騰沓係路。刑部侍郎韓愈上表曰。佛者夷狄之一法耳。自後漢時流入中國。上古未甞有也。昔黃帝在位百年。年百二十歲。少昊在位八十年。年一百歲。顓頊在位七十九年。年九十八歲。帝嚳在位七十年。年一百五歲。帝堯在位九十八年。年一百一十八歲。帝舜及禹年皆百歲。此時天下太平百姓安樂壽考。然而中國未有佛也。其後湯亦百歲。湯孫太戊在位七十五年。武丁在位五十九年。書史不言其壽。推其年數。蓋不減百歲。周文王年九十七歲。武王年九十三歲。穆王在位百年。此時佛法亦未至中國。非因事佛而致然也。漢明帝時始有佛法。明帝在位纔十八年。其後亂亡相繼運祚不長。宋齊梁陳元魏已下。事佛漸謹。年代尤促。惟梁武在位四十八年。前後三捨身事佛。宗廟之祭不用牲牢。盡日一食止於菜果。後為侯景所逼餓死臺城。國亦尋滅。事佛求福反更得旤。由此觀之。佛不足信亦可知矣。高祖始受隋禪則議除之。當時群臣識見不遠。不能深知先王之道。古今之宜推闡聖明以救其弊。其事遂止。臣常恨焉。伏惟睿聖文武皇帝陛下神聖英武。數千百年已來。未有倫比。即位之初不許度人為僧尼。道士不許別立寺觀。臣當時以為高祖之志必行於陛下。今縱未能即行。豈可縱之令盛也。今陛下令群僧迎佛骨于鳳翔。御樓以觀舁入大內。又令諸寺迭加供養。臣雖至愚。必知陛下不惑於佛作此崇奉而祈福祚也。直以豐年人樂。徇人心為京都士庶設詭異之觀戲玩之具耳。安有聖明若此而肯信此等事哉。然百姓愚冥易惑難曉。苟見陛下如此。將謂真心信佛。皆云。天子大聖尚一心信向。百姓微賤於佛豈合更惜身命。以至灼頂燔指十百為群。解衣散錢自朝至莫。更相放効唯恐後時。老幼奔波棄其生業。若不即加禁遏。更歷諸寺必有斷臂臠身以為供養者。傷風敗俗傳笑四方。非細事也。佛本夷狄之人。與中國語言不通。衣服殊制。口不道先王之法言。身不服先王之法服。不知君臣之義。父子之情。假如其身尚在。奉其國命來朝京師。陛下容而接之。不過宣政一見禮賓一設賜衣一襲衛而出之於境不令惑於眾也。況其身死已久。枯朽之骨。凶穢之餘。豈宜以入宮禁。孔子曰。敬鬼神而遠之。古之諸侯弔於其國。必令巫祝先以桃茢袚除不祥然後進弔。今無故取朽穢之物。親臨觀之。巫祝不先桃茢不用。群臣不言其非。御史不舉其失。臣實恥之。乞以此骨付之水火。永絕根本。斷天下之疑。絕後代之惑。使天下之人知大聖之所作為出於尋常萬萬也。佛如有靈能作禍崇。凡有殃咎宜加臣身。上天鑒臨臣不怨悔。表入。
帝大怒。持以示宰相。將抵以死。裴度崔群曰。愈言訐啎。罪之誠宜。然非內懷至忠。安能及此。願少寬假以來諫諍。帝曰。愈言我奉佛太過。猶可容。至謂東漢奉佛已後。天子咸夭促。言何乖剌耶。愈人臣。狂忘敢爾。於是戚里諸王舊臣。皆為愈哀請。遂貶潮州刺史。
(二十八 己亥) 元和十四年。潮州刺史韓愈到郡之初。以表哀謝。勸帝東封太山。久而無報。因祀神海上。登靈山遇禪師大顛。而問愈曰。子之來官于南。聞以其言之直也。今子之貌欝然似有不懌何也。對曰。愈之用於朝而享祿厚矣。一旦以忠言不用。奪刑部侍郎竄逐八千里之海上。播越嶺海喪吾女孥。及至潮陽颶風鱷魚患禍不測。毒霧瘴氛日夕發作。愈少多病。髮白齒豁。今復憂前黜於無人之地。其生詎可保乎。愈之來也。道出廣陵廟而禱之。幸蒙其力而卒以無恙。以主上有中興之功。已奏章道之。使定樂章告神明東巡太山奏功皇天。儻其有意於此。則庶幾召愈述作功德歌詩。而薦之郊廟焉。愈早夜待之而未至。萬萬一於速歸。愈安能有懌乎。大顛曰。子直言於朝也。忠於君而不顧其身耶。抑尚顧其身而強言之以徇名耶。忠於君而不顧其身。言用則為君之榮。言不用而已有放逐。是其職耳。何介介於胸中哉。若尚顧其身而強言也。則言用而獲忠直之名。享報言之利。不用而逐。亦事之必至也。苟患乎逐。則盍勿言而已。且吾聞之。為人臣者不擇地而安。不重勢而行。今子遇逐而不懌。趨時而求徇。殆非人臣之善也。且子之死生禍福豈不懸諸天乎。子姑自內修而外任命可也。彼廣陵其能福汝耶。主上今繼天寶之後。姦臣負國而討之不暇。糧餽雲合殺人盈野僅能克乎而瘡痍未瘳。方此之際。而子又欲封禪告功以騷動天下。而屬意在乎己之欲歸。子奚忍於是耶。且夫以窮自亂而祭其鬼。是不知命也。動天下而不顧以便已。是不知仁也。強言以干忠遇困而抑欝。是不知義也。以亂為治而告皇天。是不知禮也。而子何以為之。且子之遭黜也。其所言者何事乎。愈曰。主上迎佛骨於鳳翔。而復舁入大內。愈以為佛者夷狄之一法耳。自後漢時流入中國。上古未嘗有也。昔者黃帝堯舜禹湯文武之際。天下無佛。是以年祚永久。晉宋梁魏事佛彌謹。而世莫不夭且亂。愈恐主上之惑於此。是以不顧其身而斥之。大顛曰。若是則子之言謬矣。且佛也者覆天人之大器也。其道則妙萬物而為言。其言則盡幽明性命之理。其教則捨惡而趍善。去偽而歸真。其親天下猶父之於子也。而子毀之。是猶子而刃父也。蓋吾聞之。善觀人者觀其道之所存。而不較其所居之地。桀紂之君。跖蹻之臣。皆中國人也。然不可法者。以其無道也。舜生於東夷。文王於西夷。由余生於戎。季札出於蠻。彼二聖二賢者。豈可謂之夷狄而不法乎。今子不觀佛之道而徒以為夷狄。何言之陋也。子必以為上古未有佛而不法耶。則孔子孟軻生於衰周。而蚩尤瞽叟生於上古矣。豈可捨衰周之聖賢。而法上古之凶頑哉。子以五帝三王之代為未有佛而長壽也。則外丙二年。仲壬四年。何其夭耶。以漢陳之間而人主夭且亂也。則漢明為一代之英主。梁武壽至八十有六。豈必皆夭且亂耶。愈攘袂厲色而言曰。爾之所謂佛者。口不道先王之法言。而妄倡乎輪回生死之說。身不踐仁義忠信之行。而詐造乎報應禍福之故。無君臣之義。無父子之親。使其徒不耕而食。不蠶而衣。以殘賊先王之道。愈安得默而不斥之乎。大顛曰。甚矣子之不達也。有人於此終日數十而不知二五。則人必以為狂矣。子之終日言仁義忠信。而不知佛之言常樂我淨。誠無以異也。得非數十而不知二五乎。且子計甞誦佛書矣。其疑與先王異者。可道之乎。曰愈何暇讀彼之書。大顛曰。子未甞讀彼之書。則安知不談先王之法言耶。且子無乃自以甞讀孔子之書而遂疑彼之非乎。抑聞人以為非而遂非之乎。苟自以甞讀孔子之書而遂疑彼之非。是舜犬也。聞人以為非而遂非之。是妾婦也。昔者舜館畜犬焉。犬之旦莫所見者唯舜。一日堯過而吠之。非愛舜而惡堯也。以所常見者唯舜。而未甞見堯也。今子常以孔子為學。而未甞讀佛之書。遂從而怪之。是舜犬之說也。吾聞之。女子嫁也。母送之曰。往之汝家必敬必戒。無違夫子。然則從人者妾婦之事。安可從人之非而不考其所以非之者乎。夫輪回生死非妄造也。此天地之至數。幽明之妙理也。以物理觀之。則凡有形於天地之間者。未甞不往復生死相與循環也。草木之根荄著於地。因陽之煦而生。則為枝為葉為花為實。氣之散則萎然而槁矣。及陽之復煦又生焉。性識根荄也。枝葉花實者人之體也。則其往復又何怪焉。孔子曰。原始要終。故知死生之說。夫終則復始天行也。況於人而不死而復生乎。莊周曰。萬物出於機入於機。賈誼曰。化為異類兮。又何足患。此皆輪回之說。不俟於佛而明也。焉得謂之妄乎。且子以禍福報應。為佛之詐造。此尤足以見子之非也。夫積善積惡隨作隨應。其主張皆氣焰熏蒸神理自然之應耳。易曰。積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。又曰。鬼神害盈而福謙。曾子曰。戒之戒之。出乎爾者反乎爾者也。此報應之說也。唯佛能隱惻乎天下之禍福。是以彰明較著。言其必至之理。使不自陷乎此耳。豈詐造哉。又言。佛無君臣之義。父子之親。此固非子之所及也。事固有在方之內者。有在方之外者。方之內者眾人所共守之。方之外者非天下之至神莫之能及也。故聖人之為言也。有與眾人共守而言之者。有盡天下之至神而言之者。彼各有所當也。孔子之言道也。極之則無思無為。寂然不動感而遂通。此非眾人所共守之言也。眾人而不思不為。則天下之理幾乎息矣。此不可不察也。佛之與人子言必依於孝。與人臣言必依於忠。此眾人所共守之言也。及其言之至。則有至於無心。非唯無心也。則有至於無我。非唯無我也。則又至於無生。非生矣則陰陽之序不能亂。而天地之數不能役也。則其於君臣父子。固有在矣。此豈可為單見淺聞者道哉。子又疑佛之徒不耕不蠶而衣食。且儒者亦不耕不蠶何也。愈曰。儒者之道。其君用之則安富尊榮。其子弟從之則孝悌忠信。是以不耕不蠶而不為素飡也。大顛曰。然則佛之徒亦有所益於人故也。今子徒見末世未有如佛者蠶食於人。而獨不思今之未能如孔孟者亦蠶食於人乎。今吾告汝以佛之理。蓋無方者也。無體者也。妙之又妙者也。其比則天也。有人於此終日譽天而天不加榮。終日詬天而天不加損。然則譽之詬之者皆過也。夫自漢至於今。歷年如此其久也。天下事物變革如此其多也。君臣士民如此其眾也。天地神明如此其不可誣也。而佛之說乃行於中。無敢議而去之者。此必有以蔽天地而不恥。關百聖而不慚。妙理存乎其間。然後至此也。子盍深思之乎。愈曰。吾非訾佛以立異。蓋吾所謂道者。博愛之謂仁。行而宜之之謂義。由是而之焉之謂道。足乎己無待於外之謂德。仁與義為定名。道與德為虛位。此孔子之道而皆不同也。大顛曰。子之不知佛者。為其不知孔子也。使子而知孔子。則佛之義亦明矣。子之所謂仁與義為定名。道與德為虛位者。皆孔子之所棄也。愈曰。何謂也。大顛曰。孔子不云。志於道據於德依於仁遊於藝。蓋道也者百行之首也。仁不足名之。周公之語六德。曰知仁信義中和。蓋德也者仁義之原。而仁義也者德之一偏也。豈以道德而為虛位哉。子貢以博施濟眾為仁。孔子變色曰。何事於仁。必也聖乎。是仁不足以為聖也。烏知孔子之所謂哉。今吾教汝以學者。必先考乎道之遠者焉。道之遠則吾之志不能測者矣。則必親夫人之賢於我者之所向而從之。彼之人賢於我者。以此為是矣。而我反見其非。則是我必有所未盡知者也。是故深思彼之所是而力求之。則庶幾乎有所發也。今子自恃通四海異方之學而文章旁礴。孰如姚秦之羅什乎。子之知來藏往。孰如晉之佛圖澄乎。子之盡萬物不動其心。孰如梁之寶誌乎。愈默然良久曰。不如也。大顛曰。子之才既不如彼矣。彼之所從事者。而子反以為非。然則豈有高才而不知子之所知者耶。今子屑屑於形器之內。奔走乎聲色利欲之間。少不如志則憤欝悲躁。若將不容其生。何以異於蚊虻爭穢壤於積藁之間哉。於是愈瞠目而不收。氣喪而不揚。反求其所答。忙然有若自失。逡巡謂大顛曰。言盡於此乎。大顛曰。吾之所以告子者。蓋就子之所能而為之言。非至乎至者也。曰愈也不肖。欲幸聞其至者可乎。大顛曰。去爾欲誠爾心寧爾神盡爾性。窮物之理極天之命。然後可聞也。爾去吾不復言矣。愈趨而出。秋八月己未。帝與宰臣語次。崔群以殘暑尚煩。目同列將退。帝曰。數日一見卿等。時雖餘熱朕不為勞。久之因語及愈有可怜者。而皇甫鎛素薄愈為人。即奏曰。愈終疎狂可且內移。帝納之。遂授袁州刺史。復造大顛之廬施衣二襲而請別曰。愈也將去師矣。幸聞一言。卒以相愈。大顛曰。吾聞易信人者。必其守易改。易譽人者。必其謗易發。子聞吾言而易信之矣。庸知復聞異端不復以我為非哉。遂不告。愈知其不可聞乃去。至袁州尚書孟簡知愈與大顛遊。以書抵愈嘉其改迷信向。愈答書稱。大顛頗聰明識道理實能外形骸以理自勝。不為事物浸亂。因與之往還也。近世黃山谷謂。愈見大顛之後。文章理勝而排佛之詞亦少沮云。
論曰。舊史稱。退之性愎訐。當時達官皆薄其為人。及與李紳同列。紳恥居其下。數上疏訟其短。今新史則以退之排佛老之功比孟子。嘉祐中有西蜀龍先生者。忿其言太過。遂摘退之言行悖戾先儒者。條攻之。一曰。老氏不可毀。二曰。愈讀墨子反孟玷孔。若此類二十篇行于世。及觀外傳見大顛之說。凡退之平生蹈偽于此疎脫盡矣。歐陽文忠公嘗歎曰。雖退之復生不能自解免。得不謂天下至言哉。而荊國王文公亦曰。人有樂孟子拒楊墨也。而以排佛老為己功。嗚呼莊子莊子所謂夏虫者。其斯人之謂乎。道歲也。聖人時也。執一時而疑歲者。終不聞道。夫春起於冬而以冬為終。終天下之道術者。其釋氏乎。不至於是者。皆所謂夏虫也。文公蓋宋朝巨儒。其論退之如此。則外傳之說。可不信夫。
(二十九) 大顛禪師者。潮陽人。參南嶽石頭和上。一日石頭問。何者是禪。師云。揚眉動目。石頭云。除却揚眉動目外。將汝本來面目呈看。師云。請和上除却揚眉動目外鑑某甲。石頭云。我除竟。師云。將呈和上了也。石頭云。汝既將呈我心如何。師云。不異和上。石頭云。非關汝事。師云。本無物。石頭云。汝亦無物。師云。無物即是真物。石頭云。真物不可得。汝心現量如此。大須護持。師後歸住潮陽靈山。嘗示眾曰。夫學道人須識自家本心。多見時輩只認揚眉動目一語一默驀頭印可以為心要。此實未了。吾今為汝分明說出。各須聽取。但除一切妄運想念現量。即真汝心。此心與塵境及守靜時。全無交涉。即心是佛。不待修治。何故應機隨照泠泠自用。窮其用處了不可得。喚作妙用乃是本心。大須護持不可容易。侍郎韓愈甞問。如何是道。師良久。時三平為侍者。乃擊禪床。師云。作什麼。三平云。先以定動。後以智拔。退之喜曰。愈問道於師。却於侍者得箇入處。遂辭而去。
(三十) 是年十月五日。刺史柳宗元卒。宗元字子厚。河東人。少精敏無不通達。為文章卓偉精緻。一時輩行推仰。第博學宏詞。累監察御史裏行。善王叔文。叔文得罪貶永州司馬。既居閒益自刻苦。務記覽為詞章。泛濫停蓄為深博無涯涘。而自肆於山水之間。凡十年。起為柳州刺史。友人劉禹錫者得播州。宋元曰。播非人所居。而禹錫親在堂吾不忍其窮。即具表欲以柳州授禹錫而自往播。會大臣亦為禹錫請。因改連州。柳人以男女質錢。過時不贖則沒為奴婢。宗元設方計悉贖歸之。南方士人走數千里從宗元游。經指授者為文詞皆有師法。世號柳柳州。卒年四十七。臨終遍與友人書。託以後事。文集三十三卷。韓愈嘗評曰。雄深雅健似司馬子長。崔蔡不足多也。既沒柳人懷之。其神降于州之後堂。因廟于羅池。血食至今存焉。
(庚子) 正月帝服金丹燥悶。內竪畏誅而深宮祕邃。故有不測之禍。資治通鑑曰。憲宗聰明果決得於天性。選任忠良延納善謀。師老財屈異論輻輳。而不為之疑。盜發都邑屠害元戎。而不為之懼。卒能取靈夏清劍南。誅浙西俘澤潞。平淮南復齊魯。於是天下深根固蔕之盜。皆狼顧鼠拱。納質効地稽顙入朝。百年之憂一旦廓然矣。然怠於防微。變生肘腋。悲夫。
(三十一) 是年有沙門北山和尚。諱神清字靈叟。而于王朝高談。著述法華玄箋十卷。釋氏年誌三十卷。律疏要訣并俱舍訣等共百餘卷。語錄十卷。內外該括可為世範。受業於綿州開元寺。終于梓州惠義寺。於戲。
(三十二 辛丑) 穆宗恒(憲宗第三子。登祚仁賢壽三十歲。葬于光陵在正位四年)改長慶。
(壬寅) 春時雪 太和公主 降金人 嫁回鶻。
(三十三) 是年白居易。由中書舍人出為杭州刺史。聞鳥窠和尚道德。枉駕見之。時鳥窠因長松槃屈如蓋。遂棲止其上。居易問曰。禪師住處甚危險。師曰。太守危險尤甚。曰弟子位鎮江山。何險之有。師曰。薪火相交識浪不停。得非險乎。又問。如何是佛法大意。師曰。諸惡莫作眾善奉行。居易曰。三歲孩兒也解恁麼道。師曰。三歲孩兒雖說得。八十翁翁行不得。居易欽歎而去。自是數從之問道。
(三十四) 是歲穆宗遣左街僧錄靈阜。齎詔起汾陽無業禪師赴闕。阜至。宣詔畢稽首無業足下。白曰。主上此度恩旨不同。願師起赴。無以他詞固辟也。業笑曰。貧道何德累煩人主。汝可先行。吾即往矣。遂沐浴淨髮。至中夕告門人惠愔等曰。汝曹見聞覺知之性與太虛同壽。不生不滅一切境界。本自空寂無一法可得。迷者為不了故即被境惑。一為境惑流轉不窮。汝等當知心性本自有之。非因造作。猶如金剛不可破壞。一切諸法如影如響。無有實者。故經云。唯有一事實。餘二則非真。常了一切空。無一法當情。是諸佛用心處。汝等勤而行之。言訖端坐而逝。阜回奏其事。帝欽歎久之。嘗有僧問。十二分教流於此土。得道果者非止一二。云何祖師西來別唱玄宗。直指人心見性成佛。只如上代高僧。並淹貫九流洞明三藏。如生肇融叡等。豈得不知佛法耶。師曰。諸佛不曾出世。亦無一法與人。但隨病施方。遂有十二分教。如將蜜果換苦葫蘆。淘汝諸人業根都無實事。神通變化及百千三昧門。化彼天魔外道。福智二嚴為破執有滯空之見。若不會道及祖師意論什麼生肇融叡。如今天下解禪解道如河沙數。說佛說心有百千億。纖塵不去未免輪回。思念不忘盡從沈墜。如斯之類尚不識業果。妄謂上流並他先德。但言觸目無非佛事。舉足皆是道場。原其所習。不如一箇五戒十善凡夫。觀其發言。嫌他二乘十地菩薩。且醍醐上味為世珍奇。遇斯等人翻成毒藥。南山尚不許呼為大乘。學語之流爭鋒唇吻之間。鼓論不根之事。並他先德。誠實苦哉。只如野逸高人。猶解枕流漱石棄其榮祿。亦有安國理民之謀。徵而不起。況我禪宗途路且別。看他古德道人得意之後。茅茨石室向折脚鐺子裏煮飯喫過。三十二十年名利不干懷。財寶不系念。大忘人世隱跡岩叢。君王命而不來。諸侯請而不赴。豈同時輩貪名愛利汩沒世途。如短販人。有少希求而忘大果。十地諸聖玄通佛理。豈不如一个博地凡夫。實無此理。他說法如雲如雨。猶被佛呵見性如隔羅縠。只為情存聖量見在因果。未能逾越聖情過諸影迹。先賢古德碩學高人。博達古今洞明教網。蓋為識學詮文水乳難辨。不明自理念靜求真。嗟乎得人身者如爪甲上土。失人身者如大地土。良可傷惜。設悟理之者有一知半解。不知是悟中之則入理之門。便謂永脫世累輕忽上流。致使心漏不盡理地不明。空到老死無成虛延歲月。且聰明不能敵生死。乾惠未免輪回。共兄弟論實不論虛。只這口食身衣。盡是欺賢罔聖求得將來。他心惠眼。觀之如飲膿血相似。總須償他始得。阿那个是有道果自然感得他信施來。學般若菩薩不得自謾。如氷凌上行劍刃上走。臨命終時。一毫凡聖情量不盡。纖塵思念不忘。隨念受生。輕重五陰向驢胎馬腹裏託質。泥犁鑊湯裏煮煠一遍了。從前記持憶想見解智慧。都盧一時失却。依前再為螻蟻。從頭又作蚊虻。雖是善因而招惡果。且圖个什麼。兄弟只為貪欲成性。二十五有向脚跟下繫著。無成辨之期。祖師觀此土眾生有大乘根性。惟傳心印指示迷情。得之者即不揀凡之與聖愚之與知。且多虛不如少實。大丈夫兒如今直下休去歇去頓息萬緣。越生死流逈出常格。靈光獨照物累不拘。巍巍堂堂三界獨步。何必身長丈六紫磨金輝項佩圓光廣長舌相。以色見我是行邪道。設有眷屬莊嚴不求自得。山河大地不礙眼光。得大總持一聞千悟。都不希求一飡之直。汝等諸人儻不如是。祖師來至此土非常。有損有益。有益者。千萬人中撈漉一个半个堪為法器。有損者。如前已明。從他依三乘教法修行不妨。却得四果三賢進修之分。所以先德云。了即業障本來空。未了應須償宿債。師憲宗穆宗兩朝。凡三詔不赴。既沒賜諡大達禪師。
(三十五) 澧州龍潭崇信禪師。本渚宮賣餅家子也。史失其姓。少時英異。初悟禪師居天皇寺。人莫之測。師家于寺巷。日常以十餅饋之。悟受之。每食異常留一餅曰。吾惠汝以蔭子孫。一日退而省其私曰。餅是我持去。何以反遺我邪。寧別有旨乎。遂告問焉。悟曰。是汝持來。復汝何咎。師聞頗曉玄旨。因祈出家。悟曰。汝昔崇福善。今信吾言。可名崇信。由是服勤左右。一日問曰某自到來不蒙指示心要。悟曰。自汝到來吾未嘗不指汝心要。曰何處指示。悟曰。汝擎茶來吾為汝接。汝行食來吾為汝受。如和南時吾便低首。何處不指示心要。師低頭良久。悟曰。見即直下便見。擬思即差。師當下開解。乃復問。如何保任。悟曰。任性逍遙隨緣放曠。但盡凡心無別聖解。師後詣澧陽龍潭棲止。僧問髻中珠誰人得。師曰。不賞翫者。僧曰。安著何處。曰有處即道來。李翱問。如何是真如般若。曰我無真如般若。翱曰。幸遇和上。師曰。此猶是分外之言。德山問答具本傳。
(癸卯) 長慶三年○(六月新都觀泥像生須板之復生)○(八月帝幸興慶宮遇持鉢僧施絹三百疋)。
(甲辰) 四年正月帝崩。
(三十六) 是年杭州永福寺。刊石壁法華經成。相國元禎為之記。其辭曰。按沙門釋惠皎自狀其事云。永福寺一名孤山寺。在杭州錢塘湖心孤山上。石壁法華經在寺之中。始以元和十二年。嚴休復為刺史時。惠皎萌厥心。卒以長慶四年白居易為刺史時。成厥事。上下其石六尺有五寸。長短其石五十七尺有六寸。座周於下。蓋周於石。砌周於堂。凡買工鑿經六萬九千有一百五十錢。十經之數既畢。又立石為二碑。其一碑凡輸錢於經者。由十而上皆得名於碑。其輸錢之貴者有若杭州刺史嚴休復。中書舍人杭州刺史白居易。刑部侍郎湖州刺史崔玄亮。刑部郎中睦州刺史韋文悟。處州刺史韋行立。杭州刺史張聿。御史中丞蘇州刺史李又。御史大夫越州刺史元禎。右司郎中處州刺史陳岵。九刺史之外。縉紳之由杭者。若宣慰使庫部郎中知制浩賈餗。以降鮮不附於經石之列。必以輸錢先後為次第。不以貴賤老幼多少為後先。其一碑僧之徒。思得聲名人文其事以自廣。予以長慶二年相先帝無狀譴於同州。明年徙於會稽。路出於杭。杭民競相觀覩。白怪問之。皆云非觀宰相。蓋欲觀曩所聞之元白耳。由是僧之徒誤以予為名聲人。相與日夜攻刺史白乞予文。予觀僧之徒。所以經於石文於碑。蓋欲為不朽且欲自大其本術。今夫碑既文經既石。而又九諸侯相率貢錢於所事。由近而言之。亦可謂來異宗而成不朽矣。由遠而言。即不知幾萬歲而外。天與地相軋。陰與陽相蕩。火與風相射。名與形相滅。則四海九州皆空中一微塵耳。又安知其朽不朽哉。然而羊叔子識枯樹中舊環。張僧繇世為畫師。歷陽之氣至今為城郭。狗一叱而異世。卒不可化。鍛之予學數息則易成。此又性與物相游。而終不能兩相忘矣。又安知夫六萬九千之文刻石。永永因眾姓合成。獨不能為千萬劫含藏之不朽耶。由是思之。則僧之徒得計矣。至於佛書之奧妙。僧當為余言。余不當為僧言。況斯文止紀於刻石。故不及講貫其義云。中書令王智興。請於四洲置僧尼方等戒壇於誕聖節度僧。制可。既而浙西觀察使李德裕奏曰。智興為戒壇泗州募願度者。每名輸錢二千。則不復勘詰。普皆剃落。自淮而右。戶三男則一男剃髮規免徭役。所度無算。臣閱渡江日數百人。蘇常齊民十固八九。儻不禁遏。前至誕月江淮失丁男數十萬。不為細事也。帝不納。先是憲宗屢有勅。不許天下私度民為僧尼道士。至是智興冒禁陳請。於是細民淆混奔趨剃落。智興因致貲數十萬緡。大為清論鄙之時福州古靈神讚禪師。初參百丈却回本寺。受業師嘗在窓下看經。蜂子投窓求出。讚見之曰。世界如許廣闊不肯出。鑽他故紙驢年去。其師因置經問曰。汝行脚遇何人而發言如此。讚曰。昨蒙百丈和上指个歇處。其師於是集眾請陞堂說法。讚舉百丈門風曰。靈光獨耀逈脫根塵。體露真常不拘文字。心性無染本自圓成。但離妄緣即如如佛。其師於言下有省。
佛祖歷代通載卷第十五
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十六
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐
(一 乙巳) 敬宗湛(穆宗長子。母太后王氏。游戲無度狎匿群小。性復遍急。為克明弑之。年十八崩。葬莊陵。在位二年)改寶曆。
(二) 八月。遣中使詣天台採求靈藥詔道士劉從政。入宮資質仙事。署光祿卿。別號升玄先生。
(丙午) 三月。命道士孫準製長生藥。署準為翰林待詔。
四月帝畋獵夜歸。與宦官酣飲擊毬。俄燭滅遇弑。年十八。大臣裴度等迎皇太弟江王立之。是為文宗。
五月下詔。革兩朝淫侈不法之務。捕道士孫準等二十八人及佞憎惟真。民服流于嶺表。
(三 丁未) 文宗昂(穆宗次子。虛懷聽納而不能堅決。用李訓鄭注欲盡誅仕宦。仇士良等陰覺。縱兵殺宰相王渥等二十餘人。帝三十二歲崩。在位十四年)改太和。
(戊申) 十月江西觀察使沈傅師奏。帝誕月請於洪州起方等戒壇度僧資福。制曰。不度僧尼累有勅命。傅師忝為方面違禁申請。宜罰俸料一月。
(四) 澧州藥山禪師惟儼卒。大儒唐伸為之碑曰。上嗣位明年。澧陽郡藥山釋氏大師。以十二月六日終于修心之所。後八年門人狀先師之行。西來京師告于崇敬寺大德。求所以發揮先師之耿光垂於不朽。崇敬大德於余為從母兄也。嘗參徑山得其心要。自興善寬敬示寂之後。四方從道之人質疑傳妙。罔不詣崇敬者。嘗謂伸曰。吾道之明於藥山。猶爾教之聞於洙泗。智炬雖滅法雷猶響。豈可使明德不照至行堙沒哉。惟大師生南康信豐。自為童時未嘗處群兒戲弄中。往往獨坐如念如思。年十七即南度大庾抵潮之西山得惠照禪師。乃落髮服緇執禮以事。大曆中受具於衡岳希琛律師。釋禮矩儀動如夙習。一朝乃言曰。大丈夫當離法自靜。焉能屑屑事細行於衣巾耶。是時南嶽有遷。江西有寂。中岳有洪。皆悟心契。乃知大圭之質豈俟磨礱。照乘之珍難晦符彩。自是寂以大乘法聞四方。學徒至於指心傳要。眾所不能達者。師必默識懸解。不違如愚。居寂之室垂二十年。寂曰。汝之所得。可謂浹於心術布於四體。欲益而無所益。欲知而無所知。渾然天和合於本無。吾無有以教矣。佛以開示群盲為大功。度滅眾惡為大德。爾當以功德普濟群迷。宜作梯航無久滯此。由是陟羅浮涉清涼。歷三峽遊九江。貞元初因憩藥山喟然嘆曰。吾生寄世若萍蓬耳。又何効其飄轉耶。既披蓁結菴才疪趺座。鄉人知者因齎携飲食奔走而往。師曰。吾無德於人。何以勞人乎哉。並謝而不受。鄉人跪曰。願聞日費之具。曰米一升足矣。自是嘗以山蔬數本佐食。一食訖就座轉法華華嚴涅槃。晝夜若一。終始如是殆三十年矣。遊方求益之徒。知教之在此。後數歲而僧徒葺居禪室梁棟鱗差。其眾不可勝數。至於沃煩正覆道源成流。有以見寂公先知之明矣。忽一旦謂其徒曰。乘郵而行。及莫而息。未有久行而不息者。吾至所詣矣。吾將有息矣。靈源自清。混之者相。能滅諸相是無有色。窮本絕外汝其悉之。語畢隱几而化。春秋八十四。僧臘六十夏。入室弟子冲虛等遷座。建塔于禪居之東。遵本教也。始師嘗以大綀布為衣。以竹器為蹻。自薙其髮自具其食。雖門人數百童侍甚廣。未嘗易其力。珍羞百品鮮果駢羅。未嘗易其食。冬裘重燠夏服輕疎。未嘗易其衣。華室靖深香榻嚴潔。未嘗易其處。麋鹿環繞猛獸伏前。未嘗易其觀。貴賤迭來頂謁床下。未嘗易其禮。非夫罄萬有契真空離攀緣之病本性清淨乎物表。焉能遺形骸忘嗜欲久而如一者耶。其他碩臣重官歸依修禮於師之道。未有及其門閫者。故不列之於篇。銘曰。一物在中。觸境而搖。我示其源。不境不跳。西方聖人。實言其要。其要既得。可言其妙。我源自濟。我真自靈。大包萬有。細出無形。曹溪所傳。徒藏于密。身世俱空。曾何有物。自見曰明。是為至精。出沒在我。誰曰死生。刻之琬琰。立之岩岫。作碑者伸。期於不朽。
(五) 李翱作復性書。其一曰。人之所以為聖人者性也。人之所以惑其性者情也。喜怒哀懼愛惡欲七者情之所為也。情既昏性斯匿矣。非性之過也。七者。循環而交來。故性不能統也。水之渾也其流不清。火之烟也其光不明。非水火清明之過。沙不渾流斯清矣。烟不欝光斯明矣。情不作性斯統矣。性者天之命也。聖人得之不惑者也。聖人者豈無情耶。聖人者寂然不動。不往而到。不言而信。不耀而光。制作參乎天地。變化合於陰陽。雖有情也未嘗有情也。然則百姓者豈其無性耶。百姓之性與聖人之性弗差也。雖然情之所昏交相攻。未始有窮。故雖終身而不自睹其性焉。火之潛於山石林木之中。非不火也。江河淮濟之末流而泉于山。非不水也。石不敲木弗磨。則不能燒其山林而燥萬物。泉之源弗疏。則弗能為江為河為淮為濟。東匯大壑浩浩湯湯為弗測之深。情之動弗息。則弗能復其性而燭天地為不極之明。是故誠者聖人之性也。寂然不動廣大清明。照乎天地。感而遂通天下之故。行止語默無不處極也。復其性者。賢人循之而不已者也。不已則能歸其源矣。聖人知人之性皆可以循之其不息而至於聖也。故制禮以節之。作樂以和之。安於仁樂之本也。動而中禮之本也。故在車則聞和鸞之聲。行步則聞佩玉之音。無故不廢琴瑟。視言行循禮法而動。所以教人忘嗜欲而歸性命之道也。道者至誠而不息也。至誠而不息則虛。虛而不息則明。明而不息則照天地而無遺。非他也。此盡性命之道也。哀哉。人人可以及於此。莫之止而不為也。不亦惑耶。昔者聖人以傳於顏子。顏子得之拳拳不失。不遠而復。其心三月不違仁。子曰。回也其庶乎屢空。其所以未到聖人者一息耳。非力不能也。短命而死故也。其餘升堂者。蓋皆傳也。一氣之所春。一雨之所膏。而得之者各有淺深。不必均也。曾子之死也。曰吾何求焉。吾得正而斃焉斯已矣。斯正性命之言也。子思仲尼之孫。得祖之道。述中庸四十九篇。以傳于孟軻。孟軻曰。我四十不動心。軻之門人達者。公孫丑萬章之徒。蓋傳之矣。遭秦焚書。中庸之弗焚者一篇有焉。於是此道廢闕。其教授者唯節文章句。威儀擊劍之術相師焉。性命之源則吾弗能傳矣。道之極於剝也必復。吾自六歲讀書。但為辭句之學。志于道者四年矣。與人言之。未嘗有是我者也。南觀濤江入于越。而吳興陸參存焉。與之言。陸參曰。子之言尼父之心也。東方有聖人焉。不出乎此也。西方有聖人焉。亦不出乎此也。唯子行之不息而已矣。嗚呼性命之書雖存。學者莫能明。是故皆入於莊列老釋。不知者謂夫子之徒不足以窮性命之道。信之者皆是也。有問於我我以吾之所知傳焉。遂書于書。以開誠明之源。而闕絕廢棄不揚之道。幾可以傳。於是命曰復性書。以治乎心以傳乎人。於戲夫子復生不廢吾言矣。其二曰。或(問曰)人之昏也久矣。將復其性者必有漸也。敢問其方。曰弗慮弗思。情則不生。情既不生乃為正思。正思者無思無慮也。易曰。天下何思何慮。又曰。閑邪存其誠。詩曰。思無邪。曰已矣乎。曰未也。此齋戒其心者也。猶未離於靜焉。有靜必動。有動必靜。動靜不息。是乃情也。易曰。吉凶悔吝生乎動者也。焉能復其性耶。曰如之何。曰方靜之時知心無思者。是齋戒也。知本無有思動靜皆離寂然不動。是至誠也。中庸曰。誠則明矣。易曰。天下之動貞夫一者也。問曰。不慮不思之時。物格于外情應于內。如之何而可止也。以情止情其可乎。曰情者性之邪也。知其為邪本無其心寂然不已邪思自息。惟性明照。邪也何所生如以情止情。是乃大情也。情之相止。其有已乎。易曰。顏氏之子其殆庶幾乎。其不善未嘗不知。知之未嘗復行也。易曰。不遠復無祇悔元吉。問曰。本無有思動靜皆離。然則靜之來也其不聞乎。物之形也其不見乎曰不覩不聞。是非人也。視聽昭昭而不起聞見者斯可矣。無不知也。無不為也。其心寂然光照天地。是誠之明也。大學曰。致知在格物。易曰。無思也無為。也。寂然不動。感而遂通天下之故。非天下之至神。其孰能與於此。曰敢問。致知在格物何謂也。曰物者萬物也。格者來至也。物至之時其心昭昭然辨焉。而不著於物者。是致知也。是知之至也。知至故意誠。意誠故心正。心正故身修。身修故家齊。家齊而國理。國理而天下平。此所以能參天地者也。易曰。與天地相似。故不違。智周乎萬物而道濟天下。故不過。旁行而不流樂天之命。故不憂。安土敦乎仁。故能愛範圍天地之化而不過。曲成萬物而不遺。通乎晝夜之道而知。故神無方而易無體。一陰一陽之謂道。此之謂也。曰生為我說中庸。曰不出乎前矣。曰我未明也。敢問。何謂天命之謂性。曰人生而靜天之性也。性者天之命也。率性之謂道。曰何謂也。曰率循也。循其源而反其性者道也。道也者至誠也。至誠天之道也。誠者定也不動也。修道之謂教。何謂也。曰教也者人之道也。擇善而固執之者也。修是道而歸其本者明也。教也者則可以教天下矣。顏子其人也。道也者不可須臾離也。可離非道也。說者曰。其心不可須臾動焉故也。動則遠矣。非道矣。變化無方未始離於不動故也。是故君子戒謹乎其所不覩。恐懼乎其所不聞。莫見乎隱。莫顯乎微。故君子謹其獨也。說者曰。不覩之覩。見莫大焉。不聞之聞。聞莫甚焉。其心不動。是弗覩之覩。弗聞之聞也。其復之不遠矣。故謹其獨。謹其獨者守其中也。問曰。昔之解中庸者。與生之言皆不同何也。曰彼以事解。我以心通者也。曰彼亦通於心乎。曰吾不知之。問人之性猶聖人之性。嗜欲愛惡之心何自而生耶。曰情者妄也邪也。曰邪與妄則無所因矣。妄情滅息本性清明周流六虛。所以謂之能復其性也。易曰。乾道變化各正性命。語曰。朝聞道夕死可也。能正性命故也。曰情之所昏性即滅矣。何以謂之。猶聖人之性也。曰水之清澈。其渾之者沙泥也。其渾也性情豈遂無有耶。久而不動沙泥自沈。清明之性鑒乎天地。非自外來也。故其渾也性本不失。及其復也性亦不生。人之性亦猶水也。問曰。人之性本皆善。而邪情昏曰。敢問聖人之性將復為嗜欲所渾乎。曰不復渾矣。情本邪也妄也。邪妄所翳性不能復。聖人既復其性矣。知情之所為邪。邪既為明所覺矣。則無邪。邪何由生乎。曰敢問死何所之耶。曰聖人之所不明書于策者也。易曰。原始要終。故知死生之說。精氣為物遊魂為變。是故知鬼神之情狀。斯盡之矣。子曰。未知生焉知死。則原其始反其終。可以盡其生之道。生之道既盡。則死之說不學而通矣。此非所急也。子修之不息。其自知之。吾不可以章章然言非書矣。其三曰。晝而作夕而休者凡人也。作乎非作者與物皆作。休乎非休者與物皆休。吾則不類於凡人。晝無所作夕無所休。作非吾作也。作有物。休非吾休也。休有物。休耶作耶。二皆離而不存予之所存者。終不亡且離矣。人之不力於道者。昏不思也。天地之間萬物生焉。人之與萬物一也。其所以異於鳥獸虫魚者。豈非道德之性全乎哉。受一氣而成形。一為物而一為人。得之甚難也。生乎世又非深長之年也。以非深長之年。行甚難得之身。而不專專於大道。肆其心之所為。其所以異於鳥獸虫魚者亡矣。昏而不思。其昏也終不明矣。吾之年三十有九矣。思十九年時如朝日也。思九年時亦如朝日也。人之受命。其長者不過七十八十年。九十百年者希矣。當百年之時而視乎九十時也。與吾此日之思於前也遠近其能大相懸也。其又能遠於朝日之時耶。然則人之生也。雖享百年若雷電之驚相激也。若風之飄而旋也可知矣。況百千人無一及百年之年哉。故吾之終日志於道。猶懼未及也。彼肆其心之所為者獨何人耶。
(己酉) ○(雲代蔚三州山谷間石化為麫民取食之)。
(六) 蘇州重玄寺。刊石壁經成。刺史白居易為之碑曰。碑在石壁東次。石壁在廣德法華院西南隅。院在重玄寺西若干步。寺在蘇州城北若干里。以華言唐文刻釋氏經典。自經品眾佛號以降字加金焉。夫開示悟入諸佛知見。以義度無邊。以圓教垂無窮。莫尊於妙法蓮華經。凡六萬九千五百五言。證無生忍造不二門。住不可思解脫。莫極我維摩詰經。凡二萬七千九十二言。攝四生九類入無餘涅槃實無得度者。莫出於金剛般若波羅密經。凡五千二百八十七言。禳罪集福淨一切惡道。莫急於佛頂尊勝陀羅尼經。凡三千一十言。應念順願願生極樂土。莫急於阿彌陀經。凡一千八百言。用正見觀真相。莫出於觀普賢菩薩行法經。凡六千九百九十言。詮自性認本覺。莫過於實相法密經。凡三千二百五言。空法塵依佛智。莫過於般若波羅密多心經。凡二百五十八言。是八種經具十二部。合一十一萬六千八百五十七言。三乘之要旨。萬佛之祕藏盡矣。是石壁積四重高三尋長十有五丈厚尺有咫。有石蓮敷覆其上下。有石神固護其前後。火水不能燒漂。風日不能搖消。所謂施無上法盡未來際者也。唐長慶二年冬作。太和三年春成。律德沙門清晃矢厥謀。清海繼厥志。門弟子南容成之。道則終之。寺僧契元捨藝而書之。郡守居易施辭而讚之。讚曰。佛滅度後。世界空虛。惟是經典。與眾生俱。設復有人。書貝葉上。藏檀龕中。非堅非久。如蠟印空。假使有人。刺血為墨。剝膚為紙。即人知滅。如筆畫水。噫畫水不若文石。印臘不若字金。其功不朽。其義甚深。故吾謂石經功德。契如來付囑之心。
(七) 是歲丹霞天然禪師將終。命左右具浴。浴畢乃頂笠策杖受履垂一足。未及地而化。春秋八十有六。師本儒生。行應舉。偶一禪者。問仁今何往。曰選官去。禪者曰。選官何如選佛。曰選佛當何所詣。禪者曰。江西馬祖出世。即選佛之場也。師遂見馬祖。以手㧌幞頭額。祖顧視良久曰。南嶽石頭是汝之師。師抵南嶽。亦以前意投之。石頭曰。著槽廠去。乃禮謝入行者堂執務。後因普請鏟草次。師獨沐頭跪於石頭之前。石頭欣然與之落髮。尋為說戒。即掩耳而去。便返江西再見馬祖。未參禮便入僧堂。騎聖僧頸而坐。眾驚異以白馬祖。祖入堂見之曰。我子天然。師即下地禮拜曰。謝師賜與法名。久之遍歷諸方。後於天津橋橫臥。留守鄭公出呵之不起。吏問故。曰無事僧。鄭奇之。日給米麪。洛下翕然敬向。居鄧州丹霞。至數百眾。嘗示眾曰。阿爾渾家切須保護一靈之物。此不是爾造作名邈得。更說什麼薦不薦。吾往日見石頭和上。亦只教保護此事。不是爾譚話得。阿爾渾家各有一坐具地。更疑什麼禪。可是爾解得底物。豈有佛可成。佛之一字永不喜聞。阿爾自看。善巧方便慈悲喜捨。不從外得。不著方寸。善巧是文殊。方便是普賢。爾更擬趁逐什麼物。不用經不落空去。今時學者紛紛擾擾。皆是參禪問道。吾此間無道可修。無法可證。一飲一啄各自有分。不用疑慮。在在處處有恁麼底。若識得釋迦即是凡夫。阿爾須自看取。一盲引眾盲。相將入火坑。夜暗裏雙陸賽彩若為生。無事珍重。師嘗著玩珠吟二篇。其一曰。識得衣中寶無明醉自醒。百骸俱潰散。一物鎮長靈。智境渾非體。神珠不定形。悟則三身佛。迷疑萬卷經。在心心可測。歷耳耳難聽。罔象先天地。玄泉出杳冥。本剛非鍛鍊。元淨莫澄渟。槃礴輪朝日。玲瓏映曉星。瑞光流不滅。真氣觸還生。鑒照崆峒寂。羅籠法界明。剉凡功不減。超聖果非盈。龍女心親獻。闍王口自呈。護鵝人却活。黃雀意猶輕。解語非關舌。能言不是聲。絕邊彌汗漫。無際等空平。演教非為說。聞名忽認名。兩邊俱莫立。中道不須行。見月休觀指。還家罷問程。識心心即佛。何佛更堪成。
(八) 時有凌行婆者。嘗謁浮杯和上。與喫茶次。婆問。盡力道不得底句。還分付阿誰。曰浮杯無剩語。婆云。我不恁麼道。曰爾作麼生道。婆斂手哭曰。蒼天中更冤苦。杯無語。婆云。語不知偏正為人即禍生。後有僧舉似南泉。泉云。苦哉浮杯。却被老婆摧折。婆聞南泉語乃笑曰。王老師猶少機關在。有澄一禪者。見婆問。怎生是南泉猶少機關在。婆乃哭曰。可悲可痛。一罔措。婆云。會麼。一合掌而立。婆云。伎死禪和如麻似粟。後澄一舉似趙州。州云。我若見這臭老婆問教口啞在。一云。未審和上怎生問他。州以棒打云。似這伎死禪和。不打更待何時。連打數棒。婆聞趙州恁麼道乃曰。趙州自合喫婆手裏棒在。後有僧舉似趙州。州哭云。可悲可痛。婆聞趙州此語乃合掌曰。趙州眼放光明照破四天下。後趙州令僧去問。怎生是趙州眼。婆乃竪起拳頭。趙州聞之。乃以一偈寄云。當機直面提。直面當機疾。報爾凌行婆。哭聲何得失。婆亦以一偈答曰。哭聲師已曉。已曉復誰知。當時摩竭國。機喪目前機。
(九 辛亥) 文宗喜食蛤蜊。一日御饌中有蛤蜊劈不張者。忽變菩薩像。帝驚異。有旨送興善寺令眾僧瞻禮。因問侍臣。此何祥也。或對。太一山有惟政禪師。深明佛法。詔問之。帝召政而問焉。對曰。物無虛應。此殆啟陛下信心耳。經云。應以菩薩形得度者。即現菩薩形而為說法。帝曰。菩薩形今見矣。未聞其說法何也。對曰。陛下見此以為常耶。非常耶。信耶。弗信耶。帝曰。非常之瑞。朕焉不信。政曰。陛下聞其說法矣。何謂未聞。帝大悅。詔天下寺並立觀音像奉祀焉。
(癸丑) 十月帝誕節召法師知玄與道士於麟德殿論道。
(十 乙卯) 四月丁巳。宰相李訓上疏。請罷內道場沙汰僧尼濫偽者。制可。是日詔下。方毀大內靈像。俄暴風聿起。含元殿鴟吻俱落。發三金吾仗舍。內外城門樓觀俱壞。光化門牆亦崩。士民震恐。帝以訓所請忤天意。亟詔停前沙汰。詔復立大內聖像。風遂頓息。見舊史五行志。是歲冬十一月。宰相李訓鄭注謀誅宦官。不克事敗。訓注皆死之。
(十一) 是歲南泉普願禪師(鄭州新鄭人也姓王氏)將示寂。第一座問曰。和尚百年後。向什麼處去。師云。山下作一頭水牯牛去。座云某甲隨和上去。還得不。師云。汝若隨吾則須銜一莖草來。乃集門人告之曰。星翳燈幻其來久矣。勿謂吾有去來也。言訖而逝。師得法於馬祖。後歸池陽。自架禪室以居。凡三十年不下南泉。會宣城觀察使陸公亘請下山伸弟子之禮。由是學徒雲集。陸嘗問。弟子從六合來。彼中還更有身否。泉云。分明記取舉似作家。陸云。和上大不思議。到處世界現成。泉云。適來總是大夫分上事。陸他日又云。弟子薄會佛法。泉云。十二時中作麼生。陸云。寸絲不挂。泉云。猶是階下漢。泉又云。不見道。有道君王不納有智之臣。一日見人雙陸。大夫拈起骰子云。恁麼不恁麼。只恁麼信彩去時如何。泉拈起骰子云。臭骨頭十八。嘗示眾曰。道箇如如早是變了也。今時師僧直須向異類中行。又曰。我於一切處而無所行。他拘我不得。喚作遍行三昧普現色身。又曰。如今不可不奉戒。我不是渠。渠不是我。作得伊如狸奴白牯行履却快活。爾若一念異即難為修行。才一念異便有勝劣二根。亦是情見。隨他因果更有什麼自由分。又曰。老僧十八上解作活計。有人解作活計者麼出來。共爾商量。須是住山人始得。珍重無事各自修行。大眾不去。師復云。如聖果也大可畏。沒量大人尚不柰何。我且不是渠。渠且不是我。他經論家。說法身為極則。喚作理盡三昧。似老僧向前被人教返本還源去。幾恁麼會禍事。兄弟近日禪師太多。覓人癡鈍人不可得。不道全無。於中還少。若有出來共爾商量。如空劫時還有修行人否。有無作麼不道。阿爾尋常巧唇薄舌。及乎問著總皆不道。何不出來。莫論佛出世事。兄弟今時人擔佛著肩頭上行。聞老僧言心不是佛智不是道。便聚頭擬推老僧。無爾推處。爾若束得虛空作棒。打得老僧著。一任汝推。師與趙州門風。天下惟仰以為絕唱。
大和九年九月十一日。潭州道吾山圓智禪師告寂。豫章海昏人也。姓張氏。幼依槃和尚受教登戒。預藥山法會密契心印。一日藥山問。子去何處來。曰遊山來。山曰。不離此室速道將來。曰山上鳥兒白似雪。㵎底遊魚忙不徹。師與雲岩侍立次。藥山曰。智不到處切忌道著。道著即頭角生。智頭陀怎麼生。師便出去。雲岩問藥山曰。智師兄為什麼不祗對和上。山曰。我今日背痛。是他却會。汝去問取。雲岩即來問師曰。師兄適來為什麼不祗對和上。師曰。汝却去問取和上(僧問云居。切忌道者意怎麼生。云居云。此語最毒。僧云。如何是最毒底語。云居云。一棒打殺龍蛇)雲岩臨遷化時。遣人送辭。書到。師展書覽之曰。雲岩不知有。悔當時不向伊道。然雖如是要且不違藥山之子(玄覺云。古人恁麼道還有也未。又云。雲岩當時不會。且道什麼處是伊不會處)。溈山問。師什麼處去來。師曰。看病來。曰有幾人病。師曰。有病底有不病底。曰不病底莫是智頭陀否。師曰。病與不病總不干他事。急道急道。僧問。萬里無雲未是本來天。如何是本來天。師曰。今日好曬麥。問無神通菩薩為什麼足迹難尋。師曰。同道方知。曰和上知否。師曰。不知。曰為什麼不知。師曰。汝不識我語。石霜問師。百年後有人問極則事。作麼生向他道。師喚沙彌。沙彌應諾。師曰。添却淨瓶水著。師良久却問石霜。適來問什麼。石霜再舉。師便起去。石霜異日又問。和上一片骨。敲著似銅鳴。向什麼處去也。師喚侍者。侍者應諾。師曰。驢年去。師云疾有苦。僧眾慰問法候。師曰。有受非償。子知之乎。眾皆愀然。將行謂眾曰。吾當西邁理無東移。言訖告寂。壽六十有七。闍維得靈骨數片。建塔于石霜山之陽。勅諡修一大師。塔曰實相。
(十二 丙辰) 改開成○元年。左街僧錄內供奉三教談論引駕大德安國寺上座賜紫大達法師端甫卒。史館修撰裴休製碑曰。玄祕塔者。大法師端甫靈骨之所歸也。於戲為丈夫者。在家則張仁義禮樂。輔天子以扶世導俗。出家則運慈悲定慧。佐如來以闡教利生。捨此無以為丈夫也。背此無以為達道也。和上其出家之雄乎。天水趙氏世為秦人。初母張夫人夢梵僧謂曰。當生貴子。即出囊中舍利使吞之。及誕所夢僧白晝入其室。摩其頂曰。必當大弘教法。言訖而滅。既成人高顙廣目大頤方口。長六尺五寸其音如鐘。夫將欲荷如來之菩提。鑿生靈之耳目。固必有殊相奇表與。殆十歲依崇福寺道悟禪師為沙彌。十七正度為比丘。隷安國寺。具威儀於西明照律師。稟持犯於崇福寺昇律師。傳涅槃唯識大義於安國寺素法師。復夢梵僧告曰。三藏大教盡貯汝腹矣。自是經律論無敵於天下。囊括川注逢原委會。滔滔然莫能知其畔岸矣。夫將欲伐株杌於情田。雨甘露於法種者。固必有勇智宏辨與。無何謁文殊於清涼。眾聖皆現。演大經於太原。傾都畢會。德宗皇帝聞其名徵之。一見大悅。常出入禁中與儒道論議。賜紫方袍。歲時錫施異於他等。復詔侍皇太子於東朝。順宗皇帝深仰其風。親之若昆弟。相與臥起。恩禮特隆。憲宗皇帝數幸其寺。待之若賓友。常承顧問。注納偏厚。而和上符彩超邁詞理響捷。迎合上旨皆契真乘。雖造次應對。未嘗不以闡揚為務。由是天子益知佛為大聖人。其教有大不可思議事。當是時朝廷方削平區夏。縛吳幹蜀瀦蔡蕩鄆。而天子端拱無事。詔和上率緇屬迎真骨於靈山。開法場於祕殿。為人請福親奉香火。既而刑不殘兵不黷。赤子無愁聲。江海無驚浪。蓋參用真乘以毘大政之明効也。夫將欲顯大不思議之道。輔大有為之君。固必有冥符玄契與掌內殿法儀。錄左街僧事。以標表清眾者十一年。講涅槃唯議經論。位處當仁傳授宗乘以開誘道俗。凡一百六十座。運三密於瑜伽。契無生於悉地。日持諸部十餘萬遍。指淨土為息肩之地。嚴金經為報法之恩。前後供施數十百萬悉以崇飾殿宇窮極雕繪。而方丈匡床靜慮自得。貴臣盛族皆所依慕。豪俠工賈莫不瞻嚮。薦金玉以致誠。仰端嚴而禮足。日有千數。不可殫書。而和上即眾生以觀佛。離四相以修善。心下如地坦無丘陵。王公輿臺皆以誠接。議者以謂成就常不輕行者。唯和上而已。夫將欲駕橫海之大航拯群迷於彼岸者。固必有奇功妙道與。以開成元年六月一日。向西右脇而滅。當暑而尊容若生。竟夕而異香彌欝。其年七月六日遷於長樂之南原。遺命荼毘。得舍利三百餘粒。方熾而神光月皎。既燼而靈骨珠圓。賜諡大達。塔曰玄祕。俗壽六十七。僧臘四十八。弟子比丘比丘尼約千餘輩。或講論玄言。或紀綱大寺。修禪秉律分作人師五十。其徒皆為達者。於戲和上果出家之雄乎。不然何至德殊祥如此其盛也。承襲弟子自約義正正言等。克荷先業虔守遺風。大懼徽猷有時堙沒。而閤門劉公法緣最深。道契彌固。亦以為請。願播清塵。休嘗游其藩備其事。隨喜讚歎蓋無愧辭。銘曰。賢劫千佛。第四能仁。哀我生靈。出經破塵。教網高張。孰分。有大法師。如從親聞。經律論藏。戒定慧學。深淺同源。先後相覺。異宗偏義。孰正孰駁。有大法師。為作霜雹。趣真則滯。涉偽則流。象狂猿輕。鉤檻莫收。柅制刀斷。尚生瘡疣。有大法師。絕念而游。巨唐啟運。大雄垂教。千載冥符。三乘迭耀。寵重恩顧。顯闡讚導。有大法師。逢時感召。空門正闢。法宇方開。崢嶸棟宇。一旦而摧。水月鏡像。無心去來。徒令後學。瞻仰徘徊。
(十三 丁巳) ○(慧星現長八丈)。
(戊午) 開成三年三月六日。僧統清涼國師澄觀將示寂。謂其徒海岸等曰。吾聞偶運無功先聖悼歎。復質無行古人恥之。無昭穆動靜。無論緒往復。勿穿鑿異端。勿順非辨偽。勿迷陷邪心。勿固牢鬪諍。大明不能破長夜之昏。慈母不能保身後之子。當取信於佛。無取信於人。真離玄微。非言說所顯。要以深心體解朗然現前。對境無心逢緣不動。則不孤我矣。言訖而逝。師生歷九朝為七帝門師。春秋一百有二。僧臘八十有三。身長九尺四寸。垂手過膝。目夜發光晝視不瞬。才供二筆聲韻如鐘。文宗以祖聖崇仰。特輟朝三日。重民縞素奉全身塔于終南山。未幾有梵僧到闕。表稱於葱嶺見二使者凌空而過。以呪止而問之。答曰。此印度文殊堂神也。東取華嚴菩薩大牙歸國供養。有旨啟塔。果失一牙唯三十九存焉遂闍維。舍利光明瑩潤。舌如紅蓮色。賜諡仍號清涼國師妙覺之塔。相國裴休奉勅撰碑。其銘曰。寶月清涼。寂照法界。以沙門相。藏世間解。澄湛含虛。氣清鐘鼎。雪沃剡溪。霞橫維嶺。真室寥敻。靈嶽崔嵬。虛融天地。峻拔風雷。離微休命。實際厖鴻。奉若時政。革彼幽蒙。烱乎禹質。元聖孕靈。德雲冉冉。凝眸幻形。谷響入耳。性不可為。青蓮出水。深不可闚。才受尸羅。奉持止作。原始要終。克諧適莫。鳳藻璝奇。遺演祕密。染翰風生。供盈二筆。欲造玄關。咽金一像。逮竟將流。龍飛遷颺。疏新五頂。光銜二京。躍出法界。功齊百城。萬行分披。華開古錦。啟廸群甿。與甘露飲。燮贊金偈。懷生保乂。聖主師資。聿興遐裔。貝葉飜宣。譯場獨步。譚柄一揮。幾回天顧。王庭闡法。傾河湧泉。屬辭縱辨。玄玄玄玄。紫衲命衣。清涼國號。不有我師。孰知吾道。九州傳命。然無盡燈。一人拜錫。統天下僧。帝網冲融。潛通萬戶。歷天不周。同時顯唔。卷舒自在。來往無蹤。大士知見。允執厥中。西域供牙。梵倫遽至。奏啟石驗。嘉風益熾。勅俾圖真。相即無相。海印大龍。蟠居方丈。哲人去矣。資何所參。即事之理。塔鎖終南。
勅寫國師真。奉安大興唐寺。文宗皇帝御製贊曰。朕觀法界。曠閴無垠。應緣成事。允用虛根。清涼國師。體象啟門。奄有法界。我祖聿尊。教融海岳。恩廓乾坤。首相二疏。拔擢幽昏。間氣斯來。拱承佛日。四海光凝。九州慶溢。敞金仙門。奪古賢席。大手名曹。橫經請益。仍師臣休。保余遐曆。爰抒顓毫。式揚茂實。真空罔盡。機就而駕。白月虛秋。清風適夏。妙有不遷。緣息而化。邈爾禹儀。煥乎精舍。
(十四 己未) 製象碁(昔神農以日月星辰為象。唐相國牛僧孺用車馬將士卒加砲代之為機矣)。
是年正月六日。圭峯宗密禪師示寂。相國裴休撰傳法碑。師姓何氏。果州西兗人。釋迦如來三十九代法孫也。釋迦住世八十年。為無量天人聲聞菩薩說種種法。最後以法眼付大迦葉。令祖祖相傳別行于世。顧此法眾生之本源。諸佛之所證。超一切理離一切相。不可以言語智識有無隱顯推求而得。但心心相印。印印相契。使自證知光明受用而已。自迦葉至達磨。達磨東來至曹溪。凡三十三世。曹溪傳荷澤。荷澤傳磁州如。如傳荊南張。張傳遂州圓。圓傳禪師。師於荷澤為五世。於迦葉為三十八世。其宗系如此。師豪家。少通儒學。一日偈遂州。未及與語。退游途中。見其儼然在定。忻躍慕之。遂剃染受道。嘗赴齋次。受經得圓覺十二章。誦未終忽然大悟。歸以告其師。師印可。乃謁東京照。照曰。菩薩人也。誰其識之。次謁清涼觀。觀曰。毘盧華藏。能從我游者其汝乎。及因漢上僧授華嚴新疏。遂講華嚴。久之著圓覺華嚴涅槃金剛唯識起信法界觀等經疏鈔。及禮懺修證圖傳纂略文集諸宗禪語為禪藏。并書偈論議凡九十餘卷。或以師不守禪行而廣講經論游名邑大都以興建為務。乃為多聞之所役。豈聲利之所未忘乎。曰嘻夫一心者萬法之總也。分而為戒定慧。開而為六度。散而為萬行。萬行未嘗非一心。一心未嘗違萬行。禪者六度之一耳。何能總諸法哉。且如來以法眼付迦葉。不以法行故自心而證者為法。隨行而起者為役。得未必嘗同也。然則一心者萬法之所生而不屬於萬法。得之者則於法自在矣。見之者則於教無礙矣。本非法。不可以法說。本非教。不可以教傳。豈可以軌迹而尋哉。自迦葉至富那夜奢。凡十祖皆羅漢。所度亦羅漢。至馬鳴龍樹提婆天親。始開摩訶行著論釋經。摧滅外道為菩薩唱首。而尊者闍夜獨以戒力為威神。尊者摩羅獨以苦行為道迹。其他諸祖或廣行法教。或專心禪定。或蟬蛻而去。或化火而滅。或攀樹以示終。或受害而償債。是乃法必同而行不必同也。且循轍迹者非善行。守規墨者非善巧。不迅疾無以為大牛。不超過無以為大士。故禪師之為道也。以知見為妙門。以寂靜為正味。慈忍為甲冑。慧斷為劍矛。破內魔之高壘。陷外賊之堅陣。鎮撫邪雜解釋縲籠。遇窮子則叱而使歸其家。見貧女則呵而使照其室。窮子不歸。貧女不富。吾師恥之。三乘不興。四分不振。吾師恥之。忠孝不並化。荷擔不勝任。吾師恥之。故皇皇於濟拔。汲汲於開誘。不以一行自高。不以一德自聳。人有歸依者。不俟請而往也。有求益者。不俟憤則啟矣。雖童幼不簡於應接。雖傲很不怠於扣勵。其以闡教度生。助國家之化也如此。故親師之法者。貪則施暴則斂。剛則隨戾則順。昏則開惰則奮。自榮者謙自堅者化。循私者公溺情者義。故士俗有變活業絕血食。持或法而為近住者。有出而修政理以救疾苦為道者。有退而奉父母以豐供養為行者。其餘憧憧而來。欣欣而去。揚袂而至。實腹而歸。所在不可勝紀。真如來付囑之菩薩。眾生不請之良友。其四依之一乎。其十地之人乎。吾不識其境界庭宇之廣狹。議者又焉知大道之所趣哉。閱世六十二。僧臘三十四。宣宗追諡定慧禪師。門弟子僧尼四眾凡數千人。
(十五 庚申) ○(正月上疾。命太子監國。上崩。仇士良立穎王為太弟即位。李德裕相)。◎
◎(辛酉) 武帝炎改會昌(穆宗第五子。母韋太后。仇士良臨死謂同類曰。天子奢泆不道。勿令讀書親儒者。後服丹藥。其性躁急喜怒不常。年三十四而崩。在位六年)帝自幼稚不喜釋氏。是年正月即位。七月桂州馬生三足駒。至秋九月召道士趙歸真等八十一人入禁中。於三殿修金籙道場。冬十月帝幸三殿。升九仙玄壇親受法籙。左拾遺王哲諫云。王業之初。不宜崇信太過。帝不納。
(十六) 是年十月潭州雲巖晟禪師卒鐘陵建昌人。姓王氏。少出家於石門。初參百丈未悟玄旨。侍左右二十年。丈化。乃謁藥山。服勤已久。山問。師作什麼。曰擔屎。山曰那箇[(口*斬)/耳]。曰在。山曰。汝來去為誰。曰替他東西。山曰。何不教並行。曰和上莫謗他。山曰。不合與麼道。曰如何道。山曰。還曾擔麼。師於言下契會。一日藥山問。聞汝解弄師子是否。曰是。山曰。弄得幾出。曰弄得六出。山曰。我亦弄得。曰和上弄得幾出。山曰。我弄得一出。師曰。一即六。六即一。後到溈山。溈問曰。承長老在藥山弄師子是否。曰是。溈曰。長弄耶。還有置時。曰要弄即弄。要置即置。溈曰。置時師子在什麼處。師曰。置也置也。道吾問。大悲千手眼如何。曰如無燈時把得枕子。怎麼生道。吾曰。我會也我會也。師曰。怎麼生會。吾曰。通身是手眼。洞山問。就師乞眼睛。師曰。汝底與阿誰去也。曰良价無師。曰有汝向什麼處著。洞山無語。曰乞眼睛底是眼否。价曰。非眼。師咄之。師於是月二十六日沐身竟。喚主事僧令備齋。來日有上座發去。至二十七日。並無人去。及夜師歸寂。壽六十。荼毘得舍利千餘粒。塔曰淨勝。勅諡無住大師夏六月。以衡山道士劉玄靜為光祿大夫。充崇玄館學士。令與趙歸真居禁中修法籙。左輔闕劉玄謨上疏切諫。貶玄謨為河南戶曹。
(十七) 三年正月。制曰。齋月斷屠出於釋典。國家剏業猶近梁隋。卿相大臣或緣茲弊。自今惟正月萬物生植之初。宜斷屠三日。列聖忌各斷一日。餘不須禁。三月以道士趙歸真為左右街道門教授先生。時帝銳意求仙。師事歸真。歸真乘寵。每對必排毀釋氏。非中國之教。蠹害生靈。宜盡除去。帝深然之。歸真復請與釋氏辨論。有旨追僧道於麟德殿談論。法師知玄登論座。辨捷精壯。道流不能屈。玄因奏。王者本禮樂一憲度則天下治。吐納服食蓋山林匹夫獨擅之事。願陛下不足留神。帝色不平。侍臣諷玄賦詩以自釋。玄立進五篇。有鶴背傾危龍背滑君王且住一千年之句。帝知其刺。特放還桑梓。
論曰。昔周武廢教。沙門犯顏抗爭。殆數十人。雖不能格武之惑。然足見吾法中之有人也。及唐高祖議沙汰。而惠乘玄琬智實法林等皇皇論爭。引義慷慨。亦不失法王真子之識。凡自大曆而後。祖道既興。吾門雄傑多趍禪林。至是武宗議廢教。而主法者才知玄一人而已。雖武宗盛意不可解。佛運數否莫可逃。凡釋子者處變故之際。無一辭可紀。佛法尊博如天。亦吾徒失學之罪也。
(十八 甲子) 正月作望仙樓於禁中。時集道士於其上。諮質仙事。時趙歸真特被殊寵。諫官數上疏論之。帝謂宰相曰。諫官論趙歸真。此意要卿等知。朕宮中無事。屏去聲色要此人道話耳。李德裕對曰。臣不敢言前代得失。第歸真曾在敬宗朝出入掖庭。以此群情不願陛下復親近之。帝曰。朕於彼時已識此人。但不知其名。呼為趙練師。在敬宗時亦無甚惡。朕與之言滌煩耳。至於軍國政事。唯與卿等論之。豈問道士。繇是宰相不復諫。而歸真遂以涉物論。遂舉羅浮山道士鄧元超有長生術。帝遣中使迎之及。元超至與劉玄靖及歸真等。膠固排毀釋氏。於是拆寺之請行焉。
四月勅祠部。檢括天下僧尼寺。凡四萬四千六百所。僧尼凡二十六萬五千餘人。
(十九) 五月庚子。勅併省天下佛寺。中書門下關奏。據令式諸上州國忌官吏行香於寺。其上州各留一寺。凡有列聖尊容。並令移於寺內。其下州寺並廢。兩京左右街請留十寺。寺僧十人。勅曰。上州合留寺工作精巧者各一所。如破落悉宜除毀。其行香日。官吏宜赴道觀。上都東都各留四寺。寺僧三十人。中書門下又奏曰。天下廢寺鐘磬銅像委鹽鐵使鑄錢。其鐵像委本州。鑄為農具。金銀鍮石等像銷付度支。衣冠士庶之家所有金銀等像。勅出後限一月納官。
八月制曰。朕聞三代以前未有言佛。漢魏之後像教寖興。由是季時傳此異俗。因緣染習蔓衍滋多。以至於蠹耗國家而漸不覺。以至於誘惑人情而眾益迷。泊於九有山原兩京城闕。僧徒日廣佛寺日崇。勞人力於土木之功。奪人利於金寶之飾。移君親於師資之際。違配偶於戒律之間。壞法害人無逾此道。且一夫不田有受其飢者。今天下僧尼不可勝數。皆待農而食待蠶而衣。寺宇招提莫知紀極。皆雲架藻飾僭擬宮居。晉宋齊梁物力凋弊風俗澆詐。莫不由是而致也。況我高祖太宗以武定禍亂以文理天下。執此兩端而以經邦。豈以西方區區之教與我抗衡哉。貞觀開元亦嘗釐革剗除未盡。流衍轉滋。朕博覽前言旁求心輿議。弊之可革斷在不疑。而中外誠臣協予正意。條流至當宜在必行。懲千古之蠧源。成百王之典法。即人利眾予何讓焉。其天下所拆寺還俗僧尼收充稅戶。於戲前古未行似將有待。及今盡去豈謂無時。驅游惰不業之徒幾五十萬。廢丹雘無用之室凡六萬區。自此清淨訓人。慕無為之理。簡易齊政。成一俗之功。將使六合黔黎同歸皇化。尚以革弊之始日用不知。下制明廷宜體予意。
(二十 乙丑) 三月帝不豫。自徵方士服金丹受法籙。至是發背躁悶失常。遂至大漸。旬日不能言而崩。年三十三。舊史贊曰。昭肅削浮圖之法。懲游惰之民。志欲矯步丹梯求珠赤水。徒見蕭衍姚興之曲學。不悟始皇漢武之妄求。蓋受惑左道之言。故偏斥異方之教。況身毒西來之法向欲千年。蚩蚩之民習以成俗。畏其教甚於國法。樂其徒不異登仙。如文身斷髮之鄉。似吐火吞舟之戲。詎可正以咸韶而律以章甫。加以笮融何充之佞。代不乏人。雖荀卿孟子之賢。未容抗論。一朝墮殘金像燔棄胡書。結怨於膜拜之流。犯怒於匹夫之口。哲王之舉不駭物情。前代存而勿論。實為中道。欲革斯弊將俟河清。昭肅頗稱明斷。然聽斯蔽矣(已上並見舊史)。
論曰。舊史武宗紀。著除罷釋氏始末甚詳。當時黃冠乘寵傾害吾教。然亦大臣李德裕輔成其事也。新史曰。武宗毅然除去浮屠之法甚銳。而躬受道家法籙。服藥以求長年。以此知其非明智之不惑者。特好惡不同耳。噫嘻。武宗非明智不惑。豈特於釋老好惡不同哉。其偏信李德裕專權用事。朋黨相傾。雖僅有伐叛之勞。未見成功而朝野積怨已甚。使更久權。則與李林甫又何異乎○(古曰。上流之罪天執其罰。下民之罪天似其罰。異矣哉。報應傳曰。正月十五日有人夜行至穆宗陵下。忽聞人語。謂是盜焉。遂泊衰叢之內。俄而空有朱衣。執版宣曰。塜尉何在。有二吏出應曰。在矣。朱衣曰。錄海西居使者至也未。吏曰。計程十八日方至。朱衣曰。何稽。吏曰。李炎坐毀聖教減算一紀。當與海西君同錄其魂而至矣。時有賈客自東來。俱尋不見。是年武宗果卒。併錄之)。
(廿一 丙寅) ○(三月上崩。子幼。皇太叔即位。四月出李德裕荊南節度使)。
(丁卯) 宣宗忱(憲宗第十三子。始封光王。讓位與姪文宗武宗後武宗不道捶亡沈於宮廁。宦者仇公武潛收救之。俾髠髮為僧。後復受江陵少尹。武宗疾大漸。立光王為皇太叔即位于柩前。帝以流落民間。備知稼穡勤于庶政。視前昏暴。廣興佛寺。后年五十崩咸寧殿。葬貞陵。在位十三年)改元大中。
(廿二) 三月詔曰。會昌季年併省寺宇。雖云異方之教。有資為理之源。中國之人久行其道。釐革過當事體乖謬。其靈山聖境應會昌五年所廢寺宇諸宿舊僧。可仍舊修葺住持。
(廿三) 是年尚書白居易卒。年七十有五。贈尚書左僕射。上以詩弔之。居易被遇憲宗。時事無不言。湔剔抉摩多見聽可。然為當路所忌。遂擯斥所蘊不得施。乃放意文酒。能順適所遇。託釋氏死生之說。若忘形骸者。後復進用。又皆幼君偃蹇益不合。居官輒病去。遂無立功名意。與弟行簡及從祖弟敏中友愛。東都所居履道里疏沼種樹架石樓。香山鑿八節灘。號醉吟先生。自為之傳。晚節好佛尤甚。至經月不食葷。稱香山居士。與胡杲等九人宴集。皆高年不仕者。人慕之繪為九老圖。居易於文章精切。然最工於詩。當時士人爭傳誦之。其始生方七月能展書。姆指之無兩字雖式之百數不差。九歲諳識音律。其篤於才章蓋天稟然。既卒以其所居第施為佛寺。宣宗思其賢不已。因擢其弟敏中為相。居易嘗(足疾)。肖彌陀佛像而禱之。自為之記曰。我本師釋迦如來說言。從是西方過十萬億佛土有世界號極樂。以無八苦四惡道故也。其國號淨土。以無三毒五濁業故也。其佛號阿彌陀。以壽無量願無量功德相好光明無量故也。諦觀此娑婆世界眾生。無賢愚無貴賤無幼艾。有起心歸佛者。舉手合掌必向西方。有怖厄苦惱。開口發聲。必先念阿彌陀。又範金合土刻石繡紋。乃至印水聚沙童子戲者。莫不率以阿彌陀佛為上首。不知其然而然。由是而觀。是彼如來有大誓願於此眾生。眾生有大因緣於彼國土明矣。不然南北東西過去現在未來佛多矣。何獨如是哉。何獨如是哉。唐中大夫太子少傅白居易。當衰莫之歲。中風痺之疾。乃捨俸錢三十萬。命工人杜敬宗按阿彌陀無量壽二經。畫西方世界一部。高九尺廣丈有三尺。阿彌陀尊佛坐中央。觀音勢至二大士侍左右。人天瞻仰眷屬圍繞。樓臺伎樂水樹花鳥。七寶嚴飾五綵張施。爛爛煌煌功德成就。弟子居易焚香稽首跪於佛前。起慈悲心發弘誓願。願此功德回施一切眾生。一切眾生。有如我老者。如我病者。願離苦得樂斷惡修善。不越南部便覩西方。白毫大光應念來感。青蓮上品隨願往生。從現在身盡未來際。常得親近而供養也。欲重宣此義。而說讚曰。極樂世界清淨土。無諸惡道及眾苦。願如我身老病者。同生無量壽佛所。
(廿四 戊辰) 九月詔曰。潮州司馬李德?。早籍門第幼踐清華。累居將相之榮。唯以姦傾為業。當會昌之際極公台之崇。騁諛佞以得君。遂恣橫而持政。專權生事妬賢害忠。動多詭異之謀。潛懷僭越之志。秉直者必棄。向善者盡排。誣忠良造朋黨之名。肆姦偽生加諸之釁。計有逾於指鹿。罪實見於欺天。屬者方處鈞衡曾無嫌避。委國史於愛婿之手。寵祕文於弱子之身。洎參信書亦見親昵。恭推元和實錄。乃不刊之書。擅敢改張罔有畏忌。奪他人之懿績。為私門之令猷。附李榮之曲情。成吳緗之怨獄。擢爾之髮數罪未窮。載窺罔上之由。益見無君之意。朕務全本體久為含容。雖黜降其官榮。尚蓋藏其醜狀。而睥睨未已。兢惕無聞。積惡既張公議難抑。可崖州司戶。未幾德裕慚忿而卒。乃見夢哀訴於宰相令狐綯。乞歸葬其尸。識者謂之強魂雖死亦不哀云。
論曰。唐李習之曰。史官紀事不得實。乃取行狀諡牒。凡為狀者。皆門生故吏。苟言虛美。尤不足信。予觀李德?故吏鄭亞所為會昌一品制集序。鋪張德?勳業。與新史本傳無異。而舊史武宗紀。則著德?之惡。與詔詞皆合。然則新史取信故吏之說。寧不誤後來者乎。
(廿五) 湖南觀察使裴休。躬謁華林善覺禪師。休問。師還有侍者否。覺云。有一兩箇。休云。在什麼處。覺乃喚大空小空。時二虎自庵後而出。休覩之大驚。覺語虎曰。且去有客在。二虎哮吼而去。休問。師作何行業感得如斯。覺良久云。會麼。休云。不會。覺云。山僧常念觀音。休歎異而去。覺隱居常持錫夜出林麓間。七步一振錫一稱觀音名號。嘗有僧來參。方展坐具。覺曰。且緩緩。僧曰。和尚見箇什麼。覺云。可惜許磕破鐘樓。其僧有省。
(己巳) ○(正月五色雲中現佛真身○復河湟瓜沙伊肅等十一州之地於是開元基宇悉如故)。
(廿六) 黃蘗希運禪師示寂。師福唐人。姿貌豐碩。游方晚趍江西參馬祖。值祖歸寂。乃見百丈問馬祖平日機緣。丈舉再參馬祖掛拂話。師於言下大。悟曰子他日嗣馬祖去。師曰。不然今日因師舉得見馬祖大機之用。若嗣馬祖喪我兒孫。丈曰。如是如是。見與師齊減師半德。見過於師乃堪傳受。師自是混迹于眾後於豫章遇觀察使裴休。道緣契合遂出世說法。嘗示眾曰。汝等諸人欲何所求。遂以捧趁去。而眾不散。因謂之曰。汝曹盡是噇酒糟漢。恁麼行脚取笑於人。但見八百一千便去。不可只圖熱鬧也。老漢行脚時。或遇草根下有一箇漢。便從頂上一錐看他。若知痛痒。可以布袋盛米供養他。可中總似儞如此容易。何處更有今日事。汝等既稱行脚。亦須著些精神還知道大唐國裏無禪師。時有僧出云。只如諸方尊宿聚徒闡化。又作麼生。師曰。不道無禪。只是無師。豈不見馬大師座下出八十四人坐大道場。得大師正眼者。止三兩人而已。歸宗和上是其一也。出家人須知有從上來事分。且如四祖下牛頭融大師。橫說竪說猶不知向上關捩子。有此限腦方辨得邪正宗黨。且當人事宜不能體會得。但知學語言念向肚皮裏安著。到處稱我會禪。還替得汝生死麼。輕忽老宿入地獄如箭。我才見入門來。便識得儞了也。還知麼急須努力莫容易事。持片衣口食空過一生。明眼人笑汝。久後總被俗人算將去在。宜自看遠近。是阿誰分上事。若會即便會。不會即散去。大中三年終於黃蘗勅諡斷際禪師。塔曰廣業。
(廿七 庚午) 詔京兆薦福寺弘辨禪師入內。帝問曰。禪宗何有南北之名。對曰。禪門本無南北。昔如來以正法眼付大迦葉。展轉相傳至三十一世。此土弘忍大師有二弟子。一名惠能。受衣法居嶺南。一名神秀。在北揚化。得法雖一時。開導發悟有頓漸之異。故曰南頓北漸。非禪宗本有南北之號也。帝曰。何名戒定慧。對曰。防非止惡名戒。六根涉境心不隨緣名定。心境俱空照鑒無惑為慧。帝曰。何名方便。對曰。方便者隱實覆相權巧之門也。被接中下曲施誘廸。謂之方便。設為上根言捨方便但說無上道者。斯亦方便之談。以至祖師玄言忘功絕謂。亦無出方便之迹。帝曰。何為佛心。對曰。佛者覺也。謂人有智慧覺照為佛心。心者佛之別名。則有百千異號。體唯其一。本無形狀。非青黃赤白男女等相。在天非天。在人非人。而現天現人。能男能女。非始非終無生無滅。故號靈覺之性。如陛下日應萬機。即是陛下佛心。假使千佛共傳。應無別有所得也。帝曰。如今有人念佛如何。對曰。如來出世為天人師。隨根器而說。為上根者。開最上乘頓悟至理。中下根者。未能頓曉。是以佛為韋提希開十六觀門。令念佛生於極樂。故經云。是心是佛。是心作佛。心外無佛。佛外無心。帝曰。復有人持經持呪求佛如何。對曰。如來種種說法。皆為最上一乘。如百千眾流莫不朝宗于海。如是差別諸緣皆歸薩婆若海。帝曰。祖師既傳心印。金剛經云。無所得法如何。對曰。佛之一化實無一法與人。但示眾生各各自性同一法藏。當時然燈如來但印釋迦本法。而無所得方契然燈本意。故經云。無我無人無眾生無壽者。是法平等修一切善不著於相。帝曰。禪師既會祖意。還禮佛看經否。對曰沙門禮佛看經。蓋是住持常法。有四報焉。依佛戒修身。參尋知識漸修梵行。履踐如來所行之迹。帝曰。何為頓見。何為漸修。對曰。頓明自性與佛無二。然有無始染習。故假漸修對治令順性起用。如人喫飯非一口便飽。是日辨對七刻方罷。帝悅賜號圓智禪師。
(廿八 辛未) 江州刺史崔黯。復廬山東林寺。黯自為之碑。其略曰。佛之心以空化執智化也。以福利化欲仁化也。以緣業化妄術化也。以地獄化愚劫化也。故中下之人。聞其說利而畏之。所謂救溺以手救火以水。其於生人恩亦弘矣。然用其法不用其心。以至於甚則失其道蠹於物。失其道者迷其徒。蠹於物者覆其宗。皆非佛之以手以水之意也。為國家者。取其有益於人。去其蠹物之病則通矣。唐有天下一十四帝。視其甚理而汰之。而執事之人。不以歸牛返本。以結人心。其道甚桀幾為一致。今天子取其益生人稍復其教。通而流之以濟中下。於是江州奉例詔。予時為刺史。前訪茲地。松門千樹嵐光熏天。蜩嘒湍鳴松籟冷然可別愛而不剪。利以時往。至是即善而復之。又曰。嘗觀晉史。見遠公之事。及得其書。其辨若注。其言若鋒。足以見其當時取今之所謂遠公者也。吾聞嶺南之山峻而不山。嶺北之山山而不秀。而廬山為山。山與秀兩有之。五老窺湖懸泉墜天。秔香藥靈鳥閑獸善。烟嵐之中恍有絳節白鶴。使人觀之而不能回眸也。且金陵六代。代促俗薄。臣以功危。主以疑慘。潯陽為四方之中。有江山之美。遠公豈非得計於此而視於時風耶。然鷙者搏羶。襲者居素。前入不暇。自歎者多。則遠師固為賢矣。是山也以遠師更清。遠師也以是山更名。暢佛之法如以曹溪以天台為號者。不可一二。故寺以山。山以遠。三相挾而為天下具美矣。
(廿九 癸酉) 溈山靈祐禪師示寂。師嘗示眾曰。夫道人之心。質直無偽。無背無面無詐妄心。行一切時視聽尋常。更無委曲亦不閉眼塞耳。但不附物即得。從上諸聖只是說濁邊過患。若無如許多惡覺情見想習之事。譬如秋水澄渟清淨無為澹泞無礙。喚作道人。亦名無事人。時有僧問。頓悟之人還更有修不。師云。若真悟得本他自知時。修與不修是兩頭語。如今初心雖從緣得一念頓悟自理。猶有無始曠劫習氣。未能頓淨。須教渠淨除現業流識。即是修也。不道別有法教渠修行趣向。從聞入理聞理深妙。心自圓明不居惑地。雖有百千妙義抑揚當時。此乃得坐披衣自解作活計。時相國鄭愚為之碑曰。天下之言道術者多矣。各用所宗為是。而五常教化人事之外。於精神性命之際。史氏以為道家之言。故老嚴之類是也。其書具存。然至於盪情累外生死。出於有無之間。超然獨得。言象不可以擬議。勝妙不可以意況。則浮屠氏之言禪者。庶幾乎盡也。有口無所用其辨。巧歷無所用其數。愈得者愈失。愈是者愈非。我則我矣。不知我者誰氏。知則知矣。不知知者何以。無其無不能盡。空其空不能了。是者無所不是。得者無所不得。山林不必寂。城郭不必諠。無春夏秋冬四時之行。無得失是非去來之迹。非盡無也。冥於順也。遇所即而安。故不介於時。當其處無必。故不局於物。其大旨如此。其徒雖千百。得者無一二。近代言之者必有宗。宗必有師。師必有傳。然非聰明瓌宏傑達之器。不能得其傳。當其傳是皆鴻庬偉絕之度也。今長沙郡西北有山。名大溈。蟠木窮谷不知其遍幾千百里。為羆豹虎兕之宅。雖夷人射獵虞迹樵夫。不敢田從也。師始僧號靈祐。生福唐。笠首屩足背閩來游。菴於翳薈非食不出。棲棲風雨默坐而已。恬然晝夜物不能害。非夫外死生忘憂患冥順大和者。熟能於是哉。昔孔門殆庶之士。以單瓢樂陋巷。夫子猶稱詠之。以其有生之厚也。且生死於人得喪之大者也。既無得於生。必無得於死。既無得於得。必無得於失。故於其間得失是非所不容措。委化而已。其為道術。天下之能事畢矣。凡涉語是非之端。辨之益惑。無補於學者。今不論也。師既以茲為事。其徒稍稍從之。則與之結構廬室。與之伐去陰黑。以至於千有餘人。自為飲食紀綱。而於師言無所是非。其有問者隨語而答。不強所不能也。數十年言佛者。天下以為稱首。武宗毀寺遂僧。逐空其所。師遽裹首為民。惟恐出蚩蚩之輩。有識者益貴重之。後湖南觀察使裴公休。酷好佛事。值宣宗釋武宗之禁。固請迎而出之。乘之以已輿。親為其徒列。又議重削其鬚髮師始不欲。戲其徒曰。爾以鬚髮為佛耶。其徒愈強之。不得已笑而從之。復到其所居。為同慶寺而歸。諸徒復來。其事如初。師皆幻視無所為意。忽一日笑報其徒示若有疾。以大中七年正月九日歸寂。年八十三。即窆於大溈之南阜。後十有一年。其徒以師之道上聞。始加諡號及墳塔。以厚其終。噫人生萬類之最靈者。而以精神為本。自童孺至老白首。始於飲食。漸於功名利養。是非嫉妬晝夜纏縛。又其念慮未嘗時餉歷息。煎熬形器起如冤讐。行坐則思想。偃臥則魂夢。以耽淫之利欲。役老朽之筋骸。餐飯既耗齒髮已弊。猶拔白餌藥以從其事。外以夸人內以欺己。曾不知息陰休影捐慮安神。求須臾之暇。以至溘焉而盡。親友不翅如行路。利養悉委之他人。愧負積於神明。辱殆流於後嗣。淫渝汗漫不能自止。斯皆自心而發。不可不制以道術。道術之妙莫有及此。佛經之說益以神聖。然其歸趣悉臻無有。僧事千百不可梗槩。各言宗教自相矛盾。故褐衣圓頂未必皆是。若予者洗心於是逾三十載。適師之徒有審虔者。以師之圖形。自大溈來。知予學佛求為讚說。觀其圖狀。果前所謂鴻庬絕特之度者也。既與其贊。則又欲碑師之道於精廬之前。予笑而諾之。遂因其說以自警觸。故其立言不專以褒大溈之事云。
○(詔修天下祖塔未經賜號諡者所在以聞太常考行頒賜)。
(三十 乙亥) ○(勅法師辨章為三教首座)是年潭州道林沙門疏言。詣太原府訪求藏經。高士李節餞以序曰。業儒之人喜排釋氏。其論必曰。禹湯文武周公孔子之代。皆無有釋。釋氏之興。襄亂之所奉也。宜一掃絕剗革之使不得滋。釋氏源於漢。流於晉。瀰漫於宋魏齊梁陳隋唐。孝和聖真之間。論者之言粗矣。抑能知其然。未知其所然也。吾請言之。昔有一夫。膚腯而色凝。氣烈而神清。未嘗謁醫。未嘗禱鬼。恬然保順。罔有札瘥之患。固善也。即一夫不幸而有寒暑風濕之痾。背癃而足躄。耳瞶而目瞑。於是功熨之術用焉。禳禬之事紛焉。是二夫豈特相反耶。蓋病與不病勢異耳。嗟乎三代之前世康矣。三代之季世病矣。三代之前禹湯文武德義播之。周公孔子典教持之。道風雖衰漸漬猶存。詐不勝信惡知避善。於是有擊壤之歌。由庚之詩人人而樂也。三代之季道風大衰。力詐以覆信。扇澆而散樸。善以柔退。惡以強用。廢井田則豪窶相乘矣。貪封略則攻戰亟用矣。務實帑則聚斂之臣升矣。務勝下則掊剋之吏貴矣。上所以御其下者欺之。下所以奉其上者苟之。上下相仇激為怨俗。於是有汩羅之客。有負石之夫。人人愁怨也。夫釋氏之教以清淨恬虛為禪定。以柔謙退讓為忍辱。故怨爭可得而息也。以菲薄勤苦為修行。以窮達壽夭為因果。故陋賤可得而安也。故其喻云。必煩惱乃見佛性。則本衰代之風激之也。夫衰代之風舉無可樂者也。不有釋氏以救之。尚安所寄其心乎。論者不責衰代之俗。而尤釋氏之興。則是抱疾之夫。而責其醫禱攻療者也。徒知釋因衰代之興。不知衰代須釋氏之救也。何以言之耶。夫俗既病矣。人既愁矣。不有釋氏使安其分。勇者將奮而思鬪。智者將靜而思謀。則阡陌之人將紛紛而群起矣。今釋氏一歸之分而不責於人。故賢智俊朗之士皆息心焉。其不達此者愚人也。惟上所役焉。故罹衰亂之俗。可得而安賴此也。若之何而剪去之哉。論者不思釋氏扶世助化之大益。而疾其雕鎪綵繪之小費。吾故曰。能知其然。不知其所以然者也。會昌季年武宗大剪釋氏巾其徒。且數萬之民隷具其居。容貌於土木者沈諸水。言詞於紙素者烈諸火。分命御史。乘驛走天下。察敢隱匿者罪之。由是天下名祠珍宇。毀撤如掃。天子建號之初。雪釋氏之不可廢也。詔徐復之。而自湖以南。遠人畏法。不能酌朝廷之體。前時焚撤書像殆無遺者。故雖明命復許制立。莫能得其書。道林寺湖西之勝游也。有釋疏言。警辨有謀。獨曰。太原府國家舊都多釋祠。我聞其帥司空范陽公天下仁人。我弟往來購釋氏遺文。以惠湘川之人。宜其聽我而助成之矣。即辭而北游。既上謁軍門。范陽公果諾之。因四求散逸不成蘊秩者。至釋祠不見毀而副剩者又命講匃以補繕闕漏者月未幾。凡得釋經五千四十八卷。以大中十年秋八月。輦自河東而歸於湘焉。嘻釋氏之助世。既言之矣。向非我君洞鑒理源。其何能復立之耶。既立之。且亡其書。非有疏言遠識而誠堅。孰克弘之耶。吾喜疏言奉君之令演釋之宗。不憚寒暑之勤。德及遠人。為敘其事且贈以詩。詩曰。湘水狺狺兮俗獷且很。利殺業偷兮吏莫之馴。繄釋氏兮易暴使仁。釋何在兮釋在斯文。湘水滔滔兮四望何已。猿狖騰拏兮雲樹靡靡。月沈浦兮烟冥山。檣席卷兮櫓床閑。偃仰兮嘯詠。鼓長波兮何時還。湘川超忽兮落日晼晼。松覆秋庭兮蘭被春畹。上人去兮幾千里。何日同游兮湘川水。
(卅一 戊寅) 詔羅浮軒轅先生。左拾遺王譜等上疏諫之。詔答曰。朕以躬親庶務萬機事繁。訪聞羅浮處士軒轅集善能攝生年齡不老。乃遣使迎之。冀其有少保理也。朕每觀前史。見秦皇漢武之事。常以之為戒。卿等職在諫司。閱示來章深納誠意。復謂宰相曰。為吾諭於諫官。雖少翁欒大復生。亦不能相惑。第聞軒轅生高士。欲與一言耳。未幾軒轅集至。帝問曰。先生遐壽而長年可致否。對曰。屏聲色去滋味。一哀樂廣惠澤。則與天地合體日月齊明。是為長年。不假外求也。帝敬重之。
(己卯) ○(韋寅於洪州剏觀音寺。躬請仰山惠寂禪師開山住持。今為官講)。
八月帝崩。年五十矣。帝性明叡。用法無私。恭謹節儉惠愛民物。從諫如流。天下稱為小太宗。每宰相奏事畢。忽恬然曰。可以間語。因問閭閻細事。或譚宮中游宴一刻許。復正容曰。卿等善為之。常恐卿輩負朕。後日難相見乃起入宮。令狐綯嘗謂人曰。吾十年秉政最承恩遇。然每於延英奏事。未嘗不汗霑衣也。
舊唐史贊曰。臣聞黎老言大中故事。獻文皇帝器識深遠。久歷艱難備知人間疾苦。自寶歷已來。中人擅權事多假借。京師豪右大擾窮民。洎大中臨御。一之日權豪斂迹。二之日姦臣畏法。三之日閽寺讋氣。由是刑政不濫賢能效用。百揆四嶽穆若清風。十餘年間頒聲載路。帝宮中衣澣濯之衣。常膳不過數器。非母后侑膳。輒不舉樂。歲或小飢憂形于色。雖左右近習。未嘗見怠墮之容。與群臣言。儼然煦接如對賓僚。或有所陳聞虛襟聽納。故事人主行幸。黃門先以龍腦欝金籍地。獻文悉命去之。宮人有疾醫視之。既瘳即抽金賜之。誡曰。勿令勅使知。謂朕私於侍者。其恭儉好善類如此。季年風毒。召羅浮山人軒轅集。訪以治身之要。集亦有道之士也。未嘗輒語詭異。帝益重之。及堅謂還山。帝曰。先生捨我亟去。國有災者。朕有天下竟得幾年。集索筆橫書四十而去。乃十四年也。興替宜運其若是與。而帝道皇猷始終無闕。雖漢之文景不足過也。惜乎簡籍遺落。舊事十無三四。吮墨揮翰有所慊然。
資治通鑑曰。宣宗少歷艱難。長年踐祚。人之情偽靡不周知。盡心民事精勤治道。賞簡而當。罰嚴而必。故方內樂業。殊俗順軌。求之漢世。其孝宣之流亞歟。
論曰。唐新舊史唯宣宗朝事實相反特甚。唯舊史與資治通鑑皆合。新史貶之。謂宣宗以察為明。無復仁恩之意。嗚呼斯言莫知何謂也。大凡人君寬厚長者。必責以優游無斷。至於精勤治道。則謂以察為明。然則從而可乎。孟子曰。盡信書不如無書。蓋誠然也。
(卅二) 補怛洛伽山。觀音示現之地。有唐大中間。天竺僧來。即洞中燔盡十指。親覩妙相。與說妙法。授以七寶色石。靈跡始著。其後日本國僧惠鍔。自五臺得菩薩畫像。欲還本國。舟至洞輒不往。乃以像舍于土人張氏之門。張氏屢覩神異經捐所居為觀音院(昌國志云梁貞明二年始建寺)郡將聞之。遣慕賓迎其像。到城與民祈福。已而有僧名。即眾求嘉木扃戶刻之。彌月像成而僧不見。今之所設是也(史越王作重修寺記云)宋元豐三年。王舜封使三韓。至此黑風驟起巨龜負舟。向山禱告。大士現相舟穩。還朝以聞。朝廷頒金帛移寺建於梅嶺山之陽。賜額寶陀。祈禱雨暘輒應。迨今元朝。降香賜田重新寺宇。以福邦家永延帝祚。
佛祖歷代通載卷第十六
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十七
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
唐
(一 庚辰) 懿宗漼(宣宗長子。好聲樂遊宴。委政群僚。復迎佛骨而曰。生見之死無恨。年三十六崩。葬簡陵。在位十四年)改咸通。
(二 壬午) 杭州大慈山寰中禪師。蒲坂人也。姓盧氏。頂骨圓聳其聲如鐘。出家於并州童子寺。受心印於百丈禪師。結茅於南岳。一日南泉至。問如何是庵中主。師云。蒼天蒼天。泉云。蒼天且置。如何是庵中主。師云。會即便會。莫忉忉。泉拂袖而出。趙州問。般若以何為體。師云。般若以何為體。趙州大笑而出。師明日見趙州掃地問。般若以何為體。趙州置菷拊掌大笑。師便歸方丈。師後住浙江大慈山。上堂示眾云。山僧不解答話。只能識病。又云。說得一丈不如行取一尺。說得一尺不如行取一寸。問道者眾。山素缺水。師擬飛錫。夜夢神人告之曰。勿他之。詰朝見二虎以爪跑地。泉自涌出。味甘如飴。有僧自岳至。乃曰。童子泉涸矣。移來在此。故東坡題詩云。亭亭石塔東岡上。此老初來百神仰。虎移泉眼趁行脚。龍作浪花供撫掌。至今遊人灌濯罷。臥聽空階環玦響。故知此老如此泉。莫作人間去來想。咸通三年二月十五日不疾而逝。壽八十三。臘五十四。僖宗諡性空大師定慧之塔。
(三 癸未) 制署法師知玄。為悟達國師。總教門事。
(乙酉) 朗州德山宣鑑禪師。劍南人。姓周氏。博貫三藏。嘗講金剛經。時以周金剛名之。俄慨然曰。窮諸玄辯。若一毫置於太虛。竭世樞機。似一滴投於巨浸。學與無學吾知之矣。乃盡棄其習謁龍潭信禪師。問久嚮龍潭。及到來潭又不見龍亦不現。信曰。子親到龍潭。是夕師立侍更深。信曰。何不下去。師曰。暗。信點紙燭與師。師接得信即吹滅。師豁然大悟曰。今後更不疑天下老和尚舌頭也。即日便辭。信語其徒曰。可中有箇漢。牙如劍樹口似血盆。一棒打不回頭。他時向孤峰上立吾道去在。師居澧陽。垂三十年。大中初武陵太守薛延望剏德山精舍。延請居之。大闡宗風。上堂示眾云。於已無事則勿妄求。妄求而得。亦非得也。汝但無心於事。無事於心。則虛而靈寂而妙。若毛端許言之本末者。皆為自欺。毫釐繫念三塗業因。瞥爾情生萬劫羈鎖。聖名凡號盡是虛聲。殊相劣形皆為幻色。汝欲求之得無累乎。及其厭之又成大患。終而無益。僧問。如何是菩提。師打云。出去。莫向這裏屙。如何是佛。師云。佛是西天老比丘。雪峯問。從上宗乘以何法示人。師云。我宗無語句。亦無一法與人。至是將終。謂眾曰。捫空追響勞汝心神。夢覺覺非竟有何事。言訖端坐而逝。閱世八十有六。臘六十有五。時咸通六年十二月三日也。勅諡見性大師(具傳燈)。
(四 丙戌) 鎮州臨濟義玄禪師。曹州南華人。姓邢氏。參黃蘗運禪師。問如何是佛法的的大意。聲未絕運便打。如是三度致問三度被打。遂辭下山。運指往高安大愚處去。師至大愚。問黃蘗近日有何言句。師曰。某甲三度問佛法的的大意三度被打。不知有過無過。愚云。黃蘗恁麼老婆心。更問有過無過。師於是大悟云。元來黃蘗佛法無多子。愚搊住曰。尿床鬼子。適來問有過無過。而今却道黃蘗佛法無多子。汝見箇甚麼。師於大愚肋下築三拳。愚托開云。汝師黃蘗非干我事。師由是再回黃蘗師資契會。大機大用卓冠一時。後還鄉徇趙人之請。住子城南臨濟禪苑。學徒奔湊。師示眾曰。赤肉團上有一無位真人。常從女等諸人面門出入。未證據者看。時有僧。問如何是無位真人。師下禪床搊住云。道道。其僧擬議。師托開云。無位真人是什麼乾屎橛。師問樂普云。從上來一人行棒一人行喝。阿那个親。對曰。總不親。師曰。親處作麼生。普便喝師乃打。師問木口和上。如何是露地白牛。木口曰吽。師曰啞。木口曰。老兄作麼生。師曰。遮畜生。大覺到參。師舉拂子。大覺敷坐具。師擲下拂子。大覺收坐具入僧堂。眾僧曰。遮莫是和上親故。不禮拜又不喫棒。師聞令喚新到僧。大覺遂出。師曰。大眾道汝未參長老。大覺云。不審。便自歸眾。麻谷到參敷坐具。問十二面觀音阿那面正。師下繩床。一手收坐具一手搊麻谷云。十二面觀音向什麼處去也。麻谷轉身擬坐繩床。師拈拄杖打。麻谷接却相捉入方丈。師上堂云。大眾夫為法者不避喪身失命。我於黃蘗和上處三度喫棒。如蒿枝拂相似。如今更思一頓喫。誰為我下得手。時有僧曰。某甲下得手。和上合喫多少。師與拄杖。其僧擬接。師便打。僧問。如何是第一句。師曰。三要印開朱點窄。未容擬議主賓分。曰如何是第二句。師曰。妙解豈容無著問。漚和爭負截流機。曰如何是第三句。師曰。看取棚頭弄傀儡。抽牽全藉裹頭人。師又曰。夫一句語須具三玄門。一玄門須具三要。有權有用。汝等諸人作麼生會。師唐咸通七年丙戌四月十日將示滅。乃說傳法偈曰。沿流不止問如何。真照無邊說似他。離相離名如不稟。吹毛用了急須磨。偈畢坐逝。勅諡慧照大師。塔曰澄靈(具如傳燈)。
(五 戊子) 湖南長沙景岑禪師。號招賢。初住鹿苑。其後居無定所。但徇緣接物。嘗示眾曰。我若一向舉揚宗教。法堂裏須草深一丈。我不得已向女諸人道。盡十方世界是沙門眼。盡十方世界是沙門全身。盡十方世界是自己光明。盡十方世界在自己光明裏。盡十方世界無一人不是自己。我常向女道。三世諸佛共十方法界眾生是摩訶般若光。光未發時。女諸人向什麼處委。光未發時。尚無佛無眾生消息。何處有山河國土來。時有僧問。如何是沙門眼。師云。長長出不得。又云。成佛成祖出不得。六道輪回出不得。僧云。未審出箇什麼不得。師云。晝見日夜見星僧云。學人不會。師乃云。妙高山色青又青。僧云。如何是佛。師云。眾生色身是。僧云。河沙諸佛體皆同。如何有種種名字。師云。從眼根返源名為文殊。耳根返源名為觀音。從心返源名為普賢。文殊是佛妙觀察智。觀音是佛無緣大悲。普賢是佛無為妙行。三聖是佛之妙用。佛是三聖之真體。用則有河沙假名。體則總名一薄伽梵。僧云。色即是空空即是色。此理如何。師偈云。礙處非牆壁。通處勿虛空。若人如是解。心色本來同。問如何是佛性。師偈云。佛性堂堂顯現。住相有情難見。苦悟眾生無我。我面何殊佛面。問如何是上上人行履處。師云。如死人眼。問上上人相見時如何。師云。如死人手。問善財無量劫來為什麼游普賢身中世界不遍。師云。女從無量劫來還曾遊得遍不。問如何是普賢身。師云。含元殿裏更問長安。問亡僧向什麼處去。師有偈云。不識金剛體。却喚作生緣。十方真寂滅。誰在復誰行。師因臨濟示眾赤肉團上有一無位真人。乃有偈曰。萬法一如不用揀。一如誰揀誰不揀。即今生死本菩提。三世如來同箇眼。仰山問。人人盡有這箇事。只是用不得。師云。恰是請女用。伸云。作麼生用。師乃踏倒仰山。山曰。直下似箇大虫。世因名岑大虫。
(六 己丑) 洞山良价禪師示寂。師會稽人。姓俞氏。幼出家。年二十一往嵩嶽受具。者謁南泉值馬祖忌日設齋。泉問眾曰。今日設齋。未審馬祖還來否。眾無對。師乃出對曰。待有伴即來。泉聞之讚曰。此子雖後生却堪雕琢。師曰。和上莫壓良為賤。次謁溈山問曰。頃聞忠國師有無情說法。良价未究其微。溈曰。我這裏亦有。只是難得其人。曰便請和上道。溈曰。父母所生口終不敢道。曰還有與和上同時慕道者不。溈曰。此去石室相連。有雲巖道人。若能撥草瞻風。必為子之所重。師到雲巖問。無情說法什麼人得聞。巖曰。無情說法無情得聞。曰和上還聞不。巖曰。我若聞。女即不得聞吾說法也。曰若恁麼。即良价不聞和上說法。巖曰。我說女尚不聞。何況無情說法耶。師乃述偈曰。也大奇也大奇。無情說法不思議。若將耳聽終難會。眼處聞聲方始知。遂辭。雲巖問。什麼處去。曰雖離和上未卜所止。巖曰。早晚却來。曰待和上有住處即來。巖曰。自此一去難得相見。師曰。難得不相見。又問巖曰。和上百年後。忽有人問還邈得師真如何抵對。巖曰。但向伊道。即這是。師良久。巖曰。承當這箇事大須細審。師猶涉疑。後因過水覩影大悟前旨。因有偈曰。切忌從他覓。迢迢與我疎。我今獨自往。處處得逢渠。渠今正是我。我今不是渠。應須恁麼會。方得契如如。大中末於新豐山接誘學徒。其後盛化於高安之洞山。嘗因雲巖忌日修齋。僧問。和上見南泉發跡。為什麼與雲巖設齋。曰我不重先師道德。亦不為佛法。只重不為我說破。又僧問。和上還肯先師也無。曰半肯半不肯。曰為什麼不全肯。曰若全肯即孤負先師也。師謂眾曰。知有佛向上人方有語話分。時有僧問。如何是佛向上人。師曰。非常。師問僧。世間何物最苦。僧曰。地獄最苦。師曰。不然。在此衣線下不明大事最苦。師問僧。名什麼。曰某甲。師曰。阿那箇是女主人公。曰見秖對次。師曰。苦哉苦哉。今時人例皆如此。只是認得驢前馬後將為自己。佛法平沈此之是也。客中辯主尚未分明如何辯得主中主。僧云。如何是主中主。師云。闍黎自道取。曰某甲道得即是客中主。如何是主中主。師曰。恁麼道即易。相續也大難。師將示寂。謂眾曰。吾有閑名在。誰為吾除得。眾皆無對。有沙彌曰。請和上法號。師曰。吾閑名已謝。問和上違和。還有不病者不。曰有。僧曰。不病者還看和上不。曰老僧看他有分。曰和上爭得看他。師曰。老僧看他時不見有病。又曰。離此殼漏子向什麼處與吾相見。眾無對。遂剃髮披衣令撞鐘湛然而寂。時學徒千餘人。號慟移時。師忽開眸曰。夫出家人心不附物是真修行。勞生息死於悲何有。乃召主事僧令辨愚癡齋一中。蓋責其徒戀情也。至七日食具方備。師隨眾齋畢。復謂眾曰。僧家無事。大率臨行之際勿須諠動。明日浴罷端坐長往。壽六十三。臘四十二。諡悟本禪師。塔曰寂覺。
(七) 是歲五月。帝幸安國寺。賜國師知玄寶座。高二丈。材用沈香塗髤。縷龍鳳葩蒍金鈿之。上施復座陳經几其前。四隅立瑞鳥神人。高數赤。磴道以陞。前被繡囊錦襜。珍麗絕甚。時宮中日齋萬僧。帝自為贊唄。宰相蕭倣諫以為天竺法割愛取滅非帝王躬踐。今筆梵言口梵音。不若徵謬賞濫罰振殃祈福。況佛者可以悟取。不可以相求。懿宗雖不納然嘉美其言。玄姓陳氏。世號陳菩薩。三學洞貫名蓋一時。異跡尤多。及僖宗避巢賊幸城都。遣御史郭遵齎璽書徵赴行在。帝素重其名。引對大悅。賜號悟達國師。留行宮久之。辭歸九隴。忽定中見菩薩降其室。摩玄頂演深妙音而慰安之。言訖即隱。俄一珠入玄左股。隆起楚甚。上有晃錯二字。玄知夙債也。即右脇安臥而逝。著述凡二十餘萬言。行於世。弟子僧徹。徹弟子覺暉。俱有重名。三世為僧統。或謂玄前身蓋漢川三學山知鉉法師。鉉在世嘗講十地品。感地變金色。及終感病。與玄絕類。
(八 庚寅) 咸通十一年相國裴休薨。休字公美。孟州人。兒時與兄弟偕隱。晝講經夜著書。終年不出戶。有饋鹿者。諸生薦之。休不食曰。蔬食猶不足。今一啗肉後何以繼。擢進士第累更內任。嘗出刺洪州。一日入龍興寺觀壁畫。歎曰。容儀可觀。高僧何在。時有數僧對不愜。休曰。此間莫有禪者麼。僧云。近一僧至似禪者。休命召。乃黃蘗運禪師。時未顯名。休以前問扣之。運高聲曰。裴休。休應諾。運曰。在什麼處。休豁然從此契入。遂迎入府第旦夕問法。及移鎮宛陵。亦命與俱。由是深徹法源。復與圭峯密禪師道緣尤密。大中時執政六年。次歷諸鎮節度。薨年七十有四。休能文章。書揩遒媚有體法。為人醞藉。操守嚴正進止雍閑。宣宗嘗曰。休真儒者。居常不御酒肉。著釋氏文數萬言。其圭峰禪源諸詮序曰。禪師集禪源諸詮為禪藏而都序之。休曰。未嘗有也。自如來現世隨機立教。菩薩間生隨病指藥。故一代時教。開深淺之三門。一真如心。演性相之別法。馬龍二士。皆弘調御之說。而空性異宗。能秀二師俱傳達磨之心。而頓漸殊稟。天台專依三觀。牛頭無有一法。江西舉體全真。荷澤直指知見。其他空有相破真妄相攻。反奪順取密指顯說。故西域中夏其宗實繁。良以病有千源藥生多品。投機隨器不得一同。雖俱為證悟之門。盡是正真之道。然諸宗門下通少局多。故數十年來師法益壞。以承稟為門戶。各自開張。以經論為戈矛。互相攻擊。情隨函矢而遷變。法逐人我以高低。是非紛拏莫能辨析。則向者世尊菩薩諸方教宗。適足以起諍後人增煩惱病。何利益之有哉。圭峯禪師久而歎曰。予丁此時不可默矣。於是以如來三種教義。印禪宗三種法門。融瓶槃釵釧為一金。攪酥酪醍醐為一味。振綱領而舉者皆順。據會要而來者同趨。尚恐學者之難明也。又復直示宗源之本末。真妄之和合。空性之隱顯。法義之差殊。頓漸之同異。遮表之回互。權實之淺深。通局之是非。莫不提耳而告之。指掌而示之。嚬呻以吼之。柔和以誘之。乳而藥之。恐性命之夭殤也。保而護之。念水火之漂焚也。揮而散之。悲鬪諍之牢固也。大明不能破長夜之昏。慈父不能保身後之子。若吾師者。捧佛日而委曲回照。疑曀盡除。順佛心而橫亘大悲。窮劫蒙益。是則世尊為闡教之主。吾師為會教之人。本末相符遠近相照。可謂畢一代時教之能事矣。或曰。自如來滅後。未嘗大都而通之。今一旦違宗趣而不守。廢關防而不據。無乃乖祕藏密契之道乎。答曰。佛於法華經涅槃會上。亦以融為一味。但昧者不覺。故涅槃經云。迦葉菩薩曰。諸佛有露語而無密藏。世尊讚歎曰。如來之言開發顯露清淨無翳。愚人不解謂之祕藏。智者了達則不名藏。此其證也。故王道興則外戶不閉而守在夷狄。佛道備則諸法總持而防在外魔。不當復執情攘臂於其間也。嗚呼後學當取信於佛。無取信於人。當取證於本法。無取證於末習。能如是則可以報圭峯之劬勞德矣。
(九 癸巳) 咸通十四年三月庚午。詔兩街僧於鳳翔法門寺迎佛骨。於是以金銀為剎珠玉為帳。孔鷸周飾之。小者尋丈。高者倍之。刻檀為簷柱。陛墄塗黃金。每一剎數百人舉之。香輿前後係道。綴玉琴瑟幡蓋殊綵以為幢旌。費不貲。限以四月八日至京師。綵觀夾道。天子御安福門樓迎拜。引入內道場。三日後出京城諸寺。詔賜兩街僧金帛。京師耆老及見元和事者悉厚賜。所過鄉聚皆裒土為剎。相望於途光景晝見。京城高貲相與集大衢。作僧臺縵闕。注水銀為池。金玉為樹。集桑門羅像設。考鼓鳴螺繼日夜。下詔曰。朕以寡德纘承洪業十有四年。頃值寇興王師未息。朕憂勤在位愛育生靈。遂尊崇釋教至重玄門。迎請真身為百姓祈福。今人陷之眾隘塞路岐。載念狴牢寢興在慮。嗟我黎人陷于刑辟。況漸當暑毒繫於縲絏。京畿及天下諸州府見禁囚。遞減死一等。明年四月詔送佛骨歸于鳳翔。都人耆耋辭餞皆鳴咽流涕。
新史贊曰。人之惑怪神也甚哉。若佛者特西域一槁人耳。裸頂露足。以乞食自資。癯辱其身。屏營山樊。行一概之苦。本無求於人。徒屬稍稍從之。然其言荒茫漫靡夷幻變現。善推不驗無實之事。以鬼神死生貫為一條。據之不疑。掊嗜欲棄親屬。大抵與黃老相出入。至漢十四葉書入中國。蹟夫生人之情。以耳目不際為奇。以不可知為神。以物理之外為畏。以變化無方為聖。以生而死。死而復生。回復償報歆艶其間為或。然以賤近貴遠為喜。鞮譯差舛不可研詰。華人之譎誕者。又攘莊周列禦寇之說佐其高。層累架騰直出其表。以無上不可加為勝。妄相夸協而唱其風。於是自天子逮庶人。皆震動而奉祀之。初宰相王縉以緣業事佐代宗。始作內道場。晝夜梵唄冀禳寇戎。大作盂蘭肖祖宗像分供寺塔。為賤臣嘻笑。至憲宗遂迎佛骨於鳳翔。內之宮中。韓愈指言其弊。帝怒竄愈。瀕死。憲亦弗克天年幸福而禍。無乃左乎。懿宗不君精爽奪迷。復蹈前車而覆之。興哀無知之場。匃庇百解之胾。以死自誓無有顧籍。流涕拜伏。雖事宗廟上帝無以進焉。屈萬乘之貴。自等於古胡。數千載而遠以身為殉。嗚呼運痑祚殫。天告之矣。懿不三月而殂。唐德之不競。厥有來哉。
論曰。甚矣宋景文公詆毀吾先師之厚也。屢欲直其辭而為之解嘲。及得大顛對退之之論。李節贈疏言之敘。凡予所欲言者彼既言矣。故不別論。且憲懿二宗誠為崇奉太過。至於高祖沙汰三教。詔下而位移。武宗大滅釋氏。未逾歲而被禍。此亦不得不懼也。雖然真佛也者聖凡之大本也。體與太虛等遍。用與眾庶同功。無為而無所不為。無在而無所不在。然則心外見佛而過奉之者。非正見也。昧乎大本而故毀之者。即自毀也。景文斥其奉之之弊。而匿其毀之之失。豈良史之謂哉。
(十 甲午) 僖宗儼。懿第五子。十一即位。年二十七崩。葬靖陵。改乾符○(是歲并州民生子二頭四手○濮賊玉仙芝聚眾於長垣)。
(乙未) ○(高駢破南詔○玉仙芝作亂黃巢應之)。
(己亥) 是歲十一月兩日並出而鬪。
(庚子) 改廣明○(田令孜奉天子西走○巢賊入長安國號大齊建元金統○李克用奔達旦)。
(辛丑) 改中和(上自興元入蜀)○拓拔思恭以兵赴難以之權夏綏。
(西夏始此) 節度使。
(十一) 澧州夾山善會禪師。廣州峴亭人也。姓廖氏。九歲於潭州龍牙山出家。依年受戒。往江陵聽習經論該練三學。遂參禪會勵力參承。初住京口。一夕道吾策杖而至。遇師上堂。僧問。如何是法身。師曰。法身無相。曰如何是法眼。師曰。法眼無瑕。師又曰。目前無法。意在目前。不是目前法非耳目所到。道吾乃笑。師乃生疑問吾何笑。吾曰。和上一等出世未有師。可往浙中華亭縣參船子和上去。師曰。訪得獲否道吾曰。彼師上無片瓦遮頭。下無卓錐之地。師遂易服直詣華亭。會船子鼓櫂而至。資師道契微眹不留(語見船子章)師比欲遁世忘機。尋以學者交湊。廬室星布曉夕參依。唐咸通十一年庚寅。海眾卜于夾山遽成院宇。師上堂示眾曰。夫有祖以來。時人錯會相承至今。以佛祖句為人師範。如此却成狂人無智人去。他只指示汝無法本是道。道無一法無佛可成。無道可得無法可捨。故云。目前無法意在目前。他不是目前法。若向佛祖邊學。此人未有眼目。皆屬所依之法。不得自在。本只為生死茫茫識性無自由分。千里萬里求善知識。須有正眼永脫虛謬之見定取目前生死。為復實有。為復實無。若有人定得許女出頭。上根之人言下明道。中下根器波波浪走。何不向生死中定當取。何處更疑佛疑祖替汝生死。有智人笑女。偈曰。勞持生死法。唯向佛邊求。目前迷正理。撥火覓浮漚。僧問。從上立祖意教意。和上此間為什麼言無。師曰。三年不食飯。目前無飢人。曰既無飢人。某甲為什麼不悟。師曰。只為悟迷却闍黎。師說頌曰明明無悟法。悟法却迷人。長舒兩脚睡。無偽亦無真。僧問。如何是夾山境。師曰。猿抱子歸青嶂裏。鳥衘花落碧岩前。師再闢玄樞迨于一紀。唐中和元年辛丑十一月七日。召主事曰。吾與眾僧話道累歲。佛法深旨各應自知。吾今幻質時盡即去。女等善保護如吾在日。勿得雷同世人輒生惆悵。言訖至于夜奄然而逝。其月二十九日塔于本山。壽七十七。臘五十七。勅諡傳明大師。塔曰永濟。
(壬寅) ○(八月巢所署同州防禦使朱溫來降。賜名全忠)。
(癸卯) (四月李克用等與巢戰于渭橋。敗之。復京都)。
(甲辰) (七月李師悅追黃巢於狼虎谷。其甥林言斬巢首降)。
(乙巳) 光啟三月帝歸于京師○(十二月中宦田令孜討王重榮敗績帝奔于鳳翔。沙陀之兵入于京師。剽掠焚蕩。遂為兵墟焉。自是天下崩裂大亂)。
(十二 丁未) 是歲巖頭豁禪師示寂。師泉州人。姓柯氏。少落髮。抵長安受具。游講席習經律。次與雪峯欽山結伴優游禪苑。初造臨濟。值濟遷化見仰山才入門提起坐具云。和上。仰山擬取拂子舉之。師曰。不妨好手。次見德山執坐具上法堂瞻視。山曰。作什麼。師咄之。山曰。老僧罪過在什麼處。師曰。兩重公案。便下參堂。山曰。這箇阿師稍似箇行脚人。至來日上問訊。山曰。闍黎什麼處學得這箇虛頭來。師曰。全豁終不自謾。山曰。向後不得辜負老僧。雪峯在德山作飯頭。一日飯遲。德山托鉢至法堂上。峯曬飯巾次。見德山云。這老漢鐘未鳴鼓未響托鉢向什麼處去。德山便歸方丈。峯舉似師。師云。大小德山不會末後句。山聞差侍者喚師至方丈。問汝不肯老僧那。師密啟其意。德山至來日上堂。與尋常不同。師到僧堂前撫掌大笑云。且喜得老漢會末後句。他後天下人不柰何。雖然如此也只得三年。德山果三年後遷化。問古帆未掛時如何。答後園驢喫草。上堂謂眾曰。吾嘗究涅槃經見三段文。似衲僧說話。又曰。休休。有僧禮拜請益。師曰。經云。吾教意如伊字三點。第一向東方下一點。點開諸菩薩眼。第二向西方下一點。點諸菩薩命根。第三向上方下一點。點諸菩薩頂。此是第一段義。又曰。吾教意如摩醯首羅劈開面門竪亞一隻眼。此是第二段義。又曰。吾教意猶塗毒鼓擊一聲。遠近聞者皆喪。是第三段義。時小岩上座問。如何是塗毒鼓。師以兩手按膝亞身曰。韓信臨朝底。問浩浩塵中如何辯王。師曰。銅沙鑼裏滿盛油。問如何是道。師曰。破草鞋拋向湖裏著。或問佛問法問道問禪者。師皆作噓聲。嘗謂眾曰。老漢去時大吼一聲了去。其後中原盜起。眾皆辟地。師端居自如。一日賊大至。責以無供餽。遂剚刃焉。師神色不動。大叫一聲而終。壽六十有一。後唐追諡清嚴大師。有嗣法羅山。能世其高風云。
(十三 戊申) 改文德。三月帝崩。
(己酉) 昭宗曄。懿第七子。為君俊頴有興復志。而外患已成內無賢佐。雖有智勇而不能為。年三十八為朱全忠等弑于御幄。葬和陵。在位十六年。改龍紀。
(庚戌) 改大順○此下隨所在十三處覇(附唐末并五代年紀)。
雷氏曰。
西秦茂貞 茂貞號秦鳳翔三七
吳行蜜 揚吳淮南四主四六
吳越鏐 錢杭吳越五主八四
燕守光 守光僭燕一十九年
楚殷 馬楚湖南五主五七
蜀建 王建前蜀二主三五
荊季興 季興荊南五主五七
閩審知 王閩福建五主五五
南漢隱 南漢隱廣五主六七
蜀知祥 知祥後蜀二主四一
南唐昇 李唐江南三主三九
殷延改 延改號殷建州三年
東漢旻 東漢崇原四主二八
西秦茂貞(字正臣。本姓宋。名文通。深州博野人。祖鐸父端。皆隷博野軍為小校。廣明中破巢功大。僖幸興元。賜姓李氏名茂貞。明年天子歸宮。封鳳翔節度。進封隴西郡王。自此蠶食河西有山南十四州地。據鳳翔二十七年。同光二年卒矣)。
(十四) 是年仰山惠寂禪師示寂。韶州懷化人也。姓葉氏。年十五欲出家。父母不許。後二載師斷手二指。跪致父母前。誓求正法以答劬勞。遂依南華寺通禪師落髮。未登具即遊方。初謁耽源已悟玄旨。後參溈山遂升堂奧。祐問曰。女是有主沙彌無主沙彌。曰有主。曰在什麼處。師從西過東立。溈知是異人。便垂開示。師問。如何是真佛住處。溈曰。以思無思之妙。返思靈焰之無窮。思盡還源性相常住。事理不二真佛如如。師於言下頓悟。自此執侍十有五載。凡有言句皆為後世宗範。一日師問溈山曰。和上浮漚識近來寧未。溈山云。我無來經五年也。仰曰。若恁麼和上如今身前應普超三昧頂。溈山云。未在。仰曰。性地浮漚尚寧。然燈身前何故未。溈山云。理則如是。我未敢保任仰曰。如何是未敢保任處。溈山云。女莫口解脫。女豈不聞安秀二師被則天試。入水始知有長人。到這裏鐵佛也須汗出。寂子女大須修行。莫終日口密。及領眾住王莽山。一日禪床陷入地中。地神告以此山不任和上居止東南有大仰山乃人間福地。遂遷止仰山。示眾曰。女等諸人各自回光返照。莫記吾言。女無始劫來背明投暗。妄想根深卒難頓拔。所以假說方便奪女粗識。如將黃葉止啼。有什麼是處。亦如人將百種貨物與金寶作一鋪貨。賣柢擬輕重來機。所以道石頭是真金鋪。我這裏是雜貨鋪。有人來覓鼠糞。我亦拈與他。來覓真金。我亦拈與他。時有僧問。鼠糞即不要。請和上真金。師云。齧鏃擬開口。驢年亦未會。師云。索喚則有交易。不索喚則無。我若說禪宗。身邊要一人相伴亦無。豈況五百七百眾耶。我若東說西說。則爭頭向前採拾。如將空拳誑小兒。都無實處。我今分明向女說聖邊事。且莫將心湊泊。但向己性海如實而修。不要三明六通。何以故。此是聖末邊事。如今且要識心達本。但得其本不愁其末。他時後日自具去在。若未得本。縱饒將情學。他亦不得。豈不見溈山和上道。凡聖情盡體露真常。事理不二即如如佛。師因歸溈山省覲。祐問。子既稱善知識。爭辨得諸方來者知有不知有有師承無師承是義學是玄學。子試說看。師曰。惠寂有驗處。但見諸方僧來。便竪起拂子問伊。諸方還說這箇不說。又曰。這箇且置。諸方老宿意作麼生。祐嘆曰。此是從上宗門爪牙。祐問。大地眾生業識茫茫。無本可據。子作麼生知他有之與無。師曰。惠寂有驗處。時有一僧從面前過。師召云。闍黎。僧回首。師曰。和上這箇便是業識茫茫無本可據。祐曰。此是師子一滴乳。能散六斛驢乳。鄭愚相公問。不斷煩惱而入涅槃時如何。師竪起佛子。公云。入之一字不要亦得。師云。入之一字不為相公。師問雙峯。師弟近日見處如何。對曰。據某甲見處。實無一法可當情。師曰。汝解猶在境雙峯曰。某甲只如此。師兄如何。師曰。汝豈無能知無一法當情者。溈山聞云。寂子一句疑殺天下人。僧問。禪宗頓悟畢竟入門的意如何。師曰。此意極難。若是祖宗門下上根上智。一聞千悟得大總持此根人難得。其有根微智劣。所以古德道。若不安禪靜慮到這裏總須茫然。僧曰。除此格外。還別有方便令學人得入也無。師曰。別有別無令女心不安。汝是什麼處人。曰幽州人。曰女還思彼處不。曰常思。師曰。彼處樓臺林苑人馬駢闐。女反思思底還有許多般也無。曰某甲到這裏一切不見有。師曰。女解猶在境。信位即是。人位即未是。據女所解只得一玄。得坐披衣向後自看。溈山一日復問師曰。女向後記得人不。師曰。若記只記見解。溈曰。何以如此。師曰。西竺般若多羅讖二千年事。至時毫髮不移。曹溪亦讖身後有難。及至亦無爽。今時還得不。溈曰。此是行通。我是自宗通。亦是學禪未問六通。師曰。某謂見解宗通語絕滲漏屬語密。行解照用自辨清濁業屬意密。某未齊曹溪與般若多羅。不敢輒記。溈山深然之。先是師預示偈曰。吾年七十七老去是今日。任性自浮沈。兩手攀膝屈。至是兩手抱膝而逝。師之異迹及垂讖記。具存本山實錄。◎
(壬子) ◎改景福。
(甲寅) 改乾寧。
(丁巳) ○吳行密(字化源。姓楊氏。廬州合肥人。家世微賤。有膂力能舉千斤。日行三百里。為本州步健破巢功大。昭宗封淮南王。進封楚王。梁祖封吳王卒。是年始封。至梁祖二年。據廬州十二年。壽五十。四子渥據淮南)。
(十五) 乾寧四年趙州從諗禪師示寂閱歲一百二十。師曹州人。姓郝氏。落髮未具戒。便造南泉。泉一見深器之。一日問。如何是道。泉云。平常心是道。師曰。還可趣向不。曰擬向即乖。師曰。不擬如何知是道。泉云。道不屬知不屬不知。知是妄覺。不知是無記。若真達不疑之地。猶如太虛廓然虛豁。豈可強是非耶。師於言下大悟。自是周旋南泉之門。凡二十年。次遍歷諸方。後歸北地。眾請住趙州觀音古剎。示眾曰。如明珠在掌。胡來胡現。漢來漢現。老僧有時將一枝草作丈六金身用。有時把丈六金身作一枝草用。佛是煩惱。煩惱是佛。問曰。未審佛是誰家煩惱。師曰。與一切人煩惱。僧云。如何免得。師云。用免作麼。問師還入地獄不。答云。老僧末上入。僧云。大善知識為什麼却入地獄。師云。若不入阿誰教化女。真定帥王公携諸子入院。師坐而問曰。大王會麼。王云。不會。師云。自小持齋今已老。見人無力下禪床。王公加禮而去。一日示眾曰。金佛不度爐。木佛不度火。泥佛不度水。真佛屋裏坐。菩提涅槃真如佛性盡是貼體衣服。亦名煩惱。不問即無煩惱。且實際理地什麼處著得。一心不生萬法無咎。女但究理坐看三二十年。若不會道截取老僧頭去。夢幻空花何勞把捉。心若無異萬境一如。既不從外得。更拘執作什麼。如羊相似。拾物安向口裏。老僧見藥山和上道。有人問著便交合取狗口。老僧亦交合却口。師之玄言天下推為宗門妙唱云。
(戊午) 改光化○聖胄集成(華岳玄偉禪師。編次貞元已來宗師機緣。行于世)。
(庚申) 上與崔胤謀誅宦官(劉季述等。以禁軍劫天子。幽於少陽院。矯詔立太子即帝位)。
(辛酉) 改天復○(韓全誨等。劫帝幸鳳翔○是年進錢鏐爵越王)。
(十六) 雲居道膺禪師示寂。師幽州玉田人。參洞山价公契悟宗旨。价深可之曰。此子已後千萬人把不住。一日問曰。昔南泉問講彌勒下生經僧云。彌勒什麼時下。生僧曰。見在天宮。當來下生。南泉云。天上無彌勒。地下無彌勒。師問。只如天上無彌勒地下無彌勒。未審誰與安名。洞山直得禪床震動。乃曰。膺闍黎。及結庵於後洞。日感天厨奉供。洞山勉令隨方接人。遂登雲居。學徒奔湊。至一千五百眾。嘗示眾曰。古人云。地獄未是苦。若向此衣單下不明大事。却是最苦。女等既在這箇行流。十分去九不較多也。更著些子精彩。便是上座不屈平生行脚。不辜負叢林。古人道。欲得保任此事。須向高高峰頂立。深深海底行。方有些子氣力。汝若大事未辦。須履踐玄途。又曰。汝等師僧家。發言吐氣須有來由。凡問事須識好惡尊卑良賤。信口無益。傍家到處覓相似語言。所以尋常向兄弟道。莫怪不相似。恐同學太多去。第一莫將來。不相似。八十老人出場屋。不是小兒戲。一言參差千里萬里難為收攝。直至敲骨打髓。須有來由。言語如鉗夾鉤鎖相續不斷。始得頭頭上具物物上新。可不是精得妙底事。道女知有的人終不取次。十度擬發言。九度却休去。為什麼如此。恐怕無利益。體得的人心如臘月扇。口邊直得醭出。不是汝強為。任運如此。欲得恁麼事。須是恁麼人。既是恁麼人。何愁恁麼事。學佛邊事是錯用心。假饒解得千經萬論。講得天華落石點頭。亦不干自己事。況乎其餘有何用處。若將有限心識。作無限中用。如將方木逗圓孔。多少差訛。設使攢花簇錦事事及得盡一切事。亦只喚作了事人無過人。終不喚作尊貴。將知尊貴邊著得什麼物。不見從門入者非寶。捧上不成龍知麼。又曰。如好獵狗。只解尋有踪跡底。忽遇羚羊掛角。莫道跡氣亦不識。僧問。羚羊掛角時如何。師曰。六六三十六。曰不會。師云。不見道無蹤跡。一僧在房內看經。師隔窓問。闍黎念者是什麼經。對曰。維摩經。曰不問維摩經。念者是什麼經。其僧有省。師臨終前期五日。為眾開最後方便。序出世始末。眾皆愴然。至時端坐而化。後唐諡曰弘覺禪師。
(十六 甲子) 改天祐(正月朱全忠。奉天子遷洛陽。八月弑之。而立少子祝。年十二)。
(乙丑) 哀帝祝天祐二年○(彗竟天○昭第九子。朱全忠弑昭立帝。時年十三。軍國之政稟全忠。年十七歲。梁王使劉覇害焉。葬溫陵。諡景宗。在位三年)。
(丙寅) 濮王紃(昭之子。少帝遇鴆暴崩。梁王與百僚號慟。眾議即位。如周公故事。天祐四年禪位于梁。遇鴆而卒)右唐十九帝(不與武后)凡二百九十年(而朱溫篡之)。
五代
(十七) 敘曰。後梁朱氏篡唐。閱五朝八姓。十有三君。五十三載。歐陽文忠公泫春秋著為五代史。古所謂春秋作而亂臣賊子懼。然自秦漢而下。禍起蕭牆變生肘腋。君臣父子之際。所不忍願聞者。奚更不懼之多乎。予嘗以唐新舊本紀參校。粗見文忠師仰春秋。略例紀事褒貶之妙。非他史所及。因采數十端著新唐史本紀。略例一篇。及得五代史。閱其自發述作之意。與予言亦頗合。然舉春秋宗王之作裁正唐史可也。以之致虛名盛禮。而歆艶五代之君。不幾於枉設乎。朱全忠弑昭宗滅唐祚。雖王莽劉曜之惡。不足以比之。及其有國。父父子子。更相屠僇。不殊犬豕之死。正吾教善惡因果之効也。文忠篾視而不取。特假春秋峨巍位號朝儀。以賁之。卒無一辭深誅痛責。使世忠良閱之。曷以泄胸中之不平乎。荊國王文公嘗歎惜文公不脩晉書而脩五代史。予之言蓋文公歎惜之意也。至於李克用石敬瑭劉知遠。皆突厥沙陀夷狄之種。朱全忠郭威乃中國人。反不若三夷狄近人類也。郭威代漢及養子世宗。頗有聲。然議者概見而未知詳夫。
(十八 丁卯) 梁太祖溫。改開平○僖宗賜姓全忠。禪唐之後更名晃字匡聖。本宋州碭山午溝里人。父曰誠。以五經教之。果篡唐祚。年六十一。為子友珪弑矣。在位六年。都汴遷洛○雷氏曰(梁祖失溫庶人。末帝三主十七)。
○吳越鏐(字具美。姓錢氏。杭州臨安人。少無賴閑散。僖宗時為董昌偏將。以弩射死黃巢先鋒。斬首數百。巢不敢犯臨安。昌以為都指揮。昌亦叛。鏐以狀聞昭宗。昭以鏐為淅東招討使。既下昌。進封天下兵馬都元帥。至梁進封吳越王。後唐莊入洛。賜玉冊金印。因稱吳越王。壽八十一。立杭州。二十一年)○雷氏曰(錢杭吳越五主八四)。
燕守光(姓劉氏。深州樂壽人。父仁恭事幽州李可有大勛烈光亦如之。八月自號大燕皇帝。改元應天。立幽州十九年)○雷氏曰(守元僭燕一十九年)。
(十九 戊辰) 五月雪峯義存禪師示寂。師泉州人。姓曾氏。十七落髮。往幽州受具。綿歷禪會緣契德山。咸通中登象骨山。雪峯剏院玄侶奔萃。懿宗賜號真覺大師。上堂僧問。拈[袖-由+追]竪拂不當宗乘。和尚如何指示。師竪起拂子。其僧抱頭而出。師乃不顧。道怤問。只如古德豈不是以心傳心。師曰。兼不立文字語句。怤曰。只如不立文字語句。師如何傳。師良久。怤禮拜。師曰。更問我一轉豈不好。怤曰。就和上請一轉話頭。師曰。只恁麼唯別有商量。曰和上恁麼即得。長慶問。從上諸聖傳受一路。請師垂示。師默然。長慶禮拜而退。師莞爾而笑。師有時謂眾曰。堂堂密密地道。怤出問曰。是什麼堂堂密密。師起立曰。道什麼。怤退步而立。師垂語曰。此事得恁麼尊貴。得恁麼綿密。怤對曰。某甲到來數年不問和上恁麼示誨。師曰。我向前雖無如今已有。莫有妨麼。曰不敢。如此和上不已而已。師曰。致使我如此。怤從此信入。因普請次。師舉溈山見色便見心語問怤。還有過也無。怤曰。古人為什麼事。師曰。雖然如此要共女商量。曰恁麼即不如道。怤鋤地去又嘗普請次。師問皎然曰。古人道誰知席帽下元是昔愁人。古人意作麼生。皎然側戴笠子曰。這箇是什麼人語。又問曰。持經者能荷擔如來。然乃捧師向禪床上著。一日紹卿隨師經行次。見芋葉動。師指動葉示之。卿曰。某甲怕怖。師曰。是汝屋裏底怕怖什麼。紹卿從此開悟。安國弘瑫參師。師曰。甚處來。曰江西。師曰。什麼處見達磨。曰分明向和上道。師曰。道什麼。瑫曰。什麼處去來。一日師見瑫忽搊住云。盡大地是解脫門。把手教伊入不肯入。曰和上怪弘瑫不得。師曰。雖然如此爭柰背後許多師僧何。太原孚上座參師。禮拜訖立於座右。師才顧視。孚便下看主事。異日師見孚指日示之孚搖手而出。師曰。汝不肯我。孚曰。和上搖頭某甲擺尾。什麼處不肯和上。師曰。到處也須諱却。一日眾僧晚參。師在中底臥。孚曰。五州管內只有這和上較些子。師便起去。師居閩川四十餘年。法席之盛卓冠天下。常不下一千五百眾。臨終出遊藍田莫歸浴畢中夜示寂。壽八十有七。
(二十) 十一月玄沙師備禪師示寂。師少為漁家子。年甫三十。始出家具戒習頭陀行與雪峯師資道契。雪峯每歎曰。備頭陀再來人也。閱楞嚴經發明心地。由是應機敏捷。與修多羅冥契。諸方玄學者有所未決。必從之請益。師上堂時久。眾謂不說法。一時各歸。師乃呵之曰。看總是一樣底。無一箇有智慧但見我開兩片皮。盡來簇著。覓言語意度。是我真實為他却總不知。看恁麼大難大難。十方諸佛把女向頂上著。不敢錯誤著一分子。只道此事唯我能知。會麼。如今相紹繼盡道承釋迦。我道釋迦與我同參。汝道參阿誰。會麼。汝今欲得出他五蘊身田主宰。但識取汝祕密金剛體。古人向汝道。圓成正遍周沙界。我今少分為汝智者。可以譬喻得解。汝見此閻浮提日麼。世間人所作興營養身活命種種作業。莫非承他日光成立。只如日體還有多般及心行麼。還有不周遍處麼。欲識此金剛體亦如是。只如今山河大地十方國土色空明暗及汝身心。莫非盡承汝圓成威光所現。直是天人群生類所作業次受生果報有性無情。莫非承女威光。乃至諸佛成道果接物利生。莫非盡承女威光。只如金剛體。還有凡夫諸佛麼。有女心行麼。不可道無便當去。女既有如是奇特。會麼。努力珍重。師初住梅溪。後居玄沙。一時天下叢林海眾。皆望風欽服。閩帥王公待以師禮。學徒垂千人。室戶不閉。師應機接物垂二十年。所演法要有大錄行于世。沒年七十有五。閩帥賜號宗一禪師。
○楚殷(字覇圖。姓馬氏。許州鄢陵人。世為農家。事梁。征伐有功。封為楚王。至末帝貞明丙子。始建國立郡州。十四年。壽七十九)雷氏曰(馬楚湖南五主五七)。
蜀建(字光圖。姓王氏。許州武陽人。佐唐有功。封西平王。進封蜀王。遂有鼎分之志。昭宗遇弑。少帝禪梁。舉哭哀慟。文武勸進。遂立成都。號蜀。十二年卒。壽七十二。改武成)○雷氏曰(王建前蜀二主三五)。
荊季興(字貽孫。陝州硤石人。本名李昌。少為汴州李讓家童。梁祖初鎮宣武。讓入貲養為子。易姓朱氏。興因讓故得見梁祖。祖見奇之。亦命為子。因姓朱氏。後拜宋州刺史。破青州徙穎陽防禦。進封渤海王。復姓高氏。唐莊開蜀有功。封南平王。吳人冊之。立荊南二十年。壽五十四)○雷氏曰(季興荊南五主五七)。
吳渥(字承天。蜜長子。蜜病出鎮宣州。嗣立淮南一年。壽二十三。為溫灝殺之○隆演。字鴻源。蜜次子。溫灝殺渥。演遂即位。十二年改年武元。壽二十四卒。弟溥又立)。
閩審知(字信通。姓王氏。光州固始人。兄朝唐封福州觀察。既卒。知代征伐有功。昭宗進封瑯琊王。至梁祖加拜為知書令。封閩王。遂立福建。十八年。壽六十四)雷氏曰(王閩福建五主五五)。
(廿一 庚午) 南岳山惟勁頭陀。集光化以來出世宗師機緣。為續寶林傳。
(辛未) 改乾化。
南漢隱(姓劉氏。上蔡人也。其祖安仁。後徙閩中。商賈南海。因家焉。父謙為廣州牙將。破巢為封州刺史。既卒。州人表隱代之事唐勛烈。昭宗封為南海王。天祐二年進封安南都護。三年封南平王。今梁又封南海王。後貞明三年卒。壽三十八)雷氏曰(南海隱廣五主六七)。
(壬申) 梁祖疾甚。郢王友珪。左遷菜州刺史。不行乃微行詣左龍虎統軍韓勍。謀入伏禁中。友珪僕夫馮廷鍔刺帝于寢殿。矯詔友珪權主軍國之務。發喪即帝位。初梁祖溫略地於宋亳間。偶與逆旅婦人野合而生。立未一年。友貞貶為庶人。改年元鳳。
(廿二 癸酉) 末帝友貞。一名瑱。溫第三子。聞友珪亂起兵討之。既殺友珪。命趙[((中-〡)@〡)/品]傳國寶。至汴迎王即位。更名鍠。且都汴。蓋祖地矣。唐使皇甫麟滅之。在位十年。復稱乾化。
(乙亥) 改貞明。
(丙子) 晉兵七萬來伐○遼主阿保機稱帝。立國號大。契丹改元天贊。遼之始也(中國簡冊所不載。遠夷草昧無可考。故其年代不可得而詳也。其父斡里。為夷離中。猶中國刺史主。生而拓落。多智雄健。有膽略好騎射。鐵厚一寸而洞之。夜寢則有光。左右莫不驚。諸部畏服之。有宋相安。至天祚為金滅之。治國十一年)。
(廿三) 明州奉化縣布袋和尚者。未詳氏族。自稱名契此。形裁腲脮蹙額皤腹。出語無定寢臥隨處。常以杖荷一布囊。凡供身之具盡貯囊中。入?肆聚落。見物則乞。或醯醢魚爼。才接入口。分少許投囊中。時號長汀子布袋師也。嘗雪中臥。雪不沾身。人以此奇之。或就人乞。其貨則售。示人吉凶必應期無忒。天將雨。即著濕草屨途中驟行。遇亢陽。即曳高齒木履。市橋上竪膝而眠。居民以此驗知。有一僧在師前行。師乃拊僧背一下。僧迴頭。師曰。乞我一文錢。曰道得即與汝一文。師放下布袋叉手而立。白鹿和上問。如何是布袋。師便放下布袋。又問。如何是布袋下事。師負之而去。先保福和上問。如何是佛法大意。師放下布袋叉手。保福曰。為只如此。為更有向上事。師負之而去。師在街衢立。有僧問。和上在遮裏作什麼。師曰。等箇人。曰來也來也(歸宗柔和上別云歸去來)師曰。女不是遮箇人。曰如何是遮箇人。師曰。乞我一文錢。師有歌曰。只箇心心心是佛。十方世界最靈物。縱橫妙用可憐生。一切不如心真實。騰騰自在無所為。閑閑究竟出家兒。若覩目前真大道。不見纖毫也大奇。萬法何殊心何異。何勞更用尋經義。心王本自絕多知。智者只明無學地。非聖非凡復若乎。不疆分別聖情孤。無價心珠本圓淨。凡是異相妄空呼。人能弘道道分明。無量清高稱道情。携錫若登故國路。莫愁諸處不聞聲。又有偈曰。一鉢千家飯。孤身萬里遊。青目覩人少。問路白雲頭。梁貞明二年丙子三月師將示滅。於嶽林寺東廊下端坐磐石而說偈曰。彌勒真彌勒。分身千百億。時時示時人。時人自不識。偈畢安然而化。其後他州有人見師亦負布袋而行。於是四眾競圖其像。今嶽林寺大殿東堂全身見存。
(丁丑) 漢龑(初名嵓隱之庶子。生于外舍。身長七尺。承父襲封南海王。是年建國。號越。二年更號漢。壽五十四卒。立三十一年。龑者蓋採周易飛龍在天之義爾)。
(戊寅) 蜀衍(字化源。建之第十一子。母曰徐賢妃。以寵得立為太子。建亡即位。荒淫自恣。委政宦者。改大光。立六年。唐郭崇韜伐之)。
(庚辰) 吳溥(蜜第四子。立不改號。治十七年。壽二十八。南唐昇滅之)。
(辛巳) 改龍德。
(癸未) 上聞李嗣源兵至。令皇甫麟殺己。嗣源兵入城國亡。
右朱梁二主共一十七年(晉李存勗滅之)。
(廿四) 後唐(姓李氏王土德。都汴洛起太原)雷氏曰(唐武克用莊明閔末四主十五)。
武皇帝克用(世號朱耶。出于突厥後。自號沙陀。以朱耶為姓。烈考朱耶赤心。以徐州功大。懿宗賜姓李氏。俾定天下。莊宗即位。天祐五年薨。葬陵雁門界)。
莊宗存勗(太祖嫡子。母曹后。帝英武善戰。滅梁代之。自梁祖二年立。至同光三年。四十三歲崩。葬河南雍陵)改同光。
(甲申) 朝廷封李茂貞為秦王○高季興為南平王。
(廿五) 魏府興化存獎禪師。詔入內庭。帝問禪要。御賜馬一疋。不慣墜馬傷足。至次年示疾。帝一日謂師曰。朕收大梁得一顆無價明珠。未有人酬價。師曰。請陛下珠看。帝以手展開幞頭脚。師曰。君王之寶誰敢酬價。師化後。勅諡廣濟大師。塔曰通濟。師嘗問僧。什麼處來。曰崔禪處來。師曰。將得崔禪喝來否。曰不將得來。師曰。恁麼即不從崔禪來。僧便喝。師遂打。師示眾曰。我只聞長廊下也喝。後架裏也喝。諸子汝莫盲喝亂喝。直饒喝得興化向半天裏。住却撲下來氣欲絕。待興化蘇息起來。向汝道未在。何故。我未曾向紫羅帳裏撒真珠與汝諸人。虛空裏亂喝作什麼。師勘克賓。語具傳燈。
(乙酉) 朝廷遣周德威執劉守光至雁門(令存霸刺心血祭祖已斬之于市)。
吳溥(於石頭城上。建清涼寺。請悟空住持)。
前蜀(改咸康來降。勅孟知祥鎮蜀。前蜀二主。共三十五年)。
錢鏐封吳越國王(仍請署群臣百官詔許之)。
閩延翰(字子逸。審知長子。同光四年莊宗遇弑。建國稱王。稟唐正朔。立一年)。
(廿六 丙戌) 改天成。明宗嗣源立(世本夷狄無姓。父電為雁門步將生子邈佶烈。太祖克用養為子。姓李名嗣源。初帝至鄴都。軍俄大譟曰。請令公帝河北石敬瑭康義誠勸進嗣源。乃令安重誨移激會兵。軍勢大盛。嗣源據大梁。時從馬直都指麾。使郭從謙。不知睦王存人已死。欲奉之作亂莊宗中流失殂于絳霄殿廡下。善友斂廡下樂器。覆莊尸焚之。及嗣源即位。拾莊宗骨。石殯之。時年已六十矣。每夕宮中焚香告天。願早生聖人為生民主。在位八年。後為臣朱弘昭等殺之。葬徽陵)。
閩鏻(先名延鈴。審知次子。初延稟與鏻謀殺翰。稟推鏻立之。稟還建州。臨決別云。善繼先志。無煩老兄重來。至長興二年。與鏻擊不勝。為鏻殺之。鏻好事鬼神。道士劉守元以左道惑之。建寶皇后宮居焉。後帝為李倣殺之)改元天寶。
(丁亥) 遼主德光名耀屈之(姓劉氏。阿保機第二子。誕於大部落東牙帳。未時黑雲覆帳。火光照耀。有聲如雷。及長雄傑有大志。精騎射平奚渤海二國。治廿一年。於所居大部落。建天雄寺。有契丹太祖像存焉。大赦。改元天顯)。
(己丑) 荊從誨(字遵聖。興之長子。立二十一年。壽五十八)。
(庚寅) 改長興。秦王李茂貞入朝。去建國之制。
楚希聲(字若訥。殷次子。判內外諸軍事。殷卒。立之三年)。
(壬辰) 楚希範(字子矩。殷之第四子。兄弟十人。嫡子希振。最長仁賢其聲範同母而生。聲母袁氏。色美得寵而先立。振棄官為道士。聲卒絕立。改年應順。立十五年。壽四十九)。
孟知祥(是年封為蜀王)○初令雕九經印板(馮道監造)。
栴檀瑞像自下。二十一年復在江南。
(廿七) 福州長慶惠稜禪師示寂。杭之鹽官人。姓孫氏。幼歲稟性淳淡。年十三於蘇州通玄寺出家登戒。歷參禪肆。唐乾符五年入閩中。謁西院訪靈雲。尚有凝滯。乃之雪峯。因問。從上諸聖傳受一路。請垂指示。峯默然。師設禮而退。峯莞爾而笑。異日雪峯謂師曰。我尋常向師僧道。南山有一條鼈鼻蛇。汝諸人好看取。對曰。今日大有人喪身失命。峯然之。師入方丈參。雪峯曰。是什麼。師曰。今日天晴好普請。自此酬問未嘗爽於玄旨。乃述頌曰。萬象之中獨露身。唯人自肯乃方親。昔時謬向途中覓。今日看如火裏氷。師來往雪峯二十九載。至天祐三年。受泉州刺史王延彬請。住招慶。後閩帥請居長樂府之西院。奏額曰長慶。號超覺大師。上堂良久謂眾曰。還有人相悉麼。若不相悉欺謾兄弟去。只今有什麼事。莫要窒塞也無。復是誰家屋裏事。不肯當荷更待何時。若是利根參學。不到這裏來。會麼。如今有一般行脚人。耳裏總滿也假饒收拾底還當諸人行脚事麼。廣說具如傳燈錄。師兩處開法。徒眾一千五百。化行閩越二十七載。後唐長興三年壬辰五月十七日歸寂。壽七十有九。臘六十。
(癸巳) 吳越錢傳[璀-山+六](字文寶。錢鏐長子。從父征伐而有大功。為群臣請立九年)。
閩改龍啟。
閔帝存厚(明帝第六子。帝疾篤。秦王從榮作亂。孟漢瓊斬之。十一月詔徵宋王存厚。一名從厚。入權天雄軍府事。帝殂。祕喪六日。群臣自鄴迎之。即位于柩前。甲午改元應順。帝從朱弘昭等言。徙潞王存珂鎮河東王。不受命。命兵討之。王整眾而東。帝奔魏州至衛依刺史玉弘贄。潞王入謁。太后命王即位。廢閔為鄂王。遣弘贄子殿直。亦往鴆帝。帝不飲。巒縊殺之。後追諡閔帝。在位五月)。
(甲午) 四月改清泰。末帝存珂(明宗養子。本鎮州平山人。姓王氏。家世微賤。母曰魏氏。明宗為騎將。過平山掠得有子阿三。已年十餘歲。明養為己子。號存珂。長能騎射。封潞王。即位二年。為石敬瑭外結契丹主攻之。帝舉室自焚。壽五十一。在位二年)。
○蜀孟知祥(字寶胤。姓孟氏。荊州龍岡人。祖察秉昭義節旄。父巘磁州刺史。其母王氏。夢日月生于太原。後事唐封為蜀王。明宗崩。祥乃立國號蜀。改年明德。立一年。六月有疾。遂付于昶監國)。
(廿八) 是年二月功德司奏。每年帝誕節諸州府。奏薦僧尼欲立講經科禪定科持念科文章議論科以試其能不。帝從奏(出繫年錄)。
(乙未) 許王(明宗幼子。為契丹立之。不逾月王遇害)。
蜀昶(知祥第三子。初名贊。祥卒昶立。不改號。治三十一年○雷氏曰知祥後蜀二主四一)。
(廿九) 石晉(姓石氏王金德)雷氏曰(晉高敬瑭少帝丹主二姓三主一十一年)。
(丙申) 改天福高祖敬瑭(晉陽人。父臬捩雞。本出西夷。自朱耶歸唐。從居山陰。後隨克用征伐有功。官至洛州刺史。生帝。姓石。不知因。始明宗愛之。以女妻之。是為永寧公主。為太原節度。唐室既亂。末帝徙敬瑭鎮天平不行。命兵討之。石與桑維翰劉知遠等。假兵契丹。光破唐兵。緣先父事光。因乃滅唐。築檀柳林。即帝位。改長興。七年為天福元年。十月兵至。帝自焚。十一月敬瑭入洛陽。立八年崩。壽五十一。葬新安陵)。
閩昶(鏻之長子。名繼鵬。既立奉道。乃殺李倣。改元通文。立四年。為延羲子殺之)。
(丁酉) 晉歲用金帛三十萬遺大遼。
南唐昇(字正倫。徐州人。世本微賤。父榮唐亂不知所終。有姊出家為尼。出入徐溫宅。與溫妻李氏同姓。昇身長七尺。為人溫。厚滅吳溥而立之。年改昇元。壽五十六。據江南金陵)雷氏曰(李唐金陵三主三九)。
(戊戌) 蜀(改年廣政)○大遼(年改會同國號大遼)。
(庚子) 閩延曦(審知少子。既立鑄大錢。以一當十。因出醉還連重遇等使壯士馬上殺之。立四年。改元永隆。漢度民萬一千人為僧)。
(辛丑) 吳越王佐(字右。立[璀-山+六]之子。立七年。壽二十)。
(壬寅) 南漢玢(初名洪度。龔之子。耀樞龜圖皆早死。玢立二年。改元光天。後為道庠陳思潮等殺之)。
(癸卯) 南漢晟(初名洪熙。既殺玢自立。封思潮等為功臣。改元乾和。立二十年。酒太過卒。壽三十九)。
(甲辰) 改開運。少帝重貴(高祖猶子。祖有六子。皆亡。帝父敬儒祖之兄也。早卒。高祖養帝為子。故得立位。後三年為契丹主耶休德光長驅過河入汴攻之。帝出降封。負義侯送至和龍府。不知何年卒。在位三年)。
右晉二主凡十一年(而漢繼之)。
南唐璟(昇長子。立二十四年。改元保大。壽六十四)。
是年舊唐史成。劉喣撰。授司空平章事(并載佛祖異迹)。
(三十) 江南上元縣一民暴死。三日復甦。詣唐主具奏。入冥見先帝言。為宋齊丘所誤殺。和州降卒千餘人。冤訴仗汝。歸語嗣君。凡寺觀鳴鐘可延久其聲。吾受苦唯聞鐘則暫休。或能為造一鐘尤善。吾在位日甞以于闐國遺我玉天王像。藏於瓦棺寺佛左膝。人無知者。汝以此為驗。唐主遂詣瓦棺寺。佛膝得天王像。感泣造一鐘於清涼寺。鐫其上曰。薦烈祖考高皇帝。脫幽出厄。以玉像建塔。葬蔣山(出法范)。
殷延政(亦審知子。延曦湎淫虐政。數貽書諫之。曦怒遣杜建崇舉兵攻政。為政敗之。乃立建州。改國號殷。改年天德。止三年)雷氏曰(延政號殷建州三年)。
(卅一 乙巳) 契丹(怒帝不上表稱臣。乃大舉兵入。少帝迎於澶州)。
(丙午) 正月遼主德光入晉不一年(獲民皆黥其面祖威李守真宋彥筠降於契丹。張彥澤斬關而入。帝懼迎拜于門。契丹不禮。命左右執之。彥澤傳遼主書與太后慰撫之。降晉帝為負義侯安置黃龍府即慕容氏和龍城也。契丹御汴宮受朝賀。以國舅麻剌蕭翰留守汴。以天時向暑發大梁。自白馬渡河。盡驅百僚赴常山。至灤城得疾。至殺胡林卒。國人剖其腹實鹽。數斗載之。北晉人謂之帝羓)。
漢(姓劉氏王水德都汴)○雷氏曰(漢祖知遠隱帝承祐二主四年)。
(卅二 丁未) 高祖知遠。後更名暠(其先沙沱部人。移居太原。帝生於晉陽。業農。威重。後與敬瑭同侍明宗為偏將。及立石晉于太原。以帝為侍衛親軍都虞侯。少帝進封太原王。契丹臨京師。少帝被俘。乃圖義舉。二月即位於太原。自稱漢王。擁兵入於汴。殺許王與太妃兼晉。二年春卒。在位一年)乃晉開運四年也。
遼世宗立(諱阮番。名元欲。太祖孫。東丹王突欲之子。改元天祿。治五年)。
楚希廣(字德丕。範同母弟。既立。三年後為兄萼兵伐而縊)。
(戊申) 改乾祐○吳越倧(瓘子佐弟。立一年。為胡進思疑之。廢囚于義和院。迎俶立遷倧東府)。
(己酉) 隱帝承佑(高祖二弟。曰崇。曰信。崇子曰贇。皆仕宦也。高祖三子曰承訓。承佑。承勳。嫡子訓亡。諸子尚幼。以佑紹立信任倡優疎遠大臣。時年十八。時李業等狀申於廣政殿。因朝王章楊邠史弘肇。又使人殺郭威於鄴。威乃舉兵犯宮。帝出城南趙村。為伶人郭允明刺殺之。壽二十。就乾祐年號)。
吳越王俶(佐之弟。字文德。胡進思立之。在位三十年)。
荊保融(字德長。誨第三子。立十年。壽四十一歲)。
楚希萼(廣之兄。殺廣而立。明年隱帝崩。京師大亂。萼遂臣于李璟降封楚王。以軍政事任弟希崇。崇亦臣璟。璟使邊鎬入楚。遷馬氏于金陵)。
(卅三) 雲門文偃禪師示寂。師姑蘇嘉興人。姓張氏。初參睦州蹤禪師。州見來便閉却門。師三扣門。問誰。師云。某甲。州云。作什麼。師云。己事未明。乞師指示。州才開門。師拶入。州擒住云。速道速道。師擬議。州托開云。秦時?轢鑽。師從此悟入。州即指師見雪峯。師至雪峯莊。遇僧上山即教之云。汝到山頭見和上。上堂眾才集。便出握腕立地云。這老漢項上鐵枷。何不脫却。其僧如教致問。峯下座搊住云。速道速道。僧無對。峯云。適來不是爾語。僧云。是某甲語。峯云。侍者將繩棒來。僧云。某在莊上。見一浙中上座。教來恁麼問。峯云。大眾去莊上。迎取五百人善知識來。師上山才見雪峯。便問。因什麼得到與麼地。師乃低頭。從此契合。決擇久之。遍訪諸方。晚游廣中。靈樹知聖禪師久遲師來。比至亦率眾門迎。命居第一座。樹將終遺書囑廣主。請師繼踵住持。師上堂。僧問。如何是一代時教。師云。對一說。問如何是法眼。師云普。問如何是諸佛出身處。師云。東山水上行。問乞師指箇入路。師云。喫粥喫飯。問如何是透法身句。師云。北斗裏藏身。問如何是不掛唇吻一句。師云。合取狗口。問如何轉動即得不落階級。曰南斗七北斗八。師乃云。眼睫橫亘十方。眉毛上透乾坤。下透黃泉。須彌山塞却爾咽喉。還有會處麼。若會得拽取占波國與新羅國鬪額。又云。盡乾坤一時將來著女眼睫上。爾諸人聞恁麼道。不敢望爾出來性懆把老僧打一摑。且緩緩子細看。是有是無。是个什麼道理。直饒向這裏明得。若遇衲僧門下。好槌脚折。汝若是箇人聞說道什麼處有老宿出世。便驀面唾污我耳目。汝若不是箇脚手。才聞人舉便當荷得。早落第二機。又曰。直得觸目無滯。達得名身句身一切法空山河大地是名名亦不可得。喚作三昧性海俱備。猶是無風匝匝之波。直得忘知與覺覺即佛性矣。喚作無事人。更須知有向上一竅在。又曰。彈指謦咳揚眉瞬目。拈槌竪拂或作圓相。盡是撩鉤搭索。佛法二字未曾道著。道著即撒屎撒尿。又曰。光不透脫有兩般病。一切處不明面前有物是一。又透得一切法空。隱隱似有箇物相似。亦是光不透脫。又法身亦有兩般病。得到法身。為法執不忘己見猶存。坐在法身邊是一。直饒透得法身去。放過即不可。子細檢點來有什麼氣息。亦是病。又曰。直得乾坤大地無纖毫過患。猶是轉句。不見一色始是半提。直得如此。更須知有全提時節。師居靈樹久之遷韶陽雲門。廣主屢請入內問法。待以師禮。往來學徒不下千人。臨終以表辭廣主。垂戒學徒端坐而逝。遺命塔全身於方丈。後一十七年。至宋乾德三年。雄武軍節度推官院紹莊夢師。以拂子招之曰。為吾寄語秀華宮使特進李托。奏請開塔。吾久蔽塔中。宜令暫出。李得其語即以奏聞。尋有旨。令韶州刺史同詣雲門開塔。果見師真容如生。髭髮皆長。李復上其事。廣主迎真身赴闕。留內庭供養。逾月送歸封塔。諡大慈匡真宏明禪師。有法嗣澄遠焉。
(庚戌) 十一月(郭威兵至上為諸兵所殺)右漢二主四年(郭威篡之)。
(卅四) 周(姓郭氏王水德三主都汴)雷氏曰(周祖郭威世宗恭帝三主九年)。
(辛亥) 太祖威更名廣(刑州唐山人。父簡事晉。為順州刺史。帝少孤貧。落魄無拘。年十八有權勇。嘗殺人路徒因李繼韜惜其勇而縱之。後漢祖命為樞密使。隱帝聽李業讚。遣供奉孟業齎密詔殺帝。帝乃舉兵。隱出宿七里寨眾潰。隱回至玄化門。劉銖在門上。問隱。左右兵馬何在。因射左右。隱回轡西北至趙村。為伶人郭允明刺殺之。帝迎劉旻子贇立之。未至兵士馮道等擁帝而立。太后廢贇為湘陰公。以威監國受漢太后誥即位。出漢宮器碎於庭。詔曰。自今紛華之物毋得入宮帝嘗屢戒晉王曰。我死當衣以紙衣。殮以瓦棺。至甲寅正月卒。在位三年)改元廣順○遼穆宗璟番名兀律(太宗長子。是年九月世宗兀欲為燕王述軌等弑於新州火神泛。遂即位。改元應曆。至戊辰即宋太祖。開寶元年九月為庖人弑于黑山下。治十八年)。
東漢旻(姓劉氏。漢祖母弟。初名崇為太原守。乾德四年。立三年)。
世尊示滅一千九百年矣。
(卅五 壬子) 汝州寶應南院顒禪師示寂。師系河北人嗣興化獎禪師。上堂示眾曰。赤肉團上壁立千仞。時有僧問。赤肉團上壁立千仞。豈不是和上語。師曰是。其僧乃掀倒禪床。南院曰。這瞎驢便棒。又云。諸方只具啐啄同時眼。不具啐啄同時用。有僧便問。如何是啐啄同時用。云作家不啐啄。同時失。僧云。此猶未是某甲問處。云汝問處作麼生。僧云。失。師乃打。僧不肯後於雲門會下聞二僧舉前因緣。一僧云。當時南院。棒折那。僧聞此語忽然大悟。方見南院答話處。僧却回汝州省覲。值師遷化乃訪風穴。穴認得便問。上座是當時問南院啐啄同時話底麼。僧云是。穴云。會也未。僧云。會也。穴云。爾當時作麼生會。僧云。某甲當時如燈影中行相似。穴云。女會也。
(卅六 癸丑) 旃檀瑞像此下一百七十七年在汴京(九經印板方成印行之)。
(甲寅) 世宗榮字茂先(太祖猶子。本姓柴氏。亦唐山人。太祖妻兄守禮之子。後從姑養太祖家。遂命為子。官至澶州節度使。祖崩祕喪迎帝立於柩前。威震夷夏。廢諸寺宇。年三十而崩。葬慶陵。治六年)改顯德○(趙匡胤為宿衛將)。
東漢承鈞(旻之次子。去年旻崩。遂立。拜五臺山僧繼顒為鴻臚卿。在位三年。不改號)。
(卅七) 二月詔廢天下無勅額寺院。凡三萬三百三十六所。存者二千七百所。廢銅像為錢。時鎮州銅大悲像感應異常。州之士民願以錢貸。制不許。及毀其背群力皆墮腕而死。遂停其半○制出家者必俟父母命。郡國歲造僧帳。凡死亡還俗者。以時關落之。僧帳自此始(通監)。
(丙辰) 詔(築大梁城行欽天曆)○詔華山隱士陳摶入見。問以飛昇黃白之術。摶答曰。天子富有四海。不應問遣還山。
(丁巳) 東漢年改天會。
(卅八 戊午) 顯德五年七月十七。清涼文益禪師示疾。江南國主親降候問。越旬有五日沐浴辭眾。端坐而逝。停龕三七顏貌如生。公卿李建勳而下。素服奉全身建塔。諡曰大法眼禪師。餘杭人。姓魯氏。初究教乘傍探儒典。游方遇羅漢琛禪師頓明大事。久之卓菴而居。次歷江外至臨川。州牧請住崇壽。開堂示眾曰。諸人既盡在這裏。山僧不可無言與大眾舉一古人方便。珍重。便下座。時有僧出禮拜。師曰。好問著。僧擬伸問。師曰。長老未開堂不答話。有僧自長慶來。師舉先長慶偈問曰。作麼生是萬象之中獨露身。僧舉一指。師曰。恁麼會又爭辯。曰如和尚尊意如何。師曰。喚什麼作萬象。曰古人不撥萬象。師曰。萬象之中獨露身。說什麼撥不撥。僧豁然大悟。述偈投誠。自是諸方會下有知解者龕然而至。始則行行如也。師微以激發。皆漸而服膺。海參之眾常不下千計。上堂大眾立久。師乃謂曰。只如便散去。還有佛法也無。試說看。若無又來這裏作麼。若有大市裏人聚處亦有。何須到這裏。諸人各曾看還源觀百門義海華嚴論涅槃經諸多冊子。阿那箇教中有這箇時節。若有試舉看。莫是恁麼經裏有恁麼語是此時節麼。有甚交涉。所以微言滯於心首。皆為緣慮之場。實際居於目前。翻為名相之境。又作麼生得翻去。若也翻去又作麼生得正去還會麼。莫只恁麼念冊子。有什麼用處。未幾道行聞於江表。金陵國主重師之道迎居報恩。號淨惠禪師。次遷清涼朝夕開法。諸方叢林咸仰風化。致異域有慕其法者涉遠而至。嗣子德韶國師。文遂江南國導師。惠炬高麗國師。傳化焉。師調機順物斥滯磨昏。凡舉古德三昧。或呈解請益。皆應病與藥。隨根悟入者不可勝紀。尋以韶國師等化旺東南。遂剏法眼宗旨。
杭州永明寺道潛禪師。河中府人也。姓武氏。初謁臨川淨惠禪師。一見異之。便容入室一日淨惠問。子於參請外明什麼經。師曰。華嚴經。惠曰。總別同異成壞是何門攝屬。師曰。文在十地品中。據理則世出世間一切法皆具六相。惠曰。空還具六相也無。師懵然無對。惠曰。子却問吾。師乃問。空還具六相也無。淨惠曰。空。師於是開悟踊躍禮謝。曰子作麼生會。師曰。空。淨惠然之。異日因四眾士女入院。淨惠問師曰。律中道。隔壁聞釵釧聲。即名破戒。見覩金銀合雜朱紫駢闐。是破戒不是破戒。師曰。好箇入路。惠曰。子向後有五百毳徒而為王侯所重在。師尋禮謝辭。駐錫於衢州古寺。閱大藏經而已。忠懿王命入府受菩薩戒。署慈化定惠禪師。建大伽藍。號惠日永明。請居之。師曰。欲請塔下羅漢銅像過新寺供養。王曰。善。予昨夢十六尊者乞隨師入寺。何昭應之若是。仍於師號加應真二字。師坐永明大道場。常五百眾。師上堂曰。佛法顯然。因什麼却不會去。諸上座欲問佛法。但問取張三李四。欲會世法則參取古佛叢林。無事久立。僧問。至道無難借言顯道。如何是顯道之言。師曰。切忌揀擇。問如何是惠日祥光。師曰。此去報慈不遠。曰恁麼則親蒙照燭也。師曰。且喜沒交涉。
(戊午) 春帝欲濟江南唐璟(大懼遣兵部陳覺非奉表割江北十四州地用周正翔而降)。
荊保勗(字省躬誨之第十子。在位四年。壽五十九矣)。
(己未) 趙太祖光胤(連年征討有功。授歸德節度使。殿前都點檢)。
六月世宗北伐。病背癰縻潰而崩於道。
恭帝崇訓。世宗第四子。七歲即位。命宋太祖趙光胤討河東。軍情忽變有飛語云。不如扶點檢為天子。遂立宋祖。降封帝為鄭王。立不一年。
右周三主凡十一年。
佛祖歷代通載卷第十七
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十八
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
宋 雷氏曰(宋朝祖宗真仁英神哲徽及少百六十六。靖康北遷)。
(一 庚申) 太祖玄朗(姓趙。王火德。都于汴。初名光胤。宣祖次子。生于洛陽。雄武端[愨-一+土]識度豁如。周祖以為東西班首。世祖命掌親軍遷殿前都點檢。恭帝命征河東。晚駐陳橋驛。軍情忽變。眾擁立之。正月四日受禪。丙子十月崩于萬歲殿。葬永昌陵。壽五十)改建隆○遼應曆十年。
(二) 是年十二月。詔於楊州城下戰地。造寺賜額建隆賜田四頃。命僧道暉主之。初周廢佛寺三萬三百所。毀鎮州大悲像鑄錢。世宗親秉鉞洞其膺。不四年疽潰于膺。帝偕太宗目擊其事。因問神僧麻衣。天下何時定。麻曰。甲子方大定。仍對以三武廢教之禍。帝深然之。及即位屢建佛寺。歲度八千僧(出歐陽外傳疏)。
(辛酉) 詔誕聖節。京師及天下命僧。升座祝壽為准。
(壬戌) 詔每年試童行通蓮經七軸者。給祠部牒披剃。
荊高繼冲(字成和融之子。立一年降宋)○南唐李煜立。
(癸亥) 改乾德○慕容延釗伐荊降。封冲武寧軍節度。
(甲子 六一) 詔王全斌等伐蜀。乙丑降于宋。
(丙寅) 東漢繼恩(其父薛釗劉旻愛其賢。以女妻之。生恩。釗卒後。適何氏生元。何氏夫婦卒。承鈞無子。旻以二子命鈞養之。定王鈞薨。恩紹位。九月為侯覇榮殺之)。
繼元(姓何氏。亦承鈞養子。恩之同母弟。郭無為侯覇榮迎立之。改年廣運。一十三年)。
(丁卯) 三月五星聚奎○大教東被九百年矣。
(戊辰) 改開寶○遼景宗諱明記立(更名賢。世宗子。自年保寧。治十五年)。
(己巳) 二月十六長春節詔(四海僧上表入殿庭。試三學十餘條。全通者賜紫衣。號曰手表僧。宰輔親王監司刺史各薦所知。唯西街所薦。是日入內殿。門下牒謂之簾前師號。仍賜紫衣)。
(辛未) 詔成都造金銀字佛經各一藏(初戊辰九月廿七勅兵部侍郎劉熙古監造。是年六月十一日勅再造金字經一藏)。
(壬申) 詔雕佛經一藏(計一十三萬板○封南漢銀恩赦侯○又遣陶穀下宋齊丘)。
(三) 天台山德韶國師示寂。師處州龍泉陳氏。母夜夢白光觸體。因而有娠。及誕尤多奇異。年十五有梵僧。勉令出家。十七依本州龍歸寺落髮。十八納戒於信州開元。後梁開平中遊方。詣投子山見大同禪師。發心之始也。次謁龍牙疎山。各有機緣。歷五十四員知識皆不契。後之臨川。謁淨惠益公。一見深器之。師以遍參但隨眾而已。益上堂。僧問。如何是曹源一滴水。益云。是曹源一滴水。師於座側豁然大悟。平生疑滯渙若氷釋。遂以所悟聞于益。益曰。汝向後當為國王師。致祖道光大。吾不如也。自是諸方異唱古今玄鍵。與之決擇不留微迹尋遊天台。觀智者顗禪師遺跡若舊。復與智者同姓。時謂後身焉。初止白沙。吳越忠懿王以國王子刺台州。嚮師之名。延請問道。師謂之曰。他日為覇主無忘佛恩。後漢乾祐元年王嗣位。遣使迎之。申弟子禮。有傳天台教義寂者。屢懇于師曰。智者之教年祀浸遠慮多散落。今新羅國其本甚備。自非和尚慈力。其孰能致之乎。師於是聞于忠懿王。王遣使及齎師書往彼繕寫備足而回。迄今盛行於江南。師於般若開堂說法。十二會語具傳燈。甞有偈示眾曰。通玄峯頂不是人間。心外無法滿目青山。開寶辛未華頂四峯忽摧聲震若雷。師曰。吾非久矣。明年六月大星殞于峯頂。林木變白。師乃示寂於蓮華峯。參問如常。二十八日集眾言別。跏趺而逝。壽八十二。臘六十五。
(癸酉) 後周恭帝崇訓卒。
(四) 汝州風穴禪師示寂。諱延沼。偽唐乾寧三年十二月。生於餘杭劉氏。少魁壘有英氣。於書無所不觀。然無經世意。父兄強之仕。一至京師即東歸。從開元寺智恭律師。剃髮受具。游講肆。玩法華玄義。修止觀定慧。宿師爭下之。棄去游名山。謁越州鏡清怤禪師。機語不契。北游襄沔間寓止華嚴。時僧守廓者。自南院顒公所來。華嚴升座曰。若是臨濟德山高亭大愚鳥窠船子下兒孫。不用如何若何便請單刀直入。廓出眾便喝。華嚴亦喝。廓又喝。華嚴亦喝。廓禮拜起。指以顧眾曰。這老漢一場敗缺。喝一喝歸眾。穴心奇之。因結為友。遂默悟三玄旨要。嘆曰。臨濟用處如是耶。廓使更見南院。問曰。入門須辯主。端的請師分。南院左拊其膝。穴便喝。院右拊其膝。穴亦喝。院曰。左邊一拍且止。右邊一拍作麼生。穴云。瞎。院反取主杖。穴笑云。有枷瞎棒。倒奪打和尚去。南院倚主杖曰。今日被黃面浙子鈍置。穴云。大似持鉢不得詐言不飢。院曰。子到此間乎。曰。是何言歟。院曰。好問汝。曰亦不可放過。便禮拜。南院喜賜之坐。問所與遊者何人。對曰。襄州與廓侍者同夏。院曰。親見作家。穴於是俯就弟子之列。從容承稟日聞智證。南院曰。汝乘願力來荷大法。非偶然也。問曰。女聞臨濟將終時語不。曰聞。曰。臨濟云。誰知吾正法眼藏向這瞎驢邊滅却。渠平生如師子。見即殺人。及其將死何故屈膝妥尾如此。對曰。密付將終全主即滅。又問。三聖如何亦無語乎。曰親承入室之真子。不同門外之游人。院頷之。又問。四種料簡語料簡何法。對曰。凡語不滯凡情即墮聖解。學者大病。先聖哀之為施方便。如楔出楔。曰如何是奪人不奪境。曰新出紅爐金禪子。簉破闍黎銕面門。又問。如何是奪境不奪人。曰芻草乍分頭腦裂。亂雲初綻影猶存。又問。如何是人境俱奪。曰躡足進前須急急。促鞭當鞅莫遲遲。又問。如何是人境俱不奪。曰常憶江南三月裏。鷓鴣啼處百花香。又問曰。臨濟有三句。當日有問。如何是第一句。濟云。三要印開朱點窄。未容擬議主賓存。穴隨聲便喝。又曰。如何是第二句。濟云。妙解豈容無著問。漚和爭赴截流機。穴云。未問已前錯。又問曰。如何是第三句。濟曰。但看棚頭弄傀儡。抽牽全藉裏頭人。穴云。明破即不堪。於是南院以為可以支臨濟。幸不孤負興化先師所以付託之意。穴依止六年。乃辭去。後唐長興二年至汝水。見草屋數椽依山如逃亡人家。問田父此何所。田父曰。古風穴寺世以律居。僧物故。又歲飢眾棄之而去。餘佛像鼓鍾耳。穴云。我居之可乎。田父曰可。穴入留止。日乞村落。夜然松脂。單丁者七年。檀信為新之成叢林。偽晉天福二年。州牧聞其風盡禮致之。上元日開法嗣南院。偽漢乾祐二年。牧移宇郢州。穴又避寇往依之。牧館于郡齋。寇平汝州有宋太師者。施第為寶坊。號新寺。迎穴居焉。法席冠天下。學者自遠而至。升座曰。先師曰。欲得親切莫將問來問會麼。問在答處。答在問處。雖然如是。有時問不在答處答不在問處。女若擬議。老僧在女脚跟底。大凡參學眼目。直須臨機大用現前。勿自拘於小節。設使言前薦得。猶為滯殼迷封。句下精通。未免觸途狂見。應是向來依他作解。明昧兩岐與女一切掃却。直教箇箇如師子兒吒呀地。對眾證據。哮吼一聲壁立千仞。誰敢正眼。覻覻著著即瞎却渠眼。又曰。若立一塵。家國興盛。野老顰頞。不立一塵。家國喪亡。野老安貼。於此明得闍黎無分。全是老僧於此不明。老僧即是闍闍黎黎。與老僧無別。亦能悟却天下人。亦能瞎却天下人。欲識闍黎麼。拊其左膝曰。這裏是。欲識老僧麼。拊其右膝曰。遮裏是。于時莫有善其機者。偽周廣順元年。賜寺名廣惠。二十有二年以宋開寶六年癸酉八月旦。登座說偈曰。道在乘時須濟物。遠方來慕自騰騰他年有叟情相似。日日香烟夜夜燈。至十五日跏趺而化。前一日手書別檀越。閱世七十有八。坐五十有九夏。有得法上首住汝州首山念禪師。
(甲戌) 詔曹彬等征南唐○遼改乾亨。
(乙亥) 曹彬擒南唐主李煜歸。封違命侯。國除。
(五) 杭州慧日永明智覺禪師示寂。諱延壽。餘杭人。姓王氏。總角之歲歸心佛乘。既冠不茹葷日唯一食。持法華。七行俱下。纔六旬悉能誦之。感群羊跪聽。年二十八為華亭鎮將。屬翠岩永明大師。遷止龍冊寺大闡玄化。時吳越文穆王知師慕道。乃從其志放令出家。禮翠岩為師。執勞供眾。都亡身宰。衣不繒縷。食無重味。野蔬衣檽以遣朝夕。尋往天台天柱峯。九旬習定。有鳥類尺[宴*鳥]。巢于衣褶中。既謁韶國師。一見深器之。密授玄旨。仍謂師曰。汝與元帥有緣。他日大興佛寺。初住明州雪竇山。學侶臻湊。師上堂曰。雪竇這裏。迅瀑千尋不停纖粟。奇岩萬仞無立足處。汝等諸人向什麼處進步。時有僧問。雪竇一徑如何履踐。師云。步步寒花結。言言徹底氷。建隆元年。忠懿王請住靈隱山新寺。為第一世。明年復請住永明大道場。為第二世。眾盈二千。僧問。如何是永明旨。師曰。更添香著。曰謝。師指示曰。且喜沒交涉。師有偈曰。欲識永明旨。門前一湖水。日照光明生。風來波浪起。居永明十五年。度弟子千七百人。開寶七年入天台山。度戒萬餘人。常與七眾受菩薩戒。夜施鬼神食。朝放諸生類。六時散花行道餘力念。法花經一萬三千部。著宗鏡錄一百卷。詩偈賦詠凡千萬言。高麗國王覽師言教。遣使齎書敘弟子禮。奉金縷袈裟紫晶數珠金澡灌等。彼國僧三十六人。親承印記歸國。各化一方。開寶八年乙亥十二月二十六日辰時。焚香告眾跏趺而逝。壽七十二。臘四十二。明年建塔于大慈山焉。宋太宗賜額。曰壽寧禪院云。
(六) 天下大元帥吳越國王錢俶。製宗鏡錄序文曰。詳夫域中之教三。正君臣。親父子。厚人倫。儒吾之師也。寂兮寥兮。視聽無得。自微妙升虛無。以止乎乘風馭景。君得之則善建不拔。人得之則延貺無窮。道儒之師也。四諦十二因緣。三明八解脫。時習不忘日修以得。一登果地。永達真常。釋道之宗也。惟此三教並自心修。心鏡錄者。智覺禪師所撰也。總乎百卷。包盡微言。我佛金口所宣。盈乎海藏。蓋亦提携後學。師之智慧辯才。演暢萬法明了一心。禪際河游惠間雲布。數而稱大。莫能盡紀。聊為小序以頌宣行云爾。
(七) 宋左朝請郎尚書禮部員外郎護軍楊傑。撰宗鏡錄後序云。諸佛真語以心為宗。眾生信道以宗為鑑。眾生界即諸佛界。因迷而為眾生。諸佛心是眾生心。因悟而成諸佛。心如明鑑萬像歷然。佛與眾生其猶影像。涅槃生死俱是強名。鑑體寂而常照。鑑光照而常寂。心佛眾生三無差別。國初吳越永明智覺壽禪師。證最上乘。了第一義。洞究教典深達禪宗。稟奉律儀廣行利益。因讀楞伽經云。佛語心為宗。乃製斯錄。於無疑中起疑。無問中設問。為不請友真大導師。擲龍宮之寶。均施群生。徹祖門之關。普容來者。舉目而視。有欲皆充。信手而拈。有疾皆愈。蕩滌邪見指歸妙源。所謂舉一心為宗。照萬法為鑑矣。若人以佛為鑑。則知戒定慧為諸善之宗。人天聲聞緣覺菩薩如來。由此而出。一切善類莫不信受。若以眾生為鑑。則知貪嗔癡為諸惡之宗。修羅傍生地獄鬼趣。由此而出。一切惡類莫不畏憚。善惡雖異其宗則同。返鑑其心。則知靈明湛寂廣大融通。無為無住無修無證。無塵可染。無垢可磨。為一切諸法之宗矣。初吳越忠懿王字之祕于教藏。至元豐中。皇弟魏端獻王。鏤板分施名藍。四方學者罕遇其本。元祐六夏。游東都法雲道場。始見錢唐新本。尤為精詳。乃吳人徐思恭請法涌禪師。同永樂法真二三耆宿。遍取諸錄。用三乘典籍賢聖教語。校讀成就以廣流布。其益甚博。法涌知予喜閱是錄。因請為序。
(八 丙子) 太宗炅(初名匡義。宣第三子。初太祖陳橋之變。諫兄令軍不得剽虜。生靈獲安。至道三年三月崩于萬歲殿。葬永熙陵。壽五十九)改太平興國○(詔僧尼復試經科)。
○吳越忠懿王錢俶以國賓宋○(是年十一月日有食之既)。
(九 戊寅) 帝製新譯三藏聖教序。賜天竺三藏法師天息災文曰。大矣哉。我佛之教也。化道群迷闡揚宗性。廣博宏辯。英彥莫能究其旨。精微妙說。庸愚豈可度其源。義理幽玄真空莫測。包括萬象譬喻無垠。總法網之紀綱。演無際之正教。拔四生之苦海。譯三藏之祕言。天地變化乎陰陽。日月盈虧乎寒暑。大則說諸善惡。細則比於河沙。含識萬端弗可盡述。若窺像法如影隨形。離六情以長存。歷千劫而可久。須彌內藏於芥子。如來坦蕩於無邊。達磨西來傳法東土。宣揚妙理順從指歸。彼岸菩提愛河生滅。用行於五濁惡趣。拯溺於三業途中。經垂世之無窮。道無私而永泰。雪山貝葉。若銀臺之耀目。歲月烟蘿。起香界之自遠。巍巍罕測杳杳難名。所以道資十聖德被三賢。至道啟乎乾元。眾妙生乎太易。綜繁形類竅鑿昏冥。絕彼是非開茲蒙昧。有西域法師天息災等。常持四忍早悟三空。翻貝葉之真詮。續人天之聖教。芳猷重啟偶運當時。潤五聲於文章。暢四始於風律。堂堂容止穆穆輝華。曠劫而昏墊重明。玄門昭顯。軌範而宏光妙法。淨界騰音。利益有情。俱登覺岸。無所障礙。救諸疲羸。冥昧慈悲。汗漫物表。柔愎貪很。啟迪昏愚。演小乘則聲聞合其儀。論大乘則正覺立其性。含靈悟而蒙福。藏教缺而重興幻化迷途火宅深喻。雖設其教不知者多。善念生而福量潛臻。惡業興而勝緣皆墜。調御四眾積行十方。澍華雨於金輪。護洹河於玉闕。有頂之風不可壞。無際之水不能漂。澄寂湛然。圓明清潔之智慧。性空無染。實相解脫之因緣。可以離煩惱於心田。可以得清涼於宇宙。朕慚非博學釋典微閑。豈堪敘文以示來者。如縻螢爝火不足比於皎日。將微蠡量海。豈能窮於深淵者哉。
(己卯) 北漢降封彭城公○止僧科。
(十) 沙門贊寧隨錢王歸明。姓高氏。其先渤海人。唐天祐中。生於吳興之德清金鵝別墅。出家杭之祥符。習南山律著述毘尼。時人謂之律虎。文學日茂聲望日隆。武肅諸王公族咸慕重之。署為兩浙僧統。賜號明義宗文。興國三年。太宗聞其名。召對滋福殿。延問彌日。改賜通惠。詔修大宋高僧傳三十卷。及詔撰三教聖賢事跡一百卷。初補左街講經首座。知西京教門事。咸平初加右街僧錄。又著內典集一百五十卷。外學集四十九卷。內翰王禹稱作文集序。極其贊美云。至道二年示寂。葬龍井塢焉。
(十一 壬午) 舒州柯萼。遇異僧於萬歲山。以杖指松根。使萼钁之。得瑞石篆文。讖聖朝國祚無疆。萼進石于京師。詔藏祕府○他日大士寶誌降現禁中。帝親聞緒言。致祭鍾山。賜號道林真覺菩薩○是年詔立譯經傳法院于東京。如唐故事。宰輔為譯經潤文。設官分職西天中印土惹爛陀羅國密林寺天息災與法天施護譯經。帝制前序。詔普度天下童行為僧。不限有司常制。自即位至是。凡度一十七萬餘人。
(十二) 是年五月竄秦王廷美。降涪陵縣公。安置房州。上甞以傳國意訪之趙普。普曰。太祖已誤。陛下豈容再誤耶。廷美所以得罪。則普為之也。盧多遜在朝握權。常短趙普。普惡之。遂入覲觀變。奏多遜謂陛下萬年之後。當以天下與魏王。魏王當還秦王。陛下不當立太子。俱坐大逆。免死放歸田里。咸以為冤。秦王即太祖少子德芳也。上遂南遷二王。尋殺之。忽一日趙普見空有火一團。一羔羊轉運其上。拜曰。普之罪也。須臾光滅。遂得疾。命方士禱疾。見烟焰中有朱牌金字書云。魏王廷。美士謝曰。普言非其罪也。有答之曰。杜大后遺言。丞相寫誓書。藏之金櫃石室。而首發多遜之獄。致主上殺一弟一姪。安可謂之無罪。俄而普薨。
(癸未) 遼聖宗名隆緒。即位改統和。
(甲申) 改雍熙○勅修泗洲塔○(十月詔隱士陳摶賜希夷先生。尋請歸華山)。
(乙酉) 二月詔禁增置寺觀。
(十三 丁亥) 益州青城香林院澄遠禪師示寂。師生西川漢州綿竹縣上官氏。法嗣雲門偃禪師。初住西川導江縣迎祥寺天王院。時謂水精宮僧問。美味醍醐因甚變成毒藥。曰導江紙。問見色便見心時如何。曰適來什麼處去來。問心鏡俱亡時如何。曰開眼坐睡。師復住香林。僧問。北斗裏藏身意旨如何。曰月似彎弓少雨多風。問如何是室內一燈。曰三人證龜成鱉。問如何是衲衣下事。曰臘月火燒山。問大眾雲集請師施設。曰三不待兩。問如何是學人時中事。曰恰恰如何是玄。曰今日來明日去。問如何是玄中玄。曰長連床上(餘如傳燈)。
(戊子) 改端拱○(賜西夏李繼俸姓名趙保忠銀夏綏寮密五州使)。
(庚寅) 改淳化(詔撰三教聖賢事跡。參政蘇易簡編次。贊寧僧統道士韓德純預焉)。
(十四 辛卯) 南安岩尊者示寂。師諱自嚴。生鄭氏。泉州同安人也。年十一棄家。依建興臥像寺僧契緣為童子。十七為大僧。游方至廬陵。謁西峯耆宿雲豁。豁乃清涼智明禪師高弟雲門嫡孫也。太宗甞詔至闕。館於北御園舍中。習定久之。懇之還山。公依止五年。密契心法。辭去渡懷仁江。有蛟每為行人害。公為說偈誡之而蛟輒去。過黃楊峽。渴欲飲。會溪涸。公以杖擿之而水得。父老來聚觀。合爪以為神。公遯去。武平黃石岩多蛇虎。公止住而蛇虎可使令。四遠聞之大驚。爭敬事之。民以雨暘男女禱者。隨其欲應念而獲。家畫其像飲食必祭。隣寺僧死。公不知法當告官。便自焚之。吏追捕。坐庭中問狀。不答索紙作偈曰。雲外野僧死。雲外野僧燒。二法無差互。菩提路不遙。而字畫險勁如擘窠大篆。吏大怒。以為狂旦慢己。去僧伽黎曝日中。既得釋因以布帽其首。而衣以白服。公根所說法聽者疑信半。因不語者六年。岩寺當輸布而民歲代輸之。公不忍折簡。置布吏中祈免。吏張曄歐陽程者。相顧怒甚。追至問狀。不答。以為妖火所著帽明鮮。又索紙作偈曰。一切慈忍力。皆吾心所生。王官若拘束。佛法不流行。自是時亦語。去游南康槃古山。先是西竺波利尊者經始讖曰。却後當有白衣菩薩來興此山。公住三年而成叢林。異跡甚著。如本傳所屬。狀以聞。詔佳之。宰相王欽若大參趙安仁已下皆獻詩。公未甞視。置承塵上而已。淳化辛卯正月初六日。集眾曰。吾此日生。今正是時。遂右脇臥而化。閱世八十有二。坐六十有五夏。諡曰定光圓應禪師。
(十五) 首山念禪師。萊州人。生狄氏。幼棄家得度於南禪寺。為人簡重有精識。行頭陀行日誦法華。叢林畏敬之。目以為念法華。至風穴隨眾作止。無所參扣。然終疑教外有別傳之法不言也。風穴每念。大仰有讖。臨濟一宗至風而止。懼當之。熟視座下堪任法道。無如念者。一日升座曰。世尊以青蓮目顧迦葉。正當是時。且道箇什麼。若言不說說。又成埋沒先聖。語未卒念便下去。侍者進曰。念法華無所言而去何也。穴曰。渠會也。明日念與真上座俱詣方丈。穴問真曰。如何是世尊不說說。真曰。鵓鳩樹上鳴。穴云。汝作許多癡福何用。乃顧念曰。如何。師曰。動容揚古路。不墮峭然機。穴謂真曰。何不看渠語。又一日升座顧視大眾。念便下去。穴即歸方丈。自是聲名重諸方。首山在汝州城外荒遠處。而念居之終身焉。登其門者皆叢林精練衲子。念必勘驗之。留者纔二十餘輩。天下稱法席之冠。必指首山。甞問僧。不從人薦得的事。試道看。僧便喝。曰好好相借問。惡發作麼僧又喝念曰。今日。放過即不可。僧擬議。念喝之。甞謂眾曰。佛法無多子。只是汝輩自信不及。若能自信。千聖出頭來無柰汝何。何故為向汝面前無開口處。只為汝自信不及向外馳求。所以到這裏。假如便是釋迦佛。也與汝三十棒。然雖如是。初機後學。憑箇什麼道理。且問汝輩。還得與麼也未。良久云。若得與麼方名了事。甞作綱宗偈曰。咄哉拙郎君。巧妙無人識。打破鳳林關。穿靴水上立。咄哉巧女兒。攛梭不解織。看他鬪鷄人。水牛也不識。淳化三年十二月初四日。留僧過歲。作偈曰。吾今年邁六十七。老病相依且過日。今朝記取明年事。明年記著今年日。至次年十二月初四日。升座。辭眾曰。諸子謾波波。過却幾恒河。觀音指彌勒。文殊不柰何。良久曰。白銀世界金色身。情與無情共一真。明暗盡時都不照。日輪午後示全身。日午後泊然而化。塔于首山。嫡嗣汾陽。昭禪師(餘如本傳)。
(十六 乙未) 改至道御制祕藏佺等○六月限僧尼額。
(戊戌) 真宗恒(太宗第三子。初名德昌。又改元侃。以軒轅為聖祖。目曰昊天玉皇上帝。追封孔子曰至聖文宣王。壽五十五崩于延慶殿)改年咸平。
(十七) 帝製繼聖教序。賜天竺三藏朝散大夫試光祿卿明教大師法賢。其辭曰。高明肇分。三辰方乃序其始。厚載初定。萬彙於以發乎端。清濁之體既彰。善惡之源是顯。然後以文物立其教。以正典化其俗。利益之功同歸於理。於是乎像法來於西國。真諦流於中夏。洞貫千古。真實之理無以窮。囊括九圍。玄妙之門莫能究。言乎妄想則五蘊皆空。現乃真容則一毫圓滿。廣大之教豈能繼述者哉。伏覩太宗皇帝法性周圓仁慈普布。化蠻貊則萬邦輻湊。躋烝民於仁壽之鄉。崇教法則四海雲從。惠蒼生於富庶之域。見尊經之浩汗。設方便以救沈淪。知法界之恢宏。行精進而攝懈怠。乃擇其邃宇校彼真文。命天竺之高僧。譯貝多之佛語。象管翻成於金字。珠編復置於琅?。龍宮之聖藻惟新。鷲嶺之苾芻仰歎。繇是三乘共貫四諦同圓。盡苦空真正之言。顯祕密研精之義。讚相相乎實相。論空空乎盡空。華嚴之理合軌轍。金仙之教同規矩。朕纘嗣丕構。恭臨寶圖。常翼翼以撫兆民。每兢兢而守先訓。以至釋典猶未精詳源其幽深。曷能探測。有譯經西域僧法賢。奏章懇切致意專勤。以先皇帝大闡真風高傳佛日。興前王之墜典。振覺路之頹綱。欲旌天造之功庸。用廣聖文之述作。請予製序繼聖教焉。自聖考上仙追號罔極。息政事之外。何暇經心。今已禫除。思臻微奧。雖幼承慈訓。柰夙乏通才。焉窮乎法海之津涯。莫造乎空門之閫域。略敷大意以徇輿情。蹄涔不足擬浴日之波。尺箠豈能量昊天之影。聊述短序以紀聖功者焉。
(十八 甲辰) 改景德○東吳僧道源。續開平以來宗師機緣。統集寶林聖胄等傳。為傳燈錄三十卷。詣闕進呈。帝覽之嘉賞。勅翰林楊億等刊正。并撰序頒行天下。
(戊申) 改大中祥符○(六月天書降太山○十月東封)。
(十九 己酉) 詔諸路置天慶觀○(先是。楊礪充襄王府記室舍。夢至一大殿上。真人服王者衣冠秉圭南向。前有案置籍錄人姓名。礪見已名居上。因請示休咎。真人指一人曰。此來和天尊。異日為汝主也。礪問之。天尊笑曰此去四十年。汝功成。余名亦顯。礪而志之。及充襄王府記室。參軍追而語諸人曰。吾今見襄王儀貌。即來和天尊也。上即位。後多好神仙道家之術焉)。
(癸丑) 遼改開泰。復號大契丹。
(甲寅) 天竺三藏施法護(譯佛吉祥等經二百餘卷。參政趙安仁等潤文)。
(乙卯) 詔道釋藏經互相毀者刪去。樞密王欽若以化胡經乃古聖遺跡不可削○又詔王欽若。詳定羅天醮儀一十卷。頒行。
(丁巳) 改天禧○禁民棄父母而為僧道。
(己未) 帝於九月大會道釋(于大安殿。凡萬三千餘人。先是建齋醮。上親臨。賜以銀藥大錢)。
(壬戌) 改乾興。二月上崩○遼改年太平。
(二十) 杭州孤山智圓法師卒字無外。自號中庸子。或稱潛夫。生錢唐徐氏。父母令入空門。八歲受具。二十一聞奉先源清師傳天台三觀之旨。問辯凡二年而清歿。遂居西湖孤山學者歸之如市。與處士林和靖為隣友。王欽若出撫錢唐。慈雲遣使邀師同迓之。圓笑謂使者曰。錢唐境上且駐却一僧。圓早癭瘵疾故又號病夫。講道吟哦未甞倦。預戒門人曰。吾歿後。毋厚葬以罪我。母建塔以誣我。毋謁有位求銘以虛美我。宜以陶器二合而瘞之。立石志名字年月而已。及亡門人如所戒。斸所居岩以藏之。不屋而壇。時乾興元年二月十七也。壽四十有七。後十五年積雨山頹。門人開視陶器。肉身不壞。爪髮俱長。脣微開露齒若珂貝。乃更襲新衣屑眾香散其上而重瘞之。崇寧三年賜諡法惠大師。其所撰述。般若經遺教經疏各二卷。瑞應經不思議法門經無量義經普賢行法經彌陀經等疏。及四十二章經注各一卷。首楞嚴經疏十卷。又撰闡義鈔三卷(釋請觀音疏)。索隱記四卷(釋光明句)。刊正記(釋觀經疏)。表微記一卷(釋光明玄)。垂裕記十卷(釋淨名略疏)。發源機要記二卷(釋涅槃玄)。百非鈔一卷(釋涅槃疏金剛身品百非之義)。三德指歸二十卷(譯涅槃疏)。顯性錄四卷(釋金[鎧-豆+十])。摭華鈔二卷(釋圭峯蘭盆疏)。西資鈔一卷(釋自造彌陀疏)。詒謀鈔一卷(釋自造心經疏)。谷響鈔五卷(釋自造楞嚴疏)。折重鈔一卷(釋自造文殊般若疏大論有云折重令輕)。正義一卷(釋十不二門)。閑居編五十一卷(雜著詩文)。皆假道適情為法行化之傍贊云。◎
◎(癸亥) 仁宗禛(真宗第六子。遺旨即位。上得皇子已晚。始生日夜啼不止。有道人能止啼。召入則曰。莫叫莫叫何似當初莫笑。啼即止。蓋真宗甞龥上帝祈嗣問群仙。誰當往者。皆不答。獨赤脚大仙一笑。遂降為孠。在宮中好赤脚。其驗也。十三即位劉太后垂簾同聽政。大治四十二年。壽五十四。葬永昭陵)。
改天聖元年○行崇天曆。
(二十一 甲子 八一) 是年汾陽善昭禪師示寂。生俞氏。太原人也。器識沈邃不緣飾。有大志。於一切文字。不由師訓自然通曉。年十四父母俱喪。孤苦厭世相。薙髮受具杖策遊方。所至少留。不喜觀覽。或譏其不韻。昭嘆曰。是何言之陋哉。從上先德行脚。正以聖心未通馳求決擇爾。不緣山水也。師歷諸方見老宿七十一人。皆妙得其家風。尤喜論曹洞。石門徹禪師者。蓋其派之魁奇者。昭作五位偈示之曰。五位參尋切要知。纖毫纔動即差違。金剛透匣誰能曉。唯有那吒第一機。舉目便令三界靜。振鈴還使九天歸。正中妙挾通回互。擬議鋒鋩失却威。徹拊掌稱善。然終疑臨濟兒孫別有奇處。最後至首山。問百丈卷席意旨如何。曰龍袖拂開全體現。昭曰。師意如何。曰象王行處絕狐踪。於是大悟言下。拜起而曰。萬古碧潭空界月。再三撈摝始應知。有問者曰。見何道理便爾自肯。曰正是我放身命處。服勤甚久。辭去遊湘衡間。長沙太守張公茂宗。以四名剎請昭擇之而居。昭笑一夕遯去。北抵襄沔寓止白馬。太守劉公昌言聞之造謁。以見晚為嘆。時洞山谷隱皆虛席。密議歸昭。太守請擇之。昭以手揶揄曰。我長行粥飯僧。傳佛心宗非細職也。前後八請堅臥不起。淳化四年首山歿。西河道俗千餘人協心削牘遣沙門契聰迎請。住持汾州太平寺太子院。昭閉關高枕。聰排闥而入讓之曰。佛法大事。靜退小節。風穴懼應讖。憂宗旨墜滅。幸而有先師。先師已棄世。汝有力荷擔如來大法者。今何時而欲安眠哉昭矍起握聰手曰。非公不聞此語。趨辦嚴吾行矣。既至宴坐一榻足不越閫者三十年。天下道俗慕仰不敢名。同曰汾州。并汾地苦寒。昭罷夜參。有梵僧振錫而至。謂昭曰。會中有大士六人。奈何不說法。言訖升空而去。昭密記以偈曰。胡僧金錫光。請法到汾陽。六人成大器。勸請為敷揚。時楚圓守芝號上首。叢林知名。龍德府尹。李侯與昭有舊。虛承天致之。使三反不赴。使者受罰。復至曰。必欲得師俱往。不然有死而已。昭笑曰。老病業已不出院。借往當先後之何必俱耶。使曰。師諾則先後唯所擇。昭令饌設且俶裝曰。吾先行矣。停箸而化。閱世七十有八。坐六十五夏。
(二十二 丙寅) 天聖四年賜天台教部入藏。天竺寺思悟侍者。焚軀為報國恩。悟錢唐人。初慈雲式公欲以智者教卷求入藏。文穆王公將聞之朝。悟曰。非常事也。小子將助之矣。乃繪大悲像呪以誓曰。事集焚軀報國。會公薨。悟誦呪益精。是年得旨克遂初志(式為贊刻石焉)。
(二十三 丁卯) 大陽禪師。名警玄。祥符中。避國諱易稱警延。江夏張氏子。其先蓋金陵人。仲父為沙門。號智通。住持崇孝。延往依以為師。十九為大僧。聽圓覺了義經。問講者。何名圓覺。曰圓以圓融有漏為義。覺以覺盡無餘為義也。延曰。空諸有無何名圓覺。講者嘆曰。是兒齒少而識卓如此。我所有何足以益之。政如以穢食置寶器。其可哉。通知之使令遊方。初謁鼎州梁山觀公。問如何是無相道場。觀指壁間觀音像曰。此是吳處士畫。延擬進語。觀急索曰。這箇是有相。如何是無相底。於是悟旨於言下。拜起而侍。觀曰。何不道取一句子延曰。道即不辭。恐上紙墨。觀笑曰他日此語上碑去在。延獻偈曰。我昔初機學道迷。萬水千山覓見知。明今辯古終難會直說無心轉更疑。蒙師指出秦時鏡。照見父母未生時。如今覺了何所得。夜放烏雞帶雪飛。觀稱洞上之宗可倚矣。延亦自負。儕輩莫敢攀奉。一時聲價籍甚。觀歿。辭塔出山。至大陽謁堅禪師。堅欣然讓法席使主之。延受之。咸平庚子歲也。示眾曰。廓然去。肯重去。無所得心去。平常心去離彼我心去。然後方可。所以古德道。牽牛向溪東。放不免納官家徭稅。牽牛向溪西。放不免納官家徭稅。不如隨分納些些。渠總不妨。免致勞擾。作麼生是隨分納些些底道理。但截斷兩頭有無諸法。凡聖情盡體露真常。事理不二即如如佛。若能如此者。法法無依平等大道萬有不繫。隨處轉轆轆地更有何事。延神觀奇偉有威重。日常一食。自以付受之重。足不越限。脇不至席。五十年。年八十。坐六十一夏。嘆無可以繼其法者。以洞上旨訣。寄葉縣省公之子法遠。使為求法器傳續之。天聖五年七月十六日陞座辭眾又三日以偈寄侍郎王曙曰。吾年八十五。修因至於此。問我歸何處。頂相終難覩。停筆而化。
(二十四 戊辰) 四明延慶法智卒。後於元豐三年冬。其法孫繼忠狀其行。請文於宋清獻公趙抃撰行業碑。其略曰。師名知禮。字約言。金姓。世為明州人。梵相奇偉性恬而器閎。初父母禱佛求息。夢神僧携一童遺曰。此佛子羅睺羅也。既生以名焉毀齒出家。十五落髮受具。二十從本郡寶雲通師。傳天台教觀。始三日。首座謂曰。法界次第若當奉持。禮曰。何謂法界。座曰。大總相法門圓融無礙者是也。曰既圓融無碍。何得有次第耶。座無語。幾一月自講心經。人皆屬聽而驚。謂教法之有賴矣。居三年代通講。銷義益闡所學。出住承天繼遷延慶。道法大熾學徒如林。日本國師遺徒持二十問來詢法要。禮答之咸臻其妙真宗久聞師名。遣中使至寺。命修懺法。厚有賜予。歲大旱。師焉遵式等修光明為禱。而雨大洽。所製指要妙宗二鈔觀音品別行金光明諸記大悲懺儀。行于世。翰林學士楊億駙馬李遵勗。薦以紫衣師號。後於歲旦結光明懺。七日為順寂之期至五日趺坐而逝。實天聖六年正月五日也。享壽六十有九。僧夏五十有四(云云)。
(二十五 庚午) 長水法師子璿。嘉禾人。初依洪敏師學楞嚴。至動靜之相了然不生有省。聞瑯瑘惠覺道重當世。趨至其門。值其上堂致問曰。清淨本然云何忽生山河大地。覺亢聲云。清淨本然云何忽生山河大地。師豁然大悟。覺謂之曰。汝宗不振久矣。宜勵志扶持以報佛恩。師如教。後住長水。眾幾一千。以賢首宗旨述楞嚴經疏十卷。行於世。
(壬申) 改明道 ○遼宗真立。號興宗改景福。
(二十六) 天竺慈雲法師遵式卒。字知白。葉氏。台州寧海人。母王氏夢嚥明珠而生。稍長不樂隨兄為賈。潛往東掖山出家。年二十往禪林受具。明年習律學于守初。式繼入國清普賢像前。燼一指誓傳天台之教。雍熙初來謁四明。北面受業。未幾智解秀出。智者諱日。然頂終朝誓力。行四三昧。淳化初。眾請居寶雲。講未甞歇。靈異之迹具於本傳。明道元年十月十八日示疾。不用醫藥。唯說法勉徒十日令請彌陀像以證其終。至夜奄然坐逝。生壽六十九。夏五十。明年仲春四日。徒眾奉遐榻葬于寺東月桂峯下。
(癸酉) ○放度天下三帳僧尼○遼改重熙。
(甲戌) 改景祐○六月詔毀無額寺院。
(丙子) ○詔選五十人童子習梵學。
(二十七) 帝製天聖廣燈錄序。賜護國將軍節度使駙馬都尉李遵勗。其辭曰。唯大雄之闡教也。以清淨為宗。慈悲救世。解煩惱之苦縛。啟方便之化門。安住雪山始階於西域。飛行漠殿遂通於東旦。彼土得道何可勝言。此方承流於是乎在。雖陰魔有以侮伐或示神通。而帝釋常加護持無虧實相。自法眼授記鞠多印心。佛衣不傳。逮六祖而頓悟。牛頭析派。續千燈而罔窮。繇斯慧炬益繁法雲滋陰。旁行梵學轉譯華音。扣寂禪關指迷覺路。了達者至乎離念。超登者于以忘筌。為無所不通之明。處不可思議之首。歷代聖帝明王。且有為之信向者矣。我太祖之乘籙也。王法延乎住世。我太宗之握紀也。妙供滿於諸天。真宗皇帝。密契菩提之心。深研善逝之旨。能仁之化一雨普沾。外護之心二纓喜捨。朕嗣景祚子毓群黎。將以驅富壽之民。居常奉調御之本。丕冐基搆。雖祇席於蘿圖。導引津糧。每欽惟於竺㲲。茲乃遵前王之道也。其可忽諸。天聖廣燈錄者。護國將軍節度使駙馬都尉李遵勗之所編次也。遵勗承榮外館受律齋壇。靡恃貴而驕矜。頗澡心於夷曠。竭積順之志素。趨求福之本因。灑六根之情塵。別三乘之歸趣。蹟其祖錄廣彼宗風。采開士之迅機。集叢林之雅對。粗裨於理咸屬之篇。甞貢紺編來聞扆座。且有勤請求錫敘文。朕既嘉乃誠。重違其意。載念薄伽之旨。諒有庇於生靈。近戚之家。又不嬰於我慢。良可嘉。尚因賜之。題豈徒然哉。亦王者溥濟萬物之源也。其錄三十卷。
(丁丑) 時景祐三年四月賜序。秋七月(有星數百西南流至壁東。其光燭地。黑氣長丈餘。出畢宿下○冬十二月京師定襄代并忻等州地震。代并壞民廬舍而忻尤甚。壓死萬九千餘。人民皆露處。自此或地震裂泉涌火出如黑沙狀連年不止宋史)。
(戊寅) 改寶元○元昊是年十二月僭號大夏改年大慶。
(己卯) 秋八月禁以金箔飾佛像。
(庚辰) 康定○西夏入寇。
(辛巳) 慶曆○春二月京師雨藥。
(二十八) 春正月初五。慈明楚圓禪師示寂。出金州清湘李氏。少為書生。年二十二依城南湘山隱靜寺得度。母有賢行。使之遊方。公連眉秀目頎然豐碩。然忽繩墨。所至為老宿所呵。以為少叢林。公柴崖而笑曰。龍象蹴踏非驢所堪。甞槖骨董箱。以竹杖荷之。遊襄沔間。與守芝谷泉俱結伴入洛中。聞汾陽道望為天下冠。決志親依。時朝廷方問罪河東。潞澤皆屯重兵。多勸其無行。公不顧渡大河登太行。易服類廝養。竄名火隊中。露眠草宿。至龍州。遂造汾陽。昭公壯之。經二年未許入室。公詣昭揣其志。必罵詬使令者或毀詆諸方。及有所訓皆流俗鄙事。一夕訴曰。自至法席已再夏。不蒙指示。唯增世俗塵勞念。歲月飄忽己事不明。失出家之利。語未卒。昭公熱視罵曰。是惡知識敢裨販我。舉杖逐之。擬伸救。昭公掩其口。公大悟曰。乃知臨濟道出常情。服役七年辭去。依唐明嵩公。及往見大年楊內翰。又見李都尉。問答具本傳。後移住興化。沐浴辭眾跏趺而逝。閱世五十有四。坐夏三十有二。
(癸未) 十一月五星出東方司天監言注中國大安(河北雨赤雪)。
(二十九 甲申) ○元昊十二月詔冊昊為夏國主。更名囊宵。
(丙戌) 楊岐方會禪師順寂。生冷氏。袁州宜春人也。少警敏滑稽談劇有味。及冠不喜從事筆硯。竄名商稅掌課最。坐不職當罰。宵遁去。遊筠州九峯。恍然如昔經行處。眷不忍去。遂落髮為大僧。閱經聞法。心融神會。能痛自折節依參老宿。慈明住南原。輔之安樂勤苦。及遷道吾石霜。會自請領監院事。非慈明之意。眾論揵然稱善。挾楮衾入典金谷。時時憃語摩怫慈明。諸方得以為當。慈明飯罷必山行。禪者問道多失所在。會闞其出未遠。即撾鼓集眾。明遽還數曰。少叢林莫而陞座。何從得此規繩會徐對曰。汾陽晚參也。何為非規繩乎。慈明無如之何。今叢林三八念誦罷猶參者此其原也。辭之還九峯萍實道俗請住楊岐。時九峯長老勤公不知會。驚曰。會監寺亦能禪乎。會受帖。問答罷乃曰。更有問話者麼。試出來相見。楊岐今日性命在汝諸人手裏。一任橫拕倒拽。為什麼如此。大丈夫兒須是對眾決擇。莫背地裏似水底按胡盧相似。當眾勘驗看。有麼。若無楊岐失利。下座。勤把住曰。今日且得箇同參。曰同參底事作麼生。勤曰。楊岐牽犁九峯拽把。曰正當與麼時。楊岐在前。九峯在前。勤無語托開曰。將謂同參。元來不是。自是名聞諸方。示眾曰。不見一法是大過患。拈主丈云。穿過釋迦老子鼻孔。作麼生道得脫身一句向水不洗水處。道將一句來。良久曰。向道莫行山下路。果聞猨叫斷腸聲。慶曆六年移住潭州雲蓋。以臨濟正脈付守端。
(戊子) 文潞公破具州王郎。以不殺而增壽九十三位極人臣之上矣。
(三十) 言法華者。莫知其所從來。初見之於景德寺七俱胝院。梵相奇古直視不瞬。口吻袞袞不可識。相傳言誦法華經。故以為名。時獨無從。多行市里。褰裳而趨。或舉手書空佇立良久。從屠沽游。飲啖無所擇。道俗咸目為狂僧。丞相呂許公問佛法大意。答曰。本來無一物。一味總成真。僧問。世有佛否。對曰。寺裏文殊有。問師凡耶聖耶。舉手曰。我不在此住。至和三年。仁宗始不豫。國嗣未立。天下寒心。諫官范鎮首發大義。乞擇宗室之賢者使攝儲貳以待皇嗣之生。退居藩服。不然典宿衛尹京邑以係天下之望。并州通判司馬光亦以為言。凡三上疏一留中。二行中書。上夜焚香默禱曰。翌日化成殿具齋虔請法華大士。俯臨無却。清旦上道衣凝立以待。俄馳奏言。法華自右掖門徑趨將至寢殿。侍衛呵止不可。上笑曰。朕請而來也。有頃至。輒升御榻跏趺而坐。受供訖將去。上曰。朕以儲嗣未立。大臣咸以為言。侵尋晚莫嗣息有無。法華其一決之。師索筆引紙連書曰。十三十三。凡數十行。擲筆無他語。皆莫測其意。其後英宗登極。乃濮安懿王第十三子。方驗前言也。嘉祐戊戌十一月二十三日。將化。謂人曰。我從無量劫來。成就逝多國土分身揭化今南歸矣。語畢右脇而寂。
(三十一 己丑) 皇祐○九月儂智高亂於廣五年狄青平之○李覯。字泰伯。旴江人。時稱大儒。甞著潛書力於排佛。明教嵩公。携所著輔教編謁之辯明。覯方留意讀佛書。乃喟然曰。吾輩議論尚未及一卷般若心經。佛教豈易知耶。心經乃唐太宗詔三藏玄奘所譯。纔五十四句。二百六十七字耳。泰伯所言非其自肯。安能爾哉。苑文正公以表薦于帝。甞就門下除一官。復差充太學說書。未幾是年卒。
(三十二) 浮山法遠禪師遷化。鄭圃田人也。出于王氏。年十九遊并州。見三交嵩公求出世法。嵩曰。汝當剃髮墮三寶數。乃可授法。遠曰。法有僧俗乎。嵩曰。與其為俗。曷若為僧。僧則能續佛壽命故也。於是斷髮受具。謁汾陽昭公。又謁汝海省公。皆受記莂。天禧中游襄漢隋郢。至大陽機語與明安延公相契。延嘆曰。吾老矣。洞上一宗遂竟無人耶。以平生所著直裰皮履示之。遠曰。當為持此衣履。求人付之如何。延許之曰。他日果得人出吾偈。為證偈曰。楊廣山前草。憑君待價焞。異苗蕃茂處。深密固靈根。其尾云。得法者潛眾十年。方可闡揚。遠拜受辭去。依滁之瑯瑘覺公。應舒之太平興國寺請說法。為省公之孠。次住姑胥天平。又住浮山。既老退休於會聖岩。遠玉骨插額目光外射。狀如王孫。凜然可畏。初歐陽文忠公。聞遠奇逸造其室。未有以異之。與客棊。遠坐其旁。歐收局。請遠因棊說法。乃鳴鼓升座曰。若論此事如兩家著棊相似。何謂也。敵手知音當機不讓若是綴五饒三。又通一路。始得有一般底。只解閉門作活。不會奪角衡關。硬節與虎口齊彰。局破後徒勞逴斡。所以道。肥邊易得瘦肚難求。思行則往往失粘。心麁而時時頭撞。休誇國手謾說神仙。贏局輸籌即不問。且道黑白未分時一著落在什麼處。良久曰。從前十九路。迷悟幾多人。文忠加歎久之。遠偈語妙密。諸方服其工。作三交嵩公讚曰。黃金打作鍮石筋。白玉碾成象牙梳。千手大悲拈不動。無言童子暗嗟吁。又作明安玄公贊曰。黑狗爛銀蹄。白象崑崙騎。於斯二無碍。木馬火中嘶。歿時已七十餘。雅自稱柴石野人(餘如本傳)。
(三十三 庚寅) 皇祐二年正月。詔大覺懷璉禪師住東都淨因。本漳州陳氏子。嗣泐潭澄公。甞燕坐室中。見金蛇從地而出。須臾隱去。識者贊為吉徵。師甞於廬山圓通掌記室。初仁宗聞圓通訥公名。詔住淨因。訥稱目疾不能奉詔。有旨令舉自代。遂舉師。先是仁廟閱投子語。至僧問如何是露地白牛投子連叱。乃有省製釋典頌十四章。其首篇曰。若問主人公。真寂合太空。三頭并六臂。臈月正春風。尋以賜璉。璉和曰。若問主人公。澄澄類碧空。雲雷時鼓動。天地盡和風。既進經乙夜之覽。宣賜龍腦鉢。璉謝恩罷捧鉢曰。吾法以壞色。以瓦鐵食。此鉢非法。遂焚之。中使回奏。皇情大悅。久之奏頌乞歸山曰。六載皇都唱道機。兩曾金殿奉天威。青山隱去欣何得。滿篋唯將御頌歸。上和曰。佛祖明明了上機。上機全得始全威。青山般若如如體。御頌收將什處歸。再進頌謝曰。中使宣傳出禁闈。再令臣住此禪扉。青山未許藏千拙。白髮將何補萬機。霄露息輝方湛湛。林泉情味苦依依。堯仁況是如天闊。應任孤雲自在飛。至治平中復上疏丐歸山。獻偈曰。千簇雲山萬壑流。歸心終老此峯頭。餘生願祝無疆壽。一炷清香滿石樓。英廟付以劄子曰。大覺禪師懷璉受先帝聖眷累錫宸章。屢貢欵誠乞歸林下。今從所請。俾遂閑心凡。經過小可菴院隨性住持。或十方禪林不得逼抑堅請璉。携之東歸鮮。有知者蘇翰林軾知杭州。以書問之曰。承要作宸奎閣碑。謹已撰成。衰朽廢學不知堪上石不。見參寥說。禪師出京日。英廟賜手詔。其略云。任性住持。不知果有不切請錄示全文。欲添入此一節。璉終藏不出。逮委順後。獲於篋笥。其不暴曜若此。
(辛卯) 世尊示滅二千年矣。
(三十四 壬辰) 雪竇顯禪師。字隱之。太平興國五年四月八日生于遂州李氏。幼精銳。讀書知要。下筆敏速。然雅志丘壑。父母不能奪。依益州普安院仁銑為師落髮受具。出蜀浮沈荊渚間。歷年甞典賓大陽。與客論趙州宗旨。客曰。法眼禪師甞邂逅覺鐵觜於金陵。覺趙州侍者也。號稱明眼。問曰。趙州柏樹子因緣記得不。覺曰。先師無此語。莫謗先師好。法眼曰。真獅子窟中來。覺公言無此語。而法眼肯之。其旨安在。顯曰。宗門抑揚那有規轍乎。時有苦行名韓大伯者。貌寒㾛侍其旁輒匿笑去。客退顯數之曰。我偶客語。爾乃敢。慢笑。笑何事。對曰。笑知客智眼未正擇法不明。顯曰。豈有說乎。對以偈曰。一兔橫身當古道。蒼鷹纔見便生擒。後來獵犬無靈性。空向枯樁舊處尋。顯陰異之。結以為友。北遊至復州北塔。祚公香林之嫡孠雲門之孫也。祚遠皆蜀人。知見高莫能覯其機。顯俊邁。祚愛之。遂留五年。盡得其道。顯與學士曾公會厚善。相值淮南。問顯。何之。曰將造錢唐絕西興登台雁。曾曰。靈隱天下勝處。珊禪師吾故人。以書薦顯。顯至靈隱。三年陸沈眾中。俄曾公奉使浙西訪顯于靈隱。無識之者。堂僧千餘人使吏檢床曆。物色求之。乃至。曾問向所附書。顯袖納之。曰公意勤。然行脚人非督郵也(一曰然行脚人於世無求敢希薦達)曾公大笑。珊公以是奇之。吳中翠峯虛席舉。顯出世開法日顧視大眾曰。若論本分相見。不必高陞此座。乃以手指曰。諸人隨山僧手看無量佛土一時現前。各各子細觀瞻。其或涯涘未分。不免拕泥帶水。於是登座。又環顧大眾曰。人天普集。合發明何事豈可互分賓主馳騁問答。便當宗乘去。廣大門風威德自在。輝騰今古把定乾坤。千聖只言自知。五乘莫能建立。所以聲前悟旨。猶迷顧鑑之端。言下知歸。尚昧識情之表。諸人要識真實相為麼。但得上無攀仰。下絕己躬。自然常光現前。箇箇壁立千仞。還辯明得也無。未辯辯取。未明明取。既辯明得。便能截生死流踞佛祖位。妙圓超悟正在此時。堪報不報之恩。以助無為之化。後遷明之雪竇。宗風大振。天下龍蟠鳳逸。衲子爭集。號雲門中興。甞經行植杖。眾衲遶之忽問曰。有問雲門。樹凋葉落時如何。曰體露金風。雲門答者僧耶。為解說耶。有宗上座曰。待老漢有悟處即說。顯孰視驚曰。非韓大伯乎。曰老漢瞥地也。於是令撾鼓眾集顯曰。今日雪竇宗上座。乃是昔年大陽韓大伯具大知見。晦迹韜光。欲得發揚宗風。幸願特升此座。宗遂陞座。僧問。劍未出匣時如何。曰神光射斗牛。問出匣後如何。曰千兵易得一將難求。僧退。宗乃曰。寶劍未出匣。神光射斗牛。千兵雖易得。一將實難求。便下座。一眾大驚。師敷揚宗旨。妙語遍叢林。皇祐四年六月十日沐浴罷。整衣側臥而化。閱世七十二。坐五十夏。建塔山中。得法上首。天衣義懷禪師。
(甲午) 改至和○封孔愿衍聖公。
(三十五) 華嚴道隆禪師。不知何許人。至和初遊京師客景德寺。日縱觀都市。歸甞二鼓。謹門者呵之不悛。一夕還不得入。臥于門之下。仁宗夢至景德寺門見龍蟠地。驚覺中夜遣中使往視之。乃一僧孰睡已再鼾。撼之驚矍。問名字歸奏。上問。名道隆。乃喜曰。吉徵也。明日召至遍殿問宗旨。隆奏對詳允。上大悅。有旨舘于大相國燒朱院。王公貴人爭先願見。隆未盥漱戶外之屨滿矣。上以偈句相酬唱絡繹於道。或入對留宿禁中。禮遇特厚。賜號應制明悟禪師。隆少時事石門徹公。親授洞山旨訣。後謁廣慧璉公。慧方欲剃髮。使隆將櫈子來。廣慧曰。道者我有櫈子詩聽取。詩曰。放下便平隱。後因敘陳在石門所悟公案。慧曰。石門所示如百味珍羞。只是飽人不得。後來有炷香。不欲兩頭三緒為伊燒却。故為璉之嗣。隆為人寬厚不矜伐。以真慈普敬行心。歿時年八十餘。盛暑安坐。七日手足柔和。全身建塔于寺之東(廣如本傳)。
(乙未) ○遼洪基道宗立。興宗子也。改年清寧(治四十六年)。
(丙申) 嘉祐元年。
(三十六) 五年正月元日。達觀曇頴禪師遷化。生錢唐丘氏。年十三依龍興寺為大僧神情秀特。於書無所不觀。為詞章多出塵語。十八九遊京師。時歐陽文忠公在場屋。頴識之游相樂也。初謁大陽明安禪師。問洞上特設偏正君臣。意明何事。安曰。父母未生時事。又問。如何體會。安曰。夜半正明天曉不露。頴罔然棄去。至石門謁聰禪師。理明安之語曰。師意如何。聰曰。大陽不道不是。但口門窄。滿口說未盡。老僧則不與麼。頴曰。如何是父母未生事。聰曰。糞墼子。又問。如何是夜半正明天曉不露。聰曰。牡丹叢下睡猫兒。頴愈疑駭日扣之。竟無得益。自奮曰。吾要以死究之。不解終不出山。聰一日見普請。問曰。今日運薪乎。頴曰。然運薪。聰曰雲門甞問。人搬柴柴搬人。如何會。頴不能對。聰因植杖於座笑曰。此事如人學書。點畫可傚者工。不者拙。何故如此。未忘法耳。如有法執。故自為斷續。當筆忘手手忘心乃可也。頴於是默契其旨。良久曰。如石頭曰。執事元是迷契理亦非悟。既曰契理。何謂非悟。聰曰女以此句為藥語為病語。頴曰。是藥語。聰呵曰。女乃以病為藥。又可哉。頴曰。事如函得蓋理如箭直鋒。妙寧有加者。而猶以為病。茲實未諭。聰曰。借其妙至走。亦止明事理而已。祖師意旨知識所不能到。矧事理乎。故世尊曰。理障礙正知見。事障能續生死。頴恍如夢覺曰。如何受用。聰曰。語不離窠臼。安能出蓋纏。頴嘆曰。纔涉唇吻便落意思。皆是死門終非活路。辭去過京師。寓止駙馬都尉李端愿之園。日夕問道。一時公卿多就見聞其議論。隨機開悟李公問曰。地獄畢竟是有是無。答曰。諸佛向無中說有。眼見空花。太尉向有中覓無。手[搘-日+且]水月。堪笑眼前見牢獄不避。心外見天堂欲生。殊不知忻怖在心善惡成境太尉但了自心。自然無惑。曰心如何了。答曰。善惡都莫思量。又問。不思量後心歸何所。頴曰。且請太尉歸宅。頴東遊初住舒州香鑪峯。移住潤州因聖太平之隱靜明之雪竇。又遷金山龍游寺。嘉祐四年除夕。遣侍者持書別楊州刁景純學士曰。明旦當行。不暇相見。厚自愛。景純開書乃驚曰。當奈何。復書決別而已。中夜侯吏報。揚州馳書船將及岸。頴欣然遣撾鼓陞座。敘出世本末謝裨贊叢林者。勸修勿怠。曰吾化當以賢監寺次補下座讀景純書畢。大眾擁步上方文。頴跏趺揮令各遠立。良久乃化。閱世七十有二。夏五十有三。
(己亥) ○歐陽脩宋祁。修唐書成○修又撰五代史七十四卷。將舊唐史所載釋道之事。並皆刪去。惜哉。
(庚子) ○六月丞相曾公亮進新修唐書二百五十卷。
(三十七) 天衣義懷禪師。生陳氏。溫州樂清人。世以漁為業。母夢星隕于屋除而光照戶。遂娠。及生尤多奇。兒稚坐父船尾。漁得魚付懷。懷不忍串之。私投江中。父怒笞詬。甘甜之(不以介意。長游京師。依景德寺試經得度)時有言法華者。不測人也。行市中拊懷背曰臨濟德山去。初謁金鑾善禪師不契。後謁葉縣省公。又不契東遊洞庭翠峯。懷當營炊自汲㵎折檐悟旨。顯公印可以為奇。辭去久無耗。有僧自淮上來曰。懷出世鐵佛矣。顯使誦提唱之語。譬如雁過長空影沈寒水。雁無遺踪之意水無留影之心。顯激賞以為類己。先使慰撫之。乃敢通門人之禮。諸方服其精識。自鐵佛至天衣。五遷法席。皆荒涼處。懷至必幻出樓觀。晚以疾居池州杉山菴。弟子智才住杭之佛日。迎歸家侍劑藥。才如姑胥未還。懷促其歸至門。而懷已別眾。才問。卯塔已畢。如何是畢竟事懷堅拳示之。遂倒臥推枕而化。世壽七十二坐四十六夏。葬佛日山。崇寧中勅諡振宗大師。
(三十八 癸辰) 三月廿八日帝崩○歐陽文忠公昔官洛中。一日遊嵩山。却去僕吏放意而往。至一山寺。入門脩竹滿軒。公休於殿陛。旁有老僧。閱經自若。與語不甚願答。公心異之。曰道人住山久如。曰甚久也。又問。誦何經。曰法華經。公曰。古之高僧臨生死之際。類皆談笑脫去。何道致之耶。對曰。定慧力耳。又問。今乃寂寥無有何哉。老僧笑曰。古之人念念在定慧。臨終安得亂。今之人念念在散亂。臨終安得定。文忠大驚。不自知膝之屈也。謝希深甞作文記其事。林間。
(三十九) 比京天鉢寺重元禪師。出青州千乘縣孫氏。法嗣天衣。文潞公彥博出相鎮魏府。請住本寺。是夏別公示寂。茶毘烟到成舍利。公執瓶禱之。烟入。舍利填瓶。公乃竭志內典焉。
(四十 甲辰) 改治平。英宗署(太祖孫濮安懿王名讓之子。初名宗實。仁宗無子。立為皇子。賜名曙。韓琦司馬光定策立之。三十三歲即位。三十七歲崩在位四年)。
(四十一) 雲峯文悅禪師南昌人。生於徐氏。七歲剃髮於龍興寺。短小粹美。有精識。年十九策杖遊江淮。至筠州大愚。見屋老僧殘荒涼如傳舍。芝自提笠。日走市井。暮歸閉關。高枕悅無留意焉。欲裝包發去。將行而雨雨止。芝陞座。曰大家相聚喫莖虀。喚作一莖虀入地獄如箭射。下座。無他語。悅大駭。夜造丈室。芝曰。來何所求。曰求佛心法。芝曰。法輪不轉食輪先轉。後生趁有色力。何不為眾乞食。我忍飢不暇。暇為女說法乎。悅不違。即請行。及還移住西山翠岩。悅又往依之。夜詣丈室。芝曰。又欲求佛心法乎。女不念乍住屋壁疎漏。又寒雪。我日夜望女來為眾營炭。我忍寒不能。能為女說法乎。悅又不敢違。入城化炭還。時維那缺。悅夜造丈室。芝曰。佛法不怕爛却堂司一職今以煩女。悅不得語而出。明日鳴犍椎堅請。悅有難色。拜起欲棄去。業已勤勞久因中止。然恨芝不去心。地坐後架。架下東破桶。盆自架而墮。忽開悟。頓見芝從前用處。走搭伽梨上寢堂。芝迎笑曰。維那且喜大事了畢。悅再拜汗下。不及吐一詞而去。服勤八年而芝歿。東游三吳。所至叢林改觀。雪竇顯禪師尤敬畏之。每集眾茶橫。設特榻示禮異之。南昌移文請住翠峯。又遷雲峯嘉祐七年七月八日陞座。辭眾說偈曰。住世六十六年。為僧五十九夏。禪流若問旨歸。鼻孔大頭向下。遂泊然而化。闍維得五色舍利。塔於禹溪之北(余如傳燈)。
(丙午) (三月彗現西方。庚申晨見于室。本大如月。長七尺許。丁巳昏見于昴。如太白。長丈有五尺。壬午孛于畢。如月。至五日。沒次年正月上崩于福寧殿矣)。
(四十二 丁未) 詔民間私造寺院屋宇及三十間者。可賜額曰壽聖悉存之。
大教東被一千年矣。
佛祖歷代通載卷第十八
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第十九
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
(一 戊申) 神宗頊(母曰宣仁聖烈皇后。高氏曹太后之甥也。幼與英宗同鞠后所。後為英宗配。生帝。自頴王為太子尋即位。三十八歲崩于福寧殿。葬永裕陵)改年熙寧(是年地動非常)遼國咸雍四年(是年金主阿骨打生)。
知諫院錢公輔言。遇歲飢。河決粥祠部以濟急。從之。
(二 辛亥) 是年三月十六日。圓通居訥禪師卒。字中敏。出于蹇氏。梓州中江人。少而英特。詩書過目成誦。年十一依漢州什邡竹林寺元昉。十七試法華得度。受具於頴真律師。以講學冠兩川。耆年多下之。會有禪者自南方還。稱祖道被天下。馬大師什邡人。應般若多羅讖蜀之豪俊以經論聞者如亮公。而亮棄徒隱西山。如鑒公而鑒焚疏鈔稱滴水莫敵巨海。訥憮然良久曰。汝知之乎。曰我不能知。子欲知之。何惜一往。訥於是出蜀。後遊廬山得法于榮禪師。南康守程師孟請住歸宗。又遷圓通。仁宗皇帝聞其名。皇祐初。詔住京之淨因。訥稱目疾不能奉詔。有旨令舉自代。遂舉僧懷璉。禪學精深居某之右。於是璉應詔。引對問佛法大意。稱旨。天下賢訥知人。既老休居於寶積岩。無疾而化。世壽六十有二。坐四十有五夏。
(三 壬子) 明教契嵩禪師。字仲靈。藤州鐔津李氏子也。七歲出家。既受具。甞戴觀音像誦其名號。一日十萬聲。經傳雜書靡不博究。得法洞山聰公。明道間從豫章西山歐陽氏昉借其家藏之書。讀於奉聖院。遂以佛五戒十善通儒之五常。著為原教篇。是時歐陽文忠公慕韓昌黎排佛。旴江李泰伯亦其流。嵩乃携所業三謁泰伯。以儒釋脗合。且杭其說。李愛其文之高理之勝。因致書譽嵩於歐陽。既而居杭之靈隱。撰正宗記定祖圖。齎往京師。經開封府。投狀府尹王公素仲儀。以劄子進之曰。臣今有杭州靈隱寺僧契嵩。經臣陳狀稱。禪門傳法祖宗未甚分明。教門淺學各執傳記。古今多有爭競。故討論大藏備得禪門祖宗本末。因刪繁撮要撰成傳法正宗記一十二卷并畫祖圖一面。以正傳記謬誤。兼著輔教篇。印本一部三卷。上陛下書一封。並不干求恩澤。乞臣繳進。臣於釋教粗曾留心。觀其筆削註述。故非臆論。頗亦精緻。陛下萬機之暇。深得法樂。願賜聖覽。如有可采乞降中書看詳。特與編入大藏目錄。取進止。仁廟覽其書可其奏。勅送中書。丞相韓魏公。參政歐陽文忠公。相與觀歎。探經考證既無訛謬。於是朝廷旌以明教大師。賜書入藏。中書劄子有曰。權知開封府王索奏。杭州靈隱寺僧契嵩。撰成傳法正宗記并輔教編三卷。宜令傳法院於藏經收附。傳法院准此。由是名振海內。已而東還。屬蔡公襄為守延置佛日山。居數年退老于靈隱永安精舍熙寧五年示寂。闍維六根不壞者三。曰眼。曰舌。曰童真。與頂骨數珠為五。舍利紅白晶潔狀如大菽。葬于永安之左。
(四) 白雲守端禪師示寂。生衡之葛氏。幼工翰墨。不喜處俗。依茶陵郁山主剃髮。年二十餘參顒禪師。顒沒楊岐會公嗣居焉。一見端奇之。每與語終夕。一日忽問上人受業師。端曰。茶陵郁和上。曰吾聞其過溪有省作偈甚奇。能記不。端即誦曰。我有明珠一顆。久被塵勞羈鎖。今朝塵盡光生。照見山河萬朵。會大笑起去。端愕視左右。通夕不寐。明日求入室咨諭其事。時方歲旦。會曰。汝見昨日昨夜狐者麼。端曰見。會曰。汝一籌不及渠。端又大駭曰。何謂也。會曰。渠愛人笑。汝怕人笑。端於言下大悟。辭去游廬山。圓通訥公見之自以為不及。舉住江州承天。又讓席以居之。而自處東堂。端時年二十八。自以前輩讓善叢林責己甚重。故敬嚴臨眾以公滅私。於是宗風大振。未幾訥公厭閒寂郡守至。自陳客情。太守惻然目端端笑唯唯而已。明日升座。曰昔法眼有偈曰。難難難是遣情難。淨盡圓明一顆寒。方便遣情猶不是。更除方便太無端。大眾且道。情作麼生遣。喝一喝下座負包去。一眾大驚挽之。不可遂渡江。夏於五祖之閒房。舒州小剎號法華。住持者如籠中鳥不忘飛去。舒守聞端高風。欲以觀其人。移文請居之。端欣然杖策來。衲子至無所容。士大夫賢之。及遷白雲。海會升座。顛視眾曰。鼓聲未擊已前。山僧未登座之際。好箇古佛樣子。若人向此薦得。可謂古釋迦不前。今彌勒不後。更聽三寸舌頭帶出來虛。早已參差。須有辨參差眼方救得完全。乃曰。更與汝老婆。開口時。末上一句正道著。舉步時。末上一步正踏著。為什麼鼻孔不正。為尋常見鼻孔頑了。所以不肯放心。今日勸諸人發却去。良久曰。一便下座。其門風悄拔類此。
(癸丑) 詔同天節日普度僧尼。
(五) 法師惠辯。字訥翁。華亭傅氏。號海月。受業普照。初遊學天竺明智一見奇之。即盡心學教觀。智將老。命居第一座。以代講。後八年明智。韶公俾繼主席。翰林沈遘治杭任威。見者多惶懼失據。辯從容如平生。遘異之。任以都僧正。東坡時為通守。作序以贈之曰。錢唐佛僧之盛。蓋甲天下。道德才智之士與妄庸巧偽之人。雜處其間。號為難齊。故僧正副之外。別補都僧正一員。簿書案牒奔走將迎之勞。專責副正以下。而都師總領要略。實以解行表眾而已。師既莅職。凡管內寺院虛席者。即涓日會諸剎及座下英俊。開問義科場。設棘圍糊名考校。十問五中者為中選。不及三者為降等。然後隨院等差以次補名。由是諸山仰之。咸以為則。講授二十五年。學者當及千人。晚年倦于勤。歸隱草堂。熙寧六年七月十七日。旦起盥濯。告眾就別。合掌跏趺而化。初辨遺言。須東坡至方闔龕。四日坡至。見跏趺如生。其頂尚溫。坡盡敬而去。
(丁巳) 荊國公王安石。奏施金陵舊第為寺。請真淨克文住持。賜額曰保寧。
(戊午) 改元豐。
(庚申) 慈聖光獻太后。是歲二月崩。會京城千座法師于慶壽殿齋。例賜椹服師名○制革相國寺六十四院。為二禪八律。詔宗本禪師住惠林。引對於延和殿問法。
(六 辛酉) 吉州慶閑禪師示寂。出卓氏福州人也。法嗣南禪師。茶毘烟至舍利遍布四十餘里。蘇子由為銘。
(癸亥) 京城剏法雲寺成。
(七) 舒州投子。名義青。本青社人。李氏子也。七齡頴異。去妙相寺出家。十五試法華得度。為大僧。其師使習百法論。嘆曰。三祇途遠。自困何益哉。入洛中聽華嚴五年。反觀文字一切如肉受串。處處同其義味。甞講至於法慧菩薩偈曰。即心自性。忽猛省曰。法離文字。寧可講乎。即棄去遊方至浮山。時圓鑑遠公。退席居會聖岩。夢得俊鷹畜之。既覺而青適至。遠以為吉徵。加意延禮之。留止三年。遠問外道問佛。不問有言不問無言時如何。世尊默然。汝如何會。青擬進語。遠驀以手掩其口。於是青開悟拜記。遠曰。汝妙悟玄微耶。對曰。設有妙悟也須吐却。時有資侍者在旁曰。青華嚴今日如病得汗。青回顧曰合取狗口。汝更忉忉我即便嘔。服勤又三年。浮山以大陽皮履布裰付之曰。代吾續洞上之風。吾住世非久。善自護持。母留此間。青遂辭出山。閱大藏於廬山惠日寺。熙寧六年還龍舒。道俗請住白雲山海會寺。計其得法之歲。至此適幾十年。又八年移投子山。道望日遠。禪者日增。異苗蕃茂果符前讖。青平生不畜長物。弊衲楮衾而已。初開山慈濟有記曰。吾塔若紅。是吾再來。邦人偶修飾其塔。作瑪瑙色。未幾而青領院事。山中素無水。眾每以為病。忽有泉出山石間。甘涼清潔。郡守賀公名為再來泉。元豐六年四月末示微疾。以書辭郡官諸檀越。五月四日灌沐升座別眾罷。寫偈曰。兩處住山。無可助道。珍重諸人。不須尋討。遂泊然而化。闍維收靈骨舍利。塔于寺之西北三峯庵之後。閱世五十有二。坐夏三十有七。無為子楊傑為贊其像曰。一隻履兩牛皮。金鳥啼處木雞飛。半夜賣油翁發笑。白頭生得黑頭兒。有得法上首一。名道楷禪師。
(八 甲子) 司馬光表進所編書。賜名資治通鑑。帝親製序。授資政殿學士。甞作秀水真如華嚴法堂記曰。壬辰歲夏四月。僧清辨踵門來告曰。清辨秀州真如草堂僧也。真如故有講堂。痺狹不足以庥學者。清辨與同術惠宗治而新之。今高顯矣。願得子之文。刻諸石以諗來者。光謝曰。光文不足以辱石刻。加平生不習佛書。不知所以云者。師其請諸他人。曰清辨所不敢請也。故維子之歸。而子又何辭。光固辭不獲。乃言曰。師之為是堂也。其志何如。曰清辨之為是堂也。屬堂中之人而告之曰。二三子苟能究明吾佛之書。或不能則將取於四方之能者。皆伏謝不能。然後相率抵精嚴寺迎沙門道歡而師之。又屬其徒而告之曰。凡我二三子。肇自今以及于後。相與協力同志。堂圮則扶之。師缺則補之以至于金石可弊山淵可平。而講肄之聲不可絕也。光曰。師之志則美矣。抑光雖不習佛書。亦甞剽聞佛之為人矣。夫佛蓋西域之賢者。其為人也。清儉而寡欲。慈惠而愛物。故服弊補之衣。食蔬糲之食。岩居野處斥妻屏子。所以自奉甚約而憚於煩人也。雖草木蟲魚。不敢妄殺。蓋欲與物並生而不相害也。凡此之道皆以涓潔其身。不為物累。蓋中國於陵子仲焦先之徒近之矣。聖人之德周。賢者之德徧。周者無不覆。而末流之人猶未免棄本而背原。況其偏者乎。故後世之為佛書者。日遠而日訛。莫不侈大其師之言而附益之。以淫怪誣罔之辭。以駭俗人而取世資厚。自豐殖不知厭極。故一衣之費或百金。不若綺紈之為愈也。一飯之直或萬錢。不若膾炙之為省也。高堂鉅室以自奉養。佛之志豈如是哉。天下事佛者莫不然。而吳人為甚。師之為是堂。將以明佛之道也。是必深思於本原而勿放蕩於末流。則斯堂為益也。豈其細哉。
(九) 金國李屏山曰。蘇軾作司馬光墓誌云。公不喜佛曰。其精微大抵不出於吾書。其誕吾不信。嗟乎聰明之障人如此其甚耶。同則以為出於吾書。異則以為誕而不信。適足以自障其聰惠而已。聖人之道。其相通也。如有關龠。其相合也。如有符璽。相距數千里。如處一室。相繼數萬世。如在一席。故孔子曰。西方有聖人焉。莊子曰。萬世之後一遇大聖而知其解者。是旦暮遇之也。其精微處安得不同。列子曰。古者神聖之人。先會鬼神魑魅。次達八方人民。末聚禽獸蟲蛾。備知萬物情態。悉解異類音聲。其所教訓無遺逸焉。何誕之有。孔子游方之內。故六合之外存而不論。鄒衍列禦寇莊周方外之士。已無所不談矣。顧不如佛書之縷縷也。以非耳目所及。光不敢信。既非耳目所及。吾敢不信耶。郭璞日者也。十年於晉室。若合符券。疑吾佛不能記百萬之多劫耶。左慈術士也。變形於魏都。皆同物色。疑吾佛不能示千百億之化身耶。長房壺中之遊。人信之矣。不信維摩丈室容三萬座與納須彌於芥子中之說乎。邯鄲枕上之夢。人信之矣。不信多寶佛塔住五千劫耶。度僧祇如彈頃指之說乎。若俱不信。不知光亦甞有夢否。瞑於一床栩栩少時也。山川聚落森然可狀。人物器皿何所不有。俯仰酬酢於其間。自成一世。此特凡夫第六分離識之所影現者耳。其力如是。況以如來大圓鏡智菩薩之幻三昧乎。學者當自消息之。毋虛名所劫持也。
(十 乙丑) 程顥明道先生門人諡也。神宗素聞其名數召見。一日因與安石論事不合。安石曰。公之學如上壁。言難行也。顥曰。參政之學如捉風。李定劾其新法之初首為異論。罷歸故官。又坐獄逸囚。責監汝州。上即位召為宗正。未行而卒。顥與弟頤論學汝南周敦。遂厭科舉之習。慨然有求道之志。謂孟軻沒而聖學不傳。以興起斯文為己任。其言曰。道之不明。異端害之也。昔之害近而易知。今之害深而難辨。昔之惑人也。乘其迷暗。今之惑人也。因其高明。自謂窮神知化。而不足以開物成務。名為無不周遍。而其實則外於倫理。雖云窮深極微。而不可以入堯舜之道。天下之學者非淺陋固滯。則必入於此。自道之不明也。邪誕妖異之說競起。塗生民之耳目。溺天下於污濁。高才明智膠於見聞。醉生夢死不自覺也。是皆正路之蓁蕪。聖門之蔽塞。闢之可以入道。其教人自致知至于知止。誠意至于平天下。洒掃應對至於窮理盡性。循循有序。病世之學者捨近而趨遠。處下而窺高。所以輕自大而卒無得也○金國李屏山居士辨曰。
(十一) 程顥論學於周敦頤曰。道之不明。異端害人也。古之害近而易知。今之害深而難辨。昔之惑人也。乘其迷暗。令之惑人也。因其高明。自謂之窮神知化。而不足以開物成務。名為無不周遍。而其實乖於倫理。雖云窮深極微。而不可以入堯舜之道。天下之學者非淺陋固滯。則必入於此。悲夫。諸儒排佛老之言。無如此說之深且痛也。吾讀周易知異端之不足怪。讀莊子知異端之皆可喜。讀維摩經知其非異端也。讀華嚴經始知無異端也。周易曰。夫道並行而不相悖。或處或出或默或語。殊塗而同歸。一致而百慮。雖有異端何足怪耶。莊子曰。不見天地之全。古之人大體道術。為天下裂。如耳目鼻口之不相通。楂梨橘柚之不同味。雖不足以用天下。可為天下用。恢詭譎怪道通為一。是異端皆可喜者。維摩經曰。諸邪見外道皆吾侍者。六地菩薩乃作魔。謗于佛毀於法。不入眾數。隨六師墮。乃可取食。然無異端也。華嚴經曰。入法界品。諸善知識。阿僧祇數皆於無量劫行菩薩道。國王長者居士僧尼婦人童女外道鬼神船師醫卜與粥香者。無非法門。略見五十三種。無厭足王之殘忍。婆須密女之淫蕩。勝熱仙人之刻苦。聚沙童子之嬉劇。大天之怪異。主夜之幽陰。皆有大解脫門。此法界中無復有異端事。道無古今。害豈有深淺哉。但恐迷暗者未必迷暗。高明者自謂高明耳。甞試論之。三聖人者同出於周。如日月星辰之合於扶桑之上。如江河淮漢之匯於尾閭之淵。非偶然也。其心則同。其迹則異。其道則一。其教則三。孔子游方之內。其防民也。深恐其眩于太高之說。則蕩而無所歸。故約之以名教。老子游方之外。其導世也。切恐其昧于至微之辭。則塞而無所入。故示之以真理。不無有少齟齬者。此其徒之所以支離而不合也。吾佛之書既東。則不如此。大包天地而有餘。細入秋毫而無間。假諸夢語戲此幻人。五戒十善。開人天道於鹿苑之中。四禪八定。建聲聞乘於鷲峯之下。六度萬行。種菩薩之因。三身四智。結如來之果。登正覺於一剎那間。度有情於阿僧祇劫。竪窮三界橫遍十方。轉法輪於彈指頃。出經卷於微塵中。律儀細細八萬四阡。妙覺重重單複十二。陰補禮經。素王之所未制。徑開道學。玄聖之所難言。教之大行誰不受賜。如游魚之於大海出沒其中。如飛鳥之於太虛縱橫皆是。薰習肌骨如簷蔔香。灌注肝腸如甘露漿。翰墨文章。亦游戲三昧。道冠儒履。皆菩薩道場。諸君之聰慧辨才。亦必有所從來。特以他生之事而忘之耳。況程氏之學出於佛書。何用故謗傷哉。又字字以誠教人。而自出此語。將以欺人則愚。將以自欺則狂。惜哉。窮性理之說。既至於此而胸中猶有此物。真病至於膏肓者也。夫吁。
(十二 丙寅) 哲宗煦(神宗第六子。初為延安郡王。神宗大漸。立為太子。甞羸疾。惡臣下仰視者。轉殺之。非仁君也。十歲即位。太后高氏臨朝。九年後歸政。二十五歲崩。葬永泰陵。在位十五年)改年元祐。
遼咸雍二十二年。
(十三) 無盡張商英。以序送羽士蹇拱辰字翊之往參廬山照覺總禪師。其文曰。成都道士蹇翊之來言於予曰。吾鄉羽衣之族。世相與為婚姻。娶妻生子與流俗無異。拱辰因觀道藏神仙傳記。翻然覺悟。當吾血氣剛強視聽聰明。喔咿哇鳴順吾耳。青黃赤白炫吾目。甘脆膏腴爽吾口。馨香馥烈適吾鼻。滑澤纖柔佚吾體。歡忻動蕩感吾意。此六寇者。乘吾瞀亂。晝夜與吾相親。而未甞相釋也。一旦吾之形耗而羸。氣耗而衰。精耗而萎。神耗而疲。八風寒暑之所薄。百邪鬼祟之所欺。陰魄欲沈。陽魂欲飛。則六寇者曾莫吾代。而天下之至苦。吾獨當之。房闥之戀莫如婦。血肉之恩莫如女。拱辰於是悉囊中之所有。與之而謝去。紿以他事。出遊百里。遂泛涪江下濮水。歷縉雲出塗山。訪岑公之洞府。瞻神女之祠觀。而達於渚宮也。將泛九江入廬山。結茅於錦繡之谷。長嘯於香爐之頂。撫陶石以遙想。揖遠溪以濯足。蓋吾之術。以性為基。以命為依。始乎有作終乎無為。竊聞先生究離微之旨。窮心迹之歸。奏無絃之曲。駕鐵牛之機。故不遠而來見先生也。當試為余言之。余曰壯哉子之志乎。難行能行。難棄能棄。吾弗及子矣。余適有口疾。不能答子。吾有方外之侶曰常總。居於東林。必能決子之疑。請將吾之說而往問焉。
(丁卯) 詔革大洪山靈峯寺為禪院。
(十四) 僧統義天。王氏。高麗國文宗仁孝王第四子。辭榮出家。封祐世僧統。元祐初入中國問道。義天上表乞傳賢首教。勅兩街舉可授法者。以東京覺嚴誠禪師對。誠舉錢唐惠因淨源以自代。乃勅主客楊傑。送至惠因受法。諸剎迎餞。如行人禮。初至京師。朝畢勅禮部蘇軾館伴。謁圓照本禪師。示以宗旨。至金山。佛印坐納其禮。楊傑驚問。印曰。義天異域僧耳。若屈道徇俗諸方先失一隻眼。何以示華夏師法乎。朝廷聞之以為知體。至惠因持華嚴疏鈔咨決所疑。閱歲而畢。於是華嚴一宗文義逸而復傳。及見天竺慈辨。請問天台教觀之道。後遊佛隴禮智者塔。誓曰。已傳慈辨教觀。歸國敷揚。願賜冥護。又見靈芝大智。為說戒法。請傳所著文還國。及施金書華嚴三譯於惠因(今俗稱高麗寺)建閣藏之。
(十五 戊辰) 杭州晉水法師淨源。十一月示寂。晉江楊氏。受華嚴於五臺承遷。遷甞注金師子章。學合論于橫海明覃。南還聽楞嚴圓覺起信於長水。四方宿學推為義龍。因省親于泉。請主清涼。復遊吳住報恩觀音。杭守沈文通置賢首院於祥符。以延之。復主青鎮密印寶閣華亭普照善住。高麗僧統義天。杭海問道。申弟子禮。初華嚴一宗疏鈔久矣散墜。因義天持至咨決。逸而復得。左丞蒲宗孟撫杭。愍其苦志。奏以惠因易禪為教。命公主之。義天還國以金書華嚴三譯本一百八十卷。以遺師。為主上祝壽(晉嚴觀一法師同譯六十卷唐實叉難陀譯八十卷唐烏茶進本澄觀法師譯四十卷)師乃建大閣以奉安之。時稱師為中興教主。以此寺奉金書經故。俗稱高麗寺。塔舍利于寺西北。壽七十八。先世泉之晉水人。故學者以晉水稱之實元祐三年也。
(十六) 蔣山贊元禪師。字萬宗。婺州義烏人。雙林傅大士遠孫也。三歲出家。七歲為大僧性重遲閒靖寡言。視之如鄙朴人。然於傳記無所不窺。吐為詞語多絕塵之韻。特罕作耳。年十五游方。至石霜謁慈明昉舂破薪。泯泯混十年。明移南岳。又與俱。及沒葬骨於石霜。植種八年乃去。兄事蔣山心公。心沒以元繼其席。舒王初丁太夫人憂。讀經山中。與元游如昆仲問祖師意旨。元不答。王益扣之。元曰。公般若有障三有近道之質。一兩生來恐純熟。王曰。願聞其說。元曰。受氣剛大世緣深。以剛大氣遭深世緣。必以身任天下之重。懷經濟之志用舍不能必。則心未平。以未平之心持經世之志。何時能一念萬年哉。又多怒而學問尚理。於道為所知愚。此其三也。特視名利如脫髮。甘澹泊如頭陀。此為近道。且當以教乘滋茂之可也。王再拜受教。自熙寧之初。王入對。遂大用至真拜貴震天下。無月無耗元未甞發視。客來無貴賤寒溫外無別語。即斂目如入定。客即去。甞饌僧。俄報火厨庫且以潮音堂。眾吐飯蒼黃蜂窘蟻鬧。而元啜啖自若。高視屋梁食畢無所問。又甞出郭。有狂人入寺手刃一僧即自殺。尸相枕。左右走報交武於道。自白下門群從而歸。元過尸處未甞視。登寢室危坐。聽事者側立。冀元有以處之。而斂目如平日。於是稍稍隱去。卒不問。元祐初曰吾欲還東吳。促辦嚴。
(十七 己巳) 俄化。王哭之慟塔于蔣山。蘇老泉甞作彭州圓覺院記。其文曰。人之居乎此也。必有樂乎此也。居斯樂不樂不居也。居而不樂。不樂而不去。為自欺。且為欺天。蓋君子恥食其食而無其功。恥服其服而不知其事。故居而不樂。吾有吐食脫服以逃天下之譏而已年。天之卑我以形。而使我以心馭也。今日欲適秦。明日欲適越。天下誰我禦。故居而不樂。不樂而不去。是其心且不能馭其形。而況能以馭他人哉。自唐以來。天下士大夫。爭以排釋老為言。故其徒之欲求知於吾士大夫之間者。往往自叛其師以求容於吾。而吾士大夫。又喜其來而接之。禮靈徹文暢之徒。飲酒食肉以自絕於其教。嗚呼歸爾父母。復爾室家。而後吾許爾以叛爾師。父子之不歸。室家之不復。而師之叛。是不可以一日立于天下。傳曰。人臣無外交。故季布之忠於楚也。雖不如蕭韓之先覺。而比丁公之貳則為愈。予在京師。彭州僧保聰來求識予甚勤。及至蜀聞其自京師歸。布衣蔬食以為其徒先。凡若干年。而所居圓覺院大治。一日為予道其先師平潤事與其院之所以得名者請予為記。予佳聰之不以叛其師悅予也。故為之記曰。彭州龍興寺僧平潤。講圓覺經有奇。因以名院。院始弊不葺。潤之來始得隙地。以作堂宇。凡更二僧而至于保聰。又合其隣之僧屋若干於其院。以成。是為記。
(十八 庚午) 蘇軾以龍圖閣學士知杭州。奏浚西湖際山為岸。杭人呼曰蘇公堤。紹聖四年。移謫儋州。至元符三年六月。歸自海外居常州。軾謫黃州日。築室東坡號居士。靖國元年辛巳七月廿八日卒。朝奉郎提舉成都五局觀。甞作佛印磨衲贊曰。長老佛印大師了元游京師。天子聞其名。以高麗所貢磨衲賜之。客有見而歎曰。嗚呼善哉未甞有也。甞試與子攝其齊衽循其鉤絡舉而振之。則東盡嵎夷。西及昧谷。南被交趾。北屬幽都。紛在吾箴孔線蹊之中矣。佛印听然而笑曰。甚矣子言之陋也。吾以法眼視之。一一箴孔有無量世界。一一世界滿中眾生所有毛孔所衣之衣。箴孔線蹊悉為世界。如是展轉經八十反。吾佛光明之所照。吾君聖德之所被。如以大海注一毛竅。如以大地塞一箴孔。曾何嵎夷昧谷交趾幽都之足云乎。當知此納。非大非小。非短非長。非重非輕。非薄非厚。非色非空。一切世間折膠墮指。此衲不寒。爍石流金。此衲不熱。五濁流浪劫火洞然。此納不壞。云何以有思惟心生下劣想。於是蜀人蘇軾聞而讚之曰。匣而藏之。見衲而不見師。衣而不匣。見師而不見衲。惟師與衲非一非兩。眇而視之。蟣虱龍象。
(十九) 法雲圓通法秀禪師。秦州隴城人也。生辛氏。母夢僧癯甚鬚髮盡白託宿曰。我麥積山僧也。覺而娠。先是麥積山有僧。亡其名。日誦法華。與應乾寺魯和上善。甞欲從之遊方。魯老之既去。緒語曰。他日當尋我竹鋪坡前銕疆嶺下。俄有兒生其所。魯聞之往觀焉。兒為一笑。三歲願隨魯歸。遂冒魯氏。十九通經為大僧。天骨峻拔。軒昂萬僧中。凜如畫。講大經章分句析。機鋒不可觸。京洛著聞。倚圭峯鈔以詮量眾義。然恨圭峯學禪。唯敬北京元華嚴。然恨元非講。曰教盡佛意。則如元公者。不應非教。禪非佛意。則如圭峯者。不應學禪。然吾不信世尊教外以法私大迦葉。乃罷講南游。謂同學曰。吾將窮其窟穴。摟取其種類。抹殺之以報佛恩乃已耳。初至隨州護國。讀淨果禪師碑曰。僧問報慈。如何是佛性。慈曰。誰無。又問淨果。果曰。誰有。其僧因有悟。秀大笑曰。豈佛性敢有無之。矧又曰因以有悟哉。其氣拂膺。去至無為銕佛。謁懷禪師。懷貌寒危坐涕垂沾裳。秀易之。懷收涕問。座主講何經。秀曰。華嚴。又問。此經以何為宗。曰以心為宗。又問。心以何為宗。秀不能對。懷曰。毫釐有差天地懸隔。秀退自失。悚然乃敬服。願留日夕受法。久之乃證。懷移池入吳。皆從之。初出世淮之四面。杖笠之外包具而已。以至棲賢蔣山長蘆。眾千人。有全椒長老。至登座。眾目哂之。無出問者。於是秀出拜趨問。如何是法秀自己。全椒笑曰。秀銕面乃不識自己乎。秀曰。當局者迷。一眾服其荷法心也。冀國大長公主。建法雲寺成。有詔秀為開山第一祖。開堂日。神宗遣中使降香并磨衲。仍傳聖語。表朕親至之禮。皇弟荊王致敬座下。士大夫日夕問道。時司馬光方登庸。以吾法太盛。方經營之。秀曰。相公聰明人類英傑。非因佛法不能爾。遽忘願力乎。溫公意少懈。元祐五年八月臥疾。詔醫官視之醫請候脈。秀仰視曰。汝何為者也。吾有疾當死耳。求治之。是以生為可戀也。平生生死夢三者無所揀擇。揮去之。呼侍者更衣。安坐說偈而化。閱世六十四。坐夏四十五。
(十二) 江州東林常總禪師。生劍州尤溪施氏。母夢男子頎然色如金握白芙蓉三柄以授之。但一柄得。餘委地。覺而娠。後誕三子。伯仲皆不育。總其季也。年十一依寶雲寺文兆法師出家。又八年落髮。詣建州大中寺契恩律師受具。初至吉州禾山禪智材公。材有人望。延之不留。聞南禪師之道依歸宗。久之無所得而去。歸宗火。南遷石門南塔。又往從之。及南公自石門遷黃蘗積翠以至黃龍。總皆在焉。二十年之間。凡七往返。南佳其勤勞稱於眾。總自負密記。決志大掖濟北之宗。洪州太守榮公修撰請住泐潭。或謂馬祖再來也。道俗爭先願見。元豐三年詔革江州東林律居為禪。觀文殿學士王公韶出南昌。欲延寶覺心公。心舉總自代。總知宵道去千餘里。檄諸郡期必得之。得於新淦殊山窮谷中。遂應命。其徒相謂曰。遠公甞有記曰。吾滅七百年後。有肉身大士。革吾道場。今符其語矣。總之名聞天子。有詔住相國智海禪院。總固稱山野老病不能奉詔。然州郡敦遣急於星火。其徒又相語曰。聰明泉適自涸矣。凡兩月而得旨。如所乞。就賜紫伽黎。號廣惠。其徒又相語曰。聰明泉復湧沸矣。元祐三年徐國王奏。號照覺禪師。總於衲子有大緣。槌拂之下眾盈七百。叢席之盛。近世所未有也。六年八月示疾。九月二十五日浴罷安坐而化。十月八日全身葬于雁門塔之東。世壽六十七。坐四十九夏。
(二十一) 荊門玉泉皓長老塔銘。無盡居士譔。略云師姓王。眉州丹稜縣坼頭鎮人。天聖元年。依大力院出家。法名承皓。明道二年普度為僧。景祐元年受戒。慶曆二年遊方。至復州見北塔思席禪師。發明心要。得遊戲如風大自在三昧。製赤犢鼻。書歷代祖師名而服之曰。惟有文殊普賢。猶較些子。且書於帶上。自是諸方以皓布裩呼之惠南居黃龍。設三關語以接物。罕有契其機者。師教一僧往。南曰。我手何似佛手。答曰。不相似。南曰。我脚何似驢脚。答曰。不較多。南笑曰。此非汝語。誰教汝來。僧以實告。南曰。我從來疑這漢。熙寧間至襄陽為谷隱首座。有蜀僧依止師席。師憐其年少有志。稍誘掖之。僧亦効師。製犢鼻。浣而曝之。師見之曰。我裩何故在此。僧曰。某甲裩也。師曰。具何道理敢爾。僧禮拜曰。每蒙許與。切所欣慕。師曰。此豈戲論。與汝半年當吐血死。後半年其僧嘔血死於鹿門山。聞者異之元豐二年四月。予奉使京西南路。聞師之名致而見之。問師法嗣何人。師曰。北塔。問北塔有何言句。師曰。為伊不肯與人說。遂請師住郢州大陽。谷隱大喜曰。我山中首座出世。盛集緇素請師升座。以為歆豔。師曰。承皓住谷隱十年。不曾飲谷隱一滴水嚼谷隱一粒米。汝若不會來大陽。與汝說。携拄杖下座。不顧而去。居數月。知荊南李公審言轉運使孫公景脩。同請住當陽玉泉景德禪院。師機鋒孤峭。學者不能湊泊。人闕首座。維那曰。某人某人曾於某處立僧。為禪眾所歸。宜依諸方例請充。師叱曰。杜杜。又曰。孟八郎孟八郎。一日師從厨前過。見造晚麵問曰。有客過耶。對曰。眾僧造藥石。師呼知事稱之曰。吾昔參禪。為人汲水舂米。今見成米麵蒸炊造作。與供諸佛菩薩羅漢無異飽喫了並不留心參學。百般想念五味馨香。假作驢腸膳生羊骨鱉臛。餵飼八萬四千戶蟲。開眼隨境攝。合眼隨夢轉。不知主祿判官掠剩大王。隨從汝抄劄消鑿祿料簿。教汝受苦有日在。於是徒眾不堪寂寥。譖之於縣令曰。長老不能安眾。惟上來下去點撿寒碎。縣令召師至縣。責之曰。大善知識不在方丈內端坐。兩廊下山門來去得許多。師曰。大通智勝佛。十劫坐道場。佛法不現前。不得成佛道。長官以坐是佛耶。坐殺佛去也。長官茫然益敬禮之。狗子在室中。僧入請益。師叱一聲。狗出去。師云。狗子却會。汝却不會。玉泉冬市四遠雲集。師於廊下畫一圓相。顧視大眾曰。賤賣賤賣。良久畫破曰。自家買自家買。冬至上堂曰。晷運推移布裩共赤。莫笑不洗。無來換替。正大觀知荊南。問如何是佛。截斷脚跟。又問。如何是佛。師曰。截斷脚跟。又問。如何是法。師曰。掀了腦蓋。師有頂相。自贊曰。粥稀後坐。床窄先臥。耳瞶。愛聲高。眼昏宜字大。其應機答話。隱顯不測。大致若此。玉泉寺宇廣大弊漏。前後主者以營葺為艱。師曰。吾與山有緣。與僧無緣。修今世寺待後世僧耳。悉壞法堂方丈寢堂鍾樓慈氏閣關廟。而鼎新之。皆求予記其本末。師住山無筆硯文字。箱篋無兼衣囊錢。元祐六年遣人至江西。口白曰。老病且死。得百丈肅為代可矣。余以喻肅。肅不顧往。十二月二十八日示寂。臨行門人迫以作頌。師笑曰。吾年八十一。病死舁尸出。兒郎齊著力。一年三百六十日。師滅時地三震。會余移漕淮西。召還諫省謫官金陵。不復詳師後事。今年十月被恩知洪州。途次太平。有德鴻者來謁。泣言。師之死。鴻適歸閩中。自閩聞訃。奔詣玉泉。師已葬于斗山下。鴻營塔于始就緒。念先師神交道契。莫如公者。故間關數千里。詣公求文。銘師之塔。予哀鴻不忘其師。乃追掇緒餘而銘之曰(文多不錄)。
(二十二) 法師元淨。字無象。徐氏。杭州於潛人。客有過其舍者曰。嘉氣上騰。當生奇男。既生左肩肉起如袈裟條。八十一日乃沒伯祖異之曰。宿世沙門必使事佛。八十一者殆其算歟。及師之終。果符其數。十歲出家。每見講座輒曰。願登此說法度人。十二就學於慈雲。不數年而齒高弟。後聞明智講止觀方便五緣曰。淨名所謂一食施一切。供養諸佛及諸賢聖。然後可食。此一方便也。師悟曰。今乃知色香味觸本具第一義諦。因泣下如雨。自是遇物無非法界。代講十五年。杭守呂臻請住大悲閣。嚴設戒律。其徒畏愛。臻為請賜紫衣辨才之號。七年翰林沈遘撫杭(仁宗嘉祐)謂。上竺本觀音道場。以音聲為佛事者。非禪那居。乃請師居之(此年始革禪為教)鑿山增室廣聚學徒。教庠之盛。冠於二浙。神宗熙寧三年。杭守祖無擇坐獄于檇李(擕音醉地名今嘉興)師以鑄鍾例被追辨。幸得釋寓止真如蘭若。擬金[鎞-囟+(奐-大)]設問答。述圓事理說發明祖意之妙。元豐元年有利山門施資之厚者。倚權以奪之。眾亦隨散。逾年其人以敗聞。朝廷復卑師。眾復集(青獻趙公與師為世外友。為之贊曰。師去天竺。山空鬼哭。天竺師歸。道場重輝。東坡寄詩曰。道人出山去。山色如死灰。白雲不解笑。青松有餘哀。忽聞道人歸。鳥語山容開。云)三年復謝去。居南山之龍井。士庶爭為築室。遂成伽藍。六年太守鄧伯溫請居南屏。明年復歸龍井。時靈山虛席。師以慈雲師祖道場。俯就眾請。及月餘定中見金甲神跪前曰。師於此無緣。不宜久住。既受冥告。遂還龍井。元祐四年蘇軾治杭。問師曰。此山如師道行者幾人。曰沙門多密行。非可盡識。將示寂。乃入方圓庵(秦觀記米芾書)宴坐謝賓客。止言語飲食。招眾寥告之曰(道替師也)吾淨業將成。若七日無障。吾願遂也。七日出偈告眾。即右脇而化。當元祐六年九月晦日也。塔成。東坡命子由為之銘。
(二十三 癸酉) 淨因道臻禪師。字伯祥。福州古田戴氏子也。幼不茹葷。十四去上生院行頭陀行。又六年為大僧。閱大小經論。置不讀曰。此方便說耳。即持一鉢走江淮。所參知識甚多。而得旨決於浮山遠公。江州承天虛席。致臻非所欲。而游丹陽寓止因聖。一日行江上覓舟。默計曰。當隨所往信吾緣也。問舟師曰。載我舡尾可乎。舟師笑曰。師欲何之。我入汴舡也。臻曰。吾行游京師。因載之而北。謁淨因大覺璉公。璉公使首眾僧於座下。及璉歸吳。眾請以臻嗣焉。開法之日。英宗遣中使降香賜紫方袍徽號。京師四方都會有萬好惡。貴人達官日門填。臻一日之慈聖上仙。神宗召至慶壽宮賜對甚喜。設高廣座恣人問答。左右上下咸歎希有。歡動宮殿。賜與甚厚。神宗悼佛法之微。憫名相之弊。始即相國為惠林智海二剎。其命立僧必自臻擇之。宿老皆從風而靡。神宗上仙。被詔而福寧殿說法。詔道臻素有德行可賜號淨照禪師。元祐八年八月十七日。前語門人淨圓曰。吾更三日行矣。及期沐浴更衣。說偈已跏趺而寂。閱世八十。坐六十有一夏。臻性慈靖退似不能言者。居都城西隅。衲子四十餘輩頹然不出戶。三十年如一日。奉身甚約。一布裙二十年不易。用五幅絻掩脛。不多為叢褶曰。徒費耳。無所嗜好。乃能雪方丈之西壁。請文與可掃墨竹。謂人曰。吾使游人見之。心目清涼。此君蓋替我說法也。甞於慶壽宮說法。僧問。慈聖仙游定歸何所。臻曰。水流元在海。月落不離天。上悅以為能加敬焉(黃魯直題其像曰。老虎無齒。臥龍不吟。千林月黑。六合雲陰遠。山作眉紅杏腮。嫁與春風不用媒。老婆三五少年目也。解東塗西抹來)。◎
◎(甲戌) 改紹聖。
(二十四 乙亥) 遼改壽昌(主洪基加號聖文神武全功大略聰仁孝惠天祐皇帝)。
智海真如慕哲禪師。出於臨川聞氏。聞族寒哲又幼孤。去依建昌永安圓覺律師為童子。試所習得度具戒。為人剛簡有高識。以荷法為志。律身甚嚴。翠岩真禪師游方時。哲能識之。真好慕所長以蓋人。號真點胸。所至犯眾怒非笑之。哲與之周旋二十年。雖群居不敢失禮。真兩住剎。哲陰相之。成法席。有來學者。且令見哲侍者。謂人曰。三十年後哲其大作佛事。真歿塔於西山。心喪三年乃去。依黃蘗游湘中。一鉢雲行鳥飛。去留為叢林重輕。謝師直守潭州。聞其風而悅之。不可致。㞧岳麓席虛。盡禮迎以為出世。累月而後就俄遷大溈。眾二千指。無所約束人人自律。唯粥罷受門弟子問道。謂之入室。齋罷必會大眾茶。諸方纔月一再。而哲講之無虛日。放參罷哲自役作。使令者在側如路人。晨香夕燈十有四年。夜禮拜持茅視殿廡燈火。倦則以帔蒙首假寐三聖堂。初猶浴。盡老不浴者十餘年。紹聖元年有詔住大相國寺智海禪院。京師士大夫想見風裁。叢林以哲靜退畏閙。不敢必其來。哲受詔欣然俱數衲子至。解包之日。傾都來觀。至謂一佛出世。院窄而僧日增。無以容則相枕地臥。有請限之者。哲曰。僧佛祖所自出。厭僧厭佛祖也。安有名為傳法而厭佛祖乎。安得不祥之語哉。凡驗學者。舉趙州洗鉢話。上人如何會。僧擬對。哲以手托之曰。歇去。自始至終未甞換機。明年十月初八。無疾而化。
(二十五) 是年雲居元祐禪師卒。王氏。信之上饒人。年十三師事博山承天沙門齊晟。二十四得度具戒。時南禪師在黃蘗。往依之。十餘年智辨自將氣出流輩。眾以是悅之少。然祐不䘏也。南歿去游湘中。廬於衡岳馬祖故基。衲子追隨聲重荊楚間。謝師直守潭州。欲禪道林之律居。盡禮致祐為第一世。祐欣然肯來。道林蜂房蟻穴。聞見層出。像設之多。冠於湘西。祐夷廓之。為虛堂為禪室。以會四海之學者。役夫不敢壞像設。祐自鋤棄諸江曰。昔本不成。今安得壞。吾法尚無凡情。存聖解乎。六年而殿閣崇成。棄之去。游廬山。南康太守陸公。時請住玉㵎寺。徐王聞其名。奏賜紫袍。祐作偈辭之曰。為僧六十鬢先華。無補空門號出家。願乞封回禮部牒。兔辜盧老納袈裟。人問其故。祐曰。人主之恩而王者之施。非敢辭。以近名也。但以法未等耳。王安上者舒王之弟。問法於祐。以雲居延之。祐曰。為携此骨歸葬峯頂耳。登輿而去。疾諸方死必塔者。祐曰。山川有限。僧死無窮。他日塔將無所容。於是於開山宏覺塔之東作卵塔曰。凡住持者非生身不壞火浴雨舍利者。皆以骨石填于此。其西又作卵塔曰。凡僧化皆以骨石填于此。謂之三塔。紹聖二年七月七日。夜集眾說偈而化。世壽六十有六。坐四十有二夏。
(二十六 戊寅) 改元符 西夏改永安。
雲居佛印了元禪師。字覺老。生饒州浮梁林氏。世業儒。父祖皆不仕。元生二歲。琅琅誦論語諸家詩。五歲誦三千首。既長從師授五經略通大義。因讀首楞嚴經于竹林寺。愛之盡捐舊學。白父母求出家度生死。禮寶積寺沙門日用試法華受具。游廬山謁開先暹道者。暹自負其號海上橫行。俯視後進。元與問答捷給。乃稱賞。時年十九。又謁圓通訥公。訥曰。骨格已似雪竇。後來之俊也。時書記懷璉方應詔以元繼其職。江州承天虛席。又以元當選。郡將而少之。訥曰。元齒少而德壯。雖萬耆衲不可折也。於是為開先之嗣。時二十八矣。自承天遷淮之斗方。廬山之開先歸宗。潤之金山焦山。江西之大仰又住雲居。凡四十年間。德化緇素。縉紳之賢者多與之游。東坡謫黃州。廬山對岸。元居歸宗詶酢妙句。與烟雲爭麗及其在金山。東坡釋還東吳。次丹陽以書抵元曰。不必出山。當學趙州上等接人。元得書徑來。坡迎笑問之。元以偈答曰。趙州當日少謙光。不出山門見趙王。爭似金山無量相。大千都是一禪床。坡抵掌稱善。又甞謂眾曰。昔雲門說法如雲雨。絕不喜人記錄其語。見必罵逐曰。汝口不用。返記吾語異時裨販我去。今室中對機錄。皆香林明教以紙為衣。隨所聞即書之。後世學者漁獵文字語言。正如吹網欲滿。非愚即狂。時江浙叢林尚以文字為禪之謂請益。故元以是風之。高麗僧統義天航海至明州。傳云。棄王位出家。上疏乞遍歷叢林問法受道。有詔朝奉郎楊傑次公舘伴。所經吳中諸剎皆餞。如王臣禮。至金山。元床坐納其大展。次公驚問故。元曰。義天亦異國僧耳。僧至叢林規繩如是。不可易也。眾姓出家同名釋子。自非買崔盧門閥相高。安問貴種。次公曰。卑之少徇時。宜求異諸方。亦豈覺老心哉。元曰。不然。屈道隨俗。諸方先失一隻眼。何以示華夏師法乎。朝廷聞之以元為知大體。李公伯時為元寫照。元曰。必為我作笑狀。自為贊曰。李公天上石麒麟。傳得雲居道者真。不為拈花明大事。等閒開口笑何人。泥牛謾向風前嗅。枯木無端雪裏春。對現堂堂俱不識。太平時代自由身。元符元年正月初四日。聽客語有會其心者。軒渠一笑而化。其令畫笑狀。非苟然也。世壽六十七。坐五十有二夏。
(二十七) 圓照禪師。諱宗本。生於管氏。常州無錫人也。體貌豐碩言無枝葉。十九師事蘇州承天永安道昇禪師。昇道價重叢林。歸之者如雲。本弊衣垢面。探井臼典炊爨。以供給之。夜則入室參。昇曰。頭陀荷眾良苦。亦疲勞乎。對曰。若捨一法不名滿足。菩薩實欲此生身證。其敢言勞。昇陰奇之。又十年剃髮受具。服勤三年乃辭。昇遊方遍參。至池陽景德謁義懷禪師。言下契悟。眾未有知者。甞為侍者而喜寢。鼻息齁齁。聞者厭之言於懷。懷笑曰。此子吾家精進幢也。汝輩他日當依賴之。無多談。眾乃驚。懷退居吳江壽聖。部使者李公復圭過懷夜話曰。瑞光虛席。願得有道衲子主之。懷指本曰。無逾此道人者耳。既至寺。集眾擊鼓。鼓輒墮。圓轉震響。眾驚却。有僧出呼曰。此和尚法雷振地之祥也。俄失僧所在。自是法席日盛。武林守陳公襄。以承天興教二剎命師擇居。蘇人留之益甚。又以淨慈堅請。移文喻道俗曰。借師三年。為此邦植福。不敢久古。本嘖嘖曰。誰不欲作福。眾識其意。聽赴之。元豐五年神宗皇帝闢相國寺六十四院為八。禪二律六。中貴梁從政董其事。驛召師主惠林。既至。上遣使問勞。三日傳旨就寺之門為士民演法。翌日召對延和殿問道。賜坐。即盤足跏趺。賜茶至舉盞長吸又蕩撼之。上問。受業何寺。對曰。承天永安。上悅其真。喻以方興禪宗宜善開導之旨。既退。上目送之。謂左右曰。真福惠僧也。後帝登遐。召入福寧殿說法。以師甞為先帝所禮。敬見之。不勝哀悼。以老乞歸林下。勅任便雲遊。所至不得抑令住持。升座辭眾曰。本是無家客。那堪任便遊。順風加櫓棹。舡子下楊州。既出都城。王公貴人送者車騎相屬。師臨別誨之曰。歲月不可把玩。老病不與人期。唯勤修勿怠是真相為。聞者莫不感涕其真慈善導若此。高麗僧統義天。以王子奉國命使于我朝。聞師道譽。請以弟子禮見師。問其所得以華嚴經對。師曰。華嚴經三身佛。報身說耶。化身說耶。法身說耶。義天曰。法身說。本曰。法身遍周沙界。當時聽眾何處蹲立。義天茫然自失。欽服益加。法道至本大盛。老居靈岩閉門頹然。而四方從者相望於道不釋也。元符二年十二月甲子。將入滅。沐浴而臥。門弟子環擁請曰。和尚道遍天下。今日不可無偈。幸強起安坐。本熟視曰。癡子我尋常尚懶作偈。今日特地圖箇甚麼。尋常要臥便臥。不可今日特地坐也。索筆大書五字曰。後事付守榮。擲筆憨臥。若熟睡然。撼之已去矣。門人塔全身於山中。閱世八十。坐五十二夏。
(二十八 庚辰) 黃龍寶覺禪師入寂。出於鄔氏。諱祖心。南雄始興人也。少為書生有聲。年十九而目盲。父母信以出家輒復見物。乃往依龍山寺沙門惠全。明年試經業。而公獨獻詩得奏名。剃髮繼住受業院。不奉戒律且逢橫逆。於是棄之入叢林。謁雲峯悅公。留三年。難其孤硬。告悅將去。悅曰。必往依黃蘗南公。公至黃蘗。四年知有而機不發。又辭而上雲峯。會悅謝世。因就止石霜。無所參決。試閱傳燈。至僧問多福曰。如何是多福一叢竹。福曰。一莖兩莖斜。三莖四莖曲。此時頓覺。親見二師。徑歸黃蘗方展坐具。南公曰。子入吾室矣。公亦踴躍自喜。即應曰。大事本來如是。和尚何用教人看語下語百計搜尋。南公曰。若不令汝如此究尋到無用心處自見自肯。吾即埋沒汝也。公從容游泳陸沈眾中。時時往決雲門語句。南公曰。知是般事便休。汝用許多工夫作麼。公曰。不然。但有纖疑在。不到無學。安能七縱八橫天迴地轉哉。南公肯之。後使分座令接納來學。南遷黃龍而化以公繼其席。凡十有二年。然性真率不樂從事於務。五求辭去。乃得謝事閒居。而學者益親。謝景溫師直守潭州。虛大溈以致公。三辭不往。又囑江西轉運判官彭汝礪器資。請所以不赴長沙之意。公曰願見謝公。不願領大溈也。馬祖百丈以前無住持事。道人相尋於空閒寂寞之濱而已。其後雖有住持。王臣尊禮為天人師。今則不然。掛名官府。如有戶籍之民。直遣伍伯追呼之耳。此豈可復為也。師直聞之。不敢以院事屈。願一見之。公至長沙。師直願受法訓。公為舉其綱。其言光顯廣大。如青天白日易識。其略曰。三乘十二分教。還同說食示人。食味既因他說。其食要在自己親甞既自親甞。便能了知其味是甘是辛是鹹是淡。達磨西來直指人心見性成佛。亦復如是。真性既因文字而顯。要在自己親見。若能親見。便能了知目前是真是妄是生是死。既能了知真妄生死。返觀一切語言文字。皆是表顯之說。都無實義。如今不了病在甚處。病在見聞覺知。為不如實知真際所詣。認此見聞覺知為自所見。殊不知此見聞覺知。皆因前塵而有分別。若無前塵境界。即此見聞覺知。還同龜毛兔角。並無所歸。師直聞所未聞。公以生長極南少以宏法棲息山林。方太平時代欲觀光京師以餞餘年。乃至京師駙馬都尉王詵晉卿盡禮迎之。庵於國門之外。久之南還再游廬山。甞有偈曰。不住唐朝寺。閒為宋地僧。生涯三事衲。故舊一枝藤。乞食隨緣去。逢山任意登。相逢莫相笑。不是嶺南能。可想公之標致也。臘既高益移庵深入棧絕學者。又二十餘年。以元符三年十一月十六日中夜而歿。閱世七十有六。坐夏五十有五。
(二十九 辛巳) 徽宗佶立(神宗第十三子。初封端王。太后向氏召宰執議立端王。丞相章惇曰。端王浪子耳。曾布長望見王在廉下叱曰。聽太后處分。王出章惇惶恐失措。遂即位。荒淫奢佚蔑直尚浮。又寵道士林靈素失道北遷。降為天水郡王。壽五十五。在位二十五年。終於五國城)改建中靖國。
遼天祚立諱延禧(道之孫。秦王元吉之子。淫縱失道。荒于畋獵。女真有禽曰海東青玉爪。善捕天鵝。一飛千里。歲命其國人窮取以獻。人怨遂叛。政和中童貫與遼叛人馬植謀約女真攻遼。天祚逃于夾山。捨之削封海濱王。送長白山東築城居之。遂亡)。
女真太祖阿骨打(後改名旻。楊割太師之長子。世為酋長。是年舉兵立國)。
(三十) 禪門續燈錄成。乃東京法雲佛國禪師惟白集。是年八月十五日上進。帝為製序。白靖江人。嗣圓通秀公。其文曰。昔釋迦如來之出世也。受然燈之記。生淨飯王家。分手指呼天地。而其機也已露。游門觀於老死。而幻緣也頓寂。及乎唱道雞園騰芳鷲嶺。無邊剎境。遂現於一毫之端。大千經卷。畢出於微塵之表。西被竺土東流震旦。編葉而書。則一時聖法雖傳於慶喜。拈花而笑。則正法眼藏獨付於飲光。自達磨西來。實為初祖。其傳二三四七而至於曹溪。於是雙林之道逾光。一滴之流寖廣。自南嶽青原而下。分為五宗。各擅門風應機酬對。雖建立不同。而會歸則一。莫不箭鋒相拄鞭影齊施。接物利生啟悟多矣。源派廣迤枝葉扶疎。而雲門臨濟二宗遂獨盛於天下。朕膺天寶命紹國大統。恭惟藝祖闢度門於緜寓。太宗闡祕義於敷天。章聖傳燈於景德。永昭廣燈於天聖。皆宏暢真風協助神化。以成無為之治者也。於皇神考尤嚮空宗。元豐三年詔於大相國寺剏二禪。闢惠林於東序。建智海於西廡。壬戌之歲以越國大長公主及集慶軍節度觀察留後駙馬都尉張敦禮之請。復建法雲禪寺於國之南。於是祖席光輝叢林鼎盛。天下襲方袍。慕禪悅者雲集於上都矣。今敦禮以其寺住持僧佛國禪師惟白。探最上乘。了第一義。屢入中禁三登高座。宣揚妙旨。良愜至懷。昔能仁說法華經。放眉間白毫相光。照東方萬八千世界。而彌勒發問文殊決疑。以謂日月燈明佛。本光瑞如此。持是經者妙光法師。得其證者普明如來。今續知之名。蓋燈燈相續。光光相入。義有在於是矣。意圓澄覺海。本含裹於十方。生滅空漚。遂沈淪於三有。因明立所由塵發知識妄相仍轉入諸趣。良可悲也。若回光內照發真歸元。則是錄也。直指性宗單傳心印。可得於眉睫。可薦於言前。舉手而擎妙喜世界。彈指而現莊嚴樓閣。神通妙用真不可思議者也。嘉於有眾締此勝緣。俱離迷津偕之覺路。斯朕之志已。建中靖國元年八月十五日賜敘。
(壬午) 改年崇寧(鑄崇寧當三錢○詔天下軍州創崇寧寺○又改天寧替先號)。
(三十一 甲申) 是歲蘄州五祖山法演禪師示寂。錦州巴西鄧氏。少落髮受具。遊成都講席。習百法唯識窺其奧。置之曰。膠柱安能鼓瑟乎。即日遊方。所至無足當其意者。抵浮山謁遠錄公。久之無所發明。遠曰。吾老矣。白雲端爐鞴不可失也。演唯諾。徑造白雲。端曰。川䖃苴汝來也。演拜而就列。一日舉僧問南泉摩尼珠語。以問端。端叱之。演領悟。汗流被體。乃獻投機頌云。山前一片閒田地。義手叮嚀問祖翁。幾度賣來還自買。為憐松竹引清風。端頷之曰。栗棘蓬禪屬子矣。演甞掌磨。有僧視磨急轉。指以問演。此神通耶。法爾耶。演褰衣旋磨一匝。師甞示眾云。古人道如鏡鑄像。像成後鏡在什麼處。眾下語不契。師作街坊。自外來。端舉似演。演前問訊曰。也不爭多。端笑曰。須是道者始得。初住四面還白雲。上堂云。汝等諸人見老和上鼓動唇舌竪起拂子。便作勝解。及乎山禽聚集牛動尾巴。却將作等閒。殊不知簷聲不斷前旬雨。電影還連後夜雷。又云。悟了同未悟。歸家尋舊路。一字是一字。一句是一句。自小不脫空。兩歲學移步。湛水生蓮華。一年生一度。又云。賤賣檐板漢。貼秤麻三斤。百千年滯貨。何處著渾身。張丞相謂其應機接物孤峭徑直。不犯刊削。其知言耶。應世四十餘年。晚住太平移東山。崇寧三年六月二十五日。上堂辭眾。時山門有土木之工。演躬自督役。誡曰。汝等好作息。吾不復來矣。歸方丈淨髮澡浴。旦日吉祥而逝。
(乙酉) 金國移瑞像佛牙入內殿供養。
(丙戌) (金詔釋氏。有瀆神踰分者。除削之。是年正月彗出西方。其長亘天)。
(丁亥) 大觀○慈感寺(吳興郡民邵宗益。剖蚌得羅漢像。歸於本寺。後至建炎間。憲使楊應誠傳玩躍入于溪。漁人再獲建閣以藏之)。
(三十二 己丑) 東都法雲大通禪師善本示寂。生董氏。漢仲舒之後也。其先家太康仲舒村。太父琪父溫皆官于頴。遂為頴人。初母無子。禱于佛前。誓曰。得子必以事佛。即蔬食乃娠。生而骨相秀異。方晬而孤。母育於叔祖玠之家。既長博學操履清修。母亡哀毀過禮。無仕官意辟穀學道隱於筆工。然氣剛不屈沈默白眼公卿。嘉祐八年與弟善思俱至京。籍名顯聖地藏院試所習為大僧。其師圓成律師惠楫者。謂人曰。本他日當有海內名。乃生我法中乎。使聽習毘尼隨喜雜華。夜夢見童子。如世所畫善財。合掌導而南。既覺曰。諸佛菩薩加被我矣。其欲我南詢諸友乎。時圓照道振吳中。本逕造姑胥謁瑞光圓照。坐定特顧之。本默契宗旨服勤五年。盡得其整頓提撕之綱研練差別之智。縱橫舒卷度越前規。一時輩流無出其右。圓照倚之以大其家。以季父事圓通秀公。秀住廬山棲賢。出入臥內。如寂子之於東寺焉。出世婺之雙林。遷杭之淨慈。繼圓照之後。食堂千餘口。仰給於檀施供養。莊嚴之盛。游者疑在諸天。時號大小本也。哲宗聞其名。詔住上都法雲。賜號大通。又繼圓通之後。玉立孤峻儼臨清眾。如萬山環天柱讓其高寒。然精粗與眾共。未甞以言徇物以色假人。王公貴人施日填門。住八年。請於朝願歸老於西湖之上。詔可。遂東還庵龍山。崇德杜門。却掃與世相忘又十年。天下願見而不可得。臨眾三十年。未甞笑及閒居時抵掌笑。或問其故。曰不莊敬何以率眾。吾昔為叢林故強行之。非性實然也。所至見畫佛菩薩行立之像。不敢坐。伊蒲塞饌似魚胾名者不食。其真誠敬事防心離過。類如此。大觀三年十二月甲子。屈三指謂左右曰。止有三日而已。果沒。有異禽翔鳴于庭而去。塔全身于上方。閱世七十有五。坐四十有五夏。
(庚寅) (五月停給僧尼度牒三年○六月以張商英入相。時久旱。是夕大雨。上書商霖二大字以賜之)。
(辛卯) 改政和(四月張商英罷相○詔毀京師浮祠)。
遼改天慶。
(三十三 壬辰) 是年蔡京進太師楚國公。京喜食鶉。預籠畜而烹之。甞夢鶉數千訴于前。其一致詞曰。食君廩中粟。充君箸下肉。一羹數百命。生死猶轉轂。看君壽千春。禍福相倚伏。京甚畏之(出魚溪詩話)。
(三十四 癸巳) 四月嘉州風折大樹。有僧在定。有司聞于上。詔令送至京師。八月入內譯經院。金總持三藏。鳴金磬出其定僧。曰我東林遠法師之弟惠持也。西遊峨眉因入定于此。三藏因徐啟。今欲何歸。曰陳留。即復入定。徽宗令繪像。頒行天下仍製讚。
(三十五) 是年四月玉清昭陽宮成。奉安道像。上詣宮行禮。七年改玉清神霄宮。時道教之盛。自道士徐知常始。賜號冲虛先生。徐守信賜虛靜先生。劉混康賜葆真觀妙冲和先生。後並贈太中大夫○十一月癸未郊上搢大珪執元珪。以道士百人執儀衛前導。置道階凡二十六等。先生處士八字六字四字二字。視中大夫。至將仕郎級。重和初別置道官。自太虛大夫。至金壇郎。凡十六等。同文臣。中大夫至迪功郎。道職自冲和殿侍宸。至凝神殿校經。凡十一等。侍宸同待制。撿籍同修撰。校經同直閣。皆給告身(出宋史)。
(三十六 甲午) (詔佛果禪師克勤。住京師天寧○賜永道法師號寶覺。住左街香積院)。
女真是年始叛陷遼寧江府(初遼主天祚。賞罰僭濫。色禽俱荒。女真東北與五國為隣。五國之東接大海出名鷹。自海東來者謂之海東青。遼人酷愛之。歲歲求之。女真至五國戰鬪而後得。不勝其擾。二年春天祚如混同江釣魚。界外生女真酋長在千里外者。以故事皆不會。酒酣使諸酋歌舞為樂。阿骨打獨不從。天祚謂樞密使蕭奉先曰。阿骨打意氣雄豪。當以事誅之。奉先曰。殺之傷向化之心。阿骨打知其意。即先舉兵吞併隣近部族。秋集女真諸部甲馬二千。犯混同江之寧江州。時天祚射鹿慶州秋山。遣渤海刺史高仙壽討之。為女真所敗。失寧江州。有黑氣長數丈。出自齊宮。行一里許。貫於壇遺。出遼誌)。
(三十七 乙未) 遼天慶五年○金太祖(阿骨打正月一日即位)改年收國。
政和五年。黃龍死心禪師卒。諱悟新。生王氏。韶州曲江人。魁岸黑面如梵僧狀。依佛陀院落髮。以氣節蓋眾好面折人。初謁棲賢秀鐵面。秀問。上座其處人。曰廣南韶州。又問。曾到雲門否。新曰。曾到。又問。曾到靈樹否。曰曾到。秀曰。如何是靈樹枝條。新曰。長底自長。短底自短。秀曰。廣南蠻莫亂說。新曰。向北驢只恁麼。拂袖而出。秀器之。而新無留意。乃之黃龍謁寶覺禪師。談辨無所抵捂。覺曰。若之技止此耶。是固說食耳。渠能飽人耶。新窘無以進。從容白曰。悟新到此弓折箭盡。願和上慈悲指箇安樂處。寶覺曰。一塵飛而翳天。一芥墮而覆地。安樂處正忌上座許多骨董。直須死却無量劫來偷心乃可耳。新趨出。一日點坐下板。會知事捶行者。新聞杖聲忽大悟。奮起忘納其履趨方丈。見寶覺自譽曰。天下人總是學得底。某甲是悟得底。覺笑曰。選佛得甲科。何可當也。新自是號為死心叟。榜其居曰死心室。蓋識悟也。久之去游湘西。是時哲禪師領嶽麓。往造焉。哲問。是凡是聖。對曰。非凡非聖。哲曰。是什麼。新曰。高著眼。哲曰。恁麼則南山起雲北山下雨。曰是凡是聖。哲曰。爭奈頭上漫漫脚下漫漫。新仰屋作噓聲。哲曰。氣急殺人。曰恰是拂袖便出。新初住雲岩。已而遷翠岩。翠岩舊有淫祠。鄉人禳禬。酒胾汪穢無虛日。新誡知事毀之辭以不敢掇禍。新怒曰。使能作禍。吾自當之。乃躬自毀折。俄有巨蟒盤臥內。引首作吞噬之狀。新叱之而遁。新安寢無他。未幾再領雲岩建經藏。太史黃庭堅為作記。有以其親墓誌鑱於碑陰者。親恚罵曰。陵侮不避禍。若是語未卒。電光翻屋雷擊自戶。入折其碑陰中分之。視之已成灰燼。而藏記安然無損。晚遷黃龍。學者雲委。屬疾退居晦堂。夜參堅起拂子云。看看拂子病死心病。拂子安死心安。拂子穿却死心。死心穿却拂子。正當恁麼時。喚作拂子又是死心。喚作死心又是拂子。畢竟喚作什麼。良久云。莫把是非來辨我。浮生穿鑿不相干。有乞末後句者。新與偈曰。末後一句子。直須心路絕。六根門既空。萬法無生滅。於此徹其源。不須求解脫。生平愛罵人。只為長快活。十二月十三日晚參說偈。十五日泊然坐逝。荼毘得舍利五色。閱世七十二。坐四十五夏。
(三十八 丙申) 政和六年。錢塘靈芝寺律師。元照字湛然。餘杭唐氏子。少依祥符東藏惠鑑師學毘尼。及見神悟謙公。講天台教觀。博究群宗以律為本。又從廣慈授菩薩戒。戒光發現。頓漸律儀罔不兼備。南山一宗蔚然大振。常披布伽黎。杖錫持鉢。乞食于市。楊無為贊之曰。持鉢出持鉢歸。佛言長在四威儀。初入?時人不識。虛空當有鬼神知。四主郡席。晚居靈芝三十年。眾常數百。甞言化當世莫若講說。垂將來莫若著書。撰資持濟緣行宗應法住法報恩諸記十六觀小彌陀義疏。及刪定律儀本芝園集若干卷。自號安忍子命諷普賢行願品。趺坐而化。壽六十九。夏五十有一。
(三十九) 道士林靈素者。溫州人。善妖術。以雷公法甞往來不逞。於宿亳淮泗間。乞食諸寺。僧薄之。至楚州與惠世相敺擊。訟于官府。倅石仲問焉。喜其辨捷輕。後脫之置館中。問吐納燒煉蜚神之術。七年正月仲携入京。因道士徐知常。謁宰相蔡京。京致見帝。靈素大言曰。天上有神霄玉清府長生帝君主之。其弟青華帝君皆玉帝子。次有左元仙伯并書罰仙吏褚惠等八百餘官。謂帝即長生大帝君。蔡京為左元仙伯。已即褚惠。帝忻然信之。賜林金門羽客。建通真宮以處之。帝自號教主道君皇帝○二月詔。改天下大寺為神霄玉清萬壽宮。院為觀。設長生青華帝君像。置道學科。未幾有期門之事矣○四月詔道籙院。略曰。朕乃上帝元子。為太霄帝君。憫中華被金狄之難教。遂懇上帝願為人主。令天下歸於正道。卿等可上表冊。朕為教主道君皇帝。止用於教門上。以釋教經六千卷內惡談毀詞詆謗道儒二教。命近臣於道籙院看詳。取索焚棄之。
(四十) 是年隆興府黃龍山靈源禪師遷寂。名惟清。生南州武寧陳氏。方垂髫上學。日誦千言。吾伊上口。有異僧過書肆見之。引手熟視之。大驚曰。菰蒲中有此兒耶。告其父母聽出家。從之。師事戒律。師年十七為大僧。聞延恩院耆宿法安見本色人。上謁願留就學。安曰。汝苦海法船也。我尋常溝壑耳。豈能藏哉。黃龍心禪師是汝之師。亟行無後。時清至黃龍泯。泯與眾作息。問答茫然。不知端倪。夜誓諸佛前曰。倘有省發。願盡形壽以法為檀。世世力弘大法。初閱玄妙(當作沙)語。倦而倚壁。起經行步促遺履。俯就之乃大悟。以所悟告寶覺。覺曰。從緣入者永無退失。然新得法空者。多喜悅致散亂。令就侍者房熟寐。清丰神洞氷雪。而趣識卓絕流輩。龍圖徐禧德占太史黃庭堅。皆師友之。其見寶覺得記別。乃安為之地矣。張丞相商英。初奉使江西。高其為人。厚禮致以居洪之觀音。不赴。又十年淮南使者朱京世昌命住舒州太平。乃赴。衲子爭趨之。嘗與寂音論之曰。今之學者未脫生死。病在於何。偷心未死耳。然非其罪。為師者之罪也。如漢高帝紿韓信而殺之。信雖曰死。其心果死乎。古之學者。言在脫生死。効在什處。在偷心已死。然非學者自能爾。實為師者鉗鎚妙密也。如梁武帝御大殿見侯景不動聲氣。而景之心已枯竭無餘矣。諸方所說非不美麗。要之如趙昌畫花逼真。非真花也。其指法巧譬類此。政和七年九月十八日。食罷淨髮安坐而逝。
(四十一) 十一月。汴京智海佛鑑禪師慧懃遷寂。生汪氏。舒州人。
(戊戌) 改重和○金改天輔元年。
(四十二) 十一月上御寶籙宮。度玉清神霄祕籙會八百人。凡天神降臨事。蓋發端於王老志。而極於林靈素。及為大會。林講經據高座。上為設幄其側。林所講無殊絕者。雜以滑稽喋語。上下為大鬨笑。莫有君臣之禮矣。時道士有俸。每一齋施動獲數十萬。每一宮觀給田亦不下數千頃。皆外蓄妻子置姬媵。以膠青刷鬢。美衣玉食者。幾二萬人。一會殆費數萬緡。貧下之人多買青衣幅巾以赴。日得一飫飡而襯施三百。謂之千道會(云云)○十一月(有星如目徐徐南行而落。光照人物與月無異。出宋史)。
(四十三) 十二月女真阿骨打稱帝國號大金(女真其初酋長。本新羅人。號完顏氏。完顏猶漢言王。女真妻之以女。生二子。其長即胡來也。自此傳三人。至楊哥大師。以至阿骨打。身長八尺。貌雄偉沈毅。寡言笑顧視不常。而有大志。有楊朴者遼東人也。勸阿骨打稱帝。以其國產金。故號大金。遣人請天祚求封冊。天祚遣使備袞冕。冊為東懷皇帝)。
(四十四 己亥) 改宣和○西夏改元德○(左街香積院永道法師等。書諫流于嶺表○睦賊方臘反僭改永樂庚子冬即滅)春正月詔改佛號大覺金仙(餘為仙人大士。僧稱德士。行稱德童。而冠服之。但道冠有徽。德冠無徽。凡法事稱故名者。加之中罪。群臣諫者。酷虐誅之。變風大扇矣。又以寺為宮院為觀。尋改女冠為女道。尼為女德。仍禁銅鐃塔像。下書便令天下德士逐出本寺。不令將帶衣鉢財物。而使道士安心住坐○夏五都城水高十餘丈。水未作前雨數日如傾。及齊開封縣前茶肆人晨起拭床榻睹若有大犬蹲其傍。質明視之龍也。其人驚呼而倒。遂為作坊兵眾取而食之。都人繪之。若世所畫龍。鱗蒼黑色驢首。而兩頰如魚頭。色正綠頂有角。座極長於其際。始分兩岐。有聲如牛。後十日水至。詔林靈素禳水。無驗。泗洲僧伽降現。上命禳水。大士登城水勢頓竭。遂賜號巨濟大士。龍降後一夕五鼓。西北有赤氣數十道。亘天犯紫宮北斗。仰觀星皆若隔絳紗。方起時折裂有聲。然後大發。後數夕又作聲益大。格格且久。其發更猛。而赤氣出西北數十百道。其中又間以白黑二氣。然赤氣為多。自西北俄入東北。又延及東南。其聲亦不絕。迨曉方止○冬十一月放林靈素歸溫州死之。出宋史)。
(庚子) 秋九月詔佛德士(復僧釋氏舊名。輸錢換牒。弛銅鐃塔像禁。寶覺大師永道量移近郡)。
(辛丑) 詔以(所賜神霄宮。并田產。盡還僧寺)○遼改保大元年○春正月日有眚(忽青黑色無光。其中汹汹而動若鐶金。而湧沸狀日傍有青黑。正如水波。周回旋轉。將暮而捐止。時睦賊未平。人多憂之)三月二十五日詔(慈。受懷深禪師住相國惠林院。生壽春夏氐。嗣長蘆信禪師)夏六月黑眚(出洛陽京畿。忽有物如人。或一犬。其色黑不能辨眉目。夜出掠小兒傷食之。如是三年乃息)。
(壬寅) 遼延禧與女真大戰(而敗。上京東京陷。徙燕。女真又攻敗之。延禧與二子奔于不毛之地。由洛陽入夾山。復立于燕。遼由是分矣。改元建福)。
(四十五) 是年丞相張無盡薨。公諱商英。字天覺。年十九赴春闈。抵向氏家。向預夢神人報曰。明日接相公。凌晨公至。向異之。勞問勤腆。厚贐其行。後妻以女。公果登第。一日遊僧舍。見拂拭藏經。梵夾肅粧。公怫然曰。吾孔聖之書不及胡人之教。夜坐書室吟哦至三鼓。向云。夜深何不睡去。公以前意對曰。正此著無佛論。向云。既無佛。何用論之。公疑其言乃已。後因訪一同列見佛經。乃問。何。書。云維摩經。公信手探閱。至此病非地大亦不離地大處。嘆曰不意殊方乃有此語。公盡借歸讀之不厭。向云。可熟讀然後著無佛論。公遂留心禪宗。因提刑河東。至汾謁大達國師塔及夢國師從容接引。覺而閱其語。看至國師問馬祖西來心印。祖曰。大德正閙在。且去。國師去。祖喚曰。大德。國師回首。祖曰。是什麼。公乃有省。作偈曰。是什麼法什麼。羅睺殿前燈是火。不是阿祖喚回。洎被善才覷破。毘嵐風急九天高。白鷺眼盲魚走過。元祐六年奉使江左。游東林謁照覺總。議論久之。乃曰。南昌諸山誰可與語。覺曰。兜率悅玉溪喜。公下車。至八月按部過分寧。諸禪迓之。公請俱就雲岩陞堂。有偈曰。五老機緣共一方。神鋒各向袖中藏。明朝老將登壇看。便請橫戈戰一場。悅最後登座貫穿前列。公大喜。遂入兜率抵擬瀑亭。公問。此是什麼。悅曰。擬瀑亭。公云。捩轉竹筒水歸何處。曰目前薦取。公佇思。悅曰。佛法不是這個道理。及夜話次。公云。比看傳燈一千七百尊宿機緣。唯疑德山托鉢話。悅曰。若疑托鉢話。其餘即是心思意解。何曾至大安樂境界乎。公憤然就榻。至五鼓。忽垂脚踢翻溺器。乃省前話。即扣悅寢至謂悅曰。已捉得賊了也。悅曰。贓物在什麼處。公扣門三下。悅曰。且寢去。來日相見。翌日公投頌云。皷寂鐘沈托鉢回。岩頭一拶語如雷。果然只得三年活。莫是遭他受記來。悅於是焚香付之偈曰。等閒行處。步步皆如。雖居聲色。寧滯有無。一心靡異。萬法非殊。休分體用。莫擇精粗。臨機不礙。應物無拘。是非情盡。凡聖皆除。誰得誰失。何親何疎。拈頭作尾。指實為虛。翻身魔界。轉脚迷途。了無逆順。不犯工夫。仍囑曰。參禪為命根不斷。依語生解。如是之法公已深悟。然至極微細之魔使人不覺不知墮在區宇。更宜著鞭。公感激。是歲十一月悅歸寂。公別悅未幾登右揆。是夕彗星滅。久旱而雨。唐子西作內前行。一時傳誦。其詩曰。內前車馬撥不開。文德殿下宣麻回。紫微侍郎拜右相。中使押赴文昌臺。旄頭昨夜光照牖。是夕鋒鋩如禿菷。明日化為甘雨來。宅家喜得調元手。周公禮樂未要作。致身姚宋亦不惡。我聞二公拜相年。民間斗米三四錢。明年當宣和辛丑二月。公奏諡號真寂。遣使持文祭其塔。其略曰。余頃歲奉使江西。按部西安。相識龍安山中。抵掌夜話。盡得末後大事正宗顯決。方以見晚為嘆。而師遽亦化去。惜其福不建惠緣不勝壽。喜其德不可掩。故終必有後思以發揮之。為持請於朝家恩追諡真寂禪師。於戲唯余與師神交道契。故不敢忘。其平日激勵之志。雖死生契闊之異。而蒙天子之殊恩。則幸亦共之。仰惟覺靈祇此榮福。宣和四年十一月黎明口占遺表。命子弟書之。仍作偈曰。幻質朝章八十一。漚生漚滅無人識。撞破虛空歸去來。鐵牛入海無消息。言訖取枕擲門。聲如雷震。視之已逝矣。
(癸卯) 金改天會元年(太宗吳乞買立。乃太祖弟。拈罕斡離不等立之。滅遼遂有南併之志。升皇帝岩曰會寧府。為中京。帝於禁庭親覩瑞光。光中現佛。即勅模像殿庭供養。帝親掃洒。每食跪獻。累年無怠。每歲設會。齋僧萬餘)。
(甲辰) 是時兩京河浙路京師。災異疊見。都城有賣青果男子。孕而誕子。蓐母不能收。易七人始免而逃去。又有酒肆。號豐樂樓。酒保朱氏子。其妻年四十餘。忽生髭髯。長僅六七寸。疏秀甚美。宛然一男子。詔度為女道士(出宋史)。
(四十六) 禪林僧寶傳成。沙門德洪撰。字覺範。初名惠洪。姓俞氏。高安人。少孤受學辨博。能緝文。性簡亮。年十三出家依三峯禪師。十九試經東都落髮受具。聽宣祕律師講華嚴經。一旦不樂。歸事真淨克文禪師。七年盡得其道。始自放於湖湘之間。荊州張丞相聞其名。請傳法於峽州天寧寺。以二詩辭焉。已而杖策謁公。公見之喜曰。今世融肇也。給事中朱彥知撫州。以師住持北景德寺。久之謝去。住持江寧府清涼寺。坐為狂僧誣告抵罪。張丞相當國。復度為僧。易名德洪。數延入府中。與論佛法。有詔賜號寶覺圓明。一時機貴人。爭致之門下。執弟子禮。且將住持黃龍山矣。會丞相去位。制獄窮治蹤跡。尚書郎趙暘等皆坐貶官。師竄海南島上。三年遇赦自便。名猶在刑部。雖毀形壞服。律身嚴甚。所至長老避席。莫敢亢禮。其同門友居谷山。及其嗣法在諸山者。皆迎師居丈室。學者歸之。是時法禁與黨人遊。而師多所厚善誦習其文。重得罪不悔。惟張丞相及侍郎鄒浩右師陳壎。尤盡其力。其在東都也。或譏道人當交通權貴耶。師笑謂人曰。是安知吾意。大臣廉知之故及於難。及靖康初大除黨禁。談者謂師前日違眾趨義婁瀕於死。既還僧籍。宜有以寵異之語聞執政。欲上其事。屬多故不果。明年師沒。志汔不伸。世以為恨。壽五十八。臘三十九。著論萬言。皆有以輔教云。
(乙巳) 金天會三年○遼保大五年(延禧奔夾山。大臣立其弟淳守燕京。尋死。又立其妻蕭氏。改元德興。延禧聞淳死。詔用其官爵。降蕭氏為庶人。初奔夾山。至是越漁陽嶺南走。金兵擒之。封為海濱王。踰年卒於長白山。金滅之國除。右遼自阿保機。以梁貞明二年丙子建元神冊。延禧保大乙巳。共九主凡二百一十年)。
(四十七) 詔法師永道。還京復僧形服。六月奉旨住持昭慶崇化禪寺。七月御批右街顯聖寺釋迦院。特賜寶覺大師充廨舍。仍行住持。師諱永道。東頴沈丘毛氏子。弱歲厭世相。往依承天寺南羅漢院真戒大師安恭。學出世法。既納僧服趨京師業唯識百法通之。政和三年選補右街香積院住持。賜紫衣。五年賜寶覺大師。宣和元年改佛號。師與律師悟明華嚴師惠日。相向泣曰。佛法至此。幸生猶死也。亟詣政府陳狀謂。自漢永平佛法入中國。唯元魏宇文周唐會昌。曾廢佛。我國家法堯准舜。三武庸主安足為法哉。謂佛非中國之人。欲不存其法於中國。乞放歸田里。復士農之業。德士之稱。有死不敢奉詔。不納。翌日遂伏宣德門奏疏曰。(臣)永道幸生神考潛封之地。遭際陛下御㝢之時。三教鼎興萬方無事。(臣)因棄士農之業。削髮披緇講授佛書。助揚聖時無為之化。竊為三教聖人。壹是教人以為善。但為其徒者妄相睚眦。致使時君惑焉。蓋自三五以降。朴散淳漓。大道堙塞。周之柱下史迺著書五千言。發明道德。將使斯民守雌保弱。慈儉無為反刓於朴。屬周道陵遲。俗益浮偽而民莫之從也。仲尼氏出益倡仁義之道。修詩書定禮樂。以救世弊。不幸而繼之以戰國。處士橫議。以仁義為謬悠。其視道德何如也。漢興猶雜覇道。孝文之賢。議禮樂則謙讓未遑。孝武窮兵讟武。海內大困。於斯時也。非吾佛之教應冥數而來。則道德仁義幾乎熄矣。原夫佛之書也。苞羅精捔無所不統。玄微深遠難得而測。又明善惡報應通乎三世。身滅而神不滅。積善積惡各以其類報。不待爵賞而民自勸。不待刑威而民自化。其陰翊王度有功斯民。豈小補云乎哉。自漢以來。惟元魏宇文周唐會昌。甞下廢佛之令。其餘帝王罔不崇奉。若我藝祖皇帝。始受周禪首興佛教。累遣僧徒往西域益求其法。太宗皇帝。建譯場修墜典。製祕藏詮。述聖教序。真宗皇帝。製法音集崇釋氏論。仁宗皇帝。躬覽藏經撰寫天竺字。日與大覺師懷璉賡歌質問心法。英祖神考繼體守文。哲宗皇帝。在儲宮日。神考不豫。時讀佛經祈聖躬永命。使吾佛之道有一不出于正。則曷足以致歷代帝王之崇奉哉。雖遭前代之三廢。然皆不旋踵而復。其廢教之人。率皆不旋踵而及於禍。誰為陛下謀乃赫然下廢佛之令。(臣)甚為陛下危之。夫自漢以下歷代帝王。固無足為陛下道者。然我本朝之列聖。豈皆不足為陛下法哉。陛下必欲道士之盛者。宜嚴勅郡縣民之俊秀。悉與保奏披戴。不旬月之間道士自盛矣。陛下舍此而不為。迺迫脇佛者之徒。棄其所學而從之。傳曰。以力服人者非心悅而誠服也。以非心悅誠服之僧。驅而內諸道士之中。(臣)愚以為道士之禍自此始矣。未覩其為盛也。(臣)濫學於佛。食宋之粟。不容默已。諫而獲罪實甘心焉。書上。帝大怒。收付開封獄。當黥舂陵。監防卒謂。此去萬里蛇霧毒人。道人蔬食且不過中食。甚非自全計。宜茹葷血。師囅然曰。死則死耳。佛禁不可犯也。舂陵守一夕夢黥佛械而立庭下。旦視事遍以告僚屬。僚屬具對同夢。頃之師至。而貌惟肖。一府大驚。議免師役。辭以大君有命。守益賢而免之。居亡幾州人大疫。師為鑿池呪水。飲者輒愈。尋許自便。建炎南渡廷臣。薦師林堪恢復。詔赴臨安勉反初服。師力辭。帝知師不可奪。從容謂師。先帝惑於妖言。毀卿形服。朕欲為卿去其黥涅可乎。道對曰。先皇墨寶不忍毀。帝大笑。撫道背曰。卿到老倔彊。遂賜名法道。諡號寶覺圓通法濟大師。俾住大中祥符寺。國災眚咸委師祈榮。應若影嚮。紹興二年。詔住廬山之東林。從江州守臣請也。明年師因道士循習近例班居僧上。遂詣行在上疏曰。緣崇寧大觀問。道士王資息林靈素等。明冐資品紊亂朝綱。由是道壓僧班。切見靖康以來。道士官資已行追毀。乞依祖宗舊制。特賜改正。禮部議故事惟宣德門肆赦。道左餘並僧左。奏著為令。先是靖康之亂。甞與律師悟明誓。造三千化佛。為國永命。其在祥符時。方議經構。而金人再陷臨安。乘輿浮海。道亦扈從。至是乃移罷東林。勸施藏事。十七年七月二十一日。入寂于千佛閣新寺。是日講筵。法師百餘人。以自恣來謁。慰勞如平時。遽謂法門安危。繄公等是賴。吾其逝矣。索筆書偈。合掌而逝。闍維獲舍利無數。弟子寶護建塔九里松之原。世壽六十二。僧臘四十四。魏國公張浚譔塔銘。
淨慈北磵居簡禪師弔其塔。文曰。孟子稱大丈夫者。富貴不能淫。貧賤不能移。威武不能屈。公寄命螻蟻。試身雷霆。不奉明詔。以改德士。威武果能屈乎。黥而流之。為道州徒。九死之濱過午不食。詠歌至化若出金石。貧賤果能移乎。削名刑籍。復還舊物。賜官分祿簡在帝心。曰往欽哉。去汝黥涅。公念先帝不敢毀除。帝曰。此翁至老倔彊。富貴果能淫乎。方林靈素假道士服禍基播遷。易緇於黃。天下從之。不則竊負而逃。槁死林壑。公則効忠比干。尚冀其萬分之一。如以抔土隄龍門之濤瀾。聖恩寬洪不即誅戮。鄉使群起而拒。吾知公獨不拒也。非至仁其孰能與於此哉。蒙後公而生。觀公所成就。奇偉峭絕。真大丈夫事。再拜右繞辭而弔之曰。黥可息乎。身據鼎耳兮。息之則殞。黥可去乎。恩如春風兮。去之不忍。一念之忍。迄于蒙塵。黍離闕庭。塗炭生靈。髮天下僧。又安足云邈哉。道州隻影問津一笑生還。天清地寧眾蠖斯屈。老臂獨信。隱若敵國。賢於長城。蠢爾靈素。不正典刑。雖百粉兮痛奚以平。九里清陰蛻骼是舍。草枯自春光奮不夜。後世何知。婆娑其下。其顙有泚兮。其容則赭。油然而興起兮。如聞伯夷之風者。
(丙午) 欽宗桓即位(正月斡離不犯京得金帛而退。十二月再圍京城。閏月城陷。明年四月帝及上皇六宮皇族北遷)。
改元靖康。
夫自古世間之事無有大如生死者若欲免之在脩乎六度萬行於六度萬行而能廣之者惟佛與祖也佛祖之要先賢集以成書目之曰通載庶慕之者循而行之至乎死生之際得其自在矣可不信歟。
聖朝鎮朔將軍總兵官榮祿大夫譂公月庭鎮江舟徒人。
於我佛祖之道深有所入信乎生死之不免故日給之餘悉為善緣而已甞鼎建保定之永寧宣府之彌陀寺極盡輪奐之美兼以四事之需至乎像設莊嚴香花供具種種殊勝其工用之費不啻計。
乎幾千萬緡又印大藏經十藏分送諸寺供養流通去眷遣僧聘余於吳興辨山白蓮隱居來至永寧之席會公於宣府乃言及。
京都善信重刊通載板乏力未克就公即欣然施財完此卷至乎末卷余觀公之見義勇為可謂不忘。
佛之付囑金湯吾教者也因筆其概為後之勸云。
旹
宣德五年歲在庚戌六月下澣永寧住山釋大海書
佛祖歷代通載卷之十九
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第二十
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
南宋(姓趙氏都杭州)○不輕曰(南渡高孝光寧理度幼主。七宗百三十四)。
(一 丁未) 高宗構(母韋妃。徽宗夢吳越武肅錢王入室。已而生帝。封康王。靖康初甞出使斡離不軍。是冬斡離不再來。奉詔再使耿南仲偕行。至相州民遮道請無往。至磁州守臣宗澤。及磁人亦止之。相州守亦以蠟書言。金人方遣騎。物色康王所在。乃回相州。揭榜召兵勤王。有詔以康王為大元帥。江伯彥宗澤為副。速領兵入衛。王從伯彥議。出相州北門。渡河至大名。聞京城陷。請進兵向京城。伯彥不可。請王移兵東平措身安地。南仲亦以為然。遂東。河間守黃潛善亦領兵至。進屯濟州。探報張邦昌為金所立。二帝北行。邦昌迎元祐孟后聽政。文武官吏皆勸進邦昌。下手書以迎立康王。告中外有曰。漢家之厄十世。宜光武之中興。獻公之子九人。唯重耳之尚在。遣使奉表。及以孟后書來。邦昌繼至伏地。慟哭請死。使人自河北竄來。進道君手禮曰。便可即真來救父母。王慟哭拜受。遂趨應天即位)。
改建炎元年。
金國天會五年。
(庚戌) 上自正月至溫之江心。改額曰龍翔。東軒曰浴日。宸翰輝映○革林靈素故居為資福教寺○秦檜歸自金受撻辣意專主和議○十二月金人冊劉豫為帝國號齊。年改阜昌。
(辛亥) 紹興元年○張浚妬能殺曲端盡失陝西地。
金國迎請栴檀瑞像到燕京建水陸會七晝夜安奉於閔忠寺供養凡住十二年。
(乙卯) 金熙宗立(名亶。元名曷刺。馬太祖嫡孫。宗浚之子。治十四年。完顏亮弑之)。
(二) 西夏大德元年。
法師蘇陀室利。西竺人也。特禮文殊于五臺。善閒呪術能通利。神異頗多。帝彌加重。時羽士蕭真人亦高士也。技術難問。皆為師伏。於是稽首後違世已。金國唐括相公讚其真曰。似似是是(或云奇哉師子)蘇陀室利西竺來遊一百八歲。雪色連腮碧光溢臂。內蘊真慈外現可畏。在閔宗朝連陰不霽。特詔登壇呪龍落地。赭色伽黎后妃親製。施內藏財度僧起寺。人半信疑。佛陀波利借路重來五峰遊禮。峨五佛冠。曼殊何異。圓滿月面色非紅粹。真人蕭生遙瞻拜跪。
(三) 紹興五年八月五日。圓悟禪師示寂。諱克勤。字無著。彭州崇寧駱氏子。依妙寂院自省落髮受具。游成都從圓明敏行大師學經論窺其奧。以為不足恃。謁昭覺勝公問心法。久之出關。見真如哲公。頗有省。時慶藏主眾推飽參。尤善洞下宗旨。師從之盡其要。甞謁東林照覺。頃之謂慶曰。東林平實而已。往見太平演道者。師恃豪辨與之爭鋒。演曰。是可以敵生死乎。他日涅槃堂孤光獨照時。自驗看。以不合辭去。抵蘇州定惠。疾病幾死。因念疇昔所參俱無驗。獨老演不吾欺。會病間即日束包而返。演喜其再來。容為侍者。值漕使陳君入山問法。演誦小艶詩云。頻呼小玉元無事。只要檀郎認得聲。師侍側忽大悟。即以告演。演詰之。師曰。今日真喪目前機也。演喜曰。吾宗有汝。自茲高枕矣。師因以是事語佛鑑懃。懃未之信。師曰。昔云。高麗打鐵火星爆。吾指頭初謂建立語。今乃果然。懃愕然無對。時佛眼禪師尚少。師每事必旁發之。二公後皆大徹。由是演門二勤一遠。聲價籍甚。叢林謂之三傑。演遷五祖師執寺務方建東厨當庭有嘉樹。演曰。樹子縱礙不可伐。師伐之。演震怒舉杖逐師。師走辟。忽猛省曰。此臨濟用處耳。遂接其杖曰。老賊我識得儞也。演大笑而去。自爾命分座說法。崇寧初以母老歸蜀。出世昭覺。久之謝去。於荊州見丞相張無盡談華嚴要妙。逞辭婉雅玄旨通貫。無盡不覺前席。師曰。此真境與宗門旨趣何如。無盡曰。當不別。師曰。有甚交涉。無盡意不平。師徐曰。古云。不見一色始是半提。更知有全提時節。若透徹方見德山臨濟用處。無盡翻然悟曰。固甞疑雪竇大冶精金之語。今方知渠無摸索處。師甞有頌云。頂門直下轟霹靂。針出膏肓必死疾。偶與丞相意會。無盡喜曰。每懼祖道寖微。今所謂見方袍管夷吾也。澧州刺史請住夾山。未幾遷湘西道林初潭師周公因提舉劉直孺願見師至是皮相之不甚為禮。及見開堂提唱妙絕意表。始增敬焉。政和末有。
旨移金陵蔣山。法道大振。僧問。如何是實際理地。曰何不向未問已前薦取。僧曰。未問已前如何薦。師曰。相隨來也。進云。快便難逢。更借一問。曰。忘前失後。進云。若論此事如擊石火。只如未相見時如何。師曰。三千里外亦逢渠。曰。恁麼則聲色外與師相見。答曰。穿却鼻孔。問。忠臣不畏死。故能立天下之大名。勇士不顧生。故能立天下之大事。未審衲僧家又作麼生。師曰。威震寰區未為分外。曰。恁麼則坐斷十方壁立千仞。師曰。看箭。問。不落因果不昧因果。是同是別。師曰。兩箇金剛圈。曰。溈山撼門三下又作麼生。師曰。不是同途者。知音不舉來。甞示眾云。恁麼恁麼雙明。不恁麼不恁麼雙暗。不恁麼中却恁麼。暗裏隱明。恁麼中却不恁麼。明中隱暗。只如和座子掇却許多建立恁麼犯手傷鋒。且道喚作什麼。到這裏。高而無上。深而無底。旁盡虛空際。中極隣虛塵。淨裸裸赤洒洒。是箇無底鉢盂無影杖子。熊耳山前少林峯下。老胡九年冷湫湫地守這間家具。深雪之中直得情忘意遣理盡見除。方有一箇承當。且道雙明雙暗雙放雙收。是建立是平常。總不與麼也未。是極則處。且作麼生是極則處。擘開華嶽連天秀。放出黃河輥底流。宣和中詔住東都天寧 太上在康邸。屢請宣揚。有偈云。至簡至易。至尊至貴。往來千聖頂?頭。世出世間不思議。然是時欽宗在東宮。師對太上預有至尊之讖。建炎改元。宰相李伯紀表住金山駕幸維揚。有詔徵見顧問西竺道要。對曰。陛下以孝心理天下。西竺法以一心統萬殊。真俗雖異一心初無間然。太上大悅。賜號圜悟禪師。乞雲居山歸老。朝廷厚贐其行。至雲居之明年。復歸于蜀。太師王伯紹迎居昭覺。紹興五年八月五日示疾。將終。侍者持筆求頌。書曰。已徹無功。不必留頌。聊示應緣。珍重珍重。擲筆而化。春秋七十有三。坐五十五夏。諡真覺禪師。塔曰寂照。
(丙辰) 五月收免丁錢○(徽宗凶聞至。以乙卯四月崩)。
(四) 平江虎丘隆禪師入寂。諱紹隆。和州含山縣人。生時歧嶷。九歲出家依縣之佛惠院。又六歲削髮受具。又五歲而束包曳杖。飄然有四方之志。首謁長蘆淨照禪師。參扣之間景響有得。因閱圓悟勤禪師語。撫卷歎曰。想酢生液。雖未能澆腸沃胃。要且使人慶快。第恨未親聆謦欬爾。於是欲訪之。至寶峯謁湛堂準禪師。準曰。如何是行脚事。師露胸示之曰。和上驗看。準即打。師約住曰。且莫盲枷瞎棒。準大笑。因留年餘。乃謁死心於黃龍。心問曰。是什麼僧。師曰。行脚僧。心曰。是何村僧行甚驢脚馬脚。師曰。廣南蠻道什麼何不高聲道。心喜曰。却有衲僧氣息。師乃喝。退而參堂度一夏。心甚器之。每歎曰。再來人也。死心機鋒橫出。諸方吞焰。非上上根莫能當。而於師重稱賞。眾皆側目。已而趨夾山見圓悟道龍牙山遇泐潭乾之法子蜜禪師。相與甚厚每研推古今。至投合處撫掌軒渠。或若佯狂。議者謂今之溈仰寒拾也。久之辭去。遂至夾山會圓悟移道林。師從焉。一日入室。圓悟引教云。見見之時見非是見。見猶離見見不能及。竪拳曰。還見麼。師曰。見。悟曰。頭上安頭。師於此有省悟。復曰。見箇什麼。曰。竹密不妨流水過。悟肯之。自此與圓悟形景上下。又二十年。斧搜鑿索盡得圓悟之祕。師以二親垂白。歸寓鄉郡褒禪寺。蓋修摩耶忉利故事也。繼受請住城西之開聖寺。四眾翕然歸仰。建炎之亂盜起淮上。乃南渡。宣城士庶素欽師名為結廬銅峯下適彰教虛席。郡守李尚書光延師居之。道化益振四年而遷虎丘。時圓悟以時未平。泛峽歸蜀。曩之同參輻輳川犇。一時後生望山而趨。師每登座。從容示露。一味平等。隨根所應皆愜其欲。故圓悟之道復大播東南。諸方謂圓悟如在也。居三年。感微疾。白眾曰。當以第一座宗達承院事。眾請於郡從之事。既索筆大書伽陀曰。無法可說。是名說法。所以佛法。無有剩語。珍重。擲筆坐逝。實紹興六年丙辰歲五月甲午八日乙亥也。建塔于山之陽。凡住世六十年。坐四十五夏。
(丁巳) 金廢劉豫齊滅。
(戊午) (秦檜為右相。晏敦復退而有憂色。曰奸人相矣)○金天眷元年。
(己未) 詔諸軍州建報恩光孝奉徽宗香火。
(庚申) 西夏(仁宗拓跋仁孝立乾順子。改年大慶)。
(辛酉) 是年秦檜張浚謀殺岳飛岳雲○(張九成登徑山適大惠升座。有神臂弓之語。秦檜秉國。謂譏朝廷。竄師衡陽)○金改皇統。
(壬戌) 行經界田糧○韋太后歸自金○停給僧道度牒。
金國。英悼太子生日詔海惠大師于上京宮側剏造大儲慶寺普度僧尼百萬大赦天下。
(癸亥) 金詔海惠清慧二禪師住儲慶寺迎瑞像於本寺積慶閣中供養。
翻譯名義平江景德法雲編次荊溪周敦義作序。
(甲子 六四) 西夏元慶元年。
(乙丑) 金海慧遷化。帝偕后親奉舍利。五處立塔。特諡佛覺佑國大禪師。
(丙寅) 正月詔毀淫祠○秦檜經界兩浙四川等處。
金復賜清惠佛智護國大師號登國師座特賜金襴大衣及所用珍異其欽敬古所未有帝后親奉接足禮授。
(五 丁卯) 金國與蒙國議和○蒙國自稱祖元皇帝。
(戊辰) 佛智端裕禪師入寂。師吳越錢氏之裔。嗣圓悟。初住鄧之丹霞。遷住虎丘。次徑山。庵居於西華秀峯。勅住建康保寧。移萬壽。又遷閩之延沙壽山西禪。被旨補靈隱。秋又赴明之育王。其法嗣淨慈水庵一等。
(己巳) 金國完顏亮立。太祖孫(初名孛烈。殺主自立。遷燕。後南征駐於汴至江上為諸酋弑於龜山寺)改年天德。
○西夏改天盛。
(六) 紹興十九年。牧庵忠禪師遷化。名法忠。姓姚。四明鄞縣人。母夢異僧求寓止而娠。既誕紫帶繞身。自幼性專靜。告雙親出家。依郡中崇教院道英授經業。年十九試所業得度。即預講肆。究天台教旨。於疏義入微亦頗自負。一日暴所習於禪者。為其折困。因有疑於於禪宗。趨天童交禪師以求決焉。及於交言下知有機不發交使其南詢造閩之雪峯。與需禪師語。復不契。聞佛眼遠禪寺居淮西龍門。於是出蜀兼程至彼。造次不忘提撕其未至處。適縱步水磨歘睹牌額。書法輪常轉。師於是礙膺之疑泮然氷釋。遂說偈曰。轉大法輪。目前包裹。更問如何。水推石磨。而作圓相呈佛眼。眼曰。其中事作麼生。師曰。㵎下水長流。眼曰。必竟如何。師曰。水推石磨。眼曰。歸堂歇去。切不得舉著。後五日來。却向女道一句子。曰。這一句子也不消得。佛眼為之解頤。師遂作禮。尋辭佛眼。度九江登廬阜。露眠草宿蛇虎為隣。山舒水緩處。會意則居焉。偶晦昏道傍有枯木數圍。經野燒之餘尚存尋尺。內空且絜。師兀然其中逾旬浹。遠邇傳觀者甚眾。師不欲顯異。留偈紀之曰。誰將三昧真空火。爇却一株煩惱薪。只有大根元不動。更無枝葉撼風塵。廼去謁湛堂準禪師於泐潭。酬酢敏捷。準大奇之。斯時黃龍法社鼎盛。預結夏制限其來者。然死心道貌德威。鮮敢櫻其鋒。甞持劍夜造室曰。聞老和上不懼生死是不。死心擬對。師以劍揮之。死心引頸。師擲劍于地作舞而退。至相西親圓悟于道林。悟深器之。既而放浪衡嶽。眷車轍靈岩之右。怪石有如臥牛。師結茅其傍。故榜牧庵。棲遲二十餘年。外形骸而自適。或連宵而不寐。或累日而忘飡。髮長不剪。衣弊不易。天下禪侶雅稱為忠道者。四方衲子不以承顏為不足。一時士夫無不聞風而欣慕。樞密柳公仲古鎮長沙。以法輪起師。從於眾望。師掉頭不顧。復以勝業虛席心欲迎致。檄諸禪勸請。師聞而宵遁。追蹤至定明蘭若。撾鼓于堂。致師于座。緇素羅拜踰時不已。師慨然說偈曰咄哉黃面老。將法付王臣。林下無心客。官差逼殺人。昔聞其言。今見其事。下座曳杖趨勝業領住持事。給事憑公濟川撰開堂疏。有曰。佛眼磨頭悟法輪之常轉。死心室內持慧劍以相揮。時為師之實錄。師既應世。以荷負宗教為己任亦不悋去留。故自勝業遷南木雲蓋公安大溈五剎。復赴豫章師李吉甫請。住黃龍。太尉邢公孝揚施金為造壽塔於寺東之薌源。纔畢工而方丈後山白光上騰。群鵲飛鳴。師顧之笑曰。吾將行矣。索筆書偈曰。六十六年。遊夢幻中。浩歌歸去。撤手長空。書畢復謂眾曰。後事可依靈源清禪師遺範。言訖瞑目而寂。
(庚午) 金廢度僧道。
(辛未) 九月上謂大臣曰。緣不度僧常住多有絕產。令戶部撥以瞻學(出宋史)○世尊示滅二千一百年矣。
(七) 太皇后韋氏(高宋母也)建崇先顯孝禪寺於杭之高亭山。詔真歇清了禪師。開山為第一代。未幾示寂。塔于寺中。師左綿雍氏。嗣丹霞淳公。甞作無盡燈記曰。東平打破鏡已三百餘年。龍潭吹滅燈復四百餘載。後代子孫迷於正眼。以謂鏡破燈滅。而不知行住坐臥放大光明。燈未曾滅也。見聞覺知虛鑑萬像。鏡未曾破也。燈雖無景能照生死長夜。鏡雖無臺能辯生死魔惑。鏡與燈光光常寂。明與鑑幻幻皆如。照之無窮。則曰無盡燈。鑑之無窮。則曰無盡鏡。日用不昧。昭昭於心目之間。但眾生迷而不知。故有修多羅教。開如幻方便。設如幻道場。度如幻眾生作如幻佛事。譬如東南西北上下四維中點一燈外安十鏡。以十鏡喻十法界。一燈況一真心。一真心則理不可分。十法界則事有萬狀。然則理外無事。鏡外無燈。雖鏡鏡中有無窮燈無窮燈唯一燈也。事事中有無盡理無盡理惟一理也。以一理能成差別事。故其事事無礙。由一燈全照差別鏡。故則鏡鏡交參。一鏡不動而能遍能容能攝能入。一事不壞而即彼即此即一即多。主伴融通重重無盡。悲夫眾生居一切塵中。而不知塵塵皆毘盧遮那無盡剎海。普賢示一毛孔。而不知一一毛孔含眾生三昧色身。然則一切眾生日用在普賢毛孔中。毘盧光明內。慈氏樓閣中出沒。文殊劍刃上往來。念念中與諸佛同出世。證菩提轉法輪入滅度。如鏡與鏡。如燈與燈。一切一時普融無礙誠謂不可思議解脫法門。非大心眾生。無以臻於此境。或問。即今日用見聞覺知。畢竟是燈耶。非燈耶。是鏡耶。非鏡耶。答曰。鏡燈燈鏡本無差。大地山河眼裏花。黃葉飄飄滿庭際。一聲砧杵落誰家。
是年改孤山寺為延祥四。聖觀。遷圓法師塔。葬北山瑪瑙坡○大惠移梅陽。
(癸酉) 金改貞元正月張燈○(吏人王中孚倡全真教談馬丘劉和之今尚存)。
(甲戌) 宋自秦檜專國。士大夫名望者。悉屏之遠方。齷齪委靡不振之徒。一言契合即登政府。仍止除一廳。謂之伴拜。稍出一語。斥而去之。不異奴隷。皆褫其職名閣其恩數。猶庶官。
(八 乙亥) 雲臥紀談。羅湖野錄成。十月感山沙門曉瑩譔。字仲溫。法嗣大惠杲禪師。
(丙子) 六月有星晝隕○金改正隆元年○(詔大惠復為僧住持阿育王山)。
(丁丑) 八月詔收諸路給餘僧牒。上曰。佛法朕亦未甞有意絕之。正恐僧徒多則不耕者眾矣(宋史)。
(九) 明州天童宏智禪師正覺。十月遷寂。姓李氏。母趙。隰州人。誕師之夕光出於屋。人皆異之。七歲誦書日數千言。通五經。父宗道令出家。得度於同郡淨明寺本宗。受具於晉州慈雲寺智瓊。十八歲出游方。訣其祖曰。若不發明大事誓不歸矣。至晉絳間或以無憑沮師。邑尹見師英俊。因以所執扇示之曰。為我下一轉語。師即援筆書偈其上。尹大喜為請憑以行。渡河之洛。謁成枯木於汝州。時丹霞淳道價方盛。乃造焉。問如何是空劫已前自己。覺云。井底蝦蟆吞却月。三更不借夜明簾。霞曰。未在更道。覺擬議。霞打一拂子云。又道不借。覺忽悟作禮。霞云。何不道取一句。覺曰。某甲今日失錢遭罪。霞曰。未暇打爾。且去。時年二十三矣。霞退居唐州大乘。亦從焉。宣和二年霞遷大洪。為掌記室三年。遷首座時金粟智雪豆宗保福悟鳳山釗。皆參隨之。復分座於圓通照闡提席下。真歇住長蘆。招居板首。時眾踰千七百。見其秉拂提唱。皆服之。出世泗洲普照。嗣法丹霞矣。比先分寺之半為神霄宮。而又兩准荐饑。齋厨空乏。二時所須雜以菽麥。既至命純以秔。庫僧辭不給。已而檀施填委。徽宗南幸。覺領眾起居。見寺僧千餘填擁道左威儀整肅異之。有旨召公面受聖語。還其故寺之半。建炎初住舒之太平。又遷江之圓通能仁。謝事遊雲居謁圓悟。會長蘆虛席。大眾必欲得師。圓悟與安定郡王勉其行。入寺未幾。時大寇李在抄掠境上。領眾入寺。眾懼解散。公安坐堂上。以善語化之。在等稽首敬服。麾退其兵。餽金瞻眾。一方咸賴以安。建炎三年渡浙江至明州禮補陀。道由天童。適其闕主。眾見師來。密白郡帥。始辭而後從。未幾虜人犯境。僧徒迍散。公獨遲其來虜至登嶺以望。若有所見。遂斂兵而退。秋毫無犯。人歎以為神助焉。九月被旨住靈隱將行四眾號慕百鳥哀鳴。十月有旨。再還天童。前後垂三十年。寺屋幾千間。無不新者。紹興二十七年秋九月。別郡帥諸檀。是月七日還山飯客如常。八日辰已索浴更衣端坐。索筆作大惠書。屬以後事。又書偈曰。夢幻空花。六十七年。白鳥烟沒。秋水天連。擲筆而逝。詔諡宏智禪師。塔曰妙光。
(戊寅) 六月有星晝隕。八月地震○(詔育王大惠再住徑山)。
(己卯) 七月翰林李燾進皇朝百官表(宋史)。
(庚辰) 初行會子○十二月欽宗崩于五國城。
(辛巳) 詔復給僧牒市軍儲。
金世宗立(名雍。初名褒。封楚王。太祖孫。海陵王亮既背盟南伐。以帝守京。因自立都燕。帝仁厚慈儉不嗜兵。國內安治。在位二十九年。人謂小堯舜)改年大定。
(十) 大教東被一千一百年矣。
(壬午) 孝宗睿即位。初名伯琮。太祖七世孫也。母張氏。生於秀州。有嘉禾之瑞。在位二十七年。壽六十八矣。
金國移都燕京。勅建大慶壽寺成。詔請玄冥禪師顗公開山第一代勅皇子燕王降香賜錢二萬沃田二十頃。
(十一 癸未) 改隆興元年。是年六月十三日。天童應庵禪師曇華遷寂。姓江氏。蘄之黃梅人。生而奇傑。骨目聳秀。童稚便厭世故。具決定志津濟群品。年十七出家於邑之東禪。明年為大僧。又明年杖錫參方首謁隨州水南遂和上。染指法味。廼上雲居。圓悟禪師一見拊勞。痛與提策。以為法故服勞難事。趨走唯恐居後。會悟入蜀。指似往見彰教隆于宣。隆其子也。隆移虎丘。師實為先馳。未半載間通徹大法。頓明圓悟為人處。未幾禮辭遊諸方。初分座於處之連雲。處守遂以妙嚴請師出世。繼住衢之明果蘄之德章饒之報恩薦福婺之寶林報恩江之東林建康之蔣山平江之萬壽。兩住南康歸宗。末乃住今天童。皆緇白欽慕同辭公舉。處處開大施門垂手未悟。遠近奔湊如水赴壑。師於普說小參問答勘辯之屬。皆從容暇豫。曲盡善巧。而室中機辯操縱殺活。尤號明妙。師初有發明。即與此庵時號元布袋者同行。反覆博約日益深奧。及從此庵於護國。相得歡甚。此庵云亡。意於師不無所囑。而開堂嗣法不忘虎丘。與近世眩於名聞牽於利養燒香不原所得者異矣。每於住持泛應虛受。雖料理建置小物細故。動為無窮計。未甞苟且。纖毫不可於意。即翩然竟去。莫能回奪。甞自言。衲僧家看草鞋住院。何至如蚖蛇戀窟。勵勉徒眾不許放逸。事事必身率之。其將示疾也。猶掛牌入室至夜分他日多類此。將終或以辭世偈為請。師曰。吾甞笑諸方所為而自為之耶。區處院事纖悉不遺。奄然趺坐而化。春秋六十一。夏臘四十三。
(十二) 是年徑山杲禪師入寂。諱宗杲。宣州寧國奚氏子。幼警敏有英氣。年十三始入鄉校。一日與同窓戲謔。以硯投之。誤中先生帽。償金而去。乃曰。讀世書曷若究出世法乎。即詣東山惠雲院出家。先是元豐戊午院塑釋迦像。有異人丁生者。語寺僧曰。立像一紀當生一導師。大興宗教。若像有難。是人方來。像毀則是人亦有難。崇寧甲申有盜穴像腹取其所藏。師以是歲適至。事惠齊為師。明年落髮受具。繇是智辯自將凌跨流輩。閱古雲門錄。恍若舊習。聞老宿紹珵久依天衣懷公。亟往上謁與聞雪竇奧旨。趨寶峯湛堂準禪師。見師風神爽邁。特加器重。使之執侍。指以入道捷徑。師橫機無所讓。準訶之曰。汝未曾悟。病在意識。領解則為所知障。時李彭商老參道於準。師適有語曰。道須神悟。妙在心空。體之不假於聰明。得之頓超於聞見。李歎賞曰。何必讀四庫書然後為學哉。因此為方外交。準將入滅。師問孰可依從。準以圓悟勤公語之。已而重趼荊渚。謁無盡居士張公請銘準塔。公道望傾天下。師登其門承顏接辭。綽有餘裕。公稱譽之。為名庵曰妙喜。字以曇晦。歸寶峯訖其事。復見無盡從容問曰。居士謂我禪何如。公曰。子禪逸格矣。師曰。宗杲實未自肯在。公曰。行見川勤可也。於是佩服其言放浪襄漢。會大陽微禪師。密授曹洞宗旨。尋游東都。宣和六年圓悟禪師被旨都下天寧。師自慶曰。天賜我。得見此老。不孤湛堂張公指南之意。遂造天寧。及聆其陞堂法要。逈異平日所聞。即傾心依附。閱四旬圓悟舉。僧問雲門。如何是諸佛出身處。門云。東山水上行。若有人問天寧只向。道薰風自南。來殿閣生微。涼師於言下豁然頓。悟圓悟大。喜遷師擇木堂。以古今差別因緣密加妍練。一日圓悟飯超然居士趙公。師預坐。忽忘舉筯。圓悟顧師而語超然曰。是子參得黃楊木禪也。師既為所激乘間扣曰。聞和上甞問五祖話不。知記其答否。圜悟曰。向問有句無句如藤倚樹作麼生。五祖云。描也描不成。畫也畫不就。又問樹倒藤枯時如何。五祖云。相隨來也。師廓然脫去。知見玄妙。圜悟深可之。使掌記室著臨濟正宗記卑焉。分座令接納。繇是以竹篦應機施設電閃星飛。不容擬議叢林浩然歸重。右丞呂公舜徒奏。錫佛日之號。虜人犯順。欲名僧十數北去。師為所挾。會天竺密三藏。日與論義。密尤敬服。尋得自便趨吳門虎丘。聞圓悟遷雲居。欲往省覲。道金陵。待制韓公子蒼與語喜之。以書聞樞密徐公師川曰。頃見妙喜辯惠出流輩。又能道諸公之事業。袞袞不勌。實僧中祀梓也。抵雲居為眾第一座。譏訶佛祖辯搏無礙。圜悟亦讓其雄。會世擾攘。入雲居之西結庵于古雲門寺基。因以為名。閱二十年辟地湖湘轉仰山。邂逅竹庵珪禪師。相與還雲門。著頌古百餘篇。久之游七閩。居海上洋嶼。師閔諸方學者困於默照。作辯邪正說以救其弊。泉南給事江公創庵小溪延請師居。緇素篤於道者畢集。未半年發明大事者數十人。鼎需思岳彌光道謙遵璞悟本等。皆在焉。一日參政李公漢老。聞舉庭柏話有省。師可之及公疾革。作偈寄彌光。有深將法力荷雲門之句。師平居絕無應世意。圜悟在蜀聞之。囑丞相張公德遠曰。杲首座不出。無可支臨濟法道者。公尋還朝。適徑山虛席。必欲致師。師幡然起赴。開法于臨安府治。唱圜悟之道。說法竟。侍郎馮公濟川問曰。師甞言不作這蟲豸。今日為什麼敗闕。師曰。盡大地是箇杲上座爾作麼生見。公無語。及居徑山。四方佳衲子靡然坌集。至一千七百。師無他約束。容其自律發明已見率常有之。上堂問答(具在本錄)時惠雲院忘丁生之讖。毀釋迦故像而新之。實紹興辛酉。夏五月也。師於是月。坐與張厚善。著逢掖編置衡州廖通直李繹。為結茅圃中。師既拘文不與眾俱。率令散處花藥開福伊山。時容其受道。門庭益峻。乃褒先德機緣間與拈提。離為三帙。目曰正法眼藏。前參政李公大發。時居鐔津。翰林汪公彥章稅駕零陵。數通書問道。當軸者滋不悅。移師梅州。其地荒僻瘴癘。藥物不具。學徒百餘。羸糧從之。閱六稔斃者過半。師以道處之怡然。由是居民向化至繪師像。飲食必祀焉者有之。
乙亥冬蒙恩北還。明年春復僧伽黎。尋領朝命住明州育王山。逾年有旨。改住徑山。天下宿衲復集如初。時上潛藩。雅聞師名。遣內都監詣山問佛法大意。師陞堂有偈云。豁開頂門眼。照徹大千界。既為法中王。於法得自在。仍作頌獻曰。大根大器大力量。荷擔大事不尋常。一毛頭上通消息。遍界明明不覆藏。上嘉美久之。建邸立。復遣內知客入山供養五百應真。請師說法。親書妙喜庵大字。并製贊寵寄曰。生滅不滅。常住不住。圓覺空明。隨物現處。師陞堂有偈曰。十方法界至人口。法界所有即其舌。只馮此口與舌頭。祝吾君壽無間歇。億萬斯年注福源。如海滉漾永不竭。師子窟內產狻猊。鸑鷟定出丹山穴。為瑞為祥遍九垓。草木昆蟲皆歡悅。稽首不可思議事。喻如眾星拱明月。故今宣揚妙伽陀。第一義中真實說。師春秋高。求解寺任。辛巳春得旨退居院之明月堂。然宏法為人老而不勌。上即位特賜號大惠禪師。隆興建元自恣前一夕。有星殞于院之西。流光赫然。有聲如雷。師示微疾。八月九日學徒問候。師勉以宏道徐遣之曰。吾翌日始行。至五鼓親書遺奏。侍僧固請留頌。為寫四句擲筆就寢。湛然而逝壽七十有五。塔全身於堂之後。
淳祐間晉陵尤焴號貳卿。甞題大惠語。大惠說法從橫踔勵。如孫吳之用兵。而廣闊弘深不可涯涘。如大海水。魚龍飲者莫不取足。今舉平昔聞見二則朱文公少年不樂讀時文。因聽一尊宿說禪直指本心。遂悟昭昭靈靈一著。十八歲請舉。時從劉屏山。屏山意其必留心舉業。暨搜其篋。只大惠語錄一帙爾。次年登科。故公平生深知禪學骨髓透脫關鍵。此上根利器。於此取足者也。焴早得於潘子善丈云爾。因取語錄讀之。至老不敢釋手。往在舂陵。永嘉徐棘卿瑄。亦貶是邦。未幾忽遷象臺。憂愁涕泣。焴授以所携本。徐卿亟取讀之。達旦不寐。次日欣悅忘憂。與昨日敻然二人也。遂携以去。手抄一本乃見還。後三年徐沒于貶所。臨終殆同游戲。不疾沐浴而逝。此書之靈驗如此。蓋焴之親覩也(云云)。
(十三) 詔蔣山大禪了明禪師。繼席徑山。師秀州陸氏。嗣大惠。化揚和王姑胥莊田供眾。歲收二萬斛。常住由是豐足。
(十四 甲申) 沙門祖琇號石室撰隆興佛運通論成行于世。
(乙酉) 乾道元年。
(丙戌) 詔靈隱道昌禪師住淨慈。
(戊子) 詔上竺若訥講師。於四月八日。選五十僧入內觀堂。行金光明三昧。祈福邦家。
金國十月一日。詔顗禪師於東京剏清安禪寺。度僧五百。作般瑟于吒會。
(十五 己丑) 普庵禪師入寂。名印肅。袁州宜春余氏子。六歲夢一僧點其心曰。汝他日當自省。既覺以意白母。視之當心有一點紅瑩。大似世之櫻珠。父母因此許從壽隆院賢公出家。年二十七落?。越明年受戒。師容貌魁奇智性巧慧。賢器之。勉讀法華。師曰。甞聞諸佛元旨必貴了悟于心。數墨巡行無益於事。遂辭師游湖湘。謁大溈牧庵忠公。因問。萬法歸一。一歸何處。忠公竪起拂子。師遂有省。後歸受業院。紹興癸酉間有隣寺慈化者。眾請住持無常住。師布衾紙衣晨粥暮食禪定外。唯閱華嚴經論。一日大悟遍體汗流。喜曰。我今親契華嚴境界。遂述頌曰。揑不成團撥不開。何須南嶽又天台。六根門首無人用。惹得胡僧特地來。自後發為言句動悟幽顯。有不期然而然者。一日忽有僧名道存。冐雪至。師目之喜曰。此迺吾不請之友矣。遂相與寂坐。交相問答。或笑或喝。僧曰。師再來人也。非久當大興吾教。迺指雪書頌而行。至斯慕向者眾。師乃隨宜為說。或書偈與之。有病患者。折草為藥與之即愈。或有疫毒人迹不相往來者。與之頌。咸得十全。至於祈禳雨暘伐怪木毀淫祠。靈應非一。由是鼎新梵宇或問。師修何行而得此。師當空畫云。還會麼。云不會。師云。上心不須說。其峻機多類此。忽一日索筆書頌於方丈西壁云。乍雨乍晴寶象明東西南北亂雲深。失珠無限人遭劫。幻應權機為汝清○枯木救度復示眾曰。諸佛不出世。亦無有涅槃。入吾室者必能元契矣。善自護持無令退失。索浴更衣跏趺而寂。時乾道五年七月二十一日也。世壽五十五。僧臘二十八。奉全身于塔焉。
(十六) 是年金國慶壽亨禪師。塔于嵩山。其文略曰。諱教亨。號虛明。濟州任城王氏子。先有汴京慈濟寺僧福安。山居任城有年矣。齋于芒山村。倚樹而化。見夢于女弟馮。自彭村浮圖乘白馬而下曰。我生於西陳村王光道家。馮語其母及其子其夢正同。詰旦至光道家。師母劉夜夢安公來求寄宿。是日師果生焉。拳右拇指似不能伸。瞬而未笑。同業福廣福堅聞之來謁。徑問。安兄無恙。師熟視良久伸指而笑。常獨臥空室。其母聞人誦摩訶般若波羅蜜。驚顧襁褓。師猶囁嚅。及晬試以經卷酒杯。遽拾經卷。少長不茹葷血。唯見僧行造門。輒喜從之。故一時皆呼以馮山主芒山。村碑之於石。七歲出家禮本州崇覺院圓公為師。十三受具足戒。遇苦瓜先生。相之曰。此兒必領僧萬指。十五游方。聞鄭州普照寶公法席之勝。自汴梁發足。是夜寶公夢。慶雲如金芙蕖繽紛亂墜。以告人曰。吾十年無夢矣。此何祥也。翌日師來。寶公心獨異之。師朝夕參扣。未有所入他日以事往睢陽宿趙渡。忽馬上憶擊板因緣有省。凝情不散將抵河津。同行德滿驚曰。師兄此河津也。師下馬悲喜交集。至于隕涕。歸以語寶公。公曰。此僵臥人。似欲轉動。猶未印可曰曾看日面佛公案否。師笑曰。兒時已念得。寶公笑曰。我只教人參諸方掉下底禪。但再參去。定有自得力處。一日師因雲堂靜坐。忽聞板聲霍然親證。呈頌曰。日面月面。星流電轉。若更遲疑。面門著箭。咄。寶公遂記莂曰吾謾汝不得也。諸方知師得法。懇求出世。師亦知緣至。輒往應命。五坐道場。嵩山之戒壇。韶山之雲門。鄭州之普照。林溪之大覺。嵩山之法王。左丞相夾谷清臣。請師住中都潭柘。歸隱缺門。復駐錫于濟川之普照。方丈後叢樹蓊欝中有一株。亭亭然高丈餘。群鴉以次來巢。其上下十二級如浮圖狀。眾賀曰。和上佛法將大振乎。不十數日奉章廟旨主慶壽寺。三年。退居缺門。知河南府國公石抹仲溫。以少林虛席。請師繼之。居無何師復引去。徜徉嵩少間者數年。忽覺四大絃緩。杜門堅坐謝絕賓客。其嗣香山江延師于西堂。慈雲海復乞侍奉。至興定己卯秋七月十日。謂眾曰。汝輩各宜著力。索筆書頌。其末後句云。咦一二三四五六七堅坐不動而逝。享年七十。僧夏五十有八。闍維焰如蓮花開合。牙齒目睛不灰。舍利無算。師自兒時額有圓珠。至是爆然飛去。收靈骨建塔焉。
(庚寅) 金國世宗真儀皇后出家為尼建垂慶寺度尼百人賜田二百頃。
○西夏乾祐元年。
(十七 辛卯) 乾道七年正月二十日。靈隱瞎堂惠遠禪師奉詔見選德殿。師奏曰(臣)生西蜀眉山。遊方逾四十年在山間。恭聞陛下即位以來。日應萬機道冠千古。覆護教法契合龍天。是謂以佛心而治天下(臣)嗣法佛果圓悟禪師。上曰。圓悟是誰。奏曰(臣)之師名克勤。太上皇帝駐蹕維楊時賜號也。上曰。恨昔不見。其杲老如何。奏曰。與(臣)同出圓悟之門。上賜坐。上問曰。如何免得生死。奏曰。不悟大乘道終不能免。上曰。如何得悟。曰本有之性。但以歲月磨之。無不悟者。上曰。悟後如何。曰悟了始知。陛下所問與(臣)所奏悉皆不是。上曰。一切處不是如何。奏曰。脫體現前。了無毫髮可見之相。上大悅。師復奏曰。古德道無所是是菩提。上曰。即心即佛如何。曰目前無法。陛下喚什麼作心。上曰。如何是心。師正身叉手而立曰。只者是。上笑。徐問德山臨濟機緣。師具奏之。復奏曰。悟後千句萬句乃至一大藏教。只是一句。上曰。是那一句。奏曰。好語不出門。上曰。不與萬法為侶可參乎。奏曰。老龐致此一問。驚天動地。驅山塞海。超古今脫是非。離言說絕依倚。如陛下至尊至貴。大道本然。上曰。得道者誰。奏曰。學道之人隨其器量淺深。驗在意表。得底人他亦自知時節。學佛者眾機緣亦廣。恐勞聖聽。不敢具奏。遂謝恩下殿。上曰。後更要說話在。奏曰。謹領聖訓(乙未正月初五入寂)帝製原道論。其文曰。朕觀韓愈原道。因言佛老之相混三教之相絀。未有能辯之者。且文繁而理迂。揆聖人之用心則未昭然矣。何則釋氏專窮性命棄外形骸不著名相。而於世事自不相關。又何與禮樂仁義。然尚立戒。曰不殺。不淫。不盜。不飲酒。不妄語。夫不殺仁也。不淫禮也。不盜義也。不飲酒智也。不妄語信也。如此於仲尼何遠乎。夫子從容中道聖人也。所為孰非仁義。又烏得而名焉。譬如天地運行陰陽循環之無端。豈有意春夏秋冬之別哉。此聖人強名之耳。亦猶禮樂仁義之別。以設教治世不得不然也。因其強名揆而求之則道也。道也者仁義禮樂之宗也。仁義禮樂固道之用也。彼楊雄謂老氏槌仁義滅禮樂。今迹老子之書。其所寶者三。曰慈。曰儉。曰不敢為天下先。孔子曰。溫良恭儉讓。又唯仁為大。老子之所謂慈豈非仁之大者耶。曰不敢為天下先。豈非遜之大者耶。至其會道則互相遍舉。所貴者清淨寧一。而於孔聖果背馳乎。蓋三教末流昧者執之自為異耳。夫佛老絕念無為。修心身而已矣。孔子教以治天下者。特所施不同耳。譬猶耒耜而織機杼而耕。後世徒紛紛而惑。固失其理。或曰當如之何去其惑哉。曰以佛修心。以老治身。以儒治世。斯可也。唯聖人為能同之。不可不論也。
(十八) 帝甞於選德殿製觀音讚。賜上竺刻於石。有詞曰。猗歟大士。本自圓通。示有言說。為世之宗。明照無二。等觀以慈。隨感即應。妙不可思。
(壬辰) 正月駕幸靈隱。八月七日詔靈隱徑山天竺集內觀堂齋。宣靈隱惠遠。入東閣賜坐。咨論法要。十月三十特賜遠號佛海禪師。
(甲午) 詔賜內帑二萬緍。付上竺建藏殿。賜經一藏。命皇太子書殿榜。曰法輪寶藏。
(乙未) 淳熙○詔賜(上竺白雲堂 印靈隱直指堂印)。
(十九 丙申) 特旨福州東禪刊天台宗教部同大藏流通。
(庚子) 金國大定二十年正月勅建仰山棲隱禪寺(今大都西山)命玄冥顗公開山賜田設會度僧萬人。
(二十 癸卯) 淳熙九年二月十九日。沙門可觀卒。字宜翁。華亭戚氏。年十六具戒。依南屏精微師。聞車溪擇卿聲振江浙。負笈從之。一日聞舉唱般若寂寥。忽有悟入。如服一杯降氣湯。玉惠覺有橫山命。師偕行讀指要。至若不謂實鐵床非苦變易非遷。歎曰。語言文字皆糠粃耳。建炎初主嘉禾壽聖。遷當湖德藏。居閱世堂為楞嚴補註。霅以祥符延。閱兩載以疾反當湖南林。一室蕭然人不堪之。則曰。松風山月此我無盡衣鉢也。乾道七年。丞相魏杞出鎮姑蘇請主北禪。入門適當九日。指座云。胸中一寸灰已冷。頭上千莖雪未消。老步只宜平地去。不知何事又登高。魏公擊節不已。淳熙七年皇子魏王牧四明(諱愷諡惠憲王孝宗次子)用月堂遺書之薦。請主延慶。時已八十九歲。抵行在所而聞王薨。師在天竺受請曰。王旨如生。豈當有辭。遂行至南湖。眾見行李寂寂。莫不歎服。不二載復歸當湖竹庵。無疾而逝。壽九十一。大惠先沒二十年矣。
(二十一 癸卯) 帝註圓覺經。二月遣中使。齎賜徑山住持寶印。刊行。
(甲辰) 金大定二十四年二月。大長公主降錢三百萬。建昊天寺。給田百頃。每歲度僧尼十八。
(二十二 乙巳) 宋遣致仕黃門侍郎宇文虛中別號龍溪居士奉使。
金國。詔請留仕翰林承旨。對越談論。多引儒書證成釋理。累贈金帛。受以給貧。囊無挑藥。金朝儀禮皆公定制。壽一百八歲。無疾跏趺援筆朗吟而往。詞曰。去國匇匇幾度年。公私無事兩忻然。當時議論何能固。今日機關別有緣。萬事已從前世訂。英名留付好人傳。孤身不作往來計。須信胸中別有天。◎
◎(二十三 庚戌) 光宗惇(孝宗第五子。年四十四。自東宮受禪。尊孝宗為壽皇。在位五年)改年紹熙。
金國章宗璟立(顯宗允恭子允恭未立而卒。帝以皇太孫即位。荒于酒色。大金之業墮焉)改年明昌。
(二十四 辛亥) 大朝太祖成吉思皇帝是年起兵。
(癸丑) 是年十二月布衣王孝禮言。今年冬至日影表當在十九日壬午而會。元曆乃在二十日癸未係差一日。乞將修內作所掌銅表圭。付太史局。則驗從之。
金國明昌四年。詔請萬松長老於禁庭升座。帝親迎禮。聞未聞法。開悟感慨親奉錦綺。大僧祇支詣座授施。后妃。貴戚羅拜拱跪。各施珍愛以奉供養。建普度會施利異常。連日祥雲連綿天際。從此年豐謳歌滿路。每歲設齋常感祥瑞(萬松洞下宗人)章宗駕遊燕之仰山。御題有金色界中兜率境碧蓮花裏梵王宮之句(十月殺世宗第六子允蹈)。
(甲寅) 宋光宗禪位于太子。是為寧宗。
金允蹈子愛王大辦。是年正月舉五國城叛。求。
大朝兵援。金兵屢敗。金亡之始也。
(二十五) 淨慈肯堂彥充禪師(於潛盛氏子。法嗣東林卍庵顏公)。
夔府臥龍破庵祖先禪師(廣安王氏)。
徑山癡絕道冲禪師(武信長江荀氏)。
(二十六 乙卯) 宋寧宗立。名擴(光長子。初封嘉王。孝宗崩。光疾甚。知樞密院事趙汝愚。密建翼戴之議。知憲聖太皇太后以宗社為憂。將白事而難其人。有知閤門事韓侘胄者。琦之曾孫。而太皇女弟之子也。乃因以入白太皇垂簾引嘉王入即位)改年慶元(三月朔日有食之○自虹貫日○雨土)。
(丙辰) 金國改年承安(十一月二十三日大赦。度僧千員)。
(丁巳) 金境內大旱。山東盜起○特詔萬松住仰山。升堂有偈曰。蓮宮特作梵宮修。聖境還須聖駕遊。雨過水澄禽泛子。霞明山靜錦蒙頭。成湯也展恢天網。呂望稀垂浸月鉤。試問風光甚時節。黃金世界桂花秋。
(庚申) 愛王合大兵陷金上都圍和龍。
(辛酉) 宋改嘉泰○(吳曦入蜀)○金改泰和○(耶律德壽叛擊走之)。
(二十七 壬戌) 靈隱松源禪師入寂。名崇岳。生於處州龍泉吳氏。自幼卓犖不凡。處群兒中未甞嬉宕。稍長聞出世法慕向之。年二十三棄家。衣掃塔服受五戒於大明寺。首造靈石妙公。繼見大惠杲禪師於徑山。久之大惠升堂。稱蔣山應庵華公為人徑捷。師聞之不待旦而行。既至入室未契。退愈自奮勵。終夜自舉狗子無佛性話。豁然有得。即以扣應庵。應庵舉。世尊有密語。迦葉不覆藏。師云。鈍置和尚。應庵厲聲一喝。自是朝夕咨請。應庵大喜。以為法器。說偈勸使祝髮棟梁吾道。隆興二年。師始得度於臨安西湖白蓮精舍。自是遍歷江浙諸大老之門。罕當其意。廼浮海入閩。見乾元木庵永公。一日辭木庵。木庵舉。有句無句如藤倚樹。師云。裂破。木庵云。瑯琊道好一堆爛柴。聻。師云。矢上加尖。如是應酬數反。木庵云。吾兄下語老僧不能過。其如未在。他日拂柄在手。為人不得。驗人不得。師云為人者。使博地凡夫一超入聖域。固難矣。驗人者。打向面前過不待開口。已知渠骨髓。何難之有。木庵舉手云。明明向汝道。開口不在舌頭上。後當自知。逾年見密庵於衢州之西山。隨問即答。密庵微笑曰。黃楊禪爾。師切於明道至忘寢食。密庵移蔣山。華藏徑山皆從之。會密庵入室次。問傍僧。不是心。不是佛。不是物。師侍側豁然大悟。乃曰。今日方會木庵道開口不在舌頭上。自是機辨從橫鋒不可觸。密庵又遷靈隱。遂命師為第一座。旋出世於平江澄照。為密庵嗣。徙江陰之光孝。無為之冶父。饒之薦福。明之香山。平江之虎丘。慶元三年。靈隱虛席。被旨補處。居六年法道盛行。得法者眾。而師有棲遯之志。即上章乞罷住持事。上察其誠許之。退居東庵。俄屬微疾。猶不少廢倡道。忽親作書別諸公卿。且垂二則語以驗學者曰。有力量人因甚擡脚不起。開口不在舌頭上。及貽書嗣法香山光睦雲居善開。囑以大法。因書偈曰。來無所來。去無所去。瞥轉玄關。佛祖罔措。跏趺而寂。實嘉泰二年八月四日也。得年七十有一。坐夏四十。奉全身塔于北高峯之原。
(二十八 癸亥) 嘉泰三年。金國於是始定。以土德王。承宋。蓋不數遼人云。
徑山佛照德光禪師入寂。諱德光。姓彭氏。臨江新喻人。父術母袁。夢異僧入室。驚寤有娠。既生。乃祖曰。吾家世積德。乃生此兒。必光吾門。因是命名。年九歲寇擾辟地於袁之木平寺。有妙應大師。伯華善相。曰是子伏犀貫頂。出家必作法門梁棟。時師年十歲。遽失怙恃。伯父循。伯母萬。育而教之。年二十有一。聞人誦金剛經。忽然通解。歸白母曰。適聞誦經。身心歡喜。世間萬事真如夢幻。力懇出家。族不能奪。遂散家貲。第存度牒僧具。餘悉以予其族。詣同邑光化禪院主僧足庵處薙髮。遂携師入閩。足庵寓福之西禪。謂之曰。是行為子擇所依。東禪月庵善果具衲僧眼。子依之。時復省吾足矣。一見月庵遽問。不落有無中。如何露消息。師云。不落有無中。分明露消息。月庵云。是什麼消息。師便喝。庵云。未在更道。師云。我留口喫飯在。即令參堂。是時老宿多在閩中。如妙湛佛心圓覺。望重叢林。師悉參扣遍歷五十餘員善知識。末後見大惠於育王。舉喚作竹篦則觸。不喚作竹篦則背。不得向舉處承當。不得向意根下卜度。速道速道。師云。杜撰長老如麻似粟。惠云儞是第幾箇。師云。今日捉敗者老賊。次年佛涅槃日。因頂謁次。自念佛常住法身何有生滅。頭未至地忽然契悟。遽告大惠。惠云。儞者回徹也。惠再主徑山。拉以偕往閱夏。暫至蔣山省應庵。庵稱賞不已。謂人曰。光兄頓出我一頭地。乃移書與李侍郎浩曰。光兄一自徑山老叔印可。如虎插翅。留月餘而歸。大惠說偈以頂相付師曰。有德必有光。其光無間隔。名實要相稱。非青黃赤白。云二。乾道丁亥。李侍郎分符天台。與師論道相契。以鴻福延之及遷郡之天寧。衲子雲集。淳熙三年。詔住靈隱寺。遣使降香開堂。恩寵優渥。是冬召對便殿問佛法大意。師敷奏直截帝大說。留禁中觀堂五宿。兩賜御頌。特賜佛照禪師之號。又承聖問。釋迦入山修道六年而成。所成者何事。奏云。將謂陛下忘却。四年冬召問華嚴法界。師奏簡切。上悅親灑宸翰獎諭。因進宗門直指一篇。七年育王虛席。露章乞老。得請東歸。又承聖問圓覺四病。冬召見便殿。紹熙改元。孝宗御重華宮召見。奏對逾時。四年被旨住徑山。抗奏辭免。孝宗曰。欲速相見郡將。堅請不容辭。二月望宣見于重華。自後兩賜聖問。應機而答。天顏皆悅。慶元元年春復請老祈懇再三。詔從之。師在觀堂也。駕時時臨幸。輿以小輦。侍衛二十餘人。至則促席而坐。或起行並立。歡如平生。所賜御札刻之琬琰。奏對語錄詔令刊行。每有召對。宣賜無時。中貴私自謂。金玉器用繒綵計緡三萬之多。師叩頭力辭不受。上益嘉之。暨歸寺有所宣賜。不容辭。師亦不妄用。初思陵駐蹕會稽。有旨許置產。師謂育王產薄不足贍眾。遂以所賜及王臣長者所施之資置田。歲增穀五千。國史陸游為記其事。師創數椽以自處。號曰東庵。掩關自娛。接人不倦。時許衲子入室。嘉泰癸亥三月。告眾曰。吾世緣將盡。至十日。詢問左右曰。今日月半也。對曰然。又二日索紙作遺書。與平昔所厚者二十。早集眾敘別。皆法門之旨要。無半語及他事。索浴更衣大書云。八十三年彌天罪過。末後慇勤盡情說破。趺坐而逝。弟子塔全身於庵後。僧臘六十請諡于朝。勅諡普惠宗覺大禪師。塔曰圓照。
(二十九 甲子 六五) 嘉泰四年金國學士元遺山裕之撰紫微觀記。文曰。東平左副元帥趙侯之太夫人既老矣。即棄家為全真師。師鄆州人。普惠大師張志剛。居冠氏之洞清庵。庵之制初亦甚陋。乞名于丘尊師。改號紫微觀。趙侯為之起殿閣立堂宇至于齋厨庫廐。所以奉其親于家者。無不備。歲癸已九月落成。請予記其事。予為之說云。古之隱君子及學道之士。多居山林。木食㵎飲槁項黃馘。自放于方之外。若涪翁河上丈人之流。後世或附之黃老家。數以為列仙。陶隱居寇謙之以來。此風故在也。杜光庭在蜀。以周靈王太子晉為王建鼻祖。乃踵開元故事。進崇玉宸君。以配混元上德之號。置階品立範儀。號稱神仙官府。虛荒誕幻莫可致詰。二三百年之間。至宣政之季。而其蔽極黃冠之流。官給命書。有散郎與大夫之目。循歷資級無別省寺。凡冥報之所警。後福之所開。則視桑門所前有者。而例舉之。始欲為高而終為高所庳。始欲為怪則終為怪所溺。其徒有高識遠引者。亦厭而去之。故自放于方之外者。猶一二見焉。貞元正隆以來。又有全真家之教。咸陽人王中孚倡之。潭馬丘劉諸人和之。本于淵靜之說。而無黃冠禳禬之妄。參以禪定之說。而無頭陀縛律之苦。耕田鑿井從身以自養。推有餘以及之人。視世間擾擾者。差若省便然。故墮窳之人。翕然從之。南際淮。北至朔漠。西向秦東向海。山林城市廬舍相望。什百為偶。甲乙授受。牢不可破。上之亦甞懼其有張角斗米之變。著令以止絕之。當時將相大臣有為主張者。故已絕而復存。稍微而更熾。五七十年以來。蓋不可復動矣。貞祐喪亂之後。蕩然無紀綱文章。蚩蚩之民靡所趣向。為之教者獨是家而已。今河朔之人。什二為所陷沒。無淵靜之習。無禪定之業。所謂舉桑門以自例者則兼有之。望宣政之季厭而去之之事且不可見。況附于黃老家數以為列仙者。其可得乎。嗚呼先哲王之道。中邦之政掃地之日外矣。是家何為者。乃人敬而家事之。殆攻劫爭奪之際。天以神道設教。以弭勇鬪嗜殺者之心耶。抑三綱五常將遂堙沒。顛倒錯亂。人與物胥而為一也。不然則盛衰消長有數存焉于其間。亦難于為言也已。侯名天錫字受之。崇儒重道出于天性。雖在軍旅。而文史未甞去手。甞與奉天楊煥然。讀徂徠石君言鑑。至論釋老家。慨然以為知言。決非漫為風俗所移者。是觀之作特以養志云。
(三十) 屏山李居士鳴道集說序。居士年二十有九。閱復性書。知李習之亦二十有九參藥山而退著書。大發感嘆日抵萬松深攻亟擊。退而著書。會三聖人理性蘊奧之妙要。終指歸佛祖而已。江左道學。倡於伊川昆季。和之者十有餘家。涉獵釋老膚淺一二。著鳴道集。食我園椹不見好音。竊香掩鼻於聖言。助長揠苗於世典。飾游辭稱語錄。斆禪惠如敬誠。誣謗聖人聾瞽學者。噫憑虛氣任私情。一讚一毀獨去獨取。其如天下後世何。屏山哀矜作鳴道集說。廓萬世之見聞。正天下之性命。張無盡謂。大孔聖者莫如莊周。屏山擴充渺無涯涘。豈直不叛于名教。其發輝孔聖幽隱不揚之道。將攀附游龍駸駸乎吾佛所列五乘教中人天乘之俗諦疆隅矣。張無盡又謂。小孔聖者莫如孔安國。鳴道諸儒又自貶屈。附韓歐之隘黨。其計孰愈乎尊孔聖與釋老鼎峙也耶。諸方宗匠偕引屏山為入幕之賓。鳴道諸儒鑽仰藩垣莫窺戶牖。輒肆浮議不亦僭乎。余忝歷宗門堂室之奧。懇為保證。固非師心昧誠之黨。如謂不然。報惟嚮影耳。屏山臨終。出此書付敬鼎臣曰。此吾末後把交之作也。子其祕之。當有賞音者。鼎臣聞余購屏山書甚切。不遠三數百里。徒步之燕。獻的藁于萬松老師。轉致於余。余覽而感泣者累日。昔余甞見鳴道集。甚不平之。欲為書紏其蕪謬而未暇。豈意屏山先我著鞭。遂為序引以鍼江左書生膏盲之病。為中原之士大夫有斯疾者。亦可發藥矣。甲午冬十有五日。中書湛然居士移剌楚才晉卿序。
迂叟曰。或問。釋老有取乎。曰有。曰何取。曰釋取其空。老取其無為自然。捨是無取也。空取其無利欲心。無為自然取其因任耳。
屏山曰。釋氏之所謂空不空也。老氏之所無為無不為也。其理自然無可取舍。故莊子曰。無益損乎其真。般若曰。不增不減。彼以愛惡之念。起是非之見。豈學釋老者乎。取其無利欲心。即利欲心。取其因任。即是有為。非自然矣。
橫渠曰。浮圖必謂死生轉流。非得道不免。謂之悟道。自其說熾傳中國。雖英才間氣。生則溺耳目恬習之事。長則師世儒崇尚之言。遂冥然被驅。謂聖人可不修而至。大道可不學而知。故未識聖人心。已謂不必求其跡。未見君子志。已謂不必事其文。此人倫所以不察。庶物所以不明。治所以忽。德所以亂。異言滿耳。上無禮以防其偽。下無學以稽其弊。詖婬邪遁之辭翕然並興。一出于佛氏之門者。千五百年。自非獨立不懼精一。自信有大過人之才。可以正立其間與之較是非計得失乎。
屏山曰。自孔孟云亡。儒者不談大道。一千五百年矣。豈浮圖氏之罪耶。至於近代始以佛書訓釋老莊。浸及語孟詩書大易。豈非諸君子所悟之道亦從此入乎。張子幡然為反噬之說。其亦弗仁甚矣。謂聖人不修而至。大道不學而知。夫子自道也歟。詖淫邪遁之辭。亦將有所歸矣。所謂有大過人之才者。王氏父子蘇氏兄弟是也。負心如此。寧可計較是非於得失乎。政坐為死生心所流轉耳。
明道曰。佛學只是以生死恐動人。可怪一千年來無一人覺。此是被他恐動也。聖賢以生死為本分事。無可懼。故不論死生。佛為怕死生。故只管說不休。本是利心上得來。故學者亦以利心信之。莊生云。不怛化者意亦如此。楊墨今已無。道家之說其害終小。唯佛學人人談之。彌漫滔天。其害無涯。傳燈千七百人。敢道無一人達者。有一人得易簣之理。須尋一尺布帛裹頭而死。必不肯胡服削髮而終。
屏山曰。聖人原始反終。知死生之說。豈不論生死乎。程子之不論生死。正如小兒夜間不敢說鬼。病人諱死其證難醫者也。害人而利我者楊朱也。利人而害我者墨翟也。學道者既利於我。又利於人何害之有。至於聖人無一毫利心。豈無利物之心乎。故物亦利之此天理也。聖人之道或出或處或默或語。殊塗而同歸。百慮而一致。故並行而不相悖。程子必欲八荒之外盡圓冠而方履乎。
明道曰。佛學大概是絕倫類。世上不容有此理。又其言待要出世。出那裏云。其迹須要出家。要脫世網。學之者不過似佛。佛一懶胡耳。他本是箇枯槁山林自私而已。若只如此不過。世上少這一箇人。却又要周遍。決無此理。彼言世網。只為些秉彛。又殄滅不得。當忠孝仁義之際。處於不得已。只和這些秉彛都消殺得盡。然後為道如人耳目口鼻。既有些氣須有此識。聲色飲食喜怒哀樂。性之自然。必盡絕為得天真。是喪天真也。又曰。若盡為佛。天下却都沒箇人去裏。
屏山曰。嗟乎程氏竊聞小乘教相語。不能盡信。略取其說而反攻之。烏知維摩華嚴之密旨誤認阿羅漢為佛。而不知其然。遽加詬罵。是豈識文殊普賢之祕行哉。圓教大士知眾生本空而度脫眾生。知國土本淨而莊嚴國土。不以世間法礙出世法。不以出世法壞世間法。以世間法即出世法。以出世法即世間法。八萬四千塵勞煩惱。即八萬四千清涼解脫。又豈止觀音之三十二應。善財之五十三參耶。眾生念念常有佛成正覺。仁者自生分別耳。但無我相人相眾生相壽者相。何妨居士身長者身宰官身乎。吾聞謗佛毀法中。有冥權大悲闡提逆行魔說。程氏豈其人耶。不然則非利根眾生為世智辯聰所障。具足無間業報哀哉弗可悔也。
伊川曰。禪家之言性。猶太陽之下置器耳。其間方圓小大不同。特欲傾此于彼耳。然在太陽幾時動。又其學者善遁。若人語以此理。必曰我無修無證。
屏山曰。此語出於徐鉉誤讀首楞嚴經。佛言。五陰之識如頻伽瓶盛空以餉他方。空無出入。遂為禪學。豈知佛以此喻識情虛妄本無來去。其如來藏妙真如性正太陽元無動靜。無修而修。無證而證。但盡識情。即如來藏妙真如性。非遁辭也。
伊川曰。或謂佛之道是也。其迹非也。然吾攻其迹耳。其道吾不知也。使其不合於先王。顧不願學也。如其合於先王。則求之六經足矣。奚必佛。
屏山曰。伊川之意欲相忘於江湖耳。吾謂不若卷百川而匯於大壑則無涯涘也。欲攻其迹不過如韓子之說云。山谷道人既奪其說矣。語在南康軍開先禪院記。
伊川曰。看華嚴經。不如看一艮卦。
屏山曰。程子以艮其所為止於其所當止。疑釋氏止如死灰槁木而止耳。故經出鄙語。顧豈知華嚴圓教之旨。一法若有。毘盧墮於塵勞。萬法若無。普賢失其境界。竪說之則五十七聖位於一彈指如海印頓現。橫說之則五十三法門在一毛端如帝網相羅。德雲曾過於別峯。普眼不知其正位。逝多園林迦葉不聞。彌勒樓閣善財能入。向非此書之至。學道者墮於無為之坑。談玄者入於邪見之境。則老莊內聖外王之說。孔孟上達下學之意。皆掃地矣。
伊川曰。至忙者無如禪客。行住坐臥無不在道。便是常忙。
屏山曰。君子無終日之間違仁。亦忙乎哉。以敬字為主則忙矣。
伊川曰。佛家印證甚好笑。豈有我曉得這箇道理却信他人。
屏山曰。自印證為得聖人之傳。尤可笑。我雖自曉其如人不信耶。
上蔡曰。學佛者欲免輪回。是利心私而已矣。此心有止而太虛無盡。必為輪回推之於始。何所付受其終何時間斷。且天下人物各有數矣。
屏山曰。佛說輪回愛為根本。有愛我者亦愛涅槃。不知愛者真生死故。何利心之有。彼圓覺性非作非止非任非滅。無始無終無能無所。豈有間斷哉。故眾生本來成佛。生死涅槃猶如昨夢。夢中人物豈有數乎。上蔡夢中之人猶作夢語。不識圓覺認為太虛悲夫。
上蔡曰。人死時氣盡也。予問明道。有鬼神否。明道曰。道無爾怎生信。道有爾但去尋討看。橫渠云。這箇是天地間妙用。這裏有妙理。於若有若無之間。須斷直得去。不是鶻突。自家要有便有。要無便無始得。鬼神在虛空中辟塞滿。觸目皆是。為他是天地間妙用。祖考精神便是自家精神。
屏山曰。明道之說。出於未能事人焉能事鬼。橫渠之說。出於精氣為物游魂為變。是故知鬼神之情狀。上蔡之說。出於盛哉鬼神之德洋洋乎如在其上在其左右。三子各得聖人之一偏耳。竟墮於或有或無若有若無之間。不各鶻突。予觀聖人之言。各有所主。大抵有生有死。或異或同。無生無死。非同非異。人即有形之鬼。鬼即無形之人。有心即有。無心即無耳。聖人復生不易吾言矣。
元城曰。孔子佛之言。相為終始。孔子之言。毋意毋必。毋固毋我。佛之言曰。無我無人。無眾生無壽者。其言次第。若出一人。但孔子以三綱五常為道。故色色空空之說微開其端。令人自得爾。孔子之心佛心也。假若天下無三綱五常。則禍亂又作。人無噍類矣。豈佛之心乎。故儒釋道其心皆一。門庭施設不同耳。如州縣官不事事。郡縣大亂。禮佛誦經坐禪。以為學佛可乎。
屏山曰。元城之論。固盡善矣。惜哉未甞見華嚴圓教之旨。佛先以五戒十善開人天乘。後以六度萬行行菩薩道。三綱五常盡在其中矣。故善財五十三參。比丘無數人耳。觀音三十二應。示現宰官居士長者等身。豈肯以出世法壞世間法哉。梁武帝造寺度僧持戒捨身。甞為達磨所笑。跋摩尊者謂宋文帝。王者學佛不同匹夫。省刑罰則民壽。薄賦斂則國富。其為齋戒不亦大乎。惜一禽之命。輟半日之飡。匹夫之齋戒爾。此儒者學佛不龜手之藥也。
元城曰。所謂禪一字。於六經中亦有此理。佛易其名。達磨西來此話大行佛法到今果弊矣。只認色相。若渠不來。佛法之滅久矣。又上根聰悟多喜其說。故其說流通。某之南遷。雖平日於吾儒及老先生得力。然亦不可謂於此事不得力。世間事有大於死生者乎。此事獨一味理會生死有箇見處。則於貴賤禍福輕矣。老先生極通曉。但不言耳蓋此事極繫利害。若常論則人以為平生只談佛法。所謂五經者不能曉生死說矣。故為儒者不可談。蓋為孔子地也。又下根之人謂寂寞枯槁。乃是佛法至於三綱五常。不肯用意。又其下者泥於報應因果之說。不修人事政教錯亂生靈塗炭。其禍蓋不可勝言者。故某平生何曾言。亦本於老先生之戒也。
屏山曰。元城之說。為佛者慮盡矣。為儒者慮似未盡也。佛書精微幽隱之妙。佛者未必盡知。皆儒者發之耳。今已章章然矣。或祕而不傳其合於吾書者。人將謂五經之中初無此理。吾聖人真不知有此事。其利害亦非細也。吾欲盡發其祕。使天下後世共知六經之中有禪。吾聖人已為佛也。其為孔子地。不亦大乎。彼以寂寞枯槁為佛法。以報應因果廢人事。或至亂天下者。正以儒者不讀其書為所欺耳。今儒者盡發其祕。維摩敗根之議。破落空之偏見。般若施身之戒。攻著相之愚。夫上無蕭衍之禍。下無王縉之惑矣。雖極口而談著書而辨。其亦可也。學者其熟思之。
龜山曰。聖人以為尋常事者。莊周則夸言之。乃禪家呵佛罵祖之類。如逍遙遊。乃子思之所謂無入而不自得。養生主。乃孟子所謂行其所無事而已。曲譬廣喻。此張大其說耳。
屏山曰。揚子見處甚高知禪者有力於佛。則知莊子有力於聖人矣。曲譬廣喻張大儒者之說。儒者反疾之何也。
龜山曰。儒佛深處所差抄忽耳。見儒者之道分明。則佛在其下矣。今之學者曰。儒者之道在其下。是不知吾道之大也。為佛者既不讀儒書。儒者又自小。然則道何由明哉。
屏山曰。儒佛之軒輊者。不唯佛者不讀儒書之過。亦儒者不讀佛書之病也。吾讀首楞嚴經。知儒在佛之下。又誦阿含等經。知佛似在儒下。至讀華嚴經。無佛無儒。無大無小。無高無下。能佛能儒。能大能小存泯自在矣。
南軒曰。天命之全體流行無間。貫乎古今。通乎萬物者。眾人自昧之而是理也。何甞問斷。而聖人盡之亦非有所增益也。若釋氏之見。則以為萬法皆吾心所起。是昧乎太極本然之全體。而反為自利自私。是亦人心而已。非識道心者也。
屏山曰。張氏之所謂天命之全體。釋氏之所謂心也。其言全出於佛老。無毫髮異矣。雖然疑萬法非心所為。而歸之太極。是不知太極為何物。如父出而忘其家。見其子而不識與。劉儀同何異哉。蓋以情識卜度。雖言道心而不知耳。反謂佛自私於人心惑矣。
晦庵曰。性固不能不動。然無所不有。然不能不動。其無所不有者。曷甞有虧之哉。釋氏之病錯認精神魂魄為性。果能見性不可謂之妄見。既曰妄見。不可言性之本空。此等立語未瑩。恐亦是見得未分明也。
屏山曰。性無動靜。亦無虧成。釋氏有語。學道之人不識真。只為從來認識神。豈以精神魂魄為性哉。不見性空。謂之妄見見性空矣。豈妄見耶。見見之時見猶非見。豈不分明。恐未分明。朱子之語。蓋未瑩耳。
晦庵曰。切病近世學者不知聖門實學之根本次第。而溺於佛老之說。妄意天地萬物人倫日用之外。別有一物空虛之妙不可測度。其心懸懸然。徼倖一見此物以為極致。未甞不墮於此者。
屏山曰。天地萬物人倫日用。皆形而下者。形而上者。誰之言歟。朱子耄而荒矣。偶忘此言。以為佛老之說。吾恐夫子之道亦將掃地矣。雖然不可不辯。佛之所謂色即是空。老子之所謂同謂之玄者。豈別有一物乎。朱子劃而為二。是墮於此而不自知耳。
安正忘筌曰。得失之報。冥冥之中。固未必無司之者。聖人尤探其賾。乃略此而不論。唯聖人超形數而用形數。與造物者游。賢者皆未足以超出而免。此姑就所得之報耳。可以為大戒。又曰。儒釋二家。歸宿相似。設施相遠。故功用全殊。此雖運動樞機裁成天地。終不駭異三靈被德。以彼所長施於中國。猶軒車適越冠冕之胡。決非所宜。儒者但當以皇極經世乃反一無迹而超數超形。何至甘為無用之學哉。
屏山曰。論至於此。儒佛之說為一家。其功用之殊。但或出或處。或默或語。便生分別以為同異者何也。至如劉子翬之洞達。張九成之精深。呂伯恭之通融。張敬夫之醇正。朱元晦之峻潔。皆近代之偉人也。想見方寸之地既虛而明。四通六闢千變萬化。其知見只以夢幻死生。操履只以塵垢富貴。皆學聖人而未至者。其論佛老也。實與而文不與。陽擠而陰助之。蓋有微意存焉。唱千古之絕學。掃末流之塵迹。將行其說於世。政自不得不爾。如胡寅者。詬詈不已。嘻其甚矣。豈非翻著祖師衣倒用如來印者邪。語在駁崇正辨。吾恐白面書生輩。不知諸老先生之心。借以為口實。則三聖人之道。幾何不化而為異端也。伊川之學。今自江東浸淫而北矣。搢紳之士負高明之資者。皆甘心焉。予亦出入於其中。幾三十年。甞欲箋註其得失而未暇也。今以承乏於秋闈。考經學數十餘日。乘閒漫筆於小藁。意者撒藩籬於大方之家。匯淵谷於聖學之海。藐諸子胸中之祕。發此書言外之機。道冠儒履。同入解脫法門。翰墨文章。皆是神通游戲。姑以自洗其心耳。或傳於人。將有怫然而怒。惘然而疑。凝然而思。釋然而悟。啞然而笑者。必曰此翁亦可憐矣。
僕與諸君子生於異代。非元豐元祐之黨。同為儒者。無黃冠緇衣之私。所以嘔出肺肝。苦相訂正。止以三聖人之教不絕如髮。互相矛盾痛入心骨。欲以區區之力。尚鼎足而不至於顛仆耳。或又挾其眾也。嘩而攻僕則鼎覆矣。悲夫。雖然僕非好辨也。恐三聖人之道支離而不合。亦不得已耳。如膚有瘡疣。膏而肉之。地有坑塹。實而土之。豈抉其肉而出其土哉。僕與諸君子不同者。盡在此編矣。此編之外。凡鳴道集所載及諸君子所著。大易書詩中庸大學春秋語孟孝經之說。洗人欲而白天理。剗伯業而扶王道。發心學於言語文字之外。索日用於應對灑掃之中。治性則以誠為地。修身則以敬為門。大道自善而求。聖人自學而至嗣千古之絕學。立一家之成說。宋之諸儒皆不及也。唐漢諸儒亦不及也。駸駸乎與孟軻氏並駕矣。其論議時有詭激蓋冥機耳。皆荀卿子之徒歟。此其所以前儒唱之。後儒和之。跂而望之。踵而從之天下後世將盡歸之。可謂豪傑之士乎。學者有志於道。先讀諸君子之書。始知僕甞用力乎其中。如見僕之此編。又以藉口病諸君子之書。是以瑕而舍玉。以噎而廢食。不唯僕得罪於諸君子。亦非僕所望於學者。吁。
諸儒鳴道集。二百一十七種之見解。是皆迷真失性。執相循名。起鬪諍之端。結惑業之咎。蓋不達以法性融通者也。屏山居士深明至理。憫其瞽智眼於昏衢。析而論之。以救末學之蔽。使摩詰棗柏再世。亦無以加矣。姑錄一十九篇。附于通載之左。
天竺三藏吽哈囉悉利幢記(尚書右丞右轄文獻耶律履撰東丹王七世孫)。
(三十一) 三藏沙門吽哈囉悉利。本北印度末光闥國人。住雞足山。誦諸佛密語。有大神力。能祛疾病。伏猛呼召風雨。輒効皇統。與其從父弟三磨耶悉利等七人。來至境上。請遊清涼山禮文殊。朝命納之。既遊清涼。又遊靈岩。禮觀音像。旋遶必千匝而後已。匝必作禮。禮必盡敬。無間日。日受稻飯一杯。座有賓客。分與必遍。自食其餘。數粒必結齋。始至濟南建文殊真容寺。留三磨耶主之。至棣又建三學寺。大定五年四月二十三日。示寂於三學。年六十三。僧夏則未聞也。
(三十二) 佛光道悟禪師。俗姓冠氏。陝右蘭州(金國)人。生而有齒。年十六自欲出家。父母不聽。乃不食數日許之祝髮。後二年自臨洮歸於彎子店宿。夜夢梵僧喚覺。適聞馬嘶。豁然大悟。歸家喜不自勝。吟唱云。見也羅。見也羅。遍虛空。只一箇。告其母曰。我拾得一物。其母於囊橐中尋索不見。問是何物。師曰。我自無始以來不見了底物。其母不省。他日欲遊諸方。鄉人送者求頌。有水流須到海。鶴出白雲頭之句。至熊耳果遇白雲禪師海公。先是人問海。何不擇法嗣。海亦作頌。有芝蘭秀發獨出西秦之語。比師之至。夜聞空中人言。來日接郭相公。黎明海呼僧行。令持香花接我關西弟子。寺乃唐郭子儀建。今渠自來住持也。既至一言相契。徑付衣盂。寺前甞有剽而殺人者。來告急。師呼眾擒之曰。即汝是賊。尋得其巢穴。賊眾請命。師與其要言而釋之。路不拾遺者數十年。人以此益信師之前身汾陽王也。大定二十四年。白雲既沒。師開堂出世。拈香於鄭州之普照。復駐錫于三鄉竹閣庵。時著白衣跨牛橫笛游於洛川。人莫之測。甞謂人曰。道我是凡。向聖位裏去。道我是聖。向凡位裏去。道我不是聖不是凡。才向毘盧頂上有些行履處。泰和五年結夏於臨洮之大勢寺。開圓覺經。升座偶曰。此席止講得一半去在。至五月十二日晚參。翌日早盥嗽畢呼侍者。我病也。尋藥去。侍者之未及門。師已臥逝。方丈上有五色雲。如寶蓋。中有紅光如日者三。春秋五十有五。僧臘三十有九。
(三十三) 資壽尼無著禪師入寂。師諱妙總。姓蘇氏。父中大夫。象先南徐丞相實大父也。年甫十五。忽念曰。吾生身何來。死復何去。良久脫然有得。初不以為意。長適毘陵許氏。不膠世故志慕空宗。以禪寂為進修。時惠嚴圓公嗣圓照佚居普門。乃扣以出世間法。機感相契。次見關西智寂室光真歇了。問答如流。咸敬異之。偶夫壽源官嘉禾。大惠至郡。源具飯以迎。師出禮拜無一言。大惠退謂給事馮公濟川曰。許司理閣中曾見神見鬼。但未遇本分鉗鎚。如萬斛舟置之絕潢斷港。莫能轉動。馮曰。何言之易耶。惠曰。他若回頭定須別也。次日道俗請惠說法。師與會。惠痛抵諸方異見邪解。聽者駭顧。師獨喜見眉睫間。既下座。師請道號。惠以無著號之。且示以偈。盡道山僧愛罵人。未曾罵著一箇漢。只有無著罵不動。恰似秦時?轢鑽。既罵不動。為什麼似?轢鑽。具眼者辨。越明年師登徑山隨眾坐夏。濟川亦在焉。惠上堂。舉石頭恁麼不恁麼總不得語。馮曰。厶會得也。惠徵之。馮著語曰。恁麼也得。蘇盧薩婆訶。不恁麼也不得。悉哩薩婆訶。恁麼不恁麼總不得。蘇盧悉哩薩婆訶。惠舉馮語似師。師曰。人謂郭象註莊子。却是莊子註郭象。惠雖異其言但默而不顧。且欲激其遂到。忽一日正危坐間。豁然大悟洞見大惠委曲相為處。不覺撫掌厲聲曰。這老賊老賊。遂呈頌云。驀然築著鼻頭伎倆氷消瓦解。達磨何必西來。二祖枉施三拜。更問。如何若何。一隊草賊大敗。惠亦以偈印之。汝既悟活祖師意。一刀兩段直下了。臨機一一任天真。世出世間無剩少。我作此偈為證明。四聖六凡盡驚擾。碧眼胡僧猶未曉。時卍庵顏公首眾。與一千七百衲子。咸以偈餞其歸。且賀法門之得人也。馮公猶未之信。舟過無錫。問師。岩頭為渡子時婆生七子話。徑山稱道人會得。作如何會。師云。已上所供並是詣實。仍以偈明之。有以禮部僧牒無著師號為施者。師說偈受之。祝髮披緇克遂初志。紹興壬午年也。時張公安國守吳門。資壽虛席。張盡禮迎請。乃開堂於萬壽寺。拈香為大惠之嗣。提唱具於語錄。乾道六年七月十四日。集眾說偈畢撼之則已去矣。年七十六。全身葬於無錫軍將山東。紹定庚寅閏二月末。遷葬於平江虎丘之東北。庵曰達本。奉塔藏之。
(乙丑) 宋改開禧○金泰和五年。
佛祖歷代通載卷第二十
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第二十一
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
大元
(一 乙丑) 太祖應天啟運聖武皇帝。是年征西夏。明年大會于斡難河。建九游之白旗。共上尊號曰。
成吉思皇帝。都和林 觀夫
聖人出世。威靈氣焰。自天佑之。膺命立極。超今邁古。且以鳳凰在殼。渥洼墮地。猶自絕類離倫。矧我
太祖皇帝。處九五飛龍之位乎。故其丕祚鴻休。與天地相為終始也。
(丙寅) 西夏拓跋失都兒忽乾順小子仁友之子乃仁宗姪也。是年五月立。在位六年。
(丁卯) 宋吳曦僭位於蜀。凡三十八日而安丙誅之。
(戊辰) 宋改嘉定○瑞像計二千二百年矣。
(己巳) 金國東海侯立改年大安。名允濟。世宗第七子。章宗無嗣。群臣奉遺詔立之。後為紇石烈執中所弑。在位四年。
(庚午) 旃檀瑞像至金國。十二年十月。迎赴上京禁庭供養○罷試經科。
(辛未) 大蒙古國號始建。
西夏神宗拓跋須蕃邸立。改年光定。夏人因大兵以金人不救。恨之遂叛。
(壬申) 金改重慶大兵至燕京。
(癸酉) 安南主李龍翰卒。子昊旵立。其國後為江南陳日照所有。而傳其子威晃。
金國宣宗。名珣。章宗庶兄。執中弑東海王而迎立之。以東海至寧元年九月即位。改年貞祐。在位十二年○八月大兵攻燕京。
(二) 嘉定六年十二月八日。天竺北峯講師入寂。名宗印。字元實。生鹽官陳氏。年十五具戒。謁竹菴觀公明教觀之旨。凡諸祖格言。必誦滿千遍。資教空延居座首。嘗著宗極論。事理各立一性之旨。印設九難。宗極為之義負通守蘇玭觀不二門。以文雖簡而昧其說。印撮示機要。玭即領解。白帥座請居正覺。颶風飄蕩。僅存藏殿。印守死不去。風為之止。未久玭亦召還。要印偕行曰。盍西還相與弘贊。居東二十七年。至是復反浙右。貳上竺講止觀。深砭學者支離名相之病。圍座挾策。主者以得士為忌。玄隱雷峯毛氏菴。問道者沓至。杜氏建普光一區。具禮迎之。禪講並行。法道益盛。適德藏來請印曰。肆業之地思報久矣。歷遷超果圓通北禪。道德之譽既行。土木之績亦就。海空英辭靈山。舉以自代。詔可。學徒五百咸服其道。宿弊為之一革。寧宗聞名召對便殿。上說。錫號惠行法師。以營觀室行化吳中。至松江謂其徒曰。吾化緣畢此。乃右脇而化。
(甲戌) 金於四月遷汴。求與大國和親○錦帥張智以郡降。尋叛。自號遼西王。改年大安。討平之○克燕京。
(乙亥) 世祖生於八月○大兵破潼關。
(丙子) 二月日蝕○川東西地震○黍州山崩。
(丁丑戊寅) 金改興定。七月日食。金兵犯光州。李珏等禦之。漣水弓手李全自北歸。即李鐵鎗也。詔以為京東路總管。
(庚辰) 禪宗聯燈錄成。
(辛巳) 金國五月日食。
(壬午) 大兵自回鶻征西夏。
(癸未) 西夏拓跋德仁。是年九月立。改年乾定。
金國改元光。九月日食○宋行經界田糧。
(乙酉) 宋理宗盷立。改寶慶元年。初名與。莒榮王希瓐之子。太祖十世孫也。寧宗子多而不育。鞠宗室子詢。立為太子。薨。初皇從弟沂靖惠王柄無子。甞以宗室子。賜名貴和。為之後。及失太子詢。遂立貴和為皇子。賜名竑。封濟國公竑惠而輕。甞疾史彌遠專權。謂異日不可容。彌遠聞而惡之。故陰為之計。與莒幼不好。弄群兒聚嬉輒獨登高坐不動。長上指以語兒曰。汝曹不効此人。恰一大王相似。群兒每羅拜其下。遂有趙大王之號。彌遠物色得之。甞取應得舉矣。特旨補官。竑既為寧宗子。遂以與莒為沂王。後賜名貴誠。除邵州防禦使。寧宗大漸。乃白中宮。以貴誠為皇子。改名盷宣遺詔即位。進竑為濟陽郡王。出判寧國府。恭聖楊后聽政。事定然後徹簾。壽六十一。
金國改正大名守緒。宣宗第三子。性寬仁和。嗜書博學。是年立。至癸巳年歸德府絕糧。六月奔蔡。八月南北兵夾攻。甲午正月禪位於後主麟。閉閣自經國亡。
(丙戌) 西夏拓跋德仁七月卒。次清平郡王立。在位一年。
(丁亥) 太祖以丙戌春至西夏。一歲盡克其城。是年十月廿七滅夏 上年六十矣。西夏凡一十二主。始繼遷以太平興國壬午起兵夏臺。訖今寶慶丁亥國滅。共二百四十六年。元昊於景祐甲戌自剏偽朔僭帝號者。一百九十四年。
(戊子) 宋改紹定元年。
(辛卯) 太宗皇帝即位。
(壬辰) 太祖次四子統王師破汴。金主遷蔡。金臣崔立降。大朝遣使過宋。議夾攻金。
(癸巳) 金改天興。
(甲午) 宋改端平元年○滅金。右金九主一百二十三年。
(乙未) 抄數中原戶計 ○宋天狗星墜淮安軍金棠縣。其聲如雷。三州之人皆聞之。及觀則為紅色碎石。或以為兵戈之兆○詔集議出度牒。收四介會子。
(丙申) 分封諸王。上親總兵征回回國歸附○宋失四川。
(丁酉) 宋改嘉熙。
(己亥) 詔諭高麗○宋十月虹見。
(庚子) 宋京師地震。白氣亘天。旱蝗。江浙福建旱都城大荒。飢者奪食於路。市中殺人以賣。日未晡路無行者。
(辛丑) 二月三日大赦天下○宋改淳祐。
(丙午) 定宗皇帝即位。
(庚戌) 大朝滅遼東高麗。
(三 辛亥) 憲宗皇帝即位。
世尊示滅二千二百年矣。
(癸丑) 宋改寶祐元年○大兵伐川蜀。
(四 丙辰丁巳) 抄數遼東戶計○宋撥官誥度牒。收換楮弊燬之。有元慶壽海雲大士遷化。名印簡。山西之嵐谷寧遠人。俗宋氏。微子之後。父慈善信服鄉里。里人稱為虛靜先生。母金源王氏。祖世奉佛不仕。師生於金之泰和壬戌十二月望。人品恢偉童幼神悟。七歲親授以孝經開宗明義章。乃曰。開者何宗。明者何義。親驚異。知非塵勞中人。携見傅戒顏公。顏欲觀其根氣。授以草菴歌。至壞與不壞主元在。師問曰。主在何處。顏曰。何主也。師曰。離壞不壞者。曰此客也。師曰。主聻顏。吟吟而已。乃得禮中觀沼公為師。八歲受三歸五八十善戒法。師方十一蒙豫王恩賜納具。有洪彥上座。問師曰。子今受大戒了。緣何作小僧。師曰。緣僧小故。戒說大也。試問上座戒老耶小耶。曰我身則老。語未終師大聲曰。休生分別。一日上座教僧去師背上拍一下。待回首乃竪指示之。僧如教拍師背。師便竪一指。僧回舉似上座。座奇之。師年十二。中觀聽師參問誨之曰。汝所欲者文字語言耳。向去皆止之。唯身心若枯木死灰。今時及盡。功用純熟悟解真實。大死一場。休有餘氣。到那時節。瞥然自肯方與吾相見。師受教習定。一日扶中觀行。觀曰。法燈禪師道看他家事忙。且道承誰力。汝作麼生會。師將中觀手一掣。觀曰。這野狐精。師曰。喏喏。觀曰。戒須別參。師年十三。時成吉思皇帝征伐天下。師在寧遠。於城陷之際。稠人中親面聖顏。俾師斂髻。師告曰。若從國儀則失僧相也。蒙旨如故。自此僧有不同俗民之異也。師年十八。天兵再下。太師國王領兵取嵐城。四眾逃難解散。師侍中觀如故。觀曰。吾迫桑榆。女方富有春秋。今此玉石俱焚。子宜逃生去。師泣曰。因果無差。死生有命。安可離師而求脫免乎。縱或得脫。亦非仁子之心也。老人察師誠確。囑師曰。子向去朔漠有大因緣。吾與子俱北渡矣。明日城降。有清樂元帥史公天澤義州元帥李公七哥者。見師氣宇非常。問曰。爾是何人。師曰。我沙門也。史曰。食肉否。師曰。何肉。史曰。人肉師曰。人非獸也。虎豹尚不相食。況人乎。史曰。今日兵刃之下。爾亦能不傷乎師曰。必仗其外護者。公喜甚。李帥問曰。爾既為僧。禪耶教耶。師曰。禪教乃僧之羽翼也。如國之用人。必須文武兼濟。李曰。然則必也從何而住。師曰。二俱不住。李曰。爾何人也。師曰。佛師。復曰。吾親教中觀。亦在於此。二公見師年幼無所畏懼應對不凡。即與住見中觀。二公聞中觀教誨諄諄。乃大喜曰。果然有是父有是子也。於是禮中觀為師。與師結為金石友。國王將中觀及師分撥直隷。成吉思皇帝載中觀于黃犢輕車。師親執御。日營採汲。經年至赤城。舍於郎中張公宅。使臣太速不花并麻賴。傅成吉思皇帝聖旨道與摩花理國王。爾使人來說底老長老小長老。實是告天的人。好與衣糧養活者教做頭兒。多收拾那般人在意。告天不揀阿誰。休欺負交達里罕行者。是時國王奉詔大加恩賜。延居興安香泉院。國王署中觀慈雲正覺大禪師。師寂照英悟大師。所需皆官給。小長老之名自此始。十九中觀將示寂。有羽客楊至慎求頌。老人俾執筆代書。偈曰。七十三年如掣電。臨行為君通一線。泥牛飛過海東來。天上人間尋不見。客曰。師幾時行。老人曰。三日後。時五月廿七日也。至六月初一。果無疾而寂。師哀毀過禮。闍維收頂骨舍利供養。建塔於府之西北隅。師罄所有為設齋。唯乞食看塔。一夜聞空中有聲召師名。師瞥然有省。乃遷入三峯道院。復聞人告曰。大事將成。行矣毋滯此。黎明策杖之燕。過松鋪值雨。宿于岩下。因擊火大悟。自捫面曰。今日始知眉橫鼻直。信道天下老和上不寐語。明日至景州見本無玄和上。問從何所來。師曰。雲收幽谷。曰何處去。師曰。月照長松。玄點首曰。孟八郎。便恁麼去也。師諾諾趨出。過洵州遇宿儒張子真。問上人何不安住。師曰。河裏無魚市上取。先是中觀臨終時。師問。中觀曰。某甲當依何人了此大事。觀囑曰。賀八十去。師既入燕。至大慶壽寺。乃省前讖。於是徑謁中和老人璋公。中和先一夕。夢一異僧策杖徑趨方丈踞師子座。既明謂知客曰。今日但有旦過。當令來見老僧。及晚師至引見。中和笑曰。此衲子乃夜來所夢者。師便問曰。某甲不來而來。作麼生相見。壽曰。參須實參。悟須實悟。莫打野榸。師曰。某甲因擊火迸散。乃知眉橫鼻直。壽曰。吾此處別。師曰。如何表信。壽曰。牙是一口骨。耳是兩邊皮。師曰。將謂別有。壽曰。錯。師喝曰。草賊大敗。壽休去日壽舉臨濟兩堂首座齊下喝。僧問濟。還有賓主也無。濟曰。賓主歷然汝作麼生會。師曰。打破秦時鏡。磨尖上古錐。龍飛霄漢外。何勞更下槌。壽曰。汝只得其機不得其用。師便掀禪床。壽曰。路途之樂。終未到家。師與一掌曰。精靈千載野狐魅。看破如今不直錢。壽打一拂子曰。汝只得其用不得其體。師進前曰。青山聳寒色。月照一溪雲。壽曰。汝只得其體不得其智。師曰。流水自西東。落花無向背。壽曰。汝雖善語言三昧。要且沒交涉。師竪起拳復拍一拍。當時丈室震動。壽曰。如是如是。師拂袖便出。明日命師掌書記。自此中和復以向上鉗槌差別關楗種種辯驗。師以無礙辯才應答皆契。其悟解精明度越前輩。壽一日謂師曰。汝今已到大安樂之地。宜善護持。吾有如來正法眼藏祖師涅槃妙心。密付於汝。母令湮沒。師掩耳而出。即以衣頌授師。頌曰。天地同根無異殊。家山何處不逢渠。吾今付與空王印。萬法光輝總一如。出世住興州仁智。歷遷洡陽之興國興安永慶以至大慶壽寺。皆太師國王及諸重臣之命。師於室中以四無依語勘學者。語具本傳。辛卯十一月受合罕皇帝宣賜。師稱心自在行。一日於廊下逢數僧。師問第一僧曰。那裏去。僧云。賞花去。師便打。問第二僧。那裏去。云禮佛去。師亦打。問第三僧。那裏去。云那裏去。師亦打。問第四僧。那裏去。僧無語。師亦打。問第五僧。那裏去。僧云。覓和上去。師云。覓他作麼。僧云。待打與一頓。師云。將什麼來打。僧云。不將棒來打。師連打四下云。這掠虛漢。眾皆走。師召云。諸上座。眾回首。師云。是什麼。乙未朝廷差札忽篤侍讀。選試經僧道。萬松長老嘆曰。自國朝革命之來。沙門久廢講席。看讀殊少。乃同禪教諸老宿請師董其事。師從容對曰。諸師當以斯激厲眾僧習應試經典。主上必有深意。我觀今日沙門。少護戒律。學不盡禮。身遠於道。故天龍亡衛而感朝廷勵其考試也。三寶加被必不辜聖詔。遂與華使相見之後。其處置法度悉從師議。廈里丞相以忽都護大官人言。問師曰。今奉聖旨。差官試經。識字者可為僧。不識字者。悉令歸俗。師曰。山僧不曾看經。一字不識。丞相曰。既不識字。如何做長老。師曰。方今大官人還識字也無。于時外鎮諸侯皆在。聞師之言皆大驚異。丞相復曰。必竟如何。師曰。若人了知此事通明佛法。應知世法即是佛法。道情豈異人情。古之人亦有起于負販者。立大功名于世載于史冊。千載之下凜然生氣。況今聖明天子在上。如日月之照臨。考試僧道如經童之舉。豈可以賢良方正同科國家。宜以興修萬善敬奉三寶。以奉上天永延國祚可也。我等沙門之用舍。何足道哉。丞相以是言告于大官人。乃從而奏聞。由是雖考試亦無退落者。蒙聖旨悉依太祖皇帝存濟。聽僧如故。丙申有司欲印識人臂。師力白于忽都護大官人曰。人非馬也。既皆歸服國朝。天下之大。四海之廣。縱復逃散。亦何所歸。豈可同畜獸而印識哉。由是印臂之法遂止。初孔聖之後。襲封衍聖公。元措者渡河。復曲阜廟林之祀。時公持東平嚴公書謁師。師以襲封事為言於大官人。師為其言曰。孔子善稽古典。以大中至正之道。三綱五常之禮性命禍福之原。君臣父子夫婦之道。治國齊家平天下。正心誠意之本。自孔子至此襲封衍聖公。凡五十一代。凡有國者使之襲承。祀事未嘗有缺。大官聞是言。乃大敬信。於是從師所言。命復襲其爵以繼其祀事。師復以顏孟相傳孔子之道。令其子孫不絕。及習周孔儒業者為言。亦皆獲免其差役之賦。使之服勤其教為國家之用。三十六丁酉正月。太祖皇帝二皇后。以光天鎮國大士號奉師。己亥冬師再起。復主大慶壽寺。壬寅護必烈大王請師赴帳下。問佛法大意。師初示以人天因果之教。次以種種法要。開其心地。王生信心求授菩提心戒。時秉忠書記為侍。郎劉太保也。復問。佛法中有安天下之法否。師曰。包含法界子育四生。其事大備於佛法境中。此四大洲。如大地中一微塵許。況一四海乎。若論社稷安危。在生民之休戚。休戚安危皆在乎政。亦在乎天。在天在人。皆不離心。而人不知天之與人。是其問別。法於何行。故分其天也人也。我釋迦氏之法。於廟堂之論。在王法正論品。理固昭然。非難非易。唯恐王不能盡行也。又宜求天下大賢碩儒。問以古今治亂興亡之事。當有所聞也。王又問。三教何教為尊。何法最勝。何人為上。師曰。諸聖之中吾佛最勝。諸法之中佛法最真。居人之中唯僧無詐。故三教中佛教居其上。古來之式也。由是太后遵祖皇聖旨。僧居上首。仙人不得在僧之前。王以珠襖金錦無縫大衣。奉以師禮。王固留師。師固辭。將別。王問。佛法此去如何受持。師曰。信心難生。善心難發。今已發生。務要護持。專一不忘。元受菩提。心戒不見。三寶有過。恒念百姓。不安善撫。綏明賞罰。執政無私。任賢納諫。一切時中。常行方便。皆佛法也。師既辭行。有一惡少年。肆言訕謗。以佛法不足信。王聞之。乃召其人。訓以大人之言復以刑法罪之。專使白師。師回啟曰。明鏡當臺妍醜自現。神鋒在掌賞罰無私。若以正念現前。邪見外魔殺之可矣。然王者當以仁恕存心乃可。王益敬焉。甲辰護必烈大王。以珠笠奉師。乙巳奉六皇后旨。於五臺為國祈福。丙午奉六皇后詔。師起至中途值風疾作。回奏。得旨還燕。丁未貴由皇帝即位。頒詔命師統僧。賜白金萬兩。師於昊天寺建大會為國祈福。太子合賴察請師入和林。延居太平與國禪寺。尊師之禮非常。辛亥蒙哥皇帝即位。頒降恩詔。顧遇優渥。命師復領天下僧事。蠲免差役。悉依舊制。丙辰正月奉聖旨。建會於昊天寺。初二日於會中忽患風恙。半身不舉。至夏初稍愈。是月旭威烈大王。差蒙古萬宣差。以金拄杖金縷袈裟段并令旨。奉師求法語。七月師會諸勤舊。抄所長物見數令主後事。丁巳夏說偈畢。師云。汝等少諠。吾欲偃息。侍僧急呼主事人至。師吉祥泊然而逝矣。即後四月初四日也。世壽五十有六。荼毘獲舍利無算。欽承。
護必烈大王令旨。建塔於大慶壽寺之側。諡佛日圓明大師。望臨濟為十六世。
(戊午) 詔釋道辯析化胡經○上大駕南征。
(己未) 九月大兵自滸黃州渡江征宋。歲貢而退(上崩于釣魚山)。
宋改開慶元年。
(五 庚申) 大元世祖聖德神功文武皇帝即位。尊臨寶扆統御寰區。四海混同萬邦入貢。建立制度條理紀綱。為子孫萬世成法。寬仁愛人深信因果。不言自信。不化自行。聖君之德。蕩蕩乎民無能名焉。
宋改景定元年○大朝遣郝經通好○五月十九。
建元中統二十七日大赦普度僧尼。
(辛酉) 行中統鈔法平章王以道奏。
(癸亥) 制開平府號上都○宋買公田始自浙。
(甲子 六六) 至元元年。城燕建都。八月十六改元。大赦天下。設會度僧詔請。
國師扮彌達癹思八登座。授祕密戒○是年八月拜光祿大夫太保。參領中書省事制。
(六) 長生天氣力裏皇帝聖旨。咨爾劉秉忠氣剛以直。學富而文。雖晦迹於空門。每潛心於聖道。朕居藩邸卿實賓僚。側聞高誼餘二十年。出從遐方幾數萬里。迨予嗣服須汝計安。不先正名何以壓眾。宜崇師位兼總政機。可特授光祿大夫太保參領中書省事。卿其勉輔朕躬率先乃屬。察朝夕之勤惰。審議論之是非。凡有施為並聽裁決。佇看成績別示寵章。准此。中統五年八月日。
(乙丑) 宋改咸淳元年。度宗即位。初名孟?。福王與芮之子。理宗之猶子也。理宗子多而不育。鞠孟?於宮中。改名孜。又改名禥。立為皇子。封忠王。已而建儲。改名璿。
(丙寅) 大教東被已一千二百年矣。
(戊辰) 大兵圍襄陽。時呂文煥告急。宋遣高連范文虎赴援。大兵於要害處。連珠劄寨不得通○宋十月日食。
(己巳) 帝師發思巴制蒙古字成。二月頒行天下。
(庚午) (宋之常州雞翼生距)立尚書六部○宋大旱○至元七年。詔請膽巴金剛上師。住持仁王寺。普度僧員。
(七) 大元帝師苾芻癹思巴說根本有部出家授近圓羯磨儀軌。親制序文曰。原夫贍部嘉運至四佛釋迦文如來遺教利見也。大元御世第五主憲天述道仁文義武。太光孝皇帝登極也。天資福惠諦信內乘。普使萬邦咸歸一化。雖敷天垂拱而至治無垠。眷支那弘道。而在躬不息。欲以自佛相承師資繼踵迄今不替。正戒儀軌為拳拳從善之行人俾一一恒持於淨戒精練三業堅守四儀。此寔聖皇匡正佛法之睿旨也。昔因善逝與人天眾普說聲聞上教一切有部別解脫經。依此採拾未得令得。律儀方便羯磨儀軌此乃聖光德師之總集也。始從天竺。次屆西番。爰有洞達五明法王大士薩思迦扮底達名稱普聞上足苾芻癹思巴乃吾門法主。大元帝師。道德恢隆行位叵測。授茲儀軌衍布中原。令通解三藏比丘住思觀演說正本。翻譯人善三國聲明辯才無礙。含伊畢國翰林丞旨彈壓孫傳。華文譯主生緣北庭都護府解二種音。法辭通辯。諸路釋門總統合台薩哩都通暨翰林學士安藏。總以諸國言詮。奉詔譯成儀式。序本帝師親製。繪為華迹以編陳。始末粗彰聊記歲月時庚午至元七年冬至後二日序。
(辛未) 大元國號十一月始建○興蒙古學校○宋大饑。
(癸酉) 詔諭呂文煥○二月大兵破樊城呂文煥以襄陽降。
(甲戌) 勅命伯顏丞相伐宋○三月宋主崩太子立四歲。
(八) 是年八月。故光祿大夫太保贈太傅儀同三司文貞劉公薨翰林學士嘉議大夫知制誥兼修國史王磐。奉勅譔神道碑銘并序。其文曰耕莘非求進之地。而伊尹阿衡。釣渭非巧宦之途太公同載。漢張良志從赤松。而高祖得之以輔成帝業。唐李泌幼好仙術而肅宗用之以佐定中興。蓋天下之士。惟自重者。可與有為。而輕進者必非令器。是以古之明王。取士不以悅媚易親者為可佳。而以閒遠高潔難致者為可貴。聖天子之用太保劉公。其審是道歟。公以高潔之資。慕空寂之教。輕富貴如浮雲等功名於夢幻。曷曾有一毫榮利之念動於心乎。聖天子邂逅一見。即挽而留之待以腹心。契如魚水深謀密畫雖耆宿貴近。不得預聞者。悉與公參決焉。此其精誠胥會。志意交孚。與夫渭濱之同載商巴之阿衡。蓋異世而同符矣。公諱秉忠字仲晦。瑞州劉李村人。先世仕遼多顯貴。金初曾大父嘗任邢州節度副使。秩滿身還鄉里。留其家於邢。故自公大父以下。遂為邢人焉。大父諱澤。資性倜儻。為鄉閈所重。父諱潤。仕本朝歷邢州錄事鉅鹿內丘兩縣提領。俱有惠愛。公風骨秀異志氣英爽不羈。家貧。年十七為刑臺節度使府令史。以養其親。幹敏精潔。諸老吏咸服其能。一日因按讀事。有不愜意。投筆歎曰。吾家奕世衣冠。今吾乃汩沒為刀筆吏乎。丈夫不得志於世間。當求出世間事耳。即棄去隱於武安山岩谷間。草衣木食以求其志。天寧寺虛照禪師聞之。遣其徒招致。與披剃為僧。仍以公知經書工翰墨。命掌書記。後遊雲中。住南堂寺值海雲禪師。被召北覲。過雲中聞公博學多藝能。求相見。既見約公俱行。公不可。海雲固要之。不得已遂行。既至謁今上於潛邸。一見應對稱旨。自是屢承顧問。及海雲南還。公懇求奔喪。上賜黃金百兩。仍遣使送至邢州。公持服營葬事。起墳於賈村。葬其祖父母父母。服闋被召復還和林。公獻書陳時事所宜者數十條。凡萬餘言。率皆尊主庇民之事。上嘉納之。甲寅歲從上征雲南。己未歲從上伐宋揚?渡濟江圍鄂州。上神武英斷。每臨戰陣前無堅敵。而中心仁愛。公嘗讚之。以天地好生為德。佛氏以慈悲濟物為心。方便救護。所全活者。不可勝計。庚申歲春上正位宸極創定朝儀。立官制改元建號。一切所當施設時物之宜。皆公所草定。中統五年秋八月。改至元元年。翰林學士承旨王鄂奏言。書記劉秉忠效忠藩邸積有歲年。參帷幄之密謀。定社稷之大計。忠勤勞績。宜被褒榮。今聖明寓極萬物維新。秉忠猶以野服散號蕭條閒寂。守其初心深所未安。宜與正其衣冠崇以顯秩實遂眾望。上覽奏。欣然嘉納。即日命有司備禮冊授公光祿大夫。位太保參領中書省事。選聘侍講學士竇默次女為夫人賜第於奉先坊。給少府宮籍監。人戶甚眾。公齋居蔬食。終日澹然。與平昔略不少異。至元十一年。扈從至上都。居南屏山之精舍。秋八月壬戌之夜。儼然端坐無疾而薨。享年五十有九。訃聞。上嗟悼不已。語群臣曰。秉忠三十餘年。小心慎密不避艱危。事有可否言無隱情。又其陰陽術數之精。占事知來若合符契。惟朕知之。他人莫得預聞也。遣禮部侍郎趙秉溫護其喪還大都。以冬十月壬申葬斂營葬。一切所須皆出內帑。十二年春正月。詔贈太傅儀同三司下太常議。諡曰文貞。仍命翰林學士王磐撰碑文字。臣磐欽惟國家列聖相承。咸以武功戡定禍亂。龍韜豹略鷹揚虎視。豐功偉績之臣。其當紀名汗簡畫像凌烟者。不為不多。若夫輔佐聖天子。開文明之治。立太平之基。光守成之業者。實惟太傅劉公為稱首。聖天子方在潛邸。士之所以涉遠道冒風霜而至者。往往有所陳訴祈請干慕進用。惟公獨無所求。閒燕之際每承顧問。輒推薦南州人物可備器使者。宜見錄用。由是弓旌之所招。蒲輪之所迓。耆儒碩德奇材異能之士。茅拔茹連致無虛月。逮今三十年閒。揚歷朝省頒布郡縣。贊維新之化。成治安之功者。皆公平昔推薦之餘也。其識度之宏遠。推此一節而論。亦可見其髣髴矣。又自幼好學至老不衰。通曉音律。精算數善推步。仰觀占候。六壬遁甲易經象數邵氏皇極之書。靡不周知。初丁太夫人憂。毀瘠骨立。衣一弊綿裘。三藏不易。及錄事公卒。雖身從天竺之教。而服食貶損容貌哀戚。與循禮典而執通喪者蓋無少異也。晚娶無子。以猶子蘭璋為嗣。弟秉恕今為順天路總管。臣磐謹按中書左丞張文謙所作行狀。次第其行事之實。而系以銘辭。銘曰。大元五葉。聖運隆昌。爰有異人。出佐時康。不坐官府。不趨朝行。褐衣蔬食。禪寂倘佯。謀謨幃幄。罄竭忠良。指陳成敗。開闔陰陽。淵慮婉畫。鬼神莫量。扶日上天。照臨萬方。萬方仰德。百靈効祥。庭陳玉帛。路走梯航。朝儀整肅。濟濟蹌蹌。群賢來集。庶政允臧。大綱一舉。眾目斯張。治定功成。聖眷彌彰。崇資峻秩師表侯王。肇造皇家。元勳是當。良平佐漢。房杜興唐。公不自多。愈隆謙光。見善必舉。有能必揚。陸行滯阻。與為橋梁。川泛艱厄。與為帆槳。寒而求衣。煥之裘裳。饑而求食。飫之腴肪。門庭桃李爛熳芬芳。人感公德。銘刻肝腸。公施於人。過即遺忘。公之仁賢。宜享遐年。胡為一朝。蟬蛻而仙。燕都南原。盧溝北?。佳城欝欝。有墳巋然。地固重泉。松柏參天石爛松枯。芳名永傳。
贈儀同三司太傅諡文貞。制。
(九) 長生天氣力裏大福廕護助裏皇帝聖旨。臣以忠孝而事上。貴輸獻納之誠上以禮義而遇臣。思篤始終之愛。視死之日猶生之年。故光祿大夫太保劉秉忠。學窺天人識貫今古。邃冲而有守。安靜而無華。昔侍潛藩稔聞高論。適當三接之際。懇上萬言之書。蓋將舉天下而措諸安。以戒為人主者過於殺。朕嗣服而伊始。卿盡力以居多。蓋得卿實契於朕心。而獨朕悉知於卿意。事皆有驗。人匪他求。周旋三十年。不避其難。剴切數百奏。各中其理。共成庶政。方圖任於舊人。誰謂旻天不整遺於一老。興言及此。何日忘之。載惟台輔之尊。厥有泉扃之賁。是用錫之綸命。峻一品之華階。襚以袞衣。躡三槐之正位。復加顯號允答殊勳。惟爾英靈識予哀寵。可贈儀同三司太傅諡文貞。准此。至元十二年正月。
(乙亥) 至元十二年詔諭兩淮州縣新附。
宋改德祐。幼主濕立。度之子。母全后。謝太皇后臨朝○六月朔宋日食之既。
(丙子) 大元天兵臨境舉國歸附(三月十八日幼主謝太皇后全后朝京封幼主瀛國公。全后為尼於正智寺。先是陳宜中張世傑。奉益王衛王如永嘉。與蘇劉義遇。共圖興復。五月益王即位於福州。改景炎。十一月王世強引兵逼三山。宜中奉二王南行十二月至廣州)○詔安歸附軍民○九月十一日大赦。
右宋前後共十六主。凡三百十七年而亡。
(丁丑) 十二月大兵逼廣州宜中奉二王抵肇慶府。
勅令瀛國公往脫思麻路習學梵書西番字經○建大聖萬安寺。
(戊寅) 十五年正月旦設會齋僧。大赦。玉泉等五老家蒙恩得度。三月(宜中奉益王。由海道復入廣。四月望日崩。十七日衛王即位於?川。改祥興。六月世係奉衛王至厓山○次年正月大兵攻厓山。八月宜中入占城至落鶴國)。
(庚辰) 十七年二月宜中(奉衛王自落鶴經占城回。四月復入厓山。張世傑死未幾。二廣皆歸一統。六月新曆成。賜名授時。明年始頒行天下)。
(十) 大元帝師癹思八是年示寂。翰林學士王磐等奉勅述行狀曰。皇天之下一人之上開教宣文輔治大聖至德普覺真智佑國如意大寶法王西天佛子大元帝師班彌怛拔思癹帝師。乃土波國人也。生時諸種瑞應具詳家譜。初土波有國師禪怛囉乞答。具大威神累葉相傳。其國王世師尊之。凡十七代而至薩師加哇。即師之伯父也。廼禮伯父為師。祕密伽陀一二千言。過目成誦。七歲演法。辯博縱橫。猶不自足。復遍咨名宿。句玄索隱。盡通三藏。癸丑師年十五。世祖皇帝龍德淵潛師知真命有歸。馳驛徑詣王府。世祖宮闈東宮皆秉受戒法特加尊禮。戊午師二十歲釋道訂正化胡經。憲宗皇帝詔師剖析是非。道不能答。自棄其學。上大悅。庚申師年二十二歲。世祖皇帝登極建元中統。尊為國師。授以玉印。任中原法主。統天下教門。辭帝西歸。未朞月召還。庚午師年三十一歲。時至元七年。詔制大元國字。師獨運摹畫作成。稱旨即頒行。朝省郡縣遵用。迄為一代典章。升號帝師大寶法王。更賜王印統領諸國釋教。旋又西歸。甲戌師年三十六歲。時至元十一年。皇上專使召之歲抄抵京。王公宰輔士庶離城一舍。結大香壇設大淨供。香華幢蓋大樂仙音。羅拜迎之。所經衢陌皆結五綵翼其兩傍。萬眾瞻禮若一佛出世。時則天兵飛渡長江。竟成一統。雖主聖臣賢所致。亦師陰相之力也。為真金皇太子說器世界等彰所知論。尋又力辭西歸。皇上堅留之不可。庚辰師年四十二歲。時至元十七年十一月二十二日示寂。上聞不勝震悼。追懷舊德。連建大宰堵波于京師。寶藏真身舍利輪奐金碧無儔。
(十一 辛巳) 至元十八年十月二十日。僧道二家辯析。特奉。
聖旨。長生天氣力裏大福廕護助裏皇帝聖旨道與中書省樞密院御史臺隨路宣慰司按察司達魯花赤管民官管軍站人匠等官。并眾先生每在前蒙哥皇帝聖旨裏。戊午年和上先生每折證佛法。先生每輸底上。頭教十七箇先生剃頭做了和上。將先生每說謊做來的化胡等經并印板。教燒燬了者。隨路觀院裏畫著的石碑鐫著底八十一化圖。盡行燒燬了者。麼道如今都功德使司奏。隨路先生。每將合燬的經文印板至今藏著。却不曾毀了更保定真定太原平陽河中府三祖師庵頭關西等處。有道藏經板。這般奏的上頭教張平章張左丞焦尚書泉總統忽都于思翰林院眾學士中書省客省使都魯省宣使苫速丁淵僧錄真藏僧判眾講主長老等張天師祈真人李真人杜真人眾先生每一同於長春宮內。分揀去來。如今張平章等眾人回奏。這先生家藏經。除道德經是老子真實經旨。其餘皆後人造作演說。多有詆毀釋教偷竊佛語。更有收入陰陽醫藥諸子等書。往往改易名號傳註訛舛失其本真。偽造符呪妄言。佩之令人商賈倍利。夫妻和合有如鴛鴦。子嗣蕃息。男壽女貞。誑惑萬民非止一端。意欲貪圖財利誘說妻女。其有教人非望佩符在臂。男為君相。女為后妃。入水不溺。入火不焚。刀劍不能傷害等語。又令張天師祁真人李真人杜真人試之於火。皆求哀請命。自稱偽妄不敢試驗。今擬得除老子道德經外隨路但有道儀說謊經文并印板。盡宜焚去。又據祈真人李真人杜真人等奏告。據道藏經內。除老子道德經外。但係後人揑合不實文字。情願盡行燒毀了。俺也乾淨准奏。今後先生每依著老子道德經裏行者。如有愛佛經的。做和上去者。若不願為僧。娶妻為民者。除道德經外。說謊做來的道藏經文并印板。盡行燒毀了者。今差諸路釋教泉總統中書省客省使都魯前去。聖旨到日。不以是何官吏先生道姑秀才軍民人匠鷹房打捕諸色人等。應有收藏道家一切經文本處。達魯花赤管民官。添氣力用心拘刷見數。分曉分付差去官眼同焚毀。更觀院裏畫著的右鐫著的八十一化圖。盡行除毀了者。自宣諭已後。如有隱匿道家一切說謊揑合。毀謗釋教偷竊佛語。窺圖財利誘說妻女。此誑惑百姓符呪文字。及道○家大小經文。若所在官司不添氣力拘刷。與隱藏之人一體要罪過者。外民間諸子醫藥等書。自有板本。不在禁限。准此。
至元十八年十二月二十日。◎
◎(壬午) 十九年(八月賜文天祥死時年四十七歲矣)○甲申正月六日大赦。
(乙酉) 二十二年(十二月安童丞相復職)。
(十二) 聖旨焚毀諸潞偽道藏經之碑翰林院(臣)唐(方)楊(文郁)王(構)趙(與)李(謙)閻(復)李(鑄)李(監)王(盤)奉勅撰。正奉大夫樞密副使(臣)商(挺)奉勅書。光祿大夫中書左丞相監修國史(臣)耶律(鑄)奉勅篆額。
至元二十一年三月初三日。詔遣資德大夫總制院使兼領功德使司事相哥諭翰林院。戊午僧道持論。及至元十八年十月二十日。焚毀道藏偽經始末。可書其事于石(臣監)等謹按釋總統合台薩哩所錄事迹。昔在憲宗皇帝朝。道家者流出一書。曰老君化胡成佛經。及八十一化圖。鏤板傳布。其言鄙陋誕妄。意在輕篾釋門而自重其教。罽賓大師蘭麻總統少林長老福裕。以其事奏聞。時上居潛邸。憲宗有旨。令僧道二家同詣上所辯析。二家自約。道勝則僧冠首而為道。僧勝則道削髮而為僧。僧問道曰。汝書為諭化胡成佛。且佛是何義。道對曰。佛者覺也。覺天覺地覺陰覺陽覺仁覺義之謂也。僧曰。是殆不然。所謂覺者。自覺覺他覺行圓滿。三覺圓明。故號佛陀。豈特覺天地陰陽仁義而已耶。是時上特語近侍曰。吾亦先知仁義是孔子之語。謂佛為覺仁覺義其說非也。道士又持史記諸書以進。欲出多說僥倖取勝。帝師板的達癹合師八曰。此是何書。道曰。前代帝王之書。上曰。汝今持論教法。何用攀援前代帝王。帝師曰。我天竺亦有此書。汝聞之乎。對曰。未也。帝師曰。我為汝說天竺頻婆羅王贊佛偈曰。天上天下無如佛。十方世界亦無比。世間所有我盡見。一切無有如佛者。當其說是語時。老子安在。道者不能對。帝師又問。汝史記有化胡之說否。曰無。又問。老子所傳何經。曰道德經。曰此外更有何經。曰無。道德經中有化胡事否。曰無。帝師曰。史記中既無。道德經中又無。其為偽妄明矣。道者辭屈。尚書姚(樞)曰。道者負矣。上命如約行罰。遣近臣脫歡。將道者樊志應等十有七人。詣龍光寺削髮為僧。焚偽經四十五部。天下佛寺為道流所據者。二百三十七區。至是悉命歸之。道教提點甘志泉所據吉祥院其一也。據而弗歸。至元十七年夏四月。僧人復為徵理。長春宮道流謀害僧錄廣淵。聚徒持挺歐擊僧眾。自焚廩舍。誣廣淵遣僧人縱火。且聲言焚米三千九百餘石。他物稱是。事達中書省。辯其誣。甘志泉王志真欵伏。詔遣樞密副史孛羅及諸大臣覆按。無異詞。志泉志真就誅。劓刵流竄凡十人。仍徵所聲言米物。如其數歸之僧眾。有道家偽經尚存。為言者聞諸皇太子。十八年九月。都功德使司脫因小演赤奏言。往年所焚道家偽經板本化圖。多隱匿未毀。其道藏諸書類。皆詆毀釋教剽竊佛語。宜皆甄別。於是上命樞密副史與前中書左丞文謙祕書監友直釋教總統。合台薩哩太常卿忽都于思中書省客省使都魯在京僧錄司教禪諸僧及臣等。詣長春宮無極殿。偕正一天師張宗演全真掌教祁志誠大道掌教李德和杜福春暨諸道流。考證真偽。翻閱兼旬。雖卷帙數千。究其本末。惟道德二篇為老子所著。餘悉漢張道陵後魏寇謙之唐吳筠杜光庭宋王欽若輩。撰造演說。鑿空架虛。罔有根據。詆毀釋教。以妄自尊崇。復愛慕其言。而竊為己有。假陰陽術數。以示其奧。衰諸子醫藥。以誇其博。往往改易名號。傳註訛舛。失其本真。文所載符呪。妄謂佩之令人商賈倍利。子嗣蕃息伉儷諧和如鴛鴦之有偶。將以媒淫亂而規財賄。至有教人非望佩符在臂。則男為君相。女為后妃。入水不溺。入火不焚。刀劍不能傷害之語。其偽妄駁雜如此。留之徒以誑惑愚俗。自道德經外。宜悉焚去。(臣)等同辭以聞。上曰。道家經文傳訛踵謬非一日矣。若遽焚之其徒未必心服。彼言水火不能焚溺。可姑以是端試之。俟其不驗。焚之未晚也。遂命樞密副使孛羅守司徒和禮霍孫等。諭張宗演祁志誠李德和杜福春等。俾各推擇一人佩符入火自試其術。四人者奏言。此皆誕妄之說。(臣)等入火必為灰燼。實不敢試。但乞焚去道藏。庶幾澡雪(臣)等。上可其奏。遂詔諭天下道家諸經可留道德二篇。其餘文字及板本化圖。一切焚毀。隱匿者罪之。民間刊布諸子醫藥等書。不在禁限。今後道家者流其一遵老子之法。如嗜佛者削髮為僧。不願為僧者。聽其為民。乃以十月壬子集百官于憫忠寺。焚道藏偽經雜書。遣使諸路俾遵行之。(臣)盤等聞。老氏之為道也。以清淨為宗。無為為本。謙冲以處己。損抑以下人。非有貪欲好勝之事。厥後枝分派列。徒屬寖盛襲訛成偽誇誕百出。清淨一變而為污穢。無為一變無所不為。如漢之文成五利。致身求僊。恍惚誕幻。帛書飯牛之詐。黃金可成之妄。一但敗露。為武帝所誅。三張之徒以鬼道惑眾。倡亂天下。為皇甫嵩曹魏所滅。宋王浮昔居上清寶籙宮。與女冠為奸。林靈素自稱神霄紫府仙卿。禳大水不驗。並為徽宗誅竄而死。迨金末年。復有麻被先生銕笠李二人。以奸謀祕計出入時貴之門。肆為淫污之行。咸受顯戮。歷代以來。若此之類。不可勝數。追惟禍亂之源奸宄之本。率皆假符籙以神其教。託偽經以警其俗。橫肆巧誣倡為詭狀。詆毀聖教寇攘內典。固已悖老氏不爭不盜之禁矣。及陷刑辟皆是孽自內作。愎將誰咎哉。且夫釋氏之教宏闊勝大非他教所擬倫。歷百千世。聖帝明王莫不尊崇。東冐扶桑。西極昧谷。氷天桂海山河大地。昆蟲草木胎卵濕化。有情無情百千萬類。皆依佛蔭生息動止於天地之間。故天上天下惟佛為尊。超出乎有生之表。歸極乎無礙之真。智周三界神妙諸方。澤及大千功用不宰。其大有如此者。慈航所至無溺不援。法雨所霑有生皆潤。憫世人之沈淪幻海顛覆迷津。展轉多生流連累劫。將使之脫凡企聖蠲弊崇真。故神光破沈晦之門。大覺指無生之路。其仁有如此。何意狂謀輒形妬忌。雖積毀銷骨眾煦漂山。泫體圓成初無小玷。譬如盲人之毀日月。何傷日月之明。井蛙之小河海。奚損河海之大。多見其不知量也。欽惟聖天子。識超四諦道慕三乘。參無象之真空。傳法王之心印。所以尊崇之禮。歸向之誠。矯百偽以從真。黜群邪而歸正。有不容不嚴者焉。況乎筆墨勸婬妖術誤世。恣為欺誑鼓蕩群愚。若不大為改革。則邪說肆行枉道惑眾。其如天下後世何。況天下之理。有善有惡。有正有邪。有真有偽。常混然而同處。雜然而並行。自非稟上聖之資。誕生知之性。智出庶物明照群情。則紅紫之亂朱。洼淫之變雅。是孰得而辯明之哉。由是言之。聖天子匡濟真圖翼扶大法之功至矣。概諸聖不可有加矣。于以鑿含靈之耳目。開正途之荒穢。使般若之光永乎無際劫遍滿恒河妙界。延洪聖壽於無疆。衍綿儲君之福利。鼎祚於億萬年之久者。庸有既乎是可述也。(臣)磐等敬為之書。以貽後人。俾為老氏之學者有所警焉。
大元至元辯偽錄隨函序。翰林直學士奉訓大夫知制誥同修國史臣張伯淳撰。天無私覆。地無私載。日月無私照。辯偽錄之所云良有以也。洪惟聖朝繼天立極論道經邦以佛心子育萬方。以正法澤被四海。至元辛卯之歲孟春。大雲峯長老邁吉祥。欽奉。
皇帝明命。撰述至元辯偽錄。奏對天顏睿覽頒行。入藏流通。原其所自。乙卯間道士丘處機李志常等毀西京天城夫子廟為文城觀。毀滅釋迦佛像白玉觀音舍利寶塔。謀占梵剎四百八十二所。傳襲王浮偽語老子八十一化圖。惑亂臣佐。時少林裕長老率師德詣闕陳奏。先朝蒙哥皇帝玉音宣諭登殿辯對化胡真偽。聖躬臨朝親證。李志常等義墮辭屈。奉旨焚偽經。罷道為僧者十七人。還佛寺三十七所。黨占餘寺流弊益甚。丁巳秋少林復奏。續奉綸旨偽經再焚。僧復其業者二百三十七所。由乙卯而辛酉。凡九春而其徒竄匿未悛邪諸諂行。屏處猶妄。驚瀆聖情由是至元十八年冬。欽奉玉音頒降天下。除道德經外。其餘說謊經文盡行燒毀。道士愛佛經者為僧。不為僧者娶妻為民。當是時也。江南釋教都總統永福楊大師璉真佳。大弘聖化。自至元二十二春。至二十四春。凡三載恢復佛寺三十餘所。如四聖觀者昔孤山寺也。道士胡提點等。舍邪歸正罷道為僧者。爰啻七八百人。挂冠於上永福帝師殿之梁棋間。故典如南嶽山之券。為事偽者戒。試嘗考之。自大教西來。漢明帝迎摩騰竺法蘭二師於洛陽。五嶽道士褚善信等。上表譏毀佛法。當時築壇。以佛道二經焚之。道經悉為灰燼。佛經放光無損。尊者踴身作十八變。有狐非獅子類。燈非日月明之至言。道士為僧者不可勝數。如寇謙之矯妄崔浩惑魏太武而崔浩卒以族誅。曇謨最之挫屈姜斌。斌流於馬邑。齊曇顯之愧陸修靜。唐總章元年法明辨化胡之偽。勅搜聚天下化胡經。抑嘗火其書矣。由古而今。歷代帝王之制。斯可忽諸。蓋世尊等視三界眾生猶如一子。棄背大覺。是子背其父也。子背其父。是自昧其所天也。且師老子者。道德二篇。以清虛澹泊絕世棄聖立其宗。隱居以求其志。翛然無為爾。今盜名之徒。叢嘯黨援假立冠褐。峻侈宮觀苟世利養。豈老氏之用心哉。況老氏謂大辨若訥。大巧若拙。辨者不善。善者不辯。勿矜勿伐。抱一為天下式。而占毀佛寺。竊經扇化胡之偽。是若拙若訥歟。是善者不辯歟。師老子而違其術。亦復違其自宗矣。若嫡師於老子者。則弗為也。過歸末流爾。雖然麒麟之於走獸。鳳凰之於飛鳥。蘭蕙之於薰蕕。旃檀之於穢壤。則世未有舍鳳凰麒麟之瑞。蘭蕙旃檀之馨。而愜走獸飛鳥之常。薰蕕穢壤之垢者。人心天理愛惡之所同也。奈何菽麥未析而甘事於偽妄不實之教。復矜誕其浮辭。侮慢大覺訕毀至聖。而弗憚三途之淪溺乎。斯辯偽錄之正名教。造理淵奧推難精明。凜乎抗凌雲之勁操。坦然履王道之正塗。而隄備後世之溺於巨浸者。其為言也至矣。蓋有偽則辯。無偽則無辯。豈好辯哉。弘四無礙之辯者。邁公之德歟。言之者無罪。聞之者足以戒。故我皇金言喻辭曰譬如五指皆從掌出。佛門如掌。餘皆如指。信乎王言如絲。其出如綸。明逾日月。堅逾金石。為萬世之龜鑑。則斯錄豈小補哉。
(十三) 辯偽錄序。蓋聞五運未形。元無人物之號。三才既立。乃敘尊卑之名。肇分六爻始畫八卦。其有書契定乎訓章。鳳篆龜圖金縢玉字。百家之異轍。萬卷之分區。雖理究乎精微言殫乎物範。紀情括性。未出乎域中。原始要終。詎該於化內。況乎法身無相。高超於象帝之先。真諦絕稱。逈出乎思議之表。英猷茂實代有人焉。如意者。俗姓乎延氏。太原人也。世傳纓冕。累葉播遷代郡。因為家焉。九歲落紺。隨師請業。玉離荊岫。價重之德彌彰。桂生幽岩。馨香之風遠遞。阿師內窮三藏之奧外覈九流之源。名冠於中華。聲聞於朝野。運談天之口。施不世之才。郁郁間綺錦之文。雄雄聳凌雲之氣。班馬之珠玉。未可同年。顧陸之文章。寧堪並駕。至若莊生墨生之學。黃老李老之書。三清謗道之文。十異九迷之錄。混元隱月之祕。靈寶赤書之儀。煥若胸膺。明猶指掌。加以禪參於五派。傍閱於群書。既有雄才特專著述。運思之外汲引無窮。挫邪則有吼石之功。扶正則具鞭屍之德。固以才侔安遠學邁生融。實覺海之龍鱗。廼佛門之柱礙。切見全真道士者。丘處機李志常史志經令狐璋等。學業庸淺識慮非長並為。鄙辭排毀正法。擊茲布鼓竊比雷門。使中下之流咸生邪見。欽奉薜禪聖明皇帝發大悲心。愍其盲瞽恐墮泥犁。勅令製斯論耳。震蕩法海摧彼詞鋒。碧雞之銳竟馳。黃馬之駿爭騖。狀鴻爐之焚纖翼。猶炎日之煉輕氷。負勝之儔於斯可見。暫歸慈定已破魔軍。至元十八年十月二十日。復欽奉先皇帝聖旨勅令天下偽經一時焚盡。由是佛日重暉於碧漢。法雲廣布於閻浮右如意所作文賦注解。四經序。韓文別傳。性海賦等。在世已傳。然茲論五卷二百餘紙。窮釋老之淵源。分邪正之優劣。蓋唱彌高而和彌寡。深可愧焉。余文慚綺麗學匪通圓。覩斯論之嘉言。欽吾皇之鴻護。不勝手舞勉為斯引。輒以藤綆聯彼珪璋。庶博雅君子詳其致云爾。大雲峯住持襲祖沙門雪谿野老貴吉祥。
大都道者山雲峯禪寺住持。如意祥邁長老。奉勅撰辯偽錄五卷。其略云。妄立天尊偽(化云。道者萬化之父母。自然之極尊於此幽玄微妙之中而生空洞。空洞者。真一也。真一之氣化生之後歷九十九萬億九十九萬歲。乃化生上三氣。三氣相去九十九萬億九十九萬歲。三合成德共生無上。乃虛皇天尊。又歷如上歲數。乃生中三氣。三合成德乃生玄老。即元始天尊也。又歷如上歲數。乃生下三氣。三合成德共生太上。即太上道君也。自後又一氣復生三氣。每氣相去八十一萬億八十一萬歲。三合成德共生李老君。雖四聖相次各不相因。謂之獨化。老君生後乃生五運謂太易。太初。太始。太素。太極○老君混沌之祖。宗天地之父母。故能分布清濁開闢乾坤)。
辯曰。蓋聞龍圖鳥篆之文。龜書科斗之典。玉版玉諜之記。金縢金匱之書。秦漢魏晉之章。宋齊梁陳之簡。記事記史直筆直言。靡覩虛皇之名。不聞元始之號。安有手執玉圭。身掛黃褐。頂垂皓髮。頭戴金冠。別號天尊。高拱三清之上。獨稱教主。統御九華之宮。縱有天尊之名。並是偷竊佛語。古今稱佛名為天尊。不關道君之事。竊他美稱妄自尊嚴。取信通人。斯言謬矣。案列子及易鉤命訣。皆云。天地未生之前。有太易。有太初。有太始。有太素。有太極。說者咸云。太易者。未見氣也。太初者。氣之始也。太始者。形之始也。太素者。質之始也。太極者。質形已具混沌未分也。太極之後乃生兩儀。謂之天地。夫名從實生。實從名起。名實既著。其道乃行。太易之前。沓然空洞。溟溟漠漠。本絕音容。何得謾張九氣妄生四人。虛上生虛。似敲空而求嚮。偽中起偽。如趁影之尋蹤。豈不思。既立其名。須有其體。既立其體。須有氏族。且道虛皇元始誰人所生。氏族何起。居在何處。若有源系。出在何書。若無來由。即是虛設。又空洞之前。本無歲數。今標歲數愈見虛張。蓋數目起於伏羲。甲子唱乎皇帝。將今記古。顛倒何多。且上之三尊。為有形耶。為無形耶。若是有形。不在太易之上。爰從父母而生。須有年代時處姓氏名字。前云三氣共德而生。則是以氣生氣。與氣不殊。何有形名。若是無形。本無名位。下第七化乃云。老君以上皇元年九月二日。出遊西河。遇元始天尊。乘八景玉輿。駕九色玄龍。群仙導從。手把華旛。師子白鶴嘯歌邕邕。同會西河之上。授老君洞玄玉符。此是誰耶。進退兩求。並無準的。則知海棗虛談有名無實。雕氷鏤雪枉廢詞章。山海之所不收大荒之所不載。庸愚巧飾。何足信哉。老君衰周之柱史。誑云混沌之祖宗。避周亂而過函關。妄云天地之父母。既自語之相戾。何函矢之相攻。掩耳偷鈴。欲隱彌露。道德章云。吾有三寶。寶而持之。一曰慈。二曰儉。三曰不敢為天下先。老君獻胡王妻子。與胡兵格戰。何有慈乎。乘玉衡之輿。坐金闕之內。披九色離羅之衣。廕九光偃鶴之蓋。何有儉乎。生於無始起於無因。為萬道之先。作元氣之祖。觀混沌之未判。視清濁之未分。為帝王之師。作天地之母。何有不敢為天下先乎。遼陽高憲。字仲常。遊東京白鶴觀。見三清像指其右曰。此何像也。觀主對曰。老君像。曰何代人。曰周定王時。又指左曰。此何像也。主曰。道君像。曰此何代人。住倉惶未答。憲指中尊曰。且饒這元始天尊。聞者傳以為笑。
創立劫運年號偽(第三化云。始則太虛之氣。其氣相擊往來亂射。經百億萬氣之後。其氣方慢。往來流行為自然之氣。此偷佛書世界初成風輪下旋之事也。又號彌羅萬梵之氣。又經九萬九千九百九十九億。氣之後。結吉祥之氣成一聖人。自號元始天王。同時生五老五行之主。其劫號延康。年號龍漢。又經如上氣數。乃生道君。時劫號赤明。年亦號赤明。同時生九老。分為九天。又經如上氣數。方生老君。劫號清運。年號上皇。時生八公。又立五運太易太初等。老君乃以陰陽二氣結。為混沌。而分布天地萬物始備矣)辨曰。蓋聞班固律歷之志。史記天官之書。皇甫謐之帝年。陶隱居之帝紀。未聞五運之前先有年號。三氣之內虛立劫名。既清濁之未形。只是洪濛一氣何有老君元始五老九天。雖竊佛主劫之名。而不曉成壞之數。梵云劫波。此云時分。時雖長短皆立劫名。錯謬梵言迷惑體相。釋教未來。此劫但有劫殺劫賊。故許慎說文云。以兵愶人曰劫。又魯將曹沫。劫桓公於壇上。求所侵地。此則逼奪名劫。豈有劫運之言乎。今陳此言妄竊見矣。夫名位既有年號斯張。將以率領萬方整齊四海混同九有同一車書。天子至尊得建年號無名位者不敢立焉。孔子雖然刪書定禮分辨君臣。以無貴位止號素王。矧乎老聃周之柱史臣子之列。而草竊帝王。妄建年號哉。況軒皇之前本無甲子(黃帝臣大撓造甲子)漢武之代始建年號(武帝始立年號)將古標古亦何偽乎。或曰。老子生於天地之前。別立年號。有何乖違。答曰。既在天地之上。乃是太易之前。世界未形。君臣無跡。杳然空寂。唯一溟濛。建立年號統領誰人乎。明知偷佛莊嚴賢劫星宿之意。而立此延康赤明青運之目。彼明三世。此約一時。正同山羗偷。王衣物。迷惑顛倒上下失次爾。下去老子生於天崗李谷字曰光明。則在三皇之後。何得老君以陰陽二氣結為混沌而分布天地耶。首尾兩端穿鑿見矣。
開分三界偽(第五化云。天地有形之大者。太上老君乃混沌之祖宗。天地之父母。故能分布清濁開闢天地。運玄元始三氣而成天。上為三清三境。即始氣為玉清境。元氣為上清境。玄氣為太清境。又以三清之氣。各生三氣。合成九氣。而為九天。第一鬱單天。第二上神壽無量壽天。第三梵藍須延天。第四寂然兜術天。第五波羅尼蜜不橋樂天。第六洞玄化應聲天。第七靈化梵輔天。第八高虛清明天。第九無想無愛天。此之九天各生三氣。每氣為一天。合二十七天通此九天為三十六天。則三界四民上極三清。是其數也。初下六天為欲界。一太黃天。二太明天。三清明天。四玄胎天。五玄明天。六七曜天。次一十八天為色界。一虛無天。二太極天。三赤明天。四榮華天。五曜朗天。六皇笳天。七靈明天。八端靖天。九光明天。十極瑤天。十一元載天。十二太安天。十三極風天。十四始皇天。十五太皇天。十六無思天。十七阮樂天。十八曇誓天。次四天為無色界。一霄慶天。二元同天。三妙成天。四禁上天。此二十八天。名為三界。此上又四天名為種人天。一常融天。二玉隆天。三梵度天。四賈奕天。此四天超出三界。又云。上三天為三清境。一曰太赤天。二曰虫餘天。三曰清微天。最上曰大羅天。包羅諸天極高無上。玄都玉京鎮於其上。三尊所處焉。又太霄隱書云。大道君治在五十五重無極大羅天中玉京之十。七寶玄臺金林玉机金童玉女之所侍衛。住居在三十三天三界之外)。
辯曰。詳夫蛇軀(伏羲)牛首(炎帝)之書。龍師(太[糸*(且/八)])鳳紀(少皡)之典。談天(鄒衍)論天(黃繚)之誥。括地(地志)輿地(地圖)之圖。甘氏星經張衡靈憲。不說三清之號。匪聞大羅之名。並是依傍佛經改頭換尾。採他名相粧綴己書。且道教之宗源起黃帝。而老子涓子列子莊周鶡冠尹文。派為道教。諸子所談並無說天之事。唯是張道陵所集靈寶經中。始說三十二天。效佛神呪而作蜜言。自後道書牙相鼓唱。空枝引蔓唯誑下俗。佛教未來。云何不說。釋經廣布始唱斯名。明名修靜增加。三張妄闡。狗偷鼠盜何足貴乎。爾雅之立四號約於四時。太玄之說九天准於九有。不似道家虛加數目。天本定體何有少多。今各說不同。顯知妄立。案佛經三界。三業所感。總二十八。欲界有六。色界十八。無色有四。具勝妙欲名為欲界。形色超絕名為色界。根識兩忘名無色界。越此而去名出生死。捨分段之後身。絕形名而無寄。安有玄都之境。玉京之山。金童玉女交雜之事。瓊輿碧帳之飾。妄竊不真。於斯見矣。試問道士三界從何而來。何功所感釋名辨相全不能知。且道宗極致惟盡升天。靈寶幽微秖貪羽化。難逃四相詎免五衰。汎業浪以漂沈。隨生死而輪轉。縱茫茫之業識。積浩浩之苦源。長往不歸。良可歎息。欝頭藍弗是其驗歟。
隨代為帝王師偽(第十一化云。老君在伏羲時。號欝花子。說元陽經。教伏羲。敘人倫畫八卦。在祝融時。號廣壽子。說按摩通精經。教以鑽木出火。陶冶為器。在神農時。號大成子。說太乙玄精經。教以播種五縠。採和諸藥。在神農時。號廣成子。教以抱神守靜之道。在少昊時。號隨應子。說在敬經。教以鳥官為理。分布九鳸以統百司。在顓頊時。號赤精子。說微言。帝嚳時。號錄圖子。說黃庭經。帝堯時。號務成子。說宣化經。帝舜時。號尹壽子。說通玄經七十卷。又說道。德經八千二百。卷夏禹。時號真行。子說元始經六十。卷殷湯。時號錫則。子說長生經二十。卷周文王。時號燮邑子。說赤精。經教以仁孝之。道乃至。云上古之君皆受教於老子。然後造作群物也)。
辯曰。夫賢之與聖名位不同。古哲今人出處各異。莊周云。萬世之後一遇大聖。猶旦暮遇之。此明聖人出世表瑞協祥。應千年之期。膺適時之運。孤標特秀逈出常流。故得帝王師之諸侯禮重。萬載一遇尚為旦暮。豈有隨代而出現乎。夫李耳者退靜之士。史記稱為隱君子也。避亂過關葬於槐里。潛身柱下。本是人臣。位不躐於上階。名未廁於台輔。何乃擢君聖地為帝王師。譣詖不經駭人耳目。培塿要齊於嵩華。孰肯憑焉。潢洿擬廣於滄溟。終難信矣。豈有開闢之後萬億餘年中間別無一人拔萃唯有老子為帝王師乎。三墳五典八索九丘。孔子春秋丘明國語。百家異說九流雜談。並無老子為師之語。唯是後代無知道士。妄撰斯言。欲使老子獨高群聖。美則美矣。偽且偽焉。且伏羲神農皆有聖德。軒皇堯舜並號明君。或幼而能言。或生知妙道。詎假老子教之。然後造作群物乎。況書傳所記。古史所明。燧人鑽火伏羲畫卦。炎帝播耨。女媧造篁。黃帝作宮室。軒冕樂有咸池。顓頊作六英。堯有大章。舜有大韶。及作圍碁。禹有大夏。湯有大濩。文王有辟雍。武王有下武。鯀作城郭。蚩尤作兵器。岐伯造醫。俞附脈經。伶倫制律。隷首作算。容成作曆。大橈造甲子。奚仲作車。曹胡作衣。伯余作裳。於則作履。共鼓作舟楫。巨揮作弓。夷牟作矢。黃雍父作杵臼。孟莊子作鋸。趙武靈王作靴。蘇威公作箎。暴辛作塤。后稷之孫叔均作犁。蒙恬作筆。蔡倫作紙。夏昆吾氏作瓦。此皆各有其主。群書所明。何得自矜覽為我造。又周易繫辭孔子所述。列明古帝制造之事。如云包羲氏之王天下也。觀象於天俯察於地。近取諸身。遠取諸物。始畫八卦。以通神明之德。以類萬物之情。作結繩而為網罟。以畋以漁。蓋取諸離。神農氏為耜為耒。以利天下。日中為市。交易有無。乃至黃帝堯舜。垂衣裳而天下治。蓋取諸乾坤。如此歷陳法易造物。不言老子所造也。竊功業標為己能。衒名自高。君子不忍。又云。老子在堯時為務成子者。案後漢應劭風俗通云。東方朔是太白星精。黃帝時為風后。堯時為務成子。周時為老聃。在越時為范蠡。在齊為鴟子。此則務成子乃東方朔。非干老子明矣。何得妄加鉤引稱老子為人師乎。案魯哀公問於子夏曰。五帝三皇皆有師乎。子夏曰。有。臣聞皇帝學乎太真。顓頊學乎綠圖。帝嚳學乎赤松子。堯學乎尹壽。舜學乎務成跗。禹學乎西王國。湯學乎威子伯。文王學乎鉸時子斯。武王學乎郭政。周公學乎太公呂望。上之所敘文極分明。而言老子隨代為帝王師。何出言之狂悖哉。巧言如篁顏之厚矣。且老子衰周柱史史有明文。本是人臣。返為上古帝王之師。履冠戴屨何顛狂之甚乎。又上文云。上古之君皆受教於老子。則桀紂之不作。幽厲之無道。秦王之凶暴。王莽之纂逆。亦老子之所教也。既然如是。則老子為悖逆之魁首。巨猾之元匠。不忠不孝。老子之所生。不義不仁。老子之所主。為人師者。不亦慚乎。老君既說隨代為師。而秦漢之下至於金朝。偏無一現乎。今既無矣古亦虛焉。且漢文恭儉孝武英明。孝明達禮樂之情。孝章優儒雅之道。魏文帝風流文藻。晉世祖明達寬仁。宋文帝致治昇平。梁武帝文武兼備。隋高祖混同四海。唐太宗混一車書。此時不俟老子之化。而皆金聲玉振。則知牽合巧會枉費詞章。秖可誑於閭閻。難可信於達士。嫫母加粉見者愈嗤。隣女效顰鄉人不貴。
老子出靈寶三洞偽(第九化云。太上老君以中皇元年三月一日。於玉清天金闕上宮。撰集靈篇以為寶經三百卷。符圖七千章。玉訣九千篇。老君於上三皇時出為萬天法師。又號玄中法師。當龍漢元有。授上三皇洞真經一十二部。以無極之道。下教人間其時人壽九萬歲。於中三皇時。號有古先生。當赤明元年。授中三皇洞玄經一十二部。行無上正真之道。以化於人。其時人壽六萬歲。於下三皇時。出為師號金闕帝君。當開皇元年。授下三皇洞神經一千二部。以太平之道化人。其時人壽一萬八千歲。夫洞真洞玄洞神名一十二部。合為三十六部尊經也)。
辯曰。夫仲尼入夢。十翼之道始宣。伯陽過關。二篇之教方闡。有名為萬物之始。無名為天地之先。混徼妙而同玄。驚寵辱而一致。谷神不死久視長生。挫銳解紛謙卑自牧。此老氏之旨也。自餘教典皆是偽書。制雜凡流唯尚誇競。採傍佛語換體安名。擬三界而立三清。倣三大而立三洞。虛勞紙墨妄飾詞章。何以知之。漢時張道陵造靈寶經。王褒造洞玄經。吳時葛孝先造上清經。晉時王浮造明威化胡經。鮑靜造三皇經。後改為三清經。齊朝陳顯明造六十四真步虛經。梁時陶弘景造太清經。隋末輔惠祥。改涅槃為長安經。後事發被誅。案甄鸞笑道論云。道家妄注諸子三百五十卷為道經。如此詳之代代穿鑿人人妄制。採他佛教標為道書或言仙洞飛來。或言老子再現。群賢不覩道士獨傳。欺誷時君不懼朝憲。故唐琳法師對太宗皇帝云。若據肅溫眾議道家。止有道德二篇。如依漢明校量。便應七百餘卷。約葛洪神仙之說。僅有一千。准修靜所上目中。過前九十。又檢玄都目錄。轉復彌多。既其先後不同。顯知後人妄制增加卷軸添足篇章。依傍佛經改頭換尾。或道名山自出。時唱仙洞飛來。何乃黃領獨知英賢罕覩。典籍不記書史無聞。試問當今道士推勘後出之經。為是老子別陳。為是天尊更說。若也更說。應有時方師資傳授。為是何年何月何邦何代。若在天上而說。何人傳來。若在西域而談。何人譯出。如其有據。容可流行。若也妄言。理須焚剪。又漢晉之代。僧號道士。寇謙得志僭冐其名。今稱法師愈為矯節。法師之號源出佛經。萬卷百家本無此語。且為法之師。名為法師。法即是師。名為法師。名義不知。妄安己號。按賢劫已來有三佛出。初佛出時人壽六萬歲第二佛。出時人壽四萬。第三佛出人壽二師。何乃改彼三皇妄合其數。又前說云。上三氣中而有龍漢赤明之號。是時五運尚無但唯一氣。何有三皇之君人壽之數乎。上古縱有五龍四姓九頭十紀。亦無三皇建立年號。試問龍漢赤明上皇開皇。誰君之年乎。若言有說。史無明文。若言無憑。不可妄立。扣其兩端竟無一是。又伏羲之前文字未有。何出三洞靈寶之篇乎。又十二部名源出佛經。一代時教類分十二。道家名義不知何以妄著己典。如琢美玉擬作甑窐。雖受劬勞智者見誚。
遊化九天偽(第二十六化云。是時老君於青羊大會引尹喜冉。冉升空。初至第一天。見波利天帝。乘九光元靈之輿。蔭七元交晨之蓋。建五色攝魔之節。金童玉女九萬人。迎老君八大有宮。請問自然之道。如是摩夷天。楚寶天。化應天。不僑樂天。兜率天。煩延天。禪善天。鬱單天。隨處天。帝皆與金童玉女迎禮老君。請問法要。所到天宮皆設瓊漿碧醴丹液流薰蘭羞八徹靈芝珍果)。
辯曰。昔我世尊初成正覺。不離道樹而赴諸天。一身不分而遍一切。即多而一。即一而多。猶如素月流空影分眾水。大塊噫氣萬竅怒號。大小咸周遠近無隔。無心頓應豈正九天伯陽周之枉史。尹喜函谷關吏。身居下位。難等聖蹤。欲為己德。蓋善竊者。鬼神不覺。既為人知。非是好手。離欲而獲輕舉。禪定而感神通。老子既無此功。何以升於天上。昔列子居鄭。夫妻相忘。耳目不分。翛然絕寄。心凝形釋。骨肉都融。然後身如槁葉隨風。東西萬里須臾過旬乃返。而莊周譏云。猶有所待。矧乎老耳。不絕妻子(老子之子名宗。宗之子名注。注之子名官。侍魏文侯)未逮形亡。過關乘薄軬之車。道經垂有身之患。詎可升天履霧駕鶴乘雲。擬効牟尼衿為己勝。且布施而獲大福。持戒而感生天。汝尚不達斯由。安能為天說法。欲界本六。妄云九天。初禪純男。而云玉女。勾虛闡偽巧說多端。且初禪已上。禪悅為食。定生喜樂捨念清淨何用瓊漿碧醴蘭羞八徹乎。將謂天上同於人間。羨酒肉之薰羶。爭魚臭之穢濁。喻乎鴟耽死鼠為便鳳凰同。飡盜聽不真。請杜臆說。窮鄉多怪。曲學多辯。斯言信乎。
偷佛經教偽(第三十化云。胡王見太上徒眾甚多。疑是鬼魅。遂積薪焚之。火起衝天。老君放身光明。火中為王說金光明經。胡王益怒。納之大鑊煮之三日。老君鑊湯之中。蓮華涌出。坐蓮花上。說涅槃經。又云。老君使尹喜為佛。與胡王為師懺悔三業六根五逆十惡。乃說五戒十善。并四十二章經)。
辯曰。夫麒麟鬪而日月虧。鯨鯢死而彗星現。銅山崩而洛鍾應。葭灰缺而月暈殘。蓋感應之道交。故機教之相扣。人心渴仰法雨芳菲。沃彼情塵開他蒙昧。故孔子曰。不憤不啟。不悱不發。此明待問而說也。況乎聖人設教權變多方。豈使他人起怒自授焚溺。全無㥏[怡-台+墨]。強與他言。豈知虛往實歸之道哉剜刻字樣巧合經名。既坐火焰上說金光明經。坐蓮華上說蓮花經。則道德二篇坐於道路而說。洞玄三部元在水洞而談。此既不然。彼云何爾。且金光明性相通顯。法華經破權歸實。涅槃經明佛性真常。四十二章群經集出。不窮根蔕盜聽妄談。唯口起羞出何容易。難惑上智只誑下愚。又上經既是老子所陳。道士應宜依而學。佛何乃合氣為道。專諷靈寶。試問三經文明何義。道藏既不收攝。道士又不通明。偷大聖之至詮。為老君之極唱。正符涅槃盜牛之喻。又同瞽者誤入金穴。雖得其寶未知何用。又曰。懺悔三業至年月齋法。若如是者。道士應通。且問懺悔是何語言。今此懺悔。為事懺耶。為理懺耶。約功德門而滅罪邪。約逆生死心而滅罪耶能懺之心宜有幾種。所懺之罪何處安排。懺悔二字由尚罕知。則三業六根五逆十惡。戒善之軌年月齋名。決不曉達。若是老子所說。道士應合備。知既然一字不通。顯知偷佛妄說。此同竊賊人物被主認著。猶不招承。更生拒辯。焚經火板方乃慚惶。君子悔前不至如此。
老君結氣成字偽(第八化云。聖紀經云。太上老君。昔於龍漢之年。從元始天尊。於中央大福堂國。說靈寶十部妙經。出法度人。又於東極大浮?國。出法度人。以紫筆書於空青之林。又於南極禪離界。以火煉真文瑩發字形。又於西極衛羅世界。北極鬱單國。皆出法度人。老君以五方真氣之精。結成寶字。大方一丈。八角垂芒。為雲篆之形。飛鳥之狀。以立文章。又云。墳典自我而出。經籍自我而生也)。
辯曰。夫子字之聿興爰從上古。伏羲氏之王天下也。始畫八卦。造書契以代結繩之政。由是文藉生焉。故有青丘紫府三皇刻石之文。綠檢黃繩六甲靈蜚之字。後有蒼頡。因而增制。大篆起於史籀。小篆興於李斯。飛白創於蔡邕。隷書變於程邈。秦書八體漢字六形。瘦金堆金。垂雲垂露。蔡葉龍爪顏體坡書。皆循古以增成。近代而改制。豈假真氣而結。何關老子傳來。掩竊他能衒賣己德。放舒白眼不恥清流。上云。龍漢起於初氣。何有老子而生。既言紫筆書林。乃在蒙恬之後。牽今引古。欺我賢人。孔安國云。伏羲神農黃帝之書。謂之三墳。言大道也。少昊顓頊高辛唐虞之書謂之五典。言常道也。易則三聖方定詩則群英之言。春秋孔子所修。禮則周公所定。爾雅周公所纂。國語丘明所述。劉熙釋名。許慎說字。埤蒼廣雅。桂苑珠叢。顧野王之玉篇。陸法言之切韻。各有源系。非干老聃而言墳典自我而出經籍自我而主。荒唐謬談侮弄明哲亦猶相如上林說。盧橘夏熟。楊雄甘泉賦。玉樹冬菁。聽其言則洋洋美耳。究其事則杳杳空傳。矧乎國名虛設。妄採他書。大福堂。改大堂而取名。東浮黎。彷扶桑而立號。南禪黎。革重黎而標字。西衛羅。竊於迦維羅衛。北方全收欝單越名。十洲所不收。神異所不攝。地理無所紀。括地絕形名。空闡五車了無一實。偷鈴掩耳斯之謂與。
佛祖歷代通載卷第二十一
大正藏第 49 冊 No. 2036 佛祖歷代通載
佛祖歷代通載卷第二十二
嘉興路大中祥符禪寺住持華亭念常集
周文王時為柱下史偽第九(第十九化云。周文王時老君為變邑子。時帝紂荒虐天下塗炭。乃乘飛飈之輪。風伯前驅。彭祖驂乘。降坡山之陽。西伯揖之拜為守藏吏。武王克商。遷為柱下史。作赤精經。教文王以仁義之道。作璇璣經。以授周公。成王康王之代。世為性下史。昭王時。有黑氣之祥。老君以八天隱文授昭王王。不用後成膠舟之難)辨曰。蓋聞九頭五龍之紀。重瞳四乳之書。金秦火漢之文。黃魏白晉之典。不聞文王師於老子。璇璣訓於周公。但云文王師於太公。武王師於姬旦。群書具載。先儒盛談。何乃違戾百家別張毛目。蓬心瞽唱睞目生靈。夫欲聖人者。宜務其實。無稽之談自招世誚。案史記別傳。老子生於定王之世。與孔子相接。何乃妄為西伯之時乎。既是聖人。見紂荒淫宜盡力規諫匡其不逮。而乃高乘飛輪棄而遠遁。為忠臣者。固若是乎。昔日過關。雇徐甲而為御乘薄軬之車今則乘飛颷輪。風伯前驅。彭祖驂乘。何自高之不經乎。況彭祖此時已歿。風伯不肯前驅。文王自公劉以來。世積仁孝。美化行乎江漢。仁慈及於行葦。何待赤精之教哉。周公制禮作樂。代臨天下。設金縢而表誓。製周禮而流規。何用璇璣之教乎。昭王時號明君。史無黑氣之變。妄改白虹之兆。而云黑氣之言。授以隱文。又成孟浪之說。前云。老君為九天教主金闕帝君。建七曜之冠。披九色之帔。乘八景玉輿。駕五色神龍金闕之中坐玉帳之內仙童左奉玉女右陪。萬聖擁隨千靈翊從。老子既有如此高貴之位。而不肯居。返就守藏之職。屈身為臣。侍君之傍立柱之下。晨趨暮拜端笏搢紳。捨喬木之高遷。投幽谷之賤地。翻上倒下以何謬哉。燮邑之號。周書之所不載金闕帝君。爰從道士虛張。有名無實孰肯傳信栽。風求影種電尋根。此之謂與。若以昭王不信故。感膠舡之難者。奏皇求仙親臨海上。凌波涉險冀遇神仙。虛想安期之名。不覩羨門之面。沙丘道死。鮑臭薰人。漢武好仙。身著羽人之衣。口飲天表之露。縱欒大之詭說。信少。君之詐術。而身入茂陵竟無一補。魏太武。任寇謙之說。建靜輪天宮。費竭人勞終感癘疾。用武帝。口服丹藥身服黃衣。熱發晉陽失音而死。唐武宗。師趙歸真餌金丹藥。會昌不滿早致崩亡。近宋上皇。信林靈素遊月宮。誦太極之章佩驅邪之劍而亡國破家身死東韓。此之數君。皆傾誠一志望享千年。而遘患彌留竟無一驗。譏以膠船之難。不亦妄求人過乎。幸人有災。君子不為也。
前後老君降生不同偽第十(第一化云。老子生在五運之前。第二化中。老子生在三氣之中。第六化云。老君姓李。諱弘元曜靈。字光明。以上和七年歲在庚辰九月三日甲子卯。時始育於北玄玉國天岡靈鏡山李谷之間。玄靈聖母既誕之夕。有三日出於東方。九龍吐水月妃散花。日童揚彩。年五歲體道凝真。二十而有金姿玉顏。棄家離親超迎風塵。後感元始下教。授以鬱儀太章太洞真經。紫微天帝玉清君。以瓊輿下迎。賜丹璽符書。為上清金闕後聖帝君。掌握十天河海神仙。第十一化云。老君以清濁元年七月一日。託玄神玉精。降太元玉女。千三百年。號無上老子。一號大千法王。第十二化云。老君以清漢元年。寄九天飛玄玉女。八十一年。號高上老子。第十三化云。老君以清漢元年甲午九月九日。降元素玉女。七十三年。號九靈老子。第十化云。老子以殷十八王陽甲庚寅歲建午月。入於玄妙玉女口中。八十一年至武丁九年庚寅歲一月十五日。聖母剖左腋攀李樹而生。生即行九步。步生蓮花。九龍吐水。具七十二相八十一好。左手指天右手指地。曰天上天下唯道獨尊。我當闡揚無上道法。普度一切。又云。李靈飛。得修生之道真。妻天水尹氏於瀨鄉晝寢見太上從天而下。化為玄銖。吞而有娠。八十一年生而皓首。曰老子。生李樹下。苗李為姓)。
辨曰。夫星流貫昴。實標文命之祥。電繞樞星。是顯軒皇之慶。虹流華渚少昊於是膺期。星冠月輪。顓頊以之應瑞。赤龍䁆瞹言旌帝堯。雲屯鬱蒸實徵漢祖。此則聖人神異譜牒具詳。未聞老子初生三日共出九步周行。月妃散花日童揚彩之事。且星隕如雨。日有蝕之。春秋書之。以為異事李耳若有徵瑞。孔子何以不記乎。且魯陽揮戈而返日。淮南子有。景公善言。而退熒(劉向新文)貳師拔劍而泉流(前漢書中)耿恭拜井而水出(後漢書中)於有奇相書為美談。老既無文。事必虛唱。倚他大聖取為神奇。夫聖人現相雖有多途。託化誕生事無兩體。世尊百億化身大千世界一時頓顯。化緣事訖便入涅槃老子隨代降生。以何大謬乎。本是李耳妄。改其諱李伯陽而云光明。隱其本名而加美號。史記真文一詞不錄。道書偽說百種粧填。前之兩化。說在太易之前。後之十重。紀在伏羲之後。尋虛摭偽誑惑後人。前說五歲凝真二十入道。後則八十一歲生而皓首。自語矛循。何待他攻。亳州瀨鄉實而不認。北玄玉國虛而妄傳。聃耳蓬頭。謬說心十二相。野合懷胎。諂云周行九步。採他釋瑞而為老奇。將此薰蕕亂彼蘭芷。北玄玉國。山海之所不紀。天岡李谷。池里之所匪詳。王儉百家(太尉王儉有百家譜)弗聞玉女之名。何姓氏苑。罕說玄妙之族。案道士賈善翔高道傳序云。伯陽起迹於姬周。既云起迹於姬周。則是老子不在商也。明知陽甲之時。本無李耳。衰周之際。始見老聃(胡曾云。七雄戈戟亂如麻。四海無人得坐家。老氏却思天竺住。便將徐甲過流沙。斯則周末時人明矣)避亂入秦。死葬槐里。秦佚弔之三號而出斯良證也。何更疑哉。史記本傳。莫知所終。化胡浪語云。過流沙。將如來降誕之禎。合老子過關之氣。汝雖巧會偽說孰憑。案燉煌實錄云。周桓王二十九年。幸閑豫庭。與群臣對論古今。王曰。老聃父何如人也。天水太守索綏對曰。老聃父姓韓名虔字元卑。癃跛下賤胎則無耳。一目不明孤單乞貸。年六十二無妻。與隣人益壽氏宅上牧猪老婢子曰精敷。野合懷胎。八十一年而生。老子生時皓首。故曰老君。此本實跡蔽而不傳。偷竊他能欲張老聖。家有弊帚享之千金。斯言信與。
三番作佛偽第十一(第三十四化云。老君告胡王曰。使我弟子為佛。汝當師之。即使尹喜變身為佛。與胡人為師。令作桑門授以浮圖之法。說四十二章經。又云。老君至舍衛國。自化作佛坐七寶座。身長百千萬丈。徧滿虛空。又云老君將欲再整釋教。以周莊王九年。乃於梵天命煩陀王老君弟子。乘月精託陰天竺摩耶夫人胎。至十年四月八日右脇降生。後入雪山修行六年。道成類佛陀眾。號末牟尼。至匡王四年解化。太上命昇賈奕天。為善惠仙人)。
辯曰。夫根深果茂。源遠流長。虎嘯風生。龍吟霧起。聖人利見皆有深源。昔植善因今感妙果。我佛世尊三無數劫積行累功。六度無捨而求菩提。棄身命如恒河沙。捐國城如微塵數。莊嚴世界誘掖群生。然後應然燈記。補迦葉位。下生中印託化王宮。七步周行指天地而猶貴。三十二相映日月而爭輝。四王捧足出塵寰。六年行滿而成道。現身百億國土。說法四十九年。播聲教於人天。摧外道於雙樹。化緣事畢却返無為。應物適時如是示現。何待老子始化尹喜變身。掩他神功矜為己勝。佛生周昭之代。老降定王之朝。世隔一十七帝。年經三百餘祀。化已滿於天下。教已滿於龍宮。家仰仁慈之風。國遵釋氏之範。豈假李耳重整煩陀再現。援前著後諂誑庸愚。昔日過關。雇徐甲而為從。奚有天人侍衛乎。乘鹿柴車。何有七寶之座乎。廣顙聃耳。焉有萬丈之身乎。狡侫不經欺賢誷聖。鯤化為鵬。蓋緣自變。蛇蛻為雉。匪假他功。此皆物理自然。陰陽感召。待時而發。非他使然。老子自是凡人。身為臣子。何能別生神聖更使尹喜作佛。昧自心靈瞎他眼目。悖禮慢聖殃報拔舌。善惠仙人將登八地。遇然燈佛受無生記。此乃世尊往昔之號。既然成佛功成果滿。化緣事畢入於涅槃。遷神常樂之鄉。永入無為之境。豈可作佛事畢更作善惠仙人。將後著前一何錯亂。妄竊不真壞人視聽。夫上天雖樂終是輪迴。不免三災之殃。難逃五衰之苦。聖人超出生死苦樂兩忘。高超三界之津獨步六塵之表。何返歸天上却入囂塵。雜污我聖人。欺謾我大覺。此同棄天子之尊嚴。慕廝養之賤役。捨華堂之廣廈。悅蔀屋之茅簷。汝欣賈奕之榮。我恥糞土之辱。隋大臣楚國公楊素行經樓觀。見壁間畫像問道士曰。此何圖也。道士對曰。老子化胡成佛圖。素曰。承聞老子化胡。胡人不受。老子變身作佛。胡人方受。是則佛能化胡。道不能化。何言老子化胡也。道士不能加答。善哉楊素之言。此通人之論云。若胡人不先知有佛。詎肯受佛之化乎。以此考之。則印土先有佛矣。而言尹喜作佛老子始變。何欺吾門之深。乎(樓觀尹喜故宅在開之南。今道士居之仍在)。
冐名僭聖偽十二(第四十八化云。商太宰問夫子曰。夫子聖人歟。孔子對曰。聖則丘何敢焉。然則丘博學多識者也。太宰曰。三王聖者歟。孔子曰三王善任智勇者。聖則丘不知。太宰曰。五帝聖者歟。孔子曰。五帝善任二義者。聖則丘弗知。太宰曰。三皇聖者歟。孔子曰。三皇善任因時者。聖則丘弗知。太宰大駭曰。然則孰者為聖。孔子動容有問。曰丘聞西方之人有聖者焉。不治而不亂。不言而自信。不化而自行。蕩蕩乎民無能名焉。丘疑其為聖人也。史志經云。孔子在魯。老子在周。以魯望周之洛陽。故在西方。蓋指老子為西方聖人也。孔子問禮之時。先有猶龍之歎。故此指老子也)。
辯曰。夫自衒自媒。婦女之醜行。不矜不伐。聖人之深能。是以舜美禹功。嘉有勳而弗競。孔稱孟反(孟之反)猶退厚而居薄。由是美譽播於千秋。謙放光輝於四海。上之所引。具見列子仲尼篇中。古今通論。以謂此夫子推佛為西方大聖人之語也(唐琳法師對太宗之表。張丞相作護法論。皆引此文佛西方聖人也)未聞老子在周孔子在魯故指老子為西方聖人。竊名冒聖欺我何多。僭聖人者不仁。言乖理者非智。且道源之祖肇起黃帝。非干老子。老子師容成子演五千文縱然說聖不能赶於軒轅。既三皇五帝孔子不推為聖。返指老子而為聖人。不亦過乎。蓋我世尊功圓萬行果證十身。流光遍於剎塵。分身應於沙界。不可以人事測。不可以處所求。實三界之大師。是四生之慈父。寰中獨步。為王中之法王。出世獨尊。為聖中之大聖。故能高拱覺場威行萬國。縱使周公之制禮作樂。孔子之述易刪詩。卜偃之文章。端木之言語馬遷之辯博。葛洪之該通。輔嗣之玄談。左慈之神化。並驅馳於域內。言未涉於大方。可為善世之高流。難作出塵之聖者。案天竺聖方群賢所聚。過去諸佛共生於彼。范曄漢書云(後漢西域傳史論文)其土則殷乎中土。玉燭和暢靈聖之所降集。賢懿之所挺生。故古昔賢能時有往者。老子西昇經云。聞道竺乾(今改為開道竺乾)有古皇先生。善入無為。不始不終。永存綿綿。是以西行。又古本化胡經云。我生何以晚。泥洹一何早。不見釋迦文。心中空懊惱。此則老子自指於佛。為西方聖人也。又黃帝夢遊華胥之國。其國在弇州之西。王邵注云。此指西方天竺也。周穆王時。聞西方有大聖人出世。心甚懼之。乃使造父乘驊騮八駿。西上崑崙觀日所沒以厭其氣又西極有化人來。能返天易地。聖力無方。千變萬化。不可窮極。穆王敬之若神。築中天臺以居之。化人引穆王神遊。斯須之間已如數載。又穆王五十二年如來示滅。西方有白虹十二道。南北通貫連夜不滅。王問太史扈多。是何祥也。扈多對曰西方有大聖人。衰相現爾穆王喜曰。朕常懼於彼。今無憂矣。此則竺乾勝方聖人居彼。故得賢王西求化人東來也。又張騫奉使。西窮河源至於大夏。聞雪山南有身毒國。其人奉浮圖。不殺罰。乘象而戰。身毒即今印度也。此則仁慈之風詳於漢史明也。上之所引。咸指印度以為西方。佛生於彼。故指佛為西方聖人。豈說洛陽以為西方老子為聖人也。又云。孔子先有猶龍之歎。故此聖德指老子者。意欲將孔子一期問禮之事。便為老子弟子。孔子曰。吾無常師。主善為師。三人行必有我師焉。故學琴於師襄。問樂於萇弘。問官於郯子。入太廟每事問。有問稼曰吾不如老農。有問圃曰吾不如老圃。此明孔子虛懷納善汲汲於道爾。豈有一事便為師焉。蓋當時老子。為守藏吏。掌周公之禮典。故孔子問之若以問禮便為孔子之師。則老農老圃亦孔子之師哉。必不然矣。沽名衒世求為人師。君子不為也。
合氣為道偽十三(第一十三化云老子以周昭王二十三年七月十二日。至凾關。尹喜既見邀歸本第。說道德經二篇五千餘言。尹喜扣頭曰。願授其要。老君曰。善。乃為解道德之要曰。道者。謂泥桓。泥桓者。天德也。理在人頭中。紫氣下降下至丹田。名堵。謂脾也。脾者。中黃太一也。黃氣徘恛理中宮。萬物之母者。謂丹田也。丹田玄牝也。居下元中。一夜之時。一氣下降周旋三宮。同出而異名。謂精也。一曰精。二曰汗。三曰血。四曰液。故曰異名。玄之又玄者。謂左右汗也。眾妙之門道可道者。謂朝食美也。非常道者。謂暮為屎。此依張道陵解。道陵如此說也。有無相生。謂口與腹也。難易相成。謂精與氣也。此老子授尹真節要也。又授尹喜神丹經金液經及八煉九還丹伏火之訣。其方云○金液還丹仙華流。高飛雲翔登天丘。赤黃之氣成須臾。當得雌雄分亂珠。可以騰變致行厨。靈童玉女我為夫。出入無間天同符。真精凝霜善沈浮。汝其珍敬必來游。又授九丹之名。及歌曰○圓三五寸一分。口四八兩寸唇。長二尺厚薄均。腹三齊坐垂溫。陰在上陽下奔。首尾武中間文。始七十終三旬。內二百善調勻。陰火白黃芽欽。兩湊聚輔翼人。子處宮得安存。去來游不出門)。
辨曰。夫道貴清淨。德尚無為。恬憺內持謙卑自牧。不依此道別唱多端。唯以行氣運功而為修養。失道德之淳粹。乖自然之妙門。虛設巧言妄加穿鑿。保丹田為至道。守兩腎為重玄。鄙穢麁浮誑諕閭里。王喬羨門之輩非好此方。白石赤松之流不依此道。丹經煉訣不見延年。服餌飡芝罕曾久視。周武服丹至日啞。唐武服丹而早亡。誤他多少賢良。不守樂天之日。既道德真訣。理極於此則道藏餘文不足貴也。今之道士更騁淺術。或有扶鸞而亂書。秖貪夜飲。或有驅邪而斷鬼。誑人除凶。或有拘環牆而內守。此謂坐馳。或有惜言語而不行。此謂癡默。或有熊經而鳥引擬彭祖而齊肩。或有飲氣而息神効龜鶴而老壽。或有運精而上腦門挽河車。或固丹田而內封謂之保養或有合氣而為道老子聚麀。或有奪精而採神男女混雜。扣齒謂之天鼓。嚥津謂之醴泉。呼男根為金菜。只圖強勁。呼女竅為玉戶。潛隱醜名。呼童女為真人。呼交搆為龍虎。嬰兒姹女鉛汞丹爐。故曰開命門抱真人。嬰兒回龍虎戲。三五七九天羅地網。故張道陵黃書云。男女有和合之法。三五七九交接之道。其通真訣在於丹田。丹田者玉門也。唯以禁忌為急。不許泄於道路。道路者屎孔也。又道家內朝律云。禮法男女至朔望日。朝師入私房。詣師立功德。陰陽並進。日夜六時當立功德。不得失內侍之序。不得貪外道失中御之道。不得抄前排後失次第之序。亦不得嫌醜愛美。又云。朔望之際。侍師私房。情意相親男女交接。使四目兩鼻上下相當。兩口兩舌彼此相對。陰陽既接精氣遂通。故老子云。我師教我金丹經。使我專心養玉莖。三五七九還陰精。呼吸玉池入玄冥。行道平等昇太清。此等歌訣義皆如是。將斯㛱媟以為真修。不思歸根復命之言。維行合氣鄙薄之術。以此求道枉陷人倫。以此超昇終身叵得。以斯滅罪罪不可亡。以斯消災災不可退。以斯求福福不可生。以斯出家家不可出。何異蒸砂作飯。虛受劬勞。鏡裏真尋。終無所獲。嗚呼棄驪珠而拾礫。斡憂鼎而羨糠。自誤誤他死沈苦海。哀哉哀哉。
(二) 偷佛神化偽十四(第四十二化。老子入摩竭國。現希有相。以化其王。立浮圖教。名清淨佛。號末摩尼。至舍衛國。自化作神。從天而降。天人侍衛。現身長百千萬丈。又至罽賓。降胡王及王子。火不能燒。鑊不能煮。水不能溺。胡兵百萬弓矢劍戟。一時摧落。飛電八衝。聲如霹靂。人馬驚仆。化郭先生空中頭贊。又至條支國。手擎大山。至拘薩羅。降伏九十六種外道。至迦夷羅國。左手把日右手把月。藏於頭中。天地冥暗。山飛石裂。海水逆流。山川空行。又至于闐。於南渠山示故胡王。令尹喜化作金人。身長丈六。項佩圓光。足踏蓮華。從空而下。拜禮老君。謂胡王曰。此君弟子與汝為師。又留神鉢令得法味。又於毘摩城地變金色。放九色神光遍照塵沙國。土即有赤靈真人中黃丈人太一真君九宮六丁八卦神君青龍白虎散花玉女。浮雲而至。老君坐七寶座。燒百合香。奏鈞天樂。又有八十餘國諸王妃后。皆來聽法。留尹喜作佛。及鉢於毘摩城却升天去。老君又於葱嶺降大毒龍。遍歷五天。於耆闍山獨木樹下。化玉座與王說浮圖。度桑門二千五百人。受以戒律。又六十六化云。于闐國毘摩城伽藍。是老君化胡成佛之處。中有石幢刻記其事云。東方聖人號老君來化我國。下引入學上議證其事跡)。
辨曰。案後漢西域傳三國志魏隋書西域志(圖六十卷。志四十卷。合一百卷成西域志)並紀西天五印。有佛聖跡。或幢或柱。咸勒其事。不說老君曾留名字。初張騫西來。始傳浮圖之號。至於今代。國使往還無慮百人。並不見老君西化之說古谷皇帝西征盡海所到之地。唯有佛僧。行近西北海。有一國土。城中佛塔森然若林。彼國君王唯是和上。又唐王玄策奉使西行。至摩竭陀國。於耆闍崛山及佛成道處。咸述碑銘。讚佛聖化。未聞說有老君之事(上之銘贊在王玄策傳中)又湛然居士扈從太祖。西征于闐及可弗叉國。越天山過雪嶺。風化具詳。亦未知有老子之事。即今煦烈大王皇帝親弟鎮守西域。不尋思干西南雪山之西使命往還來往不絕。除親諮詢老化。並云無聞。則老子神異道書偽出。既非通論。何足信哉○欽奉。
(三) 聖旨禁斷道藏偽經下項(見者便宜收取)。
化胡經(王浮撰) 猶龍傳 聖紀經 西昇經 出塞經 九天經 赤書經 上清經 南斗經 玉緯經 紀勝賦 辨仙論(梁?) 齕邪論 三破論(齊人張融假托他姓) 明真辯偽論(吳筠) 太上實錄 十山論 青陽宮記 玄九內傳 帝王師錄 三天列記 十異九迷論(傅奕呂玄卿) 歷代應現圖 佛道先後論 欽道明證論(唐員半千) 輔正除邪論(吳筠) 辟邪歸正論(杜光庭) 十二虛無經 藏天隱月經 赤畫度命經 樓觀先生內傳 謗道釋經(林靈素杜光庭撰造破大藏經) 三教根源圖(金天長觀李大方撰) 歷代帝王崇道記 高上老子內傳 靈寶二十四生經 混元生三清經 五公問虛無經 混元皇帝實錄
(四) 聖旨就大都大憫忠寺。焚燒道藏偽經。除道德經外。盡行燒毀。遂命大都報恩禪寺林泉倫長老下火。謝恩畢拈香云。佛心天子憫眾生。恐墮三途邪見坑。箇裏了無偏黨處。就中朱紫要分明。所以道聖鑑無私天機莫測。既來頌德。敢不酧恩。此香端為祝延。
大元世主當今皇帝。聖躬萬歲萬歲萬萬歲。伏願。金輪與法輪同轉。福越三祇。舜日共佛日齊明。壽延億劫。次舉火云。憶昔當年明帝。時曾憑烈焰辨妍媸。大元天子續洪範。顯正摧邪誰不知。嗟乎道教陰蠧佛書。自古至今造訛揑偽。盜竊釋經言句。圖謀貝葉題名。謗毀如來贓誣先聖。醜辭惡語何可言哉。無蒂狂談實難遍舉。始自張陵杜撰。不遵老氏玄言。謬作醮書兼集靈寶。詐道從空而得。妄言太上親傳。用三張鬼法。以誑惑愚夫。設五運神符。而魘奸匹婦。以此觀之。葛孝先徒搜要妙。陶洪景謾述浮辭。杜光庭白拈巧偷。劫賊無異。陸修靜外好裏弱。說客何殊。若非喫苦不甘。爭肯說長道短。鮑靜被誅猶可。王浮招報非輕。傅奕姜斌不堪齒錄。張生焦輩何足言論。寇謙之口舌瀾翻。損他利己。林靈素機謀諂詐敗。國亡家。毀人祖兮。定遭一時之辱。滅賢良兮必招三世之殃。因果無差報應有準。嗚呼悲法琳不遇而遭貶。嗟道世雖再而難為。致令釋子傷心。幸得皇天開眼。恭惟。我大元世主聖明皇帝陛下。闢邪歸正。去偽存真。恐眾生永墮迷津。令萬姓咸登覺路。雪冤已竟。感謝皇恩。粉骨碎身莫能酧報。遂以火炬打一圓相云。諸仁者。只如三洞靈文。還能證此火光三昧也無。若也於斯會得。家有北斗經。枉教人口不安寧。其或未然。從此灰飛煙滅後。任伊到處覓天尊。急著眼看。至元十八年十月二十日。大都報恩禪寺林泉長老。從倫奉勅下火。
(五) ○對道士持論師德一十七名。
燕京
圓福寺長老從超 奉福寺長老德亨
藥師院長老從倫 法寶寺長老圓胤
資聖寺統攝至溫 大名府長老明津
薊州
甘泉山長老本璉 上方寺長老道雲
灤州 開覺寺長老祥邁
北京 傳教寺講主了詢
大名府 法華寺講主慶規
龍門縣 抗講主行育
大都 延壽寺主道壽 仰山寺律主相叡 資福寺講主善朗
絳州 唯識講主祖珪 蜀川講主元一(餘如本論)
(丁亥) 閏二月。詔行至元鈔。以一准中統之五。
(戊子) 正月二十一日大赦。
(六) 至元二十五年正月十九日。江淮釋教都總統楊輦真迦。集江南禪教朝覲登對宣上竺出班。聖旨問。講何經。答云。法華經。次問。仙林講何經。奏云。百法論。即就退位而立。引問徑山雲峯和上云。禪以何為宗。奏對云。禪也者淨智妙圓體本空寂(泉總統譯云再說)復奏云。非見聞覺知之所可知。非思量分別之所能解。又傳聖旨令更說。復奏云。禪之為宗。西天四七唐土二三。自迦葉付之阿難。阿難傳之商那和修。商那和修傳之優波毱多。由是展轉而至二十八祖菩提達磨。菩提達磨即東土之初祖也。祖得法後大破六宗之邪。望東震旦國有大乘根氣。航海而來。見梁皇一語不契。遂折蘆渡江。至少林山中面壁九年。得二祖神光斷臂立雪。祖問。當何所求。光云。我心未寧。乞師安心。祖云。將心來與汝安。光云。覓心了不可得。祖云。與汝安心竟。光得傳心法。後傳之三祖。三祖傳之四祖。四祖傳之五祖。五祖本一栽松道者。四祖云。汝已年老。可再來。吾當忍死以待。五祖遂至濁港江頭。見一女問投宿。而受孕托生。謂之黃梅無姓兒。既而傳法於五祖。黃梅法席七百高僧。獨神秀上座為上首。祖以傳衣法時至。令各述一偈。秀即書壁間云。身是菩提樹。心如明鏡臺。時時常拂拭。莫待惹塵埃。五祖云。此偈亦未見性。蓋其尚滯名相。未脫知解。正在學地。傳聖旨云。再舉一遍復舉畢。又奏云。盧行者時在碓坊。為眾負舂。五祖已知其素有悟門。盧行者本不識字。遂倩人書一偈於壁間秀師所書偈側云。菩提本無樹。明鏡亦非臺。本來無一物。何處惹塵埃。乃開析云。老盧此偈至本來無一物處。即是空諸所有徹法源底。五祖即於夜半密付其衣法。盧得衣鉢宵遁。至大庾嶺頭。為明上座追及。盧即置衣鉢於石上云。不可以力爭。明乃盡其神力。鉢不能舉。明乃云。本為法來。非為衣也。祖云。不思善不思惡。正恁麼時如何是明上座本來面目。當下大悟。秀歸河北。自稱六祖。然而知解未亡。猶滯名相。故流於相宗。是以教盛西北。能受正傳於曹溪。是以禪盛東南。謂之南能北秀。此教禪所由分也。自是曹溪傳之南岳懷讓讓本觀音大士分身。讓傳之馬祖。謂之馬駒踏殺天下人。馬祖傳之百丈。於侍立舉掛拂處。親遭一喝。當下悟去。直得三日耳聾。百丈對黃蘗。舉此一喝。黃蘗不覺吐舌。亦於言下洞明此喝之旨。後臨濟至於黃蘗。三度問佛法大意。三遭六十痛棒。後於大愚席下舉前話云。過在什麼處。愚云。黃蘗得與麼老婆心切相為。更覓過在。濟大悟。遂於大愚肋下築三拳。愚云。汝師黃蘗。非干我事。臨濟歸黃蘗。便與三掌。自是流通此喝。謂之臨濟入門便喝。此喝之所由生也。所謂德山棒者。即周金剛(泉總統又傳又)聖旨云。如何是周金剛。奏云德山本姓周。為金剛經座主。滿車載疏鈔遊南方。直欲摟破魔子窟宅。當恁麼時。甚生氣概。於途中遇賣油糍婆子。買油糍點心。婆云。汝是講金剛經座主。經中有一段義。若答得白喫油糍不要錢遂問。過去心不可得。現在心不可得。未來心不可得。三心中點那箇心。座主無對。古云。假饒講得千經論。一句臨機下口難。信知不能徹法源底。則滿車之疏皆長語也。後見龍潭。於侍立次。遇夜深辭去。見外面黑。潭遂度紙燭與之。德山方接得。潭便吹滅。當下大悟。次日示眾云。窮諸玄辯。若一毫置於太虛。竭世樞機。似一滴投於巨壑。自是據條白棒。佛來也打。祖來也打。此無他。恐後人滯於名相。凡有所問。至支離處便與一棒。此棒之所由生也。所謂德山入門便棒。臨濟入門便喝。夫棒喝者。豈徒施也哉。奏至此。遂奏云。臣僧不敢多談。恐瀆聖聽。傳聖旨。但說。不要怕又非姦偷屠販之事。遂進奏云。釋迦牟尼世尊初生下時。周行七步目顧四方。一手指天一手指地云。天上天下唯我獨尊。所謂獨尊者。非為金輪王位之尊。所可尊者。我也。道也。法也。心也(正欲啟奏雲門大師一棒公案以為佛祖雪屈時靈隱長老淨伏牽衣云勿舉此話遂轉語云)。四十九年三百餘會。所說之法。無非觀根逗教。如一雨普沾。三草二木。各隨其根器之大小。而為之發機。末後云。始從鹿野苑終至跋提河。於是二中間未甞談一字。既是四十九年說法。因甚麼不談一字。正恐後人滯於名相不離知解。所謂不談一字者。熾然常說。以無說之說。是名真說。又於靈山會上百萬眾前。拈起一枝花。普示大眾。獨有迦葉破顏微笑。世尊云。吾有正法眼藏涅槃妙心。分付摩訶大迦葉。謂之教外別傳。傳此心也。印此法也。達磨西來不立文字。直指人心見性成佛。傳此心也。印此法也。奉聖訓垂問曰。云那講主看他長老所說教外別傳底。是耶非耶。上竺出對云。是是。又仙林出云。南方眾生多是說謊。所以達磨西來不立文字。正恐伶俐的。說謊貪著語言文字。故有直指之語。又奉聖旨宣進。榻前同仙林賜坐謝恩畢。就坐。傳聖旨云。持論。仙林云。始從鹿野苑終至跋提河。於是二中間未嘗談一字。既是不談一字。五千餘卷自何而來。答云。一代時教如標月指。了知所標畢竟非月。林云。汝禪宗得法有多少人。答云。從上佛祖天下老和上。盡恒河沙莫窮其數。林云。即今是誰。答云。當面蹉過。林云。在什麼處。答云。含元殿上更覓長安。林無語。又傳聖旨。令泉總。統。問那講主問底。是甚言語。林答。問他禪宗得道多少人。他云。恒河沙數。又傳聖旨。汝講主家。莫看面皮。何得向遠遠說來。林遂問。如何是禪。答以手打一圓相。林云。何得動手動脚。答云。只這一圈子便透不過。說甚千經萬論。林無語。又奉聖旨云。俺也知爾是上乘法。但得法底人。入水不溺。入火不燒。於熱油鍋中教坐。汝還敢麼。答云。不敢奉聖旨。為甚不敢。奏云。此是神通三昧。我此法中無如是事。又傳聖旨。如何都無輸贏。林云。道不敢。便是輸。遂斥林云。不妨會得好。林無語。乃體聖意。奏云。夫禪之與教本一體也。禪乃佛之心。教乃佛之語。因佛語而見佛心。譬之百川異流同歸於海。到海則無異味。又如我萬萬歲皇帝。坐鎮山河天下一統。四夷百蠻隨方而至。必從順成門外而入。到得黃金殿上。親覩黃金面皮。方謂到家。若是教家只依語言文字。未達玄旨。猶是順成門外人。又如禪家未得徹證未得頓悟。亦在順成門外。謂之到家亦未可也。皇情大悅。遂以龍袖西拂。即謝恩下殿。奉御領。歸寢殿賜食。◎
(己丑) ◎正月抄數戶計○庚寅九月日大赦。
(辛卯) 五月二十三日詔改按察司曰肅政廉訪司。
(癸巳) 十月二十二日大赦。
(七) 至元三十年。杭州徑山雲峯和上示寂。師名妙高。句之長溪人。父諱鼒家。世業儒。母阮。夢池上嬰兒合爪坐蓮華心手捧得之。覺而生師。因名夢池。神采秀徹。嗜書力學。尤耽釋典。固請學出世法。父母以夢故不定奪。俾從吳中雲夢澤公受具戒。師銳意求道。首參癡絕冲。冲曰。此兒語纚纚有緒。吾宗瑚璉也。尋又見無準於徑山。準尤器愛。擬以侍職處。師嘆曰。懷安敗名。吾不遍參諸方不止也。遂之育王見偃溪。即請入侍室。掌職藏鑰。一日溪舉。譬如牛過窓櫺。頭角四蹄俱過了。因甚尾巴過不得。師劃然有省。答曰。鯨吞海水盡。露出珊瑚枝。偃溪可之。會師遷南屏。携師與俱。尋住南興大蘆。遂為嫡嗣。遷保安江陰教忠霅川何山。雲衲四來。三堂皆溢。蔣山虛次直指僉議無以易師。朝旨從之。歷十有三載。眾踰五百。德祐乙亥年。被兵革。軍士有迫師求金者。師曰。此但有寺有僧。無金與汝。俄以刃擬師。師延頸曰。欲殺即殺。吾頭非汝礪刀石。辭氣雍容了無怖畏。軍士感動擲刃去。丞相伯顏公見師加敬。舍牛百齋糧五百。寺賴以濟。顏公又戒諸將。此老非常人比。宜異目待之。以故寺得無恙。至元庚辰。雙徑延請。師懇辭再三。乃前寺罹回祿。草創纔什一。師悉力興建。且捐衣盂自為僧堂眾寮。不十年悉復舊觀。戊子春。魔事忽作教徒譖毀禪宗。師聞之嘆曰。此宗門大事。吾當忍死以爭之。遂拉一二同列趨京。有旨大集教禪廷辨。上問禪以何為宗。師奏。淨智妙圓體本空寂。非見聞覺知思慮分別所能到。宣問再三。師歷舉西天四七東土二三。達磨諸祖南能北秀。德山臨濟棒喝因緣。大抵教是佛語。禪是佛心。正法眼藏涅槃妙心。趣最上乘。孰過於禪。詞指明辯餘二千言。又宣進榻前與仙林。諸教徒返復論難。林問。禪宗得法幾人。師云。從上佛祖天下老和上。盡恒河沙莫窮其數。林云。只這是誰。師云。含元殿上更覓長安。又問。如何是禪。師打一圓相。林不省。師曰。只這一圈透不過。說甚千經萬論。林辭屈。上大說。眾喙乃熄。禪宗按堵如初。陛辭南歸。示眾云。我本深藏岩竇。隱遯過時。不謂日照天臨。難逃至化。又云。衲帔蒙頭萬事休。此時山僧都不會。徑山輪奐甫備。延燎復盡。師謂眾曰。吾負此山債耳。遂竭力再建。匯殿坡為池。他屋皆易置佳處。五年而成。癸巳六月初。小參訓飭學者。十七日書偈而逝。師生於嘉定己卯二月十七日。壽七十五。臘五十九。葬於寺西之居頂菴。
(甲午) 至元三十一年 上崩。
(八) 世祖皇帝潛龍時。出征西國。好生為任。迷徑遇僧。開途受記。由是光宅天下統御萬邦。大弘密乘尊隆三寶。
帝潛龍時。命忠書記。叩六丁之靈。求治國之道。出征江南。書記奏云。飛龍之時已至。可速回轅。上然之猶是富有天下。
帝問帝師云。施食至少。何能普濟無量幽冥。帝師云。佛法真言力。猶如飲馬珠。
帝迎旃檀瑞像歸內宮。安奉萬歲山仁智殿。為見世之寶。
帝嘗問帝師云。修寺建塔有何功德。帝師云。福廕大千。由是建仁王護國寺。以鎮國焉。
帝命帝師。齊竟天雨金花。繽紛而下。帝云。何故有此祥瑞。帝師云。陛下心花內發。天雨金花讚歎。
帝命伯顏丞相。攻取江南不克。遂問膽巴師父云。護神云何不出氣力。奏云。人不使不去。佛不請不說。帝遂求請。不日而宋降。
定光佛塔毫光發現。
帝命開視內有舍利。光耀人目。由是重建寶塔。
蜀僧元一遊西天回朝。
帝。帝問云。西天佛有麼。元一奏云當今東土生民主。何異西天悉達多。
元一以西天琢成玉石佛像獻。
帝。帝寶之於萬山供養。
元一以西天貝多葉經獻。
帝。帝貯以七寶函。嚴加信仰。
忠書記僧中之傑。
帝命以三奇之道為輔。出號施令。帝加信任。封為太保。
元一自西天持佛如來銕鉢獻。
帝。帝悅寶之。以鎮庫藏。
帝與帝師坐次。一亢二僧侍側。帝云。何不遊戲三昧。亢以一年小云。從小至大為次。一遂云。海青身至小。天鵝身至大。海青徹天飛。天鵝生懼怕。亢云。猪㹠身至小。象王身至大。象見㹠來欺。擲向大千界。帝師云。我以大千界。化為一釜竈。煮爾四伴物。大小都容了。帝大悅。
帝問元一云。孔老徒眾何以至少。如來徒眾何以至多。元一奏云。富嫌千口少。貧恨一身多。
帝問揀壇主云。何處有佛。揀奏云。我皇即是佛。帝云。朕如何是佛。揀云。殺活在於手。乾坤掌上平。
帝問彌陀和上云。和上住在何處。奏云。住在我王神州。帝云。恁麼則時時見彌陀。
帝問僧元一云。和上還涉世緣麼。奏云。不知法故犯。知法了應無。
帝問帝師云。僧中還有通古今事底麼。時有因和上。奏云。法自漢明帝至以火辯真偽。帝云。古今事且置。今再以火辯真偽時如何。因奏曰。我皇有護法之心。此經爭得焚燒。帝悅其言。
帝誕生太子。詔海雲國師。摩頂立名。奏云。世間最尊貴。無越於真金。
帝命東宮圍場齋。帝師作懺悔。帝師云。眾生度脫盡。仁王悲願深。
帝設資戒大會。隨處放光。帝問帝師云。光從何處來。帝師回奏云。感應道交佛光應現。
帝命皇后娘娘。鎮國寺行香。后問眾僧云。諸處放光。此處何無。言訖定光塔上毫光燭天。終日不散。
帝以眾婇女圍繞帝師。帝問云。還也動心麼。帝師云。目前雖可看。爭奈老僧何。帝大悅。
帝問淵總統。還有眷屬無。回奏云。終日不曾離。又問。還飡酒肉無。淵奏云。鉢盂常染腥膻味。帝云。好老實人。
新築京城。監築者謀毀海雲國師塔。兩雉相合。奏帝欲去其塔。帝云。海雲高僧。築城圍之。貴僧之德千古不磨。
帝一日曰。栴檀瑞像現世佛寶當建大剎安奉。庶一切人俱得瞻禮。乃建大聖壽萬安寺。
帝命寫金字藏經。卷軸前圖像未定。帝云。此經是釋迦佛說。止畫說主。庶看讀者知有所自。
帝詔遍天下。每一歲中行布施度僧讀大藏經。隨處放光現瑞。禎祥不一。
帝詔講華嚴大德。於京城大寺開演。彰顯如來之富貴。
帝設大會。七處放光。顯示華嚴七處之玄旨。
帝問眾臣僚。每日還不放閑也無。眾臣僚無對。帝乃袖中出數珠示之。內外百官皆歸至善。
釋迦如來住世七十九年。
帝至七十九歲。乃云。與佛同壽。不為夭矣。
帝詔十高僧內殿供養。帝端居不動。諸大德亦復默然。帝乃云。此是真實功德。
帝詔僧大內念經行香。侍臣奏云。僧多有不識字者。帝乃云。但教舒展拭去塵埃。亦有功德。
糠禪背杖戒身見。
帝。帝問曰。此杖何為。回奏云。身有過失。以杖責之帝曰。過失在心。鞭身何益。與其責身。莫若責心。
帝見僧有過。不加王法。止令閱教懺悔。
帝詔東昌大師演教。帝大悅。賜以寶玉拄杖。
帝平宋已。彼境教不流通。天下揀選教僧三十員。往彼說法利生。由是直南教道大興。
帝建大聖壽萬安寺。帝制四方。各射一箭以為界至。
帝大內皆以真言梵字為嚴飾。表行住坐臥不離捨佛法也。
帝賜講人紅僧衣。令說法人與佛齊等。
蜀僧圓證見。
帝。帝問。汝何所習。回奏云。幼明三奇。長習佛乘。上悅。賜以碧玉香鼎。命崇香火。
帝萬機之暇。自奉施食。持數珠而課誦。
帝建大聖壽萬安寺成。兩廊擬塑佛像。監修官聞奏。帝云。不須塑泥佛。只教活佛住。
帝禦北征。護神現身陣前。怨敵自退廣濟大師。皇宮親侍日久。禮誦不輟帝深賞讚。賜以放光佛像。命敬侍供養。
帝問相士山水。士奏云。善惡由山水所主。帝問。太行山如何。相士奏云。出姦盜。帝云。何以夫子在彼生。帝召僧圓證問云。此人山水說得是麼。證回奏云。善政治天下。天下人皆善。山水之說臣僧未曉。帝大悅。
舍羅薩張大師志慕出家。
帝從其請落髮為僧。賜七寶數珠。命供日課。
帝詔蜀僧圓證。明六神之術。上曰。髠髮恐無靈驗。回奏云。此六者。天地日月水火之神。菩提場中各說偈讚佛。得大解脫門。為華嚴之嚴衛。僧人昭事。神必欽依。髠髮無傷。帝然之。
帝詔元一與道士持論。元一攻其竊釋孔之言。上悅。
帝問僧佛牙真偽。僧無對。帝云。真偽自分明。諸人休錯解。
帝命僧念無量壽王陀羅尼經。能念者賜疋帛稱賞。
帝召東宮云。海雲是汝師。居住金田宜加崇飾。由是鼎新慶壽大剎。
帝出郊狩南花園云。此處宜建梵剎。段相依命修造。出狩回駕。寺已剎圓。
帝顯正摧邪。命除道德經外。餘皆焚毀。以絕其妄。宰臣奏。分揀道藏。檢出馬湘詩云。樹連滄海水連雲。昔有殷周李老君。人說是非皆不定。五千言外更無文。符合上意。龍顏大悅。制焚之。
帝頒行玉音。詔昊天講主云。聞朕在世誡約學徒究明佛法。毋令減滅。
峨嵋普賢道場。缺大藏經。
命張大師。徑從驛騎遞相迎送。佛法流通福覃西蜀。上都道士等奏。與釋教定邪正。
帝云。勝負如何賞罰。道士云。義墮者斬首。帝曰。不然。義墮者削髮為僧。
宋主以王位來歸。學佛修行。
帝大悅。命削髮為僧寶焉。
聖安寶長老送瑞像至內。心不之悅。
帝云。此是皇家佛。汝心何懊惱。帝回與三十二錠白金。以表三十二相也。
宋太后削髮為尼。誦經修道。
帝深加敬仰。四事供養。
帝宣宋室二宮人至。皆祝髮為尼。帝云。三寶中人也。命歸山學佛修行。供送衣糧。
帝設無遮會。詔信講主說總聖名目。帝云。既號無遮。云何有數。
宋主毳衣圓頂。
帝命往西土討究大乘明即佛理。
帝以金為泥。命僧儒繕寫大藏經一藏。貯以七寶琅函。流傳萬世。
帝設資戒大會。避使長為僧之人使見認得欲取。帝叱云已為佛弟子。誰復能為主天竺進鉢。
帝取食前珍味。碎置鉢中。內外侍從數滿千人。各賜一粒。普令得沾如來鉢中之禪悅。
帝至香山。山半有泉。問僧此泉足僧用否。僧回奏云。日供一千僧。流注尚無竭。賜白金一錠。命築亭蓋覆。貴其利濟宋鎮庫栴檀方圓丈餘。
帝曰。鎮庫無益。刻為佛像利益人天。
帝駕至香山栗園。其栗方熟。左右從駕萬人餘。帝誡諭云。此為三寶物。一箇不容拈。
僧眾遠迎。
帝駕。帝曰。往日僧人三詔不起。今日僧人云以遠迎。僧無對。
帝設大會。闍黎佛聲響亮。帝曰。如是佛音聲。多少眾生生善心。乃賜白金一錠。
弘法寺藏經板歷年久遠。
命諸山師德。校正訛謬鼎新嚴飾。補足以傳無窮。
帝一日云。三人護法。二已去了。惟朕一人。當今佛法愈隆愈盛。
帝命逸林上師。譯藥師壇法儀軌。為天下消八苦之災。增無量之壽。
帝設十萬僧會。命十師對御說法。賜白金十錠玉拄杖十條。
外邦貢佛舍利。
帝云。不獨朕一人得福。乃於南城彰義門。高建門塔。普令往來皆得頂戴。
帝命高僧。重整大藏分大小乘。再標芳號遍布天下。
帝一統天下。外邦他國皆歸至化。帝印大藏三十六藏。遣使分賜。皆令得瞻佛日。
帝命帝師云。去佛遙遠僧戒全虧。可選諸路高僧。賜紅黃大衣。傳授薩婆多部大戒。
帝云。菩薩戒本但解法師語者皆得傳受。乃印造一千部。流通散施。普令大地眾生皆奉如來寶戒。
帝問揀壇主云。何處為最上福田。回奏云。清涼。帝云真佛境界。乃建五大寺為世福田。
帝於五臺運工建寺。有㵎無水。興工之日。段張沿㵎覓水。突然涌出。給濟不乏。
臣佐奏。以天下僧尼一例同民。
帝問。民籍若干。府庫若干。奏云。不知。上曰。輔相治道固宜用心。此乃不理。而急於飡菜餕饀之僧人。其事乃止。
帝聞五教義。帝云。頓教即心是佛諸佛境界。凡夫不修如何得到。
帝見西僧經教與漢僧經教。音韻不同。疑其有異。命兩土名德對辯。一一無差。帝曰。積年疑滯今日決開(故有法寶勘同)。
帝以佛教為心。厭化胡偽造。歷代斷除莫之遏絕。嚴行天下焚毀無遺。
釋迦如來真身舍利寶塔統御剎中計一十九所。各頒錢帛。廣加嚴飾。大陳供養。
帝嘗召群臣云。朕以本覺無二真心。治天下國家。如觀海東青取天鵝。心無二故。
帝每齋日。以南天竺佛盋。置七寶珍羞。澄湛觀心。廣修供養。
帝自有四海。天下寺院田產二稅。盡行蠲免。普令緇侶安心辦道。
天下寺院山林樹木。遍諭玉音。嚴加護持毋令斫伐。以嚴佛如來之境界。
帝以俗制於僧失其崇敬。遍諭天下各主綱維主掌教門護持佛法。
臣下聞奏。有俗僧人。宜令同民。帝令修補寺院以遮其過。
帝主領天下頒降聖旨。諭一切僧人不揀甚麼差發休當。遵依釋迦牟尼佛道子行持。
阿合麻丞相奏。天下僧尼頗多混濫。精通佛法可允為僧。無知無聞宜令例俗。膽巴師父奏云。多人祝壽好。多人生怒好。
帝云。多人祝壽好。其事乃止。
帝靈駕經宣德。現大圓光周遍天界。合境僧俗悉皆瞻禮。蓋顯古佛示現之作用耳(已上百段出弘教集)。
念常讚曰。華嚴云。菩薩住初地作大功德。王以法化眾生。慈心無損害。統領閻浮提。化行靡不及。皆令住大捨。成就佛智慧。若能廣分別。億劫不能盡。今觀弘教集。載世祖皇帝實錄百餘篇。字字句句。以弘教為己任。如有云。朕以本覺無二真心。治天下國家。如觀海東青取天鵝。心無二故。由此論之。萬機之暇不離念佛念法念僧。苟非。
大聖慈念群生特垂化迹。能如是邪。使唐虞再世。亦無以加矣。猗歟盛哉。敬錄于前。以曉來學云。
(九 乙未) 成宗完者篤欽明廣孝皇帝即位(於甲午四月十四日十五日大赦。○改元貞元年)。
(丁酉) (二月廿七日大赦改)大德。
(己亥) 正月遣使問民疾苦。
(壬寅) 三月三日大赦。
(十) 大德六年九月一日。五臺山大萬聖祐國寺真覺國師歿。師諱文才。字仲華。楊氏。其先弘農人。高曾以來世官壟坻。父靜義。金季為清水主簿。遂家焉。少孤事母孝。於書無所不讀。性理之學尤其邃也。故約而為守。蔚而成文。辭氣雅健如古作者。為人沈厚若素不讀書者。至與士君子談接其辭辯其事詳其理盡。出入經史。滔滔然若河漢之決。莫窺其涘。其講授經論。得旨言外。不屑屑於名數。嘗曰。學貴宗通言欲會意。以意逆志為得之矣。語言文字糟粕之餘也。豈有餘味哉。彼狃於文字。味其糟粕。徒騁知見以記問自多。殊不知支離其知穿鑿其見愈惑多岐不能冥昝於道。聽其說適足以熟耳而已。豈能開人惠目乎。所著縣談詳略五卷。肇論略疏三卷。惠燈集二卷。皆內據佛經外援儒老託譬取類。其辭質而不華。簡而詣。取其達而已。隱居成紀。築室樹松。將以終老。然以行修乎邇德加乎遠。雖自韜晦。其道愈彰。人尊其德不敢名。以松堂稱之。佛教之興始於洛陽白馬寺。故稱釋源。其宗主歿。詔以師繼之。世祖嘗以五臺絕境欲為佛寺。而未果也。成宗以繼志之孝。作而成之。賜名大萬聖佑國寺。以為名山大寺。非海內之望。不能尸之。詔求其人於帝師迦羅斯巴。會師自洛陽來見帝師。喜曰。佑國寺得其人矣。詔師以釋源宗主兼居佑國。師見帝師以辭曰。某以何德猥蒙恩寵。其居白馬已為過分。安能復居佑聖。願選有德者為之。幸怜其誠以聞於上。帝師不可曰。此上命也。上於此事用心至焉。非女其誰與居。此吾教所繫。女其勉之。居歲餘。大德六年將如洛陽。道真定舘于某寺。疾作。九月一日歿。年六十有二。火後獲舍利者數百粒。其徒歸葬於五臺東山之麓。
(癸卯) (三月十六日詔定賊罪條例為十二章。及增給朝官月俸外任公田祿米等○八月六日太原平陽地震)。
(十一) 大德七年。膽巴金剛上師歿。師名功嘉葛刺思。此云普喜名聞。又名膽巴。此云微妙。西番突甘斯旦麻人。幼孤依季父。聞經止啼。知其非凡。遣侍法王上師。試以梵呪。隨誦如流。曰此子宿積聰惠異。日當與眾生作大饒益。年十二訓以前名。自是經科哭式壇法明方。靡不洞貫。年二十四講演大喜樂本續等文。四眾悅服。上師令巴至西天竺國參禮古達麻室利習梵典。盡得其傳。初世祖居潛邸。聞西國有綽理哲瓦道德。願見之。遂往西凉遣使請於廓丹大王。王謂使者曰。師已入滅。有姪癹思巴。此云聖壽。年方十六。深通佛法。請以應命。至都旬日即乞西還。上召問曰。師之佛法比叔如何。曰叔之佛法如大海水。吾所得者以指點水於舌而已。問答允稱。上喜曰。師年雖少種性不凡。願為朕留當求戒法。尋禮為師。巴入中國。詔居五臺壽寧。壬申留京師王公咸稟妙戒。初天兵南下。襄城居民禱真武。降筆云。有大黑神。領兵西北方來。吾亦當避。於是列城望風欵附。兵不血刃。至於破常州。多見黑神出入其家。民罔知故。實乃摩訶葛刺神也。此云大黑。蓋師祖父七世事神甚謹。隨禱而應。此助國之驗也。乙亥師具以聞。有旨建神廟於涿之陽。結構橫麗神像威嚴。凡水旱蝗疫。民禱響應。辛巳歲師得道藏化胡經并八十一化圖。幻惑妄誕。師乃嘆曰。以邪惑正如此者。遂奏聞。召教禪大德及翰林承制等。詣長春宮辯證(辨偽錄明)詔下諸路除道德經外。其餘偽文盡令焚毀。至壬午師力乞西歸。上不能留。初相哥受師戒。繼為帝師。門人屢有言其豪橫自肆者。師責而不悛。由是御之。逮登相位。懼師讜直必言于上。乃先入巧言讚師。故有是請。首於雲中。次至西夏。以及臨洮。求法益眾。未幾權臣復譖。令歸本國。師至故里閱六寒暑。己丑相哥遣使傳召還都。於聖安寺安置。四月赴省聽旨。令往潮州。師忻然引侍僧昔監藏。子身乘驛。即日南向。及出都門。雷雨冥晦。由汴涉江洎于閩廣。所至州城俱沾戒法。八月抵潮陽。舘于開元寺。有樞使月的迷失。奉旨南行。初不知佛。其妻得奇疾。醫禱無驗。聞師之道禮請至再。師臨其家盡取其巫覡繪像焚之。以所持數珠加患者身。驚泣乃甦。且曰。夢中見一黑惡形人。釋我而去。使軍中得報喜甚。遂能勝敵。由是傾心佛化。師謂門人曰。潮乃大顛韓子論道之處。宜建剎利生。因得城南淨樂寺故基。將求材。未知其計。寺先有河。斷流既久。庚寅五月大雨傾注河流暴溢。適有良材泛集充斥。見者驚詫咸謂鬼輸神運焉。樞使董工興創。殿宇既完。師手塑梵像。齋萬僧以慶贊之。嘗謂昔監藏曰。吾不久有他往。宜速成此寺。後師還都。奏田二十頃。賜額寶積焉。未幾召還。相哥已伏誅矣。癸已夏五上患股。召師於內殿建觀音獅子吼道場。七日而愈。施白金五十錠。敘及相哥譖師之語。師以宿業為對。宰臣莫不駭服。上謂師曰。師昔勸朕五臺建寺。令遣侍臣伯顏司天監蘇和卿等相視山形。以圖呈師。師曰。此非小緣。陛下發心寺即成就。未幾上宴駕。甲午四月成宗皇帝踐祚。遣使召師。師至慶賀畢。奏曰。昔成吉思皇帝有國之日。疆土未廣。尚不徵僧道稅糧。今日四海混同萬邦入貢。豈因微利而棄成規。倘蠲其賦則身安志專。庶可勤修報國。上曰。師與丞相完澤商議。奏曰。此謀出於中書省官。自非聖裁他議何益。上良久曰。明日月旦就大安閣釋迦舍利像前修設好事。師宜早至。翌日師登內閣。次帝師坐。令必闍赤朗宣勅旨。顧問師曰。今已免和上稅糧。心歡喜否。師起謝曰。天下僧人咸沾聖澤。元貞乙未四月奉詔住大護國仁王寺。勅太府具駕前儀仗。百官護送。寺乃昭睿順聖皇后所建。其嚴好若天宮內苑移下人間。是年遣使詔師問曰。海都軍馬犯西番界。師於佛事中能退降否。奏曰。但禱摩訶葛刺。自然有驗。復問曰。於何處建壇。對曰。高梁河西北甕山有寺。僻靜可習禪覯。勅省府供給嚴護。令丞相答失蠻上親染宸翰云。這句當怎生用心。師理會者師的句當。朕理會得也。於是建曼拏羅依法作觀。未幾捷報至。上大悅。壬寅春二月帝幸柳林遘疾。遣使召云。師如想朕。願師一來。師至幸所就行殿修觀法七晝夜。聖體乃瘳。勅天下僧寺普閱藏經。仍降香幣等施。即大赦天下。上曰。賴師攝護朕體已安。即解頸七寶牌為施。皇后亦解寶珠瓔珞施之。并施尚乘車輦騾馬白玉鞍轡金曼答喇黃白金各一錠官幣十八匹。御前校尉丁人為師前導。三月二十四日。大駕北巡。命師象輿行駕前。道過雲州龍門。師謂徒眾曰。此地龍物所都。或興風雨恐檠乘輿。汝等密持神呪以待之。至暮雷電果作四野震怖。獨行殿一境無虞。至上都。近臣咸謝曰。龍門之恐賴師以安。癸卯夏師示疾。上遣御醫候視。師笑曰。色身有限。藥豈能留。五月十八日。師問左右。今正何時。對曰。日當午矣。師即斂容端坐面西而逝。上聞悲悼不勝。賜沈檀眾香就上都慶安寺結塔茶毘。王及四眾莫不哀惻。是月二十九日。勅丞相答失蠻。開視焚塔。見師頂骨不壞。舍利不計其數。輪殊坐氈如故。回奏。加歎勅大都留守。率承應伎樂迎舍利歸葬仁王寺之慶安塔焉。世壽七十有四。僧臘六十二。祕密之教彼土以大持金剛為始祖。累傳至師益顯。
(十二 戊申) 故有金剛上師之號焉。
武宗曲律仁惠宣孝皇帝即位。改至大(十一月廿五日大赦)。
瑞像計二千三百年矣。
(己酉) 造至大銀鈔(十月詔鑄大元通寶錢及至大通寶小錢。十月十七日大赦)。
(十三) 至大二年內翰趙孟頫奉勅譔臨濟正宗之碑。
佛法大智慧破一切有。以大圓覺攝一切空。以大慈悲度一切眾。始於不言而至於無所不言。無所不言而至於無言。夫道非言不傳。傳而不以言。則道在言語之外矣。是為佛法最上上乘。如以薪傳火薪盡而火不窮也。故世尊拈花迦葉微咲。一咲之頃超然獨得。尚何可以言語求哉。自摩訶迦葉。二十八傳而為菩提達磨。始入中國。居嵩山少林寺面壁坐者九年。達磨六傳而為能。能十傳為臨濟。臨濟生于曹州。遊學江右。事黃蘗問佛法的的大意。蘗便打。如是三問三度被打。辭往大愚。理前話云。不知過在甚麼處。愚曰。黃蘗恁麼老婆為汝得徹困。猶覓過在。師言下大悟歸鎮州築室滹沱河之上。今臨濟院是也。因號臨濟大師。師之於道。得大究竟。繇臨濟而上。至於諸佛。諸佛之下。至於臨濟。前聖後聖無間然矣。直指示人機若發矢。學者聞之耳目盡喪。表裏無據。自能後禪分為五。唯師所傳號為正宗。一傳為興化獎。再傳為南院顒。三傳為風穴沼。四傳為首山念。又五傳為五祖演。演傳天目齊。齊傳懶牛和。和傳竹林寶。寶傳竹林安。安傳海西堂容菴。容菴傳中和璋。璋傳海雲大宗師蕳公。海雲性與道合。心與法冥。細無不入。大無不包。師住臨濟院。能系祖傳以正道統。佛法蓋至此而中興焉。當。
世祖聖德神功文武皇帝在潛邸。[婁*姿]屈至尊請問道要。雖其言往復紬繹。而獨以慈愛不殺為本。師之大弟子二人。曰可菴朗。賾菴儇。朗公度蓽菴滿及太傅劉文貞。儇公度西雲大宗師安公。師以文貞公機智弘建。使事○世祖皇帝。當是時君臣相得策定天下。深功厚德祖於元元。卒為佐命之臣。皆自此賢之也 元貞元年○成宗有詔。迎西雲住天都大慶壽寺。進承清問。經歷三朝發撝玄言。得諸佛智。懸判三乘如一二數。由是臨濟之道愈擴而大○今皇帝欽承○祖武。獨明妙心。刻玉為印。以賜西雲。其文曰。臨濟正宗之印。獨加師榮祿大夫大司空。領臨濟一宗事。仍詔立碑臨濟院。且命臣孟頫為文。稱揚佛祖之道。以示不朽。臣孟頫既敘其所傳授。又系之銘。銘曰。佛有正法。覺明妙心。二十八傳。至于少林。赫赫少林。師我震旦。使為佛種。不鍥而斷。傳十世後。而得臨濟。為道坦然。如指而示。又十六世。是為海雲。坐祖道場。能紹厥聞。維我○世祖。誕膺天命。威震九有。維佛是敬。聞師之名。若古賢聖。嘗進一言。深入聖聽。不殺之仁。其利甚弘。俾大弟子。為帝股肱。至西雲公。能嗣其業。據獅子座。為眾演說。聞者讚歎。信者鄉風。得者如寶。悟者如空○今皇帝聖。深契道要。曰臨濟宗。繄爾能紹。即心即佛。時廼世守。傳不以言。而以心受。皇帝萬年。正法永傳。尚迪後人。勿昧其原。
勅賜乞台薩里神道碑。趙子昂為文。其略曰。
太祖皇帝。既受天命略定西北諸國。回鶻最彊最先附。遂詔其主亦都護第五子。與諸皇子約為兄弟。寵異冠諸國。自是有一才一藝者。畢效於朝。至元大德間。在位之臣非有攻城戰野之功。斬將搴旗之勇。而道包儒釋學際天人。寄天子之腹心。繄生民之休戚者。惟趙國文定公而已。今上皇帝臨御之七年始。行褒䘏之典。於是贈公祖父官爵勳封。越明年復賜碑墓道。命臣孟頫為之文。當世祖時。公為平章政事。臣為兵部郎中。趨走省闥識公為舊。承言論政知公為詳。敢不祇奉。
(十四) 明詔。公諱乞台薩里。早受浮圖法於智全末利可吾坡地沙。圓通辨悟。當時咸推讓之。累贈純誠守正功臣太保儀同三司上柱國追封趙國公。諡通敏。又從國師八思馬學密乘。不數月盡通其書。旁達諸國及漢語。世祖知其材俾習漢文書。領之遂通諸經史百家。若陰陽曆數圖緯方技之說。靡不精詣。會國師西還。携與俱。歲餘乞歸省。師送之曰。以汝之學非為我佛弟子者。我敢受女拜耶。勉事聖君。相泣而別。比至門。師已上書薦之○裕宗。得召入宿衛。日以筆札侍左右。至元二十年冬有二僧西來見。自言知天象。上召通象胥者。數輩與語。莫能解。有脫烈者言。公可。使立召與語。僧乃屈謝不如。上大悅。明年夏擢朝列大夫左侍儀奉御秋置集賢舘。命公領集賢。公請以司徒撒里蠻領之。乃以公為中順大夫集賢舘學士。兼太史院事。明年夏遷嘉議大夫。明年春升集賢大學士。中奉大夫。明年春進資德大夫尚書右丞。並兼太史院事。冬拜榮祿大夫平章政事兼集賢大學士太史院使。廿八年乞解機務。以為集賢大學士。三十年加領太史院事。自初授官。至是凡八遷並兼左侍儀奉御。明年○世祖登遐○裕聖皇后命公。帥翰林集賢太常禮官。備禮冊立○成宗即皇帝位。明年春以翌戴功加守司徒。大德三年復拜平章政事。十一年春○成宗宴駕。哀慟成疾。秋八月十有七日。薨于大都發祥里第。年六十三。以是月日葬城西南岡子原。
(十五) 勅賜佛國普安溫禪師塔銘。侍書奎章閣虞集撰。其略曰。師諱至溫。字其玉。一號全一。邢州郝氏子也。幼聰敏異常。兒年六歲。其母携之至龐馬村。見寂照和尚於淨土院。寂照曰。汝其為釋氏乎。師心許之。會寂照避亂去隱遼西。廼禮寂照弟子辨菴訥而祝髮焉。無還富公主淨土。涖眾甚嚴。師不以為忤。庚寅之歲無還開法萬壽。師與十僧同往佐之。萬松某公以青州辨公宗旨開示法要。門庭高廣。四方尊之。師見萬松始以才氣過人。稍不容於眾。然而博記多聞論辨無礙。百家諸子之言。多所涉獵又善草書。有顛素之遺法。年才十有五。為萬松侍者。凡萬松偈頌法語。一聞輒了之。遂得法焉。常以侍者代應對。談鋒之利不可犯。時人已深期之。故太保劉文貞公。長師一歲。少時相好也。劉公厭世。故思學道。師勸之為僧。同參西京寶勝明公。既而為○世祖知。遇侍幃幄。為謀臣。薦師可大用。得召見。與語大悅。將授以官。弗受曰。天下佛法流通。臣僧之願。富貴非所望也。留王庭多有贊益。居三歲遣還。出賜金資。日用不計其費。時○憲宗命海雲主釋教○詔天下作資戎會。師持○旨宣布中外。而輔成之○世祖征雲南還。劉公請承制。錫師號曰佛國普安大禪師。總攝關西五路河南南京等路太原府路邢洛磁懷孟等州僧尼之事。刻印以賜師。銳意衛教。凡僧之田廬見侵於豪富及他教者。皆力歸之。馳馹四出周於所履。必獲其志乃已。自其門人或勸之少憩弗懈也○憲宗末年。僧道士有諍。各為違言以相危○上命聚訟於和林剖決真偽。師從少林諸師辨之。道士義墮剃鬚髮者十七人。道宮之復為者以千百計。中統建元釋教大盛。僧眾賴之甚思師之功焉。而師遂納印辭職。每歲官賜金修寺之外。世味泊如也。至元丁卯五月二十二日。以疾終於桓州之天宮寺西向右脇而化。當暑儀形如生。更有異香三日。火浴之心舌牙不壞。眾庶掊其地深數尺。猶得舍利云。世壽五十一。僧臘四十。臣聞 世祖皇帝聖度如天。善馭豪傑自在 潛邸。至於混一海內。天下之人材大小畢至。以足其任使。故其功業之盛。巍巍然赫赫然。三代而下帝王未有或之及也。浮圖氏以寂滅為宗。而材器文辨如溫公。亦豈常人之流哉。敢敘而表之。以見夫興王之運其人如此。銘曰。維昔世皇。始理開平。作其潛藩。有宮有城顧瞻東隅。泉甘土厚。蜿蜒來止。屬垣負阜。命建仁祠。龍光是名。權輿來尸。僧有豪英。氣如虹霓。辨若風雨。縱橫凌厲。莫敢余侮 世皇有為。群策是稽。名見從容。出其端倪。善則利器。俾反初服。報德不回。屹若孤鵠。林林釋徒。稟教以居。孰為紛更。入主出孥。天子有命。存完去駁。我馳我驅。立折其角。燕趙之間。至於陝關。我田我廬匪歸匪艱。
世皇御一。民用寧一。而釋之門。既振既息。時龍光師。燕居弗馳。散其緒餘。為書為詩。詩揚宗風。書縱逸趣。沛將有述。棄而遽去。維時名僧。至於公卿。有誄有辭。失之若驚。垂八十年。英標如在。誰知表之。嗣者七代。義舉有聞。天子喜之。史臣屬辭。以係遐思。
(庚戌) 正月行使歷代舊錢○十月十八日大赦。
大師魯國忠武王木華黎。身長七尺。虎首虬鬚黑面多謀略。雄勇冠一時。與博爾朮博爾忽赤老溫。俱以忠勇佐 太祖。時號掇里班曲律。猶漢言四傑也 太祖行次東印度 鐵門關侍衛者。見一獸鹿形馬尾綠色而獨角。能為人言。曰汝軍宜早迴 上怪問耶律晉卿楚才。奏曰。此獸名角?日行一萬八千里。解四夷語。是惡殺之象。蓋上天遣之。以告陛下。願承天心宥此數國人命。寔陛下無疆之福。即日下詔班師(右出本朝功臣事略)。◎
◎(辛亥) 正月五日。以上年十一月廿三日。郊祀大赦。
三月十八日。登極大赦。賜高年帛○四月禁使新舊銅錢及至大銀鈔。
(十六) 革罷僧道衙門。
論曰。望五位以升階。轉二依而就果者。上乘菩薩也。以四向一坐而證成三生百劫而彰號者。緣覺聲聞也。聖賢品級教有明文。唯妙悟自心入佛知見者。千聖尚不為。何階級之有。大教東被三百五十餘年。後魏以趙郡沙門法果。為沙門統。供施之不足。又官品之。遂授輔國宜城子忠信侯。尋進公爵曰安城。封官自果始也。梁以惠超為壽光殿學士。後周選僧道中學問優贍者。充通道觀學士。仍改服色。隨以彥琮為翻經舘學士。唐中宗神龍二年。造聖善寺成。惠範惠珍法藏大行會寂元壁仁方崇先進國。九人加五品並朝散大夫。蓋以營像修造之功也。尋加惠範正議大夫上庸郡公。寺主至銀青光祿大夫。俸料房閣已上同職官給。玄宗卜平內難。僧清潤封官三品。醫寧王疾愈。僧賜緋袍。代宗加不空三藏。至開府儀同三司肅國公食邑三千戶。辭讓數四不允。空曰。吾以法濟世。不意垂死濫污封爵故秩。唯空為極矣。宋金兩朝南北殊風而封釋官秩頗存典故。然猶遵律印信未聞。迨我皇元世祖皇帝混一海宇。條綱制度一出睿思。謂以俗制於僧殊失崇敬。諭天下設立宣政院僧錄僧正都綱司。錫以印信。行移各路。主掌教門護持教法。賴聖天子不負佛囑也。然而稗販之流。好爵縻賢恃其所貴而貴之。奔走伺候處污不羞。以敲朴喧囂牒訴倥[傯-囪+(句-口+夕)]為得志。不奪不厭。致有囊加巴僧錄往取栲栳山僧錢罔咈律行。可謂師子身蟲也。仁宗皇帝居儲宮日。目擊其弊。降旨。除宣政院外。一例革之。是亦不負靈山付囑也。於戲朝廷尚行於爵秩。釋子乃競於官階。官階無盡期。貪愛無滿分。胡不養其妻子跪拜君親。何異織女七襄牽牛負軛者耶。識達於此無取焉。盛矣乎不空。粉澤。
(十七) 大教有功。猶媿濫污。今何人而欲假名器哉。
(壬子) 仁宗文英武章皇帝○十月廿九日。以諸王入覲大赦。改皇慶。
(癸丑) 十月十八日。詔科場。以經義取士。
(十八 甲寅) 正月廿二日。改延祐。大赦○(十一月遣使經理江西江浙湖廣田糧)弘教佛智三藏法師入寂。公積寧氏。諱沙囉巴觀照。事上師著栗灻學佛氏法。善吐番文字。頗得祕密之要。世祖皇帝嘗受教於帝師發思巴。詔師譯語。辭致明辨允愜聖衷。詔賜大辯廣智法師。河西之人。尊其道而不敢名。止稱其氏。至呼其子弟皆曰此積寧法師家。其為見重如此。公昆弟四人。公其季也。總丱之歲。依帝師發思巴薙染為僧。學諸部灌頂之法。時有上士名刺溫卜。以焰曼德迦密乘之要。見稱於世。帝師命公往學此法。溫卜以公器偉識高非流輩比。悉以祕要授之。於是王公大人凡有志茲道者皆於公師而受焉。帝師迦囉思巴幹即哩。以公之能薦之世祖。詔譯諸祕要。俾傳於世。時僧司雖盛風紀寖蔽。所在官吏既不能干城遺法抗禦外侮。返為諸僧之害。桂蠹乘癰雖欲去之。莫能盡也。頹波所激江南尤甚朝廷久選能者欲使正之。以白帝師。僉謂諸色之人豈無能者。必以為識時務孰與公賢。以詔授江浙等處釋教總統。既至削去煩苛務從寬大。其人安之。既而改授福建等處釋教總統。以其氣之正。數與同列乖迕而不合。公謂天下何事。況教門乎。蓋吾人之庸自擾之耳。夫設官愈多則事愈煩。今諸僧之苦。蓋事煩而官多也。十羊九牧。其為苛擾可勝言哉。建言罷之。以聞。詔罷諸路總所。議者稱其高。公既得請廼遁迹壟坻。築室種樹蓋將終焉。至大中以皇太子令召至京師。詔授光祿大夫司徒。仁宗皇帝龍德淵潛之日。嘗問法於公。知公之賢。既踐天位眷遇益隆詔給廩既舘於慶壽寺。詔公所譯皆板行之。公幼而頴悟。諸國語言皆不學而能。自為兒人皆以為必成大器。既長果能樹立。致位三公。雖以德藝。抑亦遭遇於時也。其始為佛誦其言觀其義。既涉其涯遂厲於深。為人好賢愛能。尤能取諸人。以為善。談論之際發其端已。得過半之思。故其所有皆以好問而致。是以名勝之流皆從之。游以師友相處。延祐元年十月五日歿。年五十有六。其始疾也。詔賜中統鈔萬緡俾求醫藥。太尉瀋王往眎疾焉。既歿。又賜幣萬緡以給葬事。遣使驛送其喪歸葬故里。門弟子相與建塔以表其藏。壽安山雲麓洪公。作銘有謂。佛法之傳必資翻譯。故譯梵為華。或敵對名物。或唯以義。必博通經論。善兩方之言。始能為之。是以道安嘗謂。翻譯微言有五失本三不易。故非能者不足以有為也。所以傳列十科。翻譯居首者。豈非以其為之難功之大乎。予嘗以詔與京邑諸公校讐藏典。歷觀自古翻譯之家。以義譯經如秦之羅什。譯論唐之奘公。十數人之作。所謂禹吾無間然矣。其餘或指義曖昧。或文辭疎拙。夫義之曖昧。蓋譯者之未盡文。或疎拙潤色之失也。因思安公之言。以謂以彌天之高。尚稱不易。今之譯者何其易哉。自季葉以來。譯場久廢。能者蓋寡。豈意人物凋殘之際乃見公乎。觀其所譯可謂能者哉。
(十九) 秦州普覺法師卒。教自隋唐之後。傳者各宗其說。遂派而為三。由止觀之門。觀假而悟空。觀空而趣中。以入於實相者。為天台宗。會緣入實。即俗而明真者。為賢首宗。窮萬有之數。昭一性之玄。有空殊致而同歸乎中道者。為慈恩宗。師為慈恩宗者也。姓趙氏。諱英辯。垂髫為驅烏。甫弱冠資二百五十戒。二十有五得傳於柏林潭公為座主。凡為僧六十有一年。年六十有八。延祐元年六月庚戌終於景福寺。煥異景於易簀之夕。標奇迹於火葬之餘。以其年月日塔於普覺寺之後。師為性真純。如美玉含璞。雖不加雕繪。而人自愛重之。至於悍卒武夫。亦能敬其人。謂無佛之世足為佛也。每得錢蔽悉以剏佛祠。食守道之侶。故君子高其風。
(乙卯) 三月遣使宣撫問民疾苦○(平寧都寇○十一月廿七日以星芒大赦天下)。
(丙辰) 禮公哥羅古羅思監藏班藏卜。為帝師。
(二十) 勅建旃檀瑞像殿記。翰林承旨程鉅夫撰。文曰。蓋聞道非有象。作易者必擬諸形容。法本皆空。度世者暫資於色相。謂如指空為鏡。不若以鏡而喻空。即樹占風。將使識風而忘樹。是以雙林付囑舍利。以凡聖而偏分。千輻經行足跡。亘古今而常在。非炫神通於幻境。實開方便於迷津。所謂由自以會心。即心而即佛者也。旃檀瑞像者佛之真像也。其猶萬影沈江如如不異。孤光透隙一一皆圓。夫豈擇地而容。蓋以隨緣而應。望梅林而止渴。靡不同沾。泛竹葉以言歸。誰堪共載。惟我聖天子道躋先聖慈等覺皇。祝長樂之春秋。恒依佛地。企如來之歲月。坐閱人天。爰命集賢犬學士李術及教禪耆德。敘具本末。乃云釋迦如來淨飰王太子。生於甲寅四月八日。是為成周昭王二十四年。既生七日。佛母摩耶夫人往生忉利。至四十二年。太子棄位出家修道。穆王三年癸未道成。八年辛卯思報母恩遂升忉利天為母說法。優闐王自以久失瞻仰欲見無從。乃刻旃檀為像。目犍連慮有缺陋謬。躬以神力攝三十二匠升忉利天。諦觀相好三返。乃得其真。既成。國王臣民奉之猶真佛焉。及佛自忉利天復至人間。王率臣庶同往迎佛。此像騰步空中向佛稽首。佛為摩頂授記曰。我滅度千年之後。汝從震旦廣利人天。由是西土一千二百八十五年。龜茲六十八年。涼州十四年。長安一十七年。江南一百七十三年。淮南三百六十七年。復至江南。二十一年。汴梁一百七十七年。北至燕京。居今聖安寺十二年。北至上京大儲慶寺二十年。南還燕宮內殿居五十四年。大元丁丑歲三月。燕宮火。尚書石抹公迎還聖安寺居。今五十九年而當世祖皇帝至元十二年乙亥。遣大臣孛羅等。四眾備法駕仗衛音伎奉迎萬壽山仁智殿。丁丑建大聖萬安寺二十六年己丑。自仁智殿奉迎於寺之後殿。世祖躬臨大作佛事。計自優闐王造像之歲至今詔述延祐三年丙辰。凡二千三百有七年。噫四大海中。頓覺業風之息。一彈指頃。不知賢劫之過。嘉與含靈從茲安隱。於是集賢大學士。臣顥以所述上聞。有旨授臣鉅天為之記。夫謹奉詔言曰。古之聖人教民報本。追遠之道。而於祭祀之禮。廟則木為之主。祭則孫為之尸。後也乃有像設焉。而不知其所由始。由斯觀之。其原於西域之俗也。與夫佛為世出世間之尊。又何竢於贊述。然欲知佛之為佛。固不在於色相。而況於其似色相者乎。然苟不自其似而求之。又將無所措其歸向之心。是故法身無相。必假相以表真。至道絕言。亦因言階妙。若於粗者猶拳拳而怠焉。則其進也殆庶幾乎。陛下考百王之度。酌群言之蘊。上以惇孝。下以施仁。蘄於厚天下者。無所不用其極。至於軌仁於善以輔政教之所不逮。亦因天下之心而為之。而非若彼內祠祕祝者之為也。夫以金石之桿堅。猶未能必可久。今以一木之為而綿歷若此。然而佛之自衛固甚周。而人之保之也。抑豈一手足之功哉。嗟夫遡延二千有奇至於陛下。然後發德音經紀鴻烈非緩也。熙明之治至是而始隆。雖典祀之外。猶必以斯文文之也。
(二十一) 然則化之漸被者廣矣。不其盛與。記洛陽之伽藍。筆多慚於董史。頌西方之無量壽。共祝於堯年。莫測真如徒欣聖際。謹記。是年封普庵禪師加號。其詔曰。上天眷命皇帝聖旨。朕聞。佛氏以空寂為宗。則凡學所遵者。寧欲建名號殊稱謂以示天下後世哉。而國家非此無以昭尊德樂道之意也。朕自即位以來。聞袁州路南泉山慈化禪寺普菴寂感妙濟真覺昭貺大德惠慶禪師。紹臨濟之緒。超華嚴之境。德映當代澤被方來。其道甚尊。顯心切慕之。既累錫大諡。唯塔號未稱。可加定光之塔。曰定光靈瑞之塔者。主者施行。
(丁巳) 正月十日大赦○(勅加東林遠法師號妙覺寂光宏辨大師都省咨文)。
(二十二) 京都崇恩福元謙講主卒。公諱德謙。姓楊氏。寧州定平人。幼為勤策。從僧讀佛氏書。長時周游秦洛汴汝。諮訪先德。學苾芻之道。又逾河而北。觀風齊魏燕趙之郊。初受般若於邠州寧公。瑞應於原州忠公。又受幽贊於好畤仙公。圓覺於乾陵一公。後受唯識俱舍等論於陝州頙。首楞嚴四分律疏於陽夏聞公。凡六經四論一律。皆辭宏旨奧。窮三藏之蘊。而數公並以識法解義。馳聲四遠。公皆親熏而炙之。躋其堂而噬其胾。故年未逾立。已有盛名於時。後至京師。受華嚴圓頓之宗於故大司徒萬安壇主揀公之門。揀以公博學多能。甚器重之。初以詔居萬寧寺後。又以詔居崇恩寺。萬寧成宗所剏。崇恩武宗所剏也。兩居大寺前後一紀。道德簡於宸衷。流聲洋於海隅。本嘗以寵遇顯榮為之志而改其素。甞語人曰。畦衣之士抗塵世表。苟不媿於朝聞夕死可矣。尚何慕於外哉。自以重居官寺久佩恩榮。而浮圖之道。恬退為高。乃以讓其弟子。退居幽僻謝絕人事。括囊一室以樂其道。延祐四年。正月廿八日終於隱所。世壽五十有一。為僧四十三夏。宰臣以聞。皇太后錫鏹五千緡賻葬。勅有司備儀衛。集京畿諸寺幡蓋鼓樂以送之。火後獲舍利數十顆。其徒建塔於南城之南。
京城大普慶寺實相圓明光教律師入寂。師諱法聞。嚴氏。陝西人。按姓氏略。嚴與莊皆羊姓。楚莊王之裔。以諡為氏。避漢明諱改氏為嚴。公年七歲從禪德輝公學。十有五薙染為僧。年二十受具戒。於是游汴汝河洛。歷諸講肆研究教乘。從大德溫公學法華般若唯識因明及四分律。溫以公任重道遠克振吾宗。託以弘傳之寄。嘗對佛像灼肌然指。庸表克誠。刺血書經。以彰重法。遂隱於臺山不踰閫者六載。讀藏教五千卷者三番。是以業進行修。身藏名著。帝師亦憐。命公講說般若。指授因明之要。因顧謂其徒曰。孰謂漢地乃有此僧耶。三輔之人勸輝致書。勗以兼善毋忘鄉梓。請歸長安。公以弟子於師義猶君父。父師之命敢不敬承。況父母之邦。鄉里之義。可遂忘乎。迺抗策而西。既至耆老皆驩呼而言曰。吾鄉之人。得所師而承教矣。尋以安西王命。居城南之義善寺。唐初神僧杜順示迹之地也。邠岐涇渭四序講筵不絕。從而學者蓋千數焉。天子聞之。徵至闕庭。詔居大原教寺。授榮祿大夫大司徒。未幾詔居大普慶寺。加開府儀同三司大司徒銀章一品。賜遼世金書戒本。求戒者皆從公而師受焉。王公大臣皆仰止高風。猶景星鳳凰之瑞於明時也。延祐四年三月廿四日跏趺而逝。以聞。上惻然久之。賜幣數萬緡以葬。詔大臣護喪有司備儀衛旌蓋送之。世壽五十八。戒臘四十三。弟子奉遺骨舍利建塔焉。
(二十四 戊午) 特賜三藏佑聖國師達益巴入寂。佛法流於中國久矣。三乘之教風靡九州。其道至焉。唐宋間始聞有祕密之法。典籍雖存猶未顯行於世。國初其道始盛西鄙。統元中天子以大薩思迦法師有聖人之道。尊為帝師。於是祕密之法日麗乎中天。波漸於四海。精其法者皆致重於天朝。敬慕於殊俗。故佛氏之舊一變於齊魯。國師名達益巴。少為苾芻。凡事帝師十有三年。出而從入而侍。聽言論於左右。觀道德於前後。陶熏滋久欝成美器。凡大小乘律論及祕密經籍。部以十數。皆耳於口授。目於手示。得乎理之所歸行之所趣。帝師西還。送至臨洮。以久勞侍從弗堪跋涉之勤。見留於洮。師留是十有九年。依大士綽思吉翫卜。覆所既聞。受所未傳。切磋琢磨。於是義逾精道益明矣。是以譽延兩京道重三朝。事二聖於潛。竭勤逾紀。從屬車往返二都。雖雨夕風朝。恒在宮壺。逮武宗踐祚。上處春闈。眷藩邸之舊。錫賚以千萬計。初師在臨洮。秦人請居古佛寺。至是乞歸以所賜大厥宇。謀老汐上。未幾以太后詔徵還兩宮之賜。視前有加。錫金印駝紐。封號弘法普濟三藏大師。延祐五年八月十六日。化于京師。年七十有三。以聞。上惻焉興歎久之。兩宮賜幣以葬。皇太子遣使至奠。勅有司備儀衛送之都門之外。諡佑聖國師。給乘騎歸葬成紀焉。
是年六月再立行宣政院。參用常選職官。
(己未) 勅建大永福寺(即青塔寺)○一月朔日食。
(二十五) 京師大寶集寺妙文講主卒。姓孫氏。蔚州人。妙文諱也。九歲為浮圖。年十有八畦服游學。跋涉雲朔之墟。觀風燕趙之邦。二十一預苾芻戒。抵京師依大德明公。學圓頓之道。陸沈于眾者積年。三十有二以眾勸請之殷。乃始赤服陞猊。就傳明之列。其涵養冲挹無欲速成名。不躁進求達類如此。四十有八居薊之雲泉。勤節儉用。老者懷其德。少者嚴其教。故眾睦而寺治。比再稔廩有餘粟。歲荒以賑飢民。薊人稱焉。世祖聞其道。召見之。顧謂侍臣曰。福德僧也。詔居寶集。時禪學浸微。教乘益盛。性相二宗。皆以大乘並驅海內。相學之流囿於名數滯於殊途。蔽情執之見。惑圓頓之旨。師獨大弘方等。振以圓宗。使守株於文字者。有以盪滌情塵融通寂照。是以龍象蹴踏。競附一乘之駕焉。年逾八十。益倦于勤。以寺任諸弟子。退居逸老專念佛三昧。延祐六年 月 日卒。年八十有三。告終之日。誡弟子高聲唱佛名。遽起跏趺結三昧印。泊然長逝。塔于平則門外。
(庚申) 正月朔。日有食之。
(二十六) 三月十一日。登極大赦。
(辛酉) 英宗格堅皇帝 改年至治。
詔各路立帝師殿。追諡曰。
皇天之下一人之上開教宣文輔治大聖至德普覺真智祐國如意大寶法王西天佛子大元帝師班彌怛拔思發。是年。
(二十七) 勅建帝師殿碑 光祿大夫大司徒大永福寺住持釋源宗主(法洪)奉 勅。撰翰林學士趙孟頫書。參議中書省事(臣)元明善篆額。
古之君天下者皆有師。惟其道之所存。不以類也。故趙以圖澄為師。秦以羅什為師。夫二君之師其人也。以其知足以圖國。言足以興邦。德足以範世。道足以參天地贊化育。故尊而事之。非以方伎而然也。皇元啟運北天奄荒區夏。世祖皇帝。舊神武之威。致混一之績。思所以去殺勝殘躋生民於仁壽者。莫大釋氏。故崇其教以敦其化本。以帝師拔思發有聖人之道。屈萬乘之尊。盡師敬之節。諮諏至道之要。以施於仁政。是以德加於四海。澤洽於無外。窮島絕嶼之國。卉服魋結之氓。莫不草靡於化風。駿奔而効命。白雉來遠夷之貢。火浣獻殊域之琛。豈若前代直覊縻之而已焉。其政治之隆而仁覆之遠。固元首之明股肱之良。有以致之。然而啟沃天衷克弘王度。寔賴帝師之助焉。皇上重離繼明應乾承統。以為法位久曠道統將微。以師猶子之子公哥祿魯斯監贊。嗣帝師位俾修其法。斂時五福祐我家邦。有河西僧高沙刺巴。建言於朝。以為孔子以修述文教之功。世享廟祀。而光帝師德俟將聖師表一人。製字書以資文治之用。迪聖慮以致於變之化。其功大且遠矣。而封號未追廟享不及。豈國家崇德報功之道哉。大臣以聞。詔郡國建祠宇。歲時致享。師薩思迦人。族欵氏。祖朵栗赤。當吐蕃之盛。相其君伯西海。後十餘世。皆以學德為國宗範。師生八歲。誦經數十萬言。又能約通大義。國人以為聖。故稱拔思癹。長而學富五明。故又稱班彌怛。其所師而學焉。友而問焉者。數十人。皆有盛名於時。故其所有汪不可涯矣。其所撰述皆辭嚴義偉制如佛經。國人家傳口誦。寶而畜之。夫敏者怠於博學。貴者恥於下問。才高而位重。則矜己而驕物。此人之恒也。師以生知之明。為天子師。可謂敏且貴矣。而乃博學無厭下詢遺老。人有一法不遠千里而求之。雖硜硜之諒。佼佼之庸。苟有可取無遺焉。負絕世之材。材莫大焉。處帝師之位。位莫重焉。而乃孜孜於道。循循誘物。惟恐德之不修。道之不弘。未嘗以多能自聖而有滿盈之色。曠若空谷靜若深淵。遠若雲霞。重若丘山。豈非至德。其孰能與於此哉。其道之所被。德之所及。猶杲日麗乎天。明無不照。陽和煦於物。氣無不浹。其高如天。不可階而升也。其大如海。不可航而涉也。以不言而民信。不勸而物從。所過者化。所存者神。匪天縱之將聖。孰能與於此哉。故天子法天地尚德右功之道。著皇王之盛典。崇廟享之報宜乎。龜趺螭首刻頌遺烈昭示無極(洪)以狂斐猥承明詔。序而銘之。其銘曰。佛道弘大。洋海無際。滔天沃日。並育萬類。於彼將聖。象罔得一。推厥緒餘。以匡王國。烈烈皇祖。草昧天造。奠是南紀。功格蒼昊。天錫睿哲。俾翊我后。敦彼薄俗。化于仁厚。汪濊漏泉。波及無外。航濬梯阻。萬邦咸會。郡邪鴟揚。維鳩之競。式遏詭類。率俾吾正。赳赳武夫。蚩蚩嚚鄙。德訓所及。風振草靡。惟月之恒。惟日之升。惟師之道。罔或不承。欒欒清廉。惟時享之。有偉其貌。惟時仰之。莫高匪山。莫深匪淵。刻銘頌烈。永世無遷。
(廿八) 五臺山大普寧寺弘教大師性講主卒。公諱了性。號大林。武氏。惟古因生賜姓。胙土命氏。公之先莫詳世系。然考之命氏之原。武子姓。其後邑于宋。宋武公之後。以諡為氏。公少好學。聰叡之性。殆天啟之。依耆德安公為浮圖。既登具。歷諸講庠。探頤經論研精祕奧。始遇真覺國師。啟悟初心。既而周游關陝河洛。歷汴汝唐鄧。放予襄漢。尋幽覽勝以博其趣。所至必訪其人。詢至道之要。其所師而學者。如柏林潭公。關輔懷公。南陽茲公。皆以義學著稱。及歸復見真覺於壟坻。逾見墻仞之高。堂室之奧。乃曰。佛法司南其在茲乎。後從真覺至臺山。真覺歿北游燕薊。晦迹魏闕之下。悠悠如處江海之上。與世若相忘焉。然以懷壁之美被褐而莫掩。名既喧於眾口。聲遂聞於九重。會萬寧既建。詔公居之。至大中太后剏寺臺山。寺曰普寧。以茲擅天下之勝。住持之寄。非海內之望。莫能勝之。故以命公。公居此山十有餘年而歿。公為人剛毅。頗負氣節。不能俛仰隨世嬪悅於人。雖居官寺。未嘗至城府造權貴之門。或謂公少和氣。公曰。予以一芥苾芻。天子不以人之微處之大寺。惟竭誠夙來匪懈。圖以報國而已。夫何求哉。必有臧倉毀鬲之言。蓋亦營營青蠅止于棘樊耳。顧予命之不遭。道之不行。納履而去之。何往而不得於道乎。時國家尊寵西僧其徒甚盛。出入騎從擬迹王公。其人赤毳峨冠岸然自居。諸名德輩莫不為之致禮。或磬折而前。摳衣接足匃其按頂。謂之攝受。公獨長揖而已。或謂公傲。公曰。吾敢慢於人耶。吾聞君子愛人以禮。何可苟屈其節而巽于床自取卑辱乎。且吾於道。於彼何求哉。彼以其勢自大而倨。吾苟為之屈焉。非諂則佞也。焉有君子而為佞諂之行哉。識者壯其氣。以謂如佛印元公之遇高麗王子。可謂識大體而得乎禮矣。至治元年九月三日。歿於普寧寺。既火化以舍利。塔于竹林之墟。
(廿九 壬戌) 故榮祿大夫司徒大玉山普安寺住持。幻堂嚴講主卒。公康氏成紀人。諱寶嚴。字士威。號幻堂。父某以罹喪亂棄俗為僧。昆弟六人。公其季也。少以邁往之氣不樂處俗。與其弟金薙染。從佛求出世之道。每逢名德啟講。必往聽而問焉。嘗謂學而不思。思面不學。君子所憂。雖通其說而不通其宗是學而不思也。豈稱達者哉。況文字之學。守株象迹惑於多岐。焉能涉同歸之海。造圓頓之奧乎。聽其說固辯矣。觀其所得則未也。於是既問而學之。以博其趣而益致其思焉。是其所以造詣。蓋得之繫表。故其講說深有宗通理味。後嗣真覺國師。傳賢首宗教。以師承既高見解益明。其方寸之地。湛如止水。瑩若明鏡。物我相形。輒影見於中。雖以天資之高而德器之美。抑亦師友玉琢蘭薰而致及真覺以詔居大白馬寺。公與金從至洛汭。及居大萬聖佑國寺。又從至臺山。真覺歿。詔以公繼其位。後公以太后詔居大普安寺。詔以金繼公居佑國寺。公於至治二年七月某日歿。年五十有一。詔復以金居普安寺。金以公之喪葬東封谷之口。建塔以修祀事焉。
(三十 癸亥) 至治三年八月十四日。天目山中峯卒。勅諡普應國師法雲之塔。奎章學士虞集奉勅撰銘。其略云。天目之山有師子岩。高峯妙禪師居之。設死關以辨決。參學之士望崖而退者眾矣。得一人曰本公是為中峯和上。師生有異徵。為童兒嬉戲必為佛事。稍長閱經教然指臂。求佛甚切。晝夜彌勵。困則首觸柱以自儆。期必得乃已。及入死關密叩心要。誦金剛經。至荷擔如來阿耨多羅三藐三菩提處。恍然開悟。自謂所證未極。勵精勤苦咨訣無怠。及觀流泉乃大發明。師亦閟而不聞。自是說法無礙。高峯將戢化權。遂書真贊屬諸師云我相不思議。佛祖莫能視。獨許不肖兒。見得半邊鼻。其授受不虛若此。著書若干卷。行于世。仁宗皇帝聞而聘之。不至。製金紋伽黎衣賜之。號之佛慈圓照廣惠禪師。賜師子院。名曰正宗禪寺云云。師諱明本。宋景定癸亥歲生錢塘孫氏。年六十一。僧臘三十五。化於其山之東岡。
是年四月賜瀛國公合尊死于河西○詔僧儒金書藏經○八月四日上崩。
(甲子) 改泰定。
(丁卯) 帝師公哥羅於十月某日涅槃。
(戊辰) 九月十四日即位。年改致和為天曆元年○(禮公哥羅亦中納思監臧班臧卜文國公為師。是年革行宣政院設立十六處廣教總管府以攝僧)。
(己巳) 勅建崇禧萬壽寺於蔣山。
(庚午) 改至順元年○詔改建康為集慶路○勅建大龍翔集慶寺。
(壬申) 亦輦真班皇帝九月即位。
(三十一) 大都妙善寺比丘尼舍藍藍八哈石卒。師諱舍藍藍。高昌人。其地隷北庭。其地好佛。故為苾芻者多。太祖皇帝龍飛漠北。其王率所部以從。帝嘉其義。處之諸國君長之上。待以子壻之禮。海都之叛國人南徙。師始八歲。從其親至京師。入侍中宮真懿順聖皇后。愛其明敏恩顧尤厚。成宗之世。事皇太后於西宮。以侍從既久勤勞之多。詔禮帝師迦羅斯巴斡即兒為師。薙染為尼。服用之物皆取給於官。又胝宮官例繼以既廩。武宗繼統。仁宗以太弟監國。師朝夕於太后之側入而侍出而從。所言必聽。所諫必從。睠寵之隆。猶子姪焉。內而妃主外而王公。皆敬以師禮。稱曰八哈石。北人之稱八哈石。猶漢人之稱師也。仁宗之世。師以桑榆晚景。自謂出入宮掖數十餘年。凡歷四朝事三后。寵榮兼至。志願足矣。數請靜退居於宮外。求至道以酬罔極。太后弗聽。力辭弗已。詔居。妙善寺。以時入見。賜予之物不可勝紀。師以其物。剏寺於京師。曰妙善。又建寺於臺山。曰普明。各置佛經一藏。恒業有差。又以黃金繕寫番字藏經般若八千頌五護陀羅尼十餘部及漢字華嚴楞嚴畏元字法華金光明等經二部。又於西山重修龍泉寺。建層閣於蓮池。於吐蕃五大寺高昌國旃檀佛寺京師萬安等。皆貯鈔幣。以給然燈續明之費。又製僧伽黎文數百。施番漢諸國之僧。其書寫佛經。凡用金數萬兩。剏寺施捨所用幣數以萬計。其積而能散。施予不吝。期積福於來生。必至於佛地者。皆人所不能也。英宗之明。以其有靜退之高眷遇尤至。每稱之賢以為知幾。文宗即位今皇太后居中宮以皇妣魯國太長公主。愛重於師有兄弟之。義尤加敬焉。至順三年二月廿一日歿。年六十四。葬南城之陽。賜號真淨妙惠大師。
(三十二) 臨壇大德律師汶公卒。姓張氏。諱惠汶。歸德之偃武人也。驅烏之歲。依耆宿釭公為浮圖。二十而進具。從大德溫公受菩薩戒。嗣法壇主恩公。既而行業日隆道益著。從學者益眾。佛制凡為苾芻。雖大節不虧而細行必謹。非法不服非時不食。居處動作皆有軌則。所以戒昏墮而防逸德也。公齋戒既嚴。護衣惟謹。鷄鳴而興坐以待旦。乾乾終日惟佛是念。雖道行旅宿三衣一鉢必與身俱。制行雖高而無矯飾之節。操存雖固而無詭徼之迹。是以言而人莫不信。動而人莫不敬。兩河之間三監舊邑從化者。蓋以萬數。緇素相率而求戒法者。幢幢接跡於途。承一訓言莫不歡心。感戴說法數十餘年。升壇授戒四十餘會。大臣接以師敬之禮。至順三年十一月廿二日歿。年七十有三。
(癸酉) 今上皇帝萬萬歲 六月初八日登寶位。改元統元年。禮請公哥兒監臧班臧卜。為帝師。
旃檀瑞像自周穆王庚寅○───┐ ┌─○二千三百二十四年
世尊示滅自周穆王壬申○─○─┤止元統元年計○─┼─○二千二百八十二年
大教東被自東漢明帝戊辰○──┘ └─○一千二百六十六年
佛祖歷代通載卷第二十二